佐木隆三『殺人百科(2) 陰の隣人としての犯罪者たち』(文春文庫)
発行:1987.7.10
栃木県塩原温泉のホテル日本閣の経営者夫婦が殺されて乗っ取られた事件の犯人は52歳の女性。彼女は以前に夫を毒殺したとあって、〈戦後最大の悪女〉〈昭和の高橋お伝〉のレッテルを貼られ、戦後初の死刑台に昇った女性となった。犯罪小説の第一人者が稀代の猟奇事件、凶悪事件を題材に、犯罪とは何かを追求したクライム・ノベル。(粗筋紹介より引用)
1980年2月、徳間書店より単行本刊行。1987年7月、文藝春秋にて文庫化。
【目 次】
第一話 黒い満月の前夜に……
第二話 哀れ女獅子の子守唄
第三話 魔の淵を漂った姉妹
第四話 人我を怪物と呼ぶ
第五話 雪の渓谷に架けた夢
第六話 冷血姉弟の燃えた朝
第七話 ソドムの市の演出者
第八話 銃声妖しき元麻布
『殺人百科』『事件百景』に続くシリーズ本。1話あたりのページ数が増えていることが特徴か。
1960年代から1970年代の事件を取り扱っており、『殺人百科』に比べると年代が遡っている。その分、現地取材等が減っているのは残念。やっぱり裁判傍聴などで忙しかったのかも。ホテル日本閣などの有名な事件からちょっとマイナーな事件まで取り扱ってくれているのは嬉しい。できればもうちょっと新しい年代の物を読みたかった。
事件概要は以下。
○第一話 黒い満月の前夜に……
〈近親相姦実父殺人事件〉
1968年10月5日、栃木県矢板市に住むM(29)は、自宅で植木職人の実父Y(53)を絞殺した。Mは中学2年の時にYに強姦され、それから10年以上も性の捌け口の対象にされた。家には弟、妹の他に実母もいたが、実母が口を出すとYが暴れだす始末。Mが親戚の家に逃げ出したときも、強引に追いかけて連れ戻す。とうとう二人で住むようになり、Mは5人の子供を産んだ(うち2人は嬰児死亡)。他に5人を中絶し、とうとう不妊手術を受けることとなった。ところが29歳になったとき、アルバイト先で知り合った年下の男性と相思相愛の仲になった。MはそれをYに打ち明けたが、Yは怒り狂い、連日連夜脅迫し、殴る蹴るの暴力を加えた。そして10日目、とうとう耐えきれなくなったMは、泥酔しているYを絞め殺した。このとき、Yはこう叫んだという。「おまえに殺されるのなら本望だ」と。
尊属殺人罪で起訴されたが、尊属殺人罪が憲法違反ではないかとの議論になった。宇都宮地裁は尊属殺を重罰とするのは刑法に違反すると普通の殺人罪を適用し、被告の行為は正当防衛の行き過ぎの過剰防衛に当たると刑の免除を言い渡した。検察側が控訴し、東京高裁は尊属殺を合憲と判断。ただし犯行当時は心神耗弱であると認め、懲役3年6月の実刑判決を言い渡した。1973年4月4日、最高裁大法廷は他の2件と併せて尊属殺が憲法第十四条「法の下の平等」に違反するとし、二審判決を破棄。殺人罪を適用し、懲役2年6月執行猶予3年を言い渡した。
〈奈良県養父殺し〉
女性は幼いころに母と別れて親類に引き取られ養女となったが、養父は酒癖が悪くて悩まされていた。成人して結婚後、夫が浮気するなど苦しんでいる時期、酒乱で勤め先を首になった養父が雇い主に仕返しに行くと言い出したため、1966年8月、女性(26)は養父に睡眠薬入りの氷水を飲ませ、眠ったところを絞殺した。女性は尊属殺人罪で起訴され、奈良地裁は心神耗弱を認めて一審懲役5年の実刑判決。大阪高裁は懲役3年6月に減刑。1973年4月4日、最高裁大法廷は他の2件と併せて尊属殺が憲法第十四条「法の下の平等」に違反するとし、二審判決を破棄。殺人罪を適用し、懲役2年6月を言い渡した。
〈秋田県の姑殺し未遂事件〉
女性は嫁いで以来姑から嫌味を言われ続け、たびたび実家へ帰っていた。1966年8月、祭りに行くから弁当を作れと言われた嫁(25)は、握り飯の裏にネコイラズを塗った。姑は一口食べたところで異臭に気付き、警察に届けた。嫁は尊属殺人未遂で起訴されたが、殺意はなかったと主張。秋田地裁は一審無罪判決を言い渡したが、仙台高裁は未必の故意があったとして懲役3年6月の実刑判決を言い渡した。1973年4月4日、最高裁大法廷は他の2件と併せて尊属殺が憲法第十四条「法の下の平等」に違反するとし、二審判決を破棄。殺人未遂罪を適用し、懲役2年執行猶予3年を言い渡した。
○第二話 哀れ女獅子の子守唄
〈横浜・夫婦による娘殺害並びに誘拐事件〉
1969年9月27日昼、横浜市磯子区で兄弟と遊んでいた女児(2)が中年女に抱きかかえられ、車で連れ去られた。兄弟の話を聞いた母親が警察に通報。兄弟は連れ去った中年女を「ライオンおばちゃん」と証言。身代金等の電話がなかったことから単純誘拐と判断した捜査本部は10月7日に公開捜査。13日、捜査本部は横浜市中区の長屋に住む生活保護受給の女性(46)とその夫(33)を逮捕。その後の捜査で、前年8月15日に先天性股関節脱臼の障害を持つ娘(1)を夫が殺害して床下に埋めたことを自供。誘拐された女児は娘の代わりだった。ところがその娘は実子ではなく産婦人科の医師から斡旋された赤ん坊だった。しかも6年前の1963年8月、結婚直前だった女は簡易宿泊所で出産したが育てる当てのない女から男の子の赤ん坊を譲り受けたが、すぐに世話を面倒臭がったので、8月8日に夫が赤ん坊をカトリック教会に預けたまま行方をくらましていた。
逮捕された女は劣悪な環境に育ったため無学で知能程度が低く、姉に遊郭に売られて女郎生活を送ったためか、妊娠しても流産し続けた。今の夫と結婚してからも6回流産していた。
夫婦は殺人、死体遺棄、未成年者略取の共同正犯として起訴された。1970年5月22日、横浜地裁は2人に懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。検察側は刑が軽すぎると控訴、妻も刑が重すぎると控訴した。1971年1月26日、東京高裁で検察・被告側控訴が棄却され、刑は確定した。
○第三話 魔の淵を漂った姉妹
〈四条畷・ハーレム殺人事件〉
1969年1月、天理教の分教会長を務める女(59 年齢は事件当時、以下同)と三男(28)が姫路市で小さなスーパーを開店。共同出資者の男(「夫」)は数年前から分教会長と関係を持っていたが、1968年6月に脅迫と銃刀法違反容疑で徳島県警に逮捕されており、分教会長が保釈金を支払っていた。分教会長が19歳も年下の男と関係しているという噂が広まるのを恐れ、モーテルで働いている「妻」との見合いを思いつき、「夫」と「妻」の二人は内縁の夫婦となった。スーパーは分教会長、三男、三男の妻(「姉」)、「夫」、「妻」が働いており、7月には分教会長の死んだ夫の弟の長女である高校二年生の娘(「妹」)がアルバイトに来た。しかし経営は思わしくなく借金だらけとなり、8月に三男が失踪。8月17日、男1人女4人がライトバンで夜逃げした。8月31日、分教会長を除く4人が八尾市を訪れ、女3人が紙管工場に勤めるも9月6日には工場を辞めて出て行っていた。同日、大阪市北河内郡四条畷町の金網製作所に4人の家族がそろって工員として採用され、文化住宅に住むようになった。しかし「妻」(48)はすぐに欠勤、「夫」(40)も糖尿病を理由に2週間後には欠勤するようになり、「姉」(22)「妹」(17)が誘った会社の同僚たちなどと麻雀ばかりしていた。
1970年1月6日、「夫」「姉」「妹」が文化住宅から行方をくらました。1月8日、文化住宅の床下から、セメント詰めの女の死体が発見された。1月10日、三人が泊まった北海道江別市の旅館の経営者夫婦が指名手配の写真と一致していることを確認して通報し、3人は死体遺棄容疑で逮捕された。
その後の供述で、1969年8月の逃亡後、「夫」は分教会長にゴムバンドで殴り続けるという処罰を繰り返し、衰弱させた。8月27日、「妻」と「姉」が琵琶湖で衰弱した分教会長を岸辺の水に顔を付けて殺害。2人で衣服をはぎ、全裸にして石を載せ、水面下に沈めた。遺体は11月1日に白骨死体となって発見されていたが、死亡推定日時が4,5月ごろと判断されていたため、捜査本部は重視していなかった。ライトバンでは4人が「夫」と一緒に寝ていたが、文化住宅では「姉」と「妹」が「夫」と寝るようになり、「妻」がはじき出されるようになった。そのことを不満に思った「妻」は琵琶湖の一件を持ち出して通報すると脅すようになった。ただでさえ働いている間、「妻」が「夫」と寝ているのではないかと不安になった「姉」と「妹」は「夫」にそそのかされ、11月20日頃から「妻」に食事を与えず昼は浴槽に押し込め、夜は「処罰」を繰り返すようになり、12月1日に「妻」は衰弱死した。床下に埋めたが腐臭が漂うになり、2週間後には再び「姉」と「妹」が穴を深く掘って遺体を移し替えようとしたが重くて失敗。「姉」がセメントを買って砂と混ぜ、死体の穴の上に流し込んでいた。正月、「夫」が再び匂い出すと言いだし「妹」が同調。カッとなった「姉」は家を飛び出すも夜には戻った。ところが4日、「夫」は「姉」に命じて畳を持ち上げ、かつて掘った穴に「姉」を入らせると、「妹」に紐で縛らせ、さらにスコップで泥を掛けさせた。「夫」は正月に男と寝ただろうと批判、「姉」は必死に潔白を主張すると、「夫」はスコップを手にとって数回殴った。
「夫」は横領や猥褻図画陳列などで前科四犯。1966年1月に徳島市で学習塾を開いた。そして複数の女性の助手と雑魚寝をしていた。「夫」には助手に暴力をふるう癖があり、助手が出てこなくなると肉親を呼んで脅した。また、塾の生徒の母親を呼び出しては強姦し、生徒の父兄から教材費を集めては遊興費に流用していた。父兄から返還を求められたこともあり、助手の1人と姫路市へ逃亡したところを逮捕されていた。保釈中に逃亡して公判に出廷しなかったことから、保釈が取り消されていていた。
後日、三男は室戸市からマグロ船にコック長として乗り込んでおり、事件当時はインド洋にて操業中であることが確認された。
1970年6月2日の大阪地裁の初公判で、「姉」と「妹」の弁護側は「夫」の影響を恐れて分離公判を提案。それは認められた。1974年1月29日、大阪地裁は「姉」に懲役5年(求刑懲役12年)、逆送された「妹」に懲役4年(求刑懲役6年)を言い渡した。殺意を否認した被告側と、刑が軽すぎると検察側の双方が控訴。1976年8月6日、大阪高裁は双方の控訴を棄却し、刑が確定した。「夫」は糖尿病が悪化して出廷がままならなくなった。弾に開かれる公判では殺意を否認し、女たちが勝手にやったことだと主張。その後病状が悪化し、1977年6月8日に死亡。12日に公訴棄却が決定した。
○第四話 人我を怪物と呼ぶ
〈実兄一家皆殺し事件〉
埼玉県戸田市の無職H(34)は、小学生の頃から下着の盗み癖があった。それに覗きも常習で、両親や兄夫婦、あらには近所の家の寝室や風呂、便所などを覗きまくっていた。5月、Hは三度目の窃盗の刑期を終え、青森刑務所を満期出所した。その後は東京・蒲田の簡易宿泊所に泊まりながら日雇労働をしていた。人の言うことには素直に従う性格だが、当時の刑務所職員に言わせると「こういう大人しい奴がいちばん、なにをしでかすかわからない」タイプと言われた。
1970年8月8日、浅草で時間をつぶしたあと、実家の方に向かったが、ストリップでムラムラしていたせいか、あちこちの家を覗いていた。そして23時30分頃、実家の近くにある兄夫婦の家に来た。裏へまわると鍵がかかっていないので入って覗くと、6畳間で実兄(40)、兄嫁(37)、次男(8)が川の字になって寝ていた。以前から兄嫁とやりたいと思っていたHは実家に戻ってマキ割りを取り、再び兄夫婦の家に戻った。そしてTさんの頭を叩き割り、続いてHさん、次男を殺害した。さらに物音で目が覚めた長男(12)も殺害した。その後、虫の息のTさんにのしかかり、性行為を延々と繰り返した。
凶器が実家の物と判明し、弟3人のうち唯一アリバイのなかったHが容疑者としてあがる。26日、宿泊所でHは逮捕されてあっさりと自供。「肉を食べられなかったのが残念だ」と供述した。精神鑑定した医師から「精神病質と性欲倒錯を有し、精神障害はないものの、彼は善悪の区別のない怪物である」と言われた彼は、1972年7月17日、浦和地裁で求刑通り一審死刑判決。何事にも素直に従う性格の彼は控訴せず、そのまま死刑が確定した。1976年4月27日、死刑執行。39歳没。
○第五話 雪の渓谷に架けた夢
〈ホテル日本閣殺人事件〉
K(52)は栃木県塩原温泉で土産物店、食堂店を開いていた。土産を仕入れるときは代金の代わりに身体で払い、店自体も色仕掛け、肉体仕掛けで稼いだ。しかし、Kの野望は旅館経営であった。物色しているうちに、温泉街の外れにあるホテル日本閣に目を付ける。そこは経営者の才覚のなさか、場所が悪いのか、温泉を引き湯する権利がないからか、客数は今ひとつであった。Kはホテルの乗っ取りを計画、経営者Uさん(53)の愛人になり、さらに色仕掛けで仲間に引き込んだ従業員のO(37)と共謀し、Uさんの妻(49)を1960年2月6日に殺害。そのままホテルに乗り込み采配を始めた、今まで貯めた金をホテルの再建につぎ込んだが、二重三重に抵当に入っていることがわかり激怒。さらにUさんが全然仕事をせず、Kを追い出そうとしたため、12月31日にOとともにUさんを殺害した。その後もホテルを経営していたが、1961年2月19日に逮捕。自供中に、9年前に当時同棲していたN巡査(役職は当時 34)と共謀して夫(当時49)を青酸カリで毒殺したことも自白した。
1963年3月18日、宇都宮地裁はKに求刑通り死刑、Oに無期懲役(求刑死刑)を言い渡した。N元巡査には夫殺害について無罪を言い渡し、銃刀法違反で懲役1年を言い渡した。1965年9月15ン道、東京高裁はKの被告側控訴を棄却(破棄自判)、Oの一審判決を破棄し求刑通り死刑判決、Nの一審判決を破棄し夫殺害を有罪として懲役10年を言い渡した。1966年7月14日、最高裁は上告を棄却し3人の刑が確定した。
1970年6月11日、K、Oは揃って死刑執行。K、61歳没。O、46歳没。Kは戦後3番目の女性死刑確定囚、戦後に執行された第1号の女性死刑囚である。
○第六話 冷血姉弟の燃えた朝
〈保険金目当実母殺人事件〉
愛媛県伊予郡に住む金融業のT(40)は保険金騙取の目的で姉(41)と共謀し、1971年1月12日、交通事故を装って実母を殺害し、保険金(Tに約4000万円、姉に約350万円、兄60万円)を騙取した。
Tは金融業のかたわら1969年初めごろから無免許で不動産仲介業を営んでいたが、11月に客から土地購入代金として預かった1600万円のうち1200万円を使い込んでいた。客が警察へ訴え、横領罪で1970年4月30日に逮捕された。この前月、実母への大量の保険契約が掛けられている。Tは第3回公判で、自分名義の土地と建物を処分するまで待ってほしいと次の公判を伸ばしてもらうように訴え、検察官や裁判所も了承。事故後の1971年1月21日の公判で返済の意向を示し、2月24日に弁護人が保険金請求を代行。1971年4月25日に松山地裁で懲役1年6月執行猶予5年の有罪判決を受けた。
Tは1971年11月から松山市でクラブを始めるも経営は思わしくなかった。Tは一度妻と結婚したが離婚し、別の女と結婚するも詐欺事件の間に離婚し、最初の妻と再々婚していた。激しやすい性格のTは妻とよく喧嘩し、1972年5月21日に妻は松山東署へ駈け込んで傷害容疑で訴え、松山東署は告訴を受理するも、後に妻は告訴を取り下げた。その後、Tは事件の発覚を恐れて口封じのために鍛冶屋の兄と共謀して6月30日夜に妻(34)を殺害し、7月2日にその死体を実兄の鍛冶場に埋めた。
妻の実家から捜索願が出され、同時に保険金殺害を疑っていた愛媛県警捜査一課と松山東署は慎重な捜査を続けた。
1974年11月25日、愛媛県警捜査一課と松山東署は、母親の頭を殴った傷害致死容疑でTと姉を逮捕。27日、鍛冶場から白骨死体を発見し、兄が自供。兄は緊急逮捕された。12月21日、姉が全面自供した。Tは妻殺害は認めたものの、母殺害については否認した。
1976年2月18日、松山地裁はTに求刑通り死刑判決+無期懲役判決(間に詐欺事件で有罪判決を受けているため、実母殺害と妻殺害で別々の判決を受けた)、姉に求刑通り懲役15年、兄に求刑通り懲役15年判決を言い渡した。兄は控訴せず確定。姉は控訴するも取り下げて確定。1979年12月18日、高松高裁で被告側控訴棄却。1981年6月26日、最高裁で被告側上告棄却、確定。1993年3月26日、執行。62歳没。
○第七話 ソドムの市の演出者
〈三菱銀行猟銃強盗殺人事件〉
1979年1月26日午後2時30分頃、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に一人の男が入ってきた。ゴルフバックから猟銃を取り出して構え、5000万円を要求。犯人の梅川昭美(30)は、カウンター内で警察に電話通報しようとした行員男性(20)を射殺。さらにカウンター内でしゃがみ込んでいた行員男性(26)にも散弾を発砲。約8ヶ月の重傷を負わせた。同時に散弾の一部が女性行員の腕に当たり、20日間の軽傷を負わせている。梅川は支店課長代理から現金283万3000円をリュック作に詰め込めさせ、さらにカウンター上の現金12万円を強奪。さらに現金を要求中、銀行から逃げ出した客から銀行強盗のことを聞いた警邏中の警官が銀行に駆けつけてきた。警官は威嚇射撃をすると、梅川は容赦なく猟銃で警部補(52)を射殺。さらにパトカーで駆けつけてきた二人の警官にも発砲。巡査(29)は死亡、警部補(37)は防弾チョッキで命拾いをし、逃げ出した。
その後も続々とパトカーが到着。梅川は支店長ら行員31人と客9人を人質として立て籠もった。立て籠もり中、すぐに金を払わなかったと支店長(47)を射殺している。支店の建物は武装警官隊や報道陣によって包囲され、推移はテレビで現場中継された。大金庫の前に陣取った梅川は、行員たちを出入口などに並ばせ、人間バリケードを築いて狙撃を警戒。さらに「ソドムの市を味あわせてやる」と女子行員20名中19名を全裸にして扇形に並べ、警察側の動きがある度に自分は要の位置に移動し、楯代わりに使った。途中、態度が悪いと難癖を付けて男性行員(47)に発砲し、全治6ヶ月の重傷を追わせている。また威嚇射撃中、散弾の一部が男性行員(54)及び男性客(57)に軽傷を負わせた。さらに重傷で呻いている男性行員がうるさいと、そばに立っていた行員にナイフを渡し、耳を切り取れと命令。さらに別の行員には501万円を用意させ、自分の借金を払いに行かせた。
27日、食事などの差し入れと交換に、4名の死者、重傷者、客を次々と解放。警察は徹夜で電話交渉を続けた。
28日午前8時。説得は不可能、人質の体力が限界に来ていると判断した大阪府警は、7名の狙撃班に突入命令を出した。7名は死角の位置から拳銃を発射、3発が梅川に命中した。人質は無事に解放されたが、梅川は運ばれた病院で死亡した。
梅川は強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、建造物侵入、公務執行妨害、傷害、逮捕監禁、威力業務妨害、窃盗、銃刀法違反、火薬取締法違反の容疑で大阪地方検察庁に送られた。大阪地検は窃盗と傷害を除く9つの罪を認定。1979年5月4日、犯人の梅川昭美に対して大阪地検は被疑者死亡による不起訴処分を決定。同時に梅川を射殺した大阪府警機動隊員7人を職務上の正当行為を理由に不起訴処分とした。
○第八話 銃声妖しき元麻布
〈京都内縁妻屍蝋事件〉
1973年12月21日午前4時50分ごろ、元子爵令嬢で赤坂の高級麻雀荘店主の女性(46)は元麻布の自宅マンションで、商社員の男性(34)を保有する猟銃で射殺。その後、睡眠剤プロパリン70錠を飲んでガス自殺を図ったが、事件当時現場にいた元愛人で被害者の後輩男性(29)が通報し、一命を取り留めた。1973年4月、1年半前に見合いをした参議院議員秘書の女性と交際を申し込まれ、さらに縁談まで持ちかけられたため後輩男性が愛人の女性に相談。女性が顔の広さを利用して調査したところ、「かつて男がいた」などと否定的見解を言われた。5月ごろ、後輩男性の会社の係長が別れ話を持ちかけ、女性は激怒。散弾銃を組み立て係長に向けようとしたところを、同席していた女性の兄や店の支配人などが止めるなどの騒動があった。その後、徐々に離れるようになり、秋以降は体の関係が無くなっていたが、付き合いは続いていた。事件当日は酒によって後輩男性が止めるのを聞かずに女性のマンションに押しかけ、嘘の縁談で二人を別れさせようとしたため、女性が激怒したものだった。
裁判で女性の弁護士は、暴発によるものであり無罪を主張。しかし1974年6月24日、東京地裁は殺人を認め、懲役8年(求刑懲役10年)を言い渡した。控訴して1週間後、女性は保釈が認められた。殺人容疑で長期の実刑判決が言い渡されたばかりの被告が保釈を認められたのは異例。1975年9月1日、東京高裁は控訴棄却。1976年11月18日、最高裁第一小法廷は判決を破棄し、懲役5年を言い渡した。最高裁が有期判決を破棄して減軽を言い渡したケースは異例。被害者の心無い常軌を逸した挑発が本件を誘発する主要因になったというのが、減軽の理由だった。1977年1月、女性は栃木刑務所に送られた。
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