鈴木忠平『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)
宇宙のように広がる盤上で駒をぶつけあう者たち――。本書は、名対局の一瞬一手に潜むドラマを見逃すことなく活写してゆく。
中学生で棋士となった昭和。勝率は8割を超え棋界の頂に立った平成。順位戦B級1組に陥落した令和。三つの時代、2千局以上を指し続けた羽生善治、そして彼と共に同じ時代を闘ったトップ棋士たちの姿を見つめながら、棋士という“いきもの”の智と業をも浮かび上がらせる。
『週刊文春』連載時より大きな反響を呼んだノンフィクションに新たな取材、加筆を行った堂々の一冊。ノンフィクション3冠制覇を達成したベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』の著者の最新作にして新境地。(作品紹介より引用)
『週刊文春』2023年5月18日号~10月12日号連載。加筆修正のうえ、2024年5月、刊行。2025年、第37回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。
羽生善治は、将棋界で初めて全7タイトル(竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖)を制覇。さらに初となる永世七冠を達成。2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を受賞。2023年から2年間、日本将棋連盟会長を務める。将棋界で長くトップランナーとして活躍した羽生善治の棋士人生を、米長邦雄、谷川浩司、森内俊之、佐藤康光、深浦康市、渡辺明、豊島将之、藤井聡太らトップ棋士たちとの闘いを通じて描く。
鈴木忠平は『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』がベストセラーとなり、ノンフィクション3冠を達成している。しかし鈴木は日刊スポーツでプロ野球担当を16年務めてきた。だから野球界のことは詳しく描ける。しかし将棋界には縁がないはず(作者自身、少年時代に挿したことがある程度の知識しかない、と語っている)。どうして羽生善治を選んだのかはわからないが、勝負という意味では野球も将棋も同様のカテゴリに見えたのかもしれない。
本作品は、『嫌われた監督』と同様、羽生の周辺にいる人物にスポットライトを当ててその人生を語らせることで、その人生の途中で関わり合った羽生善治の実像を浮かび上がらせるスタイルとなっている。スポットライトが当たるのはトッププロ棋士ばかりではない。羽生が小学生時代に将棋を学んだ八王子将棋クラブの席主であった八木下征男が登場するのは、当然のことである。しかしその次に登場するのは、元奨励会の観戦記者・片山良三である。後半で室岡克彦八段が登場するが、室岡と深く関わっているのは佐藤康光であって羽生ではない。
『嫌われた監督』では、当時中日担当であったため落合博満の生の声が出てきたが、本書では何一つ出てこない。参考文献やドキュメンタリー番組で出てきた羽生の声しかない。
それなのに、羽生善治という人物がどういう人物か、浮かび上がってくるのだから不思議だ。棋譜や盤面が一切ないのに、羽生が稀有の棋士であることが読者にもわかる。それはタイトル数などの記録だけではない。将棋という奥底知れない世界の深淵を長く覗き続けた者の凄さと恐ろしさが、読者に伝わってくる。
この著書を読んでもう一つ気づいたのは、谷川浩司の孤独さであろうか。羽生には「羽生世代」と呼ばれるライバルがいた。佐藤康光、森内俊之だけではない。村山聖、先崎学、丸山忠久、藤井猛、郷田真隆、屋敷伸之、深浦康市などである。羽生は彼らと切磋琢磨して成長してきた。しかし谷川は違う。彼には明確なライバルがいなかった。谷川以前、すなわち大山康晴には升田幸三、中原誠には米長邦雄というライバルがいなかったことが、谷川時代のなかった最大の原因だろう。
今も一人の棋士として戦い続ける羽生善治。そんな羽生が将棋界に勝負師として今まで残してきたものを浮かび上がらせた一冊。将棋というフィルターを持っていない作者だからこそ、書けた作品かも知れない。どうせなら、羽生が引退するまでの増補版も、将来書いてほしいものだ。将棋連盟会長を退き、55歳になってもまだ第一線で戦い続けようとする姿を、作者がどう表現するのかとても興味がある。
宮西真冬『誰かが見ている』(講談社文庫)
問題児の夏紀に手を焼く千夏子の唯一の楽しみは、育児ブログを偽物の幸せで塗り固め、かりそめの優越感に浸ること。だがある夕方、保育園から一本の電話が。「夏紀ちゃんがいなくなりました」。刹那、千夏子は彼女が夏紀を連れ去ったと確信し……。最後に暴かれる千夏子の最大の“嘘”に驚愕する衝撃サスペンス!(粗筋紹介より引用)
2016年、第52回メフィスト賞受賞。2017年4月、講談社より単行本刊行。2021年2月、文庫化。
不妊治療で生まれた3歳の夏紀へのある違和感から可愛がれず苦しみ、ママ友とも仲良くなれず、7年前から偽の幸せも交えて書き続けている育児ブログに逃げるスーパーアルバイトの榎本千賀子。子供が欲しいが5歳年下の夫とはセックスレスで、37歳という年齢もあり焦っているアパレルブランド店員の宇多野結子。職場の保育園での人間関係がうまくいかず、ハイスペックな恋人ともうすぐ結婚できることに縋りつつ、ママブログを糾弾するスレを見て癒されている保育士の若月春花。夫、3歳の娘と一緒にとある理由でタワーマンションに引っ越してきた高木柚季。
男性だけでなく女性の世界でもいじめと嫉妬に溢れているのは今さらのことであるが、こうも生々しく書かれると読んでいるのが苦痛になってくる。それでも主要登場人物4人を含む周囲の登場人物の感情や行動が絡み合い、もつれていく展開は目を離せない。人の不幸せをこっそり楽しむ人は多いんだなと思ってしまった。読んでいくうちに家庭での男って理不尽な存在なんだなと、背筋が寒くなる人もいるだろう。
作者の仕掛けは唐突過ぎて、うまく行ったとは思えない。最後の絡み合いはかなり不自然。そして大団円というのは安易じゃないかい、と思うのではあるが、それでも最後にホッとしたのだからこれでよかったのかもしれない。
書き方は巧いね。あとはもう少し自然なストーリーが作れればよいと思う。
ジューン・ハー『宮廷医女の推理譚』(創元推理文庫)
1758年、朝鮮王朝期。18歳のベクヒョンは、難関試験を突破し王族の診察を担当する内医女になった。だがある夜、ベクヒョンが医術を学んだ恵民署で、4人の女性が殺害される。3人は医女、最後のひとりは外出を禁じられている宮廷女官だった。夜が明けると、殺したのは世子様だと名指しする壁書が、漢陽の街中にばら撒かれる。事件を捜査する捕盗庁の役人は、怪しい供述をしたベクヒョンの師、ジョンスを殺人犯と断定した。彼女が犯人だと信じられないベクヒョンは、独自に事件を調べはじめ、捕盗庁の青年オジンの協力を得る。師の処刑を防ぐために、なんとしても真相を解明しなければ――。聡明な医女が謎解きに挑む爽快なミステリ。(粗筋紹介より引用、一部追記)
2022年、アメリカで発表。2023年、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞ヤングアダルト(YA)ミステリ部門賞受賞。アメリカ書店協会(ABA)
独立系書店が選ぶベストセラー(YA部門)、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)が選ぶベストブック(YA部門)等に選ばれる。2025年9月、邦訳刊行。
作者は1989年、韓国生まれ。3歳のとき、父親の留学に伴い、カナダ・トロント市移住。韓国の公立高校編入後、トロント大学進学。卒業後、トロント公共図書館に就職。朝鮮史の研究とともに執筆活動を行う。2020年、4月デビュー。本作は作者の3作目。
事件の舞台は1758年の朝鮮王朝期。本書で出てくる世子とは、第二十一代国王英祖の次男である李愃の敬称である。後に荘献世子と呼ばれる王子は後に悲劇的な死を迎えるのだが、本書はその史実を踏まえて執筆されている。
宮廷医女が事件を解決するという粗筋を見て、最初は日本のライトノベルかコミックか、と勝手に思ってしまったのだが、史実に則った作品であり、ちょっと予想が外れた。
儒教の教えによる厳しい身分制度、そして男性が絶対である時代において、下層階級である医女が活躍するという話自体がいかにもYAらしい。
ほぼ知らない時代ではあるが、巻頭に用語集が用意されており、それほど違和感なく物語世界に入り込むことができる。男女コンビによる事件の捜査、宮廷内のスキャンダル、冤罪サスペンス、さらに事件の謎解きにアクションシーン、そしてロマンスと、王道の道具立てがこれでもかとばかりに散りばめられている。舞台が馴染みのない朝鮮王朝という点を除くと、ありきたりのストーリーという気がしなくもないが、時代背景が初めての世界ということもあり、面白く読むことができた。もし当時の歴史を知っていたら、さらに面白く読むことができたかもしれない。
いかにも韓国ドラマを小説化しました、みたいな雰囲気の作品(と言っても、韓国ドラマを見たことがないので想像でしかないが)ではあるが、楽しく読むことはできるだろう。もうちょっと意外性のある事件の謎解きや犯人を出せるようになれば、よいのだが。
梓崎優『狼少年ABC』(東京創元社 ミステリ・フロンティア)
「俺、昔、喋る狼に会ったことがあるんだよ」カナダの広大な温帯雨林にやって来た三人の日本人大学生。狼の生態に関するフィールドワークのかたわら、ひとりが不思議なことを言い出して――(表題作)。
大人になる前の特別な時間を鮮やかに切り出した、四つの中編を収録。『叫びと祈り』『リバーサイド・チルドレン』の著者が贈る、ミステリ仕立てのエモーショナルな青春小説。(粗筋紹介より引用)
『放課後探偵団』(2010年11月)に掲載された「スプリング・ハズ・カム」、『ミステリーズ』vol.54(2012年8月)に掲載された「美しい雪の物語」(大幅な加筆修正)に書下ろし2編を加え、2025年10月刊行。
父親の仕事の都合でボストンから叔父の住むハワイ島にやって来た少女は、祖父の書斎で古い日記を見つけた。そこに書かれていたのは男女の出会いと別れ、そして再会の約束だった。二人は再会し、常夏の街に降る雪こと一面に咲いたコナ・コーヒーの花、コナ・スノーを見ることができたのだろうか。「美しい雪の物語」。
冬休み初日の明け方、深山高校一年一組の小原智弘が、高校の屋上から湯に足を滑らせ転落死した。隣の席に座り、時々映画のDVDを借りていた佐々は、通夜で智弘の姉からデジカメに残っていたという不思議な写真を渡される。雪野原に残されたのは、一本の傘。傘の下には雪が積もっていない。そして他にあるのは、傘までの足跡だけ。傘の持ち主はどこに消えたのか。「重力と飛翔」。
カナダ西部の太平洋岸に広がる世界最大の温帯雨林、グレート・ベア・レインフォレスト。留学したブリティッシュコロンビア大学で動物生態学を専攻する相羽は、狼の生態を調べるフィールドワークに従事していた。日本の大学農学部の同級生で友人だった穂村と柴田は、九月の夏休みを利用し、カナダまで押し掛けた。そこで穂村は、「僕、昔、喋る狼に会ったことがあるんだよ」と話し出した。「狼少年ABC」。
高校卒業から15年目の同窓会に参加するため、東京から札幌までやって来た鳩村。掘り起こされたタイムカプセルから出てきたのは、15年前の卒業式であった放送室ジャック事件の犯行声明だった。密室状態の放送室から消えた犯人は、当時の放送部員だった男女4人、鳩村、志賀、石橋、支倉の中の誰かか、それとも別人か。鳩村たちが謎解きに挑む。「スプリング・ハズ・カム」。
2013年の『リバーサイド・チルドレン』以来12年ぶりとなる梓崎優の第三作目は、それぞれ春夏秋冬をモチーフにした物語4編を収録。いずれも謎解きをスパイスとした青春小説である。
どれもが青春時代の煌めきとほろ苦さを浮かび上がらせるものであり、それでいてラストは優しさと心震える感動を与えてくれる。大人に成りきる一歩手前だからの感情と行動。
正直言って本格ミステリの謎、という一点だけを取り出すとそれほど難しいものではない。「重力と飛翔」の写真のトリック、「狼少年ABC」の狼の正体はすぐにわかってしまうだろう。だが、それぞれの作品の素晴らしいところは、それぞれの登場人物の瑞々しい感情が美しいこと。読了後に与える印象は作品によって異なるが、心を揺さぶる感動を与えてくれるという点についてはいずれも素晴らしい。謎の提供と解決が、そのまま登場人物の感情に直結する物語の構成力が最高だ。
いずれの作品も面白いが、どれか一つを選ぶとなると、やはり「スプリング・ハズ・カム」である。密室脱出トリックを巡る意外性もよいし、単語や会話の使い方もうまい。同窓会という舞台ならではの時の流れと想いが奏でるラストは、胸が締め付けられる余韻を残す。
できれば四作目は、もう少し早く出してくれないかな。
リチャード・デミング『私立探偵マニー・ムーン』(新潮文庫)
こんな探偵に出会ったことがおありだろうか? 戦地帰りのタフガイ、私立探偵マニー・ムーン。言い寄ってくる女性に事欠かず、ときに自らの義足までも武器に大立ち回りを演じたかと思うと、関係者一同を集めて名探偵顔負けの見事な謎解きを披露する――。E・クイーンの名も継いだミステリー職人が生んだ無二のアンチヒーロー。そんなムーンの活躍を集めた“本格推理私立探偵”決定版!(粗筋紹介より引用)
1948~1951年に執筆された中編7編を収録した、日本オリジナル中編集。2025年7月、邦訳刊行。
カジノ経営者ルイス・バグネルと繋がりのあるローレンス・ランダル弁護士から仕事の依頼で呼び出されたムーンは、ビル14階にあるオフィスの待合室で待たされていた。しかしランダルは応接室で若い女性の先客と話している。しびれを切らしたムーンが応接室に突入すると、デスクに腰かけたままナイフで刺されたランダルの死体があった。応接室に出入りできるのは、待合室のドアと、廊下に出る裏口しかない。女性客がランデルを殺して逃走したと思われたが。「フアレスのナイフ」。
午前四時、殺人課のウォーレン・デイ警視から呼び出されたマニー・ムーン。コインマシンを貸出する会社を経営するジョージ・カーマイケルが殺された。凶器のピストルは、共同経営者の一人であるいウィラード・ロングストリートのものだった。誰かが死んだ場合は株式を譲渡する契約があり、五万ドルの保険金の受取人がロングストリートであった。動機は十分だが、ロングストリートには犯行時刻に留置場に入っていたという鉄壁のアリバイがあった。しかもそれは昨晩、高級ホテルのバーカウンターで、ロングストリートがムーンに喧嘩を仕掛けたことがきっかけであった。留置場で会ったロングストリートは、ムーンを1万ドルで雇う。「悪魔を選んだ男」。
ムーンはミセス・クウェンティン・ランドに雇われ、彼女の広い屋敷に住み込み、麻薬中毒患者である姪のヴィヴィアン・バナーを24時間見張る仕事を受けていた。ムーンはヴィヴィアンの後見人となり、ヨーダー医師の指導の下、売人と接触させないよう昼間はムーンの目の届く範囲でしか行動を許可せず、夜はムーンとミセス・ランドの部屋の間に挟まれた、鍵付き鉄柵窓付きの寝室に閉じ込めていた。依頼を受けてから6週間後、ヴィヴィアンは初めて外出が許可された。翌朝、ヴィヴィアンは部屋の中で殺されていた。手首の上には注射痕があったが、注射器はどこにもない。ドアの向こうでは、ランドが眠ったままだった。「ラスト・ショット」。
ここ10年、この街のギャンブルの大半を、唯一のカジノの経営者であるルイス・バグネルが仕切っていた。しかしシカゴから割り込んできたバイロン・ウェイドが、新たなカジノをオープンする。一触即発の状態の中、同じ日の別々の時間に訪れて味方になるよう誘ってきた両者であったが、ムーンはどちらも断った。ただしウェイドは、自分の死が自然死に見えたときは調べてほしいと依頼量を渡してきた。ところがウェイドがムーンの事務所に居た時間、バグネルが殺されていた。カジノのオフィスで、銃声があった。慌てて駆け付けたボディガードの二人だったが、鍵のかかった部屋の中でバグネルが射殺されていた。そして気を失っていたのは、カジノで全額すったので、小切手を現金化しようと訪れていたミセス・ウェイドが気を失って倒れていた。犯人は隣にあるバスルームの、鉄格子のはまった窓から撃ったと思われた。どうやらミセス・ウェイドとバグネルは関係があったらしい。事件に乗りだすムーンだったが、自身も狙われる羽目に。「死人にポケットは要らない」。
ムーンが1年前にこの街から追い出したティム・ブロックが、ピストルを構えた巨体の男と共に事務所に入ってきた。ニューオリンズでカジノをひらいて成功したブロックはこの街に乗り込んできて、手を組んで牛耳ろうと誘ってきた。ムーンは反撃し、ティムを追い払う。警察の捜査後、地方検事のサム・ダーシーから電話がかかってくる。今回の件について打ち合わせしたいので、夜の九時半に来てほしいという。到着して車から降りたとき、ムーンは拳銃で襲われる。撃ち返して静けさが戻ったところで、ウォーレン・デイ警視とハネガン警部補がムーンの前に現れた。そして、バイロン・ウェイドが撃ち殺された死体があった。「大物は若くして死す」。
賭博シンジゲートを糾弾していた改革派の市長候補、ジェラルド・ケテラーが、実はそのシンジゲートの大ボスであったことを示す証拠文書をムーンは、元金庫破りの友人ジャッキー・モーガンの手を借りてケテラーの事務所の金庫室から入手し、依頼人である慈善事業家のレイモンド・マーグローヴに手渡した。しかし号外の記事ではムーンが新聞社に持ち込んだことになっており、しかも翌日にケテラーが自殺した。そしてムーンにも危機が迫る。「午後五時の死装束」。
ムーンの元婚約者で、カジノのディーラーであるファウスタ・モレニとのデートの帰り道、事務所で二人で酒を飲んでいるところに、女優リディア・モンゴメリーが上演中の『おさげの女』の終演後に楽屋でふたりきりで会いたいと、リディアの広報担当者であるマーティー・シェイファーが依頼してきた。ファウスタと観劇後、大勢のファンをかき分けてどうにか楽屋に入ろうとしたムーンだったが、そのとき中から銃声がとどろいた。慌てて楽屋に入ると、そこに居たのはドレスを脱ぎかけのリディアと、リディアの幼馴染で新たに契約しようと誘いをかけていた俳優エージェントのチャーリー・シェリダンが長椅子で寝そべっている射殺死体だった。リディアは誰かに脅迫されており、ボディガードとしてムーンを雇おうとしていた。リディアは階上の部屋から恐喝犯が彼女を殺そうとして、誤ってチャーリーを殺してしまったと主張した。「支払いなくば死あるのみ」。
作者のリチャード・デミングの名前を聞くのは初めて。幸い、帯にプロフィールが書いてある。1940年代から'80年代初頭まで犯罪小説を書き続けた職人作家。《マンハント》初期や《アルフレッド・ヒッチコックズ・ミステリマガジン》に多くの作品を寄稿し、さらにはペイパーバック作家として「チャーリーズ・エンジェル」など人気TVドラマのノヴェライズを手掛けた。また、『摩天楼のクローズドサークル』をはじめ、エラリー・クイーン名義のオリジナル作品も執筆。とある。一見典型的なパルプ作家に見えるが、1976年から83年まではMWAの理事を務めているのだから、業界からは認められていたのだろう。『刑事スタスキー&ハッチ』シリーズのノベライズや『摩天楼のクローズドサークル』などが邦訳されている。デミング名義では『クランシー・ロス無頼控』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)以来62年ぶりの邦訳刊行となる。
1948年、"Popular Detective"に発表した「フアレスのナイフ」は、デミングの公式デビュー作品、かつマニー・ムーンの初登場作品。「公式」とあるのは、デミングは1940年頃から次作をパルプ・マガジンに売り込んでいたが、原稿料が15ドル程度。原稿料200ドルで商業的にものになったのが「フアレスのナイフ」であり、それを作者は公式デビュー作品としている。
作品の舞台は1940年代末から50年代初め、ミズーリ州セントルイスと思われるアメリカ中西部の大都市。主人公は、安アパートの自宅兼オフィスで私立探偵業を営む元プロボクサーの、マニーことマンヴィル・ムーン。第二次世界大戦で右足の膝から下を失い、コルクとアルミと皮でできた義足を装着している。探偵になりたての頃にメリケンサックで殴られたため、鼻がちょっと曲がり、片方の瞼が垂れ下がってしまったが女にはもて、ワルサーP38を携え格闘術を駆使するタフガイぶりはギャングと警察の双方から一目置かれている。シリーズに登場するのは、元婚約者でアメリカでもトップクラスのブラックジャック・ディーラーでもあるイタリア難民のラテン系美女、ファウスタ・モレニ。ムーンの実力を認めながらも、立場上時には敵対する殺人課のウォーレン・デイ警視。その部下であるハネガン警部補。かつてムーンに助けられたことを忘れず、頼まれたらムーンを手伝う元金庫破りの友人ジャッキー・モーガン。1940年代から60年代まで、長編4作(うち1作は中編の長編化)、中短編19作に登場する。
このシリーズは、パルプマガジンに登場する典型的なタフガイの私立探偵が主人公で、ストーリーもタフガイならではのアクション満載なB級ハードボイルドでありつつ、事件は不可能犯罪で最後は関係者を集めて謎解きをするという本格ミステリでもある。
この相反すると思われる二つの要素を融合させ、さらに面白さを倍増させる効果をもたらす作品があるとは、夢にも思わなかった。事件も密室や絶対的なアリバイ、機械トリック、意外な動機など、本格ミステリファンの心をくすぐるものばかり。推理もなるほどと思わせてくれるものばかりで感心した。
マニー・ムーンは女にもて射撃がうまく格闘術にも優れているという典型的なタフガイ私立探偵だが、右足が義足であるというのがよいアクセントになっている。義足は時には弱点となり、時には武器となり、時にはピンチを切り抜ける切り札となる。
さらには七編のストーリーに変化をつけているところも見事。こういう中編集は、登場人物の名前だけ変えてストーリーはほぼ同一、なんてことが時に見受けられるが、職人作家らしく味を変えているところは見事としか言いようがない。アクションだけでなく、時にはユーモアを交えて緩急をつけるところも巧い。職人作家ならではの傑作と言っていいだろう。なぜ今まで邦訳がまとめられなかったのか、不思議で仕方がない。本格ミステリを偏愛する読者が増えた今だからこそ、受け入れられる作品集なのかもしれない。まあ、ハードボイルド要素と本格ミステリ要素をそれぞれ単独で見ると、どちらもB級感が漂ってくるのは確かだが。
どれも面白いが、どれが一番かと言われると、最も長い「死人にポケットは要らない」を選びたい。意外な犯人と凶器の隠し方がこの舞台ならではの巧みさであり、二転三転するストーリーにも意外性がある。
「悪魔を選んだ男」が「追いつめられた男」のタイトルで『ミステリマガジン』1964年9月号に掲載された以外は、いずれも初訳。マニー・ムーンシリーズはほかに5編の邦訳があるとのこと。もっとも面白い作品を選んで纏めたのかどうかはわからないが、できることならシリーズの他の作品も読んでみたい。
【元に戻る】