求刑死刑・判決無期懲役以下【1981年~1985年】






事件概要
罪 状
判 決
判決理由
備  考
T・A(34)  住所不定、元住宅会社外交員のT・A被告は1979年5月31日未明、岡山県で仲間2人と共謀、愛人の無職、T・K被告(27)と親しくなった暴力団組員の男性(49)に刺し身包丁で切りつけて3週間のけがを負わせ、現金12万円余りを奪った後、両手を縛って車のトランクに丸一日監禁した。生き埋めにしようと走行中、警察に発見され、組員を放置、逃走した。
 そのあと、T・K被告とともに姫路、京都、鳥取と逃避行を続け、6月4日夕方、神戸に着いたが、逃走資金も尽き果て、一夜の隠れ家を求めた揚げ句、同日午後11時半ごろ、一人暮らしの元産婦人科医(当時77)方に忍び込んだ。翌5日午前5時すぎ、寝室に押し入り、ベッドで寝ていた元医師にそれぞれ台所から持ち出した刺し身包丁を突き付けたうえ、ネクタイなどで両手足を縛り、現金5万3千円を強奪。さらに2人で元医師の首や背中を刺し、出血多量で死亡させた。このあと、T・A被告は血のついた服を焼いて証拠を隠そうと、寝室のフスマに新聞紙を持たせかけライターで放火し、建物の一部を焼いた。
 2人は翌6日、逃走先の秋田県下で逮捕された。
住居侵入、強盗殺人、非現住建造物等放火、傷害、逮捕監禁、窃盗、殺人予備 1981年2月16日
神戸地裁
小河巌裁判長
無期懲役
 T・A被告は「被害者が暴れて抵抗したため、押さえつけようとして誤って刺してしまった。たばこを火のついたまま捨てたが、放火するつもりはなかった」などと犯意を否認。これに対し、T・K被告は起訴事実を全面的に認めた。
 判決で裁判長は「被害者の傷の状況などからみて殺意はあった。また、放火はライターでしたものと認められる」と述べ、T・A被告の主張を退けた。さらに、「無抵抗の老人を殺害したうえ、放火までした犯行は残虐非道。しかし、犯行の経緯をみると、必ずしも意図的、計画的とは言いがたく、極刑に処するより、更生への道を歩ませた方が適当だ」として無期懲役を言い渡した。
 T・K被告は一審で懲役7年判決(求刑懲役10年)。控訴せず確定。
1983年3月30日
大阪高裁
八木直道裁判長
検察・被告側控訴棄却
 裁判長は「一審判決の認定に誤りはない」と、検察、弁護側双方の量刑不当の主張を退けた。
1984年11月6日
最高裁第一小法廷
和田誠一裁判長
被告側上告棄却、確定
 弁護側の主張は単なる法令違反、事実誤認であり、適法な上告理由にあたらないとした。また、違法な取り調べを受けた証跡はなく、供述調書の任意性に欠けると点はないとした原判決は正当であり、強盗殺人・放火について一審判決を是認した原判決は首肯できるとして、上告を退けた。
Y・M(29)  Y被告は1979年11月23日午後2時ごろ、群馬県桐生市の林道にて、車の中でデートしていた女子高生(当時16)と大学生をアイスピックで脅し、2人をロープで縛りあげたうえ、女子高生に乱暴し、ロープで絞め殺した。遺体は大学生に手伝わせて約13m下の沢に投げ捨て、2人から現金5,800円余りを奪った。 強盗殺人、強盗強姦、強盗、死体遺棄 1981年3月31日
前橋地裁桐生支部
荒川昴裁判長
無期懲役
 裁判長は主文を後回しにし、量刑理由から読み上げた。「被告の暗い生い立ちで形成された性格異常から突発的に起きた事件で、反省の色も濃い。今後、人間性を回復する可能性もある」と、これまで弁護側が主張してきた言い分を認めた。
 裁判長は犯行の経過を述べた後、検察側が「計画的犯行」、弁護側が「突発的」と主張していた最大の争点に触れ、「被告が犯行に使用したアイスピックは、被告のこれまで3回の自殺未遂を考えれば、辻強盗だけを目的に買い求めたものではなく、自殺に認められる」として、双方の言い分をともに認めた。また、検察側が死刑求刑の切り札としていた再犯性の有無については被告の恵まれない境遇に触れ、「被告は素直に自分を表現することができないまま幼年期を過ごし、母親は厳しい養父から被告をかばうばかりで善悪の区別をつけなかった。被告のゆがんだ性格はこうした生活環境から生まれた。精神鑑定でも被告の性格異常は生来的なものでなく更生の可能性は50%ある」と述べた。さらに「被害者の家族の心情は察するにあまりある。社会に及ぼした影響も極めて多大。刑事責任も重く、検察側が死刑を求刑するのもわかるが、裁判は被告の性格や心情も加味しなければならない」と述べた後、「死刑によって可能性を奪うのではなく、真の人間性の回復を願う」として無期懲役を言い渡し、Y被告に対し「判決文の中に裁判所の考えが全て織り込んである。十分理解するまで熟読し、人生を真剣に考えなさい」と諭した。
 Y被告は高校入学直後(15歳)の1967年5月11日、当時住んでいた北海道旭川市で女子高生に乱暴しようとして殺害。強姦未遂、殺人、死体遺棄の罪で中等少年院に送致されている。69年5月に仮退院した。この件を含め、3度の少年院送致の前歴と、1度の服役前科がある。
 無期懲役判決後、遺族はY被告の死刑を求める署名活動を展開、6,315人分の署名を地検桐生支部に提出した。
1983年9月6日
東京高裁
桑田連平裁判長
検察側控訴棄却
 裁判長は判決の中で「犯行は当初から殺人を意図したものでなく、極刑をもって臨むには酌量の余地がある」と述べた。
上告せず確定。
B・T(37)  愛媛県松山市の無職B・T被告は、1978年12月初め、約3年間同居していた内妻(当時22)に別れ話を持ち出し、内妻名義の預金分与を申し入れたが、内妻は応じず、同県宇摩郡の実家に戻った。B被告は内妻の父(同55)、兄(同25)を嫌っており、本人だけと話し合いたいと要求していたところ、同月12日から内妻ら3人が自宅近くの旅館に来ていることを知り、3人だけで話を進めていると立腹、翌13日夜、包丁を持って外出中の3人を待ち伏せた。B被告は同日午後11時20分ごろ、帰って来た3人に駆け寄り、内妻の父と兄の腹や胸を刺し、逃げようとして転倒した内妻の背中を刺した。内妻は即死、兄は翌朝、父も11日後に死亡した。 殺人 1982年3月4日
松山地裁
福家寛裁判長
無期懲役
 判決理由の中で裁判長は「被告の犯行は思慮分別に欠け、残虐非道の極みであり、地域社会に与えた影響も大きい」と述べ、公判で争点となっていた殺意についても認め、「傷害致死だ」とする弁護側の主張を退けた。また、同裁判長は量刑にも言及、「死刑の運用は極めて慎重にせねばならず、本件では被告に反省と贖罪の機会を与えるべきだ」と述べた。
1983年4月18日
高松高裁
金山丈一裁判長
検察・被告側控訴棄却
 裁判長は「被告は愛人の父、兄に対しては計画的殺意を持っていなかった。一審の事実認定と量刑は相当」と述べ、双方の控訴を棄却した。
上告せず確定。
K・T(38)  山梨県の電気工事業K被告は金繰りが苦しくなり、身代金目的の誘拐を計画。1980年8月2日午後、自宅近くの広場から帰る途中の保育園児(5)を自分の車で誘拐したうえ、身代金1000万円を要求するなど、11日までに31回にわたり脅迫電話をかけた。この間、誘拐2日後、中巨摩郡の山中で、保育園児の首を両手で絞めて殺し、穴を掘って遺体を埋めた。 身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、殺人、死体遺棄 1982年3月30日
甲府地裁
芥川具正裁判長
死刑
 弁護側は、犯行当心神喪失状態だったとして無罪を主張した。
裁判長は検察側の主張をほぼ全面的に認めた。争点となっていた、K被告が犯行時心神喪失状態にあったかについては、
 1.同被告の精神鑑定をした福島章上智大教授が「被告人の知能は正常であり精神薄弱、精神分裂などの精神障害の疑いはない」と結論を出した。
 2.犯行後の行動は冷静、巧妙であり、捜査官に対しても犯行を理路整然と供述している。
 3.当公判廷でも自己の罪を悔いるとともに必要な防御活動をしている。
 -などの点を挙げて、「心神喪失の主張は理由がない」と弁護側の主張を退けた。
 弁護側は「わずか百数十万円の借金で殺人を犯すことは通常考えられない」としていたが、これについても「被告の未熟な性格が視野狭窄を招いただけである」として、K被告の動機と行為には矛盾がない、と明確な判断を示した。
 裁判長は、死刑判決の理由として犯行の残酷性、非人道性、社会的影響などを挙げた。非人間性については「誘拐された子供の身を案じる両親の不安につけこんで身代金を要求したうえ、足手まといになると殺害。まる2日間、寝食をともにして被害児に接すれば情が移って当然であるのに、殺害して裸にして埋めるという行為は、無慈悲で卑劣である」と犯行の悪質さを指摘。さらに、「犯行の動機は借金の返済に窮したことにあるが、借金を生じた理由は見栄っ張りの被告自身の性格に起因しており、動機に同情の余地がない」「殺意が誘拐後に生じたとしても、この種犯罪は被害児の殺害につながる危険が極めて高いから、普通の偶発事件と同視できない」と続け、「前科前歴がないことや、これまで一応まじめな社会生活を営んできたことなどの情状を最大限考慮しても、極刑をもって臨まざるを得ない」と述べた。
 K被告の親族は、被害児の遺族に1000万円ほどの慰謝料を支払っている。
1985年3月20日
東京高裁
鬼塚賢太郎裁判長
一審破棄・無期懲役
 弁護側は計画性がないなどと一審認定事実の一部について争った。裁判長は「犯行は残虐、冷酷で悪魔の所業。だが、子供を見失い、いったん誘拐をあきらめかけるなど、犯行にためらいもあるうえ、身代金の要求も場当たり的で、必ずしも綿密な計画に基づく行為とは言い難い」と述べた。また、「最近、強盗殺人などの凶悪事件に対する量刑が慎重になりつつある動向も、罪責均衡の面から無視できない」との判断も示した。
1985年6月13日
被告側上告取り下げ、確定
 弁護側は上告しない意向であったが、K被告は上告期限になって弁護人と相談せずに上告した。K被告は「刑に不服はない。しかし自分を支援してくれた人たちのことなどを考えると、このまま刑が確定するのは釈然としない点もある。本来の趣旨とは違うかもしれないが、上告を考えている」と話していたという。
 一方、検察側は控訴審の量刑に不服はあるが、上告の理由が見当たらないとして、上告を見送ることを決めていた。
 K被告が取り下げた理由や経緯は不明。
K・K(60)  1979年12月9日夜、内縁の妻の所有している野菜畑の境界線を争っていた農業夫婦をコン棒や手斧で殴って殺害。さらに隣の家へマキ割りを突きつけ、一家4人の手足を縛り、約40分間監禁した。 殺人、殺人予備、逮捕監禁 1982年4月19日
東京地裁八王子支部
和田啓一裁判長
無期懲役
 脳卒中の後遺症からくる精神障害の有無を巡って二度の鑑定が行われたが、結果が食い違った。裁判長は「きわめて残忍な犯行で反省もうかがわれない。本来死刑が相当だが心神耗弱と考えられる」として減軽した。  
1982年5月11日
被告側控訴取り下げ、確定。
 


H・S(43)  H被告は1981年10月2日、借金返済のため、事前に下見していた歯科医の家の玄関脇の格子へ侵入し、室内を物色し、現金116,000円とキャッシュカード二枚を盗んだところ、留守番をしていた歯科医の妻に見つかったため、ネクタイで両手を縛り目隠しをしたうえ、台所から持ち出した包丁で脅してキャッシュの暗証番号を聞き出し、その後電気コードで殺害。死体を廊下の押入れのなかに隠した。その後キャッシュカードで銀行から20万円ずつ9回に分け180万円を引き出すが、5日後に逮捕された。 強盗殺人、死体遺棄・損壊他 1982年5月18日
熊本地裁
川崎貞夫裁判長
無期懲役
 検察側は「出産を間近に控えた無抵抗の主婦を脅迫し、殺害した被告の犯行は残忍で冷酷極まりない。公判でも自己弁護するだけで反省の色が見られない」と述べた。弁護側は「空き巣に入ろうとしただけで強盗殺人の計画性はなかった」と主張した。
 裁判長は「被告が派手な生活から多額の借金を抱え、返済に困った末の犯行で、動機に酌量の余地はない。無抵抗の主婦を脅迫したうえ、殺害した犯行は、計画的で極悪非道だ。社会に与えた不安、影響も大きく、遺族も極刑を望んでいる。」と厳しく述べた。しかし「空き巣狙いから強盗に発展したもので、殺意も偶発的な面がある。凶器を持って強盗殺人に及んだものではない。一貫して犯行を認め反省していることなどから終生、被害者の冥福を祈らせるのが相当だ」と述べた。
 
控訴せず確定。  


金川一(31)  無職金川一被告は1979年9月11日午後2時頃、熊本県免田町の路上で、たまたますれ違った農作業中の主婦(当時21)を乱暴しようと追いかけ、近くの畑で襲ったが、強姦は未遂に終わった。しかし犯行の発覚を恐れ、首をしめたうえ、持っていた短刀で数回突き刺して殺した。 殺人、強姦致死、窃盗 1982年6月14日
熊本地裁八代支部
河上元康裁判長
無期懲役
 初公判では起訴事実を認め、精神的に18歳未満の少年と同じであり、殺害したのは1人なのに死刑では重すぎると訴えていた。しかし一審で死刑を求刑された後、自供を翻して無罪を主張した。
 判決で裁判長は起訴事実を全て認めながら、知能が低く普通人と精神薄弱者との境界領域に属し、爆発性性格の異常人格者で情緒性の未発達が目立つとされていることを考慮し、「被告の犯罪傾向が年月の経過とともに改善の方向へ向かう可能性もある」として無期懲役を言い渡した。求刑後に否認へ転じたのは、人間性の弱さであり、反省悔悟の念が全くないと断じるのは酷であるとした。
 金川被告は18歳だった1968年9月11日、入院していた教護院を脱走し、通り掛かりの女性事務員(当時20)を金欲しさから殺害。強盗殺人罪に問われ、1969年12月9日、熊本地裁で懲役5年以上10年以下(求刑無期懲役)の判決に処せられ服役。1979年6月11日、長崎刑務所を満期出所して3ヶ月後の事件。再犯は奇しくも11年後の同じ9月11日だった。
 無罪を訴え再審請求中。
1983年3月17日
福岡高裁
緒方誠哉裁判長
一審破棄・死刑
 裁判長は「罪質、動機、態様、結果、それによってもたらされた影響など、いずれの面からみても筆舌に尽くしがたいほど残酷かつ非道。精神鑑定の結果は本件犯行の重大さと比べ、それほど有利に斟酌できるものではない。出所3か月目の犯行であり、犯罪傾向は極めて強く改善の可能性は乏しい。一審の量刑は軽過ぎる」とした。
1990年4月3日
最高裁第三小法廷
安岡満彦裁判長
被告側上告棄却、確定
 裁判長は「犯行は執よう、残虐で、動機にも酌量の余地がない上、少年時代に強盗殺人罪で懲役刑に処せられ、刑終了後わずか3ヶ月後だった。被告の成育歴、資質などの事情を考慮しても、刑事責任は重い」と二審の死刑判決を支持、同被告の上告を棄却した。
K・T(26)  住所不定、無職、在日韓国人のK被告は、1981年7月6日午後0時45分ごろ、遊興費欲しさに神戸市の郵便局員方に押し入り、局員の母親(61)を「金を出せ」と包丁で脅した上、顔を殴って15日間のけがをさせて逃走。さらに東隣の市営住宅10階の会社員方を襲い、会社員の長女(当時37)に包丁を突き付け「金を出せ」と脅し、約4万円を奪った上、「トイレに行かせて」と言って逃げようとした長女の胸や背中を刺し、出血多量で約3時間反語に死亡させた。
 K被告は神戸フェリーセンターから徳島に逃げる途中、フェリーの船内で女子大生3人を包丁で脅したり暴力を振るうなどして、同日夕方、徳島港で逮捕されたが、芦屋市や京都市でも強姦致傷事件を起こすなど、同月1日から6日までのわずかの間に、計9件もの通り魔的犯行を重ねた。
住居侵入、強盗致傷、強盗殺人、強姦未遂、窃盗、暴力行為等処罰に関する法律違反、強制わいせつ、強姦致傷 1982年11月15日
神戸地裁
高橋通延裁判長
死刑
 公判でK被告は強殺事件について「酒を飲んで気が大きくなり、市営住宅に上がったら10階の被害者方玄関のカギが開いていたので、空き巣のつもりで入った。被害者を殺すつもりはなく、逃げるのを止めようとして誤って刺した」と殺意や計画性を否認した。
 裁判長は「包丁を持って押し入る住宅を探し回るなど、単に空き巣でなく強盗の計画性があった。また逃げようとした被害者に対し、犯行が発覚するのを恐れて強い力で3回続けて刺しており、この時点では確定的な殺意があった」としてK被告の主張を退けた。そして「短期間に自己の欲望のおもむくまま通り魔的犯行を重ねた上、貴重な人命を奪いながら全く反省していないなど、矯正の余地はない」とした。
 
1984年2月3日
大阪高裁
八木直道裁判長
一審破棄・無期懲役
 裁判長は「犯行は残忍で冷酷だが、計画的なものではない。死刑の適用は慎重でなければならない」と一審判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。裁判長は、「犯行は欲望のおもむくまま相手を選ばず重ねられたもので、付近住民の恐怖感は大きかった。一審の死刑判決も分からないわけではないが、被告は不遇な生い立ちで幼少期に両親の愛を受けることなく成長し、性格にゆがみができたことを考えると、情状酌量の余地がないわけではない。拘置所で請願作業に従事し、わずかでも稼いだ金を法律扶助協会に寄付するなど、今後性格改善の余地がみられる」と減軽の理由を述べた。
上告せず確定。
I・Y(24)  シンナー乱用者の工員I被告は1980年2月8日午後、自宅でシンナーを吸っているのを家族に注意された鬱憤を晴らすためノミを持ち出し、北九州市の路上で近くの主婦(当時45)をノミで刺殺した(殺人)。さらに逃走資金を手に入れるため、主婦(53)を刺して重傷を負わせたが金を奪うのに失敗(強盗殺人未遂)。近くの民家に上がり込み、炊事中の主婦(当時46)をメッタ突きして殺害し、現金6万5千円を奪った(強盗殺人)。さらにI被告は翌日、ホテルでボヤ騒ぎを起こし、自殺を図るが未遂に終わった。放火については起訴されていない。 殺人、強盗殺人未遂、強盗殺人 1983年2月9日
福岡地裁小倉支部
谷村允裕裁判長
死刑
 裁判では犯行直前に3時間もシンナーを吸い続けていたI被告の責任能力が最大の争点となり、二度の精神鑑定が行われた。検察庁嘱託の今任準一医師は、同被告が起こした連続3件の犯行のうち、最初の犯行についてのみ「シンナー酩酊により心神耗弱状態があった」とし、残り2件は「責任能力あり」と鑑定した。弁護側申請で行った小田晋・筑波大教授の鑑定ではすべての犯行に責任能力を認めた。
 裁判長は「最初の犯行はシンナー吸引直後で、意識水準の低下が認められるが、物事の善悪の判断ができる状況にあり、残り2件の犯行は逃走資金を得る極めて悪質な目的を持って主婦2人を殺傷するなど、いずれも責任能力はあった」と判断。弁護側による心神耗弱の主張を退けた。また、被告・弁護側は「殺意」も否定していたが、裁判長は「第一、第二の犯行はノミで一突きしただけで確定的な殺意には疑問があるが、被告には鋭利なノミに殺傷能力がある認識があり、未必の殺意は明らか。第三の犯行は抵抗力のない主婦を約20回もメッタ突きし、確定的殺意は歴然」と指摘した。犯行の動機は、「シンナーを吸っていたことを家族に注意され、それまで鬱積していた家族への憤懣が一気に暴発した」とし、「自分勝手な感情を全く無関係の人にぶつけた自己中心的な犯罪で、人間的感情のかけらさえない」と厳しく述べた。
 次に裁判長はI被告の生い立ちに言及。「父親が家庭に十分な生活費を入れずに飲み歩き、両親が子供を完全に見守らなかったなど、被告は恵まれない環境で育ったが、シンナーについて両親は再三注意するなど努力した。事件は被告が怠惰な生活を改めなかった点や、被告自身の粗暴、冷酷な性格に起因するところが大きく、両親も死刑を望むなど見放し、もはや矯正の可能性は乏しい」と述べた。さらに、通り魔事件に対し「市民が全く防御できないこの種の凶悪事件が、被害者、遺族に与えた無念さはあまりに深い」と述べ、最後に、「無差別に人命を奪った残忍、非道な犯罪で、被告の生い立ちや、いまだ若年であり反省していることなど、被告に有利な情状をすべて考慮しても、被告の生命で償うしかない」と死刑を言い渡した。
 本件の半年後に起きた新宿バス放火事件とともに、「犯罪被害者等給付金支給法」を早期施行するきっかけとなった。I被告は2010年現在も服役中で、遺族の1人と文通しているという。
1986年4月15日
福岡高裁
浅野芳郎裁判長
無期懲役
 控訴審では、I被告は「シンナー中毒によって、犯行の数日前から『だれからか狙われているので、その前に母親らを殺して自殺しよう』という被害妄想下にあった。被害者の主婦が母親に見えたので刺した」と新たな主張を展開。被告側申請で精神鑑定した逸見武光・元東大教授は「第二の犯行までは意識障害があり、その後、現実感覚がよみがえった」と鑑定した。
 裁判長は「被告は最初の女性を刺し殺した当時は、シンナーを吸ってから15分後で、理性や判断能力が相当マヒし物事に的確に対処する力が低下して心神耗弱の状態にあった」と弁護側の主張を認めた。しかしその後の2件の犯行は酩酊状態から次第にさめ、心神耗弱の状態ではなかったという判断を示した。
上告せず確定。
Y・M(21)  Y被告は同僚の仲居に好意を持ち、1981年7月21日午後11時頃、女性宅を訪問。上がり込んでいきなり乱暴するも抵抗されたため、首を締めて殺害。翌日午前2時ごろ、現金15000円、腕時計などを盗んだうえ、カーテンに火をつけ、逃走、自宅を全焼させた。 強姦致死、殺人、窃盗、非現住建造物放火、死体損壊 1983年3月11日
京都地裁
長崎祐次裁判長
無期懲役
 裁判長は「同僚である被害者を殺害したうえ、逃走資金も盗むなど残忍。被害者本人や遺族の無念さは察するに余りある。しかし、犯行は場当たり的で、被告の更生の余地はあり、死刑という極刑に処するよりも被告に一生をかけて罪の償いをすべき」と、無期懲役を言い渡した。  
1984年8月21日
大阪高裁
石田登良夫裁判長
検察・被告側控訴棄却
 検察側は「ガス自殺を偽装するなど犯行は残忍で悪質」と極刑を求めて控訴、弁護側も「量刑が重すぎる」と控訴した。裁判長は「犯行当時20歳になったばかりで精神的に未熟だった点や、現在は深く反省し、両親とともに被害者遺族への謝罪に努めている点を考えると死刑は相当でない」と一審の無期懲役を支持、検察、弁護側双方の控訴を棄却した。
上告せず確定。
T・K(35)  島根県邑智郡の自動車板金塗装業T被告(32)は、愛人のスーパー店員T・E被告(25)と共謀。1979年秋にT・E被告と見合いで婚約した男性を簡易保険に加入させた。1980年4月23日に結婚、新婚旅行の帰りに親戚周りをし、T・E被告の実家に立ち寄った。28日深夜、男性が一人で実家に向かおうと農道に停めていた車に乗った時、後部座席に身をひそめていたT・K被告が男性の首を絞め、T・E被告も下腹部を殴るなどして仮死状態にした。その後T被告が車を国道まで運転し、車内に灯油をまいて放火し、ガードレールの切れ目から転落させ、殺害した。警察は転落交通事故として処理し、T・E被告は簡易保険の災害死亡時保険金1000万円をだまし取った。T・K被告はA級ライセンスを保有していた。
 T・E被告は江津市にマンションを購入し、妻子を持つT・K被告が頻繁に出入りするようになったことから噂が広まり、警察署が内偵。1982年7月2日、別件の窃盗容疑でT・K被告を逮捕。犯行を自供したため、再逮捕した。T・E被告も11日に逮捕された。
窃盗、殺人、詐欺 1983年3月22日
松江地裁
吉田昭裁判長
死刑
 裁判長は検察側の主張を全面的に取り入れた。判決は2被告の経歴から始まり、犯罪事実へ。「不倫な関係を続けるため、結婚を偽装、加入しても怪しまれない1000万円の簡易保険に入り、何ら過失のない被害者を殺害。2被告は野望を遂げた。完全犯罪を狙ったまれにみる計画的で巧妙、大胆な凶悪犯罪。情状酌量の余地はない」と厳しく述べた。T・K被告については、「殺害行為の主要部分を実行。逮捕後、悔悟して香典などを渡しているが、情状酌量の余地はない」と死刑を宣告した。  K被告は求刑通り一審無期懲役判決。控訴審では懲役20年に減軽された。上告せず確定。
 1981年7月16日に島根県石見町で発生した幼女殺人事件の裁判において、「○○○○さんの無実を訴える会」(○○○○は事件の被告。一審無罪判決が確定)は当時の裁判長に名指しで直訴状を送っている。裁判で当時の取り調べをした検事が、T被告に尋問したらアリバイがあったと証言しているが、同時に裏付け捜査を行っていないとも証言している。またT被告は1980年7月14日に幼女の父親方へ侵入して現金等を盗んでいたとも証言している。
1985年9月30日
広島高裁松江支部
古市清裁判長
一審破棄・無期懲役
 裁判長は「死刑は残虐な刑罰を禁じた憲法36条に違反する」との弁護側の主張について、「現在の死刑執行の方法自体は残虐でない」としながらも、「人の生命を永遠に奪うもので、適用は慎重なうえにも慎重でなければならない。T・K被告は毎日写経し、被害者の冥福を祈るなど、人間の心を取り戻しており、多少でも情状酌量の余地が認められる本件に死刑適用は相当でない」とした。一審判決が「情状酌量の余地なし」としたのに対し、被告が体育指導委員を務めたほか、献血活動で表彰されるなど、被告の生活歴にも踏み込んで情状面を考慮。供述態度や被害者の冥福を祈る姿など、逮捕、一審判決後の状況まで積極的に判決に加味した。
上告せず確定。
Y・T(38)  甲府林務所職員Y被告は株に失敗して借金を抱えたため、1981年7月22日、山梨県の主婦(当時58)を誘拐し、クロロホルムを嗅がせ布団をかぶせ、ぐるぐる巻きに縛って殺害。身代金5000万円を要求したが、逆探知で24日に逮捕された。 身代金目的誘拐、身代金要求、殺人 1983年3月29日
甲府地裁
上田耕生裁判長
無期懲役
 裁判長は「殺人については未必の故意にとどまる」と判断し、確定的殺意を主張する検察側、殺意を否定し殺人については無罪を主張する弁護側双方の主張を退けた。
 量刑の理由の中で、「犯行は冷酷無比で卑劣極まりない。地域に貢献していた被害者の生命を奪ったことは、被告の反社会性を示すもの」と述べる一方で、「この種の犯行は一般的に確定的殺意を抱いて実行するものだが、本件の場合、被告の殺意は未必的故意にとどまる」との判断を示した。そしてY被告は、1.誘拐後、口で呼吸ができる程度に、被害者にさるぐつわをした。2.監禁した山小屋から被害者が助けを求めることを懸念して、胸を縛ったり、麻ひもをかけて動けないようにした-と、消極的な殺意を認定した根拠を明らかにし、さらに「被告には、それまでまじめに働いていた点、深く反省している点などの有利な事情もある」と述べた。
 殺害された主婦は、金丸信国会議員の義姉である。日本で初めて逆探知に成功した事例とされる事件である。
控訴せず確定。


村竹正博(36)  陶器販売業村竹正博被告は、詐欺によって損害を被ったことから倒産の危機に瀕したため、友人(当時36)に貸していたお金328万円の返済と融資を求めたが断られたため、裏切られたと考え殺害を決意。1978年3月21日夜、長崎県川棚町の農道に誘い出した友人と同行してきた女性(当時25)の二人をバットで殴り、首を絞めて殺害、現金13万円を奪った。さらに帰宅後、妻(当時34)を殺害して自らも傷つけて4にんとも同じ強盗に襲われたように偽装し、約9000万円の保険金をだまし取ろうと計画。22日、自宅で妻を絞殺した。 強盗殺人、殺人 1983年3月30日
長崎地裁佐世保支部
亀井義朗裁判長
無期懲役
 裁判長は、「若い3人をいわれなく殺害した重大な犯行であり、その動機は自己中心的、冷酷、卑劣である。しかし、被告は善良な生活を送っており、前科前歴もなく、犯罪的傾向も窺われない。事件は被告が取込詐欺で甚大な被害を被ったことに端を発しており、被告に同情の余地がないわけでもない。被告には反省悔悟の情が顕著である。また被告の両親は、女性の遺族に100万円を支払い、また友人に対する借金328万円の請求権を放棄している。死一等を減じることにより、生涯被害者らの冥福を祈らせるのが相当」と判断した。  1998年6月25日執行、54歳没。
1985年10月18日
福岡高裁
桑原宗朝裁判長
一審破棄・死刑
 裁判長は「会社が倒産危機に瀕し、友人が連れなかったとはいえ、親しく交際してきた人物を執拗かつ残酷な方法で計画的に殺害するとともに、連れにすぎなかった女性までためらいがあったとはいえ同じ方法で殺害するとともに、2児の母親で10年以上も連れ添ってきた妻を殺害したのは、通常人の域をはるかに超えた極悪非道な者が短期間内に敢行した、凶悪きわまる事案であるといわなければならない。被告の両親が慰藉の方途を講じ、被告本人が反省しているとはいえ、無期懲役に処した原判決の量刑は軽きに失して不当」と述べ、一審を破棄した。
1990年4月27日
最高裁第二小法廷
藤島昭裁判長
被告側上告棄却、確定
 裁判長は、「計画的で残忍、執拗な犯行。反省していることなどを考慮しても死刑を認めざるを得ない」と述べた。
M.T(36)  1969年10月24日、東京都新宿区の警視庁第8機動隊庁舎に、50本入りピース缶に偽装した爆弾が投げ込まれたが、不発だった。1969年11月1日、東京都港区のアメリカ人文化センターに、ピース缶を使用した時限装置付爆弾が入ったダンボール箱が配達されて爆発。職員1人が負傷した。1971年10月18日、東京都港区の日本石油本社ビル地階にある郵便局に運ばれた郵便小包の中に入っていた爆弾が爆発。郵便局員1人が重傷を負った。宛先は後藤田正春警察庁長官と、新東京国際空港公団総裁だった。1971年12月18日、土田国保警視庁警務部長(後に警視総監)の自宅に送られたお歳暮の中に爆弾が爆発、T夫人(47)が死亡、四男(13)が重傷を負った。
 新左翼活動家の犯行と警察は断定し捜査。1972~1973年の間に警察は、当時赤軍派に属していたM被告を全事件の主犯と断定。他17名も逮捕した。
爆発物取締罰則違反、殺人、同未遂、窃盗 1983年5月19日
東京地裁
大久保太郎裁判長
無罪
 M被告側は、取り調べで拷問を受けて虚偽の供述をさせられた、として無罪を主張した。物証はなく、検察側は自白調書を証拠申請したが、大半は裁判所に却下されている。
 公判中の1979年、赤軍派の別グループに属するYが1969年10月の事件の実行犯であると証言(ただしこの証言は一審判決で否定されている)。さらに1982年5月、新左翼活動家であるMYは1969年10月の事件で自らが爆弾を製造したと暴露。「秘密の暴露」があったため、その証言は真実であるとされた。
 判決では証拠採用した自白調書についても信用性がないと退け、無罪を言い渡した。しかし裁判長は判決文で、「被告らが犯人との疑いは強く残る」と"灰色無罪"を強調。さらに「法の下、やむを得ぬ」などとする「所感」まで読み上げた。
 Mは別件の窃盗罪で懲役1年・執行猶予2年の有罪判決が出されている。
 MYについては時効が成立している。逮捕された18人のうち、ピース缶爆弾事件で有罪判決が出た2名を除く16名が一審で無罪判決が出された。5名は一審で無罪が確定、6名は控訴棄却され確定、5名は控訴取り下げにより、1985年12月28日までに無罪が確定している。また有罪が確定したうちの1名については再審で無罪が確定している。
1985年12月13日
東京高裁
萩原太郎裁判長
検察側控訴棄却(無罪
 検察側の控訴趣意書では、検察側が控訴せずに一審で無罪判決が確定したものについても共犯と位置付けたものとなっていた。
 裁判長は自白調書について「見方によっては被告らが事件にかかわっていたことをうかがわせるものといえなくない」としつつ、一部被告にアリバイが成立、明らかに虚偽と認められる部分、証拠物と合致しない部分があるとした。さらに一部被告が一時自白を維持した点についても、起訴後も警察の留置場(代用監獄)に拘置されて警察官から世話を受けており、信用力には疑問があるとした。そして小包爆弾のあて名がM被告の筆跡とする鑑定についても、鑑定方法に疑問を挟み、採用しなかった。そして証拠からM被告らを犯人と認定するのは困難とした。最後に自白に任意性について、人権を侵害するものであり、虚偽供述を誘発する恐れのある取調べによるものと非難した。
上告せず確定。
N・T(26)  福島県の大工N・T被告は1981年6月28日午前2時半ごろ、近所の無職男性(当時65)の四女(同20)にイタズラしようと、玄関から侵入。寝室のベッドに寝ていた四女に気付いたが、父親が起き上がったため、一度自宅に戻り、刃渡り18cmの牛刀を持ち出した。再び四女を襲ったが気付かれたため、殺意をもって父親、四女をメッタ突きにして殺害した。 住居侵入、強姦未遂、殺人 1983年5月20日
福島地裁郡山支部
井深泰夫裁判長
無期懲役
 判決で裁判長は「自己の性欲を満たすのみに行動し、未遂に終わるとその腹いせに罪のない父と娘を殺害した事実は同情の余地がない」として無期懲役を言い渡した。弁護側が主張してきた「殺意はなく、傷害致死が適当」の点については、(1)持ち出した凶器(2)2人が受けた傷の程度-などの状況から殺意は明らか、と述べた。また弁護側の証拠として採用された「N被告は犯行時、飲酒などにより心神耗弱状態にあり、多少知能が劣るなどからも責任能力を著しく欠いていた」という浅井昌弘慶応大医学部講師の鑑定結果についても、(1)知能は普通の下程度で社会生活を営むのに支障はない。(2)酒は強い。(3)飲酒で酩酊はしていたが、心神耗弱での病的酩酊ではない。(4)防御能力の欠いた人達を襲った。(5)犯行後に凶器を捨て、血のついた着衣を隠すなどしている。-と、"責任能力は十分"として退けた。
 量刑については「改めて刃物を持ち出すなど同情の余地がなく、被害者と遺族の無念の気持ちを思うと極刑もありうる」としながら、(1)多少知能が劣り、飲酒しており計画的ではなかった。(2)幾度も自首しようとした。(3)自殺を図った。(4)若年でこれまで罪らしい罪はない。-と情状を述べた。
 
1984年1月30日
仙台高裁
粕谷俊治裁判長
検察側控訴棄却
 検察側は量刑不当を理由に控訴したが、無期懲役を支持、控訴を棄却した。N被告は終始、反省の色を見せ、控訴審第2回公判では被告人質問で「自分の死をもって償いたいという気持ちは一審から変わっていない」と述べていた。
上告せず確定。
T・H(35)  市川市のT被告は不動産会社社長に自宅を売りたいともちかけて、商談が成立。1983年3月10日、近くのビル屋上駐車場に呼び出し、金属バットで頭部を殴って殺害、2100万円入りのアタッシュケースを奪った。その後海外に高飛びを図ろうとするが、翌日に逮捕された。 強盗殺人、死体遺棄 1983年9月13日
千葉地裁
柴田孝夫裁判長
無期懲役
 裁判長は「犯行の手段、態様をみても、金属バットを準備し、人のいない駐車場に誘うなど計画性がうかがわれる」としたうえ、「冷酷、残忍で大胆な犯行である」と厳しく述べた。さらに「被害者の無念さは察するに余りあるものがあり、極刑に処すべき事案ともいえる」と述べたが、「死刑の適用は慎重でなければならない」と前置き、計画的であったものの委細周到でなかったこと、さらに前科前歴がない-などを斟酌、「生命の尊厳性を身をもって感ずることにも合理性がある」と、無期懲役に減軽した。  
1984年5月16日
東京高裁
草場良ハ裁判長
検察側控訴棄却
不明。
上告せず確定。
F・Y(49)  F被告は借金返済のため、会社へ集金に来ていた銀行員男性の殺害を計画。1977年7月25日、男性を会社のボイラー室に誘い、後ろから鉄パイプで殴った後、ひもで絞殺し、集金かばんを奪った。その後、会社わきの駐車場の地で重油タンク内に捨てた。遺体は5年後の1982年12月18日に発見され、4日後の12月22日に逮捕された。 強盗殺人、窃盗、有印私文書変造、同行使、詐欺 1983年9月26日
前橋地裁
小林宣雄裁判長
無期懲役
 裁判長は起訴事実を全面的に認めたうえで、1.犯行は被告の本来の性格に起因するものではない。2.事件の招いた結果のすべてを被告の責任とできない。3.被告に反省の色が見える-とし、「犯行は許しがたいが、若干酌量の余地があり、死刑の適用には慎重に対処しなければならない」と述べた。
 判決理由で裁判長はまず、被告の犯行動機、計画性に触れ、「道楽のギャンブルからサラ金の返済に窮し、安定した職場と家庭崩壊を恐れての犯行。私利私欲のためにたやすく罪のない他人の命を奪った行為は極悪非道。非人間的で許し難い」「犯行はまことに綿密、周到。大胆かつ計画的で残忍」と厳しく糾弾した。被害者側の心理については「被害者は実直な銀行員で、妻子と平和な家庭を築いていた。殺害された後、長期間油づけにされた被害者はまさに悲運。また、衝撃的な失跡は“持ち逃げ”との風評を生み、苦悩した妻が自殺。二男は非行に走るなど、被告が被害者一家に直接、間接に及ぼした影響は重大だった」と述べた後、「事件後もギャンブルに没頭した無反省な態度は言語道断。極刑を望むのもわかる」と検察側の主張に理解を示した。
 しかし、理由の公判では主に被告に有利な情状面に触れ、まず「被告の性格は小心で気弱。凶暴性もなかった」とし、被告の犯行動機の下地となった公営ギャンブルとサラ金の存在自体に対する否定論を展開。「自ら招いた事態とはいえ、一抹ながら酌量の余地がある」と結論付けた。被害者一家の崩壊については「事件当初の捜査で被告への追及は行われず、持ち逃げ説があがり、マスコミ報道もあったため、妻が精神的に追い詰められた。被告には予期できなかったことで、結果のすべてを被告の責任とはいいきれない」との見解を示した。また、逮捕後、被告が犯行を素直に認めている点をとらえ、「鬼畜の犯行をしたが、現在は人間らしい心を多少とも取り戻している。死刑は絶対的、最終的な刑で慎重であるべき」として無期懲役を言い渡した。
 銀行員の妻は、夫が金を持ち逃げしたと疑われたため自殺している。
1984年12月19日
東京高裁
時国康夫裁判長
検察側控訴棄却
 検察側は被告に有利な情状を過大評価していると控訴した。
 裁判長は「酌量の余地はなく死刑が過酷に過ぎるとはいえないが、事後審でとしての控訴審で一審判決を破棄して死刑にするのは躊躇を禁じえない」と述べた。さらに、5年間も事件が解明されなかった点について、「警察はもっと念入りな捜査をすべきだった」と、県警のずさんな捜査を批判した。判決の中で裁判長は「被告は裁判途中で“死刑にしてほしい”と発言するなど、強い贖罪の念に苦悶しており、同種事件の量刑と比較しても、極刑である死刑に処することには躊躇を禁じえない」とした。事件が一家崩壊の原因となった点にも触れ、「もう少し警察の念の入った捜査が行われれば、事件は早期に解決され、家族の悲劇は避けられたかもしれない」と指摘した。
上告せず確定。
M・K(36)  1983年1月21日、M被告は自転車で帰宅途中のOLを田んぼに引きずり込み、金を出せと脅したところ、大声で助けを呼ぼうとしたため、包丁で腹を四回刺して殺害し、財布を奪った。前日同じ時間帰宅途中の近くの会社員に同じことをして、左胸などに1ヶ月のけがをさせたほか、19~21日までの間に計3台の自転車を奪った。 強盗殺人、強盗他 1983年10月18日
熊本地裁
川崎貞夫裁判長
無期懲役
 M被告は最終陳述で「再び社会に出たら、今以上の大罪を犯すかもしれないので死刑にしてほしい」と陳述している。
 裁判長は「無抵抗の女性を刃物で殺し、金を奪うなど残虐非道で再犯の恐れもある。しかし暴行は未遂であり、犯行後自首している。終生、被害者の冥福を祈らせるのが相当」と述べた。
 M被告は1970年、強盗や強姦事件等を繰り返し、同年6月30日、熊本地裁で懲役10年(求刑同15年)の判決を受けている。判決言い渡し直後、法廷で刃物(鉄パイプの先端を尖らせた物)で検察官に襲いかかったが、咄嗟に払いのけられ、さらに暴れるも取り押さえられた。殺人未遂の現行犯で逮捕されたが、その後の処分は未確認。
1985年7月19日
福岡高裁
井野三郎裁判長
検察・被告側控訴棄却
 裁判長は「鬼畜にも等しい犯行で検察側の死刑求刑は理解できるが、被告も自分の反社会性を自覚している」として一審無期懲役判決を支持、検察・弁護側双方の控訴をいずれも棄却した。
不明。
S・N(31)  S被告は1982年6月28日、宅配便を装い応答に出た若妻をネクタイで縛り、現金105,000円、銀行のキャッシュカード2枚を奪った後、首を締めて殺害した。 住居侵入、強盗強姦未遂、強盗殺人 1983年12月14日
横浜地裁川崎支部
堅山真一裁判長
無期懲役
 裁判長は「被害者が日ごろ用心深く施錠していることを知って、荷物配送院を装うなど、計画は巧妙で悪辣。しかも乳児の傍らで乱暴しようとしたり、警察への通報を恐れて安易に殺害したのは凶悪かつ残忍。乳児が成育して母の死を知る悲嘆さを思う。白昼のマンションでの凶悪犯罪で、世間に大きな衝撃と影響を与えた」と述べ、「最初から殺害するつもりはなく、強姦は未遂。被害者のコンタクトレンズのために眼をふさぐガムテープを緩めるなど、なお人間的感情を持ち合わせていたことがうかがわれる。改悛の情も認められる」と情状酌量し、無期懲役に処した。  
控訴せず確定。


Y・I(36)  名古屋市内にある日建土木株式会社の実質上の経営者であったY被告は、同社の営業資金等に窮していたため、暴力団組長である西尾立昭被告と共謀の上、同社の役員等を被保険者とする経営者大型総合保障を締結した上、これを殺害して多額の保険金を騙取しようと企てた。
 西尾被告の紹介で同社の名目上の代表取締役に就任させていたKさん、同社の従業員であったIさん(当時35)、西尾被告の紹介で同社の名目上の取締役に就任させたOさん(当時48)に保険を掛けた。その後、西尾被告は配下の者とも順次共謀して、Kさんを溺死させようと長良川に誘い出し、あるいは恵那峡ダムへの一泊旅行に誘うなどしたが、不審を抱かれるなどして殺人予備の段階にとどまった。
 その後、暴力団会長やその配下の者ら3名とも順次共謀して、Iさんを交通事故を装って殺害しようとし、全治約2ヶ月の重傷を追わせたが、殺害にまでは至らなかった。このとき、Y被告は単独で、保険会社から傷害保険合計630万円相当を騙し取った。更に、西尾被告及びその配下の者ら4名と順次共謀して、1977年1月7日、Oさんを車で浜松市内まで誘い出してロープで絞殺した。しかし、保険金の騙取は、保険会社に不審を抱かれて未遂に終わった。
 殺人、殺人未遂、殺人予備、死体遺棄、詐欺未遂 1984年3月28日
名古屋地裁
桜林三郎裁判長
死刑
 Y被告は無罪を主張。裁判長は西尾被告の供述を「具体的で臨場感にあふれ信用できる」と判断し、供述を基に「Yが事件の筋書きを作り、首謀者として西尾被告とともに車の両輪の役割を担った」と認定した。  最高裁が量刑不当を理由に高裁の死刑判決を破棄して無期懲役を言い渡したのは、1953年6月4日に言い渡された強盗殺人事件の判決以来戦後2件目。控訴審は1986年10月に結審したが、最終弁論書を提出する前に裁判長が判決内容の合議を終えて退官したため「審理不十分」との弁護側の請求で再開している。
 主犯の西尾立昭死刑囚は1998年11月19日に執行。61歳没。
 一連の事件ではほかに7人が無期懲役以下の判決を受けている。
1988年3月11日
名古屋高裁
鈴木雄八郎裁判長
被告側控訴棄却(死刑判決支持)
 一審同様、Y被告は無罪を訴え、西尾被告の公判供述は、捜査段階などでの供述と日時などがくい違い「死刑を免れるためウソの供述でYを共犯に仕立てた」と主張した。
 判決で鈴木裁判長は有罪の根拠となった西尾被告の供述について「具体的で臨場感にあふれ信用できるという観点のみでの判断は適切を欠く」と前置きしたうえで、「謀議に使ったという車の種類が供述によって違うなど、たやすく信用できない面もあるが、核心部分は客観的な状況証拠で十分信用できる」と判断。Y被告の無実主張については「会社の経営状態は劣悪で、保険代理店業者との義理から多額の保険に加入した、との弁解は不自然、不合理」などと退けた。その上で「被害者3人に多額の保険をかける必要性がなく、保険締結後、半年間で一連の事件が相次いだことなど、事件の特徴は、西尾被告らとYとの間で謀議があったことを前提として初めて理解できる。一審判決に事実誤認はない」と結論づけた。
1996年9月20日
最高裁第二小法廷
根岸重治裁判長
一、二審破棄・無期懲役
判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 判決は(1)実行行為や殺害方法の謀議に関与していない(2)西尾死刑囚が中心となって殺害計画を立て、実行者を選定した――などと認定。「Y被告はむしろ、積極的に保険金殺人計画を進める西尾死刑囚に引きずられた」と述べ、「車の両輪のような関係」とした一・二審判決に疑問を呈した。そのうえで、殺害されたのが1人であることや、Y被告に前科がないことなどの事情を考慮し「極刑を選択することがやむを得ないと認められる場合に当たるとは言い難い。死刑は重過ぎて著しく不当」と結論付けた。
M・H(41)  建設作業員M被告は1980年8月19日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナルで停車中の京王バスの後部乗降口から火のついた新聞紙と、ガソリンが入ったバケツを放り込んだ。炎の回りは早く、乗客6人が焼死、22人重軽傷。M被告は現行犯で逮捕された。Mは1973年に精神分裂病の疑いで4か月間の入院歴があった。 建造物等以外放火、殺人、同未遂 1984年4月24日
東京地裁
神田忠治裁判長
無期懲役
 神田裁判長はM被告が事件当時心神耗弱であったとして罪一等を減じた。  M受刑囚は服役中の1997年10月、千葉刑務所作業場の配管にビニール紐をかけ、首吊り自殺。55歳没。
1986年8月26日
東京高裁
山本茂裁判長
検察・被告側控訴棄却
 山本裁判長は「極刑をもって処断すべきだが、犯行時、被告は是非善悪の判断能力を欠いた心神耗弱状態だった」と一審の判断を支持した。
上告せず確定。
Y・H  Y被告は、広島県高田郡で経営していた廃棄物処理会社の借金返済に困り、広島市の従業員男性(当時57)にかけていた会社払いの生命保険金をだまし取ることを計画。1980年11月3日午前2時ごろ、自宅で酒に酔って寝ていた男性をプロパンガスで窒息死させ、生命保険金501万9千円をだまし取った。
 同被告はさらに、自分の家に同居していた義妹(当時35)を殺して、義妹がかけていた生命保険の保険金(1300万円)を手に入れようと、82年5月20日午後7時ごろ、広島市の平和記念公園の公衆便所内で、義妹の首をロープで絞めて殺害した。
殺人、詐欺 1984年4月25日
広島地裁
谷口貞裁判長
無期懲役
 谷口裁判長は判決理由で「生命保険金をだまし取るためには2人の生命を奪った犯行は自己中心的で情状をくむ余地はない。しかし、死刑という極刑で臨むには、行き倒れていた男性の面倒を見たり、義妹の借金返済を手伝うなど同情すべき点もある」とし、「計画的で冷酷な犯行で、市民に与えたショックは大きいが、その後反省もしている」と、無期懲役にした理由を述べた。
1984年12月11日
広島高裁
干場義秋裁判長
検察側控訴棄却
 干場裁判長は「生命保険金目当てに罪もない2人の生命を奪った犯行は計画的で冷酷。しかし、仕事に困っていた男性や義妹の面倒を見るなど同情の余地があり、死刑は重すぎる」と、判決理由を述べた。
上告せず確定。
I・S(26)  I被告は盗みに入ったところ、妊娠中の妻に見つかったので、金を出せと脅した。しかし妻が手提げ金庫の鍵を探しているのを見て、時間稼ぎをしていると思い込み、ネクタイで首を締めて殺し、約500円入りの財布を盗んだ。 住居侵入、強盗殺人、準強盗未遂、覚せい剤取締法違反、強盗、強盗殺人未遂、窃盗、強盗未遂 1984年7月11日
横浜地裁
千葉裕裁判長
無期懲役
 千葉裁判長は「子供の目の前で命乞いをする妊婦を殺すなど冷酷、残忍な犯行で極刑も十分考えられるが、殺人は当初から計画したものではなく、その後、犯行を自供するなど改悛の情も見られる」と述べた。
控訴せず確定。


K・S(52)  銀座で中華料理店を経営した在日中国人のK被告は、店が経営不振となったため、銀座や神田で貸しビルを経営している母(当時83)と手助けをしていた父(当時86)にビル経営を譲ってくれるよう幾度が頼んだが拒否された。さらに「店をたたむなら店を返せ」などと厳しい態度をとったため、両親とも殺そうと決意。1984年1月9日午後7時半ごろ、銀座二丁目の両親の住むビルを訪ね、台所で母をロープで絞め殺し、居間で父の首を絞めた上、熱湯を浴びせたり包丁で顔などを切りつけて殺した。 殺人 1984年11月28日
東京地裁
岡田良雄裁判長
無期懲役
 岡田裁判長は、「辛酸をなめつくした末に生活の安定を得ていた両親の生命を、ビル経営実現のため奪った行為は極めて重大。ロープに加え、熱湯、包丁を用いた犯行は無残なもので、後始末を冷徹に行うなど犯状は重く、極刑に値するとも考えられる」と述べた後、「営業していた中華料理店の経営不振や健康の衰えなどに思い悩んでいた上での犯行で、今は深く反省している」と極刑を避けた理由を述べた。被告側の無理心中、心神耗弱主張については「本当に自殺をはかったとはみえず、犯行時と前後の行動には異常な点はなかった」と退けた。
控訴せず確定。


T・K(23)  熊本県生まれの専門学校生T被告は1982年6月28日、京都市の同じ下宿に住む女子大生(当時19)の部屋に侵入。女子大生を襲い、両手で首を絞め、炊事用スポンジを口に押し込んで仮死状態にさせ、乱暴しようとした。しかし部屋のカーテンが開いていたため、人に見られては、と思い断念。一旦自室に戻ったが、犯行を隠すため再び部屋に行き、果物ナイフで女子大生の右手首を切ったうえ、ベンジンを振りかけたティッシュペーパーに火を付け、同部屋と建物の一部を焼いて焼死させた。 住居侵入、強姦致死、殺人、現住建造物等放火 1985年1月28日
京都地裁
内匠和彦裁判長
無期懲役
 検察側は「三度も殺害行為に及ぶなど残忍で、情状酌量の余地はないく、更生は期待できない」と死刑を求刑した。判決で内匠裁判長は、「犯行は極めて自己中心的で、執拗かつ残忍。しかし計画的でなく段階的に犯意を形成していったとみられる」とし、「犯行の背景には、青年期特有の未成熟さがあった。真摯に反省しており、生涯をかけて罪を償い、更生の機会を与えるのが相当」と減軽の理由を述べた。
控訴せず確定。


G・K(37)  住所不定無職G被告は1982年6月26日午前1時頃、遊ぶ金を得ようとして、仕事の仲間で食べさせてもらうなど世話になっていた神戸市の土木作業員男性宅(当時37)を訪れたが、居合わせた男性に「もう帰れ」と言われたことに腹を立て、男性が酒を飲んで寝込んだところを持っていた布ひもで絞め殺し現金20000円を奪い、死体を押入れに隠した。その後古物商を呼び、テレビなど金目の物を売り飛ばした。
 27日には京都市に住む知人の男性土木作業員宅を訪れ、後ろから首を絞めて失神させ、腕時計などを盗んだ。G被告は知人が死亡したものと勘違いしたため男性は助かった。
 28日には京都市に住む知人の女性飲食店経営者宅に侵入。女性の首を絞めて金を奪おうとしたが、抵抗されて逃亡した。
 計6件、7つの罪で起訴された。
強盗殺人、窃盗、強盗殺人未遂、住居侵入 1985年8月22日
神戸地裁
角谷三千夫裁判長
無期懲役
 検察側は「極悪非道でまったく同情の余地もない」と死刑を求刑。被告・弁護側は強盗の意思を否定、酒酔いで犯行を覚えていないなど心神耗弱を主張した。
 角谷裁判長は「わずか3日間で、物欲を満たすだけのために3件の凶悪非道な事件を起こした。他の事件で出所した2か月後の犯行で、冷酷、残忍で、刑罰で再発防止は望めない」としながらも、「しかし死刑は、最高裁判例で慎重な判断が求められており、当初は金だけを盗もうとした形跡などもある」と、無期懲役を言い渡した。
 G被告は1973年以降、窃盗、詐欺で4回実刑判決を受け、本件の約2か月前に京都刑務所を出所したばかりだった。
1987年6月16日
大阪高裁
裁判長不明
被告側控訴棄却
 弁護側は心神耗弱と量刑不当を主張したが、いずれの主張も理由がないとして退けられた。
上告せず確定。
I・Y(32)  埼玉県の鉄筋工I被告は、は、1982年11月16日夜から翌日未明にかけて、酒、ワイン、焼酎などを続けて飲んだうえ、覚せい剤を注射。のぞき見をしようと、東京都渋谷区のラブホテルに侵入。就寝中の従業員女性(当時52)に乱暴し、首を絞めて殺した。さらに、別室で掃除をしていた女性(当時56)も絞殺した。 住居侵入、強姦致死、殺人、現住建造物等放火未遂、覚せい剤取締法違反 1985年10月24日
東京地裁
生島三則裁判長
無期懲役
 I被告の刑事責任能力が焦点となった。検察側は、「犯行直後の態度から見て、意識障害などはなく、責任能力は十分あった。自分の欲望を満足させるためには何の落ち度もない婦人2人を殺害した犯行は自己中心的で残虐。反省の情も薄い。覚せい剤による犯罪が増え社会不安が高まるなかで、社会防衛のためにも極刑が相当」として死刑を求刑した。弁護側は、精神鑑定の結果から、「犯行当時、飲酒と覚せい剤使用による複雑酩酊の状態にあった」と心神耗弱による責任能力低下を主張した。
 判決で生島裁判長は「犯行は冷酷、非常なもので、情状酌量の余地はなく、極刑に値する」としながら、「犯行時、被告は飲酒と覚せい剤のため複雑酩酊状態で、善悪を識別し、行動する能力が著しく低下、心神耗弱状態にあった」と判断した。

控訴せず確定。


M・M(48)  借金の返済に困っていた鹿児島県姶良郡の農業兼家畜商M被告は農業N・K被告と共謀。1983年12月3日浅、曽於郡に住む知人である家畜商の男性を呼び出して、午前10時ごろ、M被告が猟銃で首を撃った。その後品詞の男性をい軽トラックで農道に運び、N被告がハンマーで数回殴ってナイフで刺し殺し、現金200万円を奪った。そして死体をM被告が所有する山中に埋めた。
 M被告とN被告は1984年7月中旬にも姶良郡隼人町に住む家畜商(42)と宮崎県都城市の家畜商(46)にも同様の犯行を計画、実行しようとしたが失敗した。
強盗殺人、死体遺棄、強盗殺人予備 1985年11月19日
鹿児島地裁
須藤繁裁判長
無期懲役
 須藤裁判長は主文を後回しにし、「M被告が約1000万円、N被告が約400万円の借金を農協などに抱え、返済を迫られてM被告が犯行を計画。猟銃を使っても怪しまれない11月15日以降の狩猟期を待った」など犯行の計画性に言及した上で、「軽トラックの荷台で命乞いをする被害者をさらにハンマーとナイフでとどめを刺すなど犯行は極めて残酷、執拗で、突然、思いもよらず死んだ被害者の無念さは計り知れない」と2被告の罪の重さを強調。しかし、1)借金は農業などを営む際にできたもので、飲み食いに消費したものでない。2)犯行まで時間がかかったのは2被告に人間的なためらいがあった。3)2被告とも懲役刑の前科はない。4)N被告がとどめを刺したのは冷酷さというより小心さ-など情状を示した。また、「誘いに乗った被害者にも落ち度があった」とした上で、「外形的には計画的で極めて非道だが、犯行までに人間的躊躇があり、現在深く反省、矯正の可能性がある」とした。  N被告は懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡された。検察側は控訴したが棄却された。一審判決当時、鹿児島地検次席検事で、本件を控訴したA検察官は、後に異動した福岡高検宮崎支部主任検事として控訴審も担当した。
1987年2月5日
福岡高裁宮崎支部
安芸保寿裁判長
検察・被告側控訴棄却
 検察側は量刑不当を理由に控訴。被告側は不明。
 裁判長は「計画的で残虐かつ冷酷な犯行であり、一審で検察側が2人に死刑と無期懲役を求刑したのも無理はない。しかし、死刑は究極の刑であって、本件の場合、M被告は素直に犯行を自白し、拘置監で毎日、冥福をささげるなど改悛の情も顕著。矯正は可能だ。犯行をためらったり、遺族にできる限りの被害弁償をした点などを考慮すれば、原判決が軽すぎるとも重すぎるとも言えない」として検察側とM被告の控訴を棄却した。
 さらに、「目的のためには手段を選ばず、金欲しさから人命の貴さを考えていなかった。犯情は悪質」と両被告の刑事責任を厳しく追及、検察側の控訴に対する理解を示した。しかし、1、両被告の借金は農業を営むためにできたもので、酒色にふけっていたわけではない。2.M被告は遺族に対して自分ができる限りの被害弁償をしている。3.2人には自責の念が残っており、人間性を回復することができる-などの点を検討した結果、控訴棄却が相当とした。
 また一審判決で「安易に誘いにのるなど被害者にも落ち度があった」という判断については、「被害者には全く落ち度はない」と認定した。
 言い渡し後、安芸裁判長は「犯行は天、人ともに許さざる行為だ。被害者の冥福を祈るよう」と諭した。
上告せず確定か。


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