宮部みゆき『この世の春』上中下(新潮文庫)
ごめんくださいまし──。宝永七年の初夏、下野北見藩・元作事方組頭の家に声が響いた。応対した各務多紀は、女が連れていた赤子に驚愕する。それは藩内で権勢をほしいままにする御用人頭・伊東成孝の嫡男であった。なぜ、一介の上士に過ぎない父が頼られたのか。藩中枢で何が起きているのか。一夜の出来事はやがて、北関東の小国を揺るがす大事件へと発展していく。作家生活三十周年記念作。(上巻粗筋紹介より引用)
主君・北見重興の押込。下野二万石の小国は、藩主の強制隠居という激震に見舞われた。居城から別邸・五香苑へと移った重興は、元家老の石野織部や主治医にも真実を語らず、座敷牢に籠り、時に少年のように、時に女郎のように振る舞って、周囲を困惑させた。彼は名君主たる人物だったのか。あるいは、非道な殺人者だったのか。謎が深まる中、各務多紀との出会いが、重興の心に変化をもたらす。(中巻粗筋紹介より引用)
ざまをみろ。父を殺したとき、そして、刺客を討ち取ったとき、北見重興が発した言葉。元藩主とは思えぬその言動に、どんな因果が秘められていたのか……。名君と仰がれた今望侯の狂気。根絶やしにされた出土村。城下から相次いで失踪した子ども達。すべての謎は、重興の覚醒とともに真実へと導かれる。ミステリー。サスペンス。そして、歴史。あらゆる技巧が凝らされた「物語の到達点」。(下巻粗筋紹介より引用)
2017年8月、新潮社より上下巻で単行本刊行。デビュー三十周年記念作品。2019年11月、新潮文庫より上中下巻で刊行。
宮部みゆき作家生活三十周年記念作品。『パーフェクト・ブルー』をリアルタイムで読んだ時に人気作家になるとは思ったが、ここまでビッグになるとは思わなかった。
宝永七年(1710年)、下野國にある架空の譜代藩である北見藩二万石におけるお家騒動を舞台にした長編。若き六代目藩主・北見若狭守重興は、一介の郷士から御用人頭まで成りあがった伊東成孝に藩政を任せ切りにしていた。そのため成孝は、家老衆や親戚筋から不評を買っていた。しかし重興は心を病み、重篤により押込(強制隠居)。嗣子はなく、弟は他藩に養子縁組していたため、従兄の尚正が七代藩主となった。成孝は蟄居禁足を申しつけられ、命を受けた乳母の美乃は三歳の嫡男一之助とともに屋敷を抜け出し、長尾村に隠棲する元作事方組頭、各務数右衛門の隠棲所に逃げてきた。数右衛門は翌日、二人を円光寺に送ったが、一介の上司に頼られた理由が、夫に離縁されて家に帰っていた娘の多紀にはわからない。成孝は切腹。そして何も言わないまま数右衛門が病で亡くなり、多紀は一人になったが、そこへ従弟の田島範十郎が訪れ、そのまま多紀を連れてゆく。行き先は湖のほとりにひっそりと建つ北見家の別邸、五香苑。館守は元江戸家老・石野織部。五香苑には、藩医白田家の二男であり、長崎で進学していた重興の若き主治医の白田登がいた。そして岩牢には、切腹したはずの伊東成孝がいた。多紀は伊東との意外な繋がり、母の出自を初めて知る。そして多紀は、五香苑の座敷牢に籠る重興に仕えて世話をすることとなる。
江戸時代の大名ならではのお家騒動という時代物に多重人格や性的虐待などの現代的要素を交え、さらに怪談要素や謎解きまで加え、最後は人の情に振れる物語として仕上げる。さすが、宮部みゆきだ。ミヤベ節、炸裂、と言っていい。
心揺さぶられる登場人物ばかりである。泣きたくなるような過去、怒りに震える理不尽な話、だが未来を見据える希望。闇をすべて払うことはできずとも、この先にある光を目指して歩く姿。怪異に震え、迷宮に戸惑う登場人物と読者を照らす光。読了後の感動は、読者を揺さぶるだろう。
様々な謎と人間模様に彩られたこの物語、読み終わってみて、確かに三十周年記念作品にふさわしい大作であると感じた。
R・D・ウィングフィールド『冬のフロスト』上下(創元推理文庫)
寒風が肌を刺す一月。デントン署の管内では、いつものように事件が絶えない。二ヶ月以上も行方の知れない8歳の少女に続き、同じ学校に通う7歳の少女も姿を消す。売春婦殺しは連続殺人に発展し、ショットガンを振りまわす強盗犯に、酔ったフーリガンの一団、“怪盗枕カヴァー”といった傍迷惑な輩が好き勝手に振る舞う、半ば無法地帯だ。われらが名物親爺ジャック・フロスト警部は、とことん無能で好色な部下の刑事に手を焼きつつ、人手不足の影響でまたも休みなしの活動を強いられる……。史上最大のヴォリュームで贈る、大人気警察小説第5弾。(上巻粗筋紹介より引用)
冬のデントン市内で起きた事件の数々は、大半が未解決のままだった。フロスト警部お得意の行き当たりばったり捜査でたまたま解決したものもあるが、少女を誘拐した犯人や、売春婦ばかりを狙う連続殺人犯はいまだ逮捕できていない。マレット署長の小言には無視を決め込み、モーガン刑事の相次ぐ失態はごまかしてきたが、それも限界だ。被疑者に留置場で自殺された件で州警察本部の調査が入るわ、少女の行方を知っていると断言する“超能力者”が押しかけるわで、デントン署と警部は機能不全の瀬戸際に……。大人気警察小説第5弾。(下巻粗筋紹介より引用)
1999年、刊行。2013年6月、邦訳刊行。
下品で鼻つまみ者でワーカーホリックなフロスト警部第5弾。長期休暇で時間に余裕ができたので、ようやく手に取ってみた。
いつものように事件だらけの毎日。マレット署長の媚び売りによりアレン警部を初めとした人を他地区へ貸し出しているため、さらに人手は足りない。フロスト警部お得意の行き当たりばったり捜査は、なかなか機能しない。そして転勤してきて一時的に部下となったモーガン刑事は好色なだけですぐさぼり、無能すぎて失敗ばかり。
いつものようにモジュラー型の警察小説で、ここぞとばかりに事件が重なるいつもの展開。ただ今回はいつもより重なる件数が多い感じ。下巻途中まで来てもなかなか解決できないからどうなるかと思ったら、最後の方で連鎖反応を起こして次々に解決していく展開はやはりうまい。ただもう少し真相の背景を書いてほしかったかな。
フロスト警部とスタンレー・マレット署長、ビル・ウェルズ巡査部長、アーサー・ハンロン部長刑事当たりとのやり取りは鉄板。前作に続いて登場したリズ・モード警部代行にはもうちょっと良い立ち位置を与えてほしかったところだが。それにしてもモーガン刑事って、四十頃でこの無能さ、よく辞めさせられなかったものだと思ってしまう。
流れとしてはワンパターンかもしれないが、それでも面白く読めてしまうのは構図の綿密さと登場人物の配置の巧みさ、そして会話が下品でいながらも共感できてしまうところ。事件の深層もうまく隠されているし、手がかりの掴み方もうまい。やはりお見事と言いたくなるシリーズであり、作品である。
小倉千明『嘘つきたちへ』(東京創元社 ミステリ・フロンティア)
過疎化が進んだ町で小学校時代を過ごした大地は、二十年以上前の卒業以来初めて東京で同級生二人と再会する。虫取りやスイカ割りなどのノスタルジックな思い出話は、自然と五年生の時に起こった事故の話に移っていく。リーダー格の少年・翔貴が沼に落ちて昏睡状態となり、目覚めぬまま最近亡くなった水難事故の真相とは? 第一回創元ミステリ短編賞受賞作「嘘つきたちへ」など、全五編の“嘘つきたちの競演”。注目新人のデビュー短編集。(粗筋紹介より引用)
2023年、「嘘つきたちへ」で第1回創元ミステリ短編賞受賞。その他書下ろし4編を加え、2025年5月刊行。
ピン芸人一ノ瀬誠がパーソナリティを務めるラジオ番組「ラフナイト&ミュージック」。ラジオネーム「ヘビーいちご」からLINEで自分から自分宛てに身に覚えのない内容のメッセージが届くという便りが届く。しかもその便り、構成作家である山田は選んだ覚えがないという。マネージャーの篠宮夏芽は、届いているメールの中に山田の恋人、遠野小陽の名前を見つける。「このラジオは終わらせない」。
突然の大雨で山を下りられなくなった人達が、レンガ造りの豪邸に避難した。年輩の男が一人、三十代の男が二人、高校生の男女が二人、そしてミステリ好きの瑛太。出迎えたのは老婦人と執事。執事は皆にコーヒーを勧めるが、老婦人は「私の娘を殺したのは誰?」と問いかけてきた。瑛太を除く五人は、いずれも事件を目撃しながら警察に証言せず立ち去ったらしい。コーヒーの中には遅効性の毒が入っており、正直に言わないと処置しないと老婦人は脅してきた。「ミステリ好きな男」。
対往生した新幹線の中。35歳の女性は隣の席に座る女性に、自分は赤い糸が見えると告げる。赤い糸が手首に巻き付いており、絆が強い男女は繋がるという。何も言っていないのに、女性とその隣に座って寝ている男性と赤い糸が繋がっていると指摘した。どうやら赤い糸が見えるというのは本当らしい。「赤い糸を暴く」。
五年二組の八幡湊斗は担任の大野先生に言われ、給食は保健室で長内朔太郎と一緒に食べることとなった。四月に転入してきた朔太郎は二か月間、一度も教室に入ることなく、ゴールデンウィークからは保健室に通い始めるようになった。学校に慣れるきっかけとなるため、クラスメートから湊斗が選ばれたのだ。意外とおしゃべりな朔太郎は、保健室の咲原先生と湊斗に、自分が安楽椅子探偵だったら良かったと話す。そのうち湊斗は、不思議な出来事を話すようになる。「保健室のホームズ」。
紬木大地は東京で二十数年ぶりに幼馴染の一郎、瑞樹と再会した。過疎の町、早良町で育った三人は、小学校卒業後疎遠になった。つむつむ、いっちー、みっちゃんと当時のあだ名で昔のことを話す三人だったが、いつしかあの事故の話になった。彼らのボスであった翔貴が溺れた事故のことを。「嘘つきたちへ」。
作者は1984年山口県生まれ。本作がデビュー作品集となる。
“嘘つきたちの競演”と帯に書かれいてることもあり、どの作品にも「嘘つき」が出てくることは容易に想像できる。作品の肝となるかもしれないネタを最初から表に出して大丈夫かと思っていたのだが、それは杞憂だった。
まずは「このラジオは終わらせない」。これがしびれた。有りがちな設定なのに、シチュエーションと展開を変えるだけでこうも面白くなるのかと感心した。伏線の張り方もうまい。これを冒頭に持ってくるということは、作者も自信があったのだろう。個人的にはこの短編集のベスト。
「ミステリ好きな男」はちょいとひねり過ぎな気もするが、それでも楽しめた。「赤い糸を暴く」もシンプルなネタなのに、最後ここまで背筋が寒くなる結末に持っていけるそのうえでに感心した。
「保健室のホームズ」は一番長い話だが、話があちこちに飛んでしまい、帰って散漫な印象を与える結果になっているのは残念。もっとエピソードを減らしてもよかったと思う。
「嘘つきたちへ」は受賞作にふさわしい出来である。楽しいはずの同窓会が、徐々に緊張感を増す展開になっていくサスペンスが見事である。
会話などにわかりづらい部分があるのは少々残念だが、それでも新人とは思えないほど達者なストーリー作りに感心した。嘘つきが出るとわかっていても、その嘘に驚かされる物語を組み立てられるその腕は確かなものだ。ベスト10は無理だろうが、ベスト20には食い込むんじゃないか、と思わせるほどの出来である。これは次作が楽しみだ。
M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
生放送のトーク番組で、女性蔑視の持論を展開していた自称ジャーナリストの男性が突然倒れ、搬送先の病院で死亡した。男性は脅迫状を受け取っており、警察は殺人事件として捜査を開始する。そのころ、ポーの元に電話が入り、同僚のドイルが父親を銃で殺害した容疑で逮捕されたという。ポーはロンドンから500キロ離れたノーサンバーランド州にいるドイルの元へ向かうが……。〈刑事ワシントン・ポー〉シリーズ第5作。(上巻粗筋紹介より引用)
下院議員の元に第2の脅迫状が届き、ポーはロンドンに戻って捜査を担当するように命じられる。生放送中に倒れた男性の死因は毒によるもので、投与された経緯が不明だったため、下院議員は24時間監視体制で警護されていたが……。一方、ドイルの父親が殺害された時期には雪が降っていて、現場にはドイルの足跡だけが残されていた。ドイルの殺人事件と毒殺犯の両方を負うポーの前に、密室の謎が立ちふさがる。(下巻粗筋紹介より引用)
2022年、発表。2024年8月、邦訳刊行。
国家犯罪対策庁(NCA)重大犯罪分析課(SCAS)部長刑事〈ワシントン・ポー〉シリーズ第五作。“ボタニスト”とは「植物学者」を意味する。
ポーの数少ない友人である病理学者のエステル・ドイルが、父親エルシットを射殺した容疑で逮捕される。拳銃はみつかっていないものの、第一発見者であるドイルの両手からは射撃残渣が検出された。そして屋敷の周りには雪が積もっていて、ドイル以外の足跡がなかったからである。さらに、ドイルと父親の関係はあまり良好とは言えず、父親の遺産は唯一の肉親であるドイルに渡るという遺言状も残っていた。
女性差別主義者のケイン・ハントが生放送中に毒殺される。彼には毒の種類を暗示する詩と押し花が脅迫状として送られていた。そして同様の脅迫状が、複数の賄賂を受け取っていた下院議員ハリソン・カミングスにも届く。ステファニー・フリン警部たちはカミングスを高級ホテルに隔離し、24時間体制で監視するが、それにも関わらず彼は毒殺されてしまう。
ステファニー・フリン警部も仕事に復帰し、ポー、そしてティリー・ブラッドショー分析官の三人が揃って難事件に挑む。シリーズ初期とは異なり、互いの性格や能力を把握し、信頼関係を深めた三人のやり取りは、読んでいて実に楽しい。日本ではセクハラに該当しそうな下品な会話もあるが、そこもまた楽しめるポイントである。
ポーたちが立ち向かうのは、“ボタニスト”による連続毒殺事と、ポーたちの友人であるエステル・ドイルの父親殺人事件。片や監視下の殺人、片や雪の密室という、二つの密室殺人が登場する。特に後者に関しては、ポーがディクスン・カーかとが突っ込むところが笑える。
密室トリック自体、さして珍しいものではない。雪の密室の謎は、描き方によっては読者の怒りを呼ぶかもしれないものである。毒殺事件の方も類例はあったはずだ。しかし本作品の秀逸なところは、トリックの解明がそのまま事件の解明に直結するわけではなく、物語が次の展開に進むところにある。
本作はこれまでのクレイヴン作品と異なり、フーダニット、フワイダニットが二転三転する展開とはなっていない。ハウダニットの謎こそあるが、主眼はポー、ブラッドショー、フリンが2つの事件に立ち向かうその姿だ。阿吽の呼吸と言ってもいいやり取り、犯人ボタニストに向かって連携しながら突き進む彼らの姿は、解説の酒井貞道が言う“娯楽小説”の魅力を存分に発揮している。ポーが首をひねった箇所を、結末までにすべて回収するストーリー構成も見事だ。
さらに過去作品で触れられていたとはいえ、ポーとドイルの関係に変化が生じる点も面白い。これまた“娯楽小説”ならではの醍醐味といえる。
ポー(とその仲間たち)対ボタニストという構図を存分に楽しめる傑作。そしてシリーズの今後の展開にも期待が高まる。ポーの友人がブラッドショー、フリン、ドイル、そして隣人のヴィクトリア・ヒュームの四人しかいないというのも、少しは変わるのだろうか。
ジェフリー・ディーヴァー『ロードサイド・クロス』上下(文春文庫)
路傍に立てられた死者を弔う十字架――刻まれた死の日付は明日。そして問題の日、十字架に名の刻まれた女子高生が命を狙われ、九死に一生を得た。事件は連続殺人未遂に発展。被害者はいずれもネットいじめに加担しており、いじめを受けた少年は失踪していた。尋問の天才キャサリン・ダンスは少年の行方を追うが……。大好評シリーズ第二作。(上巻粗筋紹介より引用)
ネットいじめに端を発する事件は殺人にエスカレートした。犯人は失踪した少年なのか? ダンスは炎上の発端となったブログで報じられた交通事故の真相を負う。ネット上の悪意が織りなす迷宮。その奥底にひそむのは悪辣巧緻な完全犯罪計画。幾重にも張りめぐらされた欺瞞と嘘を見破った末、ダンスは意外きわまる真犯人にたどりつ! (下巻粗筋紹介より引用)
2009年、刊行。2010年10月、文藝春秋より邦訳単行本刊行。2013年11月、上下巻文庫化。
『スリーピング・ドール』に続く、キネシクスの専門家キャサリン・ダンスシリーズ第二作。前作から数週間後の設定である。キネシクスとは、観察対象となる人物のボディランゲージや言葉の選択、声の抑揚を分析する科学であり、ダンスはいわば「歩く嘘発見器」だ。
本作のテーマはネットいじめ。ブログによる晒し上げや誹謗中傷といった問題は現在でも深刻だが、いじめ自体は2000年代前半から社会的な課題とされてきた。そのため、テーマとして目新しさはないものの、完全犯罪へと発展する巧妙な手口や、結末に向けてのどんでん返しは、さすがディーヴァーの手腕といえる。
とはいえ、本作にはいくつか不満な点もある。特にダンスの活躍が今ひとつで、犯人に振り回され、「尋問の天才」ぶりを十分に発揮できていないことが問題だ。言葉は悪いが、「間抜けな刑事」の役割を担わされているようにも思える。さらに、ダンスが男性に好意を向ける展開は、作中でその動機が描かれているとはいえ、やや蛇足に感じられる。「尋問の天才」としての魅力を際立たせるためには、こうした人間的な感情をあえて排除した方が面白くなるのではないだろうか。また、ダンスの母に別の容疑がかかる展開も不要だったように思う。
総じて、面白くはあるものの、もう少し事件の展開に重点を置いてほしかったというのが正直な感想だ。シリーズの主役に恋愛要素が加わるのは個人的には好きな展開なのだが、このシリーズに限っていえば、もう少し後の方が良かったのではないだろうか。
岡本好貴『電報予告殺人事件』(東京創元社)
ヴィクトリア朝大英帝国の巨大情報網の核となった電信事業。それを担う一員である電信士のローラ・テンパートンは、仕事と家庭を持つという夢の間で悩む日々を送っていた。ある晩、彼女は電信局を訪れた局長アクトンの甥ネイト・ホーキンスを案内するが、アクトンは密室と化した局長室で死体となって発見された。容疑者と目されたネイトの無実を確信したローラは、自らの職能を活かして調査に乗り出す。翌日、警察署には謎めいた電報が届くが、そこには被害者アクトンともう一つ別の名が記されており……。
本格ミステリならではの趣向を随所に凝らした第三十三回鮎川哲也賞受賞第一作。(粗筋紹介より引用)
2025年5月、書下ろし刊行。
鮎川賞受賞作『帆船軍艦の殺人』がスマッシュヒットを飛ばした岡本好貴の受賞後第一作。前作は18世紀末の英国・帆船軍艦という異色の舞台であったが、本作はヴィクトリア朝大英帝国の電信局が舞台。ということは、だいたいヴィクトリア朝後期、19世紀末頃になりそうだ。
電信局が舞台というミステリを知らないので、その点については楽しく読めた。ただ、密室毒殺事件、好意を抱いた人物の無罪を晴らすべく調査に乗り出す若き女性、そして次の事件を予告するかのような電報……。あまりにも古典的な筋立てである。少しは新味があるかと思いながら読み進めてが、結局最後まで古典的な本格ミステリのままで終わってしまった。密室トリックも電報トリックも既知のものの応用だし、主要登場人物の性格付けや行動、ミステリとしての展開が「いつか見た風景」そのものなのだ。まあ、そつなくまとまってはいたが。
さて、これを“古き良き”と取るか、それとも“古臭い”と取るか。私は後者かな……。具体的なトリックはともかく、この先はどうなるかという点について、ミステリを少し読んだ人なら予想できるというのは大きなマイナスだと思う。読んでいて退屈はしなかったという点については、筆力があると思うが。
駄犬『誰が勇者を殺したか 勇者の章』(角川スニーカー文庫)
魔王討伐から数年後、王国で開催されている慰霊祭で亡くなった者たちに祈りを捧げる勇者たち。王都が祭りの喧騒に包まれる中、勇者はかつて旅の始まりで出会ったリュドニア国の姫と再会を果たす。少し緊張した面持ちで言葉をかける彼に、姫は冷たく重い声で「リュドニアの勇者を殺したのはあなたですか」と糾弾する。かの勇者が姫の兄であり王子だったことを思い出した彼は、心にかすかな痛みを覚えながら「王子を殺したのは魔物シェイプシフター。あなたもご存じのはず」と伝えるのだが……。これは旅の始まりで出会った、もうひとりの勇者と姫の物語。(粗筋紹介より引用)
2025年5月、書下ろし刊行。
「誰が勇者を殺したか」シリーズ第三弾。魔王討伐から数年後の慰霊祭。ザックがリュドニア国の姫・エレナと出会い、当時のことを思い出すー。それは魔王討伐の旅の始まり。勇者ザック、剣聖レオン、聖女マリア、大賢者ソロンが最初に立ち寄ったリュドニア国で出会った「リュドニアの勇者」カルロス王子の話。
続編が出たのも驚いたが、まさか第三弾が出るとは思わなかった。今回は魔王討伐の旅の始まり、そう、今まで描かれていなかったザックたち4人の旅と戦いが出てくるのだ。まだ信頼しきれていないザック以外の3人の関係とやり取りは楽しいし、魔人や魔物との戦いはザックらしさに溢れていて、「勇者」という存在を改めて認識させられる。
今回メインとなるのはカルロス王子の話だが、彼をめぐる謎そのものは割とありがちな設定。ただその謎とザックたちを絡める展開が素晴らしい。「勇者」という光輝く存在の裏にある影の描き方が、作者は非常に巧い。「誰が勇者を殺したか」のミーニングを、ここまでうまく使い切る作者に脱帽である。
続刊が出るのは明らかだろう。コミックスの第1巻も7月刊行予定。まだまだこのシリーズ、楽しめそうだ。それにしても、マリアが報われる日は来るのだろうか。
デニス・ルヘイン『ミスティック・リバー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
境遇を超えて友情を育んできた、ショーン、ジミー、デイヴ。だが、十一歳のある日、デイヴが警官らしき男たちにさらわれた時、少年時代は終わりをつげた。四日後、デイヴは戻ってきたが、何をされたのかは誰の目にも明らかだった。それから二十五年後、ジミーの十九歳の娘が惨殺された。刑事を担当するのは刑事となったショーン。そして捜査線上にはデイヴの名が……少年時代を懐かしむすべての大人たちに捧げる感動のミステリ。(粗筋紹介より引用)
2001年、発表。2002年、アンソニー賞長編賞受賞。2001年9月、早川書房より邦訳単行本刊行。2023年12月、文庫化。
探偵パトリック&アンジーシリーズでデビューしたデニス・ルイヘンの、ノンシリーズ長編。2003年にはクリント・イーストウッド監督によって映画化され、高い評価を得た。
舞台は、ボストン北部を流れるミスティック川沿いの小さな町、イースト・バッキンガム。少年期から友情を育んできたショーン・ディヴァイン、ジミー・マーカス、デイヴ・ボイルの三人は、11歳のときに起こった悲劇的な事件によって疎遠になった。1975年、デイヴは警官を装った二人組によって誘拐され、4日後に自力で脱出。その間に何が起こったのかは語られることはなかったが、デイヴが何をされたのかは明らかだった。
それから25年が経過し、2000年。ショーンは州警察の刑事となり、ジミーは犯罪の世界から足を洗って雑貨店を経営。デイヴは薄給ながらも妻子と平穏な生活を送っていた。だが、ある日、ジミーの娘である19歳のケイティが射殺される。慟哭するジミー。ショーンはホワイティ・パワーズ警部の下で事件を担当。やがて容疑者の一人としてデイヴの名前が浮上する。
少年時代の友情、そして過酷な運命。過去に絡め取られた三人が再び交錯する時、物語は予測不能な展開を迎える。ルヘインは緻密な筆致で事件を描き、各人物の視点を通じて異なる角度から物語を浮かび上がらせる。
長編ながら一切の無駄がなく、真相が明かされるまで張り詰めた緊張感が持続する。登場人物の嘆き、悲しみ、困惑、怒りが、まるで目の前で繰り広げられているかのように鮮烈に描かれる。そして、ラストは圧巻。過酷な運命を背負いながらも、ミスティック川はただ静かに流れ続ける。悲しみを洗い流すわけではなく、ただ時の流れに身を委ねるのみ。痛ましい物語でありながら、不思議な感動が胸に迫る。
重厚な人間ドラマの傑作。映画化したくなるのも間違いない、心に深く刻まれる作品である。
島田荘司『リベルタスの寓話』(講談社文庫)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナで、酸鼻を極める切り裂き事件が起きた。心臓以外のすべての臓器が取り出され、電球や飯盒の蓋などが詰め込まれていたのだ。殺害の容疑者にはしかし、絶対のアリバイがあった。RPG世界の闇とこの事件が交差する謎に、天才・御手洗が挑む。中編「クロアチア人の手」も掲載。(粗筋紹介より引用)
「クロアチア人の手」は『メフィスト』2007年5月号掲載、「リベルタスの寓話」は『メフィスト』2007年9月号掲載。2007年10月、講談社より単行本刊行。2010年、講談社ノベルス化。2011年8月、講談社文庫化。
構成は「リベルタスの寓話(前編)」「クロアチア人の手」「リベルタスの寓話(後編)」になっている。「リベルタスの寓話」はボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタルで起きた四人殺人事件。三人は首と胴体が切り離され、一人は臓器が取り出され、電球や飯盒の蓋などのガラクタが詰め込まれていた。一方の「クロアチア人の手」は、俳句のコンテストで選ばれて来日した二人のクロアチア人のうち、一人は密室になっていた相手の中でピラニアの水槽に顔を突っ込んで齧られ、さらに右手はなくなっていた。もう一人は交通事故に逢い死亡した。
どちらの作品も背景にあるのは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争。おそらく多くの日本人は興味をもたない、知らない紛争であったろう。しかし世界ではいつでもどこでも扮装が起き、民族同士の争いが起きている。そんな事実を知ろうとしない、報道しない日本にいら立っているかのような作品である。
それでも奇抜なトリックを使い、本格ミステリに仕立て上げようとするその姿勢は凄いと思う。ただ、その方向がどんどん奇妙奇天烈な方向に向かっているのはどうかと思うが。どちらもスウェーデンにいる御手洗が資料を受け取り、話を聞いて謎を解くのだが、お前は超能力者かと言いたくなるぐらいの洞察力だ。それに、「クロアチア人の手」の密室トリックは馬鹿馬鹿しいの一言。犯人も超能力者か、と言いたくなるぐらいである。海野十三もびっくりだ。
はっきり言ってしまえば呆れるばかりの作品だが、よくぞまあこんなことを考え付くなという意味では感心するかもしれない。ただ、相変わらずの独りよがりな印象が強すぎた。それでも、御手洗が石岡のことを好きなんだなというのが垣間見えて、そこだけは微笑ましかった。忙しいというのならばすぐに答えを言った方が短時間で済むはずなのに、推理の道筋を毒舌ながら懇切丁寧に教えるくだりは、ツンデレ全開である。
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