死刑確定囚(1986~1990年)



※1993年3月26日(3年4ヶ月ぶりに死刑が執行された日)時点で拘留中だった死刑確定囚のうち、1986~1990年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
須田房雄
事件当時年齢
 45歳
犯行日時
 1986年5月9日
罪 状
 身代金目的誘拐、未成年略取、殺人
事件名
 裕士ちゃん誘拐殺人事件
事件概要
 元鉄筋工須田房雄被告は、自宅の転居資金や飲食店開業資金欲しさから1986年5月9日午後2時ごろ、東京都江東区の路上で友人の家から一人で帰宅途中の小学一年生の男児(当時6)にカブトムシの幼虫を見せ、一緒に埋めようと誘い出して誘拐。近くの神社につれ、男児が幼虫を土に埋めようとしているところを、境内の敷石で後頭部を殴りつけ、持っていたひもで首を絞めたうえ、深さ1mの排水溝に落として丸太で顔面を殴って殺害。児童の父親である江東区の書店専務(当時38)宅に2,000万円の身代金を要求。午後10時過ぎ、とりあえず準備できた200万円を持って母親を誘い出し、指定場所の公園で接触して歩き出したところを、張り込み中の刑事が捕まえ、任意同行。犯行を自供し、供述通りに遺体が見つかったため、緊急逮捕した。
 須田被告は母親と二人暮らしで、仕事がないのに働いていると嘘をついていた。以前に見た映画や過去の誘拐事件を参考に誘拐を計画し、江東区の資産家だった書店経営者もターゲットの一つであった。住んでいた埼玉県越谷市のアパートが改築のため立ち退きを迫られたため、母親に新しいアパートが見つかったと嘘をつき、1か月後に引っ越しと告げた。期限は近付いているのに、引っ越し先は見つからないため、いっそのこと立ち食い蕎麦屋を開こうと考え、開店資金500万円が必要となったため、犯行に及んだ。
一 審
 1986年12月22日 東京地裁 宮島英世裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年1月19日 本人控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1986年7月18日の初公判で、須田房雄被告は起訴事実を全面的に認めた。
 11月13日の論告で検察側は、わずか6歳の幼児を誘拐、すぐに石や丸太で殴って殺害したうえ、両親には生きていると偽って多額な身代金を要求しており、吉展ちゃん事件よりも残酷で、冷酷な犯行。被告には人間らしい良心の呵責はいささかも見出されず、極刑以外は考えられない、と述べた。
 弁護人は「生ある限り被害者のめい福を祈らせるために死一等を減じて欲しい」と訴えた。
 判決で宮島裁判長は、誘拐後ただちに殺害し発覚を防ぐという綿密、周到な計画に基づく卑劣、残酷な犯行であると断じた。

 弁護人が控訴したが、「控訴する資格のない事件だ」と本人が弁護人控訴を取下げ。「あとどのくらい生きられるか知れませんが、それまで精一杯冥福を祈りたい」と述べた。
執 行
 1995年5月26日執行、53歳没。
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氏 名
大道寺将司/益永利明
事件当時年齢
 大道寺26歳/益永26歳(いずれも三菱重工爆破事件)
犯行日時
 1971年12月12日~1975年5月19日
罪 状
 爆発物取締罰則違反、殺人予備、殺人、殺人未遂
事件名
 連続企業爆破事件
事件概要
 1972年末に結成された東アジア反日武装戦線「狼」の構成員である大道寺将司被告と片岡利明(旧姓)被告は、結成前も含め以下の事件を引き起こした(以下は被告等の表記を略す)。
  1. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子(将司の妻)、Fと共謀。1971年12月12日午後5時半頃、大道寺将司、片岡、Fは、静岡県熱海市の興亜観音の境内にある「殉国七士之碑」に消火器爆弾と鉄パイプ爆弾を、「興亜観音像」と「大東亜戦殉国刑死一〇八八霊位供養碑」にそれぞれ鉄パイプ爆弾を設置し、起爆装置で午後10時に爆発するようにセット。午後9時58分頃、「殉国七士之碑」の消火器爆弾と「大東亜戦殉国刑死一〇八八霊位供養碑」の鉄パイプ爆弾が爆発し、「殉国七士之碑」が爆破した(後に復旧)。
  2. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子、Fと共謀。1972年4月5日午後10時頃、大道寺将司、片岡、Fは神奈川県横浜市の総持寺にある常照殿に消火器爆弾と時限装置を設置し、6日午前0時頃、爆発させた。常照殿には日本統治時代の朝鮮で亡くなった日本人約5,000人の遺骨が納められていた。
  3. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子、Fと共謀。大道寺将司、片岡は1972年10月23日午後5時近く頃、北海道大学文学部付属北方文化研究施設のアイヌアツシ織陳列ケース下の床上に空き缶爆弾と時限装置を設置し、午後11時30分頃、爆発させた。施設は軽微な被害で済んだ。大道寺あや子とFは10月23日午後4時半頃、旭川市常盤公園内の北海道開拓記念碑風雪の群像の一つに空き缶爆弾と時限装置を設置し、午後11時33分頃、爆発させた。風雪の群像は大破(後に復旧)した。
  4. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子、佐々木規夫と共謀。天皇搭乗の特別列車を爆破しようと、1974年8月12日から13日にかけ、東京都北区の荒川鉄橋にペール缶爆弾2個を装着しようとしたが、人影があったため断念した。
  5. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子、佐々木と共謀。1974年8月30日午後0時25分頃、東京都千代田区の三菱重工ビル正面玄関前にペール缶爆弾2個と時限装置を設置。午後0時45分ごろ、爆発させ、男女8人を殺害、男女165人を殺害しようとして負傷させた。(三菱重工爆破事件)
  6. 大道寺将司、片岡は大道寺あや子、佐々木と共謀。11月24日午後7時25分頃、東京都日野市にある帝人株式会社中央研究所の中和槽操作盤室内に消火器爆弾と時限装置を設置。25日午前3時10分頃、爆発させた。
  7. 大道寺将司、片岡、大道寺あや子、佐々木は、東アジア反日武装戦線「大地の牙」の構成員であるS、E(Sの内縁の妻)の計画に協力。片岡らが作った雷管を大道寺将司がEに手渡した。EとSは1974年12月10日午前6時30分頃、東京都中央区にある大成建設株式会社本社ビルの一階駐車場にカートリッジタンク爆弾と時限装置を設置。同日午前11時25分頃、爆発させた。
  8. 大道寺将司、東アジア反日武装戦線「さそり」構成員のK、Sは三者会談を開き、株式会社間組を攻撃目標に決定。1975年2月28日午後6時前頃、東京都港区の間組本社ビル9階に片岡主導で作った空き缶爆弾と時限装置を大道寺将司、大道寺あや子、佐々木が設置。同日午後8時頃、爆発させ、残業中の男性社員(当時27)に重傷を負わせた。同日午後8時頃、「さそり」構成員のK、U、桐島聡は同日午後6時前頃、間組本社ビル6階に空き缶爆弾と時限装置を設置し、同日午後8時頃、爆発させた。EとSは同日午後7時頃、埼玉県与野市の間組大宮工場にブリキ缶爆弾と時限装置を設置し、午後8時4分頃、爆発させた。
  9. 大道寺将司、K、Sの三者会談でSはオリエンタルメタル株式会社、韓国産業経済研究所を目標にすることを表明し、大道寺将司とKは賛同。大道寺将司は「狼」内で片岡、大道寺あや子、佐々木で説明し、同様に賛同を得た。大道寺将司はSに雷管2個を手渡した。Eは1975年4月18日午後8時頃、東京都中央区の韓国産業経済研究所入口ドアに空き缶爆弾と時限装置を設置。19日午前1時頃、爆発させた。Sは4月18日夜、兵庫県尼崎市のオリエンタルメタル株式会社に空き缶爆弾と時限装置を設置。19日午前1時ごろ、爆発させた。
  10. 大道寺将司、K、Sの三者会談でKは間組攻撃を続行することを表明し、大道寺将司とSは賛同。大道寺将司は「狼」内で片岡、大道寺あや子、佐々木で説明し、同様に賛同を得た。大道寺将司はKに雷管を手渡した。K、U、桐島が爆弾を準備し、桐島は1975年4月27日午後8時頃、千葉県市川市の間組作業所に空き缶爆弾と時限装置を設置。午後11時58分頃、爆発させ、作業所宿直室で寝ていた男性(当時25)に重傷を負わせた。
 他にK、U、桐島は1974年4月23日、東京都江東区の鹿島建設株式会社KPH工場に空き缶爆弾と時限装置を仕掛け、爆発させている。また三人は1975年5月4日、千葉県市川市の間組作業所の機械に空き缶爆弾と時限装置を仕掛け、爆発させている。
 大道寺将司は東アジア反日武装戦線全体の主導的立場、片岡利明は爆弾や雷管の製造・実験の中心的人物として中心的役割を果たした。

 1975年5月19日、警視庁は大道寺将司(当時26)、片岡利明(当時26)、大道寺あや子(当時26)、佐々木規夫(当時26)、S(当時27)、E(当時24)、K(当時27)、協力者の女性A(当時24)(大道寺らに資金や爆弾の材料を手渡した)を一斉逮捕した。Sは逮捕後の連行中に隠し持っていた青酸カリ入りカプセルを飲み、自殺。大道寺あや子も同様に自殺しようとしたが、捜査員に阻止された。
 Kが所持していた二人の家の鍵からU(当時22)と桐島聡(当時22)の存在が浮かび上がり、5月23日、二人は指名手配された。
 5月28日、大道寺に協力していたAの姉(1973年初めに「狼」メンバーに加わるも1974年3月ごろ離脱)がAへ差し入れ後実家へ帰る途中、列車から飛び降り自殺した。
 6月13日、F(1973年夏に離脱)が自殺した。その事実を知らない警視庁は6月15日に指名手配している。
 1982年7月12日、Uが板橋区の路上で逮捕された。
一 審
 1979年11月12日 東京地裁 蓑原茂広裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年10月29日 東京高裁 内藤丈夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
上告審
 1987年3月24日 最高裁第三小法廷 伊藤正己裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 被告側は、三菱重工爆破などでは、殺意がなかったので、殺人罪の適用はおかしいと訴えた。
 判決で蓑原茂広裁判長は、本事件の動機について、日本の過去における侵略ないし戦争の責任及び現在における新植民地主義による経済侵略等の責任を追及するものとして天皇および各海外進出企業を爆弾によって攻撃し、現在の日本国家及び社会の体制を破壊して原始共産制を到来させる世界革命を目指すものと認定。社会に強烈な衝撃と底知れぬ不安を与えたもので、爆弾事件として犯罪史上空前の残虐・凶悪・卑劣な犯行と非難した。
 特に三菱重工爆破については、大型で強力な爆弾を多数人いるところに仕掛ければ無差別に殺傷する結果となるのは当然。予告電話をしたとはいえ、5分間の余裕しか与えないのであれば、退避が不可能なのは必然。自らは安全な場所に退避し、善良な市民を爆破に巻き込んだもので、他人の生命を蔑視している。その他の爆破事件についても、いずれも組織的・計画的に周到な準備を経て実行されたものである。
 動機・目的・手段とも許されるべきものではなく、無関係な一般市民まで巻き添えにすることを容認するなど、酌量の余地は全くない。被害者やその遺族らも極刑を望んでいる。大道寺被告、片岡被告とも中心的な人物であった。片岡被告は死傷者に謝罪の意を表明しているが、自己の目的・動機は正当であると訴えており、何ら反省していない。両名とも極刑はやむを得ない。

 両被告は、一審において、戦争責任に関する問題と独占資本による海外侵略の問題等に対する判断を回避しながら、動機・目的は独善的な主義主張としたことは事実誤認であり、死刑は量刑不当であると訴えた。また片岡被告は、爆弾闘争は誤りであると反映し、死傷者やその遺族に謝罪をしているのに情状として考慮しない判決は事実誤認であると訴えた。
 判決で内藤裁判長は、大道寺被告が片岡被告とともに爆弾や時限装置を製作し、三菱重工などに仕掛けたという事実から最も重要かつ不可欠な役割を担っており、責任は重大であると認定。武装戦線の中心人物であり、責任は極めて重い。社会に極めて深刻な衝動を与え、爆弾事件としては前例を見ない残虐、凶悪、卑劣な犯行であり、死刑を言い渡したし一審判決は相当であるとした。
 片岡被告について、三菱重工爆破以降も爆弾の製造や仕掛けを担当するなど、爆弾闘争の実行に大きく寄与しており、大道寺被告より関与の範囲に若干の差はあるとはいえ、責任は大道寺被告とほぼ同等である。よって片岡被告の責任も極めて重く、死刑判決を言い渡しは一審判決はやむを得ない。

 最高裁は、一、二審判決を是認した。
特記事項
 新左翼事件史上初、公安労働事件では三鷹事件以来の死刑確定。
その他
 1975年8月4日、日本赤軍はクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、赤軍派、日本赤軍、東アジア反日武装戦線のメンバー7人の釈放を要求。超法規的措置により、起訴前の佐々木規夫ら5人が釈放され、出国した。佐々木規夫は日本赤軍に合流し現在も逃亡中で、国際指名手配中。1977年9月のダッカ日航機ハイジャック事件に参加したとされる。
 1977年9月28日、日本赤軍のメンバー5人が日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させた。乗員・乗客151人の人質と引き換えに、日本赤軍メンバーを含む9人の釈放と現金600万ドル(当時約16億円)を要求。超法規的措置により、統一公判中の大道寺あや子、Eを含む6人が釈放され、出国し、ともに日本赤軍に合流した。大道寺あや子は現在も逃亡中で、国際指名手配中。
 KとAは大道寺、片岡と統一公判。爆発物取締罰則違反と殺人未遂で起訴されたKは求刑通り無期懲役、爆発物取締罰則違反幇助で起訴されたAは懲役8年(求刑懲役10年)が確定。Aは1987年11月27日、刑期満了で釈放された。
 爆発物取締罰則違反と殺人未遂で起訴されたUは1985年3月13日、懲役18年判決(求刑無期懲役)。1988年8月25日、検察・被告側控訴棄却。1999年2月27日、被告側上告棄却、確定。
 Eは1995年3月20日、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していたところを発見され国外退去、同月24日に逮捕された。2002年7月4日、東京地裁で懲役20年判決(求刑無期懲役)。2004年5月11日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。最高裁に上告するも2004年8月5日、取下げ確定。2017年3月23日、刑期満了で釈放。
 桐島聡は一度も捕まることなく、指名手配されていた。間組爆破事件などで共犯の大道寺あや子が公判中に国外逃亡していることから、刑事訴訟法254条2項により共犯者の公判中のため公訴時効が停止している。大道寺あや子が関与していない鹿島建設爆破事件などではすでに時効が成立している。2024年1月、行き倒れていたところを神奈川県鎌倉市の病院に搬送されて入院し、保険証を使わず自費で治療を受けていた別の名前の人物が「最期は本名で迎えたい」と25日に自身が「桐島聡」だと話したため、神奈川県警からの連絡を受け公安部の捜査員が身柄を確保した。末期の胃がんで重篤状態である。
著 書
 大道寺著書:『明けの星を見上げて』(れんが書房新社,1984)、『死刑確定中』(太田出版,1997)、『友へ』(ぱる出版,2001)、『鴉の目』(海曜社,2007年)、『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版,2012)、『残の月 大道寺将司句集』(太田出版,2015)
 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)で2013年8月、第6回日本一行詩大賞(日本一行詩協会主催、読売新聞社など後援)を受賞。  益永著書:『爆弾世代の証言―死刑囚監房から』(三一書房)
現 在
 益永被告:旧姓片山。1987年の最高裁判決前に草の根の平和活動家である益永スミコ氏と養子縁組。
 1988年に第一次再審請求するも、1991年、最高裁で棄却が確定。
 1993年6月、三菱重工ビル爆破に使用された爆弾の新たな鑑定に基づき、「爆弾の威力がこれほど強いとは認識していなかった。殺意はなかった」と第二次再審請求。2006年11月22日、東京地裁は、「威力を正確に認識している必要はなく、再審を決定する明白な証拠にあたらない」として退けた。2007年6月5日、東京高裁(原田国男裁判長)は「再審を開始する理由がない」として、両死刑囚の即時抗告を棄却する決定をした。決定は「威力のある爆弾の製造を目指し、改良を重ねていた」などと判断し、二人の「人を殺害するほどの威力があると認識しておらず、殺意はなかった」という主張を退けた。 2008年12月17日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は「抗告できる理由に当たらない」として再審開始を認めず、2人の特別抗告を棄却する決定をした。
 2008年12月19日、東京地裁に第三次再審請求を申し立てた。死刑囚側は爆風の威力に関する鑑定書を新証拠として提出し、「両死刑囚が爆弾の威力を正確に把握していたとしても、ビルに挟まれた特殊な空間で爆発した影響で威力はさらに増加しており、事件の結果を予測することは不可能だった」と主張している。後に棄却された。
 大道寺将司死刑囚は血液がんの一種を、益永利明死刑囚は脳梗塞を発病していたと2011年2月に報道された。
 大道寺将司死刑囚は2010年4月、多発性骨髄腫であるとわかった。
 大道寺将司死刑囚は2017年5月24日午前11時39分、東京拘置所で多発性骨髄腫のため死亡したと法務省が発表した。68歳没。第五次再審請求中だった。
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氏 名
井田正道
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1979年11月19日~1983年12月25日
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体遺棄、詐欺他
事件名
 愛知連続保険金殺人事件
事件概要
 愛知県知多市の自動車板金業、竹内敏彦(旧姓)被告はスナックの経営に手を出して失敗し、さらに事業経営がうまくゆかないため、一攫千金を狙い、同店従業員井田正道被告と共謀。1979年11月19日午前0時頃、店の客だった愛知県知多郡の織布工の男性、Eさん(当時20)を釣りに誘い、井田被告が愛知県武豊町の海に釣り船から突き落として殺害。警察では自殺とされ、保険金受け取りに失敗した。
 竹内被告と井田被告は従業員男性M(当時30)と共謀。1983年1月24日午前0時30分頃、雇っていた愛知県東浦町の運転手Hさん(当時30)を京都府相楽郡加茂町で殺害、山城町のがけに遺体を載せたトラックを転落させ、事故を装い保険金2,000万円を受け取った。竹内被告はMに220万円を支払うとともにスナック開業資金約120万円を立て替えたが、当初予定の500万円の残りは支払わず着服した。井田被告には500万円を分配した。
 同年12月25日午後6時30分頃、竹内被告は借金をしていた闇金融業者Sさん(当時39)を井田被告とともに愛知県半田市で殺害。債務の履行を免れ、アタッシュケース等を強奪。錨を付けて遺体を海に捨てた。
 1984年4月17日にSさんの死体が海から浮き上がったことで、犯行が発覚。4月19日、竹内被告、井田被告らは逮捕された。その後、1、2件目の事件も発覚した。
一 審
 1985年12月2日 名古屋地裁 鈴木雄八郎裁判長 死刑判決
控訴審
 1987年3月31日 名古屋高裁 山本卓裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 上告せず、確定
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 判決で裁判長は動機について、利己的で冷酷であり、同情すべき余地は全くないと批難。さらに竹内被告がHさん殺害後、Hさんの実兄から生前貸金があったと金を無心し、その後も遺族に入る自動車損害賠償保険の死亡保険金を狙って、実兄の好意に付け込み180万円を借りるなど、金が入ればよいという我欲しかなく、誠に浅ましい。被害者を言葉巧みに保険に入れさせたうえ、殺害の日時、場所を設定して下見を行い、殺害の方法や役割を入念に決めて実行した計画的犯行であると述べた。特にHさん殺害の件については、降雪で一度失敗したにもかかわらず、再度実行するなど、計画遂行への強い意欲があると述べた。そして、竹内被告は1、2件目の保険金殺人については直接手を下していないものの、自ら発案・計画するなど積極的かつ指導的役割を果たし、3件目については自ら殺害しており、首謀者であると認定。井田被告は、いずれの犯行も最初は竹内被告から話を持ちかけられたとはいえ、殺害行為を自ら行っていることから、両名の間で刑責に軽重があるとは認められない。3件目の事件は、闇金融業者の被害者が過酷な取り立てに及んだことに一因があったこと、両名にさしたる前科がないこと、両名とも深く反省していること、ともに良き家庭人であったこと、竹内被告の親族がHさんの遺族に見舞金を送っていることを考慮しても、死刑に処するのもやむを得ない、と結論付けた。

 控訴審で竹内被告は、2件目の事件について共犯のMが大きくかかわっており、首謀者ではないと主張した。3件目の事件については、「Sさんが法定外の高利を請求、不当な利子分が借金として残ったのであり、事件は借金を免れるための強盗殺人ではなかった」と主張した。また、裁判は憲法違反であると主張した。
 判決で裁判長は、改めて竹内被告を首謀者と認定し、被告側の主張を退けた。3件目の事件についても、「たとえ不法な高利だったとしても、被告らが取り立てを免れようとしたのは事実であり、強盗殺人罪は成立する」と、事実関係の争いでも弁護側の主張を退けた。さらに弁護側の死刑違憲論について「(昭和23年以降)最高裁は、死刑は憲法に違反しないと示している」と指摘。「死刑の適用は慎重になされねばならないが、罪状を総合的にみて他に結論がないのなら、死刑もやむを得ない」としたうえで「竹内被告は逮捕後にキリスト教に入信、井田被告は読経と写経の日々を送り、反省しているのがうかがえるが、三人殺害の罪状は余りに重大」と判断した。

 二審判決後、井田被告の前妻(事件後に離婚)と2人の子供が1回、弁護人が2回、名古屋拘置所に出向いて井田に上告を勧めた。これに対し、井田被告は「死刑は当然と考えている。生きながらえて家族に迷惑を掛けたくない。このまま死刑の執行を受けることが、自分にとっても家族にとっても一番よい」と伝えた。上告せず、そのまま確定した。
備 考
 共犯のM被告は1985年12月2日、名古屋地裁で懲役14年判決(求刑懲役18年)。控訴せず確定。
 主犯の長谷川敏彦(旧姓竹内)被告は1993年9月21日、最高裁第三小法廷で被告側上告棄却、確定。
執 行
 1998年11月19日執行、56歳没。同じ事件の「共犯」が別々に執行されるのは極めて異例。
 長谷川敏彦被告は2001年12月27日執行、51歳没。
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氏 名
木村修治
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1980年12月2日
罪 状
 身代金目的拐取、拐取者身代金要求、殺人、死体遺棄
事件名
 名古屋女子大生誘拐殺人事件
事件概要
 名古屋市で寿司店を経営していた木村修治被告は、愛人への仕送り等で多額の借金を抱えた。その返済のために競輪と競馬に手を出してさらに借金が約2,800万円に増えてしまったため、誘拐を計画。1980年12月2日、「英語の家庭教師をお願いしたい」と新聞の告知板に掲載してあった名古屋市に住む女子大生(当時22)を誘い出し、自宅近くにて車で誘拐して直後に殺害。遺体はレジャーシートでくるみ、木曽川へ捨てた。2日~6日、3,000万円の身代金を要求したが、受け取りに失敗。12月26日、公開捜査が始まり、身代金要求の声が公開された。翌年1月20日、木村被告は逮捕された。遺体は初公判直前の1981年5月5日、遺棄したと供述していた木曽川橋から700m上流の地点で発見された。
一 審
 1982年3月23日 名古屋地裁 塩見秀則裁判長 死刑判決
控訴審
 1983年1月26日 名古屋高裁 村上★雄裁判長(★:悦のへんがにんべん) 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1987年7月9日 最高裁第一小法廷 大内恒夫裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 1981年5月15日の初公判で、木村修治被告は起訴事実を全面的に認めた。また12月24日の論告求刑前の本人尋問では、「遺族や世間が望むのなら死刑になるのがいちばんいい。自分の命は惜しくない」と証言。弁護士にも「死刑判決でも控訴しない」と伝えた。
 1982年2月2日の最終弁論で、弁護側は木村被告の情状を訴えるとともに、死刑は違憲であると訴えた。
 3月23日の判決で塩見裁判長は「追いつめられた精神状況の中での犯行であり、また逮捕直後から本件犯行を素直に認め、衷心から犯行を悔い、被害者の冥福を祈るなど改悛の情は顕著。しかし動機、計画性、態様、手段方法、結果、社会に与えた影響等を思うと、死刑以外の判決は有り得ない」とした。また死刑違憲論については、「最高裁判所大法廷の合憲判決に従う」として退けた。

 木村被告は控訴しない方針であったが、家族と弁護士の説得に応じて控訴した。
 控訴審は控訴趣意書、答弁書の朗読が行われた初公判と、被告人質問の行われた2回目で結審。
 判決で村上裁判長は、いかなる事情があったにせよ、妻子がありながら愛人との関係を続けたことは非難されるべきであり、またそれを維持するためや競輪競馬で多額の借金を重ねて返済に窮し犯行に及んだもので、動機に同情の余地は全くない。犯行場所を下見するなど、計画的な犯行であることは間違いない。純真な被害者が一命を奪われ、長期間川中に投棄されていたことは痛ましく、被害者遺族が受けた衝撃は甚大であるなど、木村被告の責任は重大。死刑を言い渡した一審判決はやむを得ない、とした。
 1986年10月25日、最高裁より12月11日に口頭弁論を開くとの通知があった。しかし12月8日、日程が1987年3月19日に延期された。
 3月19日の口頭弁論で、被告・弁護側は「死刑は、残虐な刑罰を禁止した憲法三六条、国民の生存権を保障した同二五条に違反する」と、一、二審の死刑判決を憲法違反と主張するとともに、自供調書や認定事実にある殺害方法や犯行時間、遺体梱包等に矛盾があるとして、「周到、綿密な計画性を持った犯行ではなかった。被告の改悛の情は顕著であり、死刑は不当。正義に反する」と述べ、死刑判決の破棄を求めた。これに対し、検察側は「犯行の動機、計画性、態様、結果の重大性や一般予防の見地からみて、被告人の有利な一切の事情を斟酌しても、極刑をもって臨む以外になく、死刑判決は正当」と反論した。
 最高裁の判決理由で大内裁判長は、弁護側主張の「死刑は憲法に違反」という点について、「弁護側主張は量刑不当を言うのみで、適法な上告理由とは認められない」と退けた。その上で、この事件の実態にふれ、「本件は金銭欲による誘拐殺人、身代金要求などという極めて重大な犯罪であって、動機に酌量の余地はない。また、遺族の被害感情や社会的影響などに照らすと、被告の責任は重く、一、二審の死刑判決は当裁判所も認めざるをえない」と述べた。大内裁判長ら裁判官全員一致の判決。
備 考
 木村被告には上告審で五人の弁護人がつき、弁護活動をしてきたが、五人は「審理を途中で打ち切られ、一方的に判決期日を指定された」と出廷を拒否、死刑事件では異例の“弁護人抜き判決”となった。
著 書
 『本当の自分を生きたい。』(インパクト出版)
その後
 創出版社の編集者が1987年5月25日、名古屋拘置所へ木村被告との面会に訪れたが、誓約書に面会の理由を記載しなかったために不許可とされた。さらに6月17日、「取材」を目的に面会を求めたが不許可とされた。
 編集者と木村被告は、訴訟に関する打ち合わせの面会を不許可とされた件を含めた計3回の不許可処分は不法であるとして1987年7月3日、150万円の慰謝料など国と名古屋拘置所長に求めた損害賠償請求の訴訟を起こした(アクセス権訴訟)。1992年4月17日、東京地裁は原告側の請求を棄却。1995年8月10日、東京高裁は原告側の控訴を棄却。1998年10月27日、最高裁第二小法廷は原告側の上告を棄却した。
 また手記の出版に伴う面会を拒否されたとして、インパクト出版会の編集長、菊田幸一明治大学教授とともに100万円の慰謝料を求めた損害賠償請求の訴訟を起こした(出版妨害訴訟)。2000年1月28日、東京地裁は請求を棄却した。
 木村被告は1993年9月、恩赦請求。
執 行
 1995年12月21日執行、45歳没。
 恩赦出願の決定を通知されないまま執行。
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氏 名
秋山芳光
事件当時年齢
 46歳
犯行日時
 1975年8月25日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、殺人未遂、詐欺
事件名
 秋山兄弟事件
事件概要
 秋山芳光被告は実兄が経営する紙工場に勤めるも、工場は倒産。その後秋山被告は定職に就かず借金を増やし、兄ともども多額の負債で困窮していた。1975年3月24日、兄と共謀して妻(当時37)の保険金殺人を目論み、交通事故を装って殺害しようとしたが未遂。さらに自分に保険をかけて兄に殺害を依頼したが失敗。しかし傷害を追ったため、保険会社から60万円を搾取した。
 秋山被告は兄(当時52)と自分の知人であるプラスチック加工会社経営の男性(47)に近付き、架空の貴金属払下げの情報を流した。1975年8月25日、男性は千葉県内にある兄宅に現金1,000万円を持参。隙を見て秋山被告が背後からバットで頭部を数回強打して殺害。さらにビニールロープを巻きつけてとどめをさそうとした。持参した1,000万円と財布の中から20万円を奪い、翌日、遺体を千葉県の宅地造成地に埋めた。
 強奪した金のうち、秋山被告が720万円を受け取り、残りを兄が受け取っている。さらに秋山被告は、兄から50万円を受け取った。秋山被告は愛人に命じて家計簿改竄などによるアリバイを偽造するとともに、兄弟は奪った金を借金の弁済にあてた。
 秋山被告は前妻との子供を、被害者の会社に運転手として雇ってもらっていた。
一 審
 1976年12月16日 東京地裁 林修裁判長 死刑判決
控訴審
 1980年3月27日 東京高裁 千葉和郎裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1987年7月17日 最高裁第二小法廷 香川保一裁判 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 秋山被告は妻殺人未遂について否認し、無罪を主張。事件については秋山被告と兄が互いに相手を主犯と訴えた。
 林裁判長は全ての事件について有罪を認定。そして「被告両名の刑事責任はあまりにも重大。犯行の動機において同情する余地はない」と厳しく断罪した。そして「血を分けた兄弟でありながら責任を相互に転嫁し合い、反省悔悟の情は十分ではない。特に秋山被告においてその傾向が著しい」と非難。また事件を持ちかけたのは秋山被告であり、分配金が多いこと、殺人の実行犯であることなどから主犯を秋山芳光被告と認定。兄について「罪責は極めて重大だが、秋山被告の誘いを受けて引き込まれたものであること、分配金も秋山被告に比して少なかったことなど、秋山被告の主導によるものが明らか。前科前歴が無く、借財も紙工場時代の物が大部分であり、供述態度などを考えると秋山被告に比べて刑責に開きがあり、改善の余地が見受けられないことは無い」と無期懲役判決(求刑死刑)を言い渡した。秋山被告については「既に不惑を超えた年齢であることから、兄弟であることを理由に有利不利を論ずることは当を得ない。極悪非道の行為であり、諸般の事情を考慮しても極刑は免れない」と述べた。

 控訴審で千葉裁判長は「極めて計画的かつ巧妙な手口であり、被害金額が多額な残虐非道な犯行」と断罪。「犯行が一般人心に与えた恐怖等の社会的影響も甚大。特に秋山被告は借金を返済するための努力を払ったとは認められない」と述べた。兄弟の犯情を比較し、「秋山被告が兄を誘い出した犯行であり、秋山被告の犯情は兄より重い。秋山被告の前科なども考慮に入れて刑責を酌量すると、秋山被告の方が罪が重いと断じた。

 上告審弁論で以下のように主張。
 (1)死刑は残虐な刑罰を禁じた憲法三六条に違反する(2)起訴事実のうち、妻を狙った保険金殺人未遂の事実はない(3)主導的役割を果たした共犯の兄は無期懲役が確定しており、芳光被告だけが死刑になるのは著しく正義に反し、不公平--などと主張、無期懲役への減刑を訴えた。
 判決は「動機の酌量の余地がない計画的な犯行であること、殺害方法が残虐であり、結果は重大で被害者遺族の被害感情が強いこと、社会的影響が強いこと、秋山被告の役割、前科の存在等も考慮し、死刑はやむを得ない」とした。
備 考
 秋山芳光被告は詐欺、横領、業務上横領の罪によって1967年9月7日に懲役3年の実刑判決を受けて服役。1971年5月12日に出所していた。愛人はこの事件の時の共犯者である。
 秋山被告の兄は控訴審で無期懲役判決(求刑死刑)が確定。
著 書
 詩句集:『苦い罠』(自費出版)
その後
 殺人未遂事件を否認して再審請求。2003年8月棄却、即時抗告申立も棄却(2006年1月?)。再審請求準備中だった。
執 行
 2006年12月25日執行、77歳没。77歳の執行は戦後最高齢。確定から19年5ヶ月後の執行も史上最長である。
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氏 名
田中重穂
事件当時年齢
 51歳
犯行日時
 1976年10月18日
罪 状
 強盗殺人、公務執行妨害
事件名
 東村山暑警察官殺人事件
事件概要
 上司への不満から1976年9月に工場を辞め失業中だった小宅重穂(旧姓)被告は、妻子から浴室付き住宅をせがまれ、建築資金を得るために警官を装って政治家の家族を誘拐することを計画。そのためにピストルと警察手帳を奪おうと1976年10月18日午前2時20分頃、東京東村山暑の派出所に1人で勤務していた巡査(当時55 殉職後警部に昇進)に挙動不審者がいると偽って誘いだし、隙を見て鉄棒で頭などをめった打ちにし、ナイフで殺害した。
 巡査の悲鳴を聞いて駆け付けた近隣の人が小宅被告を捕まえ、駆けつけた警官が逮捕した。
一 審
 1977年11月18日 東京地裁八王子支部 片岡聡裁判長 死刑判決
控訴審
 1981年7月7日 東京高裁 市川郁雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1987年10月23日 最高裁第二小法廷 牧圭次裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 判決で裁判長は、動機は悪質で、犯行も計画的であり残忍。極めて反社会的な犯行であり、執行猶予中であることも含め、責任は極めて重大と指摘。情状を酌量すべき余地が無く、死刑に値すると断じた。

 判決で裁判長は、現場を何回も下見し、凶器を準備し、変装の用意をするなど、計画的な犯行であることは明白。犯行方法も極めて残忍。被告が家族にあてた書簡の中には、被害者の遺族を誹謗する内容があるなど、反省は十分ではなく、矯正は極めて困難。小宅被告は性格に著しい偏りのある精神病質(分裂病質、情性欠如)であっても病的徴候は認められず、知能は普通域で、善悪の判断能力や行動能力は充分持ち合わせている。一審判決はやむを得ない、と述べた。

 上告審で、小宅被告側は、〈1〉犯行の計画性はなく、明確な殺意もなかった〈2〉被告には精神分裂病の疑いがあり、責任能力の点に問題がある〈3〉被害者が一人の場合、最近はその多くが無期懲役となっているのに、本件が死刑とされるのは量刑に公平さを欠き不当--と主張、一、二審の死刑判決の破棄を求めた。
 判決は「あらかじめ凶器を用意し、再三の下見をするなど確定的殺意があった」と弁護側主張を退けた上で、「勤務中の警官を殺害した極めて反社会的な凶悪犯行であり、一般市民に衝撃と不安を与えた。被告は以前にも同じような強盗傷人事件を犯しており、本件も窃盗事件で執行猶予中の犯行であることなどを考えると死刑はやむをえない」と述べた。
備 考
 小宅被告は、1948年に窃盗で懲役1年2月、1949年に強盗傷人で懲役7年、1956年に窃盗で懲役4年の判決を受けた前科がある。1973年5月4日、東京地裁八王子支部で住居侵入、傷害により懲役5月、執行猶予4年の判決を受け確定し、本事件時は執行猶予中であった。
 旧姓小宅。
執 行
 1995年5月26日執行、70歳没。
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氏 名
平田直人
事件当時年齢
 47歳
犯行日時
 1979年3月28日/5月15日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、詐欺、窃盗、誘拐、殺人、死体遺棄、強盗、強盗傷人
事件名
 女子中学生誘拐殺人事件他
事件概要
 平田直人被告は和歌山県の勤務先の会社社長から合計150万円を騙取した事件を起こし、指名手配されて内妻と長期間の逃亡生活を送った。1978年8月20日ころから1979年5月16日ころまでの約9ヶ月間に、住居侵入・強盗殺人1件、誘拐・殺人・死体遺棄1件、住居侵入・強盗傷人1件、住居侵入・強盗1件、窃盗3件、詐欺13件を引き起こした。
 そのうち内妻の知人の好意により佐賀県内の旅館に長期滞在していたところ、知人の長女(当時15)の高校進学を世話すると嘘をついて20万円を騙し取った上、1979年3月20日、長女を東京や大阪等を連れ回ったが、長女が嘘に気付いたため、28日、熊本県内の雑木林内で絞殺し、暴漢に襲われたように偽装工作をして死体を遺棄した。遺体は5か月後に白骨化した状態で発見された。
 5月15日、借金のために訪ねた熊本県の知人宅に知人の母(当時75)が一人で留守番をしていたのに乗じて改めて盗みに入ったが、女性に騒がれたため電気コードで絞め殺して殺害、現金8,000円や指輪などの貴金属を奪い、遺体を仏壇下の地袋内に押し込んで隠した。
一 審
 1980年10月2日 熊本地裁 辻原吉勝裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年4月27日 福岡高裁 平田勝雅裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1987年12月18日 最高裁第二小法廷 牧圭次裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 弁護側は、平田被告が反省しているとして慎重な判断を求めた。
 犯行は極めて悪質であり、被害者の遺族も極刑を望んでいる。被告の反社会的な人格は、服役時の教育でも強制されておらず、更生は極めて困難である。被告が毎朝お経を唱えるなどの情状を考慮しても、極刑はやむを得ない、と述べた。

 平田被告は知人の長女殺害について、長女が一緒に暮らしたい、聞き入れなければ警察に告げると言われたため殺害したと訴えた。また弁護側は、長期の逃亡生活によって精神状態に支障を来したのみならず、長女殺害の犯行直前には覚醒剤を使用していたため、精神状態が正常でなかったと訴えた。また2件目の犯行については、殺意は確定的でなかったとも訴えた。そして死刑は廃止されるべき運命にあるため、差し控えるべきであると訴え、また一審判決について犯行の結果のみに目を奪われて安易に死刑判決を科したと非難した。
 判決では、落書き帳に「はやく帰りたい」と書いていることなどの状況を考え、一緒に暮らしたいとは考えていなかったと被告側の主張を退けた。また覚醒剤使用についても、供述が曖昧で、周囲の人物もそのような供述をしていないことから信用できないと退けた。また2件目について、当初から強盗や殺人を意図していなかったとはいえ、電気コードで二重に強く絞めていることなどから、殺意を認定した。そして、被告の犯罪性向はますます深化し、凶暴性も増しており、矯正は極めて困難であると断じた。そして、被告の刑事責任は極めて大きく、その罪責を償うためには、もはや極刑を科すしかないと述べた。

 最高裁で被告側は「死刑制度は憲法違反」などとして上告していたが、判決では死刑違憲論について「死刑は憲法三六条でいう残虐な刑罰に当たらず上告理由に当たらない」と退け、この事件を「尊い人命を2人までも奪った点で重大かつ凶悪」と認定。
 その上で量刑について「本件犯行の罪責、動機、態様、結果、遺族の被害感情などに照らすと、被告人が反省していることなどを考慮しても、死刑の科刑を是認せざるを得ない」とした。
著 書
 歌集:『賽の河原に積む石いくつ―罪詠む日々』(自費出版)
備 考
 1955年9月22日に有印私文書偽造・行使、詐欺で懲役1年6月、執行猶予3年判決。1963年10月31日、詐欺、私文書偽造・行使、詐欺未遂で懲役1年、保護観察付執行猶予3年判決。1967年10月9日、詐欺、詐欺未遂、銃刀法違反で懲役5年判決。1973年6月12日、詐欺、窃盗、横領で懲役3年判決。以上の前科がある。1976年6月11日に仮釈放になっていた。
その後
 事実誤認があるとして二度の再審請求、棄却。
執 行
 1995年12月21日執行、63歳没
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氏 名
浜田武重
事件当時年齢
 51歳
犯行日時
 1978年3月24日~1979年5月9日
罪 状
 殺人、有印私文書偽造、同行使、詐欺
事件名
 3連続保険金殺人事件
事件概要
 タクシー運転手浜田武重被告は生活費や遊興費に困ったため、以下の保険金殺人事件を内妻と共謀した。
  • 1978年3月24日~25日にかけて、福岡県の自宅で内妻(一審公判中の1980年3月死亡、51歳没)の親戚にあたる同居女性(当時28)に睡眠薬を飲ませて熟睡させ、浴槽の湯に顔をつけて窒息死させた。さらに委任状を偽造して生命保険金148万3,806円を騙し取った。
  • 1978年7月1日、福岡県でシンナーを吸って寝ていた内妻の先夫の先妻の子供であり、養子となっていた高校生の男子(当時16)の顔を用水路につけて窒息死させて殺害、生命保険金1,017万6,935円を騙し取った。
  • 知人から預かっていた預金等の一部を無断で別の被告Aに貸したが焦げ付いたため、内妻、被告A、Bと共謀。被告A方土木請負業の従業員(当時37)に生命保険金6,000万円をかけた上被告Aを受取人とし、1979年5月9日、福岡県内の路上で、被告Bとともにダンプカーで轢き殺した。被告Aはアリバイ作りをしていた。
一 審
 1982年3月29日 福岡地裁 秋吉重臣裁判長 死刑判決
控訴審
 1984年6月19日 福岡高裁 山本茂裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年3月8日 最高裁第三小法廷 伊藤正己裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 浜田武重被告は捜査段階や公判初期の段階では全ての事実を認めていたが、内妻が病死後の公判では1番目、2番目の事件について全ての事実を否認。3番目の事件については、主犯格でないと主張した。
 判決で秋吉裁判長は、1番目の事件について発案者、殺害行為は内妻であると認めたが、被害者を浴槽に運ぶなど浜田被告は殺害に必要不可欠な行為を行っていると非難。2番目の事件については、殺害の行為全てを浜田被告が行っていると認定。3番目の事件については、まず浜田被告が別の男性の殺害を提案したことに端を発しており、被告Aが従業員を殺害することを発案したらすぐに同意し、被告Bとともに殺害を実行していると認定。いずれも残忍、かつ、冷酷非道極まる行為と非難した。さらに事件を否認し、不合理な弁解を繰り返すなど、全く反省していない。過去の犯罪経歴や反社会的性格も含め、死刑は免れないとした。

 控訴審でも山本裁判長は、2、3番目の事件について浜田被告が共同犯行の主犯者であり、1番目の事件でも殺害に必要不可欠な行為を行っていると認定。過去に幾度も懲役刑に処せられたにもかかわらず、冷酷残忍な性癖はますます深化・凶暴化し、矯正はもはや絶望。一審判決はやむを得ないと述べた。

 最高裁は「犯行を認めた被告の自白は、共犯者の自白やその他の関係証拠により補強されており、一、二審判決の認定は正当」と上告を退け、「被告は保険金目当てに3人を殺したもので、その刑事責任は重大であり、死刑もやむを得ない」と述べた。
備 考
 浜田被告は1946年10月~1974年10月までの間に、10回に渡り懲役刑に処せられ、計23年10か月服している。
 1979年の事件の被告A、Bは二審懲役15年、13年の判決が確定。
 最高裁の判決日、死刑廃止を求めるグループのメンバー20人が傍聴、開廷前に「死刑を廃止しろ」などと叫んで騒然とした雰囲気に、裁判長の制止を聞かなかった若い女性一人が退廷させられた。
その後
 2011年までに五回、再審請求を提出するも、いずれも棄却。もう請求は行わないと、本人は語っている。
 2017年6月26日午前2時2分、自分の吐いたものを喉に詰まらせ、窒息により死亡。90歳没。収容先の福岡拘置所で同日午前0時48分ごろ、巡回中の職員が、寝ている浜田死刑囚の口元付近に吐瀉物がついているのを確認。呼びかけたが応答せず、呼吸をしていなかったため、人工呼吸や心臓マッサージを実施。救急車で福岡市内の病院に搬送したが、窒息死が確認された。同午前0時半ごろの見回りでは変わった様子はなかったという。2017年5月の定期健康診断では、特に異常はなかった。
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氏 名
杉本嘉昭/横山一美
事件当時年齢
 杉本33歳/横山27歳
犯行日時
 1979年11月4日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄。杉本被告には恐喝未遂の余罪有り。
事件名
 北九州病院長バラバラ殺人事件
事件概要
 北九州市の釣具店店主の杉本嘉昭被告とスナック経営者の横山一美被告は、遊興費欲しさから共謀。1979年11月4日、横山被告の知り合いである北九州市小倉北区のT病院長(当時61)を、女性歌手とのデートをエサに誘い出し、横山被告の経営するスナックで監禁、あいくちで胸を切り付け、現金約95万円を奪った。翌朝、同病院長に自宅へ電話させ、妻に指示して現金2,000万円を市内のホテルのフロントに預けさせたが、受け取りに失敗。出血で衰弱し、ひん死の状態にあった病院長の首を絞めた上、失血死させた。モーテルで鉈を用いて死体をバラバラにして、小倉発松山行きのフェリーから大分県・国東半島沖の海中に捨てた。
 両者はそれぞれ約800万円の債務を追っていたが急ぎ返す必要はなく、経営自体は順調だったが、地道に仕事をするのが嫌になり、一獲千金を狙ったものだった。
 杉本被告は他に殺害以前、信用金庫の職員の不正行為をもとに恐喝した。
 翌年4月に逮捕。その後、海中から遺体が発見された。
一 審
 1982年3月16日 福岡地裁小倉支部 佐野精孝裁判長 死刑判決
控訴審
 1984年3月14日 福岡高裁 緒方誠哉裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年4月15日 最高裁第二小法廷 香川保一裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 計画、傷害、殺害の実行について杉本被告と横山被告が対立。互いに主犯をなすり合った。
 一審で佐野裁判長は、相互に相手が首謀者であり自らは引きずられたという印象を与えることに専念して泥仕合を演じており、いずれも己の罪の深さをわかろうとせず、反省悔悟の情に欠けている。実際には双方とも積極的に共同して犯行に及んでいる。年齢が上の杉本被告に幾分主導的な側面が見られるが、被害者を誘い出せる立場にあったのは横山被告であり、被害者を刺したり首を絞めたりしたのも横山被告であったことを勘案すると、刑事責任に両者の差はない。被害者に責任は全くなく、極刑を望む遺族の心情も当然。さらに病院は廃業となったため、遺族の受けた経済的損失、転院や退職を余儀なくされた多数の患者や従業員が被った損害は計り知れない。この犯行が地域の一般市民に与えた不安、社会的影響も深刻。被告両名が読経や写経に励んで被害者の冥福を祈っていること、さしてる前科のないことを考慮しても、死刑を選択するしかない、と述べた。

 控訴審で横山被告の弁護側は、直接の死因となった病院長の左胸の刺し傷について「やったのは横山被告ではなく杉本嘉昭被告」と主張した。横山被告は店を処分して作った300万円を、遺族に対する慰謝料に代え、財団法人犯罪被害救援基金に寄託した。
 判決で緒方裁判長は、年齢が上で、凶器も準備していた杉本被告が犯行を主導していたと認定。しかし横山被告も積極的に加担していたと認定。責任に差はないとした。そして、近年の強盗殺人事件では、被害者が1名の場合、死刑の適用は以前より少なくなっているが、常に適用してはならないというわけではなく、諸事情を総合して検討し、罪刑の均衡並びに一般予防の見地から適用してもやむを得ないと認められる場合には、適用することも許されるものであると述べた。

 1988年2月1日の最高裁弁論で被告側は「死刑は残虐な刑罰で違憲。また原判決には重大な事実誤認があるうえ、他の事件と比べても刑が重過ぎる」などと主張した。横山被告側の弁護士は、横山被告が小、中学生時代に障害がある同級生に付き添って登校したことや模範生だったことを挙げて情状酌量を求めた。
 判決で香川裁判長は「二被告は一獲千金を狙って院長の殺害を計画。完全犯罪にしようと誘い出す方法をはじめ金の強奪、死体の解体など犯行の隠滅について綿密な計画を練りあげた。またアイクチで切りつけて重傷を負わせ、傷が肺に達しているから医者を呼んでほしいという院長の必死の哀願を無視、長時間にわたり放置した。二千万円の奪取に失敗すると、すでに頻死状態だった院長の首を両手で絞めて殺害、死体をバラバラにし、捨てたという犯行態様も非情で残酷極まりない」と指摘。さらに「院長は永年、北九州市で大病院を経営して地域社会の医療に貢献しており、犯行の結果も重大。二人の役割をみても、終始一体となって当初の計画に沿って共同実行した。刑事責任に軽重の差を見いだせない」と述べた。そして「計画的犯行で動機は身勝手な金銭欲。犯行の態様も非情で残酷極まりない」と述べた。
備 考
 被害者1人で2名に死刑判決は戦後11件目。最高裁によると、1964年12月に確定した強盗殺人罪の二被告以来という。
執 行
 1996年7月11日執行、杉本49歳没、横山43歳没。横山死刑囚は1度再審請求したが棄却されている。杉本死刑囚も1度再審請求をしたらしい。杉本死刑囚は再審請求準備中? 横山死刑囚は再審請求準備中だった。
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氏 名
綿引誠
事件当時年齢
 39歳
犯行日時
 1978年10月16日
罪 状
 身代金目的誘拐、準強姦未遂、殺人、死体遺棄、拐取者身代金要求
事件名
 日立女子中学生誘拐殺人事件
事件概要
 茨城県日立市の鉄工業を経営していた綿引誠被告は、石油ショックで鉄工業の経営が苦しくなったうえ、韓国でのキーセン遊びにこり、約1395万円の借金を抱えたため、身代金目的誘拐を計画。
 1978年10月16日、妻の養父であり、市内有数の資産家の娘である中学3年生の娘(当時14)を自動車に乗せて人通りの少ない路上でドライブに誘い、クロロホルムを吸引させて気を失わせて誘拐。父親に身代金3,000万円を要求。さらに気を失っている娘を見て姦淫しようと考え、陰部を弄ぶなどをしたが、姦淫は未遂に終わった。さらに顎と鼻、口を押さえて窒息死させ、死体を付近の草むらに放置した。韓国へ逃走しようとしたが、3日後に逮捕された。
一 審
 1980年2月8日 水戸地裁 大関隆夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1983年3月15日 東京高裁 菅野英男裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年4月28日 最高裁第一小法廷 角田礼次郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 綿引被告は一審で捜査段階の供述を翻し、殺人の事実は認めたが、誘拐の事実と共に、娘にいたずらしたことを否認していた。
 判決は、被告の親族から慰謝料500万円を供託していること、反省している態度をみせていること、前科がないことなども斟酌されたが、犯行そのものの悪質さや社会的影響などを考慮し、死刑を選択した。

 控訴審で被告側は誘拐、いたずらの事実を否認するとともに、子ども2人が父親の生存を願っていること、反省していること、慰謝料を供託していることなどから量刑不当を訴えた。判決は被告の行為を冷酷非道と断罪して一審判決の事実を認定し、被告側の主張を退けた。

 上告審で被告・弁護側は、「犯行の動機は単に少女を乱暴したいということで、身代金誘拐の目的はなかった」と主張、初めていたずらの事実を認めた。そして死刑制度の違憲論も展開し、無期懲役への減刑を求めた。
 判決で角田裁判長はまず、「死刑制度を違憲とする主張には理由がない」とした。そして「綿引被告に身代金を奪う目的があったとする二審判決の事実認定は正当。女性との遊びから多額の借金を抱え、借金返済をするために親類同様の付き合いをしていた家の娘を誇拐して殺害した。そのうえで家族に電話で身代金を要求し、犯行は計画的だった」と述べた。「犯行は計画的で、冷酷非情なもの。遺族の被害感情も深刻で社会に与えた影響も大きい」と結論づけた。
その後
 いたずら目的であり、誘拐・身代金請求はカムフラージュであったとして、1996年8月15日、再審請求。2003年12月、棄却。その後、第二次再審請求。2011年9月時点では第三次再審請求中で、その後も決定は出ていない。
 綿引誠死刑囚は2013年6月5日午後7時頃、収容先である東京拘置所の独居房のトイレ付近でうずくまっているのが見つかった。外部の病院に運ばれ、くも膜下出血と診断された。既に意識の無い状態で、その後は拘置所内の集中治療室に収容されていたが、23日午後8時前、死亡。74歳没。
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氏 名
篠原徳次郎
事件当時年齢
 54歳
犯行日時
 1981年10月2日/1982年7月3日
罪 状
 殺人、強姦致傷
事件名
 群馬2女性殺人事件
事件概要
 失業中の篠原徳次郎被告は1981年10月2日、群馬県の畑で農作業中の女性(当時56)を見て強姦しようとしたが、付近の音が気になったため途中でやめるも、傷害を負わせていたため、その犯跡を隠蔽するために、手拭い等で首を絞めた上、小刀で胸などを刺して殺害した。
 1982年7月3日、群馬県内で農作業中の女性(当時79)に背後から声をかけたところ、驚いて大声を上げたため、警察沙汰になると困ると考え、手拭いで首を絞め、窒息死させた。さらに女性の陰部にいたずらした。この時は、1件目の事件で警察当局が重要被疑者として篠原被告の監視尾行を続けていたが、監視のわずかの隙に行われたものだった。帰宅途中、尾行の警察官に職務質問を受け、逮捕された。
一 審
 1983年12月16日 前橋地裁 小林宣雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1985年1月17日 東京高裁 小野慶二裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年5月20日 最高裁第二小法廷 奥野久之裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審における精神鑑定の結果、被告は爆発性、意志薄弱性、惰性希薄性が指摘されている。
 判決では、9か月で似たような事件を2件ひき起こし、さらに無期懲役の仮釈放中であること、時効とはいえ別に1件の強盗殺人を犯していることなど、犯罪的性格は矯正不可能と認め、死刑を言い渡した。

 控訴審で弁護側は、2件目の殺人事件について、尾行の警察官が被告を見失わなければ殺人は行われなかったと訴えた。判決で小野裁判長は、篠原被告が突如自転車を降りて山中に入ったのを一時見失ったことについて、手落ちがあったと非難するのは酷であるとともに、被告の組むべき事情ではないと退けた。また篠原被告は、一審で認めた時効の事件について無罪であると主張した。判決ではこの時効事件について、量刑の参考資料から除外した。そして、被告の精神状態は問題ないと判断し、量刑不当の主張を退けた。最後に、犯行の悪質性、反復性、被害者数、残虐性、被害者の遺族感情、社会的影響、前科を考慮し、被告には極刑をもって臨むほかないと断じた。

 最高裁の判決は、「わずか9か月間に何の落ち度もない女性二人を殺害した極めて重大悪質な犯行で、動機に酌量の余地もない」として死刑は妥当と判断した。
備 考
 1950年1月30日午後11時ごろ、千葉県の農家に小使い銭欲しさで押し入り、寝ていた三男の顔を鎌の峰で殴打して傷を負わせ、寝床についていた女主人(当時49)に鎌を突きつけて脅迫し、現金1620円を奪った。4月24日に千葉地裁で懲役8年に処せられて、途中恩赦で懲役6年に減刑され、1953年11月30日に仮釈放になっている。
 1959年1月27日午後3時ごろ、余暇の狩猟の出先である千葉県の山林内で、偶々であった女性(当時22)を強姦したうえで犯行を隠すために絞殺し、死体を遺棄した。強姦致傷、殺人、死体遺棄で起訴され、1960年7月19日、東京高裁で求刑通り無期懲役判決(一審では懲役15年だった)を受け、服役。1976年2月26日に仮出所。事件当時も仮釈放中だった。
 他に時効が成立したが、1947年10月15日、千葉県の地元に住む茶仲売人方に窃盗目的で侵入し、物色中に家人に目撃されたため、夫を短刀で刺して死亡、妻に傷害を負わせた強盗殺人事件を起こしている。
執 行
 1995年12月21日執行、68歳没。
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氏 名
渡辺清
事件当時年齢
 19歳
犯行日時
 1967年4月24日~1973年3月20日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 連続4人殺人事件
事件概要
 渡辺清被告は日雇い人夫としてその日暮らしをし、売春婦相手の女遊びを生き甲斐としていた。
 1967年4月24日朝、愛知県内で投宿した売春婦(当時36)に追加の売春代金を支払ったが、コンドームを使用しない性交を拒否され憤激、絞殺して35,000円あまりを奪った。
 1967年8月5日、大阪府内で、ナイフを所持して通行人から金品を強取しようとして、男娼(当時26)を刺殺して失血死させた上、約200円を奪った。
 1972年4月10日、大阪府内で売春婦(当時39)と性交後金はないといったところ逆に難詰されたため、絞殺。現金2,000円等を奪った。
 1973年3月20日、大阪府内で売春婦(当時40)と性交後絞殺、現金22,000円を奪った。
一 審
 1975年8月29日 大阪地裁 大政正一裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1978年5月30日 大阪高裁 西村哲夫裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1988年6月2日 最高裁第一小法廷 高島益郎裁判長(逝去のため、四ツ谷巌裁判官が代読) 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 一審で大政裁判長は、結果は重大であると断じた。しかし、(1)犯行のいずれも計画性が無い。(2)犯行の場がホテルや旅館の密室であり、2番目の事件も深夜の公園内における男娼との接触の場であり、特殊性が認められ、見も知らぬ男と同宿したり接触したりしなければ被害者は容易にその難を避けることができたのであり、通常の強盗殺人事件とは異なる。(3)犯行の背景には被告が貧しい家庭に生まれたことなどの成育歴、家庭環境が大きな要因となっている。特に1、2番目の事件は少年時に行われたものである。肉親の愛情に飢え、学校では落ちこぼれ友人もほとんどいない。標準域よりもやや低格の知能(限界級)であるうえ、社会生活上必要な最低限度の躾すら欠き、人間的情愛に飢えていた。(4)被告の改悛の情は極めて顕著。特に2番目の事件については、捜査官は全く把握しておらず、自白によって初めて明らかになった。以上を考慮し、死刑よりも、終生贖罪の生活を送らせるために無期懲役が相当と判断した。

 二審判決で西村裁判長は、6年間で4件の強盗殺人事件を犯したことは極めて重大であり、法としても国民感情としても死刑に値する事案と見るのが相当。1件目は計画的ではないかもしれないが、コンドームを使用しない性行を拒否するといった内容が量刑上特別の酌量事由には当たらないし、そもそもそれは被告の一方的期待であり、被害者が約束したものとは認めない。3,4件目については被告は捜査官に対し、所持金が少なかったから只乗りをしたうえ、殺害をして金品を奪う意思があったことを認める供述をしていることから、計画性がなかったとは言えない。2番目の事件についても当初から強盗の意志があったと見るべき。
 さらに犯行の場がホテルや旅館であることも、例え被害者が不道徳な生活をしているとはいえ、客と同宿するのは当たり前の行為であり、これを自ら危険な環境に身を置いたと被害者を責めるのは酷であり、被告の誘いに応じたという以上の格段の落ち度があったわけではなく、量刑上酌量すべき事由とすることは誤りである。さらに言えば、被告は日陰の存在である売春婦や男娼ばかりを狙って犯行を繰り返しており、習癖性を疑わざるを得ない。
 一審判決後、渡辺被告は慰藉料として1件目、3件目の被害者の遺族に2回にわたり各合計7万円ずつを送っている。また4件目の被害者の遺族にも5万円を送金したが、これは後に受領を拒否され返金された。さらに各遺族へ謝罪と反省の手紙を出している。しかし、被告には精一杯の金額であるとしても慰藉料としてはあまりも過小な額であり、大きく考慮することはできない。現時点でも被害者遺族の被害者感情はなお強く、4件目の被害者の父は控訴審でも極刑にすべきと言っている2件目の被害者の母親も、控えめながら極刑を希望している。成育歴や家庭環境に酌むべき点は認められるが、以上の点を考慮すること、一審判決は不当に軽く、極刑をもって処断すべきである、と述べた。

 上告審より4件中2件(男娼殺害と1972年の事件)に関し、否認。
 判決は、一部が少年時代の犯行であること、被害者の遺族に慰藉料を提供し謝罪の意を表したこと、成育歴等に考慮すべき内容があることなどを考慮しても、4件の残忍な強盗殺人を行った結果はあまりにも重大であり、死刑はやむを得ないと述べた。
備 考
 二つの事件後、窃盗等の非行により約1年間、中等少年院に入っている。
 最高裁が判決を確定するまでの間、判決の土台となる報告書作成を担当した最高裁第一小法廷の当時の調査官が男性殺害については無罪、もう一件の女性殺害についても審理のやり直しを主張し、判事の一人がこれを支持。判事の全員一致が原則とされる死刑判決の言い渡しが事実上できなくなっていたという。
現 在
 2件について無罪を訴え続けている。2011年12月、第七次再審請求中。2014年ごろまでに第八次再審請求棄却。2015年時点で第九次再審請求中。
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氏 名
石田三樹男
事件当時年齢
 33歳
犯行日時
 1981年7月6日
罪 状
 強盗殺人、現住建造物等放火
事件名
 神田ビル放火殺人事件
事件概要
 東京都の会社員石田三樹男被告はバーなどの遊興費を捻出するために5,6年で会社の金約1,400万円を使い込んだため、帳簿類を消却した上、会社の金を持ち出して逃走しようと決意。1981年7月6日、灯油入りの水筒を持って出社し、犯行の機会を求めて残業をしていたが、同じく残業していた上司(当時46)が邪魔になったため、木製バットで頭部を強打して撲殺した。さらに会社の現金252万円を奪い、灯油をまいてビル7Fの事務室に放火した。逃げる途中、ビル管理人(当時56)を鉢合わせしたため、バットで撲殺した。
 石田被告は東北地方の山中あるいは人目の少ない温泉旅館に泊まりながら、4か月にわたり逃亡。自殺を図ったが遂げることができず、最後の宿泊先で旅館主に名乗り出て警察に出頭・逮捕された。
一 審
 1982年12月7日 東京地裁 大関規雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1984年3月15日 東京高裁 寺沢栄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年7月1日 最高裁第二小法廷 奥野久之裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 会社の帳簿書類を焼いて逃亡するつもりであり、殺人は偶発的だと石田被告は主張。
 判決は、前科が無いこと、真面目な家庭人かつサラリーマンであったことも考慮しながらも、最初から殺害は意図はしていなかったとはいえ、落ち度のない2人を殺害して金を奪った重大な事件であり、かつ放火に挑んだことを考えると責任は極めて重大であり、しかも被告の使い込みが原因である点に酌むべき事情は見出し難く、死刑はやむを得ないと述べた。

 被告側は、殺人が計画的でなく偶発的であることと、罪を認め反省していることから、量刑不当を訴えた。
 判決で裁判長は、犯行行為が残虐であること、放火も含めて財産的損害はかなりの高額であること、なんら慰謝していないこと、被害者遺族が極刑を望んでいることを考慮し、一審判決の量刑は不当ではなく、極刑はやむを得ないと述べた。

 最高裁の判決理由で奥野裁判長は「強盗殺人二件を起こしたうえでの放火という刑事責任は重い」「酒と女におぼれて多額の会社資金を使いこんだ被告の動機に酌量の余地はなく、犯行の態様も悪質で残忍だ。被告人の情状を十分考慮しても死刑を妥当と認めざるをえない」と述べた。
執 行
 1997年7月12日執行、48歳没。
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氏 名
日高安政/日高信子
事件当時年齢
 安政40歳/信子37歳
犯行日時
 1984年5月5日
罪 状
 殺人、現住建造物等放火、詐欺
事件名
 夕張保険金目当て放火殺人事件
事件概要
 北海道夕張市の暴力団組長で炭坑下請け業社社長の日高安政被告と妻の日高信子被告は、自分の会社の寮に放火して保険金をだまし取ろうと計画。配下の暴力団組員I(当時24)に指示して、1984年5月5日午後10時40分ごろ、一階食堂に放火させ、木造一部三階建て延べ350平方メートルの内部を全焼。出火当時8人が寝ていたが、その内、就寝中の男性作業員4人(当時57、51、49、46)と住み込み炊事婦(当時33)の姉弟2人(当時12、11)の合わせて6人を焼死させた。さらに、失火と偽って火災保険金2,400万円と作業員4人の生命保険1億1,400万円の合計1億3,800万円をだまし取った。また消火活動にあたっていた消防士1名(当時52)が殉職している。住み込み炊事婦は事件当時、近くのスナックの手伝いをしていて難をのがれた。
 Iは火災時に宿舎の二階から飛び降りて両足を骨折するなど大けがをして、美唄労災病院に入院した。Iは7月中旬に退院後、行方をくらましていたが、親類の住む青森市内から8月15日、夕張署に「火事のことで話したい。オレは追われている」と電話。青森署に任意同行を求めて調べたところ、犯行を自供したため、16日朝逮捕。Iの自供から主犯の日高夫婦も19日早朝、自宅で逮捕した。
 日高夫婦の会社では、1981年10月、93人が死亡した北炭夕張炭鉱ガス突出事故で従業員の半数近い7人を失った。遺族に保険金の一部を渡したが、日高夫婦も1億3,000円の保険金を手に。これが金銭感覚を狂わせ、再び巨額の保険金を得ようと、犯行に及んだ。
一 審
 1987年3月9日 札幌地裁 鈴木勝利裁判長 死刑判決
控訴審
 信子被告:1988年10月 8日 控訴取下げ、死刑確定
 安政被告:1988年10月13日 控訴取下げ、死刑確定
拘置先
 札幌拘置支所
裁判焦点
 坑内員に飲酒させた後、就寝間もない時間を狙って共犯に放火させている点などから「明白な殺意があった」とする検察側に対し、日高安政被告は「火災保険金さえ手に入ればよかった」と6人全員について殺意を否認。妻の信子被告も、飲酒すると泥酔することの多かった一人について「未必の故意」を認めただけで、ともに、「犠牲者が出ないように、と指示したのに共犯が言った通りにやらなかった」と主張した。
 判決で鈴木裁判長は、争点となっていた殺意について、両被告と実行行為者との間で、「犠牲者が出ても構わない」とのやりとりがかわされたと指摘。「両被告は、放火の結果、焼死者が出てもやむを得ないと認容していた」として、焼死した6人全員についての未必的殺意を認めた。
 また、両被告の犯行における役割について、「首謀者は安政被告であるが、信子被告も犯行を制止するどころか、死者が出ることについて、一時、ためらう素振りを示した安政被告に対し、強い言葉で説得、容認させるなど、謀議成立の過程で、最も重要な役割を果たした。保険金詐欺の際には主導的立場にあり、両者の罪責は同等」と述べた。

 2被告とも未必の故意を認めた一審判決を不服として控訴。控訴審は4回開かれたが、当時天皇陛下の危篤が続いており、天皇陛下ご逝去にともなう恩赦の対象に死刑確定囚が含まれるという噂が流れていた。2被告とも恩赦を期待し、日高信子被告は1988年10月8日に、日高安政被告は10月13日に控訴を取下げ、死刑判決が確定した。
備 考
 Iは分離公判で1987年3月4日、札幌地裁で求刑通り無期懲役判決が出て、控訴せず確定した。
 夫婦そろっての死刑判決は1947年、大津地裁の尊属殺人事件(二審でともに懲役15年に減軽)以来。また夫婦揃っての死刑確定は戦後初。
その後
 日高安政死刑囚は1996年5月、控訴取下げは恩赦があると誤解したためなので無効であると、札幌高裁に対し審理再開申立を行った。8月、札幌高裁は訴えを棄却。最高裁に対する特別抗告も1997年6月に棄却。
執 行
 1997年8月1日執行、安政54歳没、信子51歳没。日高信子死刑囚は戦後3人目の女性死刑被執行者。
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氏 名
平田光成/野口悟
事件当時年齢
 平田42歳/野口31歳
犯行日時
 1978年5月21日/6月10日
罪 状
 強盗殺人、有印私文書偽造、同行使、詐欺、死体遺棄、住居侵入、窃盗
事件名
 銀座ママ殺人事件他
事件概要
 経営資金に困った高知市の化粧品販売会社研究所長平田光成被告が社員の野口悟被告と共謀。1978年5月21日夜、顔見知りのクラブママの女性(当時54)を、東京都港区にある女性の自宅で首を絞めるなどして殺害、現金219万円や郵便貯金証書などを奪い、その後貯金を引き出した。
 2被告はさらに6月10日夜、港区に住む知り合いのソープランド従業員(当時41)を四国に呼び出し、松山市内で殺害。現金38,000円を奪った後、全裸にして山中に遺棄した。
一 審
 1980年1月18日 東京地裁 小野幹雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年1月21日 東京高裁 市川郁雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年10月17日 平田被告のみ上告取下げ、死刑確定
 1990年2月1日 野口被告 最高裁第一小法廷 佐藤哲郎裁判長(退官のため四ツ谷巌判事が代読) 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1978年10月31日の初公判で、両被告は起訴事実を認めたが、1番目の事件については「金を奪おうと思ったが、最初から殺そうとは考えていなかった」と計画的殺人を否定した。
 1979年8月17日の論告で検察側は、「会社の経営資金に困り、東京で一人暮らしの金持ちの女性を殺そうと計画した。二人は死体を切り刻んで海に捨てようなどと綿密な計画を練って犯行に及んだもので、殺意があったことは明らか。犯行の手口や被告らの役割分担など、まれにみる残虐な犯行で、一編の人間性も見いだせない」と述べた。  判決で小野裁判長は、自己中心的で冷酷、非情であると両被告を非難。平田被告が主導的役割を果たしたと認定するとともに、野口被告についても従たる地位にはあったが、積極的に犯行に加担するとともに、2番目の事件については自ら提案しているなど、責任は極めて重いと認定。
 動機は会社の窮状を克服するための資金調達であり遊興費等ではないこと、前科前歴がないこと、両被告とも反省し、被害者の冥福を祈っていることを考慮しても、責任は極めて重大であるため、極刑をもって罪を償わせるほかはないと述べた。

 控訴審で野口被告は、1番目の事件については計画的なものではなく偶発的なものであり、平田被告の行為を制止できなかったと主張。さらに2番目の事件については、殺害行為の一部を担当していないとも主張した。
 判決で市川裁判長は、野口被告は積極的に事件に加担し、2番目の事件については自ら被害者を指名したなどとして、平田被告と責任について劣るものではないと結論付けた。また平田被告の会社は個人企業に近く、会社の存続は両被告の生活維持につながることから、犯行が私利私欲のものではなかったということはできない、と述べた。

 最高裁は「周到な計画のもとになされた凶悪な犯行であり、重要な役割を果たした被告の責任は重い」として、死刑を言い渡した一・二審判決を支持して被告の上告を棄却した。
備 考
 平田被告は天皇陛下ご崩御に伴う恩赦を期待して、上告取下げ。平田被告は一年ほど前から恩赦関係の資料を取り寄せて勉強していたという。また他の被告にも恩赦があると伝え、取下げを誘っていた。
執 行
 1996年12月20日執行、平田60歳没、野口50歳没。
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氏 名
今井義人
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1983年1月29日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 元昭石重役一家殺人事件
事件概要
 火災保険代理店を経営していた今井義人(よしんど)被告は、伯父の元昭和石油重役(当時76)に借金を申し込んで断られたため、1983年1月29日午前1時ごろ、重役方に高窓から侵入。妻の母(当時91)に気付かれたため、刃物で殺害。起きてきた妻(当時62)も殺害。さらに重役の男性と格闘の末、刃物で殺害した。死体を台所の床下に隠し、奪った預金通帳を使って約400万円をおろした。
 今井被告は元重役の前妻の妹の二男。1960年に昭和石油に就職したが、5年後、元重役の退職に伴い退社。以後、職業を転々としており、サラ金などから借金があった。伯父は昭和石油の元取締役であり、土地など多額の資産を有していた。今井被告は3日の3人の通夜でも手伝っていた。
 2月3日、連絡が取れなくなったことを不審に思った三男の妻らが遺体を発見。預金通帳が盗まれていたことから銀行へ確認すると、犯行当日、横浜市内の銀行から108万円が引き出されるところが防犯カメラに残っていた。映像を被害者の長男に確認したところ、今井被告に似ていると証言。確認すると、今井被告が数日間で借金返済や保険振り込み、買い物等で100万円近くを使っていたことが判明。さらに現場から約300m離れた溝から血染めのポロシャツが発見され、今井被告がかつて着ていたものと似ているとの証言を得たため、2月10日に任意同行したところ犯行を認めたため、逮捕した。
一 審
 1984年6月5日 東京地裁 佐藤文哉裁判長 死刑判決
控訴審
 1985年11月29日 東京高裁 内藤丈夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1988年10月24日 上告取下げ、死刑確定
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1983年6月21日の初公判で、今井義人被告は「全部その通りです」と起訴事実を認めた。
 弁護側は、「犯行は被害者になじられた怨み」であると主張した。弁護側は、犯行時の精神状態などから「死刑判決は不当」と主張。弁護側の申請で精神鑑定が実施され、「被告は基本的に異常性格者ではないが、精神安定剤の常用で犯行の歯止めが利かなくなるなど、刑を言い渡すうえで配慮すべき点がある」という鑑定書が提出された。

 検察側は論告で、「借金申し込みを断られ、生活できなくなると考えた」と動機について説明。「やっつけた、ざまみろ」と勝利感すら覚えたという証言を指摘し、「自己中心的、冷酷非情な被告の嬌声は難しい」と一審判決の維持児を求めた。
 最終弁論で弁護側は、強盗目的よりも、借金を断られた時、今井被告だけでなく、母親の身持ちの悪さを非難されたことに対する恨みの方が強かった」と訴えた。そして、今井被告は犯行当時、薬の影響で判断力に欠けていたとして、減刑を主張した。
 判決で佐藤裁判長は、「今井被告は一月末までに2、30万円の金を工面する必要があって犯行を計画、各種の凶器を準備し、犯行の直前には精神安定剤を飲んでいる」と強盗殺人の計画性を認めた。また今井被告の精神状態については、「正常な判断が阻害されたとは見られない」と述べた。被告が犯行当時、心因性の抑うつ状態であったことは認めるも、「精神安定剤は抑うつを鎮めることがあっても、正常な判断力を阻害したとは言えない」と被告の責任能力を認めた。そして、恩のある被害者を殺害するなど、犯行が残虐であると指摘した。

 控訴審で弁護側は、犯行時の精神状態などから「死刑判決は不当」と主張。判決で裁判長は、被告の精神状態に問題はなかったと、責任能力を認めた。そして「短絡的で残忍、冷酷な犯行だ」として、被告側の控訴を棄却した。
備 考
 天皇陛下ご逝去に伴う恩赦を期待して、上告取下げ。ただし、恩赦にならなくても悔いはないと家族に伝えたらしい。
執 行
 1996年12月20日執行、55歳没。
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氏 名
西尾立昭
事件当時年齢
 40歳
犯行日時
 1977年1月7日
罪 状
 殺人、殺人未遂、殺人予備、死体遺棄、詐欺未遂
事件名
 日建土木事件
事件概要
 名古屋市内にある日建土木株式会社の実質上の経営者であったY被告は、同社の営業資金等に窮していたため、暴力団組長である西尾立昭被告と共謀の上、同社の役員等を被保険者とする経営者大型総合保障を締結した上、これを殺害して多額の保険金を騙取しようと企てた。
 西尾被告の紹介で同社の名目上の代表取締役に就任させていたKさん、同社の従業員であったIさん(当時35)、西尾被告の紹介で同社の名目上の取締役に就任させたOさん(当時48)に合計3億円の保険を掛けた。その後、西尾被告は配下の者とも順次共謀して、Kさんを溺死させようと長良川に誘い出し、あるいは恵那峡ダムへの一泊旅行に誘うなどしたが、不審を抱かれるなどして最終的に逃亡したことから、殺人予備の段階にとどまった。
 その後、暴力団会長やその配下の者ら3名とも順次共謀して1976年9月21日、交通事故を装ってIさんを殺害しようとし、全治約2ヶ月の重傷を追わせたが、殺害にまでは至らなかった。このとき、Y被告は単独で、保険会社から傷害保険合計630万円相当を騙し取った。更に、西尾被告及びその配下の者ら4名と順次共謀して、1977年1月7日、Oさんを車で浜松市内まで誘い出してロープで絞殺した。しかし、保険金の騙取は、保険会社に不審を抱かれて未遂に終わった。
一 審
 1980年7月8日 名古屋地裁 塩見秀則裁判長 死刑判決
控訴審
 1981年9月10日 名古屋高裁 海老原震一裁判長(服部正明裁判長代読) 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1989年3月28日 最高裁第三小法廷 安岡満彦裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 首謀者はY被告であり、西尾被告は殺人未遂の事件においては犯行のほう助に過ぎず、殺人事件においては実行犯をY被告に紹介したにすぎないと主張した。
 判決では、西尾被告がいずれも積極的にかかわり、犯行の中心的な役割を果たしていると認定した。そして、自己の利益のために人の命を奪うこの種の犯行を絶滅するため、一般予防の点も十分考慮すべきとした。暴力団会長から要請されたことや、保険代理店が計画を知りながらも助長するような言動を取っていたことなどを考慮しても、西尾被告は多くのものを仲間に誘い、中心となって犯行を主導したことから、死刑に処するのが相当である、と述べた。

 裁判長は、西尾被告がY被告とともに主導的、かつ中心的人物であったと一審判決と同様に認定。一般社会に対して極めて深刻な衝撃を与えた、前科四犯と平素の行状も決して芳しいものではなく、反社会的・犯罪的性格傾向は極めて危険かつ強固であると認められ、刑事責任は極めて重大であることから、死刑はやむを得ないと結論付けた。

 最高裁でも同様の主張をしたが、安岡裁判長は「犯行は極めて執ようで悪質非道だ。西尾被告は終始、主謀者として犯行を押しすすめており死刑もやむをえない」とした。
備 考
 西尾被告は強姦致傷など、前科四犯。
 「主犯」Y被告は無実を訴えたものの、求刑通り一、二審死刑判決。しかし1996年9月20日、最高裁第二小法廷は、(1)生命を狙われたのは3人だが、結局殺害されたのは1人だけである(2)殺害の実行行為や謀議にも関与していない(3)首謀者に引きずられた面も強い(4)前科はなく、問題をおこすことなく社会生活を送ってきた――などの点を挙げて、一・二審判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。過去に最高裁が量刑不当を理由に高裁の死刑判決を破棄したのは、1953年6月4日に言い渡された強盗殺人事件の判決(判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい))だけで、これが戦後2件目。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 他に7人が起訴され、無期懲役~懲役4年までの判決が確定した(殺人事件の共犯では、2名が無期懲役、1名が懲役13年、1名が懲役10年判決が確定)。
執 行
 1998年11月19日執行、61歳没。
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氏 名
石田富蔵
事件当時年齢
 51歳
犯行日時
 1973年8月4日/1974年9月13日
罪 状
 殺人、窃盗、死体遺棄、死体損壊、住居侵入、強盗殺人、強盗強姦未遂
事件名
 2女性殺人事件
事件概要
 埼玉県の鳶職石田富蔵被告は妻の死後、夫のある女性(当時33)と情交関係を持ち、結婚を望んだが、1973年8月4日午後8時頃、埼玉県内の農道上で女性に情交を拒絶され罵倒され、さらに別れ話を持ち出されたため激昂。女性の首を両手で絞めて殺害。死体から現金2,600円や腕時計等を奪い、さらに屍姦。その後死体を道路脇の材木の中に隠し、廃油をかけて焼却した。
 埼玉県内にある行き付けの飲食店の鍵を偶然拾ったことから、賭け事や飲酒で金に困っていた石田被告は1974年9月13日午前2時30分頃に侵入。物色中に顔見知りの女性経営者(当時50)が寝ているのを見て強姦しようとしたが抵抗されたため、首を絞めて殺害、指輪等を奪った。
 窃盗の余罪3件がある。
一 審
 1980年1月30日 浦和地裁 杉山英巳裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年12月23日 東京高裁 菅間英男裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1989年6月13日 最高裁第三小法廷 坂上寿夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 74年の事件は無実、73年の事件は自ら良心に従って傷害致死を告白したのが殺人にでっち上げられたと主張。さらに死体焼却等を否認。
 一審で杉山裁判長は、1番目の事件において、被害者は石田被告と結婚を考えていた、同意していた様子は全くうかがえず、被害者が被告との交際を絶とうとしたからと言って殺される筋合いは全くない。一方的に結婚できると思い込んでいた点について、石田被告の身勝手で自己中心的な傾向が表れており、他人の人格を顧みることのない危険な性格が顕著である。さらに殺害、屍姦、証拠隠滅行為は残虐で悪質である。2番目の事件について、石田被告の犯行と認定するとともに、極めて悪質であると断じた。そして、1件目の事件が自首に当たること、犯行はいずれも計画性が無い偶発的なものであることを考慮しても、真摯な反省もなく、被害者の遺族感情も考慮し、死刑が相当と結論付けた。

 控訴審でも石田被告は74年の事件は無実、73年の事件は自ら良心に従って傷害致死を告白したのが殺人にでっち上げられたと主張。さらに死体焼却等を否認した。
 判決は一審をすべて認定するとともに、極めて残虐と非難。さらに犯行を否認するなどつじつまの合わない弁解に汲汲たる有様で反省が見られず、一審判決はやむを得ないとした。

 最高裁は「わずか一年余の間に、欲望のおもむくまま罪のない手向かうすべのない女性2人を殺害しており、冷酷無情な犯行で、極刑はやむをえない」として上告を退けた。
その後
 74年の事件は無実であると再審請求。2004年3月30日棄却、即時抗告中。2011年時点ではすでに棄却。再審請求準備中だった。
 2014年4月19日午前9時前、前立腺がんのため東京拘置所で死亡。92歳没。5年前に前立腺がんと診断され治療を受けていたが、16日に意識レベルが低下し、拘置所内の集中治療室に移っていた。
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氏 名
藤井政安
事件当時年齢
 28歳
犯行日時
 1970年2月13日~1973年4月15日
罪 状
 恐喝、殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、現住建造物放火未遂
事件名
 「殺し屋」連続殺人事件
事件概要
 東京都練馬区の娯楽機器販売業、兼高利貸しの関口政安(旧姓)被告は、「殺し屋」集団を雇い、以下の事件を引き起こした。
  1. 関口被告は不倫相手の愛人と結婚するために、愛人の夫(当時34)の殺害を従弟Fに100万円で請け負わせた。従弟Fは共犯Wと共謀し、1970年2月13日夜、東京都内の路上に停止した自動車内で、夫をナイフなどで心臓を突き刺して殺害した。その後、関口被告は不倫相手とは半年間交際を続けた。遺体は3年7か月後に発見された。
  2. 関口被告は覚せい剤購入の資金として暴力団員の男性(当時32)に300万円を貸したが返済しないので、金の隠し場所を聞いた上で殺すように従弟Fに依頼。従弟Fと共犯W、U、Iは共謀の上、1971年10月27日夜、神奈川県内の堆肥貯留場で男性を裸にし、手錠、猿ぐつわをかませた上、クロロホルムをかがせて失神中に土中に埋めて窒息死させた。
  3. 当時砂利採取事業を営んでいた男性(当時39)に関口被告は株式会社名義で多額の金を融通したが、返済困難となった。関口被告は会社を乗っ取ろうとしたが、男性は乗っ取りを阻止し、社員に対して反抗的な態度をとったため、殺害を決意し、Iに100万円で殺害を依頼。IとTは1973年4月15日午前2時頃、茨城県内にある男性の事務所兼宿舎で、クロロホルムで失神させた上首を絞めて殺害。死体を土中に埋めた。このとき、男性の妻(当時35)も殺害されている。妻殺害については、関口被告は依頼していないと無罪判決が出されている。
  4. Iを使い、借金を返そうとしない男性宅に放火させた。発見が早く適切な消火作業が行われたため、未遂で終わった。
  5. 関口被告は1972年3月下旬、大田区の食品販売業Sさん(当時50)に1か月9%の利息、1か月返済の約束で1,000万円を貸すも、Sさんは返済できなかったため、日本刀でSさんを脅し、10日に1割の利子を押し付けた。Sさんは4月下旬から3か月で1,700万円を支払ったが、7月上旬に金策が行き詰まり、残り約274万円の返済が出来なくなった。関口被告はSさんにビルを売れと脅し、Sさん所有の4Fビル(時価1億円)の売却代金から約束手形額面合計274万円を脅し奪った。
  6. 拳銃と実弾所持1件の余罪がある。
 関口被告は中日スタヂアム事件の主犯であるN被告の配下であり、N被告に可愛がられ勢力を伸ばしていった。
 1973年9月1日、Sさんへの恐喝事件により逮捕。背後を調べた結果、複数の殺人事件が発覚した。関口被告は中日スタヂアム事件にも関与している。
一 審
 1977年3月31日 東京地裁 林修裁判長 死刑判決
控訴審
 1982年7月1日 東京高裁 船田三雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1989年10月13日 最高裁第三小法廷 貞家克己裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審の判決では、それぞれの犯罪について考察された。
 1番目の事件について、林裁判長は画策から処理にいたるまで奸智にたけた大胆不敵な犯行と指摘。ともに妻子ある立場にありながら道ならぬ恋に溺れ、妨げとなる夫を関わりのない他人に金銭を渡して殺害させるというのは到底許されぬものではない。女手一つで被害者を育て上げた母親の悲嘆の情は察するに余りあり、残された幼い2児の行く末を思うと哀惜の念を禁じ得ない。
 2番目の事件については、被害者が借金の返済を拒絶し、暴力団を背景に居直る態度を示したことに問題はあるが、金銭を出すとともに周到に計画し、被害者を拉致した後は自ら詰問して隠し金のありかを追求し、他の被告に殺害を指示、実行させた。その殺害の方法は凄惨、残忍を極めており、自ら手を下してはいないとはいえ、責任を軽減させるものではない。しかも犯行後、被害者の安否を気遣う被害者の内妻に取り入り、情を通じて発覚の防止を図り、さらには自らのマンションに呼び寄せて同棲しているのは真に悪質。幼くして母と別れ最愛の父を奪われて養護施設に預けられた当時6歳の息子の将来を思うと、胸がふさがれる。息子に50万円を贈ったことは評価されるが、責任は重大である。
 3番目の事件についても、既に2人を殺めながら、発覚のないことを幸いに重ねて殺人にいたったことは言語道断。犯行は残虐非情で、実行行為に携わっていないとはいえ、責任は重大である。後に残された3人の遺児の痛嘆の情は、推察するに難くない。100万円を送って謝罪の気持ちを示したとしても慰謝として十分なものではない。なお、妻殺害については、依頼をしていないとして無罪を言い渡している。
 以上、被告の反社会的性格は根強く、強固なものである。現在反省し、後悔している点を含めても責任は極めて重大であり、極刑が相当である、と述べた。
 関口被告だけでなく、F被告、I被告にも死刑を言い渡すとともに、他の3被告にも有罪を言い渡した。

 被告側は1番目の事件について、愛人の女性から殺害を依頼されたと主張した。
 判決で船田裁判長は、「いかなる裁判官でも死刑を選択したであろう程度の上場がある場合に限定されるべき」とする死刑適用慎重論を、1981年8月21日に永山則夫被告へ言い渡した裁判と同様に展開。そのうえで4人を殺害した永山被告が無期懲役で、3人を殺害した関口被告が死刑なのは量刑の均衡に疑問が生じるかどうかについて言及。改めて関口被告の情状を調べ、永山被告は犯行当時少年に過ぎず、関口被告と比較すると、犯罪の計画性、動機、態様、犯行後の証拠隠滅工作、犯行時の年齢などすべてを対比すると、被害者の数を考慮に入れても永山被告よりも刑事責任は重いと述べた。そして、関口被告が1番目の被害者の母に150万円、2番目の遺児の祖母に合計150万円、3番目の遺児に合計301万円を送って誠意を示したことを勘案。被告、被告の母、被告の姉が贖罪として眼、腎臓、遺体を献ずる手続きを取ったことに加え、成育歴や家庭環境なども考慮したが、凶悪事件であり、一般社会にも甚大な衝撃を与えており、死刑判決が不当に重いということはできない、とした。
 しかし、F被告については「関口被告に命じられて断わり切れなかった」と判断し、無期懲役に減軽した。I被告については、「三人の殺害に積極的に関与しており、極刑もやむを得ない」としたが、精神鑑定から犯行時心神耗弱だったと判断し、無期懲役に減軽した。

 最高裁は「報酬の支払いを約束して3人の殺害を次々と実行させた責任は重大であり死刑はやむをえない」として上告を退けた。
備 考
 一連の事件では他に5人が起訴された。控訴審までいずれも一緒に審理されている。
 F被告は一審で求刑通り死刑判決、二審で無期懲役に減刑され、そのまま確定した。
 I被告は一審で求刑通り死刑判決、二審で無期懲役に減刑。1989年10月25日までに最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で被告側上告棄却、確定。
 W被告は一審で求刑通り無期懲役判決。二審で懲役20年に減刑され、そのまま確定した。
 T被告は一審で懲役18年(求刑無期懲役)判決。二審で懲役16年に減刑され、そのまま確定した。
 U被告は一審で求刑通り懲役15年判決がそのまま確定した。

 関口被告は傷害罪で罰金3万円の前科がある。
 旧姓関口。1986年10月、文通で知り合った女性と獄中結婚、改姓。
その後
 藤井被告は、一部の報道で「四人殺害」「暴力団員」と書かれたが、実際に殺害に関与したのは3人で、かつ暴力団員ではなかったから誤報であり、名誉を傷つけられたと、マスコミ数社を相手に1994年、損害賠償を求めたが、いずれも敗訴している。
 一部無実を主張して再審請求も、2004年3月24日棄却。5月28日即時抗告棄却、特別抗告も棄却。第二次再審請求中。
 第何次かは不明だが、2023年時点で再審請求中。
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氏 名
神田英樹
事件当時年齢
 30歳
犯行日時
 1985年3月8日
罪 状
 殺人
事件名
 父親等3人殺人事件
事件概要
 元自衛官で無職神田英樹被告は、1976年3月に中学生の弟(当時14)が自殺した原因が、酒やギャンブルなど乱れた生活を送っていた父親にあると思い込み、1977年9月に自分を残して家を出た父親に復讐しようと、3年半にわたり綿密な殺害計画を立てた。
 1980年3月8日午前2時10分ごろ、父親(当時53)と一緒に暮らしていた埼玉県岩槻市の無職女性(当時59)方に、弟の好きだった軍服を着、鎖がまと日本刀を持って押しかけ、父親と女性を殺害。さらに、居合わせた女性の孫娘(当時1)を二人の実子と勘違いして日本刀で突き刺すなどして殺害した。
 本人はその直後、怨みの遺書を残して割腹自殺をはかったが一命をとりとめる。
一 審
 1986年5月30日 浦和地裁 杉山忠雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年12月22日 東京高裁 萩原太郎裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1989年11月20日 最高裁第二小法廷 香川保一裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 神田被告は公判で、女性と孫娘に対する殺意を否認している。
 一審で杉山裁判長は、犯行があまりにもむごたらしく執拗、残虐であると非難。父親が暴力をふるいだらしない生活を続けるなど誉められる人間でなかったことは認めるが、神田被告は同居中に生活費等に窮しても自らは働かず、責任を父親に押し付けるなど一方的。父親とは7年間没交渉であったことを考えると、父親殺害の動機はあまりにも自己中心的、独善的で特異なものである。ましてや女性や孫娘殺害については、酌量の余地がない。被害者遺族の被害感情は深刻であり、特に殺害された子供の母親は、娘のところに行きたいと口走って一人では放置できない状態となっている。社会に与えた影響、犯行後の情況も考えると、その責任は誠に重大。前科等が無いことを考慮しても、上場の余地はない、と述べた。

 神田被告は、父親殺害にいたる経緯が理解されていないと控訴した。
 高裁判決で萩原裁判長は、父親の神田被告に対する冷たい仕打ちや家庭を顧みない生活態度が本件の遠因となっていることや、神田被告がまだ若いこと、前歴がないことなどを酌量したが、真摯な反省態度を示しておらず、遺族の被害感情、社会に与えた影響も考慮し、死刑を選択することはやむを得ないと結論づけた。

 最高裁判決で香川裁判長は「犯行は神田被告の特異な価値判断に基づき極めて自己中心的で独善的。被告の成育歴などに同情に値する点があることなどを酌んでも、死刑は是認せざるを得ない」と述べた。
執 行
 1997年8月1日執行、43歳没。
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氏 名
宇治川正
事件当時年齢
 24歳
犯行日時
 1976年4月1日
罪 状
 強盗殺人、現住建造物等放火、同未遂、非現住建造物等放火
事件名
 伊勢崎2女子中学生殺人事件等
事件概要
 無職田村正(旧姓)被告は執行猶予中で職もないときに暴力団関係者との交際を深め、覚せい剤を使用したり遊興に明け暮れるなど放恣な生活を送っていた。1976年2月初めころからは暴力団の露店の手伝いも辞め、情婦方に転がり込んだ。情婦は定職に就かせようと自動車教習所に通う費用を立て替えるまでしていたが、まったくやる気を見せず、小使い銭にも窮した。
 田村正被告は1976年4月1日、群馬県内の隣家を訪れ、留守番をしていた同家の長女(当時13)と従姉(当時13)の2人の中学生しかいないことを確認したうえで上がり込み、持っていた包丁で2人の胸を突き刺して殺害。指輪等を奪った後、灯油をまき散らして放火して家を全焼させた。
 他に覚せい剤購入資金等を得るために、1974年3月22日に民家に侵入して現金を奪うも金額が少なかったことから腹いせに火をつけた現住建造物等放火未遂事件、2件の非現住建造物等放火事件を起こした。
一 審
 1979年3月15日 前橋地裁 浅野達雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1983年11月17日 東京高裁 山本茂裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1989年12月8日 最高裁第二小法廷 島谷六郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 計画的強盗殺人ではなく、覚醒剤依存症による錯乱状態での単純殺人、窃盗であると主張。
 判決は、犯行に至る経緯、動機について被告が自己中心的、反社会的かつ危険な性格が顕著にみられ、同情すべき余地が全くないと非難。何の罪もない少女2人を殺害し、金品を奪い、灯油をふりかけて放火するなど、被告の非人間性は言語に絶し、許し難い所業である。しかも遺体は無残に焼け焦げ、両親は死に顔すら見ることができず、精神的苦痛は大きく、遺族は極刑を望んでいる。一応反省の態度を見せていること、覚せい剤使用等の影響により精神能力がやや減退していたことを考慮しても、極刑はやむを得ない、と述べた。

 控訴審で被告側は一審同様、田村被告の身心状態が斟酌されるべきと訴えた。鑑定の結果、田村被告は著しく社会的規範から逸脱しやすく、衝動的であるとされた。
 判決で山本裁判長は、犯行は田村被告の性向に加え、怠惰な生活態度に起因するところが大きいと指摘。犯行の動機、残虐さ、結果の重大性、地域社会に与えた影響、遺族の被害感情などを考慮し、田村被告が受けた交通事故の賠償金200万円を提供して慰謝の一部に宛てたいという意向を示すなど反省している事を含めても、一審判決が重すぎて不当余地は全くない、と述べた。

 最高裁は「二少女を次々に殺害したうえ放火した残虐な犯行」と断じた。
備 考
 田村被告は1969年3月に強盗傷害事件を起こし、1年10か月、中等少年院に収容されたが、途中脱走事件を起こしている。
 退院後の1971年9月、有価証券偽造、同行使、詐欺事件を起こし、懲役1年執行猶予3年の判決を受けている。
 旧姓田村。最高裁判決後に改姓。
その後
 犯行時覚醒剤の影響があったとして、責任能力の問題で再審請求。
 死刑確定囚(死刑囚)は今まで東京拘置所で受けた受診記録や検査結果などの医療情報の開示請求を2005年9月5日付で行ったが、「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律」45条1項の刑事事件に係る裁判、刑の執行等に係る保有個人情報に該当し、開示請求等の法の規定の適用から除外されているとの理由により、その全部を開示しない旨の決定(本件不開示決定)をした。死刑囚は不服として11月28日付で法務大臣に対し審査請求をしたが、2006年8月18日付で棄却された。そこで死刑囚は2007年2月19日、決定の取り消しを求めて訴訟を起こした。東京地裁は2008年1月25日、不開示決定は適法であるとして訴えを退けた。2008年7月9日、東京高裁は死刑囚側の控訴を棄却した。
(原告名が特定できなかったが、前橋地裁で死刑判決を受けて後に確定したとあり、該当するものが宇治川死刑囚のみと思われるため、ここに記載する)

 2013年6月に肺がんを患い、東京拘置所内の医療施設で治療中だったが10月に悪化し、11月15日午後、肺がんのため拘置所内で死亡した。62歳没。
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氏 名
金川一
事件当時年齢
 29歳
犯行日時
 1979年9月11日
罪 状
 殺人、強姦致死、窃盗
事件名
 熊本・免田町主婦殺人事件
事件概要
 無職金川一(かねかわはじめ)被告は1979年9月11日午後2時頃、熊本県免田町の路上で、たまたますれ違った農作業中の主婦(当時21)を乱暴しようと追いかけ、近くの畑で襲ったが、強姦は未遂に終わった。しかし犯行の発覚を恐れ、首をしめたうえ、持っていた短刀で数回突き刺して殺した。余罪として、パジャマの窃盗1件がある。
 本事件では、凶器が発見されていない。
 事件当時、金川被告は町内に住む養父宅を訪れていた。翌日の朝、免田駅から列車に乗ろうとした金川被告が、駅員からの通報によって駆けつけた捜査員に連行され、逮捕された。
一 審
 1982年6月14日 熊本地裁八代支部 河上元康裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1983年3月17日 福岡高裁 緒方誠哉裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1990年4月3日 最高裁第三小法廷 安岡満彦裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 当初は容疑を否認していたものの自供に転じ、初公判でも起訴事実を認めていた。初期の頃は、犯行時は精神的に18歳未満の少年と同じであり、殺害したのは1人なのに死刑では重すぎると訴えていた。
 しかし一審で死刑を求刑された後、自供を翻して無罪を主張。「事件で使われた凶器は、確定判決が認定するような「短刀のような刃物」ではなく、「切り出しナイフか小刀のようなもの」で矛盾する。凶器はいまだに発見されていない」「犯行時に着ていたとされる衣服には、加害者であれば浴びているはずの飛沫血痕がない」「被害者のブラジャーの切断面は刃物によるものと推定され、手で引きちぎったとする自供と食い違う」と述べた。
 判決で河上裁判長は起訴事実を全て認めながら、知能が低く普通人と精神薄弱者との境界領域に属し、爆発性性格の異常人格者で情緒性の未発達が目立つとされていることを考慮し、「被告の犯罪傾向が年月の経過とともに改善の方向へ向かう可能性もある」として無期懲役を言い渡した。求刑後に否認へ転じたのは、人間性の弱さであり、反省悔悟の念が全くないと断じるのは酷であるとした。

 控訴審で緒方裁判長は「罪質、動機、態様、結果、それによってもたらされた影響など、いずれの面からみても筆舌に尽くしがたいほど残酷かつ非道。精神鑑定の結果は本件犯行の重大さと比べ、それほど有利に斟酌できるものではない。出所3か月目の犯行であり、犯罪傾向は極めて強く改善の可能性は乏しい。一審の量刑は軽過ぎる」と死刑判決を言い渡した。

 最高裁で安岡裁判長は「犯行は執よう、残虐で、動機にも酌量の余地がない上、少年時代に強盗殺人罪で懲役刑に処せられ、刑終了後わずか3ヶ月後だった。被告の成育歴、資質などの事情を考慮しても、刑事責任は重い」と二審の死刑判決を支持、同被告の上告を棄却した。
備 考
 18歳時に犯した強盗殺人事件で1969年12月9日、熊本地裁で懲役5年以上10年以下の判決に処せられ服役。1979年6月11日、長崎刑務所を満期出所して3ヶ月後の事件。
現 在
 1997年3月26日、金川死刑囚は福岡高裁に再審請求をした。弁護団によると、この事件では凶器が見つかっていないが、判決は金川死刑囚の供述から「短刀のような鋭利な刃物」と認定。再審請求は、被害者の解剖鑑定書や当時金川死刑囚が着用していたパジャマの鑑定意見書などを新証拠として提出。「凶器の形状や死因に疑問があり、パジャマには判決が認定した血痕ではなく泥とみられる付着がみられる」などと指摘した。弁護団は「自白と客観的事実が違い、真犯人とするには払しょくし難い合理的な疑問が残る」と主張した。
 2000年2月、福岡高裁は、一部について血ではなく泥であると認めたものの、再審請求を棄却した。2003年3月、最高裁は特別抗告を棄却した。
 2003年5月19日、金川死刑囚は福岡高裁に第二次再審請求をした。弁護人は再審請求書で、現場近くで血液の付着したカマが発見されていたにもかかわらず、証拠申請されなかったことが明らかになったと指摘。「捜査側の対応は不自然で、判決の事実認定には合理的な疑いがある」と主張している。弁護人らが当時の捜査員らに聞き取り調査したところ、複数から「遺体の発見現場近くから、血のついたカマが見つかっていた」とする新たな証言を得た。弁護人により一部が調書化され、同高裁に提出されている。弁護側では近く全証言をまとめ、補充意見書として提出する方針。
 金川死刑囚は小学校の養護学級に通っていた。弁護側では、対人関係で相手側に安易に同調したり、自分の意思を伝えることが困難な傾向にあるため、「最初の強盗殺人事件も含め、自白を強要された可能性がある」と指摘している。
 福岡高裁は2004年4月6日、再審請求を棄却。異議申立も2006年3月2日までに棄却した。浜崎裁判長は弁護側のカマを隠ぺいしたという主張に対し、「複数の新聞報道であっても、それが不正確だったことは決してまれでなく、内容は信用できない」と指摘。「捜査機関による隠ぺいも見当たらない」と退けた。弁護側は特別抗告したが、最高裁は2006年4月3日付で棄却した。
 2006年12月20日、金川死刑囚は福岡高裁に第三次再審請求をした。再審請求書によると、「確定判決は、犯行当日の午後2時ごろに2人が遭遇したと認定しているが、関係者の供述に基づき調査した結果、被害者は遅くとも同1時35分ごろには現場に到着していた」と指摘。「遭遇した事実に重大な疑問があり、確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせる」と主張している。新証拠として、被害者が自宅から犯行現場に到着した時刻を現地調査した報告書を提出した。
 弁護団はこれまで、(1)未発見の凶器は確定判決が認定する「短刀ようの刃物」とは違う(2)死刑囚が犯行時に着ていたとされる衣服に、多量の飛沫血痕が付着していない-などとして再審を求めてきた。弁護団は「裁判所にはこれまでの記録をよく読んでもらえば無罪は明らか。今後も新証拠を提出していきたい」と話している。
 その後、第三次、第四次再審請求は棄却されている。
 2015年12月、第五次再審請求。後に棄却。
 その後、第六次再審請求。(おそらく)2019年に福岡高裁で棄却。同年に即時抗告棄却。特別抗告中。
 第何次かは不明だが、2023年時点でも再審請求中。
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氏 名
永山則夫
事件当時年齢
 19歳
犯行日時
 1968年10月11日~1969年4月7日
罪 状
 窃盗、強盗殺人、殺人、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反
事件名
 警察庁広域重要指定108号事件(少年連続射殺事件)
事件概要
 永山則夫被告は以下の事件を起こした。  
  • 1968年10月初め頃、横須賀市の在日米軍基地内の住宅から拳銃一丁と実包約50発等を盗んだ。
  • 10月11日午前0時50分頃、東京都港区の東京プリンスホテルでうろついていたところを、巡回中の警備員(当時27)に見とがめられたため、顔に向けて二発撃って射殺した。
  • 10月14日午前1時35分頃、京都・八坂神社境内で警備員(当時69)に見つかったため、頭や顔に向けて四発撃って射殺した。
  • 10月26日午後11時13分頃、北海道函館市内で、タクシー運転手(当時31)を射殺して売上金7,200円を奪った。
  • 11月5日午前1時20分頃、名古屋市内でタクシー運転手(当時22)を撃ち殺し、売上金7,000余円を奪った。
  • 1969年4月7日午前1時40分頃、東京都渋谷区内の学校で金品を物色中のところを警備員(当時22)に見つかり、射殺しようとして発砲した。
  • 余罪として、拳銃1丁と実包17発の所持がある。
 永山被告は4月7日の事件で逃走したが、間もなく逮捕された。
一 審
 1979年7月10日 東京地裁 簑原茂広裁判長 死刑判決
控訴審
 1981年8月21日 東京高裁 船田三雄裁判長 一審破棄 無期懲役判決
上告審
 1983年7月8日 最高裁第二小法廷 大橋進裁判長 二審破棄 高裁差戻
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差戻控訴審
 1987年3月18日 東京高裁 石田穣一裁判長 控訴棄却 死刑判決
上告審
 1990年4月17日 最高裁第三小法廷 安岡満彦裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 永山被告は逮捕時年齢こそ19歳だったが、生まれてからの劣悪な生活環境、幼少時に親に捨てられた過去、学校にほとんど通っていないことなどを考えると、被告の精神年齢は18歳未満の未熟なものであった。故に、18歳未満は死刑を適用しないという少年法の精神に則るべきである、と訴えた。
 東京地裁の簑原裁判長は、「わが国の犯罪史上稀に見る重大な事件。自己の著作の印税を被害者遺族に贈ろうとしたりするなどの改悛の情を示す点も見られるが、犯行の原因を事故ではなく貧困と無知を生みだした社会や国家に転嫁し、また母や兄などを非難するなど自己中心的。また法廷でも弁護人、検察官、裁判官を脅迫したり暴行を加えようとする態度を示し、弁護人を三回にわたって解任している。反省する機会があったにもかかわらず、自己の犯した重大な犯罪を悔悟反省することなく、自己中心的、他罰的、爆発的、非人間的な性格は根深く、改善は至難である。成育歴には同情すべき点はあるが、同じ条件下に育った兄弟たちは普通の市民生活を送っており、また被告は上京後三年以上経っていることから、過大視すべき事項ではない。また知能程度はかなりよく、犯行時は19歳の年長少年である。少年であることは配慮すべき事項であるが、善良な市民の生命を、残虐な方法で次々に奪うのは非人間的な所業であり、しかも改悛の情は認められないため、死刑を選択せざるを得ない」と述べた。

 東京高裁の船田裁判長は、死刑制度は合憲であるとしながらも、「死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所が死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定せざるべきものと考える」との見解を示したうえで、「被告は犯行当時こそ19歳だったが、精神的成熟度では18歳未満の少年と同じであった。劣悪な環境で育った被告には早い機会に国が救助の手をさしのべることは国家社会の義務である。福祉政策の貧困もその原因の一端でありこれに目をつぶって被告に全てを負担させることは片手落ちである。また被告は1980年21月12日に文通で知り合った女性と結婚した。女性は被告とともに贖罪の生涯をおくることを誓約している。また被告は印税を遺族におくって慰籍の気持ちを表している。東京事件、名古屋事件の遺族は受け取りを拒否しているが、函館事件の遺族、京都事件の遺族にそれぞれ約460万円、約250万円をおくっている。そのような事情を合わせると、被告に死刑を維持することは酷に過ぎ、各被害者の冥福を祈らせつつ、その生涯を贖罪に捧げしめるのが相当である」と述べた。

 刑事事件の場合上告は憲法解釈の誤りか判例違反に限られるが、検察側は求刑死刑に対する無期懲役判決に対し、史上初めて上告した。上告趣意書では、責任能力に何の問題もないのに、無期懲役を言い渡した原判決は、死刑制度の存在に目を覆い、その宣告を回避したもので、国民大多数の正義感と相容れないと述べられている。
 最高裁は「死刑制度を存知する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない」と死刑の適用に対する一定の基準を最高裁として初めて示した。そして、「本件犯行が一過性のものであること、被告の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視うることなどの証拠上明らかではない事実を前提として本件に少年法51条の精神を及ぼすべきであるという原判断は首肯し難い。本件犯行の原因は自身ではなく親兄弟、社会、国家等の周囲であると、自己の責任を外的要因に転嫁する態度を維持している被告の態度には問題がある。被告が結婚したことや被害弁償したことを過大に評価することは当を得ない。よって、被告を死刑に処するのが重きに失するとした原判決に十分な理由があるとは認められない。被告を無期懲役に処した原判決は、量刑の前提となる事実の個別的な認定およびその総合的評価を誤り、甚だしく刑の量定を誤ったものであって、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認めざるをえない」と二審無期懲役判決を破棄し、高裁に差戻した。量刑不当として最高裁で原判決を破棄したのは刑事訴訟法施行以来19件であり、それも多くは被告に有利な内容の自判決であった。

 差戻控訴審で石田裁判長は、「被告の生い立ちをはじめとする経緯、被告が少年であること、拘留中に一部の遺族に印税をおくって慰謝したこと、自己と同じ階級に属する仲間を殺害したことを後悔している旨を述べていることなどの事情を含め、被告のために酌むことのできる諸情状を検討しても、本件の罪質、態様、事案の重大性にかんがみると、現行刑罰制度のもとにおいて死刑を選択した量刑は重すぎて不当であるとはいえない」と述べた。

 最高裁は犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響等に照らせば、被告の成育歴、犯行時の年齢等を十分考慮しても、被告の罪責は誠に重大であり、死刑判決を是認せざるをえない」とした。
著 書
 永山則夫『無知の涙』(合同出版,1971):永山の獄中日記
 永山則夫『愛か-無か』(合同出版,1973):永山の獄中日記
 永山則夫『人民を忘れたカナリヤ』(辺境社,1971)
 永山則夫『動揺記I』(辺境社,1971)
 永山則夫『反-寺山修司論』(JCA出版,1974):寺山修司が書いた『永山則夫の犯罪』に対する批判本
 永山則夫『木橋』(立風書房,1984):「木橋」(第19回新日本文学賞受賞作)「土堤」「なぜか、アバシリ」「螺旋」を収録
 永山則夫『ソオ連の旅芸人』(言葉社,1985)
 永山則夫『捨て子ごっこ』(河出書房新社,1987):「捨て子ごっこ」「破流」を収録
 永山則夫『なぜか、海』(河出書房新社,1989):「なぜか、海」「残雪」を収録
 永山則夫『異水』(河出書房新社,1990):長編小説
 永山則夫『永山則夫の獄中読書日記』(朝日新聞社,1990)
 永山則夫『日本』(冒険社,1997)
 永山則夫『華』全4巻(河出書房新社,1987):遺作長編、未完
 永山則夫『文章学ノート』(朝日新聞社,1998)
 永山則夫『死刑確定直前獄中日記』(河出書房新社,1998)
備 考
 1983年7月8日の最高裁第二小法廷で示された死刑の適用に対する基準は、以後「永山基準」として広く適用されることとなる。
執 行
 1997年8月1日執行、48歳没。
 同年5月に起きた「酒鬼薔薇事件」を法務省側が強く意識し、執行順位の早い確定者がいたにも関わらず、犯行当時少年だった永山被告を処刑したという意見が根強い。ただし執行当時、順位の早い確定者の殆どは再審請求中であった。
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氏 名
村竹正博
事件当時年齢
 33歳
犯行日時
 1978年3月21日~22日
罪 状
 強盗殺人、殺人
事件名
 長崎3人殺人事件
事件概要
 陶器販売業村竹正博被告は、詐欺によって損害を被ったことから倒産の危機に瀕したため、友人(当時36)に貸していたお金328万円の返済と融資を求めたが断られたため、裏切られたと考え殺害を決意。1978年3月21日夜、長崎県川棚町の農道に誘い出した友人と同行してきた女性(当時25)の二人をバットで殴り、首を絞めて殺害、現金13万円を奪った。さらに帰宅後、妻(当時34)を殺害して自らも傷つけて4人とも同じ強盗に襲われたように偽装し、約9,000万円の保険金をだまし取ろうと計画。22日、自宅で妻を絞殺した。
一 審
 1983年3月30日 長崎地裁佐世保支部 亀井義朗裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1985年10月18日 福岡高裁 桑原宗朝裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1990年4月27日 最高裁第二小法廷 藤島昭裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 村竹正博被告は起訴事実を認めているが、犯行の経緯について一部争っていた。
 亀井裁判長は、「若い3人をいわれなく殺害した重大な犯行であり、その動機は自己中心的、冷酷、卑劣である。しかし、被告は善良な生活を送っており、前科前歴もなく、犯罪的傾向も窺われない。事件は被告が取込詐欺で甚大な被害を被ったことに端を発しており、被告に同情の余地がないわけでもない。被告には反省悔悟の情が顕著である。また被告の両親は、女性の遺族に100万円を支払い、また友人に対する借金328万円の請求権を放棄している。死一等を減じることにより、生涯被害者らの冥福を祈らせるのが相当」と判断した。

 桑原裁判長は「会社が倒産危機に瀕し、友人が連れなかったとはいえ、親しく交際してきた人物を執拗かつ残酷な方法で計画的に殺害するとともに、連れにすぎなかった女性までためらいがあったとはいえ同じ方法で殺害するとともに、2児の母親で10年以上も連れ添ってきた妻を殺害したのは、通常人の域をはるかに超えた極悪非道な者が短期間内に敢行した、凶悪きわまる事案であるといわなければならない。被告の両親が慰藉の方途を講じ、被告本人が反省しているとはいえ、無期懲役に処した原判決の量刑は軽きに失して不当」と述べ、一審を破棄した。

 最高裁の判決で藤島裁判長は、「計画的で残忍、執拗な犯行。反省していることなどを考慮しても死刑を認めざるを得ない」と述べた。
執 行
 1998年6月25日執行、54歳没。
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氏 名
晴山広元
事件当時年齢
 37歳
犯行日時
 1972年5月6日~1974年5月11日
罪 状
 殺人、死体遺棄、強姦致死、強姦致傷
事件名
 空知2女性殺人事件
事件概要
 重機運転手晴山広元被告は、夫婦仲が悪く性的欲求不満を募らせ、以下の事件を引き起こした。
 1972年5月6日午後8時30分頃、空知管内月形町を自動車で徘徊中、帰宅中だった家事手伝いの女性(当時19)を認めて強姦しようとし、声を掛けたら逃げようとしたので下腹部を強打して馬乗りとなり、頸部を絞める等して失神させ、自動車内に引きずり込んで強姦し、その後窒息死させた。遺体は全裸にして自宅付近に捨てた。
 1972年8月19日午後8時40分頃、空知管内奈井江町を自動車で徘徊中、帰宅中だった砂川市に住むデパート店員の女性(当時19)を見つけ、頸部を強く圧したり、腹部を殴るなどして失神させ、自動車内に引きずり込んで強姦し、その後窒息死させた。さらにその死体を全裸にして樺戸郡の山林内に棄てた。
 1974年5月11日午後7時30分ごろ、奈井江町内の農道で近くに住む主婦(当時40)を襲って首を絞め失神させ強姦し、1か月の重傷を負わせた。
 5月26日、1974年の強姦致傷事件で晴山被告は逮捕された。4日後、1972年の2件を「自白」した。
一 審
 1976年6月24日 札幌地裁岩見沢支部 宗方武裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1979年4月12日 札幌高裁 山本卓裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1990年9月13日 最高裁第一小法廷 角田礼次郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 札幌拘置支所
裁判焦点
 1974年7月3日、初公判。晴山被告は当初、殺意のみ否認し、犯行を認めていた。第4回公判で二つの殺人を否認。1975年7月20日の第11回公判では強姦致傷も否認するも第15回公判で認めるなど、供述は変化した。検察側は被害者の体内から検出された犯人の体液の血液型が一致するなどと主張。弁護側は違法捜査による自白として無罪を主張した。
 1974年の事件で使われ、現場に残されたタイヤ痕とも一致した晴山被告の乗用車には被害者の血痕などが残っていたが、一審公判途中で道警から「消失」した。後に、道警が晴山被告の同意を得ないまま売却していたことが判明した。
 判決で宗方裁判長は、「目撃者や物証はないが、自白や状況証拠から晴山被告の犯行と断定できる」と述べた。そして死体遺棄については無罪とし、殺意はなかったとして殺人罪を適用せず、強姦致死傷のみを認定した。

 弁護側は引き続き無罪を主張。一審で認めていた強姦致傷事件について、晴山被告は沈黙を続けた。
 控訴審で山本裁判長は、「捜査段階などでの自白は捜査官が強要したものではなく自然で、任意性、信憑性も高い。被告が犯行を認めている1974年の事件と手口などその大要が似ており、被害者の衣服などに被告と同血液型の体液が残るなど、被告の犯行であることに合理的疑惑をさしはさむ余地はない」と述べ、被告側の無罪主張を退けた。また「首を絞める行為が人を殺害するための有効な手段であることはだれでも知っている。被告は首を絞めることにより死亡するかも知れないが乱暴のためにはやむを得ないとの考えから首を絞めたもので、この行為は殺人の未必の故意に当たる」と判断し、一審では否定した殺意を認定した。そして検察側の求刑通り死刑を言い渡した。

 1985年7月に最高裁弁論が開かれた。直前に結成された9人の新弁護団が、裁判記録や犯行現場の徹底した再調査を行い、多方面から被告の無罪を主張する弁論要旨、同補充書を提出した。その後判決は出ず、1990年6月21日、結審5年目にして異例の再弁論。弁論の際に在任していた裁判官の構成が変わり再弁論となった。

 弁護側は、警察が逮捕前の任意捜査段階で作成した晴山被告の乗用車の実況検分調査に、手錠姿の同被告の写真が添付されていたことなどを根拠に、「令状なしで逮捕、拘束した違法捜査だ」と指摘した。続いて三事件いずれに関しても自白以外に客観的証拠はないと主張。事実認定の誤りを細かに指摘して無罪を求めた。特に、最初の事件に関しては(1)自白に一貫性がなく任意性が疑わしい(2)自白にある殺害方法と被害者の傷や着衣の傷みなどの客観的事実が矛盾する(3)被害者の体内から二種類の血液型の体液が検出されたことが鑑定書で確認され、犯人は複数と考えられる-とした。また、他の二事件に関しても自白の任意性への疑問や客観的証拠の欠如を主張した。
 これに対し検察側は(1)弁護側が言う逮捕の違法性は、単なる調書の作成ミスによるもので逮捕手続きそのものには問題ない(2)複数犯の主張は鑑定書の解釈を誤ったもの-と反論した。
 判決で角田裁判長は、弁護側の指摘について具体的な検討はせず、「被告は本事件の犯人であり、各犯行について殺意があったと認めた二審判決の認定は正当」とした。そして「刑責は重大であるから、被告に死刑に処した二審判決の科刑はやむを得ない」と述べた。
特記事項
 上告審11年5か月は、刑事事件の上告審としては戦後最長。
その後
 1991年8月、札幌弁護士会が公益事件に指定。日本弁護士連合会も支援した。
 1992年9月24日、札幌高裁へ再審請求。裁判では認めていた強姦致傷事件を含む全ての事件について無罪を訴えた。札幌高裁は裁判所権限によりDNA鑑定実施を決定。殺人事件の被害者二人に付着していた体液をふき取ったガーゼ片十六点を警察庁科学警察研究所と大阪大学医学部法医学教室がDNA鑑定したところ、うち六点から男性のDNAが検出され、いずれも晴山死刑囚の血液のDNA型と一致した。ただ、阪大の鑑定書は「全くの別人が同一の型を持つ確率は二千五百分の一」と報告している。1997年9月に報告書が提出された。2001年2月15日、札幌高裁は請求を棄却。決定理由で門野博裁判長は、《1》晴山死刑囚の自白に不自然・不合理なところはなく、信用性は高い《2》三件の事件は同一犯の犯行とうかがわせる状況が多く、同一犯とみても不当ではない。鑑定内容を検討しても複数犯説は採用できない《3》再審請求棄却の判断は、職権で行ったDNA鑑定結果とも矛盾しない……とし、「弁護人が提出した新証拠は、確定判決が言い渡された際の証拠と合わせて検討しても確定判決の事実認定は正当と認められ、無罪を言い渡すべき明らかな証拠には該当しない」とした。2003年3月31日、札幌高裁は即時抗告を棄却。死刑囚側は最高裁へ特別抗告した。

 1993年4月、晴山死刑囚側は、強姦致傷事件の物証となった車両の返還を求める民事訴訟を起こした。また、押収物還付請求権に基づき「必要がなくなった押収物は特段の事情がない限り返すべき」という請求も同時に行った。この車は晴山死刑囚の逮捕された1974年5月26日に任意提出され、第1回公判(7月3日)前の6月15日に拘置中の同死刑囚に仮還付、7月15日に本人が知らぬ間に仮還付状態のまま何者かが売却、1975年10月20日に登録抹消され、行方が分からなくなった。
 1996年5月31日、札幌地裁は請求を棄却した。判決理由で小林正裁判長は「原告が車を任意提出した当時、まだローンは完済していないため所有権がなく、返還請求権もない」と所有権に基づく返還請求を棄却した理由を示した。押収物還付請求権については「刑事訴訟法に定める準抗告手続きで請求するべきで、民事訴訟で請求はできない」と却下、門前払いした。1997年12月25日、札幌高裁は控訴を棄却した。1998年7月8日までに最高裁第一小法廷は、上告を棄却した。

 2004年6月4日午前7時40分すぎ、収容されていた札幌刑務所(拘置支所)で死亡が確認された。がんによる全身衰弱のため。70歳没。2003年12月に八王子医療刑務所(東京)で進行性胃がんの手術を受け、4月に札幌刑務所に戻ってきていた。
 最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)は6月24日付で、晴山死刑囚の死亡を理由に手続きを終了する決定をした。弁護団が晴山死刑囚の遺族二人と死後再審請求について話し合いを続けたが、遺族の意向は定まらず、請求を断念し、弁護団は解散した。
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氏 名
荒井政男
事件当時年齢
 44歳
犯行日時
 1971年12月21日
罪 状
 殺人
事件名
 三崎事件
事件概要
 鮮魚小売業兼すし店経営荒井政男被告は、不良の仲間へ引きずり込まれた娘を捜していて経営が不振となり、1971年12月21日午後11時頃、三浦市の船舶食糧販売業の男性(当時53)方を訪れ、借金100万円を申し入れたが断られた。さらに侮辱され頬を平手で殴られたため激怒。持っていた刃物で男性を刺し殺した。さらに、犯行の発覚を防ぐため入浴中の男性の妻(当時49)と2階にいた長女(当時17)も同様の方法で殺した。
一 審
 1976年9月25日 横浜地裁横須賀支部 秦不二雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1984年12月18日 東京高裁 小野慶二裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1990年10月16日 最高裁第三小法廷 坂上寿夫裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 自白のみで物的証拠はほとんどない。難を逃れた当時14歳の被害者方長男の証言により逮捕されたが、目撃証言と被告がびっこを引いているという肉体的欠陥は一致しない。唯一の物証は、荒井被告が持っていた大工道具袋に付いていた血痕が、被害者のものという鑑定結果が出たからであった。荒井被告が自分の血液だと否定している。
 一審の初公判以降、荒井被告は無罪を主張した。しかし判決は、長男の目撃証言などを基に荒井被告の犯行と断定した。動機は、荒井被告が借金を申し出たが断られて口論となり、平手で殴られて逆上したと認定。そして犯行が残虐であり、動機において被告に同情の余地がないこと、被告の更生がきわめて困難であると指摘した。

 控訴審でも荒井被告は無罪を主張。改めて現場検証が行われたりした。
 控訴審判決で小野裁判長は「被告の自白をまつまでもなく、犯人であることの証明十分な証拠がそろっている」と、靴跡の鑑定などを基にした弁護側の無罪主張を退け、一審の死刑判決を支持、被告の控訴を棄却した。

 最高裁は「金策の話のもつれから激情のあまり3人を殺害したもので、犯行は残虐であり、遺族に与えた影響も極めて深刻。残虐な犯行で刑事責任は重大。死刑はやむを得ない」として一、二審の死刑を支持し、上告棄却の判決を言い渡した。
備 考
 1951年、窃盗の前科有り。
その後
 荒井死刑囚は無実を主張して1991年1月、横浜地裁横須賀支部に再審請求した。2009年時点でも地裁にて審理中だった。
 荒井死刑囚は高血圧や糖尿病などで2003年頃から治療を続けていた。2009年春から病舎に移っていたが7月中旬頃に悪化。拘置所内で治療を受けていたが、9月3日午前7時55分、敗血症のため死亡した。82歳没。支援団の青木孝弁護士は「娘が受け継ぎ、再審請求を続けたい」と話した。
現 在
 遺族が再審請求を引き継いだ(第二次再審請求)。
 2010年3月16日付で横浜地裁横須賀支部(忠鉢孝史裁判長)は、判決の根拠となった物証の一つで被害者の返り血とされた血痕のDNA型鑑定を決めた。弁護団によると、血痕は元死刑囚の車のトランクにあった道具袋に付着。当時のMN式血液型鑑定などでは被害者の1人と血液型が一致、「犯人の男を見た」という被害者一家の長男の目撃証言などとともに有罪の支えとなった。だが元死刑囚は公判で「以前に指をけがした時に付いた自分の血」と主張していた。支援団は(1)当時の鑑定は正確性に問題がある(2)荒井元死刑囚本人が「自分の血」と言っている(3)3人殺害の返り血を浴びているのに、車内に血痕がない--と疑問点を指摘し2009年9月、裁判所に鑑定を求めていた。
 4月6日、横浜地裁横須賀支部は血痕のDNA型鑑定を依頼した神奈川歯科大の山田良広教授の尋問を行った。弁護団の青木孝弁護士によると、山田教授は「鑑定には2カ月ほどかかる」と話し、鑑定方法などを確認したという。
 7月2日、道具袋に付着していた血痕からは荒井元死刑囚のDNA型は検出されなかったことを弁護団が明らかにした。
 2011年8月23日付で横浜地裁横須賀支部(忠鉢孝史裁判長)は、再審請求を棄却する決定を出した。DNA鑑定の結果をもとに、「確定判決の認定を覆す証拠は認められない」と弁護側主張を退けた。
 8月29日、弁護団は東京高裁に即時抗告した。2013年6月26日、弁護団は、被害者の返り血とされた血痕が別人のものであることを示す鑑定書を東京高裁(井上弘通裁判長)に提出した。弁護団が委嘱した鑑定医は、血痕から確認された3種類のDNA型と、店主と同じ特徴を持つ女性親族のDNA型を比較し、「型は同一ではない」との鑑定結果を出した。2020年10月、東京高裁は請求を棄却。2022年4月、最高裁は弁護側の特別抗告を棄却した。
 2023年1月17日、遺族が横浜地裁横須賀支部に第三次再審請求。弁護側は、第二次請求では2013年に提出した鑑定結果は「証拠評価を受けなかった」として、今回の請求で「新証拠」として再提出した。
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氏 名
武安幸久
事件当時年齢
 47歳
犯行日時
 1980年4月23日
罪 状
 住居侵入、窃盗、強盗殺人、強盗致傷
事件名
 直方強盗女性殺人事件
事件概要
 無職武安幸久被告は金に困って1980年4月23日午前、福岡県直方市の会社役員宅に侵入。現金2,000円を奪ったが、家人の女性(当時64)に騒がれたので、ひもで絞殺した。同年6月25日にも、北九州市内で、盗みを見つけて追いかけてきた男性(当時50)をナイフで突き刺し、約6か月のけがを追わせるとともに、左腕に障害を残した。
 余罪として1979年11月から1980年6月までに窃盗14件がある。
 武安被告は仮釈放後、福岡県の実母方で生活保護を受けて暮らし、出所当初は親類などが捜した土工や警備員の仕事に就くも、疲労の激しい肉体労働を嫌い、持病の頭痛もあって長続きせず、1979年9月に勤めていた印鑑店が倒産した後は、朝から酒を飲んで暮らすようになった。別居して気ままな生活を送ろうとしていたが、金が無いため、犯行に及んだ。
一 審
 1981年7月14日 福岡地裁小倉支部 佐野精孝裁判長 死刑判決
控訴審
 1986年12月2日 福岡高裁 永井登志彦裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1990年12月14日 最高裁第二小法廷 中島敏次郎裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 一審で弁護側は、覚せい剤中毒の後遺症があること、また、ナイフを常に携帯していたのは人に襲われるという妄想によるものとして、責任能力の欠如と犯行の偶発性を主張した。
 判決で裁判長は、1979年11月から1980年6月までの約半年余りで計16回にわたり、預金証書関係を除いても総額約83万円を盗み、そのほとんどを遊興費に使っており、動機に酌むべきものはない。強盗殺人、強盗致傷については、当初より犯行を計画していたものではないが、躊躇なく実行されており、自己保全のために他人の命を奪うことに躊躇が無い被告の性格は冷覚、非常、かつ危険。常に凶器である登山ナイフを携行していたことから、弁護側主張のような偶発的犯行とはいえない。強盗殺人後も窃盗を重ねるなど、被告に同情の余地はない。被告は改悛の情を示しているが、仮釈放中に犯行に至った経緯などを考慮しても、極刑以外は考えられないと述べた。

 控訴審で武安被告側は、飲酒の影響により心神耗弱の状態であったと訴えた。
 裁判長は、被告の主張を退けるとともに、動機に何ら同情の余地がないこと、被害者や遺族が極刑を望んでいること、童謡の強盗殺人事件を起こして仮出獄中の犯行であることを指摘し、一審判決はやむを得ないと指摘した。

 最高裁の上告理由で武安被告は「捜査段階で拷問を受けた」などと無罪を主張したが、最高裁は「記録を調査しても、拷問などの事実は認められない」として退けた。
特記事項
 武安被告は1956年、少年2人と共謀して福岡県内で質屋に押し入って経営者を刺し殺す。強盗殺人で起訴され、一審で福岡地裁飯塚支部は懲役15年を言い渡すも、1957年10月、福岡高裁で無期懲役判決が言い渡され、そのまま確定。1978年11月22日に熊本刑務所から仮釈放になって1年半後の犯行。
 最高裁の口頭弁論では国選弁護人、検察とも一切の弁論なし。最高裁判決の閉廷後、判決文で犯行間隔を1年間違えた誤りを知った最高検が夕方、判決訂正の申し立てを行い、同小法廷も誤りを認めた。最高裁第二小法廷は12月17日、中島裁判長は申し立てを認め、訂正の判決をした。「判決の理由中、『約一年二か月後』とある部分を『約二か月後』と訂正する」と、異例の主文を朗読した。刑事事件判決の「うっかりミス」を正す手続きともいえる「判決の訂正」をしたのは、1964年以来26年ぶりで、死刑事件では初めて。
執 行
 1998年6月25日執行、66歳没。
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