結城昌治『幻の殺意/夜が暗いように』(創元推理文庫 日本ハードボイルド全集第5巻)

〈日本ハードボイルド全集〉第四巻では、直木賞作家・結城昌治を特集する。高校生の息子が殺人の罪で逮捕された――平凡な会社員・田代家庭に突如降りかかった悲劇の顛末を描く忘れがたき傑作長編「幻の殺意」と九つの短編――私立探偵・真木シリーズの「霧が流れた」「風が過ぎた」「夜が暗いように」、さらに佐久&久里や紺野弁護士などのシリーズキャラクターものやノンシリーズの秀作に至るまで――を収録。結城の作家活動において終生大きな柱であった、ハードボイルド小説での多彩な成果を一望する。巻末エッセイ=志水辰夫/解説=霜月蒼。(粗筋紹介より引用)
 2022年7月刊行。

 第五巻は結城昌治。日本ハードボイルドの傑作、『暗い落日』などの真木シリーズが有名だが、他にも日本スパイ小説の代表作ともいえる『ゴメスの名はゴメス』やユーモアミステリ『ひげのある男たち』、直木賞受賞作の戦争もの『軍機はためく下に』、悪徳警察小説『夜の終る時』、伝記小説『志ん生一代』などの作品もあるので、ある意味器用な作家というイメージが私には強い。
 真木シリーズや佐久&久里は知っていたが、他にも本作に収録されている紺野弁護士、また私立探偵流木のシリーズもあったと知ってちょっと驚いた。作者のことばによると行き詰まってとのことだが、それが逆に結城昌治へのハードボイルドのイメージを希釈させてしまう結果となってしまったのではないだろうか。中心軸にあることは間違いないが、様々な衣をまとってしまっており、その真の姿が見えにくくなっているのかもしれない。
 収録作品の『幻の殺意』は再読。かなり昔に呼んだ作品だが、読み返すと覚えているところも多いから不思議だ。避けられなかった家庭の崩壊という悲劇に泣きながらも、一筋の光に救いが有る佳作。
 「霧が流れた」「風が過ぎた」「夜が暗いように」は真木シリーズの全短編。やはりこのシリーズが最も傑作だったと思ってしまう。
 「死んだ依頼人」「遠慮した身代金」はクール&ラムシリーズを彷彿させるユーモアハードボイルド、佐久&久里シリーズの短編。これだけでも悪くないが、やっぱりまとめて読んだ方が楽しい。特に郷原部長刑事と佐久のやり取りは笑える。
 「風の嗚咽」「きたない仕事」は紺野弁護士シリーズの短編。似たような作品が並んでしまったので、一編は別の作品を選んだ方がよかったんじゃないだろうか。
 「すべてを賭けて」はノンシリーズの短編。ちょいとインパクトは弱いか。
 「バラの耳飾り」は結城昌治最後の傑作である連作短編集『エリ子、十六歳の夏』の第一話。これもまとめて読んだ方が、より深みが増す一作である。




阿津川辰海『録音された誘拐』(光文社)

 大野探偵事務所の所長・大野糺が誘拐された!? 耳が良いのがとりえの助手・山口美々香は様々な手掛かりから、微妙な違和感を聞き逃さず真実に迫るが、その裏には15年前のある事件の影があった。誘拐犯VS.探偵たちの息詰まる攻防、二転三転する真相の行方は……。どんでん返しに次ぐ、どんでん返し! 新世代本格の旗手が描く今年最大の逆転ミステリー開幕。 本当に騙されていたのは誰だ?(帯より引用)
 2022年8月、書下ろし刊行。

 短編集『透明人間は密室に潜む』に収録されている「盗聴された殺人」に登場する大野糺、山口美々香のコンビが長編で登場。しかし大野糺が誘拐されてしまうので、前作のユーモアたっぷりの二人の掛け合いは残念ながら見られず。あの雰囲気を長編にしてほしかったので、今回の設定は非常に残念。作者があとがきで書いている通り、本当にひねくれている。
 作中にもあるけれど、今時誘拐なんて珍しい。それも成人男性の誘拐。普通に考えれば誘拐が成功するわけがないのに、犯人はあの手この手で仕掛けてくる。一方、たまたま大野家に来ていた山口美々香は、全ての音を手掛かりに真相に迫る。事件の真相は、15年前の誘拐事件に隠されていた。
 誘拐を巡るやり取りはいろいろ考えられていて、読んでいて面白い。また真相に至るまでも色々と仕掛けが施してあり、読者を翻弄する。ただ、ここで止めておけばよかったんじゃないか。誘拐だけで充分物語は成り立っていただろう。もう一つのサイドストーリーは、はっきり言って不要。これがあるため、印象が散漫になってしまうし、本来の謎解きがぼやけてしまっている。逆の言い方をすると、テーマを詰め込みすぎ。ただでさえ誘拐のストーリーで色々と詰め込んでいるのに、勿体ない。誘拐ミステリの新機軸となるところだったのに。
 こういう重いやり取りではなく、もっと軽妙なミステリをこのコンビで読んでみたかった。自分の勝手な思いだが、期待外れで残念。




板野博行『眠れないほどおもしろいやばい文豪:こうして生まれたあの名作』(三笠書房 王様文庫)

 いくら天才作家だからって、ここまでやって、いいものか――。ある者は女に走り、薬に逃げ、ある者は泥酔して殴り合い、借金を踏み倒す。挙句の果てに自殺や心中など、わがまま放題……。天才作家たちの破れかぶれな生き方、作品の魅力、時代背景がわかる本!(折り返しより引用)
 2020年7月、王様文庫より刊行。

1章 「天才」って、ホントつらいんですよ
 太宰治、三島由紀夫、川端康成、芥川龍之介、中原中也、森鴎外、萩原朔太郎、梶井基次郎
2章 「愛欲生活」すなわち「文章修行」
 谷崎潤一郎、永井荷風、与謝野晶子、北原白秋、田山花袋、島崎藤村、檀一雄、岡本かの子
3章 「金の苦労」が、あの名作を生んだ!
 石川啄木、直木三十五、夏目漱石、室生犀星、織田作之助、樋口一葉、種田山頭火
4章 「ピュアすぎる」のも考えもの
 有島武郎、泉鏡花、高村光太郎、宮沢賢治、武者小路実篤、中島敦、坂口安吾
5章 「変人たちのボス」はやっぱり変人
 尾崎紅葉、菊池寛、志賀直哉、佐藤春夫、正岡子規、寺山修司

 明治以降の文豪の「ヤバさ」を集めたような一冊。まあ、変人だからあんな小説や詩や歌を書けたのだろう、というところだろうか。ゴシップまとめみたいにはなっているのだけれども、文豪の人となり、そして作品の背景を知るにはわかりやすい。生真面目すぎる評論よりはずっと面白い。今だったらこんな人たち、社会から受け入れられないのだろうなと思ってしまうと、ちょっと悲しくなるところもあるが。
 こういう本から、その作者が書いた小説や詩や歌に触れてみたくなる、という点ではできた一冊だと思う。シリーズの他の本も読んでみたくなった。




相沢沙呼『invert II 覗き窓の死角』(講談社)

 嵐の山荘に潜む若き犯罪者。そして翡翠をアリバイ証人に仕立て上げる写真家。犯人たちが仕掛けた巧妙なトリックに対するのは、すべてを見通す城塚翡翠。だが、挑むような表情の翡翠の目には涙が浮かぶ。その理由とは――。ミステリランキング5冠『medium 霊媒探偵城塚翡翠』、発売即重版10万部『invert 城塚翡翠倒叙集』に続く待望の第3作目。犯人視点で描かれる倒叙ミステリの金字塔!(粗筋紹介より引用)
 『小説現代』2021年9月号掲載「生者の言伝」と書下ろし「覗き窓(ファインダー)の死角」を収録。2022年9月、単行本刊行。

 誰もいない沖原一家の別荘へ忍び込んだ15歳の夏木蒼汰。友人である悠斗から鍵の位置を聞いていたので、勝手に入って使っていたのだ。台風の日、目を覚ますと悠斗の母親が殺されており、凶器のナイフを蒼汰が握っていた。焦って証拠を隠しているところに、車が故障した城塚翡翠と千和崎真が助けを求めに来た。「生者の言伝」。
 女性カメラマンの江刺詢子は、仕事場の近くにある喫茶店で城塚翡翠と知り合う。同じミステリファンである二人は、友人となった。詢子は復讐のため、フリーランスモデルの藤島花音を殺害する計画を立てる。アリバイの証人に選んだのは、翡翠だった。「覗き窓(ファインダー)の死角」。
 本のタイトル通り、倒叙推理小説シリーズの第二弾。中編二本を収録。
 「生者の言伝」は綺麗なお姉さんたちが、何も知らない少年を弄ぶ話(苦笑)。まあそれは半分冗談として、ミステリファンの読者ならほぼ想像がつく流れと展開。雑誌で読むには手ごろな一編である。
 「覗き窓の死角」は城塚翡翠にせっかくできた友人を追い詰める話。詢子のアリバイトリックは既知の物の応用であり、それほど難しいものではない。この作品の目玉は、あの翡翠に友人ができてフワフワするところ。
 本作品集は、倒叙ミステリとしての仕掛けもトリックも、前作までと比べるとかなり弱い。しかしそれを上回るのは、城塚翡翠に人間味を持たせた部分。そういう意味で、面白く読める一冊に仕上がっている。これで次作はまた少し、雰囲気の違った作品が読めるかな。
 ドラマ『霊媒探偵・城塚翡翠』のサイトを見ると、原作は『medium 霊媒探偵城塚翡翠』となっているのだが、本作の2編はドラマ化に合わせて書かれたとしか思えない。どちらも映像にしやすそうで、話としても盛り上がりそう。ちょっとしたサービスシーンもあるし(笑)。




ピーター・スワンソン『そしてミランダを殺す』(創元推理文庫)

 ある日、ヒースロー空港のバーで、離陸までの時間をつぶしていたテッドは、見知らぬ美女リリーに声を掛けられる。彼は酔った勢いで、1週間前に妻のミランダの浮気を知ったことを話し、冗談半分で「妻を殺したい」と漏らす。話を聞いたリリーは、ミランダは殺されて当然と断じ、殺人を正当化する独自の理論を展開してテッドの妻殺害への協力を申し出る。だがふたりの殺人計画が具体化され、決行の日が近づいたとき、予想外の事件が起こり……。男女4人のモノローグで、殺す者と殺される者、追う者と追われる者の攻防が語られる鮮烈な傑作犯罪小説。(粗筋紹介より引用)
 2015年、アメリカで発表。作者の第2長編。同年、英国推理作家協会(CWA)賞のイアン・フレミング・スチールダガー部門最終候補に残る。2018年2月、邦訳刊行。

 評判がよかったので手に取ってみることにした。
 ストーリーそのものは実に単純。実業家で裕福なテッド・セヴァーソンは新築を建てることにしたが、妻のミランダが工事業者のブラッド・ダゲットと浮気をしているところを目撃してしまった。テッドは空港のバーで声を掛けてきた大学の文書保管員であるリリー・キントナーにそのことを話し、妻を殺したいと告げる。するとリリーはミランダを殺すべきと話し、殺人計画に協力する。しかし決行の日が近づいたときに事件が起こる。陳腐な話と言ってもいいだろう。ところが読んでいて目を離せなくなるのだから、作者の料理の仕方がうますぎる。
 三部仕立てになっており、どの部も二人のモノローグで話が進んでいく。登場人物がエキセントリックな人たちばかりであり、特にリリーの性格と過去は強烈だ。それでもリリーという人物に不快感を抱かせないのは見事。
 陳腐な話なのだが、読んでいくうちに先が気になって仕方がなくなる。ただ第一部、第二部と比較すると、第三部の進み方はちょっと残念。もっと別のやり方があったのではないかと思ってしまうのだが。それでも十分に楽しめた。
 特に大掛かりな仕掛けがあるわけでもなく、派手なドラマがあるわけでもないのに、目が離せない。絶賛されるのがわかるサスペンスであった。




有栖川有栖『妃は船を沈める』(光文社)

 所有者の願い事を3つだけ、かなえてくれる「猿の手」。“妃”と綽名される女と、彼女のまわりに集う男たち。危うく震える不穏な揺り篭に抱かれて、彼らの船はどこへ向かうのだろう。―何を願って眠るのだろう。臨床犯罪学者・火村英生が挑む、倫理と論理が奇妙にねじれた難事件。(帯より引用)
 『ジャーロ』2005年秋号に掲載された中編「猿の左手」と、それに出てくる登場人物の後日談という形で、『ジャーロ』2008年冬号、春号に掲載された「残酷な揺り篭」を合わせ、間に「幕間」を書き足して、2008年7月、光文社より単行本刊行。

 火村シリーズの一作だが、作者の冒頭の「はしがき」にある通り、「第一部 猿の左手」と「幕間」、そして「第二部 残酷な揺り篭」という構成になっている。主人公は、生保レディ時代に億を稼ぎ、それを投資につぎ込んで莫大な財産を築いた三松妃沙子。「猿の左手」では、若い男の子達を取り巻きにするとともに、潤一という22歳の専門学校生を養子にしている。事件は、借金を重ねていた男性社長が車で海に飛び込んで死亡。1億円の保険金もあるので他殺の可能性もあったが、妻はアリバイがあり、3,900万円を貸していた妃沙子は足が悪くて車椅子生活。そして潤一は子供のころの体験が原因で水恐怖症であり泳ぐことができない。やはり自殺か事故か。妃沙子は「猿の手」と称するミイラを持っており、アリスが名作「猿の手」のストーリーを火村に話すと、それをヒントに事件を解決する。「残酷な揺り篭」は2年半後、妃沙子はテナントビル経営者の設楽明成と結婚していた。大阪北部地震発生時、夫婦はお歳暮で贈られてきた睡眠薬入りのワインを飲んで寝ていた。そして離れにかつて同居してた若い男性が至近距離から射殺された。その離れは鍵がかかっていた。
 「猿の左手」は本文中にもある通り、「荒木虎美3億円保険金殺人事件」を彷彿とさせる保険金殺人。三人の容疑者はそれぞれ物理的、身体的に犯行が不可能。「猿の手」をめぐる解釈は、実際に有栖川有栖と北村薫との間でなされたものとのことだが、これを事件解決に結びつけるのはちょっと強引に感じた。主人公の性格とうまく絡めたところはちょっと面白かったが。
 「残酷な揺り篭」はフーダニットではなく、ハウダニットの一編。ただ、犯人を追い詰める火村にあまり迫力を感じない。ここで犯人がギブアップするような推理には思えなかった。
 結局、妃沙子という人物をどうとるか、というところで感想が大きく変わる気がする。個人的には、あまり魅力を感じなかった。ただ、読んでいてそれなりに面白いことは確か。それなりのアヴェレージヒッターである有栖川有栖ならではの作品という気がする。所々で読者をくすぐるのが巧い。




夕木春央『方舟』(講談社)

 大学の登山サークルに所属していた野内さやか、高津花、西村裕哉、絲山隆平、絲山麻衣、越野柊一の六人と、柊一の従兄である篠田修太郎は、裕哉の父親が持つ長野県の別荘に二年ぶりに集まった。隆平と麻衣は夫婦だが、一年前から夫の不満を麻衣が柊一に相談していたことを隆平が知り、トラブルがあってはと頼み込んで修太郎に来てもらっていた。
 七人は裕哉の案内で、山奥にある地図にも載っていない謎の地下建築を見に出かけたが、見つけるのに時間がかかり、到着したときはすでに夕方になっていた。そしてきのこ狩りの途中で道に迷ったという矢崎幸太郎、弘子、隼人の三人家族とともに、その日は地下空間の中にある各部屋で泊ることとなったが、地震が発生して入口の扉が巨大な岩でふさがれ、閉じ込められてしまった。山奥でスマホは繋がらない。さらに地下三階を水没させていた水が、少しずつ高くなっていた。しかもその直後に殺人事件が発生。岩に巻き付けられた鎖を巻き取る装置を動かせば、脱出できる。しかし、その装置を動かす者は岩に閉じ込められ、犠牲になる。その犠牲者は、殺人事件の犯人がなるべき。「方舟」と名付けられていた地下建築の中で、タイムリミットは水没するまでの一週間。
 2022年9月、書下ろし刊行。

 メフィスト賞作家による前評判の高い一冊。帯を見ると、15人の作家・評論家が絶賛している。さすがにこの人数を見ると、手に取ってみたくなる。ただ先に言っておくと、ややネタバレなものもあるので、読む前に帯は見ない方がいい。
 典型的なクローズドサークルの本格ミステリ。地下三階は水没しているものの、地下一階、二階があって、しかも各階に二十部屋もある広さ。専門家はいないし、絶対的な証拠があるわけでもない状況で、どうやって論理的に犯人を導き出すのだろうと思いながら読んでいた。本当にそううまくいくだろうかとも思うが、犯人を導き出すロジックは悪くない。ただこれだけだとちょっと弱いなと思っていると、そこに「トロッコ問題」が掛け合わされることで、うまくエピローグまでつながった。これは作者のアイディア勝ち。なるほど、絶賛の声が多いのもうなづける。
 ただもっと感心したのは、この状況下で殺人を行った動機。言われてみるとものすごく腑に落ちるのだが、これは予想付かなかった。この点はもっと絶賛されるべき。
 どうやってこんな地下建築を誰にも知られずに作ることができたのか(資材の運搬だけでも大変そう)とか、人物造形が甘いとか、欠点もあるだろうが、それは些細な傷だろう。このアイディアを小説として仕上げてくれたことに感謝したい。
 今年の収穫と言えるべき一冊で、ミステリベスト候補。本ミスならベスト5に間違いなく入るだろうし、このミスやミス読みでもベスト10には入りそう(文春はベスト20止まりかな)。この作者の作品は初めて読んだのだが、他の本も読んでみたくなった。




芦沢央『火のないところに煙は』(新潮社)

 「神楽坂を舞台に怪談を書きませんか」突然の依頼に、作家の「私」は、かつての凄惨な体験を振り返る。解けない謎、救えなかった友人、そこから逃げ出した自分。「私」は、事件を小説として発表することで情報を集めようとするが――。予測不可能な展開とどんでん返しの波状攻撃にあなたも必ず騙される。一気読み不可避、寝不足必至!!読み始めたら引き返せない、戦慄の暗黒ミステリ!(BOOKデータサービスより引用)
 『小説新潮』2016年から2018年の間に掲載された5編に書下ろしを加え、2018年6月、単行本刊行。

 広告代理店で働く角田尚子は、恋人と一緒に神楽坂の母と呼ばれる占い師で将来を占ってもらったら不幸になると言われ、恋人が逆切れしてしまった。結局恋人と別れてしまったが、その恋人は交通事故死した。すると角田が担当したポスターだけ、必ず染みが着くようになった。「第一話 染み」。
 10年前、フリーライターの鍵和田君子のところへファンと名乗る女性から、お祓いをできる人を紹介してほしいと頼み込まれた。あまりものしつこさに辟易する君子。「第二話 お祓いを頼む女」。
 9年ほど前、塩谷崇史は埼玉県の郊外に中古の家を買った。隣に住む50代の寿子さんもよさそうな人で、妻の妊娠を最初に気付いたのも久子さんだった。ところが久子さんはある日、崇史が浮気をしていたところを見たと妻に話した。しかし崇史には全く心当たりがなかった。「第三話 妄言」(「火のないところに煙は」を改題)。
 ネイルサロンで働く智世は、一年前から夫である和典の実家で義母の静子と同居し始めた。仲は良く特に問題はなかったが、奇妙な悪夢を見るようになった。そのことを和典と静子に話すと、二人は顔色を変えた。「第四話 助けてって言ったのに」。
 千葉県内の大学に通う岩永幹夫は四月から一人暮らしを始めた。古いが良い物件だと思っていたが、大量の長い髪の毛が浴室の排水溝に詰まったり、テレビの画面が勝手に変わったり、高校生ぐらいの女の子が鏡に映ったりするようになった。不動産屋に確認すると、その部屋では特にないが、隣の部屋で四歳の娘が事故死したことがあったという。「第五話 誰かの怪異」。
 今までの短編をまとめた単行本が出版されることになり、私はネタの提供者の一人でもあり、短編の中にも登場するオカルトライターの榊桔平に書評を依頼しようとしたが、榊は「原稿を差し替えたい」と告げてきた。「第六話 禁忌」。

 怪談をまとめた連作短編集。一つ一つの話がよくできているとはいえ、生理的に好きになれないような話が続くのだが、最後でまさかの結末。まさかメタ的視点を持ち出し、恐怖感をさらに増幅させるとは。ただでさえ気味が悪いのに、さらに背筋に冷たい汗が流れてきて、不快感が一層増してしまった。よくできた短編集なのに、触れたくないと思わせられたのは初めてだ。
 ということで、これ以上書くと恐怖感が増すばかりなので、やめておきます。




ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』(集英社文庫)

 イギリスの田舎町で劇団を主宰するマーティン・ヘイワードは地元の名士。次回公演を控えたある日、彼は劇団員に一斉メールを送り、2歳の孫娘ポピーが難病を患っていると告白。高額な治療費を支援するため人々は募金活動を開始したが、この活動が思わぬ悲劇を引き起こすことに──。 関係者が残したメール、供述調書、新聞記事など、資料の山から浮かび上がる驚愕の真相とは!? 破格のデビュー作。(粗筋紹介より引用)
 2021年、イギリスで発表。2022年5月、邦訳刊行。

 弁護士のロデリック・タナーは、司法実務修習生のオルフェミ(フェミ)・ハッサンとシャーロット・ホルロイドに大量の書類を送る。そのほとんどはメールやテキスト・メッセージで、所々に補助的資料として新聞記事やSNSの投稿が入っている。イギリスの田舎町で起きた騒動、そして殺人事件が発生。フェミとシャーロットは、大量のデータから事件の背景をまとめ、真相を探り出す。
 基本的にメールのやり取りが主となっているので、正直いって読みにくい。さらに登場人物や背景を理解するのに時間がかかる。おまけに登場人物が多すぎ。人物紹介だけで42名、終盤初めの振り返りではなんと82名の人物の名前が並べられている。メールのやり取りだからか、陰口や生の感情がこれでもかとばかりに表に出てきて、読んでいて精神的に不安になってしまう。しかも事件が起こるのは中盤以降だし。それにしても気付かないものかね、不思議だった。これがイギリスの見えざる階級社会なのかと思えば、納得できないこともないが。
 フーダニットではあるが、メールや供述調書などの資料でごまかしている印象が強い。普通の小説体にしたら、簡単にわかってしまうのではないか。まあ、それが作者の工夫といってしまえばそれまでだが。材料が出てから真相までが長すぎてダレてくるし。
 いったいどこが「21世紀のアガサ・クリスティー」なのかわからないが、これだけ書ききったことについては素直に脱帽する。ただ、全面的に好きになれない作品。



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