渕正信『王道ブルース』(徳間書店)

 全日本一筋で来たプロレス人生。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田から直接「王道」を受け継いだ男が老舗団体の激動の真相を始めて記す。全日本プロレス50周年記念出版。●「鶴田友美」といきなり30分スパーリング ●「クーデター未遂事件」の真実 ●「モハメド・アリ対ジャンボ鶴田」 ●私は見た「馬場さんと猪木さんの真の関係」 ●ザ・シークとブッチャーに助けられる ●「天龍革命」は正直、キツかった ●鶴田さんが「四天王」を叩き潰すことの意義 ●ラッシャー木村さんのマイク」でモテ期到来!? ●「俺が泣いたのはあの時だけだ」馬場さんの絶句 ●馬場さんを最後に見た日 ●三沢に詰め寄った「鶴田さん追悼」への違和感 ●川田、渕、2人だけの全日本プロレス ●敵地・新日本プロレスに乗り込む(帯より引用)
 2022年3月、刊行。

 渕は大学を一年で中退し、北九州から上京。茅ケ崎でアパートを借りてアルバイト生活。1973年3月、全日本プロレスの事務所を訪れた次の日に、当時の練習場だった山田ジムでジャンボ鶴田とアマレスのスパーリング。さらに入門テストを受けた。それから2週間、毎日通い、当時のコーチであるマシオ駒から合格をもらう。地方巡業中の八戸大会のバトルロイヤルでデビュー。しかし父親が倒れたとのことで実家に帰る。しかし鶴田凱旋帰国のニュースを見て再びプロレスへの情熱が高まり、半年後に茅ケ崎のアパートに戻る。1974年4月10日、馬場のもとへ挨拶に行き、翌日、再入門。そういう経緯から、渕が再入門前に入った大仁田厚は後輩でもあり、先輩でもある。4月22日、大仁田厚戦でデビューする。
 内容としては、今までのふちがインタビューで語ってきたことをまとめたという印象。プロローグでは、柔道の元全日本チャンピョンの岩釣兼夫との5分間のスパーリングとなり、渕が優勢のまま終わってしまい、岩釣がヘロヘロになった話が書かれている。この先は知らなかったが、来日していたコシロ・バジリ(アイアン・シーク)とスパーリングを行い、岩釣が柔道技で投げた瞬間、下からタックルを決められ、腕を関節技で決められてタップしたという。
 江ピローグで「俺は悪口は言わない。死んだ人間を悪者にするような真似はしたくないからな。だから、全然面白くない本になると思うけど、それでよければ出してくれよ」と出版社に言ったと語っている。その通りで、本書では出てくる人たちの悪口は出てこない。渕自身がいい人だからなんだろうが、自分が見た馬場、鶴田、天龍、四天王達のエピソードを披露しており、そこに悪口も悪意もない。海外修行では苦汁をなめたこともあっただろうに、悪口は一つもない。さすがに当時の新日本プロレスに対しての批判があるし、長州力たちのハイスパートプロレスに対して受け身もできずスタミナもない、という評はあるものの、悪口はない。新日本と全日本の、練習やプロレスに対する考え方の違いについても興味深かった。いざという時の対処についても心構えができているところはさすがと思った。
 当時の「善戦マン」だった鶴田の苦悩のあたりは、読んでいてとても興味深い。鶴田の本音が出ている部分である。また、ラッシャー木村のボヤキはいろいろと考えさせられるものがあった。「今考えたら、こんなの(額の傷)何にもなんないな。マイクの方がよっぽどお客が喜ぶんだから――」。国際プロレス時代を悔やんでいるわけではないだろうが、それでも一種の虚しさがあったのかもしれない。
 エピローグで語られる、ザ・デストロイヤー、ザ・ファンクス、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタンハンセンとの日本最後の試合の相手は渕。馬場も鶴田も、マシオ駒の最後の試合は渕だった。これについてはどういうつもりで書いたのかはわからないが、渕にとっても思うところがあったに違いない。
 さすがに武藤時代以降の全日本プロレスについてはほとんど触れられていない。やはり渕にとって、全日本プロレスとは馬場であり、鶴田であったのだろう。すでにリングに上がるのは時たまという状況だが、それでも全日本プロレスを愛し続けてリングに上がり続けたのは、レスラーとしては渕だけである。これからも渕には色々と語ってほしいものである。今、馬場や鶴田について深く話せる日本人プロレスラーは、渕だけなのだから。




デズモンド・バグリイ『敵』(ハヤカワ文庫NV)

 英国の某情報部に勤務するジャガードは聡明な生物学者ペネローペ・アシュトンと婚約した。だがその幸福もつかの間、彼女の妹が何者かに硫酸を投げつけられるという事件が発生する。ジャガードは犯人の捜査を開始するが、やがて奇怪な事実を探り当てた。ペネローペの父ジョージ・アシュトンの経歴が情報部で最高機密になっているのだ! 黒い噂ひとつない富裕な実業家の彼がなぜ? 謎が深まる中、突然アシュトンが失踪した。情報部の命を受けたジャガードは彼を追って厳寒のスウェーデンへ飛ぶが……バグリイ自身が最高傑作とする大型冒険小説。(粗筋紹介より引用)
 1977年、英国で発表。作者の第十一長編。1981年2月、早川書房より邦訳、単行本刊行。1986年4月、文庫化。

 バグリイは『高い砦』しか読んだことが無い。帯で「著者自身が最も好きな作品にあげている」と書いていたので、手に取ってみた。
 主人公のマルコム・ジャガードはイギリスの諜報部員が、失踪した婚約者の父親、ジョージ・アシュトンを追いかける、という話だが、実はアシュトンの過去は、イギリスの最高機密であった。失踪したアシュトンを追いかけてスウェーデンに飛ぶマルコム。まあ、そこまでは楽しんで読むことができたのだが、全く考えてもいない展開に進んでいき驚かされた。しかもその展開があまり面白いものではない。婚約者の父親の行方を捜してピンチを救う、という展開だと思っていたのに、その裏に隠された真相が明後日の方向を向いているのだ。
 なんというか、読みたかった冒険小説はこういう方向じゃないんだよな、という感じ。こんな終わり方でいいんだろうか。作者、迷走していないか、と聞きたい。そりゃディティールとかはよく描かれているし、迫力や緊迫感はあるところはさすがだと思ったけれど。




東川篤哉『スクイッド荘の殺人』(光文社)

 十二月中旬の烏賊川市、閑古鳥すら逃げ出す鵜飼探偵事務所を訪れたのは、市で数軒の遊戯施設を経営している小峰興業の社長、小峰三郎。脅迫状が送られてきたので、クリスマス休暇を過ごすゲソ岬のホテル、スクイッド荘で身辺警護をすることになった鵜飼杜夫と助手の戸村流平。そして当日、大雪の中で鵜飼と戸村は小峰、内妻の霧島まどかと車で向かっていたが、途中で事故車に遭遇。怪我で意識を失っている運転手の若者、黒江健人を連れて、スクイッド荘に着いたはいいが、雪で道がふさがれた。断崖絶壁に建つ烏賊の形をしたスクイッド荘で翌朝、健人の行方が分からなくなった。鵜飼から電話でその話を聞いた烏賊川署刑事課の砂川警部は驚き、部下の志木刑事を連れてある家に行った。そこは砂川のかつての上司である黒江譲二元警部補の家だった。健人は実は譲二が年を取ってからの息子だった。そして二十年前、烏賊川市でバラバラ殺人事件が発生し、殺されたのは三郎の兄の太郎、そして容疑者のまま行方が分からなくなったのは太郎の弟の次郎であった。当時、捜査に携わっていたのが黒江と砂川だった。
 『ジャーロ』67(2019年春)号~79(2021年11月)号連載。2022年4月、単行本刊行。

 『探偵さえいなければ』以来5年ぶりとなる、烏賊川市シリーズ最新作。長編は『ここに死体を捨てないでください!』以来13年ぶり。今回は20年前に起きたバラバラ殺人事件と、現代に起きた殺人事件の因縁を、鵜飼が解き明かす……ということにしておこう。
 鵜飼と戸村のドタバタ探偵コンビは健在。砂川と志木のドタバタ警察コンビも健在。片や雪に閉じ込められたスクイッド荘で殺人事件に遭遇、片や20年前のバラバラ殺人事件の繋がりを捜索。だけど緊張感は全くないし、ほとんど漫才のようなやり取りも相変わらず。ほとんど冗談のような展開から、最後は実は本格ミステリだった、という終わり方は面白かった。
 ただ謎解きとしてみると、トリックそのものはたいしたことはない。まあ、本格ミステリとしてのプロットを楽しむ作品だから、それを言っても仕方がないだろう。だけど久しぶりの長編なのだから、難解な謎解きを読んでみたかった気もした。予定調和で終わっちゃっているんだよな。贅沢な物言いかもしれないが。




有栖川有栖『捜査線上の夕映え』(文藝春秋)

 コロナ禍が一時的に収まっていた8月28日、東大阪市の十階建ての賃貸マンションの508号室に住む奥本栄人が、クロゼットの中にあるスーツケースの中に押し込まれた死体で発見された。29歳で元ホスト、現在は無職。瞑想に凝っていた。凶器は部屋の中にあった置物。発見したのは恋人の歌島冴香で、死後2日から4日経っていた。ただし、冴香は25日夕方にこのスーツケースを返しに部屋を訪れていた。本人には会えなかったが、LINEでやり取りはしていた。また26日朝にもメッセージがあった。防犯カメラの映像と管理人の証言から、25日昼前まで奥本が生きていたことは確実だった。容疑者は冴香、そして25日午前に奥本の部屋を訪れていた冴香の友人の黛美浪、奥本から借金をしていた友人の久馬大輝。ありふれた殺人事件のように見えたが、一筋縄ではいかないと誰もが感じていた。そして9月4日、船曳班が率いる捜査本部に火村と有栖川が呼ばれた。
 『別冊文藝春秋』353号~356号連載。加筆修正のうえ、2022年1月、単行本刊行。

 火村英生シリーズ最新作。帯には誕生30年と書かれている。『46番目の密室』は出てすぐに読んだ記憶があるが、もうそんなに経ったのか。長編は『インド倶楽部の謎』以来なので3年4か月ぶり。東大阪市が舞台で、大阪府警捜査一課の船曳警部、鮫山警部補、森下刑事、茅野刑事、高柳刑事といったレギュラー面々も登場する。
 帯には「臨床犯罪学者 火村英生の登場で、一見ありふれた殺人事件が「ファンタジー」となる」と書かれている。確かにありふれた殺人事件だが、火村の登場によって「ファンタジー」となったかどうかは微妙。殺人事件に絡む登場人物は少ないし、密室などの派手なトリックがあるわけでもない。一応アリバイ崩しはあるが、これもトリックといえるほど派手なものではない。登場人物の人間関係が中心となっており、丁寧に書かれている分、もどかしいと思う読者がいるかもしれない。私は結構楽しめたが、重たく感じたのは事実。
 端的に言えば、地味だけど読み応えのある一冊。ただ、火村シリーズファンなら楽しめるだろうけれど、それ以外だとどうだろう。シリーズキャラクターの積み重ねがあっての一冊という気もする。それも小説の醍醐味の一つだとは思うが。




ロバート・バー『ヴァルモンの功績』(創元推理文庫)

 吾輩はウジェーヌ・ヴァルモンである。日本での名声はまだない。没分暁漢(わからずや)のパリ警察に放り出され、渡英してから私立探偵の看板を掲げている。大隠は市に隠るを地で行く吾輩が目を光らせているによって、今日も霧の都は平和に暮れゆく。吾輩の辞書に「とんと見当がつかぬ」はなけれど、もそっと(にん)に合った格調高い依頼が舞い込まないものか。遺産探しや身の上相談はともかく、脱獄の手引きと来た日には……。諧謔を好むロバート・バーの遊び心が炸裂するヴァルモン譚に、アーサー・コナン・ドイルとの交友から生まれたホームズものの仁輪加(パロディ)二編を配す。(粗筋紹介より引用)
 1906年にアメリカ向け、イギリス向け、イギリス植民地向けと三社で刊行された短編集『ヴァルモンの功績』の全訳とホームズパロディ二編を合わせ、創元推理文庫より2020年11月刊行。

 1893年、マリー・アントワネット王妃に献上されるはずが行方知れずとなったダイヤの頸飾りが発見された。フランス政府による競売でアメリカ人が落札し、フランス国家警察の刑事局長であるヴァルモンは、落札者がフランスを出るまで監視しようとしていたが、当の落札者が姿をくらました。ヴァルモンは必死に落札者を追いかける。「〈ダイヤの頸飾り〉事件」。ヴァルモンがフランス国家警察を追い出されることになった事件。正直、この程度のことでという気がしなくもないが、当時の警察は予想以上にプライドが高かったのかも。追跡劇が面白い作品だが、それだけでもある。ところで、ロンドンに事務所を構えるイギリス随一の私立探偵って、誰なんでしょうね。
 解雇されたヴァルモンはロンドンで私立探偵として成功し、事務所を開く。フラットをこっそり改築し、バスティーユ並みの堅牢な部屋も用意した。一方、ソーホーの最底辺で裏店住まいをするポール・ドゥシャームというフランス語講師の無政府主義者にも化け、犯罪者を追っていた。英仏の友好を阻む無政府主義者は、爆弾を仕掛けているという。「爆弾の運命」。ヴァルモンがイギリスで地位を高めてきた話が最初に出てくるが、フランスとイギリスの警察の違いが出てきて面白い。いわゆる推定無罪の原則を押し通すイギリスと、無罪が証明されるまでは有罪であるとして捜査を進めるフランスである。そしてヴァルモンはイギリスのやり方にいら立っている。事件の方はごちゃごちゃしていてわかりにくい。
 ヴァルモンの事務所を訪れたのは、テンプル法学院に事務所を構えている法廷弁護士のベンサム・ギブス。先日、自室で六人の親友と晩餐会を開いたが、食堂の椅子に置きっぱなしの上着に入っていた二十ポンドの紙幣五枚が無くなっていた。従僕や給仕は犯人ではない。となると親友である六人のうちの誰かが犯人と思われるが、事を荒立てなくないので、こっそり犯人を捜してほしいという依頼であった。「手掛かりは銀の匙」。オチは面白いが、ヴァルモンが振り回されるだけの間抜けに見えないこともない。
 若いチゼルリッグ卿が仕事を依頼に来た。六か月前に吝嗇の伯父が亡くなり、甥であるチズルリッグ卿に遺産を残した。遺言書には図書室の二枚の紙の間に財産があるという。チズルリッグ卿はその図書室兼寝室兼鍛冶場を隅から隅まで探したが、遺産を見つけることができなかった。そこでヴァルモンに遺産を見つけてほしいという。「チゼルリッグ卿の遺産」。本作品における遺産の隠し場所は、推理クイズでも引用されている有名なトリックであるが、本作品の面白さはヴァルモンとチゼルリッグ卿のユーモラスなやり取りと、失敗を繰り返す過程である。
 ロンドン警視庁のスペンサー・ヘール警部はヴァルモンに、ラルフ・サマーツリーズという人物が贋金造りの犯人ではないかと疑っているのだが、証拠がないので捕まえられないと訴える。ロンドン警視庁の捜査のやり方にいら立ったヴァルモンは、自らサマーツリーズを調べることにした。「放心家組合」。乱歩が短編ベスト10「奇妙な味に重きを置くもの」で選んだ作品でもあった。今のオレオレ詐欺にもつながりそうな、とぼけた味わいのある傑作。今読むと、イギリスとフランスの捜査の違いが浮き彫りになっているんだな。
 翻訳事務所で働く、ソフィア・ブルックスがヴァルモンの事務所を訪れた。六週間ほど前、古城で第十一代ラントレムリー卿と老執事が亡くなった。十年前、秘書として雇われたソフィア、子息のレジナルドと恋仲に落ち、結婚式を挙げたが、ラントレムリー卿と老執事に無理矢理別れさせられ、レジナルドは行方不明となり、ソフィアは恐喝未遂の告白状を無理矢理書かされ、追い出されてしまった。翌日、後を継いだラントレムリー伯爵がヴァルモンを訪れ、古城に現れる幽霊の正体を探ってほしいと依頼してきた。「内反足の幽霊」。古城の冒険もので、珍しくヴァルモンが活躍。ロマンスもあり、読んでいて楽しい一編。
 ダグラス・サンダーソンという人物が事務所を訪れた。息子はアメリカで悪い仲間と付き合うようになり、ワイオミング・エドの通り名で知られたが、五年前に列車強盗で終身刑となった。しかし無罪を信じるダグラスは、お金を積めば逃亡させられると知り、ヴァルモンに依頼する。しかしヴァルモンはその話の裏を見抜く。「ワイオミング・エドの釈放」。アメリカまで出かけるヴァルモンだが、展開はどんどん別の方向に流れていくので、楽しい作品ではなかった。
 二か月前、ブレア侯爵のエメラルドが盗難にあった。英国警察の捜査は失敗に終わり、ブレア侯爵はヴァルモンに捜査を依頼した。ヴァルモンがブレア家に呼ばれるも、ケチなブレア侯爵からの報酬金額は低いし扱いは悪いしで断ろうとしていた。しかし、美しい姪のレディ・アリシアから丁重な扱いを受けたヴァルモンは、依頼を引き受けることとにした。「レディ・アリシアのエメラルド」。これぞヴァルモンものといいたくなる作品。結末が愉快である。
 ホームズパロディの掌編「シャーロー・コームズの冒険」「第二の分け前」。

 ロバート・バーといえば、江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』(創元推理文庫)に収められた「放心家組合」が最初に頭に浮かぶ。犯罪内容の面白さの方ばかり頭に残っており、そこに出ていたウジェーヌ・ヴァルモンについては全く覚えていなかった。とはいえ、本短編集が『クイーンの定員』に選ばれていたことは知っていた。国書刊行会からは『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』というタイトルで2010年に邦訳されている。
 こうして改めてまとめて読むと、エルキュール・ポアロの原型とも言われたヴァルモンという人物の尊大な態度とは裏腹の失敗譚を楽しむ話だと思っていた。まあ確かにヴァルモンの一人称で進む物語は名探偵物のパロディとしか思えないのだが、実のところ、イギリスとフランスの違いを皮肉った風刺を楽しむ作品のように思えてきた。
 それでも「内反足の幽霊」のように粋な扱いをすることもあるから、吾輩という一人称で語られてもヴァルモンという人物が憎めない。「放心家組合」ばかりじゃないぞ、ということがわかったのは収穫であった。やはりクイーンの定員に選ばれるだけはある。
 個人的に好きなのは、「内反足の幽霊」「レディ・アリシアのエメラルド」。結局、犯罪の中で語られるロマンスが好きなんだな、私は。




大石直紀『二十年目の桜疎水』(光文社文庫)

 二十年前、ある事故をきっかけに恋人の雅子と別れた正春。母の危篤の知らせを受け、久しぶりに京都に降り立った正春は、思い出の松ヶ崎疎水を訪れ…。(表題作)おばあちゃんは詐欺師だった。おばあちゃんとの生活はずっと続くと思っていたけれど…。(第69回日本推理作家協会賞短編部門受賞「おばあちゃんといっしょ」)京都の名所が数多く登場する傑作ミステリ短編集。(粗筋紹介より引用)
 2015~2016年、『小説宝石』『宝石 ザ ミステリーRed』『宝石 ザ ミステリー Blue』掲載。2017年3月、『桜疎水』のタイトルで光文社より単行本刊行。2019年9月、改題の上文庫化。

 たった一人の家族である詐欺師のおばあちゃんが警察に捕まった。私は児童養護施設に引き取られた。私は就職して施設を出てお金を貯めると、詐欺師になった。竹田美代子は佐原芳雄という45歳のホームレスを秦河勝の子孫の教祖に仕立て、自分は大生部多の巫女と名乗り、京都で「常世教」という新興宗教を立ち上げた。「おばあちゃんといっしょ」。
 転勤で六年ぶりに京都へ戻ってきたさやか。ジョギング中に真如堂で、大学の同期だった秦宏の母親を見かけ、慌てて逃げだした。7年前、幼馴染で恋人の達朗とさやかは秦宏と賀茂川で花火を見ていた。酔っ払いに絡まれた二人を助けに来た秦宏は男に首を絞められて意識を失い、さらにさやかを襲おうとした男を達朗は川へ突き飛ばして殺してしまった。怖くなった二人は、息をしていない秦宏をその場に置き去り、逃げ出してしまった。「お地蔵様に見られてる」。
 二十年前からスウェーデンに住んでいる正春は、母の危篤の知らせを聞いて五年ぶりに故郷の静岡に帰ってきた。母は死ぬ直前、二十年前に当時の恋人の雅子に手紙を出したことを正春に謝った。いったいどんな手紙を出したのか。正春は二十年ぶりに京都へ行き、かつての恋人の雅子に会いに行った。二十年前、雅子が交通事故に逢い、顔や体に大火傷を負ったことが原因で、二人は別れていた。「二十年目の桜疎水」。
 上宮は本業の闇金の傍ら、ひとり暮らしの年寄りへの窃盗詐欺で稼いでいた。介護会社のヘルパーを上宮が尾行し、これはと目を付けた家について、部下の横道慎吾が宅配業者を装って調べるのだ。上宮は何かを迷ったとき結山する材料の一つとして、いつも占いを見ていた。「おみくじ占いにご用心」。
 寺町通にある割烹相原は小さな店だが、古美術関係の客が多いことから、裏情報を仕入れるために津久見は週1回はここを訪れていた。閉店間際、相原のもとに吉田悠矢という若者が九谷焼の花瓶を持ってきた。最低でも五十万はしそうな立派なものだったが、相原は十五万で買い取った。気になった津久見が尋ねてみると、家の倉庫から持ち出したもので、だれも見向きしないから埃をかぶっているという。大手企業の社長であるという父親は仏像専門のコレクターだと聞いて、津久見は円空仏のいい出物があると話しかけた。「仏像は二度笑う」。
 ミステリ好きの大学生の沙和は、母の父、すなわち祖父が祖母と年賀状のやり取りをしているという両親の会話を聞いて興味を持った。祖父は母が結婚する前に女性問題で借金まみれになり、洋食屋の店も家も失って離婚していた。祖父の存在を初めて知って驚く沙和だったが、両親も祖母もまだ何か隠していると感じ、祖父が住む京都を訪れることにした。「おじいちゃんを探せ」。

 作者は第2回日本ミステリー文学大賞新人賞、第3回小学館文庫小説賞、第26回横溝正史ミステリ大賞テレビ東京賞のそれぞれを受賞したという歴戦の有。逆に言うと、作家になっても今一つで出版社から切られ、また再チャレンジを繰返していたということでもある。その後はTVや映画のノベライズの印象が強かったので、「おばあちゃんといっしょ」で第69回日本推理作家協会賞短編部門を受賞したと知って驚いた記憶がある。
 本短編集は、いずれも京都を舞台にしており、結末のどんでん返しを楽しむ作品に仕上がっている。詐欺を題材にした作品が多いのは、どんでん返しの題材としてわかりやすいからだろうか。「お地蔵様に見られてる」は題材があまり好きになれない作品だが、他は読んでいて楽しかった。それなりに達者で手堅い作風の作家だとは思っていたが、ここまでうまいとは思わなかった。量産型の作家だとは思うが、これぐらいの短編を書き続けてくれれば、他の作品も楽しみにできる。
 個人的には、受賞作の「おばあちゃんといっしょ」よりも「二十年目の桜疎水」をお薦めしたい。やはり気持ちが明るくなれる作品の方が好みだ。




ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)

 大学卒業を数日後に控えたある日、ハリーは古本屋を営む父親が事故死したという知らせを受ける。急ぎ実家に戻ると、傷心の美しい継母アリスが待っていた。葬儀の翌日、ハリーは刑事から意外な話を聞かされる。父親は海辺の遊歩道から転落して死亡したが、その前に何者かに殴られていたという。しかしアリスは父の死について話したがらず、ハリーは疑いを抱く。――これは悲劇か、巧妙に仕組まれた殺人か? 過去と現在を行き来する2部構成の物語は、ある場面で、予想をはるかに超えた展開に! 『そしてミランダを殺す』の著者が贈る、圧巻のサスペンス!(粗筋紹介より引用)
 2018年発表。作者の第4長編。2022年1月、邦訳刊行。

 作者の小説を手に取るのは初めて。過去の作品が評判が良かったので結構期待していた。
 父親が転落死したと聞き、メイン州ケネスウィックの実家に戻るハリー・アッカーソン。ところが父親には殴られた痕があるという。継母のアリスは何か秘密を隠している様子。傷心のアリスを慰めつつ、父親の死の真相を探すハリー。これが現代パート。
 多額の和解金を得て、母親のイーディスとともにケネスウィックに引っ越してきた14歳のアリス・モス。アリスは毎日、ビーチで泳いでいた。イーディスは銀行員のジェイクと再婚。これが過去パート。
 現在パートと過去パートが交互に語られ、ある場面から物語は意外な方向へと進み、そして現在と過去は交錯する。
 読んでいるときは面白く、作品世界に引き込まれる。所々で出てくる名作ミステリの引用は、読んでいて楽しい。登場人物や背景の描写、そしてプロットはうまいと思う。ただ読み終わってみると、それほど意外性がない、というのが本当のところ。日本ではひねくれた、時にはひねりが行き過ぎた作品が多いせいか、なんかおとなしく感じてしまう。帯にある「ミステリにとてつもない衝撃を求める、あなたへ」の言葉が、少々虚しく感じてしまった。
 面白いし、よくできているとは思うんだけれどね。日本作品だったら、こじんまりとまとまってしまった、という感想に落ち着きそう。そういう意味では、刺激に毒されているのかもしれない。




坂上泉『渚の螢火』(双葉社)

 警視庁に出向していた琉球警察の真栄田太一警部補は本土復帰が5月15日に迫る1972年4月、那覇にある本部に帰任する。その直後、沖縄内に流通するドル札を回収していた銀行の現金輸送車が襲われ100万ドルが強奪される事件が起きる。琉球警察上層部は真栄田を班長に日米両政府に知られぬよう事件解決を命じるが……。本土復帰50年を前に注目の著者が描くノンストップサスペンス。(帯より引用)
 2022年4月、書下ろし刊行。

 坂上泉の新作は、本土復帰直前の沖縄が舞台。一作目が西南戦争、二作目が昭和29年の大阪市警視庁。時代背景を変えてよくこれだけ書けるものだと感心しているが、本作はどうか。
 主人公である琉球警察の真栄田太一警部補は日大で学び、二年間警視庁に出向して沖縄に帰ってきたばかり。新設された「刑事部沖縄県本土復帰特別対策室」に配属された。もっともこの対策室は、復帰を前に実績作りを急ぐ座間味本部長と、その命を受けた喜屋武警視正が、本来仕切っている警務部から通貨偽造取り締まりの仕事を奪ってできたものであり、周りからの評判は悪い。対策室には室長でベテラン捜査官の玉城泰栄と捜査班長の真栄田、そして事務員の新里愛子だけ。東京で知り合って結婚した妻の真弓は父親が元警察官であり、出産のために東京の実家に帰った。真栄田は本土の大学を出て本庁帰りということもあり、内地人(ないちゃー)と差別されている。4月28日の午後七時、琉球銀行の現金輸送車が襲われ、回収した100万ドル(当時のレートで3億6000万円)が奪われた。もしこの事が表に出れば、日米間の高度な外交紛争に発展する。そこで上層部は、対策室だけで極秘に事件を解決するように命じた。助っ人として配属されたのは、事件発生時に駆けつけた石川署捜査課の比嘉巡査。そして真栄田の高校の同期で、真栄田の事を露骨に敵視する刑事部捜査第一課の班長となった与那覇警部補であった。
 あまりミステリでは取り上げられない時代なのか、それとも単に私が勉強不足なだけなのかはわからないが、本土復帰直前の沖縄の時代背景がよく描けているように感じた。詳しい人ならもしかしたら矛盾点を見つけるのかもしれないが。ほとんど知らない時代背景を、会話などでテンポよく読ませる力は大したもの。本土復帰までに100マンドルを回収しなければならないというタイムリミットサスペンスとしての面白さもあり、快調にページをめくっていたのだが、途中で既視感を抱いて立ち止まってしまった。『インビジブル』と同じなんだよな、人物の配置が。前作と同じような配置で書かれると、さすがに首をひねりたくなる。沖縄という舞台の特殊性を出すための措置だろうが、ちょっと安易に思える。
 さらに後半になると、話がどんどんそれていっている感じしかしない。沖縄が負った深い傷をこれでもかとばかりに表面化していったが、前半のタイムリミットサスペンスの面白さを削ぐ結果になっている。いやまあ、沖縄の歴史を考えると重苦しくなるのは仕方がないのかもしれないけれど、もうちょっとすっきりした結末にできなかったのだろうか。最後の閉め方が、奥田の某作品と同じ。いや、その前にもっと書くことがあっただろう。
 もっと時間をかけて仕上げるべきじゃなかったのだろうか。生煮えで出された料理みたいな物足りなさを感じた。前半が良かっただけに、残念である。まあ、次作に期待したい。




T・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』(国書刊行会 世界探偵小説全集15)

 南米の元独裁者が亡命先のキュラソー島で食事中、ホテルの支配人が毒殺された。休暇で西インド諸島に滞在中のアメリカ人心理学者ポジオリ教授が解き明かす皮肉な真相「亡命者たち」。つづいて、動乱のハイチに招かれたポジオリが、人の心を読むヴードゥー教司祭との対決に密林の奥へと送り込まれる「カパイシアンの長官」。マルティニーク島で、犯人の残した歌の手がかりから、大胆不敵な金庫破りを追う「アントゥンの指紋」。名探偵の名声大いにあがったポジオリが、バルバドスでまきこまれた難事件「クリケット」。そして巻末を飾る「ベナレスへの道」でポジオリは、トリニダード島のヒンドゥー寺院で一夜を明かし、恐るべき超論理による犯罪に遭遇する。多彩な人種と文化の交錯するカリブ海を舞台に展開する怪事件の数々。「クイーンの定員」にも選ばれた名短篇集、初の完訳。(粗筋紹介より引用)
 1925~1926年に発表された作品をまとめ、1929年、刊行。1997年5月、邦訳刊行。

 作者はテネシー州生まれ。教師、弁護士、雑誌編集者を経て作家になり、1932年に『ストアー』でピューリッツアー賞を受賞。純文学作品の傍ら、30年以上にわたってボジオリ教授シリーズは書かれた。
 名探偵の退場を描いた作品の中で最も悲劇的な作品、「ベナレスへの道」でポジオリ教授は知っていた。クイーンの定員にも選ばれていたのは知っていたが、ようやく手に取って読んでみる気になった。
 それにしても、ボジオリ教授ってどこが名探偵なの、と聞きたくなるような連作短編集。「亡命者たち」はなんとか解決するも、中編「カパイシアンの長官」は振り回されてばかりだし、「アントゥンの指紋」はよれよれな推理だし、「クリケット」ではもうダメ。「ベナレスへの道」については言うまでもないだろう。名探偵への皮肉としか思えない。この作品集の面白いところは、当時のカリブ海の島々の描写かな。というか、そこだけ。
 やっぱり「ベナレスへの道」があるから、この短編集に価値がある、としか言いようがない。いろいろな意味で、斬新な終わり方だった。……なんて思っていたけれど、まさかこの後も書き継がれるとは思わなかった。この作者、凄いな。



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