ドロシイ・B・ヒューズ『ゆるやかに生贄は』(新潮文庫)

 砂漠のハイウェイをフェニックスへ向かう青年医師ヒュー。ヒッチハイカーの若い娘を見かけ同乗させるが、それがそもそもの過ちだった。バスターミナルで降ろした後も執拗に彼を追ってくる。その娘アイリスはどうやら彼に堕胎手術をしてほしいらしい。ヒューは拒絶するが、翌朝、彼女の死体が発見され……。1960年代の社会問題の生贄となった男を描く、アメリカン・ノワールの先駆的名作!(粗筋紹介より引用)
 1963年、アメリカで発表。2025年5月、邦訳刊行。

 新潮文庫の「海外名作発掘 HIDDEN MASTERPIECES」シリーズの1冊。H・R・F・キーティング『海外ミステリ名作100選』(1987)にも選出されている。
 インターンの青年医師ヒュー・デンズモアは姪のクライティの結婚式に出るため、ロサンゼルスからキャディラックに乗ってアリゾナ州フェニックスに向かっていた。その途中でヒッチハイクの少女アイリスを乗せ、バスターミナルで降ろす。宿泊した翌日、アイリスは再び車に乗り込んでくる。仕方なくアイリスをフェニックスまで連れていき、そこで別れた。しかしアイリスは、ヒューが泊っているモーテルに押し掛けてくる。
 読者はヒューがここまで怯えているのに違和感を抱くであろうが、それは4分の1を過ぎたあたりで明かされる。そこで思わずなるほどとうなずいてしまう。舞台と社会背景がここで一気に結びつく。そこからは、ヒューに降りかかる災難と悪夢、そして理不尽な仕打ちと恐怖に読者も引きずり込まれていく。なるほど、あえて途中で明かした理由はここにあったか。そこまでくると、ヒューが自ら調査に乗り出す理由も納得する。クライティの元ルームメイトであるエレン・ハミルトンの存在が、ヒューだけではなく、物語全体にも大きな救いになっている。
 当時の社会問題をサスペンスに絡めた秀作。まあ、この社会問題は今でも続いているところがアメリカの問題であるのだが。キーティングに選ばれたのも納得の巧さである。

白石定規『魔女の旅々』(GAノベル)

 あるところに旅の魔女がいました。彼女の名はイレイナ。旅人として、色々な国や人と出逢いながら、長い長い旅を続けています。魔法使いしか受け入れない国、筋肉が大好きな巨漢、死の淵で恋人の帰りを待つ青年、滅んでしまった国に独り取り残された王女、そして魔女自身のこれまでとこれからのこと。わけのわからない可笑しな人や、誰かの美しい日常に触れながら、今日も今日とて魔女は出逢いと別れの物語を紡いでいきます。「構わないでください。私、旅人なものですから。先を急がなければならないのです」(粗筋紹介より引用)
 2014年末にAmazon Kindleで個人出版。ランキング1位となり、大幅加筆修正の上、SBクリエイティブより2016年4月、刊行。ヒットしてシリーズ化され、コミカライズも刊行。2020年にはアニメ化もされた。

 勧められて手に取ってみる。
 主人公は「灰の魔女 イレイナ」。平和国ロベッタ出身。最年少14歳で魔術試験を一発合格して魔女見習いとなり、「星屑の魔女 フラン」に弟子入り。1年後には正式な魔女となり、子供の頃からの夢だった世界を巡る旅を始めた。
 全14章。魔女になるまで、出発、再会などの話もあるが、基本的にはイレイナが旅で訪れた国における出会いとエピソードが中心である。
 訪れる国もところどころで違いはあるものの、言葉が通じないとか風習が全く違うと言ったようなことはない。背景が全部語られないものもあるし、出会う人々もその場限りのエピソードが多く、章によっては数ページで終わるものもあり、気軽に読むことができる。
 盛り上がることなく、スカしたままで終わる話が多い。軽い話がほとんどであり、落語の小噺を並び立てられた感のある短編集。特に引きがあるわけでもなく、これ一冊で終わらせることも可能。
 そんな感じなので、寝る前にちょっと読む分には面白いかな。

法月綸太郎編『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』(角川文庫)

 不可能犯罪、密室殺人、読者への挑戦が挿入された犯人当て、大胆不敵なミスディレクションなど初心者からマニアまで楽しめる本格ミステリ・アンソロジー。選者・法月綸太郎ならではの風刺の利いたものや、本格エッセンスが凝縮された小説などバラエティに富んだ作品が満載! イギリス、アメリカ、日本の三つの国からセレクトされた選りすぐりの謎にあなたも挑戦してみませんか。(粗筋紹介より引用)
 2005年10月刊行。北村薫、有栖川有栖に続く本格ミステリ・アンソロジー第三弾。

 目次が面白いので、まず並べてみる。ちなみに「~章」の章立ては、辻真先『仮題・中学殺人事件』と同じである。
イントロダクション
眉につばをつけま章
 ウディ・アレン「ミスター・ビッグ」
 小泉八雲「はかりごと」
 ロナルド・A・ノックス「動機」
第一の栞・ハードボイルドなんか怖くない
密室殺人なぜで章
 C・デイリー・キング「消えた美人スター」
 ジョン・スラデック「密室 もうひとつのフェントン・ワース・ミステリー」
 西村京太郎「白い殉教者」
第二の栞・窮すれば通ず――密室短編ベスト3
真犯人はきみで章
 エラリー・クイーン「ニック・ザ・ナイフ」
 エドマンド・クリスピン&ジェフリー・ブッシュ「誰がベイカーを殺したか?」
 中西智明「ひとりじゃ死ねない」
第三の栞・海外クラシック・ベスト20
おわかれしま章
 レジナルド・ヒル「脱出経路」
 大平健「偽患者の経歴」
 ホルヘ・ルイス・ボルヘス「死とコンパス」
あとがき

 私立探偵が神を探すというハードボイルドのパロディで、皮肉たっぷりの作品。ウディ・アレン「ミスター・ビッグ」。ウディ・アレンはアメリカ映画界を代表する監督らしいが、映画には全く興味が無いので知らない。
 怪談物だが意外な解決を見せる。小泉八雲「はかりごと」。小品だがこれはミステリっぽさが漂う。
 乱歩が奇妙な動機の作品として挙げたことで有名なロナルド・A・ノックス「動機」。単行本でも読んでいたが、こういう作品だったのか、という思いの方が強い。
 単行本未収録のタラント物の短編、C・デイリー・キング「消えた美人スター」。消失トリックだが、こういうものを読んでもああそうなんだとしか思えず、感心できない体質になっている。
 密室もののパロディ、ジョン・スラデック「密室 もうひとつのフェントン・ワース・ミステリー」。嫌いじゃないが、好きでもないな。多分作者自身が一番楽しんでいるに違いない。
 『人形はなぜ殺される』西村京太郎版と法月が評した、西村京太郎「白い殉教者」。これだったら他のトリックも併せて長編化も可能だったんじゃないだろうか。やっぱり西村は本格ミステリ大好きだよね、といいたくなるような中編。埋もれている(んだよね、多分)には勿体ない。
 ニッキー物のラジオドラマ脚本、エラリー・クイーン「ニック・ザ・ナイフ」。切り裂きジャック物の短編だと、こういう犯人像が多いのはなぜなんだろうか。
 宮脇孝雄がクリスピンの作風の特徴である「言葉による騙し」の典型として言及している作品。エドマンド・クリスピン&ジェフリー・ブッシュ「誰がベイカーを殺したか」。犯人当ての短編。個人的にはただのひっかけにしか見えず、馬鹿馬鹿しいのひとこと。
 中西智明、幻の短編「ひとりじゃ死ねない」。連続殺人事件の犯人当て。法月はアクロバットな技巧と評しているが、こういうのに感心できない自分がいる。同人誌の内輪受けにしか見えないんだよね。カムバックを目指して長編を書き溜めているとのことだが、残念ながらまだ第二作は出ていない。
 「第三の栞」で出てくるベスト20は以下。「シャーロック・ホームズの冒険」「ブラウン神父の童心」「トレント最後の事件」「八点鐘」「カリブ諸島の手がかり」「僧正殺人事件」「毒入りチョコレート事件」「Xの悲劇」「ナイン・テイラーズ」「サンタクロース殺人事件」「ABC殺人事件」「腰抜け連盟」「ユダの窓」「ある詩人への挽歌」「野獣死すべし」「猿来たりなば」「赤い右手」「自宅にて急逝」「五番目のコード」「ママは何でも知っている」。
 「密室からの脱出」テーマの隠れた秀作、レジナルド・ヒル「脱出経路」。囚人の短い独白の手記が意外な効果を挙げている。長編作家だと思っていたが、こんな面白い短編も書けるのか。短編集パスコーの幽霊が読みたくなってきた。
 精神科医の症例記録集の中の1エピソード。大平健「偽患者の経歴」。なるほど、これは下手なミステリよりずっと読み応えがある。患者との対話の中の小さな矛盾を見逃さない医者の眼力は恐ろしい。
 名探偵エリック・レンロットが、ユダヤ教徒の連続殺人事件と謎のメッセージに挑む。アレックス・コックス監督デス&コンパスの原作、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「死とコンパス」。ボルヘス流の形而上学ミステリ。最後に置くにはふさわしい作品かも。読むのは苦手かも。

 こうやって編まれた作品を見ると、法月はストレートな本格よりも、すこしひねった本格が好きなんだろうなあと思ってしまう。自分とはちょっと合わない作品もあるが、珍しい作品をこれだけ集めてくれたことに満足している。

マルク・ラーベ『19号室』(創元推理文庫)

 2019年2月、ベルリン国際映画祭の開会式場に悲鳴が響き渡った。オープニングで、女性が殺害される瞬間をとった予定外の映像が上映されたのだ。金髪の女性が何者かに襲われ、大きな釘で心臓をひと突きされていた。しかも、彼女は市長の娘で女優の卵だと判明。映像はあまりにもリアルで、目出し帽の人物が上映を強要したという。トム・バビロン刑事は捜査を始めるが、相棒の臨床心理士のジータは、映像内の壁に残されていた「19」と自分の共通点を見つけて戦慄する。そして新たな惨劇が! 『17の鍵』につづく、疾走感抜群のシリーズ第2弾。(粗筋紹介より引用)
 2019年、ドイツで発表。2025年2月、邦訳刊行。

 累計発行部数が43万部を超える人気を得た「刑事トム・バビロン・シリーズ」全4作の2作目。3冊目が出るころに合わせて読もうと思っていたのだが、なかなか予告が出ないので我慢ができなくなって手に取ってみた。『17の鍵』で書かれた2017年の大聖堂殺人事件から1年半後が舞台。トムはアンネと結婚し、子供が産まれている。
 今回もかなりショッキングな事件からスタート。失踪したトムの妹の影が見え隠れするも、今回はジータの痛ましい過去が事件と密接に絡んでくる。さらにトムとジータの過去に意外な繋がりも明らかになる。
 前作と同様にトムの捜査は暴走。前作ではまだストッパーであったジーナも一緒に暴走するから、捜査のスピードは速すぎ。そりゃあ、これだけ勝手に走り回れば、周囲の刑事たちから反発を食らうのも当然だよな、と思わせる。連続殺人にまで発展するし、前作と同様に東西ドイツの関係が暗い影を落としているのだが、これだけのショッキングな内容が、トムとジータが動くだけで解決するという荒唐無稽な流れすら容認してしまいたくなるぐらいの疾走……というより暴走か。言ってしまえば無茶苦茶なのだが、面白く読ませるのだから大したものである。
 ベストに選ぶような作品ではないが、明け透けな次作の引きも許容できる面白さなので、次作を待ちますよ、私は。

フランシス・ビーディング『イーストレップス連続殺人』(扶桑社BOOKSミステリー)

 風光明媚なノーフォーク海岸沿いの保養地イーストレップスで、老婦人が友人宅を訪れた帰りにこめかみを刺されて殺害される。続けて第二、第三の殺人が同様の手口で繰り返され、街は謎の殺人鬼「イーストレップスの悪魔」の影におびえることに。地元警察はついに有力な容疑者を確保するに至るのだが……。意を凝らしたミスディレクションと巧妙なレッドヘリング、白熱の裁判シーン、フーダニットとしての完成度。映画『白い恐怖』原作者による、本格ミステリー黄金期の知られざる傑作を本邦初訳!(粗筋紹介より引用)
 1931年、イギリスのホッダー・アンド・ウトン社とアメリカのミステリ・リーグ社から刊行。2025年6月刊行。

 作者のフランシス・ビーディングは、演劇評論家・作家のジョン・レスリー・パーマーと、オックスフォード大学ベイリアル・コレッジの後輩に当たるヒラリー・エイダン・セント・ジョージ・ソーンダーズの合作ペンネーム。ともに国際連盟事務局で働いていた時期に知り合って共作を始めたとある。イギリス秘密情報部のアリステア・グランビー大佐が活躍するスパイ小説シリーズを中心に30冊以上出版している。日本では、ヒッチコックの映画の原作であるノン・シリーズ『白い恐怖』(ハヤカワ・ミステリ)が2004年に出版されたのみである。
 舞台となったイギリスのイーストレップスは架空の街であるが、ノースレップスがモデルであると訳者は述べている。
 海岸沿いの保養地で起きる連続殺人、そして犯人逮捕後の裁判、そして事件の真相と結末、というストーリー。前半の連続殺人は、各登場人物の内面がよく描かれてい引き込まれる。裁判の緊迫感もなかなか。ただ登場人物が限られていることもあり、真犯人はあまりにも見え見え。書かれた時代を考えると、当時としてはそれなりに新しかったんだろうなとは思う。ただ、真犯人の証拠については読者にわかりようがないものであるし、動機についても終わってみて初めてわかるもの。一応フーダニットではあるが、本格ミステリではない。
 なんとも評価が難しい作品。書かれた時代のことを考えると新しいのかもしれないが、今読む分にはサスペンスドラマとしての途中までの面白さ以外は伝わらないかな。それなりに楽しく読んだのだが、その分最後のがっかり感も結構強い。この二人、本格ミステリを読んでこなかったのだろうなと思った。

北山猛邦『神の光』(東京創元社)

 一攫千金を夢見て忍び込んだ砂漠の街にある高レートカジノで、見事大金を得たジョージ。誰にも見咎められずにカジノを抜け出し、盗んだバイクで逃げ出す。途中、バイクの調子が悪くなり、調整するために寄った小屋で休むが、翌朝外へ出ると、カジノがあった砂漠の街は一夜のうちに跡形もなく消えていた――第76回日本推理作家協会賞短編部門の候補に選ばれた表題作を始め、奇跡の如き消失劇を5編収録。稀代のトリックメーカー・北山猛邦の新たな代表作となる、傑作推理短編集。(粗筋紹介より引用)
 『ミステリーズextra』『紙魚の手帖』2004、2022、2023、2024年掲載作品に書き下ろし1編を加え、2025年9月刊行。

 1941年、ナチスがレニングラードに砲撃を開始。ナチスが盗み出そうとした宝石装飾のなされた部屋『硝子の間』があるシチェルバク邸が、一晩で影も形もなくなった。「一九四一年のモービル」。
 1955年、ラスベガスから出る秘密のバスが向かった先は、外国人の客が多い謎の一流カジノだった。バスに隠れて乗り込んだジョージはブラックジャックで大金を稼いでバイクで逃走するも、そのバイクが故障。近くの空いた小屋で夜を過ごしたジョージが翌朝に目を覚ますと、カジノのあった街が丸ごとなくなっていた。「神の光」。
 長年音信不通だった友人で作家の藤堂に頼まれ、久しぶりに故郷へ帰った非常勤英語教師の私。藤堂が私に見せたのは、アメリカで入手したというエドガー・アラン・ポーの直筆未発表原稿であった。ところがその短編ミステリは未完成であり、藤堂は結末を書けという呪いのような声が聞こえてくるようになった。「未完成月光 Unfinished moonshine」
 2055年、カスピ海の西に位置するカザリア共和国で内戦が勃発。国境に最近建てられた前哨基地を反政府組織が攻めようとしたその時、丘の上に見えていた車輌や基地がふっと消えた。その秘密を知っている日本人少女を英国秘密情報部は一時保護の名目で捕えようと部屋を取り囲むも、その少女は部屋から姿を消してしまった。「藤色の鶴」。
 地方新聞社の女性がよく見る夢の内容をSNSに投稿したところ、T大学准教授の男から詳しく聞かせてほしいというリプライが来た。白い大きな館が灰色の霧に包まれて魔法のように消えてしまう夢。男も同じ夢を見るようで、しかもその夢の中に出てくる館の写真を送ってきた。「シンクロニシティ・セレナーデ」。

 いずれも建物や街が消えるという本格ミステリ5編を収録した短編集。消失トリックを考案するだけでも結構難易度が高いと思うが、それを短編集1冊に丸々収めてしまうというのはかなり難易度が高い。消失トリックにそれほどバリエーションがあるわけでもないし、はっきり言ってしまえば似たようなものばかりが並んで飽きてしまうリスクが非常に高い。そのハードルを作者は超えてきた。大したものである。それぞれの短編にバリエーションを加えてくれるのは、とても嬉しい。
 特に評価したいのは、ただトリックを展示するだけにならず、物語とトリックを連携させているところ。トリックを生かすためには舞台を用意するだけでなく、ストーリーとして納得させるだけの登場人物と背景を準備しなけばならない。そのハードルを超えたところは評価したい。
 とはいえ、流石に強引すぎる手に出ているところがあるのも事実。SFと伝奇要素を加味して誤魔化した「藤色の鶴」や、幻想小説の味を加味してトリックを無理やり成立させようとした「シンクロニシティ・セレナーデ」は、トリック解明の部分で興醒めしてしまった。ストーリーがまだ読めるところは救われているが。
 それとは逆に、最初の三編はよくできている。特に「神の光」は傑作である。消失トリックとストーリーをこれだけ密接に絡めた手腕には唸ってしまった。
 出来に若干の差はあれど、これだけのレベルの作品を5つ並べてくれたところは評価したい。作者の新たな代表作という担当編集者の言葉に嘘はない。

鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)

 宇宙のように広がる盤上で駒をぶつけあう者たち――。本書は、名対局の一瞬一手に潜むドラマを見逃すことなく活写してゆく。
 中学生で棋士となった昭和。勝率は8割を超え棋界の頂に立った平成。順位戦B級1組に陥落した令和。三つの時代、2千局以上を指し続けた羽生善治、そして彼と共に同じ時代を闘ったトップ棋士たちの姿を見つめながら、棋士という“いきもの”の智と業をも浮かび上がらせる。
 『週刊文春』連載時より大きな反響を呼んだノンフィクションに新たな取材、加筆を行った堂々の一冊。ノンフィクション3冠制覇を達成したベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』の著者の最新作にして新境地。(作品紹介より引用)
 『週刊文春』2023年5月18日号~10月12日号連載。加筆修正のうえ、2024年5月、刊行。2025年、第37回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。

 羽生善治は、将棋界で初めて全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)を制覇。さらに初となる永世七冠を達成。2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を受賞。2023年から2年間、日本将棋連盟会長を務める。将棋界で長くトップランナーとして活躍した羽生善治の棋士人生を、米長邦雄、谷川浩司、森内俊之、佐藤康光、深浦康市、渡辺明、豊島将之、藤井聡太らトップ棋士たちとの闘いを通じて描く。
 鈴木忠平は『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』がベストセラーとなり、ノンフィクション3冠を達成している。しかし鈴木は日刊スポーツでプロ野球担当を16年務めてきた。だから野球界のことは詳しく描ける。しかし将棋界には縁がないはず(作者自身、少年時代に挿したことがある程度の知識しかない、と語っている)。どうして羽生善治を選んだのかはわからないが、勝負という意味では野球も将棋も同様のカテゴリに見えたのかもしれない。
 本作品は、『嫌われた監督』と同様、羽生の周辺にいる人物にスポットライトを当ててその人生を語らせることで、その人生の途中で関わり合った羽生善治の実像を浮かび上がらせるスタイルとなっている。スポットライトが当たるのはトッププロ棋士ばかりではない。羽生が小学生時代に将棋を学んだ八王子将棋クラブの席主であった八木下征男が登場するのは、当然のことである。しかしその次に登場するのは、元奨励会の観戦記者・片山良三である。後半で室岡克彦八段が登場するが、室岡と深く関わっているのは佐藤康光であって羽生ではない。
 『嫌われた監督』では、当時中日担当であったため落合博満の生の声が出てきたが、本書では何一つ出てこない。参考文献やドキュメンタリー番組で出てきた羽生の声しかない。
 それなのに、羽生善治という人物がどういう人物か、浮かび上がってくるのだから不思議だ。棋譜や盤面が一切ないのに、羽生が稀有の棋士であることが読者にもわかる。それはタイトル数などの記録だけではない。将棋という奥底知れない世界の深淵を長く覗き続けた者の凄さと恐ろしさが、読者に伝わってくる。
 この著書を読んでもう一つ気づいたのは、谷川浩司の孤独さであろうか。羽生には「羽生世代」と呼ばれるライバルがいた。佐藤康光、森内俊之だけではない。村山聖、先崎学、丸山忠久、藤井猛、郷田真隆、屋敷伸之、深浦康市などである。羽生は彼らと切磋琢磨して成長してきた。しかし谷川は違う。彼には明確なライバルがいなかった。谷川以前、すなわち大山康晴には升田幸三、中原誠には米長邦雄というライバルがいなかったことが、谷川時代のなかった最大の原因だろう。
 今も一人の棋士として戦い続ける羽生善治。そんな羽生が将棋界に勝負師として今まで残してきたものを浮かび上がらせた一冊。将棋というフィルターを持っていない作者だからこそ、書けた作品かも知れない。どうせなら、羽生が引退するまでの増補版も、将来書いてほしいものだ。将棋連盟会長を退き、55歳になってもまだ第一線で戦い続けようとする姿を、作者がどう表現するのかとても興味がある。

宮西真冬『誰かが見ている』(講談社文庫)

 問題児の夏紀(なつき)に手を焼く千夏子(ちかこ)の唯一の楽しみは、育児ブログを偽物の幸せで塗り固め、かりそめの優越感に浸ること。だがある夕方、保育園から一本の電話が。「夏紀ちゃんがいなくなりました」。刹那、千夏子は彼女('')が夏紀を連れ去ったと確信し……。最後に暴かれる千夏子の最大の“嘘”に驚愕する衝撃サスペンス!(粗筋紹介より引用)
 2016年、第52回メフィスト賞受賞。2017年4月、講談社より単行本刊行。2021年2月、文庫化。

 不妊治療で生まれた3歳の夏紀へのある違和感から可愛がれず苦しみ、ママ友とも仲良くなれず、7年前から偽の幸せも交えて書き続けている育児ブログに逃げるスーパーアルバイトの榎本千賀子。子供が欲しいが5歳年下の夫とはセックスレスで、37歳という年齢もあり焦っているアパレルブランド店員の宇多野結子。職場の保育園での人間関係がうまくいかず、ハイスペックな恋人ともうすぐ結婚できることに縋りつつ、ママブログを糾弾するスレを見て癒されている保育士の若月春花。夫、3歳の娘と一緒にとある理由でタワーマンションに引っ越してきた高木柚季。
 男性だけでなく女性の世界でもいじめと嫉妬に溢れているのは今さらのことであるが、こうも生々しく書かれると読んでいるのが苦痛になってくる。それでも主要登場人物4人を含む周囲の登場人物の感情や行動が絡み合い、もつれていく展開は目を離せない。人の不幸せをこっそり楽しむ人は多いんだなと思ってしまった。読んでいくうちに家庭での男って理不尽な存在なんだなと、背筋が寒くなる人もいるだろう。
 作者の仕掛けは唐突過ぎて、うまく行ったとは思えない。最後の絡み合いはかなり不自然。そして大団円というのは安易じゃないかい、と思うのではあるが、それでも最後にホッとしたのだからこれでよかったのかもしれない。
 書き方は巧いね。あとはもう少し自然なストーリーが作れればよいと思う。

ジューン・ハー『宮廷医女の推理譚』(創元推理文庫)

 1758年、朝鮮王朝期。18歳のベクヒョンは、難関試験を突破し王族の診察を担当する内医女(ネイニョ)になった。だがある夜、ベクヒョンが医術を学んだ恵民署(ヘミンソ)で、4人の女性が殺害される。3人は医女、最後のひとりは外出を禁じられている宮廷女官だった。夜が明けると、殺したのは世子様だと名指しする壁書(ピョクソ)が、漢陽の街中にばら撒かれる。事件を捜査する捕盗庁(ポドチョン)の役人は、怪しい供述をしたベクヒョンの師、ジョンスを殺人犯と断定した。彼女が犯人だと信じられないベクヒョンは、独自に事件を調べはじめ、捕盗庁の青年オジンの協力を得る。師の処刑を防ぐために、なんとしても真相を解明しなければ――。聡明な医女が謎解きに挑む爽快なミステリ。(粗筋紹介より引用、一部追記)
 2022年、アメリカで発表。2023年、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞ヤングアダルト(YA)ミステリ部門賞受賞。アメリカ書店協会(ABA) 独立系書店が選ぶベストセラー(YA部門)、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)が選ぶベストブック(YA部門)等に選ばれる。2025年9月、邦訳刊行。

 作者は1989年、韓国生まれ。3歳のとき、父親の留学に伴い、カナダ・トロント市移住。韓国の公立高校編入後、トロント大学進学。卒業後、トロント公共図書館に就職。朝鮮史の研究とともに執筆活動を行う。2020年、4月デビュー。本作は作者の3作目。
 事件の舞台は1758年の朝鮮王朝期。本書で出てくる世子(セジャ)とは、第二十一代国王英祖(ヨンジョ)の次男である李愃(イソン)の敬称である。後に荘献(チャンホン)世子と呼ばれる王子は後に悲劇的な死を迎えるのだが、本書はその史実を踏まえて執筆されている。
 宮廷医女が事件を解決するという粗筋を見て、最初は日本のライトノベルかコミックか、と勝手に思ってしまったのだが、史実に則った作品であり、ちょっと予想が外れた。
 儒教の教えによる厳しい身分制度、そして男性が絶対である時代において、下層階級である医女が活躍するという話自体がいかにもYAらしい。
 ほぼ知らない時代ではあるが、巻頭に用語集が用意されており、それほど違和感なく物語世界に入り込むことができる。男女コンビによる事件の捜査、宮廷内のスキャンダル、冤罪サスペンス、さらに事件の謎解きにアクションシーン、そしてロマンスと、王道の道具立てがこれでもかとばかりに散りばめられている。舞台が馴染みのない朝鮮王朝という点を除くと、ありきたりのストーリーという気がしなくもないが、時代背景が初めての世界ということもあり、面白く読むことができた。もし当時の歴史を知っていたら、さらに面白く読むことができたかもしれない。
 いかにも韓国ドラマを小説化しました、みたいな雰囲気の作品(と言っても、韓国ドラマを見たことがないので想像でしかないが)ではあるが、楽しく読むことはできるだろう。もうちょっと意外性のある事件の謎解きや犯人を出せるようになれば、よいのだが。

梓崎優『狼少年ABC』(東京創元社 ミステリ・フロンティア)

「俺、昔、喋る狼に会ったことがあるんだよ」カナダの広大な温帯雨林にやって来た三人の日本人大学生。狼の生態に関するフィールドワークのかたわら、ひとりが不思議なことを言い出して――(表題作)。  大人になる前の特別な時間を鮮やかに切り出した、四つの中編を収録。『叫びと祈り』『リバーサイド・チルドレン』の著者が贈る、ミステリ仕立てのエモーショナルな青春小説。(粗筋紹介より引用)
 『放課後探偵団』(2010年11月)に掲載された「スプリング・ハズ・カム」、『ミステリーズ』vol.54(2012年8月)に掲載された「美しい雪の物語」(大幅な加筆修正)に書下ろし2編を加え、2025年10月刊行。

 父親の仕事の都合でボストンから叔父の住むハワイ島にやって来た少女は、祖父の書斎で古い日記を見つけた。そこに書かれていたのは男女の出会いと別れ、そして再会の約束だった。二人は再会し、常夏の街に降る雪こと一面に咲いたコナ・コーヒーの花、コナ・スノーを見ることができたのだろうか。「美しい雪の物語」。
 冬休み初日の明け方、深山高校一年一組の小原智弘が、高校の屋上から湯に足を滑らせ転落死した。隣の席に座り、時々映画のDVDを借りていた佐々は、通夜で智弘の姉からデジカメに残っていたという不思議な写真を渡される。雪野原に残されたのは、一本の傘。傘の下には雪が積もっていない。そして他にあるのは、傘までの足跡だけ。傘の持ち主はどこに消えたのか。「重力と飛翔」。
 カナダ西部の太平洋岸に広がる世界最大の温帯雨林、グレート・ベア・レインフォレスト。留学したブリティッシュコロンビア大学で動物生態学を専攻する相羽は、狼の生態を調べるフィールドワークに従事していた。日本の大学農学部の同級生で友人だった穂村と柴田は、九月の夏休みを利用し、カナダまで押し掛けた。そこで穂村は、「僕、昔、喋る狼に会ったことがあるんだよ」と話し出した。「狼少年ABC」。
 高校卒業から15年目の同窓会に参加するため、東京から札幌までやって来た鳩村。掘り起こされたタイムカプセルから出てきたのは、15年前の卒業式であった放送室ジャック事件の犯行声明だった。密室状態の放送室から消えた犯人は、当時の放送部員だった男女4人、鳩村、志賀、石橋、支倉の中の誰かか、それとも別人か。鳩村たちが謎解きに挑む。「スプリング・ハズ・カム」。

 2013年の『リバーサイド・チルドレン』以来12年ぶりとなる梓崎優の第三作目は、それぞれ春夏秋冬をモチーフにした物語4編を収録。いずれも謎解きをスパイスとした青春小説である。
 どれもが青春時代の煌めきとほろ苦さを浮かび上がらせるものであり、それでいてラストは優しさと心震える感動を与えてくれる。大人に成りきる一歩手前だからの感情と行動。
 正直言って本格ミステリの謎、という一点だけを取り出すとそれほど難しいものではない。「重力と飛翔」の写真のトリック、「狼少年ABC」の狼の正体はすぐにわかってしまうだろう。だが、それぞれの作品の素晴らしいところは、それぞれの登場人物の瑞々しい感情が美しいこと。読了後に与える印象は作品によって異なるが、心を揺さぶる感動を与えてくれるという点についてはいずれも素晴らしい。謎の提供と解決が、そのまま登場人物の感情に直結する物語の構成力が最高だ。
 いずれの作品も面白いが、どれか一つを選ぶとなると、やはり「スプリング・ハズ・カム」である。密室脱出トリックを巡る意外性もよいし、単語や会話の使い方もうまい。同窓会という舞台ならではの時の流れと想いが奏でるラストは、胸が締め付けられる余韻を残す。
 できれば四作目は、もう少し早く出してくれないかな。

リチャード・デミング『私立探偵マニー・ムーン』(新潮文庫)

 こんな探偵に出会ったことがおありだろうか? 戦地帰りのタフガイ、私立探偵マニー・ムーン。言い寄ってくる女性に事欠かず、ときに自らの義足までも武器に大立ち回りを演じたかと思うと、関係者一同を集めて名探偵顔負けの見事な謎解きを披露する――。E・クイーンの名も継いだミステリー職人が生んだ無二のアンチヒーロー。そんなムーンの活躍を集めた“本格推理私立探偵”決定版!(粗筋紹介より引用)
 1948~1951年に執筆された中編7編を収録した、日本オリジナル中編集。2025年7月、邦訳刊行。

 カジノ経営者ルイス・バグネルと繋がりのあるローレンス・ランダル弁護士から仕事の依頼で呼び出されたムーンは、ビル14階にあるオフィスの待合室で待たされていた。しかしランダルは応接室で若い女性の先客と話している。しびれを切らしたムーンが応接室に突入すると、デスクに腰かけたままナイフで刺されたランダルの死体があった。応接室に出入りできるのは、待合室のドアと、廊下に出る裏口しかない。女性客がランデルを殺して逃走したと思われたが。「フアレスのナイフ」。
 午前四時、殺人課のウォーレン・デイ警視から呼び出されたマニー・ムーン。コインマシンを貸出する会社を経営するジョージ・カーマイケルが殺された。凶器のピストルは、共同経営者の一人であるいウィラード・ロングストリートのものだった。誰かが死んだ場合は株式を譲渡する契約があり、五万ドルの保険金の受取人がロングストリートであった。動機は十分だが、ロングストリートには犯行時刻に留置場に入っていたという鉄壁のアリバイがあった。しかもそれは昨晩、高級ホテルのバーカウンターで、ロングストリートがムーンに喧嘩を仕掛けたことがきっかけであった。留置場で会ったロングストリートは、ムーンを1万ドルで雇う。「悪魔を選んだ男」。
 ムーンはミセス・クウェンティン・ランドに雇われ、彼女の広い屋敷に住み込み、麻薬中毒患者である姪のヴィヴィアン・バナーを24時間見張る仕事を受けていた。ムーンはヴィヴィアンの後見人となり、ヨーダー医師の指導の下、売人と接触させないよう昼間はムーンの目の届く範囲でしか行動を許可せず、夜はムーンとミセス・ランドの部屋の間に挟まれた、鍵付き鉄柵窓付きの寝室に閉じ込めていた。依頼を受けてから6週間後、ヴィヴィアンは初めて外出が許可された。翌朝、ヴィヴィアンは部屋の中で殺されていた。手首の上には注射痕があったが、注射器はどこにもない。ドアの向こうでは、ランドが眠ったままだった。「ラスト・ショット」。
 ここ10年、この街のギャンブルの大半を、唯一のカジノの経営者であるルイス・バグネルが仕切っていた。しかしシカゴから割り込んできたバイロン・ウェイドが、新たなカジノをオープンする。一触即発の状態の中、同じ日の別々の時間に訪れて味方になるよう誘ってきた両者であったが、ムーンはどちらも断った。ただしウェイドは、自分の死が自然死に見えたときは調べてほしいと依頼量を渡してきた。ところがウェイドがムーンの事務所に居た時間、バグネルが殺されていた。カジノのオフィスで、銃声があった。慌てて駆け付けたボディガードの二人だったが、鍵のかかった部屋の中でバグネルが射殺されていた。そして気を失っていたのは、カジノで全額すったので、小切手を現金化しようと訪れていたミセス・ウェイドが気を失って倒れていた。犯人は隣にあるバスルームの、鉄格子のはまった窓から撃ったと思われた。どうやらミセス・ウェイドとバグネルは関係があったらしい。事件に乗りだすムーンだったが、自身も狙われる羽目に。「死人にポケットは要らない」。
 ムーンが1年前にこの街から追い出したティム・ブロックが、ピストルを構えた巨体の男と共に事務所に入ってきた。ニューオリンズでカジノをひらいて成功したブロックはこの街に乗り込んできて、手を組んで牛耳ろうと誘ってきた。ムーンは反撃し、ティムを追い払う。警察の捜査後、地方検事のサム・ダーシーから電話がかかってくる。今回の件について打ち合わせしたいので、夜の九時半に来てほしいという。到着して車から降りたとき、ムーンは拳銃で襲われる。撃ち返して静けさが戻ったところで、ウォーレン・デイ警視とハネガン警部補がムーンの前に現れた。そして、バイロン・ウェイドが撃ち殺された死体があった。「大物は若くして死す」。
 賭博シンジゲートを糾弾していた改革派の市長候補、ジェラルド・ケテラーが、実はそのシンジゲートの大ボスであったことを示す証拠文書をムーンは、元金庫破りの友人ジャッキー・モーガンの手を借りてケテラーの事務所の金庫室から入手し、依頼人である慈善事業家のレイモンド・マーグローヴに手渡した。しかし号外の記事ではムーンが新聞社に持ち込んだことになっており、しかも翌日にケテラーが自殺した。そしてムーンにも危機が迫る。「午後五時の死装束」。
 ムーンの元婚約者で、カジノのディーラーであるファウスタ・モレニとのデートの帰り道、事務所で二人で酒を飲んでいるところに、女優リディア・モンゴメリーが上演中の『おさげの女(ミス・ビッグテイルズ)』の終演後に楽屋でふたりきりで会いたいと、リディアの広報担当者であるマーティー・シェイファーが依頼してきた。ファウスタと観劇後、大勢のファンをかき分けてどうにか楽屋に入ろうとしたムーンだったが、そのとき中から銃声がとどろいた。慌てて楽屋に入ると、そこに居たのはドレスを脱ぎかけのリディアと、リディアの幼馴染で新たに契約しようと誘いをかけていた俳優エージェントのチャーリー・シェリダンが長椅子で寝そべっている射殺死体だった。リディアは誰かに脅迫されており、ボディガードとしてムーンを雇おうとしていた。リディアは階上の部屋から恐喝犯が彼女を殺そうとして、誤ってチャーリーを殺してしまったと主張した。「支払いなくば死あるのみ」。

 作者のリチャード・デミングの名前を聞くのは初めて。幸い、帯にプロフィールが書いてある。1940年代から'80年代初頭まで犯罪小説を書き続けた職人作家。《マンハント》初期や《アルフレッド・ヒッチコックズ・ミステリマガジン》に多くの作品を寄稿し、さらにはペイパーバック作家として「チャーリーズ・エンジェル」など人気TVドラマのノヴェライズを手掛けた。また、『摩天楼のクローズドサークル』をはじめ、エラリー・クイーン名義のオリジナル作品も執筆。とある。一見典型的なパルプ作家に見えるが、1976年から83年まではMWAの理事を務めているのだから、業界からは認められていたのだろう。『刑事スタスキー&ハッチ』シリーズのノベライズや『摩天楼のクローズドサークル』などが邦訳されている。デミング名義では『クランシー・ロス無頼控』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)以来62年ぶりの邦訳刊行となる。
 1948年、"Popular Detective"に発表した「フアレスのナイフ」は、デミングの公式デビュー作品、かつマニー・ムーンの初登場作品。「公式」とあるのは、デミングは1940年頃から次作をパルプ・マガジンに売り込んでいたが、原稿料が15ドル程度。原稿料200ドルで商業的にものになったのが「フアレスのナイフ」であり、それを作者は公式デビュー作品としている。
 作品の舞台は1940年代末から50年代初め、ミズーリ州セントルイスと思われるアメリカ中西部の大都市。主人公は、安アパートの自宅兼オフィスで私立探偵業を営む元プロボクサーの、マニーことマンヴィル・ムーン。第二次世界大戦で右足の膝から下を失い、コルクとアルミと皮でできた義足を装着している。探偵になりたての頃にメリケンサックで殴られたため、鼻がちょっと曲がり、片方の瞼が垂れ下がってしまったが女にはもて、ワルサーP38を携え格闘術を駆使するタフガイぶりはギャングと警察の双方から一目置かれている。シリーズに登場するのは、元婚約者でアメリカでもトップクラスのブラックジャック・ディーラーでもあるイタリア難民のラテン系美女、ファウスタ・モレニ。ムーンの実力を認めながらも、立場上時には敵対する殺人課のウォーレン・デイ警視。その部下であるハネガン警部補。かつてムーンに助けられたことを忘れず、頼まれたらムーンを手伝う元金庫破りの友人ジャッキー・モーガン。1940年代から60年代まで、長編4作(うち1作は中編の長編化)、中短編19作に登場する。
 このシリーズは、パルプマガジンに登場する典型的なタフガイの私立探偵が主人公で、ストーリーもタフガイならではのアクション満載なB級ハードボイルドでありつつ、事件は不可能犯罪で最後は関係者を集めて謎解きをするという本格ミステリでもある。
 この相反すると思われる二つの要素を融合させ、さらに面白さを倍増させる効果をもたらす作品があるとは、夢にも思わなかった。事件も密室や絶対的なアリバイ、機械トリック、意外な動機など、本格ミステリファンの心をくすぐるものばかり。推理もなるほどと思わせてくれるものばかりで感心した。
 マニー・ムーンは女にもて射撃がうまく格闘術にも優れているという典型的なタフガイ私立探偵だが、右足が義足であるというのがよいアクセントになっている。義足は時には弱点となり、時には武器となり、時にはピンチを切り抜ける切り札となる。
 さらには七編のストーリーに変化をつけているところも見事。こういう中編集は、登場人物の名前だけ変えてストーリーはほぼ同一、なんてことが時に見受けられるが、職人作家らしく味を変えているところは見事としか言いようがない。アクションだけでなく、時にはユーモアを交えて緩急をつけるところも巧い。職人作家ならではの傑作と言っていいだろう。なぜ今まで邦訳がまとめられなかったのか、不思議で仕方がない。本格ミステリを偏愛する読者が増えた今だからこそ、受け入れられる作品集なのかもしれない。まあ、ハードボイルド要素と本格ミステリ要素をそれぞれ単独で見ると、どちらもB級感が漂ってくるのは確かだが。
 どれも面白いが、どれが一番かと言われると、最も長い「死人にポケットは要らない」を選びたい。意外な犯人と凶器の隠し方がこの舞台ならではの巧みさであり、二転三転するストーリーにも意外性がある。
 「悪魔を選んだ男」が「追いつめられた男」のタイトルで『ミステリマガジン』1964年9月号に掲載された以外は、いずれも初訳。マニー・ムーンシリーズはほかに5編の邦訳があるとのこと。もっとも面白い作品を選んで纏めたのかどうかはわからないが、できることならシリーズの他の作品も読んでみたい。
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