水上勉『水上勉社会派短篇小説集 不知火海沿岸』(田畑書店)

 本書は水上勉が一九五九年から一九六二年の間に書いた短篇小説から八作品を選んで編んだものである。
 この時代の水上は『霧と影』(一九五九年)でいわば二度目のデビューを飾り、『海の牙』(一九六〇年)で日本探偵作家クラブ賞を、『雁の寺』(一九六一年)で直木賞を受賞、そして『飢餓海峡』(一九六三年)を発表するという充実期に入っていた。読書界は推理小説ブームを迎えており、その中で過去の『フライパンの歌』(一九四八年)のような私小説路線から松本清張と並ぶ社会派推理小説(当時の言い方だと「社会派」)の作家へと転じた水上は、一躍売れっ子作家となったのである。
 本書に収めたのは、この「社会派」時代に数多く発表された短篇小説である。『飢餓海峡』が代表的だが、水上の社会派推理小説には長編に傑作が多いことが知られている。しかし、こららと並行して矢継ぎ早に発表された短篇にも、現代から見て価値の高いものが多い。これらは多くが絶版でまたおそらく水上の意思で全集未収録であったが、そのまま埋もれさせるには惜しいと考え新編集での単行本化を企画した次第である。
 現代の推理小説はトリックの面白さ、謎解きの見事さを競ういわゆる「本格」の系譜に人気の中心があるようだが、これに対して「社会派」は犯罪者がその事件を起こした動機を重視するもので謎ときに主眼はない。さらに、当時の「社会派」は純文学と大衆文学の間を狙った「中間小説」の成立の中で、間口の広い芸術小説を目指した、いうなれば戦後の「純粋小説」(横光利一)運動であり、ルポルタージュなど小説以外の作品をも包含する呼称であった。とりわけその一翼を担った水上の「社会派」小説は、純粋なジャンル小説とは異なる物語性や問題意識に満ちている。そのような認識から、本書のタイトルには現在一般に用いられている「社会派推理小説」「社会派ミステリー」ではなく「社会派」のみを冠することとした。

(「刊行にあたって」より抜粋)


 不知火海沿岸の水潟市には奇病が発生し、市内の医師木田民平は治療にあたっていた。木田は患者の元へ東京の医者が奇病の研究に訪れたと知って声をかけ、東洋化成工業の工場排水が奇病の原因ではないかと意見を交わした。その夕刻、碁仲間の勢良富太郎警部補が木田を訪ね、東京から来た保険医が行方不明になっていると告げた。水上が『霧と影』(河出書房新社、1959年8月)での再出発後、自ら現地取材に赴いて書きあげた最初の作品である。その後大幅に加筆・書き直しが行われ、書き下ろし長篇推理小説として刊行された『海の牙』(河出書房新社、1960年4月)の原型。「不知火海沿岸」。
 松戸市矢切町に住む既製服外交員寺島伍助は、集金の途中、隣家の大工大貫長蔵のバイク事故死に遭遇する。追突したのは市川市真間山町の浦谷薬局の店員木内誠だったが、伍助はその刹那を見ていなかった。通夜の席上、長蔵の妻タネ子から、その日の長蔵の仕事場が浦谷薬局の横で、今日にかぎってカンナを取りに家に向かった途上の事故だったことが明かされる。本作の舞台となる町や主人公の職業、隣家の大工の交通事故死や葬儀はいずれも松戸で暮らした1957~1959年ごろの水上の実体験が反映されている。「真夏の葬列」。
 高利貸の柏君夫が、水天宮の貸しビルの二階で殺害された。ビルは階下の時計店主浜木廉が借金から柏に売り渡したもので、柏は入口として一つだけ穽をあけ板塀でビルを囲い、店子に転出を迫っていた。スーパーマーケットを作るという。鶴田刑事が柏に敵意を抱く浜木を疑い聴取するとあっけなく殺害を自供、しかし浜木のアリバイを証言する女が現れる。「黒い穽」。
 昭和31年11月20日、東洋編物工業の浅田米造は、戸田橋にはそもそも鋳物工場など存在しなかった。社長の娘十糸子と関係をもっていた香取は、自身の嫌疑を晴らし社長の過去をさぐるため、石川県輪島市に向かった。『霧と影』『野の墓標』『眼』など、水上のよく知る繊維業界の社長・重役の失踪の趣向は、本作でも使われている。「歯」。
 女子大生の神崎ますみは、大宮の会社重役の家へ家庭教師のため、週末泊りがけで行くのが習慣だったが、月曜になっても帰らない。仕事の詳細を誰も知らないため、心配した同宿の江原きよ子は大分の田舎に連絡し、父親が上京して世田谷署に捜索願を出したのは失踪から十日後だった。その後、遠く離れた山形の山中で若い娘の変死体が発見されていた。連作推理小説『蒼い実験室』第10話。「消えた週末」。
 既製服外交員瀬川隆吉は国電新小岩の駅前広場で、15年前に京都伏見の輜重隊の同僚だった来島鶴平と再会する。彼は入隊まもなく荒馬に顔を蹴られ片目となったのだった。一週間後、来島の注文してくれた特別仕立ての洋服を勤め先まで届けると、そこでかつての伏見の見習士官に出会う。そして、瀬川が来島に会ったのは、その日が最後となった。水上が1944年に召集され輜重隊に所属した体験をもとにしている。「片眼」。
 鬼落村の真福寺に和尚の妻きよ子をたずねて、たつ枝という女がやってくる。たつ枝はそのまま寺に居ついたが、あるとき夫の小林が、彼女をむかえに訪れる。その後、女の姿は消え、小林は女房が世話になったと、あるものの寄進を申し出る。推理作家である「私」のもとへたずねてきた菅原という男が話したのは、石川県の田舎の寺で起きた事件のことだった。「私」が「雁の寺」の作者として登場するメタ小説の構えを持った作品。水上文学で繰り返し描かれる禅宗の住職の妻帯・女性問題がモチーフとなっている。「真福寺の階段」。
 日米安全保障新条約の衆院通過をめぐり、岸首相退陣要求デモの白い渦で国会議事堂内外が阿鼻叫喚の混乱と化していた昭和35年6月5日の夜、千葉県H市の定時制高校で教鞭をとる酒巻誠は常磐線に乗って東京へ出た。教え子の卒業生・山本さち子のために借りた駒込のアパート晴光荘に向かったのだ。帰り際、酒巻はさち子の注いだウィスキーを飲みほした。再出発の時期にあたる松戸時代に交友を深めた川上宗薫をモデルとしたとみられる作品。「渦の片隅で」。
 他に吉村萬壱「序 薄明りの文学」と、石牟礼道子のエッセイ「前の世のための仮言葉――えぐれた風景の中から」を収録。
 2021年11月刊行。

 「社会派」の代表的作家であった水上勉の、全集・単行本未収録を含む社会派短編小説傑作選。
 前巻『無縁の花』の収録作品は主に作者の生まれ故郷である福井県、そして最初に奉公に出された京都を舞台であったが、本巻は「不知火海沿岸」を除くと都会を舞台にした作品が中心となっている。そのせいかどうかはわからないが、『無縁の花』に収録された短篇と比べると、推理小説と呼んでも十分差し支えない作品が多い。特に「歯」については、使い方を変えれば本格ミステリのトリックにも用いることが可能であろう。それでも、名も無き人たちに着目した水上の視線は変わらない。弱者への視線が水上文学の大きな特徴である。
 「不知火海沿岸」は『海の牙』の原型となった中編。中途半端な終わり方となっているので、確かにこれは長編化が必要だっただろう。
 個人的な好みは「歯」「真夏の葬列」。「歯」はラストがいい。「真夏の葬列」も急展開な終わり方が好み。唐突という意見もあるだろうが。
 水上勉のミステリ全てを読もうとは思わないけれど、たまに読む分には面白い。また何か、出してくれないかな。それも短編集で。




アーナルデュル・インドリダソン『緑衣の女』(創元推理文庫)

 男の子が住宅建設地で拾ったのは、人間の肋骨の一部だった。レイキャヴィク警察の捜査官エーレンデュルは、通報を受けて現場に駆けつける。だが、その骨はどう見ても最近埋められたものではなさそうだった。現場近くにはかつてサマーハウスがあり、付近には英米の軍のバラックもあったらしい。サマーハウス関係者のものか、それとも軍の関係か。付近の住人の証言に現れる緑のコートの女。封印されていた悲しい事件が長いときを経て明らかに。CWAゴールドダガー賞・ガラスの鍵賞をダブル受賞。世界中が戦慄し涙した、究極の北欧ミステリ登場。(粗筋紹介より引用)
 2001年、アイスランドで発表。2003年、ガラスの鍵賞受賞。2005年、CWAゴールドダガー賞受賞。2013年7月、邦訳単行本刊行。2016年7月、文庫化。

 北欧の巨人、アーナルデュル・インドリダソンの『湿地』に続く、エーレンデュル捜査官シリーズ第4長編。本作では、発見された何十年も昔の人間の骨の正体を探す話と、エーレンデュルの娘であるエヴァ=リンドが栄養失調かつドラッグ中毒で胎盤剥離が起きて意識不明の重体となった話、そして家庭内暴力が繰り広げられる家族の話が絡み合い、物語が進んでいく。
 ここまで古い骨の身許を警察がわざわざ追いかけるのかね、という疑問はさておき、暗い話が延々と続くのに作品に引き込まれていくというのは、筆の力って恐ろしい。本当に凄惨な話が続くのに、目を離すことができない。力作だと思う。ちょっと嫌味な言い方をすると、文学賞に選ばれやすそうな題材だなという気はした。
 とはいえ、読んでいて気分が明るくなるわけではないので、読者を選ぶだろうなとは思う。少なくとも、読書に爽快感を求めるような人には、お薦めできない。読み終わって色々考えさせられるものはあるが、それを外に出すのはためらわれる。自分の中で咀嚼していくしかないような話だった。




角田喜久雄『霊魂の足 加賀美捜査一課長全短篇』(創元推理文庫)

 上野駅地階の食堂で、眼鏡の男が隣の客の古トランクをすり替える現場を目撃した加賀美は、男を尾行して空襲の焼け跡と闇市が混在する街へ。男の奇妙な行動に隠された動機とは……「怪奇を抱く壁」。暗闇の中、被害者はいかにして射殺されたのか。地方出張中に遭遇した事件「霊魂の足」ほか、昭和二十一年、敗戦直後の混乱した世相を背景に発生した事件を、冷徹な観察と推理で解決していく加賀美敬介警視庁捜査一課長の活躍を描き、戦後探偵小説の幕開けを飾ったシリーズ全短篇を集成。関連エッセー二篇を併録。(粗筋紹介より引用)
 2021年10月、刊行。

 昭和20年1月6日、神田A町の坂場緑亭の主人である野田松太郎は、郡山の旅行先からそのまま姿を消した。妻のよし子に仙台から送った手紙には、片目の男に用心するようにと書かれてあった。1年後の1月7日、前触れもなく松太郎は緑亭に戻ってきた。一週間後の15日は緑亭の定休日。妻のよし子、女中の美代子、バーテンダーの飯島は外出し、残っていたのは松太郎と、白痴の弟竹二郎だけであった。午後三時、よし子と美代子が帰ってくると、二階で片目の男、橋本喬一が殺されていた。さらに竹二郎の部屋で、松太郎が遺書を書いて首を吊っていた。『ロック』(筑波書林)第6号(昭和21年12月)掲載。「緑亭の首吊男」。この格好いいエンディングは、加賀美が主人公ならでは。
 3月、上野駅地階のC食堂で、眼鏡の男が隣席に座っていたベロア帽の男の古トランクをすり替える現場を、同僚を迎えに来たまま待ちあぐんでいた加賀美は目撃した。加賀美はそのまま眼鏡の男を尾行すると、男は郵便局に入り、トランクの中身を小包にして、なんと加賀美宛に送ったのである。さらに歩き続けた男は喫茶店に入り、新聞の広告欄に赤線を引き、トランクを残したまま姿を消してしまった。加賀美に送られてきたのは、六十万円の紙幣だった。『旬刊ニュース』(東西出版社)第16号(昭和21年9月)掲載。「怪奇を抱く壁」。発端の謎が意外な方向に進み、事件を解決するプロットが巧い。
 加賀美はN県N市へ出張し、親友である泉野刑事課長を訪ねるも、泉野はF町にある花屋のマドモアゼルに行っていた。マドモアゼルは母親の大滝加代、長男の隆平、妹のマユミで平和に経営していたが、戦傷で両眼を失明した元大尉で弟の正春が、戦友で部下の服部吾一と石原門次郎を連れて帰ってきたたことから不穏な空気が漂う。それから一か月後、隣の空き部屋で服部が殺された。それが加賀美が来る一か月前の事だった。『宝石』(岩谷書店)昭和22年2・3月合併号~4月号連載。「霊魂の足」。泉野と加賀美の推理合戦が楽しい。論理で犯人を追い詰める醍醐味が見どころ。
 10月、加賀美は自分を狙った掏摸を秋葉原駅で捕まえる。その掏摸はある男に頼まれたという。その目的は、ポケットの中にあったスペードの三のカードであった。四日前に木挽町のタチバナホテルの二階で下宿代わりに住んでいた、元劇団座長として名前の知られた川野隆が部屋の中で撲殺された。元劇団員山西専造、元劇団員で甥の糸村和夫、宿泊客の男女は部屋の外の廊下で叫び声を聞いたが、鍵のかかった扉を後から駆け付けた支配人が開けるも、川野の死体しかなかった。半開きの窓から逃げるのは難しい。では犯人はどこから逃げたのか。しかも犯人は、凶器のブロンズ像の太い方を持って、細い方で殴りつけていた。さらに何も盗まれておらず、動機も見つからない。『新青年』(博文館)昭和23年11月号掲載。「Yの悲劇」。タイトルはバーナビイ・ロスの長編との関連からつけられている。不可能犯罪の謎解きが面白い。
 10月下旬、杉並区大宮(八幡宮)前の空襲を免れた一劃に建つ洋館で、資産家の須川正明が殺された。不思議なことに、死体の鼻下には墨汁で八の字髭が描かれていた。さらに死体の膝の上に置かれた京人形、そして亡妻と養女の写真にも髭が描かれていた。事件現場にいた正明の弟の唯雄は勘当後に満州ゴロをしており、終戦後に帰国したが、正明と亡き父の遺産の問題で争っていた。その夜、正明は養女の圭子と入籍し、遺産のすべてを圭子に渡す書類を作って、明日の朝には正式に法律的手続きを取る予定だった。しかし正明は、正明が別の人物と一緒にいたと訴える。その人物とは、正明の従弟の並木道太郎で、無頼漢仲間と付き合っている道楽者だった。『旬刊ニュース』第20号(昭和22年1月)掲載。「髭を描く鬼」。なぜ髭を残したのかという謎が面白い。ただそれ以外は今一つ。
 黄色い頭髪の夫人を求むという新聞広告が載って三日目の10月30日、中央線の大久保駅近くの柏木三丁目の焼野原で女性の他殺死体が発見された。殺されたのは前夜の前夜の八時前後。女は日本時には珍しい珍しい黄髪だった。しかし女性の身許は一向にわからなかった。『ロマンス』(ロマンス社)昭和22年2月号掲載。「黄髪の女」。戦後すぐの時代ならではの事件ともいえる。社会派に近い作品。
 12月2日、池袋駅近くにある馴染みのレストランで、加賀美は五人の子供を連れた夫婦が気にかかる。特に父親の言動はおかしかった。その三日後、武蔵野電車のN駅南の雑木林で、匕首で刺された父親の死体が発見された。被害者の胸元におかれたきんしの袋に、裏切り者を処刑すと書かれていた。『物語』(中部日本新聞社)昭和22年2月号掲載。「五人の子供」。これは人情物。涙無くしては読めない。
 加賀美のモデルであるメグレ警部について書かれたエッセイ。『真珠』(探偵公論社)昭和23年6月号掲載。「加賀美の帰国」。
 作家たちの自薦作を集めた特集企画に寄せたコメント。『別冊宝石』38号(昭和29年6月)掲載。「『怪奇を抱く壁』について」。

 戦後すぐの昭和21年春、角田喜久雄が発表の当てもなく書いた本格探偵小説『高木家の惨劇』で加賀美捜査一課長はデビューする。ただしこの作品が発表されるのは一年後であり、世に出たデビュー作は短編「怪奇を抱く壁」である。モデルとなったメグレ警部そのままに、ビール好きで寡黙な加賀美が事件の謎を解いていくのだが、その根底にあるのは戦後の混乱に対する怒りでもある。特に「黄髪の女」「五人の子供」は、他の作品のような謎解きではなく、その怒りの主張がストレートに出てきた作品である。
 本短編集は加賀美が登場する全短編を集めたものである。最近では『奇跡のボレロ』(国書刊行会)に全てまとめられていたが、そちらも手に入りにくくなっているので、このように手に取りやすい文庫で出版されるのはうれしい。
 トリッキーな作品も多く、本格探偵小説としても読みごたえがある。戦後すぐの時代背景が色濃く出ていて、若い読者にはピンと来ない部分があるかもしれないが、今読んでも十分に面白い。横溝正史や高木彬光、坂口安吾などの陰に隠れてしまった感はあるが、戦後の本格探偵小説ブームを支えた作者の傑作を堪能してみてはどうだろうか。
 自分で笑っちゃうのは、『奇跡のボレロ』を持っているのは確実なのだがいまだに読んでおらず、しかも部屋のどこにあるかわからないところだな。




渡辺啓助『空気男爵』(皆進社 《仮面・男爵・博士》叢書・第二巻)

 世間を騒がしている「空気男爵」は、的確な資料がほとんどない。国籍も判明していない。ニューヨークで悪名高かった黒十字(ブラッククロス)団の残党と何らかの繋がりがあるのではないかという噂は流れている。空気そのもののように何処にでもほしいまま出入し、これを見ることも掴まえることもできない。美女と宝石だけを専ら狙うのが「空気男爵」である。麻布笄町の裏通りにある探偵事務所の所長である白晳痩身の美男子で大学院での秀才蒼木麟五郎と、大学出の美女アシスタント香月鮎子は空気男爵絡みの事件に巻き込まれる。
 帰り道で元芸人の怪力男ヘンリー俵田に尾け回されるも、なんとか逃げ来た鮎子。俵田は空気男爵の一味なのか。しかし実際に狙われていたのは、鮎子の姉であるプリマドンナの千江子であった。「第一話 空気男爵と隙間風侯爵」。
 明日は上野のルーヴル展に出かける約束をした麟五郎と鮎子。そこへ飛び込んできた男は「一服盛られた、ルーヴル二二一」という言葉を残し、死んでしまった。「第二話 聖骨筐の秘密」。
 新興宗教教祖五味玄海の二号と言われている木下ミキより、教祖が南方から連れ帰ってくる美人の女弟子がどんな野心を持っているのか調べてほしいという依頼を受け、麟五郎と鮎子は羽田空港に向かったが、教祖は一人きりだった。しかし先に降りていたグループの中に居たのはデザイナーの丹間妙子。しかも豪勢な首飾りを付けていた。空気男爵が狙うのではないか。「第三話 お嬢様お手をどうぞ」。
 鮎子は元財閥の大番頭だった蛭宮勘三郎老人に電話で呼び出され、麻布十番の屋敷に出かけたが誰も出ない。扉の鍵穴から覗くと、誰かがいる。もしかしたら空気男爵ではないか。慌てて事務所に戻り、麟五郎と一緒に屋敷へ行くと、老人が絞殺されていた。空気男爵と付き合っているとの噂がある、老人の戦死した息子の妾である美人の染川シノが何か知っているのかも。「第四話 シャム猫夫人」。
 サンドイッチウーマンが掲げていたのは、女性への唐手指南のプラカード。青年が尾けていたことを知り、女は慌てて四階建てのビルへ逃げ込んだ。追いかけてきた青年が4階の共楽商事を訪ねると、出てきたのは中年男。ピストルで男を脅した青年は、隣の部屋の鍵を受け取り、中へ入っていくも逆にやられてしまった。女は実は、麟五郎の命を受けた鮎子だった。「第五話 女唐手綺譚」。
 探偵事務所を訪れた染ヶ井仙助は、去年の洞爺丸の沈没で亡くなったはずの桂木美容子が、東京の街を歩いていると訴えた。仙助と一緒に外へ出た鮎子は、三十分前に美容子の幽霊が映画館に入ったと聞かされ、一緒に入ってみると、確かに写真と同じ美人がいる。鮎子は、連れの中年男と一緒に出ていった美容子の後を尾けるが。「第六話 美女解体」。
 かつての名門が持っている軽井沢の別荘から一週間前、古い肖像画が盗まれた。しかし名画でも何でもない。依頼を受けた麟五郎の命を受け、鮎子は一人で別荘に向かうこととなった。夜行列車の中で同席した婦人客から、空気男爵が軽井沢で一稼ぎしているという噂を聞く。肖像画を盗んだのももしかしたら。「第七話 女空気男爵」。
 昼前に事務所へやってきた穴塚千里夫は、見合いで結婚した美人の妻が残虐趣味を持っており、虫から犬猫、ついには列車からの転落事故に見せかけて人間も殺してしまったと話す。これ以上罪を犯す前に、自分が殺そうと思ったが、警察にばれずにどうやればいいか教えてほしいと、麟五郎に訴えてきた。さすがに依頼は断ったが、気にかかった鮎子は穴塚家に忍び込む。「第八話 吸血夫人の寝室」。
 他に短編「死相の予言者」「魔女とアルバイト」「胴切り師」「素人でも殺せます」を収録。
 2022年6月刊行。

 秋田の皆進社から出版された《仮面・男爵・博士》叢書・第二巻。《仮面・男爵・博士》叢書とは、通俗探偵小説における悪の象徴の中でも「仮面・男爵・博士」と呼ばれる人物にスポットライトを当ててみたとのこと。「「推理小説」の時代が到来する前夜に発表された作品を中心に、日本ミステリ史の上で振り返られることなく忘れ去られた通俗探偵小説の中から、楽しんでいただける作品を精選した」とのことなので、楽しみにしている。
 第二巻は「薔薇と悪魔の詩人」渡辺啓助の『空気男爵』。『探偵倶楽部』1955年1月号~12月号に断続掲載され、1957年に『空気男爵』のタイトルで出版された。第一話だけ他の二倍の長さがあり、雑誌には「長篇読切」と書かれていたことから、解説の横井司は第一話を読んだ編集部がシリーズ化を依頼したのではないかと推測している。恐らくそうだろう。
 「空気男爵」とは空気のような存在で、美女と宝石に目がないというのだが、実物がどんな人物なのかはさっぱりわからない。探偵事務所の青木麟五郎と助手の香月鮎子が実質的な主役ではあるが、空気男爵の正体は実は……と鮎子は疑っている設定。確かに読んでみると、よくある怪盗ものとはちょっと毛色の違った設定にはなっているのだが、作者がどこまでそれを意識していたかはわからない。まあ通俗雑誌に連載されていたということもあり、細かいところの矛盾などは気にしない方がいい。「あれ、いつの間に」とか「どこからそれを」みたいなことが出てくるが、それも考えちゃだめだ(苦笑)。逆に渡辺啓助がこのような作品を書いていたとは全く知らず、意外であったという印象の方が強い。
 他に収録されている短編は4本。「死相の予言者」はシリーズ探偵・一本木万助シリーズの一編。首のない死体ものであるが、作者の料理の仕方が面白い。「魔女とアルバイト」は、水道実態調査員のアルバイトである学生が未亡人に誘われ関係を持つも、目を覚ますと女が殺されていたという話。結末があっけなく、前半の妖しいムードと比較すると物足りない。「胴切り師」は、かつての人気奇術師がストリップショーの踊り子に夢中となるが、ひょんなことから舞台で踊り子の胴を斬る奇術を披露する舞台に復活する話。これはエロスと残酷美と偏愛が異様なムードを漂わせた傑作。本巻のベストで、これが今まで単行本未収録だったとは信じられない。「素人でも殺せます」は、アメリカへ行くお金を貯めようとする幼妻に締め付けられている夫が、息抜きにかつて付き合っていた女のところへ行くが事件に巻き込まれる話。悪女というよりはドライな若妻だが、昭和30年代のサラリーマン小説にありそうな一編である。

 さて第三巻は「博士」。候補がありすぎて逆に予想つかないが、意外な通俗小説を取り上げてくれるのだろうと思うと、今からワクワクしている。




エドゥアルド・トポール、フリードリヒ・ニェズナンスキイ『赤の広場―ブレジネフ最後の賭け』(中央公論社)

 ブレジネフの義弟でKGB第一次官のツヴィグーンが変死、ブレジネフ本人から極秘裡に真相究明を命じられた主人公は、事件の背後に恐るべき陰謀を嗅ぎつけるが……亡命検事が初めてクレムリンの暗闘と上流階級の腐敗を暴く戦慄のファクション(Fact + Fiction)。(帯より引用)
 1983年4月、邦訳刊行。

 単行本に付された著者紹介によると、作者のエドゥアルド・トポールは1938年生まれのシナリオライター、ジャーナリスト。1977年の映画『青春のあやまち』(レンフィルム)が公開禁止になったため、創作の自由を求めて78年に亡命し、執筆時点ではニューヨーク在住。フリードリヒ・ニェズナンスキイは1932年生まれ。モスクワ法科大学卒業後、25年間司法各機関で働き、うち15年はソ連邦検察庁で捜査検事を勤める。約10年間、モスクワ市弁護士会員。77年にソ連の現体制に抗議して亡命し、執筆時点ではニューヨーク在住。
 訳者あとがきによると、ロシア語のタイプ原稿を翻訳したとのことでロシア語版はまだ発表されていない。ロシア語原稿のあとがきによると、主人公であるソ連邦検察庁特別重要事件捜査検事イーゴリ・シャムラーエフの捜査ノートを、ブレジネフ番の新聞記者ベールキン(こちらも作品内の登場人物)が「文学作品」としてまとめたと書かれており、それをトポールとニェズナンスキイの二人の名前で発表するという構成になっている。
 トポールとニェズナンスキイは同年、『消えたクレムリン記者 赤い麻薬組織の罠』という作品が中央公論社から出版されている。さらにニェズナンスキイ単独作品の『「ファウスト」作戦 書記長暗殺計画』という作品が1987年に中央公論社から出版されている。
 表題の脇に、1982年1月19日から2月3日までの間にあやうく起きるところだったクレムリンのクーデターについての推理小説と書かれている。ソ連国家元首であるレオニード・イリーチ・ブレジネフの義弟でKGB(ソ連邦国家保安委員会)第一次官ツヴィクーンが1982年1月19日、ピストル自殺を図ったというのは実話である。ブレジネフのほかにもアンドローポフ、チェルネンコなどの実在人物が多数登場。おそらくほとんどが実在人物なのだろう。1982年1月といえば、25日に事実上のナンバー2であるミハイル・アンドレーエヴィチ・スースロフも病死している。そしてブレジネフ自身も11月10日に病死している。本書で書かれた陰謀がどこまで事実かはわからないが、似たようなことがあったとしてもおかしくはない。
 登場人物が多いし、名前もわかりにくい。特にロシア人の姓名は名、父称、姓の順番となっており、親しい間柄では名の愛称形、「~さん」と呼ぶような間柄では名と父称、公的では姓を使うという。そのため作品の中で同じ人物でも読み方が違ってくるので、理解するのに時間がかかってしまう。赤い栞に主要登場人物が書かれているので助かった。出版当時に読んでいればもっと面白かったのだろうが、さすがにソ連が崩壊した今読むとピンと来ないところがある。それでも当時のソ連の国内事情が詳しくわかって面白い。ソ連という国をリアルに知らない若い世代には、ちょっととっつき難いだろうとは思う。
 時代という鏡に映し出されたような作品。たまにはこういう作品を読むのも面白かった。




瑞佐富郎『プロレス鎮魂曲(レクイエム) リングに生き散っていった23人のレスラーその死の真相』(standards)

 プロレスに生き、プロレスに死んでいった男たち。その壮絶な生涯を鮮烈に描き出す23の墓碑銘<エピタフ>。三沢光晴、橋本真也、ダイナマイト・キッド、ビッグバン・ベイダー、マサ斎藤、ジャンボ鶴田、ジャイアント馬場、ハーリー・レイス……。平成~令和の時代に燃え尽きていった偉大なるレスラーたち、その凄絶な生き方と死へ立ち向かうドラマを描き出す、至高のプロレス・ノンフィクション。(粗筋紹介より引用)
 2019年9月、刊行。

 名プロレスラー23人の、亡くなるまでのエピソードをまとめた一冊。取り上げられたのはブルーザー・ブロディ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、冬木弘道、橋本真也、バッドニュース・アレン、三沢光晴、ラッシャー木村、山本小鉄、星野勘太郎、上田馬之助、ビル・ロビンソン、ハヤブサ、永源遥、ミスター・ポーゴ、ビッグバン・ベイダー、マサ斎藤、輪島大士、ダイナマイト・キッド、ザ・デストロイヤー、ハーリー・レイス、ウィリー・ウィリアムスの23名。
 「死の真相」という副題がついているが、単に各レスラーのなくなるまでのエピソードを短い伝記風にまとめたものである。そもそも、死亡についての疑惑があるわけでもなく、隠された部分があったわけでもない。副題のつけ方には問題があるだろう。
 各プロレスラーのエピソードは、どこかで読んだものが多い。それも功罪の「功」のエピソードばかり。まあ、各レスラーの負の部分を書かなかったことは評価してもいいと思う。昔テレビでプロレスを見ていて離れた人、最近プロレスを見始めた人、などにとっては、名レスラーがどんな人だったのかをとりあえず読める一冊だとは思う。感動の押し売りみたいな書き方には、ちょっと辟易するかもしれないが。その代わり、各レスラーの詳細についてはほとんど記されていないので、詳しく知りたいと思う人はネットで検索するなり、他の本や自伝などを調べなければならない。プロレスマニアにとっては物足りないこと間違いなしなので、手に取る必要はない。
 この手の本で、永源遥とか輪島大士が取り上げられたのは珍しいかもしれない。いつの間にか亡くなっていたとか、亡くなるまで何をしていたんだろうというレスラーは他にも大勢いるので、そういう人を取り上げた本を読んでみたいものだ。
 この本の重大な問題は、誤字脱字が多すぎること。誰かが見直そうとはしなかったのかと問い詰めたいぐらい。ウィリー・ウィリアムスの亡くなった日と年齢が全然違うというのは特に大問題だろう。しかもブロディのところからコピペしたのが見え見え。そういう意味でも、お手軽に切り貼りして作ったのだろうなという感がある。




ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)

 高校生のピップは、友人のコナーから失踪した兄の行方を捜してくれと依頼される。兄のジェイミーは、2週間ほど前から様子がおかしかったらしい。コナーの希望で、ピップはポッドキャストで調査の進捗を配信し、リスナーから手がかりを集めていく。関係者へのインタビューやSNSなども丹念に調べることで、少しずつ明らかになっていく、失踪までのジェイミーの行動。ピップの類まれな推理が、事件の恐るべき真相を暴きだす。年末ミステリランキング第1位『自由研究には向かない殺人』続編。この衝撃の結末を、どうか見逃さないでください!(粗筋紹介より引用)
 2020年、発表。2022年7月、邦訳刊行。

 イギリスの小さな町にあるリトル・キルトン・グラマースクールの最上級生であるピッパ(ピップ)・フィッツ=アモービを主人公にした三部作の二作目。前作『自由研究には向かない殺人』から数か月経った4月から物語は始まる。
 友人であるコナー・レノルズの兄、ジェイミーが失踪し、コナーはピップに行方を探して欲しいと依頼する。前作で自分だけでなく周囲も傷つける結果となったことから、一度はピップも断る。しかし事件性がないことから警察は取り合ってくれないし、ピップがホーキンス警部補に頼んでもだめだった。仕方なくピップは、ポッドキャスト「グッドガールの殺人ガイド」を通し、手掛かりを集めていく。
 まあ誰もが書くだろうが、最初から前作の真相が書かれているので、必ず『自由研究には向かない殺人』を読んでから本作を読むこと。ミステリでそれはないだろうと言いたいところだが、このネタバレがないと物語としては弱くなってしまうし、作者が描こうとする姿には欠かせない部分であるため、仕方のないところである。
 前半は地味な展開が続くけれど、ポッドキャストなどのSNSを通すという形が意外といいアクセントになっていて、読んでいても飽きが来ない。ただ、捜査はなかなか進展せず、もどかしさも残る。ところが終盤になって展開が予想外の方向に進み、事件の恐るべき真相が浮き彫りになってくる。これはお見事。いやあ、驚いた。読み返してみると、ここに伏線が張ってあったのかと気付かされ、さらに感心した。
 元々ジュブナイルとして書かれたこともあってだろうが、青春物語としても、成長物語としても読むことができる。大人の汚い一面も見せられるし、社会の厳しい視線も浴びせられる。それでも立ち向かおうとするピップの強さはいったいどこにあるのだろう。
 事件こそ解決されるが、ピップがどう成長するのか、非常に気になってしまう。三作目が待ち遠しい。前作込みで読むこと、という条件付きで傑作だと思う。前作より断然面白い。そして次作が待ち遠しい。三部作すべてを読んで、また評価が変わってしまうのかもしれないが。




坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)

 大阪の与力の跡取りとして生まれた志方錬一郎は、明治維新で家が没落し、商家へ奉公していた。時は明治10年、西南戦争が勃発。武功をたてれば士官の道も開けると考えた錬一郎は、生きこんで戦へ参加することに。しかし、彼を待っていたのは、落ちこぼれの士族ばかりが集まる部隊だった――。松本清張賞受賞作。(粗筋紹介より引用)
 2019年、『明治大阪へぼ侍 西南戦役遊撃壮兵実記』のタイトルで第26回松本清張賞受賞。同年7月、『へぼ侍』と改題して文藝春秋より単行本刊行。同年、第9回日本歴史時代作家協会賞新人賞受賞。加筆修正のうえ、2021年6月、文庫化。

 『インビジブル』が面白かったのでデビュー作を手に取ってみた。
 志方家は三河以来の徳川家臣で、大坂東町奉行所与力として数代前から土着するとともに、剣術指南の道場を営んできた。しかし主人公の志方錬一郎の父、英之進は鳥羽伏見の戦いに身を散らし、明治維新で生活が困窮。交流の深い薬問屋・山城屋の主人・久左衛門が手を差し伸べ、錬一郎は部屋住みの丁稚として引き取られた。暇さえあれば木刀を振り回していることから、三歳下の娘の時子からはへぼ侍と呼ばれる。10年後、錬一郎は手代に引き立てられた。その翌年、西南戦争が勃発。仕官して家を再興しようと考えた錬一郎は満17歳で官軍に潜り込むも、そこは落ちこぼれと厄介者の集まりだった。
 自称歴戦の勇者だが、賭け好きで借金取りに追われる松岡。鉄砲よりも包丁を持って料理する方が得意な沢良木。元勘定方で今はそろばんの腕を活かして銀行員になっているも、妻からは仕官しなかったことを責められて見返そうとする三木。一筋縄ではいかない仲間である。それにしても、三木の妻の考え方が当時を映し出していて面白い。
 戦闘シーンばかりでなく、彼らの日常が面白い。給料をもらっては博打に明け暮れる松岡。現地で食材を調達しては料理をふるまう沢良木。得意の算盤の腕を活かす三木。喧嘩をしたり、酒を飲んだり、時には遊女を買ったり。情報収集に頭を使う錬一郎の策については、清張作品を思い出させるところが憎い。
 実在の人物が錬一郎に影響を与えているところもうまい。新聞記者の犬養仙次郎(毅)、軍医の手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)である。他にも乃木希典などが登場する。ここでこんな人が出てくるんだ、という驚きも提供してくれる。
 西南戦争は武家の時代の終わりを告げるものだった。落ちこぼれの士族たちを通し、当時の時代や風景、世情が丹念に描かれているところに巧さを感じる。作者は調べたことを自ら咀嚼し、物語に溶け込ますことに長けている。そして最後は、主人公たちの成長物語として幕を閉じる。この余韻が美しい。
 結論として、面白い小説だった。その一言に尽きる。作者はデビュー作から巧い作家だった。四作目が非常に楽しみだ。




ジョン・ハート『ラスト・チャイルド』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 少年ジョニーの人生はある事件を境に一変した。優しい両親と瓜二つのふたごの妹アリッサと平穏に暮らす幸福の日々が、妹の誘拐によって突如失われたのだ。事件後まもなく父が謎の失踪を遂げ、母は薬物に溺れるように……。少年の家族は完全に崩壊した。だが彼はくじけない。家族の再生をただひたすら信じ、親友と共に妹の行方を探し続ける――アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞、英国推理作家協会賞最優秀スリラー賞受賞。(上巻粗筋紹介より引用)
 「あの子を見つけた」大怪我を負った男はジョニーに告げた。「やつが戻ってくる。逃げろ」少年は全速力で駆けた。男の正体は分からない。だがきっと妹を発見したのだ。アリッサは生きているのだ。ジョニーはそう確信する。一方、刑事ハントは事件への関与が疑われる巨体の脱獄囚を追っていた。この巨人の周辺からは、数々の死体が……。ミステリ界の新帝王が放つ傑作長篇。早川書房創立65周年&ハヤカワ文庫40周年記念作品。(下巻粗筋紹介より引用)
 2009年、発表。ジョン・ハートの第三長編。2010年4月、邦訳がポケットミステリとミステリ文庫の双方から刊行。

 13歳のジョニーが、一年前に失踪した双子の妹アリッサを探す物語。簡単に言うとそれだけになってしまうのだが、家庭崩壊や親友との繋がり、さらに事件解決に執念を燃やす刑事に脱獄囚などが色々と話に絡み、物語は膨らんでいく。
 個人的にはジョニーの視点だけにしてほしかったと思うのだが、ハントの視点がないと事件の背景などが語られないところも多く、難しいところ。ただハントの視点はもう少し減らしてほしかったかな。せっかくのジョニーの物語が、所々で分断されてしまった感がある。
 ただ書き方はシンプルで、素直に物語に没頭することができた。単純な事件に見えたが、予想以上に話が広がっていくところは面白い。ただもう少しテンポよく、話が進展できなかったのだろうか。読んでいてもどかしいところが多かった。
 ミステリというよりは、普通小説に近い気がする。面白かったけれど、個人的には絶賛とまではいかなかった。




青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』(双葉文庫)

 昔ばなしが、まさかのミステリに! 「浦島太郎」や「鶴の恩返し」といった皆さまご存じの<日本昔ばなし>を、密室やアリバイ、ダイイングメッセージといったミステリのテーマで読み解いたまったく新しいミステリ。「え! なんでこうなるの?」「なんと、この人が……」と驚き連続の5編を収録。数々の年間ミステリにランクイン&本屋大賞ノミネートを果たした話題作、待望の文庫化。(粗筋紹介より引用)
 2019年4月、双葉社より単行本刊行。2021年9月、文庫化。

 右大臣の庶子、冬吉が殺された。容疑者は右大臣の娘、春姫と婚約した堀川少将こと一寸法師。しかし冬吉が殺された時間、一寸法師は鬼の腹の中にいた。「一寸法師の不在証明」。
 枯れ木に花を咲かせた花咲か爺さんは、新たに次郎という白い犬を拾ってきた。それから4日後の朝、丘の上で爺さんは殺された。皆から好かれていた爺さんを誰が殺したのか。「花咲か死者伝言」。
 弥兵衛は借金を返せと迫ってきた庄屋を殺し、死体を襖の向こうに隠した。弥兵衛の前に現れたつうは、恩返しと称して反物を織り始める。つうは織っているところを覗かないでくれと頼み、弥兵衛は襖を開けて中を覗くなと言った。「つるの倒叙がえし」。
 亀を助けた浦島太郎は竜宮城で歓待される。乙姫の膝枕で浦島太郎が寝て三刻後、冬の間でおいせが昆布で首を絞められ殺された。しかし唯一の出入り口の襖には中からかんぬきが掛けられ、窓には珊瑚がびっしりと張り付いて入ることはできなかった。すなわち、冬の間は密室だった。亀から頼まれた浦島太郎が謎を解く。「密室龍宮城」。
 桃太郎に退治され、わずかに生き残った鬼たちが子をつくり、今の鬼が島には十三頭の鬼がいた。青鬼の鬼茂が殺され、喧嘩をしていた赤鬼の鬼太に容疑が掛けられる。鬼太は縛られて蔵に閉じ込められるが、また別の鬼が殺されて……。「絶海の鬼ヶ島」。

 有名な日本の昔話をミステリに落とし込んだ短編集。解説の今村昌弘が語る通り、誰もが知っている昔話を持ち込むことで、特殊設定のミステリに必要不可欠な設定の説明を飛ばしてしまうことができるのは大きい。おまけに登場人物もよく知っている人ばかりなので、こちらも要点だけ説明すればおしまい。アイディアの勝利としか言いようがない。
 第一話はアリバイ崩し、第二話はフーダニット、第三話は倒叙もの、第四話は密室殺人、第五話はクローズド・サークルの連続殺人。第一話、第二話と特殊設定とはいえ本格ミステリの王道みたいな作品ではあったが、第三話は思いっきり変化球。さすがに一筋縄ではいかない。第四話はがちがちの本格ミステリ。トリックとロジックと特殊設定が絡み合った傑作。第五話は『そして誰もいなくなった』ばりの孤島内での連続殺人。いや、連続殺鬼か。これまたひねりが入っていて面白い。
 とはいえ、これ一冊でお腹いっぱいという気にはなった。これ以上書かれても二番煎じにしか思えないが、やっぱり続編は書かれている。本作は面白かったが、これ以上を読む気には今のところならない。



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