黒澤いづみ『人間に向いてない』(講談社文庫)

 ある日突然発症し、一夜のうちに人間を異形の姿へと変貌させる病「異形性変異症候群」。政府はこの病に罹患した者を法的に死亡したものとして扱い、人権の一切を適用外とすることを決めた。十代から二十代の若者、なかでも社会的に弱い立場の人たちばかりに発症する病が蔓延する日本で、異形の「虫」に変わり果てた息子を持つ一人の母親がいた。あなたの子どもが虫になったら。それでも子どもを愛せますか? メフィスト賞受賞作!(粗筋紹介より引用)
 2017年、「異形性変異症候群」で第57回メフィスト賞受賞。2018年、改題改稿の上、講談社より単行本刊行。2018年6月、文庫化。

 10代、20代の引きこもりやニートと呼ばれている層が一夜で異形の姿に変化してしまう、致死率100パーセントの病、「異形性変異症候群(ミュータント・シンドローム)」。変化する姿は哺乳類、魚類、爬虫類、昆虫、植物など様々で、見た目は非常のグロテスク。異形となったものは「変異者」と呼ばれ、人間として扱われることはなくなる。主人公である専業主婦の田無美晴は、22歳で部屋に引きこもりのひとり息子、優一が中型犬ほどの蟻のように頑丈そうな顎を持ち、頭部から下は芋虫に似ており、人間の指の形をしているが百足のように無数の脚を持つ虫に変化しているのを発見する。「ただの気味の悪い生物」として棄ててしまおうとする夫・勲夫に抵抗し、優一を育てていこうとする美晴。
 まずは表紙がグロテスクだし、病気そのものの内容もグロテスクだが、物語自体はホラーではなく、家族問題、現代社会問題に切り込んだ社会派の小説である。
 見た目がどのようになっても、息子に愛情を注いでいく母の姿。ただ、自分はこれを美しいとは思えないんだよなあ。母親の愛情が重たすぎるからじゃないか、とも思っているし、子供側の甘えもある。冷たいと言われようと、父の気持ちもわかる部分がある。家族なんて、ぶつかり合うのが当たり前じゃないかな。そりゃ根底には愛情があってほしいけれど。
 変異者の家族が集まる「みずたまの会」の書き方は非常にリアル。気が付けば派閥ができていたり、上下関係を持ち込んだり、お金の問題が出てきたり。設立の志が高くても、人が集まるとそこに損得勘定が発生してしまう。淋しいね。
 ただ物語の流れはありきたりというか。リアリティを求めると、どうしても見たことのある風景になってしまうのは仕方がないことなのかもしれない。ただ、ラストもメタモルフォーゼ作品にはありがちな内容なのはちょっと勿体ない。
 ホラー要素を社会問題に絡ませた力作。これでもう少し意外な展開があったら、傑作と呼ばれていたかもしれない。

櫻田智也『失われた貌』(新潮社)

 県都・花森市のベッドタウンとして発展した媛上(ひめかみ)市の山奥で、顔を潰され、乱雑に髪を切られ、歯を抜かれ、手首から先を切り落とされた身元不明の死体が発見された。J県警媛上警察署捜査係長・日野雪彦と、29歳の入江文乃巡査部長が現場に駆けつける。同じく現場に駆けつけた県警本部刑事部鑑識課の鷹宮検視官は、本日の地元週刊誌「北光ウィークリー」の投書欄に媛上署への苦情が掲載されたことを挙げ、慎重かつ迅速な捜査を指示するとともに、日野の同期である生活安全課長の羽幌警部を揶揄した。翌日、駒根市のアパートで見つかった変死体の殺害現場の住人であり、脅迫の前科を持つ元探偵の八木辰夫と遺体の特徴が一致したから、駒根署との連携役を担えと鷹宮が日野へ直接指示してきた。鷹宮には、次の異動で駒根署長という話が出ているらしい。一方羽幌には、投書をした上村杏子が訪ねてきた。遺体が10年前に失踪した小沼憲ではないかと尋ねてきたが、血液型が違っていた。しかも小沼憲の息子である10歳の隼人も生活安全課に訪ねて来て、同じことを聴いてきた。捜査の主導権は駒根署が持ち、不満たらたらの入江をなだめつつ、日野は捜査に挑む。
 2025年8月、書下ろし刊行。

 魞沢泉シリーズで本格ミステリ界に新風を吹き込んだ櫻田智也の初の長編は、まさかの警察小説であった。主人公である日野は、組織の思惑に振り回されつつ地道な捜査を続け、ある意味周囲を出し抜く形で事件の真相に迫っていく。
 はっきり言えば地味。快刀乱麻のごとき推理があるわけでもない。ただただ捜査を続け、運よく証拠品を掴み、そして真相に迫っていく物語だ。
 しかし凄いのは、全てのエピソードがエンディング(事件解決とは言っていない)まで密接に絡み合っていること。読み進めるうちに「これが伏線だったのか」と思わず膝を打つこと、間違いなしである。物語の流れを損なうことなく、ここまで精密に手掛かりを散りばめるのは大変だっただろう。そしてテクニックに引きずられることなく、読み応えのあるプロットが仕上がっているのも好印象である。唯一の不満は、貌をつぶした動機がちょっと弱いところか。
 主人公である日野の姿や行動が、どことなくハードボイルドの雰囲気を漂わせる。はっきり言えば、ロス・マクドナルドの作風だ。プロットの複雑さ、家族の秘密に迫るところなどもよく似ている。ただ、ロスマクほど後味は悪くない。
 おそらく今年のベスト候補だろう。もちろん今後出る作品もあるからどうなるかはわからないが、現時点ならどのベスト本でも5位以内に入ると思われる傑作である。
 ただ問題は、作品よりも売り方かな。言い方が悪いけれど、この帯の惹句は過剰。「本物の「伏線回収」と「どんでん返し」をお見せしましょう!」などと無理に煽る必要はなかっただろうに。もうちょっと作品のトーンに合わせた、落ち着いた雰囲気の誉め言葉はなかったのか。多分読者の二割は読後の印象が異なり、帯に騙されたと言い出すような気がする。

逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)

 自動車期間工の本田昴は、Twitterの140字だけが社会とのつながりだった2年11カ月の寮生活を終えようとしていた。最終日、同僚がSUVブレイクショットのボルトをひとつ車体の内部に落とすのを目撃する。見過ごせば明日からは自由の身だが、さて……。以降、マネーゲームの狂騒、偽装修理に戸惑う板金工、悪徳不動産会社の陥穽、そしてSNSの混沌と「アフリカのホワイトハウス」――移り変わっていくブレイクショットの所有者を通して、現代日本社会の諸相と複雑なドラマが展開されていく。人間の多様性と不可解さをテーマに、8つの物語の「軌跡」を奇跡のような構成力で描き切った、『同志少女よ、敵を撃て』を超える最高傑作。
 2025年3月、書下ろし刊行。

 逢坂冬馬の新作は、まさかの現代が舞台。本書に出てくる「ブレイクショット」は架空のSUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)のことであるが、ビリヤードの最初のショットも絡んでくる。
 プロローグの主人公は自動車期間工の本田昴。冗談みたいな名前だが、本名である。第一章の主人公は、新興ヘッジファンド会社副社長である霧山冬至。第二章は、職人気質の自動車修理工、後藤友彦。第三章は、10歳のときに同じユースチームに入り、将来の夢はプロサッカー選手である後藤晴斗と、それを応援する霧山修悟。二人は冬至と友彦の息子である。第四章はブラック不動産会社の社員、十村稔。第五章は、愛する霧山冬至の夢を叶えるために人気YouTuberの経済塾のスタッフになる後藤晴斗。そして第六章は……。章と章の合間には「アフリカのホワイトハウス」というタイトルで、中央アフリカ共和国の兵士が出てくる。
 物語に絡んでくるのは「ブレイクショット」。最初はオムニバスかと思わせたが徐々にきな臭くなり、最後は反社会組織も登場する事件に発展する。
 ヘッジファンドやYouTuber、投資詐欺、LGBTなど現代的な話題を取り上げ、時の経過とともに輝かしい未来と破滅する未来を対峙させていく描き方が非常に巧い。思わず感情移入して応援したくなる人物も出てくれば、逆にどんどん泥沼にはまっていき読者の留飲を下げる人物も出てくる。そこに出てくる欲望はいずれも実感できるものであり、非常にわかりやすい。もちろん、実行に移してはまずい欲望もあるが。
 最後の最後まで気の抜けない展開、登場人物の意外な背景、気が付かないうちに張られていた伏線。もつれていた糸が最後に全てほぐれていく結末は圧巻だ。
 今まではどちらかというと題材に頼っていた感のある作者であったが、本作で大きく化けた。これは2025年のベストに挙がってもおかしくない傑作だ。

ピーター・スワンソン『9人はなぜ殺される』(創元推理文庫)

 ある日、アメリカ各地の9人に、自分の名を含む9つの名前だけが記されたリストが郵送されてくる。差出人も意図も不明。受け取ってすぐに捨てた者もいた。だがその後、リストの人々が次々に死に始める。まずホテル経営者の老人が溺死。そして翌日、またひとり、男性がランニング中に射殺される。FBI捜査官のジェンカは、残りの人々の特定を進める。自分も、死んだふたりと同じリストを受け取っていたのだ。次は誰が殺されるのか? 職業も居住地も違う9人のつながりは何なのか? 驚愕の展開の連続で読者を翻弄しつづける極上のサスペンス!(粗筋紹介より引用)
 2022年、アメリカで発表。2025年6月、邦訳刊行。

 今までもミステリ好きだと思わせるネタを作中に絡めてきたピーター・スワンソンであったが、本作はアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』スワンソン版である。関係どころか繋がりすらない9人の名前だけ記されたリストが送られてきて、1人ずつ殺されていくのだ。
 しかし『そして誰もいなくなった』と異なり、9人が一堂に会するわけではない。そこが大きな問題点である。1人ずつ自らの生活環境の中で殺害されていくので緊張感に欠けるし、そもそもサスペンス性が全くない。それぞれの周辺人物を書くから、登場人物が増えるばかり。さらに9人の共通点が結末近くにならないと出てこない。これもまたサスペンス度を低下させる大きな原因となっている。そして見立てがあるわけでもない。こうないない尽くしでは、『そして誰もいなくなった』の良さをどんどん削っていっている結果となっている。
 最も問題なのは、犯行動機に納得できない。こんな動機で連続殺人事件を起こすんじゃない、と言いたくなる。殺害される方も、もし聞かされていたら理不尽だと嘆くだろう。
 最後の蛇足みたいなエピソードは何? ここでこのエピソードが入る理由も不明である。
 言っちゃ悪いが、最初から最後まで間違った方向で書かれた長編、それが本書である。これをクリスティが読んだら怒りそうだ。今までの巧さはどこへ行ったんだと泣きたくなった。それでも新作が出た買うとは思うが。

方丈貴恵『アミュレット・ワンダーランド』(光文社)

 アミュレット・ホテル別館は犯罪者による犯罪者のためのホテル。「ホテルに損害を与えない」「ホテルの敷地内で傷害・殺人事件を起こさない」という、二つのルールさえ守れば、どんな非合法なサービスでも受けられる。しかし、その最低限の掟も破られることがしばしば。客室でライブ配信中に殺された動画配信者、バーで落とし物を巡る争奪戦、バトルロイヤルのごとき殺し屋コンペ、そして、爆弾魔との限界心理対決……施設の治安はホテル探偵が守る。(帯より引用、一部追記)
 『ジャーロ』93、95、97、98号(2024年3月~2025年1月)掲載。加筆修正のうえ、2025年7月刊行。

 アミュレット・ホテル本館15階の高級フレンチ・レストランで開かれたジャズ・ピアノ・リサイタルで、宝石盗難事件が発生。事件は女性ホテル探偵の桐生が無事に解決したが、不在中に別館で殺人事件が発生。裏の世界で人気の動画共有サービスSin(罪)Tubeの人気新チューバー、元双子の怪盗の弟・杉川奇句が生配信中に殺害されたのだ。しかも殺された部屋は、宿泊客の7割が逮捕された曰く付きの813号室だった。そして犯行時刻前後に誰も部屋へ出入りした者はいないという証言者が、男性オーナーの諸岡を含め3人いた。「Episode1 ドゥ・ノット・ディスターブ」。
 アミュレット・ホテル別館のラウンジ&バー『ブラック・カイザー』に、業界二番手の闇の人材派遣会社『カリブ』の社長で常連かつ彼女に振られて落ち込んでいる野村が、エレベータホールに置かれているグランドピアノの中に茶色い紙袋があったと届けてきた。ホテルでは、フロントでなく『ブラック・カイザー』で保管する決まりになっている。新人男性で配膳担当兼遺失物係の矢崎は、バーテンダー兼教育係の女性小泉とともに紙袋を開けてみると、黒の靴下片方とカモノハシのぬいぐるみ、高価な宝石が付いたブレスレットが入っていた。ホテルで落し物があると、慾に駆られた犯罪者が次々と遺失物係に押し寄せ、自分のものだと争奪戦になる落とし物合戦が始まってしまう。だから『遺失物の照会は一度だけ』『特徴を完璧に証明できる人間にしか引き渡さない』というルールがあった。そして今回も、落とし物合戦が始まった。「Episode2 落とし物合戦」。
 イタリア系犯罪組織『ユピテル』のボスであるソフィア・トゥオーノにより、アミュレット・ホテル別館で殺し屋コンペが開かれるという情報が諸岡のところに入った。ターゲットは諸岡の右腕的存在である、フロント係の男性水田。水田は昔、妹と共に『ユピテル』で、ターゲットを探し出して確保もしくは殺害する「追跡者」として働いていた。10年前、妹は妊娠を機に組織を抜けようとしたが、ソフィアの父である当時のボス・エツィオはそれを許さず、用心棒カリストを含む二人組に殺害させた。水田は翌日、エツィオとカリストに復讐したが、もう一人は名前がわからないままだった。水田を警護するため、諸岡と桐生、ホテル警備担当の田中と鈴木は、警護をするために最も最適な会議室「タイタンの間」に入るも、コンペはすぐに始まってしまった。「Episode3 ようこそ殺し屋コンペへ」。
 アミュレット・ホテル別館13階パーティーゾーンで、結婚式が行われた。新郎は詐欺王・陸奥の一人息子、新婦は『ユピテル』幹部の娘エマ。まさに犯罪業界の『ロミオとジュリエット』は紆余曲折の末、ようやく式を挙げることができ、犯罪業界の大物50名ばかりが式で祝福した。ホテル10階より上は高層フロアで、VIP会員しか入れない。ホテル警部スタッフの9割が集められ、他の宴会場はすべて休業状態。しかし6階で殺人事件が発生。桐生がそちらへ向かうと、諸岡のスマホに見知らぬ番号から着信があった。式から抜け出し、ゾーンの外にあるバー『ババヤガ』に入った途端、花火による爆発があり、棚が破壊された。スマホの相手はボマー(爆弾魔)と名乗り、13階に時限爆弾を仕掛けたと脅してきた。犯人は1時間後に爆発するまでに、ホテルの権利全てをよこせと脅迫してきた。「Episode4 ボマーの殺人」。

 犯罪者専用のホテル、アミュレット・ホテル。殺人事件が起きたら、その場でホテル探偵桐生が調査・解決する連作短編集第二弾。前作『アミュレット・ホテル』と比べ、桐生が颯爽と事件を解決する作品ばかりとなっており、エンタメ要素は大幅にアップ。そして半z内者専用のホテルという舞台を生かし、犯人が限られた人数という状況を作り出し、残された証拠や条件から犯人を推理するという本格ミステリの要素をうまく絡め、さらにホテル内で解決するというタイムリミットサスペンスの要素も加わっているから、読んでいてワクワクと楽しめる作品集に仕上がっている。各作品にまたがるホテルスタッフもいるから、登場人物にも感情移入しやすい。「Episode3 ようこそ殺し屋コンペへ」のようなアクション満載の作品もあれば、「Episode2 落とし物合戦」のようにユーモアあふれる作品もあり、バリエーションが広い。事件のトリック自体は既知のものが多いが、舞台設定を変えるとこうも面白く料理できるものかと感心した。
 娯楽性抜群で謎解き要素も楽しめる作品集。作者がここまで巧く描けるとは思わなかった。これは大化けしたかな。そろそろドラマ化しそう。そうなれば大ヒットしそうだ。ベスト云々を抜きにして、時間を忘れて面白く読めるぞ、とお薦めできる一冊である。

R・D・ウィングフィールド『フロスト始末』上下(創元推理文庫)

 今宵も人手不足のデントン署において、運悪く書内に居合わせたフロスト警部は人間の足遺棄事件と連続強姦事件、スーパー脅迫事件を押し付けられる。そこへ赴任してきたスキナー主任警部は、さながらマレット署長の小型版(体系は大型版)で、フロストを移動させるべくやってきた御仁だ。署長と主任警部のイヤミ二重唱を聞かされ続け、超過勤務をぼやきつつも、フロスト警部は捜査をやめない、やめられない。経験の浅い見習い婦人警官や、頼りにならない駄目刑事と行動するうちに、さらなる難事件が……。超人気警察小説シリーズ最終作。(上巻粗筋紹介より引用)
 デントン署を去らざるを得ない状況に追い込まれたフロスト警部だが、刻一刻と期日が迫るなか、厄介な事件の数々は一向に解決の兆しを見せない。少女の強姦殺人、スーパーマーケットへの脅迫、別の少女の行方不明……。根性なしのマレット署長といけ好かないスキナー主任警部の助力は望むべくもない。フロストはガタのきた身体に鞭打ち、ない知恵を無理やり絞り、わずかな部下を率いながら、睡眠時間を削って捜査に当たる。法律をねじ曲げ、犯人との大立ち回りまで演じる、破れかぶれの警部の行く手に待つものは? 超人気警察小説シリーズ最終作。(下巻粗筋紹介より引用)
 2008年、イギリスで刊行。2017年6月、邦訳刊行。

 2007年に亡くなった作者の遺作。当初のタイトルは"An Autumn Frost"(秋のフロスト)だっが、出版社によって"A Killing Frost"と改題されている。
 いつものように事件だらけの毎日であるし、いつものように人では足りない。一緒にいるモーガン刑事は例によって使い物にならない。そしてフロストを追い出すべくやって来たジョン・スキナー主任警部は、部下を働かせるだけ働かせて手柄だけ自分のものにする嫌なやつ。そして領収書の偽造も見つけ、引き換えにフロストを追い出す辞令が出てしまった。
 このシリーズでは少年少女が犠牲者になる事件が多いが、本書では特にひどい。あまりにもひどい。読んでいて気分が悪くなる人もいるんじゃないかと思うぐらいだ。他にも今回は暗いイメージの事件が多く、フロスト自身の下品なジョークも切れ味が今一つ。さらに予想外な展開も待ち受けていて、作者自身の体調の悪さが作品に投影されてしまったのかなと思ってしまった。
 それでも事件の結末は気になるし、フロストがどうなってしまうのかという点も気になる。結局ページを捲る手は進んでしまう。なんだかんだ言って、面白いんだよなあ。
 これでシリーズが終わりかと思うととても残念。それでも遺族の許可を得たJ・グーバットとH・さっとんという二人組が、ジェームズ・ヘンリーというペンネームで巡査部長時代のフロストを描いた長編を発表しているとのこと。出来はどうかは気になるが、とりあえず一冊くらい読んでみたいものだ。

トマス・H・クック『蜘蛛の巣のなかへ』(文春文庫)

 余命短い父を看取るため、二十数年ぶりに故郷の田舎町へ戻ってきたロイ。かつて弟が自殺した事件の真相を探るうち、一生を不機嫌に過した父の秘密を知ることになる。そして町を牛耳る保安官の不審な行動。蜘蛛の巣のような家族と地縁のしがらみに搦めとられるロイは、だが次第に復讐のターゲットを見出して行く。(粗筋紹介より引用)。
 2004年、発表。2005年9月、邦訳刊行。

 寄宿学校の職員であるロイ・スレーターは、19歳のときに奨学金を獲得してカリフォルニアの大学に行くために家を出たが、一人暮らしの父ジェシーが肝臓がんにかかって余命わずかとなったことから、二十数年ぶりにウエスト・ヴァージニア州キンダム郡に帰ってきた。愛のない結婚をしたことでいつも不機嫌だったジェシーは、ロイのことを今も認めていない。カントリー歌手を夢見ていた弟アーチーは、恋人グロリア・ケロッグの両親を射殺し、そのまま自殺していた。カリフォルニアに来て結婚するはずだったかつての恋人ライラ・カトラーは、今もここにいた。ロイはライラとの再会をきっかけに、アーチーの事件の謎、そしてジェシーの秘密に触れていくこととなる。
 登場人物の深い描写と、辛味に絡んだ謎が徐々に解かれていく展開はさすがクックであり、非常に読み応えがある。ただ過去の作品と違うのは、もつれた謎が説き明かされるにつれて、親子の心のもつれが溶けていくところだろう。「記憶」三部作などは真相が明らかになるにつ入れ、泥沼に突っ込んだ足がさらに沈んでいく恐怖と暗さを味わったのだが、本作は真相が明らかになるにつれ、少しずつ闇が晴れていく明るさを感じる。世界観の重さこそ変わらないが、明らかにクックの作風が変わっている。個人的にはこちらの作風の方が好みかな。
 さすが、クックは読みごたえがある。ということで本棚の奥で眠っている他の作品にも手を出すつもりだ。どこに入っているのかわからないのだが。
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