白井智之『エレファントヘッド』(角川書店)

 精神科医の象山(きさやま)は家族を愛している。だが彼は知っていた。どんなに幸せな家族も、たった一つの小さな亀裂から崩壊してしまうことを――。やがて謎の薬を手に入れたことで、彼は人知を超えた殺人事件に巻き込まれていく。(帯より引用)
 2023年9月、書下ろし刊行。

 去年、『名探偵のいけにえ』で大ブレイクした白井智之の書き下ろし新刊。帯に「絶対事前情報なしで読んでください」「空前絶後の推理迷宮」「不可能犯罪×多重解決ミステリの極限!」「謎もトリックも展開もすべてネタバレ禁止」とまで書かれたら、これ以上は何も書けない。
 とはいえそれじゃ何も残らないので感想を書くのだが、個人的には微妙だった。確かにとんでもない設定だし、伏線は貼っているし、多重推理はあるしってなるんだけど、こういう設定だと「だから何?」と覚めてしまう。あんまり感心できないんだよね、こういうの。結局俺様ルール設定だし。
 いや、凄いんだけどね。こんな設定、こんな伏線、こんな推理、とは感心する。よくぞまあ、こんなの考え付いたとは思う。それは認めるけれど、自分としては面白くなかった、と言いたいだけ。それと殺害シーンは確かに白井節炸裂だけど、そっちはそんなに気にならなかった。




ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィル『禁じられた館』(扶桑社文庫)

 飲食産業で成功を収めた富豪のヴェルディナージュが、マルシュノワール館に引っ越してくる。これまでの所有者には常に災いがつきまとってきた曰く付きの館だ。 再三舞い込む「この館から出ていけ」との脅迫状。果たして雨の夜、謎の男の来訪を受けた直後、館の主は変わり果てた姿で発見される。どこにも逃げ道のない館から忽然と姿を消した訪問者。捜査が難航するなか、探偵トム・モロウが登場し……『黄色い部屋の謎』以降の歴史的空白を埋めるフランス産不可能犯罪小説の傑作、ついに発掘!(粗筋紹介より引用)
 1932年、フランスで発表。2023年3月、邦訳刊行。

 ミシェル・エルベール&ウジェーヌ・ヴィルは1930年代に共作の形で3作の不可能犯罪物の本格ミステリーを執筆。本書はその第1作。エルベールはジャーナリスト、作詞家としても活躍し、単著でもミステリーを何作か残している。
 前半は災いがつきまとう館と、購入した富豪の話が延々と続く。いつになったら事件が起きるんだ、どこまで引っ張るんだなどと思ってはいけない。ちゃんとそこには、伏線が用意されているのだ。まあ、古典ミステリらしいあおり方だな、とは思いながら読んでいたが。
 訪問した謎の男が逃げ場のない館から姿を消す。シンプルな消失トリックなのだが、過去の因縁話などとうまく絡み合い、上質な本格ミステリとして仕上がっているのは見事。やはり本格ミステリは、トリックを生かす舞台と演出が大事。ただトリックの奇抜さに頼っちゃダメなんだよ。
 全く聞いたことのない作家、しかもフランス。まさかこんなストレートな不可能犯罪物の本格ミステリが書かれているとは思わなかった。余計なことを考えちゃだめだよ、こういう作品に。素直に面白いと感じた作品。黄金時代のミステリが好きな人こそ、読むべき作品。個人的には今年の上位に入るな。




伊坂幸太郎『777 トリプルセブン』(角川書店)

 地上二十階建てのウィントンパレスホテルの最上階、2010号室に泊まっている男性にプレゼントを渡してメッセージを伝えるだけ。真莉亜はびっくりするくらい簡単な仕事だと、殺し屋の「天道虫」こと七尾にそう言った。しかしとびきり不運な殺し屋の七尾が、簡単に仕事を追えるはずがなかった。
 乾の会社の事務員で、なんでも記憶することができる紙野結花。その紙野から依頼され、逃がすためにやってきたココ。紙野を強奪するためにやってきたエド、センゴク、ヘイアン、カマクラ、ナラ、アスカの六人組。ココから依頼され、紙野を逃がす手伝いに来た高良と奏田。乾の部下で、清掃ついでに殺し屋もするマクラとモウフ。元国会議員で、現在は情報局長官である(よもぎ)実篤(さねあつ)と秘書の佐藤。
 東京のホテルを舞台に、非合法な者たちが集まってくる。
 2023年9月、書下ろし刊行。

 殺し屋シリーズ第4弾。『マリアビートル』に登場した不運な殺し屋、「天道虫」こと七尾が、「簡単な仕事」の実行中にまたまた巻き込まれる。前回は新幹線から降りられなかったが、今回は超高級ホテルから出られない。
 今回もまたリアリティのない、というか戯画的な登場人物たちが、戯画的な展開を繰り広げる。視覚で楽しむような内容を、文字で楽しむ。徹底的な娯楽作品であるが、最後にひねりを聞かせてくれるのは伊坂流。
 シリーズファンならいつも通りの楽しさに酔っていればいいけれど、なんとなく『マリアビートル』の焼き直しという印象しか出てこない。面白いことは面白いんだけど。




孫沁文『厳冬之棺』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 湖のほとりに建つ(ルー)家の半地下の貯蔵室で、当主陸仁(ルー・レン)の遺体が発見された。この地下小屋は大雨により数日間水没していたにもかかわらず、その床は乾いており、誰かが外から侵入した形跡はない。まさに完全な密室状態だった。そして殺害現場には、なぜか嬰児のへその緒が。梁良(リャン・リャン)刑事は直ちに捜査を開始するが、それを嘲笑うかのように新たな密室殺人が陸家を襲う……。華文ミステリ界の「密室の王」が放つ、本格謎解き小説。(粗筋紹介より引用)
 2018年、中国で発表。2023年9月、邦訳刊行。

 作者の孫沁文(スン・チンウェン)は1987年、上海生まれ。2008年、「雷雨中的密室?人」でデビュー。2021年前に57本の短編を書き、うち44本が密室なため「密室の王」と呼ばれる。本書は著者初の長編ミステリ。
 名家での連続殺人事件。しかもすべて密室殺人。それを解くのは、人気漫画家で警察の非常勤似顔絵師であり、過去に捜査に協力して密室殺人を何度も解決したという安?(アン・ジェン)
 大雨でほぼ水没していた半地下貯蔵室、見張りのいた室内、湖の岸辺にある空中コテージ。いずれも密室殺人が起きた現場である。しかも最後は斬首されている。しかし密室トリックについては強引そのもの。一番目の密室トリックは絶対に実現不可能。二番目は笑っちゃうしかない。三番目は、もう考えるのを止めた。
 内容が、戦後初期に本格探偵小説ブームが始まってから数年後に出されたような出涸らし感がある。そういう意味では懐かしさを感じさせるし、すんなりと読むことはできた。因習に引きずられる旧家での連続殺人という設定は懐かしさを感じたし、フーダニットの部分はそれなりに楽しめたが、だからといって絶賛できるような内容ではない。
 探偵役が人気漫画家、ヒロインが新人声優というところだけは現代っぽさを感じたかな。あざとすぎるぐらいな終わり方は、さっさと続編をかけよと言いたくなるようなもの。なのにまだ書いていないというのは、どういうことなんだろう。
 今まで読んできた華文ミステリと比べると、投稿サイトから本になったような素人っぽさを感じさせた。作者の単行本そのものが少ない理由なんじゃないかな、それが。




今村昌弘『でぃすぺる』(文藝春秋)

 夏休みが終わった二学期の始業式。小学六年生の木島悠介は、月1回の壁新聞に大好きなオカルト記事を書く目的で「掲示係」に男子でただ一人立候補し、すんなり選ばれた。すると一学期の委員長である優等生の波多野沙月が女子の掲示係に立候補し、皆の驚きの中で選ばれた。
 サツキが掲示係を選んだ理由は、昨年の11月末、従姉のマリ姉こと波多野真理子が腹部を刺されて亡くなった事件の謎を解き明かすためであった。奥神祭りが開かれる予定であった運動公園のグラウンドで早朝、マリ姉の死体が発見された。死亡推定時刻は夜中だが、不審な人物どころか本人の目撃証言がまったくない。しかも現場に凶器はなく、うっすらと積もった初雪には第一発見者の足跡しかなかった。誰かが凶器を持ち去ったに違いないが、その人物はまだ見つかっていない。サツキはマリ姉のパソコンから、『奥郷町の七不思議』のファイルを見つける。地元に伝わる怪談ではあったが、どれも微妙に内容が変わっており、しかも怪談が六つしかない。サツキはマリ姉の事件を解くヒントが七番目の怪談にあると思い、壁新聞の取材という名目で調査を行いたかったのだ。
 七不思議の場所を一つ一つ調べるユースケ、サツキ、そしてもう一人の掲示係で、4月からの転校生である畑美奈。オカルト賛成派のユースケ、反対派のサツキ、二人の意見に判断を下す議長役のミナ。三人は七不思議の謎を追い、マリ姉の事件の真相に迫る。(一部粗筋紹介より引用)
 第一章は『オール讀物』2022年11月号掲載。第二章~第五章は書下ろし。2023年9月、刊行。

 屍人荘の殺人シリーズ(って、もっといい名前のシリーズ名をつけた方がいいんじゃないか)の作者によるジュブナイル×オカルト×本格ミステリ。dispelは追い散らす、(心配などを)拭い去る、(闇などを)晴らす、一掃する、という意味。
 主人公の3人が小学六年生なので行動の制限や知識の不備はあるものの、思考に関しては大人とそれほど変わりはない。だから、怪談一つ一つを調査し、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかを、怪談派と現実派が意見をぶつけ、それを議長役が判断を下すという設定は非常に面白い。大人ではなくて小学生ならでは、という思考とアプローチも巧いと思った。それに三人をフォローする大人、逆にブレーキをかけようとする大人がいるところも、「やりたい事」と「やらせない事」のせめぎ合いによる子供たちの葛藤を浮かび上がらせることに成功している。
 本格ミステリの謎に怪談を絡ませるのは、屍人荘の殺人シリーズの作者ならではの面白さであり、作者の得意とするところ。というか、このトリックとネタを思いついたから、ジュブナイル設定にした、という方が正しいのかもしれない。たぶん作者のやりたいことは、全てつぎ込んだのだろう、という筆のノリが感じられた。
 ただ大人の視線で読むと、怪談の秘密も本格ミステリのトリックもそれほど入り組んでいるわけではなく、ちょっと軽いかもしれない。まあ、ジュブナイルだからこういう内容なんだよと言われりゃそれまでだが。
 この内容だったら大人へ向けた宣伝の帯ではなく、小学校高学年に向けての帯にして読んでもらった方がよかったんじゃないかな。作品自体は面白かったが、売り方を間違えている気がする。




アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)

 「われわれの契約は、これで終わりだ」 彼が主人公のミステリを書くことに耐えかねて、わたし、作家のアンソニー・ホロヴィッツは探偵ダニエル・ホーソーンにこう告げた。翌週、ロンドンの劇場でわたしの戯曲『マインドゲーム』の公演が始まる。初日の夜、劇評家の酷評を目にして落胆するわたし。翌朝、その劇評家の死体が発見された。凶器はなんとわたしの短剣。かくして逮捕されたわたしにはわかっていた。自分を救ってくれるのは、あの男だけだと。〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの新たな傑作!(粗筋紹介より引用)
 2022年3月、イギリスで発表。2023年9月、邦訳刊行。

 〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの四作目。過去や私生活のことを教えてくれないことに不満たらたらのホロヴィッツが、ホーソーンにとうとう絶縁宣言を言い渡す。ところが自分の戯曲を酷評した劇評家ハリエット・スロスビーが殺害される。凶器はホロヴィッツがもらったもの、動機もあるし、アリバイはない。『その裁きは死』でホーソーンにコケにされたカーラ・グランショー警部は、喜び勇んでホロヴィッツを逮捕。証拠不十分でいったんは釈放されたホロヴィッツが縋ったのは、当然ホーソーン。法科学鑑定研究所が、ハリエットの服に残されていた毛髪のDNA鑑定を行った結果は、ホロヴィッツの物とほぼ完璧に一致。しかしホーソーンの隣人ケヴィンが研究所のコンピュータにハッキングし、障害を起こさせたので、最大48時間の猶予ができた。ホーソーンとホロヴィッツは関係者を尋ねまわり、事件の真相を探る。なお、戯曲『マインドゲーム』は実際にホロヴィッツが書いて、上演されたものである。
 先に結論から書いてしまうと、面白く読むことはできた。ただそれは、シリーズキャラクターのやり取りの部分。いつも不満たらたらのホロヴィッツと、それをいなすホーソーン。そして事件(作品)を重ねるごとに、少しずつ明らかになっていくホーソーンの過去。シリーズのファンならたまらないであろう。
 ただ、事件の方はさして面白くない。結局被害者の関係者に尋ねまわり、動機と機会を持つ者を探し出すだけの話である。まあ、ちゃんと読んでいれば犯人には辿り着くので、「犯人当て」ミステリとしては間違っていない。ただ、過去の作品を知っている身としては、こんなのでお茶を濁してほしくない、というのが本当のところ。
 ということで、本作品の面白さは、シリーズキャラクターのやり取り。そこに尽きる。過去三作を読んでいない読者はいないだろうから、これはこれでいいのかもしれないが、こういうのが続くと読者は離れていっちゃうぞ。次作はもう少し力を入れた作品を読みたい。2024年4月に本国で出版されるから、邦訳はその翌年か。それまで待つか。




佐藤満春『スターにはなれませんでしたが』(KADOKAWA)

 レギュラー番組19本を数える人気放送作家、トイレ・掃除の専門家、ラジオパーソナリティ、お笑い芸人……様々な顔を持ち合わせオードリーなど多くの人気芸人が信頼を寄せる男サトミツこと「佐藤満春」の自叙伝エッセイ。オードリー若林正恭、春日俊彰、日向坂46松田好花、DJ松永、南海キャンディーズ山里亮太、安島隆(日本テレビ)、舟橋政宏(テレビ朝日)との特別対談も収録。(粗筋紹介より引用)
 2023年2月、単行本刊行。

 放送作家、トイレ・掃除専門家、ラジオパーソナリティであり、オードリーの親友として有名な、どきどきキャンプの“じゃないほう”、サトミツこと佐藤満春の、これまでの人生をまとめた一冊。影が薄い、地味、存在感がない、趣味も特技もない、大勢の中で委縮するなど、とても芸能人とは思えないタイプである佐藤満春が、20年間芸能生活でやってきた理由を振り返る。
 好きなことに真摯に取り組む、という当たり前ながら誰もが簡単にはできないことを続ける。だからこそ、周囲の人たちに信頼され、人と出会い、仕事を続け、増やすことができた。実際のところ、確かに「真面目で堅苦しい」かもしれないが、才能がなければ芸能界で続けていくことはできない。「自分の熱」を信じて突き進むことが、どれほど大切か。自他ともに認める平凡な人物かもしれないが、自分を信じて突き進むことの大切さを教えてくれる一冊である。
 特別対談もお薦めだが、やはり若林、春日との対談は別格。戦友ならではの対談であり、互いを認め合ったからこそ話せる内容でもある。春日のお饅頭のエピソードは初めてだろうか。




深水黎一郎『倒叙の四季 破られたトリック』(講談社ノベルス)

 懲戒免職処分になった元警視庁の敏腕刑事が作成した〈完全犯罪完全指南〉という裏ファイルを入手し、完全犯罪を目論む4人の殺人者。「春は縊殺」「夏は溺殺」「秋は刺殺」「冬は氷密室で中毒殺」。心証は真っ黒でも物証さえ掴ませなければ逃げ切れる、と考えた犯人たちの偽装工作を警視庁捜査一課の海埜刑事はどう切り崩すのか? 一体彼らはどんなミスをしたのか。(粗筋紹介より引用)
 『メフィスト』掲載作品に書きおろしを加え、2016年4月、刊行。

 邪魔になった年上の彼女を、首吊り自殺に見せかけて殺害する。「春は縊殺 やうやう白くなりゆく顔いろ」。
 好きだった彼女と結婚した友人を、夜釣り中の事故に見せかけて溺死させる。「夏は溺殺 月の頃はさらなり」。
 金に困った無職の若者が、資産家の伯父を行きずりの強盗殺人に見せかけて刺殺する。「秋は刺殺 夕日のさして血の端いと近こうなりたるに」。
 12年前に小学生の弟を事故死させた友人を、密室内の練炭自殺に見せかけて殺害する。「冬は氷密室で中毒殺 雪の降りたるは言ふべきにもあらず」。

 ネット上で「完全犯罪完全指南」という、数時間で跡形もなく消えてしまうファイルを手にした人が、完全犯罪を目論んで殺人を犯すも、自らのミスで捕まってしまうという倒叙ミステリ短編集。各短編のタイトルを『枕草子』になぞらえ、そのタイトルに沿った事件内容にしているのが工夫である。
 「完全犯罪完全指南」というギミックはあるものの、内容としては昔懐かしの倒叙ミステリ。犯人が事件を起こすもあるミスをしてしまい、そのミスを警察と一緒に読者が見つけて推理する、倒叙ミステリのフォーマットに沿った作品となっている。作者が「この形式は本格でありながら犯行時やその後のサスペンスも描くことができるので気に入っています」と書いてある通り、かなりのって書いたように見受けられる。
 「夏」だけが一部反則気味のような気もするが、「夏」も含め、犯罪者のミスがフェアに書かれており、読者としても純粋に謎に挑むことができるようになっていて、読んでいて気持ちがいい。作者が提出する謎に、読者が素直に挑むことができる作品集となっている。
 そして「完全犯罪完全指南」というファイルの謎にも最後触れられているのが、本作品集のよいところ。このエピローグがあるおかげで、読後の爽快感が高まった。
 倒叙ミステリの短編集としては、上位に入ってもおかしくない。変に凝らなくても、良いものが書けるじゃないか、と作者に対して思った次第。




ボストン・テラン『音もなく少女は』(文春文庫)

 貧困家庭に生まれた耳の聴こえない娘イヴ。暴君のような父親のもとでの生活から彼女を救ったのは孤高の女フラン。だが運命は非情で……。いや、本書の美点はあらすじでは伝わらない。ここにあるのは悲しみと不運に甘んじることをよしとせぬ女たちの凛々しい姿だ。静かに、熱く、大いなる感動をもたらす傑作。(粗筋紹介より引用)
 2004年、発表。2010年8月、文春文庫より邦訳刊行。作者の第4長編。

 生まれつきの聾者であるイヴ・レオーネが主人公。物語は三部構成で、彼女が1951年に生まれてから約40年の人生が描かれる。ただ原題の"WOMAN"が示すように、複数の女性たちが主人公であると言っていいだろう。イヴの母親であるクラリッサ、イブの恋人チャーリーの元恋人ナタリー・バチェラー、チャーリーの義妹でイヴを慕うミミ。そして、もう一人の主人公と言っていいのが、キャンディストアの女主人であり、イヴと深くかかわることになるフランコニア(フラン)・カール。那智の迫害からアメリカに亡命してきた彼女の壮絶な人生とその生きざまは、読者の心を強く揺さぶる。
 本書は当時のアメリカ、ニューヨークの差別を浮き彫りにしている。人種差別、女性差別、傷害差別。何事にも自由過ぎて生まれる、暴力と犯罪とドラッグ。神を信じようにも、神は存在しない。しかし虐げられ続けても、人は立ち上がり、強く生きていく。そんな強い意志が、乾いた文体の中から滲み出てくる。
 読んでいて非常につらくなる作品だが、それでも物語を先に進めることを止めることができない。まさに「静かなる傑作」。さすがとしか、言いようがない。




東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)

 8月の別荘地。様々な家族が夏を過ごすためにやってくる。総合病院を経営する夫妻と我儘な一人娘、その婚約者。大企業の会長とやり手の妻とその部下家族。経営者の妻と公認会計士の夫のパワーカップルと、中学生の娘。別荘地に移り住んだ未亡人、その命夫婦。そして、いまは空き家になっている別荘。彼らには、毎年恒例の行事があった。それは優雅なバーベキュー・パーティ。いつも通り開催されたその催しが、思いがけない悲劇の幕開けとなる。事件に巻き込まれた家族たちは、真相を自分たちの手で解き明かそうとする。そこに現れたのは、長期休暇中の刑事・加賀恭一郎。私たちを待ち受けていたのは、想像もしない運命だった。(帯より引用)
 2023年9月、書下ろし刊行。

 空き家を含む、5軒が並ぶ別荘地。全員がそろったバーベキュー・パーティが終わった夜中に起きた連続殺人事件。4軒の家族が襲われ、5人が殺され、1人がけがを負った。犯人は次の日の夜、ホテルで“最後の晩餐”を食べた後、支配人に凶器のナイフを見せながら警察に通報してほしいと頼んだ。犯人は東京都在住の無職の引きこもり。犯行の動機は死刑になること。しかし、襲われたどの家族とも接点はなく、なぜ彼らが襲われたのか。そこで生き残った者たちは「検証会」を開くこととした。被害者の一人の付き添いとして、警視庁捜査一課所属で、一定勤続年数以上の者が取らされる強制休暇中の加賀恭一郎が参加する。
 最近の東野圭吾は、読者の感情のコントロールまで計算したような書き方をしているせいか、どうも好きになれないので、シリーズ物以外には手を出す気にならない。本作品も、加賀恭一郎が出ていなければ手に取らなかっただろう。結論から先に言うと、読んでよかった。東野圭吾、やはりすごい。
 東野圭吾にしては珍しい、ストレートすぎる本格ミステリ。なぜ犯人は無関係であるはずの彼らを襲ったのか。事件時の行動の矛盾、彼らの隠されていた秘密。被害者たちが集まっての「検証会」を通し、少しずつ明らかになる真実。加賀は事実と証言から事件を整理し、矛盾点の追求と消去法で真実を求めていく。このストレートすぎる謎と真っ向からの推理がたまらない。特段トリックや仕掛けがあるわけでもないのに、しびれるね、これは。
 読み終わって凄いと感じたのは、無駄な部分が全くないこと。登場人物も舞台も、そしてストーリーやセリフにいたるまで、事件の謎解きに無関係な部分がない。作者からしたら、犯人の行動の流れを決め、それから被害者を配置していき、人物の性格付けをしていっただけかもしれないが、それでどうしてこれだけ読み応えのある作品に仕上がるのかが不思議だ。
 東野ファンからしたら、キャラクターの濃い登場人物による心の動きを楽しみたいところだろうが、今回はそれが全くない。だから東野ファンから見たら物足りないかもしれない。ただ、本格ミステリとしてみたら見事と言いたい。最初から登場する人物が多くて整理が追い付かない、警察の捜査に甘い箇所があるなどの些細なツッコミどころはあるが、これだけの完成度ならスルーしたっていい。
 今年の文春ベストと本ミスの1位はこれじゃないかな。そう思えるぐらいの傑作。東野圭吾は売れる手法のテクニックだけで書く作家に落ちていたわけじゃなかった。



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