笹本稜平『流転 越境捜査』(双葉社)

 神奈川県警瀬谷警察署の不良刑事、宮野裕之が横浜市内の電車の中で偶然見かけたのは、指名手配犯の木津芳樹であった。12年前、都内の富豪一家三人が奥多摩の山荘で惨殺された事件で、実行犯の二人の中国人は捕まってすでに死刑判決が確定したが、教唆したとされる元メガバンク行員の木津はすでに日本を離れていたため、国際指名手配されていた。事件直後、被害者の銀行口座から20奥円を上回る資金がオフショアの匿名口座に振り込まれていた。これはタスクフォースの格好のターゲットだ、と宮野は警視庁捜査一課特命捜査対策室特命捜査第二係の鷺沼友哉に連絡を取り、捜査に乗り出すこととなった。しかしその人物が木津本人である確証はない。鷺沼と井上拓海巡査部長は木津が住んでいるマンションの運営会社を訪れると、総務部長の中村は高木正敏という人物だと答えた。ただ、中村の様子がどうもおかしい。鷺沼達は引き続きマンションを見張ることとした。
 『小説推理』2020年11月号~2021年11月号連載。2022年4月、単行本刊行。

 笹本稜平の人気シリーズ第九弾。本作では十二年前の富豪一家三人惨殺事件で国際指名手配されている人物を見かけたところから始まって捜査に乗り出すが、事件には裏があり、捜査を続けていくと前科持ちの元銀行員や半グレや闇金女王などが出てきてさらに事件は広がっていく。宮野を始めとするタスクフォースの面々は消えた20億円とともに事件の真相を追い続ける。鷺沼と宮野だけでなく、三好章係長、井上拓海巡査部長、山中彩香巡査、元やくざでイタリアレストランチェーンオーナーの福富といった面々も活躍する。
 今回は十二年前の凶悪事件の謎に挑むが、次から次へと悪人たちが出てきて一筋縄ではいかない。途中で捜査一課が横取りする展開もあるが、今回は最後まで考えられたストーリーとなっている。少なくとも、結末直前でのドタバタ感は見られない。例によってちょっと都合よすぎる展開があることは否めないが、最後はバラバラだったピースがうまくまとまった。あまりにも露骨すぎる宮野がどうかと思うが、最後はスカッとした終わり方になっているので良かった。
 作者が亡くなったので、本シリーズはこの作品をもって最終巻となってしまった。勝手な想像だが、次作は井上と彩香の結婚があるのではないかと思われたので、非常に残念。本作が遺作ということになるのだろうか。
 作者のご冥福をお祈りいたします。




森詠『雨はいつまで降り続く』上下(講談社文庫)

 元M新聞サイゴン特派員の矢沢建彦のもとへ、シェーというベトナム人から一通の手紙が届いた。ベトナム戦争当時、戦闘中に死んだはずの友人でジャーナリストの叶吾郎が生きているというのだ。叶の行方を探すため、矢沢は急遽、バンコックへ向かった。ベトナムに生き、愛し、闘った男たちへのレクイエム。(上巻粗筋紹介より引用)
 花は揺れていた。咲いた花が雨に打たれる。雨よ、いつまで降り続くのか……矢沢の耳には、昔の恋人で反戦歌手だったドー・チー・ナウの悲哀に満ちた歌声が今も響く。ナウの悲惨な死には隠された大きな謎があった。ベトナムに潜入し、叶を探すうちに矢沢はナウの死の謎をも図らずも解くことになったのだった。(下巻粗筋紹介より引用)
 1985年2月、講談社より単行本刊行。1988年2月、文庫化。

 森詠の作品を読むのは久しぶり。解説によると本書は「80年代のいまもなおベトナム体験にこだわりつづけている一人の男の行動を描いて、日本人にとってベトナムとはなんであったか」を追求した作品とのことである。
 ベトナム戦争終了後のベトナムを描いた作品で、当時の戦争の傷跡と、そして残された混乱が色濃く残っている。10年前の戦争当時に死んだはずの友人が生きていたという話を聞き、社会主義国家となったベトナムへ潜入した元日本人記者の苦闘を描いた冒険小説。ベトナム戦争というと、あの有名な絵本と、『サイボーグ009』などで描かれているのを読んだくらい。『マンハッタン核作戦』では、武器商人がお金の代わりにヘロインで武器を北ベトナムに売っていたなあ。さすがに当時の報道は見ていないので、ベトナム戦争そのものを自分はほとんど知らないといっていい。だからこそ、そしてこんな時期だからこそ色々興味があったのだが。
 ベトナムの風景はよく描けているとは思うけれど、展開はやっぱり都合がいいなと思わせるもの。いくら当時のベトナムにいたことがあるとはいえ、やっぱり素人だろ、主人公、とは言いたくなってしまう。いくら仲間がいるとはいえ、素人がプロに勝つには、それなりのリアリティが欲しいよね、特に冒険小説だったら。それに矢沢という人物にも、可能という人物にもあまり好感が持てなかったことが、今一つな気分になった大きな原因だと思う。矢沢が借金するくだりなんて、本当にご都合主義すぎると思った。その後も割と簡単に手助けしてもらっているし。
 ただ、当時のベトナムの傷跡は生々しく残っていた。戦争というものの虚しさは浮かび上がるものだったと思う。ただ、日本人がベトナム戦争にどうかかわっていたかは、ほとんどわからなかった。一部の人以外にとっては、対岸の火事程度のものだったのだろうか。
 当時の冒険小説としてはよかったのだが、今読むとちょっときつい。もうちょっと書き込みが欲しかった。




R・V・ラーム『英国屋敷の二通の遺書』(創元推理文庫)

 植民地時代に英国人が建築し、代々の主が非業の死を遂げたと伝えられるグレイブルック荘。元警察官のアスレヤは、現主人であるバスカーの招待でこの屋敷を訪れた。財産家の彼は何者かに命を狙われており、数々の事件を解決へ導いたアスレヤの助力を求めたのだ。バスカーは二通の遺書を用意していた。どちらが効力を持つのかは、彼の死に方によって決まる。一族の者と隣人たちが集まり、遺書が彼らの心をざわつかせるなか、ついに惨劇が! アスレヤは殺人事件と屋敷をめぐる謎に挑む。インド発、英国犯人当てミステリの香気漂う精緻な長編推理。(粗筋紹介より引用)
 2019年、ハーパーコリンズ・インディアから刊行。2022年3月、邦訳刊行。

 作者はインド生まれで、コンサルタントとして永年活動。2014年に作家デビュー。本作は初の犯人当てミステリで、2020年にはアメリカ、2021年にはイギリスで刊行された。
 インドの南部にあるタミール・ナードゥー州、ニルギリ丘陵にあるグレイブルック荘が舞台。地崩れで道が封鎖された屋敷の敷地にある礼拝堂で、殺人事件が発生する。招待されていたアスレヤが事件解決に挑む。
 読んでいて思ったのは、古き良き英国本格ミステリの香りである。スタンダードすぎる舞台。当主の息子や甥、姪たちに加え、地元の村人たちが集うという、動機がありそうな面々がそろうパーティー。紳士的な名探偵が、殺人事件だけではなく、屋敷を取り巻く謎を解き明かす。まさに古典といってもいい設定である。ただ、地崩れで封鎖された道はすぐに復旧されて警察はやってくるので、そこはちょっと残念。
 ちょっと気に入らないのは、後出しの情報が多いところ。それも名探偵役のアスレヤが、どうやって推理して探させたのだろうかと思う情報が次々に出てくる。警察だったら地道に多くの道をしらみつぶしに探すところを、地図も無しに解決まで近道を一直線に進んでいくところがどうしても気になった。結局大した推理もなく、探し当てた情報だけで解決してしまうし。帯には「犯人当て」と書かれているけれど、読者が推理で犯人を当てるのは無理だよね、これ。
 ただその点を除けば、読んでいて楽しかった。黄金時代の書式に沿って書かれたとしか思えないぐらい、本格ミステリの舞台と登場人物たちが丁寧に書かれている。ここまで基本通りに書かれた作品を読むと、逆に面白い。インドが舞台という点が新鮮であるからだろう。
 古き良き本格ミステリの雰囲気を楽しみたい人にはお勧めしたい一冊。アスレヤシリーズの続編もすでに出ているとのことなので、邦訳を待ちたい。




若竹七海『錆びた滑車』(文春文庫)

 女探偵・葉村晶は尾行していた老女・石和梅子と青沼ミツエの喧嘩に巻き込まれる。ミツエの持つ古い木造アパートに移り住むことになった晶に、交通事故で重傷を負い、記憶を失ったミツエの孫ヒロトは、なぜ自分がその場所にいたのか調べてほしいと依頼する――。大人気、タフで不運な女探偵・葉村晶シリーズ。(粗筋紹介より引用)
 2018年8月、書下ろし刊行。

 「仕事はできるが不運すぎる女探偵」葉村晶シリーズ第五作となる書き下ろし長編。
 尾行中に喧嘩中に階段から落ちてきた二人に巻き込まれ、怪我をする葉村。冒頭から不運としか言いようがない。おまけに建て替えのためにシェアハウスを引越ししなければならない。その後も色々と不運な出来事に巻き込まれ、挙句の果てに報酬を超えた働きを続けなければならない。怪我も負って散々で、さらに胸糞悪くなるような事件に挑む羽目になる。不運の連鎖が続くと、作者に嫌われているとしか思えない(笑)。
 タフな葉村の活躍と苦悩を描き続けているこのシリーズだが、本作は本当に最悪最低な事件。前半に関しては、読む面白さよりも内容の腹立ちの方が強くて、読み続けるのに苦労した。結末まで読んで、事件が解決しても、何も救いがないというのは本当につらい。だけど、読んでいると面白いし、葉村晶に共感してしまう。そこがやっぱり、作者の腕なんだろうとは思う。
 飛び飛びで読んでいるので、ここらでシリーズの残りの作品を読んでしまおうかとは思っているのだが、ここまで苦みが心に残ってしまうのもちょっとなあ。




多岐川恭『的の男』(創元推理文庫)

《的の男》靴屋の小倅から野心と詳細で伸し上がった鯉淵丈夫は、還暦を迎えてなお頑健を誇り、我が世の春を謳歌する。こうした人間の常として周囲は敵だらけ。恨み骨髄の鯉淵を葬ろうと爪を研ぐ刺客も一人や二人ではない。ところがこの男、そう簡単には死んでくれそうもなく……。
《お茶とプール》雑誌社に勤める輝岡亨は、星加邸を訪れた折、居合わせた人々の間に漂う違和感を察知する。その場の不穏な雰囲気が、やがて人ひとりの死を招くことに。『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルを思わせる亨の身辺は、怪死事件以後様々に騒がしくなっていく。(粗筋紹介より引用)
 『的の男』は『週刊小説』1978年2月24日号~5月26日号連載。1978年7月、実業之日本社より刊行。『お茶とプール』は1961年8月、角川書店より書下ろし刊行。本書は2000年12月、刊行。

 『的の男』は、数々の恨みを持つ実業家の鯉淵を殺そうと、数々の刺客が様々な方法で狙うのだが、失敗ばかりでなかなか目的を達せられないというクライムコメディ。各章が「網」「銃」「穴」と、それぞれの刺客の殺人手段をタイトルにしており、その刺客の一人称で話が進んでいく。第一章の網については、何を考えているんだとしか言いようがない殺人手段であるし、その後もこいつは本気かと思わせるものが続く。ところが段々と計画が練られたものになっていき、今度は成功するんじゃないかと思わせるところは達者としか言いようがない。そして最後まで読んでいくと、読者は作者の仕掛けに思わず唸ってしまう。登場人物の造形の面白さと、隅々まで考えて練られたストーリー。やはり技巧家である、多岐川恭は。
 『お茶とプール』は、作者が「小ぢんまりとしたサロン推理小説とでも言ったもの」と書いている。週刊誌の経理部員である主人公の輝岡亨が、不動産会社を経営する星加太一郎の娘で亨の同僚である卯女子の兄、要の誕生会に飛び入りで参加する。亨の妹で卯女子の同僚かつ友人である協子はともかく、要の恋人の小倉まゆり、そして銀行頭取である永井基雄の娘、百合子がいて、不穏な空気を醸し出している。銀行から金を借りている星加夫婦は、基雄の要請で要と百合子が結婚するしかないと考えている。そしてエキセントリックで回りに不快感を与える百合子も、要との結婚を強く求めていた。その誕生会で百合子に渡されたハイボールの味がおかしかったことから、今後は亨が毒見をすることになった。しかもプールでの悪戯に巻き込まれ、泳げない百合子はプールに落ちて溺れかけた。そしてベッドで休んでいた百合子は、亨が毒見をしたココアを飲むも、苦しんで死んでしまった。ココアの中には毒が入っていた。
 初文庫化とのことだが、どうしてどうして、捨てたもんじゃない。いや、なかなかの佳作である。確かに作者がいう「サロン的推理小説」ではあるが、本格推理小説としての骨格を持ちつつ、ピカレスクロマンとしても仕上がっており、序盤での若者たちの楽しいやり取りとはかけ離れた結末に驚かされる。特に主人公である輝岡亨の造形は素晴らしい。人に好かれる表面とは裏腹の冷酷さと、何を考えているかわからない不気味さ。それでいて、目標に向かって突き進もうとする冒険小説の主人公や、何事にも屈しないハードボイルドの主人公とも異なる、不思議な存在感である。
 『的の男』『お茶とプール』ともに初めて読んだが、まだまだこんないい作品があるじゃないかと、改めて作者の技巧ぶりを知らされた。




ジェイムズ・エルロイ『LAコンフィデンシャル』(文春文庫)

 悪の坩堝のような50年代のロサンジェルス市警に生きる三人の警官――幼時のトラウマから女に対する暴力を異常に憎むホワイト、辣腕警視だった父をもち、屈折した上昇志向の権化エクスリー、麻薬課勤務をいいことに芸能界や三流ジャーナリズムに食指を伸ばすヴィンセンズ。そこへ彼らの人生を大きく左右する三つの大事件が…。(上巻粗筋紹介より引用)
 事件その1、“血塗られたクリスマス”。署内のパーティで酔った刑事たちが勾留中の容疑者に集団暴行! 事件その2、コーヒー・ショップ“ナイト・アウル”で虐殺事件発生! 事件その3、複数の余罪を暗示する、あまりにもどぎつい変態ポルノ写真の犯濫! 事件1、2で明暗をわけた三人は、それぞれのやり方で悪の中枢へと近づいてゆく。(下巻粗筋紹介より引用)
 1990年、発表。1995年10月、邦訳単行本刊行。1997年11月、文庫化。

 エルロイの「暗黒のL.A.」4部作の第三作。三人の警官を主人公に、1950年代の暗黒のロサンゼルスを駆け抜ける。
 表面は別として、裏はこんなにひどいのかと嘆きたくなるような社会。こんなに警察が黒かったら、秩序なんてどこにもなかったのだろうかと思ってしまう。いや、苦手なんだよ、こういう世界は。暴力と金とドラッグとセックスがはびこる作品は。ここに上昇志向があればまだ楽しめたんだけど、それもかなり屈折しているからなあ。
 ということで、きつかった。評判は良かったので読んでみたけれど、きつかった。たぶんこういう感想になるとは思っていたけれど、やっぱりだった。これ以上、書けない。




門井慶喜『マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代』(角川文庫)

 名作ミステリを読み解くと、美術が、宗教が、歴史が見えてくる!『時の娘』に隠された絵画の秘密、『緋色の研究』が提示する産業革命の功罪、『薔薇の名前』で描かれた宗教裁判。ミステリと絵画の密接な関係を論じながら、時代背景や当時の文化事情に華麗なロジックで鋭くメスを入れる。ミステリと歴史小説を知り尽くした気鋭の作家ならではの、画期的な近代史入門書。第69回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞作。(粗筋紹介より引用)
 2015年11月、幻戯書房より単行本刊行。2016年、第69回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)受賞。2017年12月、角川文庫化。

 取り上げられているのは『時の娘』『緋色の研究』「アッシャー家の崩壊」『荒野のホームズ』『薔薇の名前』『わたしの名は赤』。ミステリと美術の関係を通し、当時の時代背景や文化を巡る考察が述べられている。作者には美術探偵・神永美有シリーズもあるぐらいなので、そちらの方面には詳しいのだろう。
 正直、この数冊だけで近代史を読み解くというのはかなり暴論というか、サンプル数が少なすぎるんじゃないかとは思う。だから、入門書とか堅苦しいことは考えず、作者がミステリをどう近代史に結び付けていくかという手法をお手並み拝見、という感じで読んだ方が面白いのではないか。私はそういう方向から読んで、素直に楽しんだ。中身の正確さはあまり考えていない。
 こういう論もあるんだね、程度で読めば楽しい作品。堅苦しく読む必要はない。




宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』(文春文庫)

 杉村探偵事務所へ依頼に来たのは、筥崎静子というさいたま市に住む五十代後半の女性。娘で相模原市に住む専業主婦の佐々優美が一か月前に自殺未遂を起こした後、一切の連絡が取れないという。優美の夫の知貴は、自殺未遂の原因は静子との関係性にあると言って一切の連絡を取らせようとせず、クリニックでも門前払い。知貴と接触してみると、かなり憔悴していた。二人のマンションを見張り続けていると日曜日、年上の男が知貴を連れ出した。調べてみると、大学のホッケー愛好会のOBで作られているチーム・トリニティの代表である高根沢だった。調査を続けていくうちに、杉村は陰惨な事件に遭遇する。「絶対零度」。
 複雑な事情から、事務所を間借りしている竹中夫人とともに、近所の中学生の加奈の従姉である宮前静香の結婚披露宴に参加することとなった杉村。当日、式場のホテルへ行ったら、同じ階の結婚式の新婦がドレス姿のまま逃げ出したという。さらに、静香の新郎の元カノが式場に来たせいで、静香の方の結婚式も破談になってしまった。「華燭」。
 竹中家の長男妻と、長女で中学一年の有紗が杉村へ話に来た。有紗の小学校時代の同級生だった朽田漣の母親である美姫が子供の命がかかっているので相談があるという。しかし親娘とも周りに迷惑ばかりかけて問題ばかりなので、引き受けないほうがいいと伝えてきた。翌日、美姫が杉村探偵事務所に漣とともに押しかけてきた。別れた夫が引き取った小学一年生の長男が、交通事故に合ったという。しかしその事故は実は殺人事件未遂で、元夫の両親が邪魔になった長男を殺そうとしたものだと訴えてきた。あまりにも一方的、かつ独善的な訴えに辟易しながらも、背後を調べるという依頼を受けた杉村。調べていくうちに、問題があったのは美姫の方であることがわかってきた。「昨日がなければ明日もない」。
 『オール讀物』掲載。2018年11月、文藝春秋より単行本刊行。2021年5月、文庫化。

 杉村三郎シリーズ第5作となる中編集。単行本の帯には「杉村三郎vs.“ちょっと困った”女たち」という惹句が記されていたとのこと。確かに「ちょっと困った」女たちは登場するが、“ちょっと”“困った”でいいのだろうか。「絶対零度」は娘を心配している母親、「華燭」は結婚式が逃げ出した新婦、「昨日がなければ明日もない」は周囲を困らせる女である。そういえば前作の『希望荘』をまだ読んでいないのだが、全然困らないところはさすが。
 どの物語も、一つ一つはミステリの題材としては平凡な事象ばかりである。よくある話といってもいい。ところが宮部みゆきという稀代のストーリーテラーの手にかかると、先が全く見えなくて、ページをめくる手が止まらない話に仕上がってしまうのだからすごい。平易な文章なのに、様々な感情を与えられてしまう、この物語の面白さはいったい何なんだろう。
 どれも面白かったが、あえて一つを選ぶならまだユーモアが残っている「華燭」か。残り二作は、エンディングが悲しい。それでも次を読もうという気になるのだが。



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