米澤穂信『可燃物』(文藝春秋)

 群馬県警利根警察署に、4人が遭難したと通報があった。現場となったスキー場に捜査員が赴くと、崖の下に転落した水野正と後東陵汰が発見された。水野は救急搬送されたが、後東は頸動脈を刺されて失血死していた。二人の回りの雪は踏み荒らされていなかった。動機のある水野が犯人なのか。しかし凶器は見つからず、水野は両手を含む全信骨折の状態だった。本当に殺人なのか、それとも事故なのか。「崖の下」。
 藤岡市で一人暮らしの金井みよ子(76)が襲われる強盗致傷事件が発生。捜査本部は類似前科のある者の中から容疑者を3人に絞った。そのうちの一人、田熊竜人(37)に監視がつけられたが、事件から1日半後の午前3時、交差点で田熊の運転するワゴン車と、水浦律治が運転する軽自動車がぶつかり、命に別状はないがともに救急搬送された。尾行していた刑事たちは、工事現場に視界を遮られ事故を見ていない。田熊が交通違反をしていれば、身柄を押さえることができる。複数の目撃者は、ワゴン車が赤信号で交差点に入ったと証言した。一方、田熊は相手が赤信号で交差点に入ってきたと主張した。「ねむけ」。
 春名山麓にあるきすげ回廊の草むらで、人間の腕を発見したとの通報があった。捜査陣が山狩りをすると、一部を除く人間の部位が発見。歯形から、10日前に息子の勝(29)から行方不明届が出ていた野末晴義(58)と判明。捜査で宮田村昭彦(44)から複数回に渡り借金をしていたことが判明。野末は6年前、谷川岳で遭難していた宮田村と娘の香苗を救助し、二人は恩を感じていた。目撃証言から宮田村の行方を捜し、逃亡していた宮田村を逮捕。宮田村はあっさりと殺人を自供した。「命の恩」。
 12月、太田市の住宅街でゴミ集積所への連続放火事件が発生。群馬県警は捜査本部を設置し、葛班が対応することになった。しかし犯行がぴたりと止まってしまった。捜査は行き詰まるも、葛は過去の放火事件を調べるうちにある事実に突き当たる。「可燃物」。
 傷害事件の犯人逮捕に葛班が携わった帰り、伊勢崎市のファミリーレストランで立てこもり事件が発生。近くにいた葛班が急行し、特殊係の到着まで情報の収集に当たった。調べていくうちに立てこもり犯が志多直人と判明。志多は息子と一緒にファミリーレストランに来ていたが、アレルギーの息子のためにナッツ類が入っていないパフェを頼んだのに、実際にはアーモンドがかかっていたことに激怒していたらしい。窓際に姿を現した志多は、拳銃を持っていた。しかしそれは、売り物のおもちゃの拳銃に似ていた。「本物か」。
 『オール讀物』2021年~2023年に掲載。2023年7月、刊行。

 米澤穂信が書きたかったと話していた警察小説。ただしチームで捜査に当たる従来の警察小説とは異なり、スタンダードに捜査を行いながらも、最後は部下の頭越しに事件を解決してしまう群馬県警本部の刑事部捜査第一課、(かつら)警部を主人公としている。葛警部については帯にある「彼は、葛をよい上司だとは思っていないが、葛の捜査能力を疑う者は一人もいない」という言葉もそうだが、作中で上司である捜査第一課の強行班捜査指導官、小田警視が「俺も上も、葛班の検挙率には一目置いている。だが、葛班はあまりにも、お前のワンマンチームじゃないかと疑ってもいる。お前の捜査手法は独特だ。どこまでもスタンダードに情報を集めながら、最後の一歩を一人で飛び越える。その手法はおそらく、学んで学び取れるものじゃない。お前も永遠に県警本部の班長ではいられん。下が力をつけてこなければ、県警の捜査力は落ちる」と語っている内容が一番ピンとくる。警察小説にありがちなプライベートの部分については一切触れられていないし、部下たちの心情などについても何も語られない。上司、特に捜査第一課長の新渡戸は葛のことをとことん嫌っているようだが、意に介していない。ちょっと目を引くのは、菓子パンとカフェオレばかりの食事ぐらいだろう。つまり、あくまで警察を舞台にしながら、純粋に事件と捜査と推理を主眼とした作品に仕上がっている。
 事件そのものは有りがちなものといっていいだろう。言ってしまえば、日常の事件とそれほど変わらない。しかし捜査によって浮かび上がるちょっとした違和感を、葛警部は見逃さない。捜査によって得られた証拠から、葛は推理する。そして真実を見出す。
 ものすごく地味な作品だとは思う。ドラマティックな展開など何もない。人間ドラマといえるものは、事件関係者の供述だけだ。だがそのわずか数行に、人生を揺るがすドラマがある。そして作者は最後にちょっとだけ、彼らのその後について触れる。それは作品に登場してくれた者たちへ、作者が贈る最後の優しさなのかもしれない。
 米澤穂信の新境地といえる作品集だろう。地味だが警察の捜査と推理の両方を楽しめる。今年のベスト候補である。




D・M・ディヴァイン『すり替えられた誘拐』(創元推理文庫)

 ブランチフィールド大学には問題が山積していた。入学者数の減少、窃盗の容疑者である学生の除籍処分に対する抗議運動、その上新たに、講師と交際している問題児の学生バーバラが何者かに襲撃されたばかりか、誘拐が企てられているという怪しげな話が飛び込んでくる。数日後、学生の言論クラブが主催する集会の最中、彼女は本当に拉致された。ところが、この誘拐事件は思いもかけぬ展開を迎え、ついには殺人へと発展する――入り組んだ事件が鮮烈な結末を迎える。謎解きミステリの職人作家ディヴァインならではのエッセンスが詰まった長編!(粗筋紹介より引用)
 1969年、ドミニック・ディヴァイン名義でイギリスで発表。2023年5月、邦訳刊行。

 1961年から1973年まで、1963年を除いてほぼ1年に1冊ペースで出版していた( 『ウォリス家の殺人』のみ死後の1981年発表)ディヴァインの第8長編。
 資産家レッチワース卿の娘で、ギリシャ語の助講師マイケル・デントンと交際している大学の問題児、バーバラ・レッチワースが言論クラブの集会の夜、噂通りに本当に拉致された。ところが思いがけない展開が続き、殺人事件に発展する。
 当時のイギリスの大学はこういう雰囲気なんだろうなと思わせる描写はさすが。そして資産家の娘とは思えない(もしくはだからこそか)バーバラの振る舞いが、なんともまあ嫌らしい。頼りないマイケルも含め、人物造形がしっかりしている。そしてどう考えてもブラコン(この時代にそんな言葉はないだろうが)なマイケルの姉、ローナが実にいい。彼女には幸せになってほしい。
 フーダニットの部分はあまり面白くない。推理が当たるかどうかはともかく、だいたい想像がつくだろう。ただ本書が面白かったのはその後。フワイダニットの部分が読みごたえがあるし、サスペンスに転じるところは巧い。この辺は熟練工ならではの味だろう。
 しかし、どことなくいびつな感じがするのも確か。完成形に問題がなくても、手順がどことなく違っている違和感があった。それがどの部分なのかわからないのがもどかしいのだが、読み終わってもしっくりこないところがある。結末の、これじゃない感のところかな。
 佳作だとは思うけれど、なんとなくディヴァインに求めているものとは違う仕上がりという感じがあった。まあ、具体的なことが言えないから、ただのいい加減な感想にしかなっていないのだが。




藤崎翔『逆転美人』(双葉文庫)

 美人に生まれたのは罪ですか――? 抜群の美貌のせいで幼少期から何度も犯罪やいじめの被害に逢い、不幸ばかりの人生を歩んできたシングルマザーの香織(仮名)。とうとう娘の学校の教師にまで襲われ、その事件が大々的に報道されたのを機に、手記『逆転美人』を出版したのだが、それは社会を震撼させる大事件の幕開けだった。果たして『逆転美人』の本当の意味とは!? 全ミステリーファン必読、文学史に残る伝説級超絶トリックに驚愕せよ!!(粗筋紹介より引用)
 2022年10月、書下ろし刊行。

 1月ごろ、話題になっていたので買おうと思って本屋を探しても全く見つからず、増版待ち状態。そのまま忘れていたのだが、ある作品を読んでこの本のことを思い出し、読んでみる気になった。
 まあ、本当だったらどんな書評も読まず、帯も裏の紹介も読まず、いきなり本を手に取るべきだと思う。
 佐藤香織(仮名)は飛び受けた美人に生まれたために、幼少期から犯罪に巻き込まれたり虐められたり。田舎にいたためスカウトされず、貧乏だったため都会にも出れず。美人過ぎるが故に不幸な人生を歩み、ようやく結婚しても旦那が死んだためシングルマザーに。さらに不幸は続き、ついに娘の学校の教師に襲われた。香織は出版社のオファーを受け、今までの人生を綴った手記『逆転美人』を出版する。
 帯には「ミステリー史上初の伝説級トリックを見破れますか? 紙の本でしかできない驚きの仕掛け!」と書かれている。まあここまで書かれると、何をやろうとしているか、ミステリファンならある程度想像つくのではないか。ただそんなこと考えず、普通に読んだ方がいいと思う。物語としても楽しめるから。
 ちょっとステロタイプな気もするが、美人過ぎる女性ならではの不幸をこれでもかと詰め込んでいる。普通に物語として読んでいても面白い(虐めが多くて鬱にもなるが)のだが、作者の伏線の張り方が非常にわかりやすい。なるほどこれか、と思っていたら、意外な方向に進む。いやあ、これは作者にやられた。
 この作品の作者が仕掛けたトリックは、似たような前例がある。ただ本作品の素晴らしいところは、作者が仕掛けるトリックに絶対的な必然性があること。このトリックを小説に溶け込ませた作者の発想と、それを成立させた腕が素晴らしい。
 作者の仕掛けが隅々にまで張り巡らされている。最後の一ページまで気を抜くことができない一級品である。売れすぎたためか、逆にミステリ界隈からの評価が今一つな感じもあるが、ミステリとしての完成度という点も含め、もっと評価されてもいいと思う。




五十嵐律人『魔女の原罪』(文藝春秋)

 法律が絶対視される学校生活、魔女の影に怯える大人、血を抜き取られた少女の変死体。一連の事件の真相と共に、街に隠された秘密が浮かび上がる。
 僕(宏哉)と杏梨は、週に3回クリニックで人工透析治療を受けなければならない。そうしないと生命を維持できないからだ。ベッドを並べて透析を受ける時間は暇で、ぼくらは学校の噂話をして時間を潰す。
 僕らの通う鏡沢高校には校則がない。ただし、入学式のときに生徒手帳とともに分厚い六法を受け取る。校内のいたるところには監視カメラが設置されてもいる。
 髪色も服装も自由だし、タピオカミルクティーを持ち込んだって誰にも何も言われない。すべてが個人の自由だけれども、〝法律〟だけは犯してはいけないのだ。
 一見奇妙に見えるかもしれないが、僕らにとってはいたって普通のことだ。しかし、ある変死事件をきっかけに、鏡沢高校、そして僕らが住む街の秘密が暴かれていく――。
『法廷遊戯』が映画化され注目を集める現役弁護士作家の特殊設定リーガルミステリー。(粗筋紹介より引用)
 2023年4月、書下ろし刊行。

 五十嵐律人を読むのは初めて。本屋で表紙に魅かれ、なんとなく手に取ってみた。
 実際に殺人事件が起きるのは中盤あたり。それまでは、法律を犯さないということを除けば校則がない高校に通う二年生、和泉宏哉が中心である。中盤の変死事件からは、作者の得意といえるリーガルミステリに移り、迫力のある裁判シーンと驚愕の真実が待ち受けている。
 校則がなく、法律さえ守ればいい高校という設定は面白い。責任と義務を考えるうえでも非常に興味深い設定である。そして変死事件から少しずつ明らかになる町の真実。その内容は完全なネタバレとなるのでここでは書けないが、日本社会のいびつな部分の一つを取り上げており、しかも物語の謎と絡める巧さは、社会派ミステリとしての要素も十分に兼ね備えた作品に仕上がっている。伏線の張り方とその回収も鮮やか。現役弁護士ならではの裁判シーンの迫力も見事。そして法律知識の説明を随所に、しかし物語の流れをぶった切らずに組み込むところも巧い。
 ただ、この変死事件の動機がいただけない。一応伏線は貼っている。だが専門家が本当にこんなことを考えるだろうか。いくら悩んでいたとしても、信じられない。残念だが、説得力に欠ける。肝心要の部分なので、もっと配慮してほしかった。別の動機にしてほしかった。
 どう評価したらよいか、迷ってしまう。凄く納得がいかない。ただ、面白かったのも事実。




グリン・ダニエル『ケンブリッジ大学の殺人』(扶桑社ミステリー文庫)

 ケンブリッジ大学が明日から長期休暇に入るという夜、フィッシャー・カレッジ内で門衛が射殺された。副学寮長のサー・リチャードは、一見単純に見える事件に複雑な背景があることに気づき独自の調査に乗り出すが、やがて帰省した学生のトランクから第二の死体が発見され……。めくるめく推理合戦、仮説の構築と崩壊、綿密きわまる論理的検証、そして単越したユーモア。考古学教授を本職とする著者がものした、本格ファンの魂を揺さぶる幻の40年代クラシック・パズラー、ついに本邦初訳なる。
 1945年、イギリスで発表。2008年5月、邦訳刊行。

 作者は1914年生まれ。ケンブリッジ大学卒業後、考古学を専門として母校で教鞭をとっていた。長編2冊、短編2編を残している。本書は、第二次大戦中、研究職評議員のままイギリス空軍情報部将校としてインドに駐留していた時期に執筆した処女作。後に"Animal, Vegetable, Mineral?"(BBC)(アメリカの番組"Twenty Questions"のイギリス版)に出演して有名となり、1955年の年間テレビ・パーソナリティに選ばれている。
 作品内の時間は1939年で、まだ開戦前。門衛のサミュエル・ゴストリンが射殺される。残された証拠から、反対されながらも娘のダイアナと交際していたジョン・パロットが容疑者として浮かび上がるが、アリバイが成立。さらにパロットの放校処分を決定した学生監のウィリアム・ランドンの死体が、パロットの友人であり、副学寮長のサー・リチャード・チェリントンの甥である学生ジャイルズ・ファーナビイの帰省先に送られたトランクの中から発見される。ケンブリッジ署のウィンダム警部は捜査に行き詰まり、本部長のカニンガム-ハーディー大佐を通してスコットランド・ヤードに応援を依頼。ロバートスン-マクドナルド警視が訪れた。
 物証や証言が出てきて犯人らしき人物が浮かび上がるたびに、新しい物証や証言が出てきてそれまでの推理が否定される。そんな展開の繰り返し。しかも関係者の複雑な人間関係も絡み、証言がすべて正しいとは限らない。ウィンダム警部、ハーディー大佐、マクドナルド警視、そしてサー・リチャードがそれぞれの推理を繰り広げるのだが、それ以外にも関係者が犯人を告発するという展開まで出てくるので、読者は何が正しくて何が偽りなのかを十分に見極めなければならない。
 誰が犯行が可能かを捜査するうちに、証言によって時間が細かくずれてくるし、人間関係も入れ替わるので、じっくり読んでいないと何が正しいかがわからなくなってくる。会話が多くて入り組んでおり、しかも試行錯誤が続くので展開が非常に遅い。500ページ以上と長い作品こともあり、読み易い翻訳にもかかわらず、読み終わるのに結構骨が折れた。
 しかも切れ味が鈍い推理合戦の結果に失望。これが現実の事件の捜査なのかも、という扱いの部分もある。そのあたりの考察については、訳者の小林晋があとがきで丁寧に書いてくれている。これを読んで、ようやく作者の狙いがわかった。ここまで読むと、意外とこの作品は面白かったのかもと思えるから不思議だ。
 まあ、イギリスらしいアマチュア作家の本格ミステリを読むことができて満足すべきなのかもしれない。生真面目さとユーモアの裏にある底意地の悪さが楽しめればいいだろう。




杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』(新潮文庫nex)

 衝撃のラストにあなたの見る世界は『透きとおる』。
 大御所ミステリ作家の宮内省吾が死去した。宮内は妻帯者ながら多くの女性と交際し、そのうちの一人と子供までつくっていた。それが僕だ。「親父が『世界でいちばん透きとおった物語』という小説を死ぬ間際に書いていたらしい。何か知らないか」 宮内の長男からの連絡をきっかけに始まった遺稿探し。編集者の霧子さんの助言をもとに調べるのだが――。予測不能の結末が待つ、衝撃の物語。(粗筋紹介より引用)
 2023年5月、書下ろし刊行。

 巷で評判の一冊、手に取ってみた。杉井光の著作を読むのは初めて。申し訳ないが、名前も初めて聞いたぐらい。そのため、どんな作品を書くのか全く想像もつかなかった。ネタバレ厳禁!とのことなので、その他の情報は一切触れないようにしてきた。
 主人公は藤阪燈真。校正者である母・恵美と二人暮らしだった。父親は大御所ミステリ作家でプレイボーイの宮内省吾(本名・松方朋泰)であり、いわゆる不倫関係にあった。恵美は堕胎の提案を拒み、一人で燈真を生み、育ててきた。そのため、燈真は宮内と会ったことすらない。燈真が高校卒業後、大学へ行かず本屋のアルバイトをしていた18歳の冬、恵美が交通事故で亡くなる。恵美の唯一の友人である、編集者の深町霧子のおかげで無事に葬式等を済ませ、再びアルバイト生活に戻った。それから2年後、闘病中の宮内省吾が癌で亡くなった。1か月後、宮内の本妻の息子である松方朋晃から、『世界でいちばん透きとおった物語』という小説を死ぬ間際に書いていたらしいが、知らないかという連絡を受けた。燈真はアルバイトの合間、霧子からの助力を受けつつ、宮内と関係のあった三人の女性や業界関係者などに話を聞きながら、遺稿を探し続ける。別の何者かからの妨害を受けながら。
 あまりごちゃごちゃ書かない方がいいだろう、この作品は。本当に丁寧に作られている。終盤で作者の狙いがわかって思わず声を上げてしまった。そして最後は唸ってしまった。いやあ、見事。物語にも脱帽した。凄い。こんなこと、考えるだけでもすごいのに、実現させるのはもっとすごい。まさに世界が透きとおった。ただ、これ以上は書けないな。もう読め、としか言いようがない。
 作者のインタビューによると、執筆2か月半とのこと。信じられない。ミステリとして傑作か、と聞かれたら違うと答えるだろう。しかし、凄い作品だ!と声を大にして言いたい。




サイモン・カーニック『ノンストップ!』(文春文庫)

 電話の向こうで親友が殺された。死に際に僕の住所を殺人者に告げて。その瞬間から僕は謎の集団に追われはじめた。逃げろ! だが妻はオフィスに血痕を残して消え、警察は無実の殺人で僕を追う。走れ、逃げろ、妻子を救え! 平凡な営業マンの決死の疾走24時間。イギリスで売上40万部、サスペンス史上最速の体感速度を体験せよ。(粗筋紹介より引用)
 2006年、イギリスで発表。2010年6月、文春文庫より邦訳刊行。

 粗筋だけを見ると、濡れ衣を着せられた逃亡者が警察に追われながら犯人を捜すサスペンスかな、と思っていたのだが、予想外の方向に流れていったので驚いた。
 35歳のIT企業の営業マンであるトム・メロンは、電話の向こうで親友で弁護士のジャック・カリーが自分の住所を告げた後に殺されたのを聞いてしまう。殺人者が来る前に逃げなければと、娘と息子を義母のアイリーン・タイラーに預け、携帯電話がつながらない妻のキャシーが働く大学へ向かった。しかし研究室にキャシーは不在で、血の塊が落ちていた。さらに謎の男に襲われるトム。何とか逃げ出したところでトムは警察に殺人容疑で逮捕される。キャシーの同僚であるバネッサ・ブレイクが殺害されたのだ。一方、国会犯罪対策局(NCS)のマイク・ボルト警部補は、トリストラム・パーナム=ジョーンズ主席判事の自殺事件を追いかけていた。ボルトは部下であるモー・カーン巡査部長より、事情聴取の予定であったジョーンズの弁護士であるカリーが殺害されたことを知る。
 作品の原題は"RELENTLESS"であるが、邦題の“ノンストップ”が示す通り、トム・メロンの必死の逃走劇と、トムを狙う追跡劇がノンストップで進んでいく。特に殺し屋であるレンチの追跡劇は、原題にふさわしい執拗さ。同じく追いかける側のボルトとモーのキャラクターもいい。やはり登場人物のキャラクターがしっかりしていると、物語の理解が早まるし、読んでいて面白い。
 土曜日の午後から日曜日の午後まで、わずか一日の物語。その間に起きる事件はいくつあるだろう。次から次へと情勢が変わり、誰が真実を語っているのかわからなくなる。所々に忘れ去られている部分がある気もするが、気にする必要はないだろう。謀略サスペンスが最後は家族の物語に変わっていく展開の流れは、見事であった。ただ最後にあいまいな部分が残るのはちょっと残念ではあるが。続編があるようではなかったし。
 ジェットコースターサスペンスといえばこれ、と挙がる作品の一つと言っていいだろう。一気読み間違いなし、娯楽作品の傑作だった。




早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』(光文社)

「六つの迷宮入り凶悪事件の犯人を集めた。各人に与えられた武器で殺し合い、生き残った一人のみが解放される」。女名探偵の死宮遊歩は迷宮牢で目を覚ます。姿を見せないゲームマスターは6つの未解決事件の犯人を集めたと言うが、ここにいるのは7人の男女。全員が「自分は潔白だ」と言い張るなか、一人また一人と殺害されてゆく。生きてここを出られるのは誰なのか? そしてゲームマスターの目的は?(帯より引用)
 『ジャーロ』2021年7月号~2022年9月号連載。連載時タイトル「迷宮(す)いり」。改題し、加筆修正のうえ、2023年5月、刊行。

 最初は「しおかぜ市一家殺害事件」。餓田(うえだ)という派遣の男が、しおかぜ市に住む一家三人を殺害し、金を奪う。そして警察が捜査に乗り出し、重要な証拠を見つけるまでの経緯が描かれる。
 舞台は変わり、登場するのは女名探偵・死宮遊歩。警察の人に協力を依頼された遊歩は、自らが関わった「迷宮牢の殺人」について語り始める。
 六つの迷宮入り凶悪事件の犯人を集めたという姿を見せないゲームマスターが、集められた7人の男女に与えられた武器で殺し合いを行い、生き残った1人だけが解放される。与えられた武器は、それぞれの凶悪事件で使われた凶器。しかし7人全員が潔白だと言い張り、生き残るための行動をとり始めるも、1人、また1人と殺害されていく。犯人はいったいだれか。
 最初の一家殺人事件はひどい。餓田の行動原理は自分勝手かつわがままでしかなく、読んでいても不快感しかない。しかし警察が捜査に乗り出したかと思ったら、なぜか女探偵が登場し、しかも「迷宮牢の殺人」について語り始めるのだ。なんだ、この展開はと思いつつ、六つの迷宮事件の中に「しおかぜ市一家殺害事件」と思われる事件が含まれている。
 この迷宮牢、わけがわからない。冒頭に迷宮牢の全体図があるのだが、本当に迷路になっていて、所々に各人の部屋や広場があるのだ。わかりづらい。これを文章で説明されても、熱心に追い続ける人はいったい何人いるのだろう。おまけに登場人物に変人が多く、会話が変で読みにくい。『バトルロワイアル』要素も唐突過ぎて興味が持てない。
 最後になって、当然この二つが結びつくのだが、だから何なの、という気持ちの方が強い。少なくとも、騙された感は非常に低いし、あっそうだったの、という程度のものである。警察も、こんな回りくどいことしなくてもよかったんじゃないか。全編に伏線は散りばめられているし、作者にご苦労様とは言いたいが、それだけ。
 「労多くして益少なし」みたいな長編であった。驚きは全然なかったし、なるほどと唸るものもなかった。




佐々木譲『制服捜査』(新潮文庫)

 札幌の刑事だった川久保篤は、道警不祥事を受けた大異動により、志茂別駐在所に単身赴任してきた。十勝平野に所在する農村。ここでは重大犯罪など起きない、はずだった。だが、町の荒廃を宿す幾つかの事案に関わり、それが偽りであることを実感する。やがて、川久保は、十三年前、夏祭の夜に起きた少女失踪事件に、足を踏み入れてゆく――。警察小説に新たな地平を拓いた連作集。(粗筋紹介より引用)
 『小説新潮』掲載。2006年3月、単行本刊行。2009年1月、文庫化。

 川久保篤巡査部長が志茂別駐在所に赴任して四日目。町の有力者に勧められて酒を飲んでしまったときに、墓地で騒いでいるという通報があったものの、対応できなかった。そして翌日、母子家庭の母親から、高校三年生の息子が帰ってこないと相談があった。その息子は、街の不良の使いっ走りになっていた。「逸脱」。
 酪農家の大西から、飼い犬の大型犬が散弾銃で射殺されたと通報があった。調べていくうちに大西は、中国人研修生を酷使していた酪農家の篠崎とトラブルになっていた。そしてある日、篠崎が殺され、車と金庫が無くなっており、研修生三人が行方不明になっていた。「遺恨」。
 カツアゲされていた子を救ったのは、旭川から派遣されてきた前科者の大工、大城だった。一方、カツアゲされていた浩也は、ネグレクトにあっていた。「割れガラス」。
 志茂別町で空き家や倉庫などの連続放火事件が発生。最近展望公園にいる旅行者の中に浮浪者が混じっているという。一方、被害にあった人々は、町村合併の推進者であった。「感知器」。
 十三年前、近くの別荘に来ていた七歳の女の子が仮装盆踊り大会で行方不明になった。他の暴力事件もあって中止していた仮装盆踊り大会が今年復活する。胸騒ぎがしていたのは川久保ばかりでなく、当時の巡査で既に定年になった竹内も町にやってきた。さらに行方不明になった女の子の母親まで。「仮装祭」。

 北海道警察を揺るがした2002年の稲葉事件の影響で、一つの職場に7年在籍したものは無条件に異動、一つの地方の10年居たら別の地方に異動することになった北海道警察。主人公である川久保篤もその一人で、札幌豊平署刑事課強行班から北海道警察本部釧路方面、広尾警察署志茂別町駐在所に単身赴任でやってきた。小さな町で、犯罪発生率は管内一の低さである穏やかな町。しかしそれは表面的な姿でしかなかった。
 稲葉事件や裏金問題で北海道警察の黒い部分が表面に出てきたが、佐々木譲はそんな北海道警察を舞台にした作品を複数書いているが、本短編集もその一つ。一人が同じポジションで働き続けることは、経験に裏打ちされた仕事の手際良さにつながるが、一方で汚職と腐敗を招く原因ともなる。一つの膿は周りに広がり、大きな傷となっていく。
 北海道警察はどういう結果になろうと無理矢理の改革を断行したが、そのひずみは大きい。その犠牲者の一人が、川久保であった。そして、地方の町も人間関係や仕組みが硬直化している。川久保の存在は波が全くない池に小さな石を落とした程度であったかもしれないが、その波紋は少しずつ広がっていき、底に沈んでいた泥は透き通っていたはずの水面を濁していく。この連作短編集は、そんな澱みを無理矢理隠している現状を表した一冊である。
 駐在警官は、捜査に携わることはできない。元刑事課である川久保がおかしいと思ったことでも、反論することすらできない。さらに他の捜査員も今までとは畑地外の部署に就いた者たちばかり。北海道警察の迷走ぶりに、川久保は一人で戦う。そして町の澱みにも一人で戦う。制服捜査というタイトルは見事としか言いようがない。さらに川久保の捜査によって浮かび上がる意外な事件の真相。そして川久保が考える正義。たった一人の戦いなれど、これは警察小説の傑作である。
 ようやく手に取って読むことができたが、もっと早く読むべきだった。これほどの傑作をなぜ放置していたのだろう、自分は。川久保が再登場する長編『暴雪圏』もすぐに読みたい。




白井智之『そして誰も死ななかった』(角川文庫)

 覆面作家・天城(あまき)菖蒲(あやめ)の招待で、絶海の孤島に建つ天城館に集まった5人の推理作家。しかし館に主の姿はなく、食堂には不気味な5体の泥人形が並べられていた。不穏な空気が漂う中、かつて彼ら全員が晴夏という女性と関係していたことがわかる。9年前に不可解な死を遂げた彼女の関係者が、なぜ今になって集められたのか。やがて作家たちは、次々と異様な死体で発見され――。ミステリ界の鬼才が放つ、絶対予測不可能な謎解き!(粗筋紹介より引用)
 KADOKAWAより2019年9月、単行本刊行。加筆修正のうえ、2022年1月、文庫化。

 世界中から貧しい女を日本へ連れ帰って囲っていた、ろくでなしの文化人類学者錫木帖が遺した推理小説の原稿を自分の名前で出版してベストセラーとなった大亦(おおまた)牛男は、自分のファンだという大学四年の晴夏と関係を結ぶも、彼女の嘘に激昂して突き飛ばし、壁の鏡が割れ、とがった破片が晴夏の首に深々と刺さった。しかし晴夏は平気な顔をしたまま二回戦目をねだり、恐ろしくなった牛男はそのまま逃げた。それから7日後、晴夏がトラックに轢かれて死亡する。現場にはミミズみたいな虫が大量発生していた。そして交際相手で晴夏を暴行した友人の推理作家榎本桶が逮捕された。
 それから10年後。覆面作家天城菖蒲に5人の推理作家が招待された。金鳳花(きんぽうげ)沙希(さき)四堂(よんどう)饂飩(うどん)阿良々木(あららぎ)(あばら)真坂(まさか)斉加年(まさかね)、そして大亦牛汁(うじゅう)こと牛男。東京湾からチャーター船で丸一日かかる無人島、条島に向かったが、天城館に天城の姿はなく、食堂には十年前に大量死したミクロネシアの先住民族・奔拇族が儀式に用いた「ザビ人形」が5体並べられていた。
 グロいグロいと聞いていたので手を出さなかった作家であったが、『名探偵のいけにえ』『名探偵のはらわた』が面白かったので、食わず嫌いは止めて手を出してみたのだが……グロい。不気味じゃなくてグロい。気持ち悪いわ、本当に。
 序盤の気持ち悪すぎる設定と展開。そして覆面作家に招待された推理作家たちの異様なこと。さらに無人島の館での連続殺人。本格ミステリファンなら興味を持ちそうな設定だけど、とにかく気持ち悪くかったので、早く読み終えようと思ってページを進めてしまう。そうしたら連続殺人事件の後は、怒涛の推理合戦。本来だったらワクワクするところなんだが、登場人物も設定も描写も事件の状況もとにかくグロテスクなので、真剣に読もうという気が失せてくる。ある意味凄い推理合戦なのだが。まあ、ここまで異様な設定だからできた、とんでもない推理合戦ではあった。好きな人なら一読の価値はあるのだろうな。
 ただ、力で強引にひねくり回す推理なので、振り返ってみると投げっ放しになっている謎がいっぱいあるような気がする。特に最後。こいつらどうなるんだろう。ただ、振り返る気にならない。思い出したくない描写が多すぎる。そして生き残った人たちのその後も考えたくない。
 謎解きの強引さはすごい。グロ表現が気にならない本格ミステリファンなら、楽しめる。それでも、食後すぐには読まない方がいいだろう。



【元に戻る】