夢枕獏『エヴェレスト 神々の山嶺』(角川文庫)
1924年、世界初のエヴェレスト登頂を目指し、頂上付近で姿を消した登山家のジョージ・マロリー。登攀史上最大の謎の鍵を握るマロリーのものと思しき古いコダックを、カトマンドゥで手に入れた写真家の深町誠だが、何者かにカメラを盗まれる。行方を追ううち、深町は孤高の登山家・羽生丈二に出会う。羽生が狙うのは、エヴェレスト南西壁、前人未到の冬期無酸素単独登攀だった。山に賭ける男たちを描いた、山岳小説の金字塔。待望の合本版!(粗筋紹介より引用)
『小説すばる』1994年7月号~1997年6月号連載。1997年8月、集英社より単行本刊行。2000年8月、一部改稿の上、集英社文庫化。2014年6月、角川文庫より上下本で刊行。2015年10月、映画化に合わせて改題の上、合本版刊行。
エベレスト登山史上最大の謎とされているジョージ・マロリーの謎を追うカメラマンの深町誠が、孤高の登山家・羽生丈二と出会い、前人未到の南西壁・冬季無酸素単独登攀を目指す羽生を追いかける山岳小説。連載三年、1700枚という超大作。存在は知っていたのだが、あまりもの熱量に手を出すことができず、合本版が出たのを見て購入し、結局そのままになっていた一冊。たまたま読む時間が取れたので一気読み。やっぱりすごい作品だった。
登山そのものをしたことがないので、彼らが目指していることがどれだけの偉業なのかを肌に感じることはできないし、おそらく理解すらできないのだろう。それでも山に登る男たちの情熱、執念、そして山に捉われた怨念すら漂わせる物凄さが浮かび上がってくる。
というか、圧倒されて言葉すら出ない、というのが本当のところかな。とにかくすごい、ため息をつくしかない、そんな傑作だった。大満足。
あとがきに書かれているが、50歳でエヴェレストを目指す羽生丈二のモデルは登山家の森田勝。名前は将棋の羽生善治より取っている。羽生の3歳下のライバルであり、K2無酸素単独登山で雪崩に巻き込まれて30歳で死亡した長谷常雄のモデルは、登山家の長谷川恒夫である。深町にモデルはいない。
コロナ・ブックス編集部編『トキワ荘マンガミュージアム』(平凡社 コロナ・ブックス)
手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、鈴木伸一、森安なおや、石森章太郎、赤塚不二夫、よこたとくお、水野英子、山内ジョージ……昭和を代表する漫画たちが若い日に暮らし、切磋琢磨した漫画界の梁山泊こと「トキワ荘」。2020年3月に開館した「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」を紹介するとともに、当時居住していた漫画家たちの新規インタビュー、さらに過去に書かれたトキワ荘関連のエッセイや漫画等を一部再録。当時の近所の人たちにおる漫画家たちのエピソードなども収録した一冊。
2021年4月、刊行。
当時を再現したトキワ荘内部の紹介や、当時を再現したジオラマ、さらに当時のトキワ荘周辺にありエッセイにも出てくる店等の当時写真などを収録。色々なものをあれもこれもと集めてしまった分、どれも紹介程度の内容になっている点はちょっと残念だが、これ以上ディープなものにしてもよほどのファンしかついてこないだろうから仕方がないか。
最後の住人と呼ばれている山内ジョージのインタビューが含まれているのがうれしかった。またちばてつやのエッセイは有名なエピソード(編集者への電気アンマの反撃で窓ガラスを割って大けがをして掛けなくなり、石森たちが代筆した話)でだが、こうやってトキワ荘関連の本の中に本人自身の言葉でまとめられるのも珍しい気がする。
通い組のつのだじろうや永田竹丸の言葉がなかったのは残念だった。
トキワ荘当時の漫画家でご存命なのもわずかとなってきたが、まだまだこれからもいろいろと証言してほしいものだ。彼らのエピソードが、漫画史を紡いでいるのだから。
有栖川有栖『幽霊刑事』(講談社)
巴東署刑事課捜査一係の神崎達也は、殉職した父の後を追い、刑事となった。同じ刑事課の森須磨子とは恋人同士で、巡査部長への昇任試験に合格したら結婚する予定だった。しかし東署に転勤になって四か月の神崎は、上司である経堂課長に浜辺まで呼び出され、そして射殺された。同じ巴東署の生活安全課の巡査だった新田が五か月前に殺害されて、これで二件目である。死んだはずの神崎だったが、幽霊となってこの世に残っていた。誰にも見えず、物も触れずの状態の神崎だったが、偶然にも後輩の早川は祖母が青森のイタコだったせいか、神崎の姿を見て、話すことができた。当然犯人が経堂であると訴えるも、証拠や動機すらないので、捕まえるわけにはいかない。そのうちに、経堂も警察署の中で密室状態で殺害されてしまう。この連続殺人事件の真相は。
1998年9月20日、大阪万博記念ホール/万博記念公園内お祭り広場で行われた『熱血! 日立 若者の王様Part9 推理トライアスロン』(主催・日立製作所 後援・毎日放送)のために提供した推理劇『幽霊刑事』の原案を小説化。2000年5月、講談社より単行本刊行。
有栖川にしては珍しいノンシリーズもの。まあ経緯が経緯だから当然か。殺害された被害者が幽霊となって犯人を追いかける作品はオサリヴァン『憑かれた死』やカリンフォード『死後』などの作品があって、目新しいものではない。もちろん作者も知っているだろうし、あくまで題材として使っただけだろう。
神崎が殺害された状況を見ると、すぐにあのトリックが思い浮かぶのだが、作者は当然それも承知しており、意表をつく展開と意外な犯人、そして意外な殺人の動機が用意されている。神崎と早川のやり取りがどことなくユーモラスでありながら、幽霊であるが上の苦悩や、恋人の一つ一つの仕草や科白に対する嫉妬など、いかにもドラマ化に向いてそうな展開の書き方はうまい。ありがちな展開だとは思ったけれど。
本格ミステリの謎解きと、恋愛ドラマがうまくミックスされた佳作という印象。舞台のドラマ化といわれると納得する。あまりごちゃごちゃしない、シンプルな作りが面白かった。
若林正恭『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』(角川文庫)
若手芸人の下積み期間と呼ばれる長い長いモラトリアムを過ごしたぼくは、随分世間離れした人間になっていた――。スタバで「グランデ」と頼めない自意識、飲み屋で先輩に「さっきから手酌なんだけど!!」と怒られても納得できない社会との違和。遠回りをしながらも内面を見つめ変化に向き合い自分らしい道を模索する。芸人・オードリー若林の大人気エッセイ、単行本未収録100ページ以上を追加した完全版、ついに刊行!(粗筋紹介より引用)
『ダ・ヴィンチ』連載。2013年、単行本刊行。2015年12月、未収録エッセイを追加し、完全版として角川文庫より刊行。
エッセイにも定評のあるオードリー若林の初エッセイ集。初期のころは人見知り芸人として知られていたが、今ではすっかり小物MC……と口では言っているが次期大物MCになるだろう。そんな若林が世に出てからの世間や芸能界の“常識”と自分の“価値観”との違いにとまどったり、疑問を投げかけたり、新しい発見をしたりといった面白さがそこにある。あ、そうと簡単にスルーしそうなところに向ける視点がさすがというか、ナナメの目線というか。
今頃読むかといわれそうだが、読んでみて非常に楽しかった。次も読んでみようと思う。
奥田英朗『罪の轍』(新潮社)
昭和三十八年。北海道礼文島で暮らす漁師手伝いの青年、宇野寛治は、窃盗事件の捜査から逃れるために身ひとつで東京に向かう。東京に行きさえすれば、明るい未来が待っていると信じていたのだ。一方、警視庁捜査一課強行班係に所属する刑事・落合昌夫は、南千住で起きた強盗殺人事件の捜査中に、子供たちから「莫迦」と呼ばれていた北国訛りの青年の噂を聞きつける―。オリンピック開催に沸く世間に取り残された孤独な魂の彷徨を、緻密な心理描写と圧倒的なリアリティーで描く傑作ミステリ。(粗筋紹介より引用)
「霧の向こう」のタイトルで『小説新潮』2016年10月号~2019年3月号(2017年10月号除く)連載。改題の上、2019年8月、単行本刊行。
シリーズ化されているわけではないだろうが、『オリンピックの身代金』で事件解決に挑んだ落合昌夫をはじめとする警視庁刑事部捜査一課五係のメンバーが再登場する。もっとも事件は前作の一年前。ノンフィクションと断り書きはあるものの、有名な「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を元ネタにしている。とはいえ、犯人像も事件解決の経過も全然異なるのだが。
当時の社会情勢を描写しながら、落合たち刑事の必死の捜査と、犯人の孤独で不幸な過去を対比して書いた犯罪小説であり、リーダビリティは抜群だと思う。だけど読んでいる途中から違和感が出てきて、それが結末に向かうにつれてどんどん大きくなっていった。結局作者、何を書きたかったんだろう。
なぜ実在の事件をモチーフに使ったのか、それがわからない。この展開ならはっきり言って不要だったはず。わざわざリアリティを出すために、実在事件を使う必要はないだろう。正直言って読み終わった後は、不快感しかなかった。なぜ誰もが頭に思い浮かべるような事件を用い、中途半端に展開を捻じ曲げるのだろう。いくら考えてもわからない。実在事件をモチーフにしないと、当時の社会のリアリティを出すことができなくなるほど、作者の筆力が落ちたとも思えない。
登場人物も過去に出てきたメンバーを使う必要性がなかったと思う。手抜きのようにしか見えないが、何らかの意図があったのだろうか。所轄の刑事たちが失敗ばかりしているのも、あまりにもわざとらしい。
作者の意図や目的が全然わからない作品。単なる娯楽作品を書こうと思ったわけではないだろうに。
東川篤哉『新 謎解きはディナーのあとで』(小学館)
執事探偵×令嬢刑事ふたたび! 新キャラはド天然な新米刑事!?
警視庁に栄転した風祭警部は大きなミスを犯して国立署に舞い戻り、麗子の後輩に新人の若宮愛里が加わり、新たなメンバーで難事件に挑むが!? 毒舌執事・影山の推理が冴えわたる本格ミステリ全5編!!
富豪の家で“無人だった”はずの部屋から発見された長男の首吊り死体の謎。「風祭警部の帰還」。
土蔵で見つかった骨董好きの老人の遺体と血文字のダイイングメッセージの謎。「血文字は密室の中」。
雑居ビルの裏で発見された墜落死体とそのポケットに入っていた血の付いたナイフの謎。「墜落死体はどこから」。
シェアハウスで殺害された看護師と5つの目覚まし時計の謎。「五つの目覚まし時計」。
アパートで殺害された大学生と建設作業員が“煙草を吸っている間に”目撃したという怪しい男の謎。「煙草に二本分のアリバイ」。(帯より引用)
『きらら』2020年1月号~9月号連載に書下ろし1本を加え、2021年4月、単行本刊行。
大ヒットシリーズ『謎解きはディナーのあとで』が8年ぶりに新シリーズで登場。世界的な複合企業『宝生グループ』の総帥の一人娘・宝生麗子、中堅自動車メーカー『風祭モータース』の御曹司・風祭警部のコンビに加えて新たにド天然新米刑事・若宮愛里が加わる。例によって事件を解くのは、麗子の執事・影山。
前作と全然変わらない性格と人間関係は面白いのだが、麗子が年を重ねたからか(と書くと怒られそうだが)パワーという点ではだいぶ落ちた気がする。言っちゃえば、ワンパターン化は避けられないのかな、と。新キャラを入れてもメインの流れは変わらないから、結局いつか来た道、になってしまう。本格ミステリとしても、少し軽くなったかな。作者も忙しいだろうし、仕方がないのかも。
懐かしい、とは思ったけれど、それ以上のものはなかったな。
D・M・ディヴァイン『悪魔はすぐそこに』(創元推理文庫)
ハートゲート大学の講師ピーターは、チェスの最中に亡き父の友人ハクストンから助力を乞われた。横領の嫌疑をかけられて免職の危機にあるというのだ。しかし教授たちによる審問の場で、ハクストンは脅迫めいた言葉を口にしたのち、謎の死を遂げる。次いで図書館で殺人が起こり、名誉学長の暗殺を仄めかす脅迫状が大学宛に舞い込んだ。彼は式典のために近く大学を訪れる予定だが……。翻弄される人々を嘲笑うかのごとく相次ぐ事件は、関係者の過去を炙り出すように、八年前に起きたある女学生の死へと収斂してゆく。クリスティが絶賛した、英国探偵小説の実力派が贈る傑作、本邦初訳。(粗筋紹介より引用)
1966年、発表。2007年9月、邦訳刊行。
イギリスの二流大学における数学講師ピーターとその婚約者で経済学科講師のルシール・プロヴァン、ルシールの同居人である事務局員のカレン・ウエストールと法学部長ラウドンという二組の恋愛模様を軸に据え、三人称ではあるが彼らの視点が切り替わりながら、大学に次々と降りかかる事件が語られる。
なんともまあ地味な展開なんだけど、それでいて目が離せない仕上がりになっているのはさすが。先の展開が気になって、結局続きを読んでしまう。うまいんだよなあと思ってしまう。登場人物が結構多いし、人間関係もいろいろと複雑なんだが、頭にすんなり入ってくるのも、描写が優れているからなんだろう。それと、ピーターの軟弱さは読んでいてイライラしたよ、本当に。
事件そのものは割と単純なんだし予想できたんだけど、それでいて最後になると驚いてしまうんだから、やっぱり意外と言っていいのかな。できれば違ってほしかったけれど、なんとなく。
クリスティ絶賛なんだ、と帯を見て思ったけれど、読み終わってみるとなんとなく納得。50年前の作品だけど古さは感じず、素直に面白かったです。
米澤穂信『いまさら翼といわれても』(KADOKAWA)
神山市が主催する合唱祭の本番前、ソロパートを任されている千反田えるが行方不明になってしまった。夏休み前のえるの様子、伊原摩耶花と福部里志の調査と証言、課題曲、ある人物がついた嘘―折木奉太郎が導き出し、ひとりで向かったえるの居場所は。そして、彼女の真意とは?(表題作)。奉太郎、える、里志、摩耶花――"古典部"4人の過去と未来が明らかになる、瑞々しくもビターな全6篇!(粗筋紹介より引用)
『小説 野生時代』『文芸カドカワ』に2008年~2016年掲載。著者の〈古典部〉シリーズ最新短編集。「箱の中の欠落」「鏡には映らない」「連峰は晴れているか」「わたしたちの伝説の一冊」「長い休日」「いまさら翼といわれても」の六編を収録。2016年11月、単行本刊行。
文春ベスト10に入っていたから全く気にせず購入したけれど、よく見たら〈古典部〉シリーズだったのでほったらかしにしていた一冊。片づけていた時に出ていたので、確か日常の謎ものだろうし、重くならない短編集でも読もうと思って手に取ったけれど、結構重かったな。とはいえ、シリーズを一冊も読んだことので、登場人物の背景がよくわからない。折木奉太郎、千反田える、福部里志、伊原摩耶花って名前を覚えるのも最初はしんどかった。まあ、シリーズを読んだことがなくても、読み終えることができるくらいには楽しめたけれど。
「箱の中の欠落」は生徒会長選挙で不可能なはずの水増し投票が行われた謎、「鏡には映らない」は中学校時代に折木が卒業制作で手を抜いた理由の謎、「連峰は晴れているか」は中学時代の教師のセリフの真相を考察する話、「わたしたちの伝説の一冊」は伊原摩耶花が所属する漫画研究会の分裂に巻き込まれた中で制作ノートが盗まれる話、「長い休日」は千反田えるに折木が省エネ主義モットーに至った理由にまつわる小学校時代の事件を語る話、「いまさら翼といわれても」は千反田えるが市の合唱祭に来ないので折木奉太郎が伊原摩耶花に頼まれて探す話。
日常の謎ものだが、「箱の中の欠落」みたいに推理部分が楽しめる話よりも、やはり登場人物の背景に重きを置かれている作品が多かったかな。まあこれでシリーズ物を読んでみたくなったとなればこれでいいのかもしれないけれど、さすがにそこまで手を出す時間的余裕(読みたい未読本が多すぎる)がないので断念。シリーズ1作目から読んでいれば、また違った楽しみがあったんだろうなとは思った。ただ、短編集がまとまるほど作品がそろうのに8年もかかってしまうと、シリーズファンからしたら納得がいかないところじゃないのかな。
山本巧次『開化鉄道探偵』(創元推理文庫)
明治12年晩夏。鉄道局技手見習の小野寺乙松は、局長・井上勝の命を受け、元八丁堀同心の草壁賢吾を訪れる。「京都―大津間で鉄道を建設中だが、その逢坂山トンネルの工事現場で不審な事件が続発している。それを調査する探偵として雇いたい」という井上の依頼を伝え、面談の約束を取りつけるためだった。井上の熱意にほだされ、草壁は引き受けることに。逢坂山へ向かった小野寺たちだったが、現場に到着早々、鉄道関係者が転落死を遂げ……。「このミステリーがすごい!」トップ10にランクインした、時代×鉄道ミステリの傑作。待望の文庫化。(粗筋紹介より引用)
2017年5月、東京創元社ミステリ・フロンティアより『開化鐵道探偵』のタイトルで書下ろし刊行。2021年2月、文庫化。
このミスでランクインしてから初めて興味を持ちいつか買おうと思っていたのだが、文庫化されたのでこれ幸いとばかりに購入。もっと早く文庫化してくれよ。作者はてっきり新人だと思っていたけれど、第13回「このミステリーがすごい!」大賞隠し玉となった『大江戸科学捜査 八丁堀のおゆう』(宝島社文庫)にて、2015年にデビュー。以後、「八丁堀のおゆう」シリーズを何冊も書いていた。全然知らなかった。
逢坂山トンネルの工事現場で起きた不可解な事件の謎を、腕利きの八丁堀同心だった草壁賢吾が謎を解く。設定そのものはシンプルだけど、背景が面白い。明治開化の鉄道事業の裏側も面白いし、当時のトンネル工法も現代と比べると非常に興味深い。専門的な部分もかみ砕いて説明されているのでわかりやすい。これも不勉強で恥ずかしいのだが、井上勝という人物も全然知らなかった。ちょっとだけ検索してみたが、気骨のある人物だったらしい。本作でもそんな井上の豪快さと頼もしさが前面に出てくる。生野銀山の工夫頭だった植木伊之助や雇われ機関士のウィリアム・カートライトのプロフェッショナルぶりも読んでいて清々しい。重要人物とその他の人物の描写にちょっと差を感じるのは仕方がないが、もうちょっと筆を入れてくれれば、ミステリとしても厚みが出てくるのにとは思った。
事件の謎自体はそれほど難しいものではないが、時代背景をうまく織り込んでいることと、最後に犯人を追い込むロジックはシンプルだがなかなかのもの。草壁が何もかも知っていますというような顔をしているところがマイナスポイントかな。ワトソン役は間抜けなものというのは相場が決まっているが、小野寺がちょっと可哀そうになった。
傑作まではいかないけれど、「快作」という言葉がぴったりくる作品。明治ならでは、そして鉄道建設現場という特殊性がうまく織り込まれ、時代小説としてもミステリとしても楽しめる作品。続きも夏に文庫化されるようなので、読んでみたい。
D・M・ディヴァイン『災厄の紳士』(創元推理文庫)
美人のお嬢様を相手にするのは慣れていなかった。でも、この“仕事”で失敗するわけにはいかない。ネヴィル・リチャードソンは、見た目は美男子だが根っからの怠け者。ジゴロ稼業でなんとか糊口を凌いでいたところ、さる筋からうまい話が転がり込んできた。今回の標的は、婚約者に捨てられたばかりの財産家の娘アルマ。わがままで、かつ気の強いアルマにネヴィルは手を焼くが、“共犯者”の的確な指示により、計画は順調に進んでいた。彼は夢にも思わなかった――とんでもない災難が、その後わが身に降りかかることを! 本格ミステリの名手ディヴァインが周到に策を巡らせた快作。(粗筋紹介より引用)
1971年、イギリスで発表。2009年9月、邦訳刊行。
妻子持ちで怠け者で頭の悪いジゴロのネヴィルが、何者かの指示に従い、金持ちの娘アルマに近づき、見事恋仲となって家に呼ばれる。アルマの父親は、かつての有名作家、エリック・ヴァランス。しかしアルマの姉、サラ・ケインはネヴィルに不審を抱く。
フランスサスペンスにありそうな設定、展開。しかし中盤で事件が起き、そこからはフーダニットに切り替わる。描写がうまいから読めるし、展開が気にかかるんだけど、犯人が誰かどうかというより、この後どうなるんだろう、という意識のほうが強くなるのは何とも……。正直言って犯人なんて、どうでもいいと思ってしまうのは良いことなんだか、悪いことなんだか。
事件が起きるまでのネヴィルによる一人称視点から、事件が起きた後の三人称視点に切り替わるところや、わざとらしい伏線とか、最後に犯人を突き止めるロジックとか、色々うまいなあと思うのだが、最後の動機がどうしても引っかかる。予想できたことだけど、実際に文章で読むと萎えちゃってしまった。なんか、最後の盛り上がる部分で肩透かしを食らった気分。
何なんだろう、この読後感。緻密に組み立てられた作品だと思うんだけどね。
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