フレデリック・フォーサイス『戦争の犠牲者』(角川文庫)

 マクレディは、難問をかかえてトム・ロウズを訪ねた。かつての優秀なスパイは一切の諜報活動と縁を切り、妻と二人で静かな作家生活を送っていた。マクレディは、ある事件を解決するよう彼に申し入れた。西側に復讐を企てるリビアのカダフィ大佐が、IRAのテロリスト・グループを使ってロンドンを襲おうとしているのだ。リビアからの武器輸送ルートを探り、悲劇を未然にくいとめなければならない。マクレディは、要請に難色を示したロウズに、敵がロウズのかつての宿敵であることを告げた――。“最後のスパイ小説”マクレディ・シリーズ四部作第三弾。(粗筋紹介より引用)
 1991年、イギリスで発表。1991年11月、角川書店より邦訳単行本刊行。1993年2月、文庫化。

 イギリス秘密情報機関SISのベテラン・エージェント、DDPS(「欺瞞、逆情報及び心理工作」部)部長、通称騙し屋ことサム・マクレディ四部作の第三作。1987年春が舞台である。アラブの反欧米派のトップであり、テログループ支援を行っていたとされるカダフィ大佐を暗殺すべく、アメリカのレーガン大統領が1986年4月に行ったエメラルド・キャニオン作戦が始まり。暗殺から逃れたカダフィ大佐が復讐のために、IRAのテロリストグループに大量の兵器を渡し、ロンドンをテロ攻撃する計画が進んでいた。それを阻止するために、マクレディが出陣する。
 スパイが対峙すべき相手がソ連や東欧諸国からアラブに変化していくことを象徴するような作品ではある。ただ、もう少しロウズに対して疑いの目をもたないのだろうか、という疑問は残る。いくら優秀とはいえ、すでに引退している元スパイが、ここまでうまく立ち回ることができるだろうかとも思う。逆に言うと、アラブ側がまだそこまで対スパイの経験値が乏しかったということなんだろうか。
 ただ、“戦争の犠牲者”という言葉は重かった。確かに一方から見たら間違いとしか思えない思想、行動であっても、反対側から見たら正義に見えてしまう。そんな人たちの行動が、新たな犠牲者を生んでゆく。そんな悲しさがここにあった。
 ちょいと中弛みした感はあるが、対KGBと比べて作者の筆がそこまでのらなかったという気もする。もちろん、十分に読める作品ではあるのだが、前二作に比べるともう一つだったかな。




伊坂幸太郎『ホワイトラビット』(新潮社)

 その夜、街は静かだった。高台の家で、人質立てこもり事件が起こるまでは。SIT(特殊捜査班)に所属、宮城県警を代表する優秀な警察官も現場に急行し、交渉を始めるが――。逃亡不可能な状況下、息子への、妻への、娘への、オリオン座への(?)愛が交錯し、緊張感はさらに増大! しかし読み心地は抜群に爽快! あの泥棒も登場します。(帯より引用)
 2017年9月、書下ろし刊行。

 仙台で起きた人質立てこもり事件、通称……でもなんでもない「白兎事件」。まさに神の視点で物語は進んでいく。登場人物の誰もが何かを隠している。みんな悪人なのに、なぜか嫌いになれない。あっ、一人いい気味だと思った人がいたけれど。いったい何が本当で、何が嘘なのだか。眉に唾を付けて読み進めても、最後は作者に翻弄される。
 まあ、ある意味ずるいと言えるような作品。こんなに滅茶苦茶やって、面白い作品にしてしまうのだから。伊坂マジック炸裂! というところだろう。




ジェフリー・ディーヴァー『スリーピング・ドール』上下(文春文庫)

 他人をコントロールする天才、ダニエル・ペル。カルト集団を率いて一家を惨殺、終身刑を宣告されたその男が、大胆かつ緻密な計画で脱獄に成功した。彼を追うのは、いかなる嘘も見抜く尋問の名手、キャサリン・ダンス。大好評“リンカーン・ライム”シリーズからスピンアウト、二人の天才が熱い火花を散らす頭脳戦の幕が開く。(上巻粗筋紹介より引用)
 抜群の知能で追っ手を翻弄しながらダニエル・ペルの逃走は続く。彼の行動の謎を解明するため、キャサリン・ダンスはカルト集団の元<ファミリー>、そしてクロイトン一家惨殺事件のただ一人の生存者、次女・テレサに接触を試みる――。サスペンスフルな展開の末に訪れる驚愕の終幕まで、ノンストップで駆け抜ける傑作。(下巻粗筋紹介より引用)
 2007年、発表。2008年10月、文藝春秋より邦訳単行本刊行。2011年11月、文春文庫化。

 リンカーン・ライムシリーズ第7作『ウォッチメイカー』で登場し、あのライムをも唸らせた美貌の人間嘘発見器、キネシクスのスペシャリスト、キャサリン・ダンスを主人公としたスピンアウト作品。ライムもほんのちょっとだけ登場する。
 “マンソンの息子”の異名を取り、熱狂的な信奉者の集団“ファミリー”を率いた絶対的な支配者だったダニエル・レイモンド・ペルは、クロイトン一家殺害事件で一家四人を殺害した謀殺、さらに“ファミリー”の男性一人を現場で殺害した故殺の罪で終身刑の判決を受けた。
 それから8年後。10年前に起きた未解決の男性農場主殺人事件の凶器が発見され、ペルの指紋がついていた。ペルはキャプトーラ刑務所からモンテレー郡裁判所に連れられ、キャサリン・ダンスの尋問を受ける。ペルは無罪を主張。ダンスは違和感を抱き、凶器が発見された経緯を調べ、それが仕組まれたものだと気付く。しかし間に合わず、ペルは外の手助けを借り、刑務所より警備が薄い裁判所から脱獄した。
 追われつつ、犯行を重ねて逃亡を重ねるダニエル・ペル。キャサリン・ダンスは捜査を指揮するとともに、当時の“ファミリー”でペルと一緒に暮らしていた女性3人を集めてペルの実像を調べるとともに、惨殺事件の唯一の生存者、次女テレサに接触を試みる。
 逃げるものと、それを追いかけるもの。天才と呼ばれる二人の知力と知力のぶつかり合い。サスペンスあふれるノンストップの展開。そしてディーヴァーお得意のどんでん返しの連鎖。ディーヴァーならではの展開ではあるが、特に本作品の“どんでん返し”は見事と言いたい。ライムシリーズの物的証拠を重ねていく捜査とは逆に、人間心理の分析も含めた心理闘争を軸にした逃亡劇だと思って読み進めていたが、あっと驚かされる見事な反転劇は、ディーヴァー作品の中でもトップクラスといっていいだろう。振り返ってみると作品の至る所に伏線が引かれているのだが、それを全く気付かせない作者の筆遣いは大したもの。その分、ラストの展開がやや蛇足に思えてしまう事になったのはちょっと残念。
 新シリーズ1作目としては、全く問題のない出来だろう。ダンスを囲む魅力あふれる登場人物、会話のやり取りも楽しめる。次の作品も早く読みたくなった(ということで、次に取り掛かりたいのだが、どこに収めているのかわからないのである)。




ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)

 そのふた組の夫婦は、よく晴れた風の強い日に、屋外パーティーで知り合った。――版画家のヘンは、夫のロイドとともにボストン郊外に越してきた。パーティーの翌週、二人は隣の夫婦マシューとマイラの家に招待される。だがマシューの書斎に入ったとき、ヘンは二年半前のダスティン・ミラー殺人事件で、犯人が被害者宅から持ち去ったとされる置き物を目にする。マシューは殺人犯だと確信したヘンは彼について調べ、跡をつけるが……。複数視点で語られる物語は読者を鮮やかに幻惑し、衝撃のラストへなだれ込む。息もつかせぬ超絶サスペンス!(粗筋紹介より引用)
 2019年、発表。作者の第五長編。2023年1月、創元推理文庫より邦訳刊行。

 版画家、児童書の挿絵画家であるヘンリエッタ(ヘン)・メイザー。その夫で広告業者の会社員であるロイド・ハーディング。隣に住んでいるのは、サセックス・ホール高校の教師であるマシュー・ドラモアと、その妻で教育ソフトウエア会社の社員であるマイラ・ドラモア。ロイドとヘンがマシューたちの家に招待された時、ヘンはマシューの書斎でフェンシングのトロフィーを見つけて気を失いそうになる。そのトロフィーは、二年半前に殺された大学生ダスティン・ミラーの部屋から盗まれたものの一つだったからだ。そしてダスティンは、サセックス・ホール高校の卒業生であった。
 最初はヘンとマシューの視点が交互に変わりつつ、物語は進む。ヘンはマシューを疑い、マシューはそのことを知っている。さらにマイラ、ロイド、そしてマシューの弟・リチャード・ドラモアの視点も加わる。この場面転換の切り替えが非常に巧みで、物語が進むにつれてサスペンスが増し混迷が深まっていく展開は見事というしかない。
 疑う人物と疑われる人物。それを取り巻く人物たち。登場人物たちが傷と闇を抱えており、そのことが物語に複雑さを増していく。読者の予想できない展開、そして読者の予想できない登場人物の行動。結末までノンストップで物語は進み、さらに肩透かしを食らったと思った瞬間に新たな驚愕が待ち受けている。
 タイトルのつけ方も巧い。原題は"Before She Knew Him"。邦題は『だからダスティンは死んだ』。このどちらもセンスにあふれている。それは読み終わってみると、納得するだろう。
 早くも今年のベスト候補登場といってもいいだろう。過去のスワンソンの作品は『そしてミランダを殺す』『アリスが語らないことは』しか読んでいないが、その二作よりも面白かった。




香納諒一『心に雹の降りしきる』(双葉文庫)

 七年前に行方不明となった少女の遺留品が発見された。生存が絶望視される中で、少女の父親、井狩治夫の執念が実った格好だ。だが、井狩の自宅に呼び出された県警捜査一課の都筑は、情報をもたらした興信所調査員、梅崎を紹介された瞬間、確信する。ガセだ。報奨金目当てだ。つまり、こいつは自分と同類だ、と。都筑はかつて似たような手口で井狩から報奨金を騙しとった過去があった。やむを得ず手を結んだ二人だが、数日後、梅崎が死体で発見される。いったい梅崎はなにを掴んでいたのか? 都筑はその死までの足取りを追うが……。「このミステリーがすごい!」ランクインの傑作警察小説。(粗筋紹介より引用)
 2011年9月、双葉社より単行本刊行。2014年5月、文庫化。

 主人公の都筑寅太郎は県警捜査一課の刑事だが、妻には逃げられ、酒と女に荒れた時期もあるさぼり常習犯。まともに会話をしてくれるのは係長の小池だけ。一匹狼と言えば聞こえはいいが、誰にも相手にされないだけという方が正しい不良刑事である。
 主人公が刑事だから警察小説と言えるだろうが、でかい事件の割に動いているのがこの都筑しかいないのか、というぐらい他の刑事が出て来ない。そして都筑の前にばかり、手掛かりや関係者が舞い込んでくる。都筑が一人で悩んで、後悔して、苦しんで……。実は優しい人間だったのだが、という展開もとって付けたよう。刑事というよりは、私立探偵にした方がよかったと思える主人公像である。
 しかも事件がこれでもかとばかりに続けて起きるし、糸が複雑に絡んでいる。もっと警察が組織で動けよ、と言いたくなってくる。そうすれば、もっと事件は早く解決したのではないだろうか。本編は小池がちょっとサポートして、後は都築が一人で何とかしてしまうも、不幸の連鎖が続き、事件は終結。読んでいて、とんでもなくまどろっこしい。話の重さが、ページをめくらせるのをためらわせる重さになっている。
 ここまで何でもかんでも詰めなくてもよかったのに、と思ってしまった一冊。悩みの質と事件の量が比例していない。




スコット・トゥロー『囮弁護士』上下(文春文庫)

 ある日、連邦検事の訪問をうけた弁護士ロビー・フェヴァーは、脱税と判事への贈賄を指摘され、罪の軽減を条件に取引を持ちかけられる。家族を抱えるロビーに選択の余地はない。かくして法曹界の大規模贈収賄事件を摘発するべく、連邦検察局とFBIの囮作戦が始まった!「推定無罪」を凌ぐと絶賛されたリーガル・スリラーの傑作。(上巻粗筋紹介より引用)
 でっちあげの事件を法廷に持ち込み、贈収賄の現場を最新鋭の機器で盗聴・盗撮するという捜査が、大胆かつ用意周到に進められていく。囮となったロビー、弁護士補助職員として事務所に送り込まれたFBI女性捜査官イーヴォンの心の葛藤を描きつつ、緊迫した人間ドラマは予断を許さぬ結末へと一気に突き進む――。(下巻粗筋紹介より引用)
 1999年、発表。作者の第五長編。「タイム」誌が選ぶ1999年度ベスト・ブックス第1位。2000年9月、邦訳単行本刊行。2004年11月、文庫化。

 うーん、凄く読みにくい。特に上巻。ロビーの弁護士であるジョージ・メイソンが語り手となっているのだが、説明が回りくどい。テンポが悪い。話が全然頭に入っていかない。
 下巻になってようやく楽しめるようにはなってきたが、囮捜査を主体としたリーガル・サスペンスというよりも、ロビーとイーヴォンの関係を巡る人間ドラマという要素が強い。スコット・トゥローって、もう少し娯楽部分があったと思っていたんだけどなあ。
 ということで、退屈でした。悪い読者だな、自分。




宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』(角川文庫)

 17歳のおちかは、ある事件を境に、ぴたりと他人に心を閉ざした。ふさぎ込む日々を、叔父夫婦が江戸で営む袋物屋「三島屋」に身を寄せ、黙々と働くことでやり過ごしている。ある日、叔父の伊兵衛はおちかに、これから訪ねてくるという客の応対を任せると告げ、出かけてしまう。客と会ったおちかは、次第にその話に引き込まれていき、いつしか次々に訪れる客のふしぎ話は、おちかの心を溶かし始める。三島屋百物語、ここに開幕。(粗筋紹介より引用)
 『家の光』(家の光協会)2006年1月号~2008年7月号連載。2008年7月、角川書店より単行本刊行。2010年6月、新人物往来社よりノベルス版刊行。2012年4月、角川文庫化。

 神田三島町の一角にある袋物屋の三島屋。秋口に奉公にあがったのは、主人伊兵衛の長兄の娘、十七のおちかである。長兄は川崎宿で名の知られた大きな旅籠の主人である。番頭の八十助や女中頭のおしまはなぜおちかが奉公に来たのかは知らない。知っているのは伊兵衛と内儀のお民だけである。おちかは三島屋から外へ出ず、日々は女中仕事に忙しく過ごしていた。
 ある日、急の仕事が入った伊兵衛の代わりに、囲碁好きな伊兵衛の相手としてやってきた客の応対をすることになったおちか。黒白の間で客は、庭に咲いていた曼殊沙華を見て卒倒しそうになった。介抱の末落ち着いた客の松田屋藤兵衛はおちかに、昔話を始める。藤兵衛は建具商の店を構える前は藤吉と名乗っていた。十三歳上の長兄吉蔵は腕のいい建具職人であったが、普請場で大工と喧嘩になり殺してしまい、八丈島に送られた。「第一話 曼殊沙華」。
 伊兵衛はおちかに、五日に一日の割合で来る客の話を聞くように命じる。今日訪れた美しい女性たかが子供のころ、錠前直しの父辰二郎がある屋敷の番頭に、屋敷に一年間家族で住んだら百両を渡すと持ち掛けられた話を始めた。「第二話 凶宅」。
 おちかは黒白の間でおしまに、胸に秘めていた過去のことを話し始めた。なぜ三島屋に来ることになったのか。それは川崎宿の旅籠、丸仙であった、自らの結婚話に絡む悲劇の事件であった。「第三話 邪恋」。
 黒白の間に来た三人目の客は、おしまが十五年前に奉公していた仕立屋石倉屋の娘、お福であった。お福にはお彩という七つ上の姉と、年子の兄市太郎がいた。お彩は体が弱いため、三つの時に大磯の知り合いの家に預けられた。丈夫になったお彩は十七の時、石倉屋に帰ってきた。「第四話 魔境」。
 兄、喜一がおちかに会うために三島屋まで来た。喜一はおちかに、松太郎の亡霊が現れるようになったと告げる。「第五話 家鳴り」。

 宮部みゆき流百物語のシリーズ第一巻。江戸の風景が浮かび上がる描写はさすがと思わせるものであるし、情緒豊かな文体は読者を物語にゆっくりと誘ってくれる。登場人物の描き分けもうまく、各話の登場人物が要所要所で繋がる構成は見事といっていい。
 落ち着いた文章から奏でられる恐怖は、じわりじわりと読者の心に染みていく。やっぱりうまい。安心して読むことができ、決して外すことはない。




麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』(講談社ノベルス)

 ある高校で殺人事件が発生。被害者は物理教師、硬質ガラスで頭部を5度強打され、死因は脳挫傷だった。現場は鍵がかかったままの密室状態の理科室で、容疑者とされた生徒はなんと20人! 銘探偵メルカトルが導き出した意外すぎる犯人とは――「答えのない絵本」他、全5編収録。麻耶ワールド全開の問題作!!(粗筋紹介より引用)
 『メフィスト』掲載の4短編に書下ろしを加え、2011年5月刊行。

 ドイツ人が建てたという一階が洋風レンガ造り、二階が和風木造の売り物の屋敷に集まった高校三年男女6人のグループ。夏休みの楽しい集まりのはずが、一人が墜落死。事故死の結論となったが、一年後に五人が同じ屋敷に集まり、殺人事件が起きる。「死人を起こす」。
 メルカトルに完成直前の短編を消されてしまった美袋。メルカトルは次の短編のアイディアを提供しようとやってきたのが、美袋が住むマンションの同じ階の三〇一号室。早く原稿を済ませれば九州旅行に行けるかもしれないと美袋はほくそ笑んでいたが、部屋の中のこたつの脇に、背中に包丁を突き立てられた若い男がいた。「九州旅行」。
 宗教家と、彼を信奉する五人の若者と、使用人二人が住む孤島。“祝福の書”を取り戻してほしいという依頼で訪れたメルカトルと美袋。しかし台風の夜、宗教家が殺害された。「収束」。
 アニメおたくの物理教師が、高校の理科準備室で殺害された。現場は密室、容疑者は放課後に残っていた高校生20人。メルカトルは同推理をするのか。「答えのない絵本」。
 信州の“密室”という地区にあるメルカトルの別荘、“密室荘”。締め切り疲れの美袋はゆっくり休んでいたが、早朝にメルカトルに起こされて連れていかれた地下室には、初めて見る男の死体があった。「密室荘」。

 この短編集を読んでいなかったことに気付き、手に取ってみた。それにしてもメルカトル、ひどい奴。こんな人物に付き合っている美袋の神経が信じられない。
 それにしてもこの短編集に収録されている作品、いずれもとんでもないものだ。推理はあるのだが、そこから先がない。現場の状況と証拠と証言から、緻密な推理がメルカトルの口から流暢に語られるのだが、事件は解決しない。いったいどういう意味か、それは読めばわかる。これも一応本格ミステリなのか。やはり麻耶雄嵩、とんでもない作家である。
 ただ、麻耶ワールドを把握している読者なら楽しめるかもしれないが、それ以外の読者からしたら、何にも面白くない。本格ミステリの読了後に得られるはずのカタルシスが、どこにもない。一昔前の編集者なら絶対書き直させるよな、と思ってしまう。そもそも、麻耶をデビューさせないか。
 麻耶を好きな人にはたまらない、それ以外の人にはもやもやしか残らない短編集。これでも商売が成り立つから、作家としてやっていけるのだろうけれども。




フレデリック・フォーサイス『売国奴の持参金』(角川文庫)

 引退を勧告されたマクレディの聴聞会が再開された。ソ連軍将校団がイギリス軍の演習に招待された時のことだ。演習は、それぞれの思惑を秘めながらも穏やかに進んでいた。ところが一人のソ連将校が逃亡し、アメリカへの亡命を申し入れた。彼の正体はKGB大佐。アメリカは亡命を受け入れた。亡命者は多くの情報をもたらした。CIAはその情報の裏付けをとり、彼を信用し始めていた。だが、マクレディは何か腑に落ちなかった。亡命者の真意は何なのか、スパイ対スパイの息詰まる駆け引きが始まる――。“最後のスパイ小説”マクレディ・シリーズ四部作第二弾。(粗筋紹介より引用)
 1991年、イギリスで発表。1991年10月、角川書店より邦訳単行本刊行。1993年1月、文庫化。

 イギリス秘密情報機関SISのベテラン・エージェント、DDPS(「欺瞞、逆情報及び心理工作」部)部長、通称騙し屋ことサム・マクレディ四部作の第二作。1986年、ピョートル・アレクサーンドロヴィチ・オルローフKGB大佐がアメリカに亡命した事件である。オルローフはCIAに数々の情報をもたらし、CIAの特別プロジェクト部長であるキャルヴィン・ベイリーやその部下のジョー・ロスはオルローフを徐々に信じるようになるが、マクレディはある疑問点を抱く。
 オルローフ、ロス、マクレディというスパイたちによる高度な心理戦。ゴルバチョフのペレストロイカ、キム・ウィルビーなど過去のスパイたちといった実在世界を織り交ぜ、ソ連、アメリカ、イギリスという大国の思惑も混じり、虚々実々の駆け引きが繰り広げられる。
 一行も見逃せない、手に汗握る攻防。供述が中心であり動きそのものは少ないが、一つ間違えると地獄へ落ちてしまうという緊迫感がたまらない。これは見事としか言いようがない。第一部より好きだな、自分は。
 フォーサイスってすごいと思わせる一冊。下手に行動するよりも、スパイの世界の恐ろしさを教えてくれる。



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