澤地和夫『殺意の時』(彩流社)


発行:1987.11.10



 澤地和夫は1958年9月〜1980年1月末までの約22年間、警察官として警視庁に勤務し、退職時の階級は警部であった。警察官としては順調であったが、27歳で土地や家をローンで購入するなど、背伸びしすぎたり見栄っ張りであったところもあった。
 警視庁退職後の1980年4月、妻や親戚の反対を押し切り、新宿駅西口近くに大衆割烹の店を開く。自己資金はなく、4000万円の開店資金は国民金融金庫の融資や信用金庫からの融資、信販会社からの借金など、すべて借金で賄っている。いずれの借金も、元同僚の警察官が保証人になってくれたものであった。
 最初の1年は、かつての同僚によるご祝儀などもあって順調だったが、金銭的にルーズだった澤地はろくに蓄えなかったため、1年後には赤字がどんどん累積していき、借金が増えていった。そしてサラ金に手を出してしまい、1983年7月に店を閉めたときには、1億5000万円の負債を抱える結果となった。破産宣告を受け入れればよかったのだが、金融機関の保証人である警察官や、多額の金を融通してくれた友人のことを思うと、宣告を受け入れることができなかった。
 その後、ヤクザのトンネル会社社長などを経て1983年末に津田沼でリサーチ会社を開く。しかし、売り上げはほとんどなかった。サラ金や金融会社からの借金返済要請はますます厳しくなり、多額の金を融通してくれた友人たちも困り果てて澤地に何とかしてほしいという嘆願の電話が相次ぎ、たとえ警察の手に掛かったとしても借金を返済したいとの重いが膨らんでゆく。そして元金融業者の藤沢大介こと朴龍珠、宝石ブローカーの猪熊武夫と知り合う。
 1984年10月11日、宝石取引を装って東京の宝石商(当時36)を山中湖畔の別荘に誘い出して絞殺。現金約720万円と株券など計約5400万円相当を奪った上、死体を別荘の床下に埋めた。
 朴はそのまま韓国に逃亡。
 さらに澤地と猪熊は共謀して10月25日、埼玉県上尾市の金融業者(当時61)を融資話を装って呼び出し、同別荘前路上の乗用車内で絞殺。現金2000万円と貴金属計約2800万円相当を奪い、死体を同じ場所に埋めた。
 11月23日早朝、澤地は津田沼の事務所で逮捕された。10数人いた刑事たちのなかには、知人が2人いた。

 山中湖連続殺人事件と呼ばれている2件の強盗殺人は、元警察官である澤地和夫と元宝石ブローカーの猪熊武夫が犯した事件である。1軒の強盗殺人では、もと金融業者の朴龍珠も共犯である。
 澤地、猪熊は死刑判決が確定。朴は無期懲役判決が確定している。
 この作品は、事件の主犯である澤地和夫が、「事件の事実関係を明らかにしながら、今は亡き被害者のご冥福を祈るとともに、「何が私を狂わせたのか」を、被告人である私が自分の目で、自分を見つめようと思いたって書いた」(「はじめに」より引用)手記である。発行年月日は1987年11月10日。一審判決は1987年10月30日に言い渡されているし、あとがきは10月3日の日付となっているので、この手記を書いているときはまだ一審判決が出ていなかったことになる。
 事件に複雑なところはない。脱サラに失敗して多額の借金を抱えた男性が犯罪に手を染めるようになり、そして借金返済のために強盗殺人を2件犯したというだけだ。ただ、その犯人が警部までなった元警察官であったから、この事件は大きく騒がれたといえる。
 本書を読んで感じることは、人間ってやり直しがなかなかきかないんだなということである。周りの意見を聞いていれば、いくらでも悲劇を回避することができた。しかし、周りが何も見えなくなると、全てが空回りし、やることなすこと全てがうまくいかなくなる。ちょっとでも立ち止まることが出来れば。しかし堕ちるときは、とことんまで堕ちてしまうのである。過ぎてしまえば、全てが後悔の嵐だ。
 一応被害者へのご冥福を祈ると書いているが、結局本書で語りたいことはただの愚痴である。なぜ自分はこんな境遇にあるのだろう。かつては成功者だったのに。そんな後悔ばかりが、本書の中で溢れるばかりである。
 残念ながら、同情できることは全くない。全ては自業自得なのである。

 本書より4ヶ月前、宍倉正広が『手錠 ある警察官の犯罪』(講談社)を出版している。両者を読み比べてみるのも面白いだろう。己が書いたにしてはとくに自己弁護せず、自らの犯罪を語っている。ただ、やはり本書ではどうしても「後悔」という言葉が浮かんでくるのだ。


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