死刑確定囚(1996~1999年)



※1996~1999年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
池本登
事件当時年齢
 52歳
犯行日時
 1985年6月3日
罪 状
 殺人、殺人未遂
事件名
 猟銃近隣3人殺人事件
事件概要
 徳島県海部郡の竹材業池本登被告は、1985年6月3日、日頃からトラブルのあった隣人で親類の男性(当時46)とその妻(当時54)が、池本被告の自宅裏山にあるユズ畑に勝手にごみを捨てたと思い込み、問いただしたが怒鳴り返されたことに立腹。自宅から狩猟用散弾銃を持ち出して男性方に押し入り、男性の胸などに4発、妻の頭などに2発を発射、いずれも即死させた。さらに以前から恨みを持っていた近所の男性(当時71)が近くの路上で通りかかったのを見付け射殺、その流れ弾で、近くで農作業をしていた主婦に1週間の怪我を負わせた。
一 審
 1988年3月22日 徳島地裁 山田真也裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1989年11月28日 高松高裁 村田晃裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1996年3月4日 最高裁第二小法廷 河合伸一裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
裁判焦点
 弁護側は一貫して、池本被告が犯行時心神耗弱の状態だったなどと主張した。
 一審判決は、被告の刑事責任の重大さを指摘しながらも「犯行は一回限りの感情の爆発であり、刑を減じる余地がある」として、検察側の死刑の求刑に対して無期懲役を言い渡した。

 二審判決は、「被告は過去にも粗暴な行動を繰り返している。年齢的な面からみても更生は困難。一審判決は軽すぎて不当。犯情は極めて悪質で、諸般の情状を検討しても極刑をもって臨むほかない」として、一審判決を破棄し死刑を言い渡した。

 最高裁の判決で、河合裁判長は「犯行の動機や結果に照らすと被告人の罪責は重大で、死刑はやむを得ない」と述べた。
拘置先
 大阪拘置所
その後
 2002年7月26日恩赦出願、2004年棄却。その後再審請求。2007年に棄却か。
執 行
 2007年12月7日執行、74歳没。氏名、年齢、犯罪事実を法務省が公表した初めてのケース。
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氏 名
山野静二郎
事件当時年齢
 43歳
犯行日時
 1982年3月21日~25日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄
事件名
 不動産会社連続殺人事件
事件概要
 大阪府箕面市の不動産会社社長山野静二郎被告は資金繰りに困り、豊中市の不動産会社社長(当時39)を殺害して金を奪おうと計画。1982年3月21日午後0時20分頃、架空の不動産取引をもちかけて豊中市内の自分の会社事務所に誘い出し、後頭部を金属バットで殴りつけた。気を失ったところを麻ひもで首を絞めて窒息死させたうえ、手付金として持ってきた額面3,000万円の小切手1通を奪った。さらに遺体を車のトランクに入れて豊能郡豊能町川尻の山林に運び、穴を掘って埋めた。
 山野被告は小切手を同じ不動産会社の取締役(当時56)に頼んで現金化したうえ、さらに金を奪おうと、取締役を同月25日午前10時20分ごろ、滋賀県・志賀町の分譲用別荘におびき出し、金属バットで数回殴って殺し、手付金として持ってきた2,100万円を奪い、遺体を別荘地内に埋めた。
一 審
 1985年7月22日 大阪地裁 池田良兼裁判長 死刑判決
控訴審
 1989年10月11日 大阪高裁 西村清治裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1996年10月25日 最高裁第二小法廷 福田博裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 山野被告は捜査段階で犯行を自供したが、公判では殺意他を否認。
 不動産会社社長を殺害したのは口論の上殴りかかってきたのを反撃したためであり、計画殺人ではなく、ましてや殺意はなかった。役員殺害も、相手が金属バットで殴りかかってきたので格闘になり、払い落とそうとしたバットが相手の頭に当たって死亡したもので、正当防衛であると主張した。
 一審判決で池田裁判長は判決理由の中で「捜査段階の自供はおおむね信用でき、公判での供述は不自然」と述べ、被告側主張を否定。「犯行は計画的で極めて残忍、悪質」と求刑通り死刑を言い渡した。

 山野被告側は控訴審でも計画的犯行ではないと主張したが、判決で西村裁判長は、「死刑には慎重の上にも慎重でなければならないが、本件の場合、犯行は重大で死刑の選択はやむを得ない」と述べた。

 最高裁でも山野被告側は計画的犯行ではないと量刑不当を訴えた。
 判決で福田裁判長は、「計画的犯行で残虐。責任は重く死刑を是認せざるを得ない」と判断した。
その他
 山野被告は最高裁に無罪を訴える上告趣意書を書く際の参考資料にしようと、1990年5月に死刑制度に関する図書3冊を買い、大坂拘置所長に閲読の許可を求めた。死刑執行などの記述や絞首台の写真の削除が許可の条件とされたが、応じなかったため閲読が認められなかった。山野被告は図書の閲読を許可しなかったのは違法だとして、同所長と国を相手取り、不許可処分の取り消しと105万円の国家賠償を求めた。
 1992年1月24日、大阪地裁(松尾政行裁判長)は所長の判断は合理的な根拠がなく、処分は裁量権を逸脱して違法だ」として、処分を取り消し、国に35万円の支払いを命じた。
 松尾裁判長は「拘置中の被告にも閲読の自由が保障されており、所内の秩序維持に大きな障害が起きる可能性が高い場合に限って制限できる」とした最高裁の判例を踏まえ、「刑事被告人の防御権を損なうような制限はたやすく認められるべきでない」との判断を示した。
 1992年6月30日、大阪高裁(後藤文彦裁判長)は、「死刑執行の記述などを読めば、不安定な精神状態に陥り、規律違反行為に出る恐れがあった」として、山野被告の訴えを認めた一審・大阪地裁判決を取り消し、請求を棄却した。控訴審判決で、後藤裁判長は「山野被告は一審で死刑の求刑を受けたころに幻聴などの症状が現れたことがあった。本の閲覧によって自傷行為などの規律違反行為に出る恐れがないとはいえない」などと指摘、不許可処分は適法とした。
現 在
 事実の一部を否認し、再審請求中。2004年3月26日、第一次再審請求の特別抗告が棄却。3月31日、恩赦出願を提出。2004年に第二次再審請求。2010年11月、第三次再審請求。
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氏 名
朝倉幸治郎
事件当時年齢
 48歳
犯行日時
 1983年6月28日
罪 状
 殺人、死体損壊
事件名
 練馬一家5人殺害事件
事件概要
 東京都杉並区の不動産業朝倉幸治郎被告は、練馬区の会社員(当時45)が住んでいた木造二階建て住宅と土地624平方メートルは住宅、敷地を1億280万円で取得した。住宅と土地は会社員の義父が持っていたものだったが、経営する会社が行き詰まったため、競売にかけられたものだった。
 朝倉被告は6月末を期限に、別の不動産業者に1億2,950万円で転売する契結を結び、会社員に再三、立ち退きを求めたが、会社員は拒否。一度は民事裁判に訴えたが、会社員が転居を認めたため、訴えを取下げた。しかし家人は態度を変え、再び転居を拒否、住宅に居座った。会社員やその妻、さらに義父は朝倉被告に冷酷な態度をとり続けたといわれる。そのため朝倉被告は、「一家全員を殺し、立ち退いたように見せかけよう」と思い立った。
 1983年6月28日午後3時頃、朝倉被告は会社員宅を訪れ、居合わせた妻(当時41)、二男(当時1)を金槌で殴り、三女(当時6)の首を絞めて3人とも殺害した。まもなく帰宅した二女(当時9)も首を電気コードで殺害。夜になって帰宅した会社員もマサカリで斬りつけて殺害した。その後、風呂場でのこぎりや植木ばさみなどを使い遺体をバラバラにした。
 長女は臨海学校に行っていたため、難を逃れた。
一 審
 1985年12月20日 東京地裁 柴田孝夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1990年1月23日 東京高裁 高木典雄裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1996年11月14日 最高裁第一小法廷 高橋久子裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 被告・弁護側は、犯行自体は全面的に認めたが、刑事責任能力の有無を争い、「犯行時、被告は心神喪失ないしは心神耗弱状態だった」と主張。さらに、「だれにも参加できるよう改善されたはずの新しい競売手続きが、依然複雑で、取引を始めたばかりの被告には取引の危険性を十分理解できなかった」とし、落札した家の明け渡しがなかなか実現しないことに焦ったうえでの犯行である点に配慮してほしいと、情状面での主張も行っていた。
 判決で柴田裁判長は、犯罪事実を検察側主張通りに認定したうえ、朝倉被告の精神状態について判断。「強い精神的な緊張状態にあり、性格上の片寄りや視野の狭まりはあった」としたが、「それも極端なものではなく、精神病の疑いもない」と述べ、弁護側の主張を退けた。
 続いて、量刑の理由について「第1に指摘しなければならないのは、被害の甚大さ。犯行は残忍の一語に尽き、死体損壊も人の目をそむけさせずにはおかない無残さだ」とした。さらに、(1)犯行が高度に計画的(2)動機は自分の経済的利益のためという自己中心的なもの(3)遺族の被害感情は強く、極刑を望んでいる(4)極悪事件が社会に与えた影響も軽視できない、などを指摘。そのうえで、「家の明け渡し要求に対する男性側の対応が犯行の一因となり、また、民事執行法の手直しが被告の思惑と食い違った面も否定できないが、平穏な一家の未来を断ち切った罪責は重く、極刑で臨むほかない」と結論付けた。

 控訴審判決理由で高木裁判長は、犯行当時の精神状態について「立ち退き交渉の過程では妄想的体験や心身症的症状があったが、犯行の動機に影響を及ぼすほどではなく、意識障害もなかったと認められる」と、一審同様、被告の刑事責任能力を認め、「犯行当時は心神喪失か耗弱状態だった」とする弁護側主張を退けた。
 次いで、量刑の理由に触れ「動機はあまりにも自己中心的で、犯行はこのうえなく冷酷、残虐。両親と三人の妹弟をいっぺんに失った長女の悲嘆、怒りを思うと、極刑を望む遺族らの心情は理解できる。被告が窮迫した心理に追い込まれていたことや、深く反省していることを最大限に考慮しても、罪の重大さは揺るがない」と述べた。そして「子供3人を含む5人の命を抹殺した結果はあまりにも重大。遺族の被害感情や社会的影響を考えると、極刑を選択するのは誠にやむを得ない」と、一審の死刑を支持、被告側の控訴を棄却した。

 最高裁の判決で高橋裁判長は「犯行当時、被告人は心神喪失、心神耗弱状態にはなかったとした原審の判断は正当」とした上で「一家5人の殺害は凶悪かつ残忍であり、死刑を是認せざるを得ない」と判断した。
備 考
 法律的に、家人の居座りは違法行為。強制執行も可能だった。
 殺人未遂で懲役3年の前科有り。
執 行
 2001年12月27日執行、66歳没。
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氏 名
向井伸二
事件当時年齢
 24歳
犯行日時
 1985年11月29日/12月3日
罪 状
 強盗殺人、住居侵入
事件名
 母子等3人殺人事件
事件概要
 長崎県生まれの前原伸二(旧姓)被告は住居侵入罪で1985年5月から服役していた姫路少年刑務所で、大金をつかんで遊んで暮らそうと強盗殺人を計画。出所3日後の11月29日午前11時半ごろ、姫路市に住む塗装業の男性方に侵入。現金42,500円を奪い、妻(当時30)を台所テーブルに仰向けにして両手両脚を縛り付けた。そのとき、奥から長男(当時3)が駆け寄ってきたため、腹や背中などを持ってきた刺身包丁で十数回刺した上に左首を切って殺害、続いて妻もメッタ突きにしたうえ、首を切って殺害した。
 さらに4日後の12月3日正午ごろ、神戸市に住む左官業の男性方で、一人でいた妻(当時34)に金を要求。後ろ手に縛るも泣き叫ばれたため、果物ナイフで胸や背中十数カ所をメッタ付き刺して殺した。
 前原被告は同日午後8時半ごろ、神戸市の東灘署青木駅前派出所に血だらけのまま自首。そのまま逮捕された。
一 審
 1988年2月26日 神戸地裁 加藤光康裁判長 死刑判決
控訴審
 1990年10月3日 大阪高裁 池田良兼裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1996年12月17日 最高裁第三小法廷 尾崎行信裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 公判で弁護側は、犯行事実は認めながら、1)向井被告は16歳の時のオートバイ事故による頭部外傷の後遺症で器盾性精神病になり、犯行時も心神耗弱状態だった。精神鑑定通り精神病でなく人格障害だとしても、重度で善悪の判断能力が著しく減退していた、2)劣悪な成育環境にあったことも考慮すべき、3)1987年6月、文通していた兵庫県宝塚市の牧師夫婦の養子となって以来、遺族に謝罪の意を表している--として懲役刑を求めていた。
 判決で加藤裁判長は同被告の責任能力について「犯行の動機や犯行前後の行動に不合理な点はない」として、心神耗弱を否定。量刑理由の説明では、同被告の家庭環境について「母親に顧みられない成育環境が被告人の人格形成に影響を与え、母に対する反抗の念が事件の引き金となった」とした。さらに「牧師夫妻の養子となってからは宗教に関心を持ち、遺族に償いたい気持ちも生じてきた」ことも認めたが、「金目当ての反社会的、自己中心的犯行で、犯行の態様も冷酷かつ残忍。犯行の凶悪性や社会に与えた影響、遺族感情などに照らすと、死刑の選択はやむを得ない」と述べた。

 控訴審で池田裁判長は「別の事件で少年刑務所服役中に犯行を計画、出所直後に行った金欲しさの残虐な犯行で、極刑もやむをえない」と死刑判決を支持した。

 最高裁の判決で尾崎裁判長は「自首したことなど斟酌すべき事情を十分考慮しても、被告の刑事責任は誠に重く、死刑を是認せざるを得ない」として、一、二審の死刑判決を支持、向井被告側の上告を棄却する判決を言い渡した。
 五人の裁判官全員一致の意見。大野正男裁判官は、死刑廃止に向かいつつある国際的動向を指摘し、一定期間死刑執行を法律で実験的に停止するなどの措置も考えられるとする補足意見を述べた。
附 記
 旧姓前原。1987年6月、文通をしていた牧師夫婦と養子縁組をした。
執 行
 2003年9月12日執行、42歳没。恩赦出願準備中だったといわれている(弁護士が2003年8月下旬に申立書を差し入れている)。ただ2003年7月に弁護士が接見した際は、「贖罪として執行されてもいい」などと覚悟を決めた様子で話したという。
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氏 名
中元勝義
事件当時年齢
 38歳
犯行日時
 1982年5月20日
罪 状
 強盗殺人、窃盗
事件名
 宝石商殺人事件
事件概要
 大阪府和泉市の無職中元勝義被告はギャンブル好きで金に困っていた。そのため金蔓にしようと、1982年3月ごろ、喫茶店などで貴金属を売り歩いていた和泉市の男性(当時70)に宝石販売の手伝いをしたい、と近づき顔見知りとなった。しかし男性の妻(当時58)に警戒され家への出入りを禁止されたことから二人の殺害を決意。
 中元被告は同年5月20日午後7時40分ごろ、クリ小刀を持って男性宅を訪ね、台所にいた男性の妻(当時58)を背後から刺し殺し、かけつけた男性も同じ刃物で胸などを刺して殺した。その後、応接間にあった財布から24,000円を盗んで逃げた。3日後の23日午後8時50分にも男性方に行き、男性の死体の右手にはめられていた金のブレスレットや背広につけてあったダイヤのネクタイどめ(計時価25万円相当)を奪って逃げ入質した。
一 審
 1985年5月16日 大阪地裁堺支部 重富純和裁判長 死刑判決
控訴審
 1991年10月27日 大阪高裁 池田良兼裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1997年1月28日 最高裁第三小法廷 可部恒雄裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 中元被告は捜査段階では強盗殺人を自供したものの、公判では強盗殺人について無罪を主張した。いったん死刑が求刑された後、証人調べが再開された。本事件では凶器が発見されていない。
 判決理由で重富裁判長は「被告が主張する捜査段階での暴行の事実などは認められず、自白調書には任意性がある。被告と犯罪を直接結びつける物証や目撃証人は乏しいが、被告が盗みの時に田中さん方のカギを使ったなどという自白の信用性につながる状況証拠は多い。せい惨な現場の遺体から貴金属を抜き取った事実もこれを裏付けている。犯行当時、金に困っていたなどの動機もある」と述べた。
 そして重富裁判長は「被告の無罪主張に慎重に耳を傾け検討したが、いずれも信用できず、犯罪の証明は十分である。金欲しさの動機で何の落ち度もない被害者を惨殺した犯行は極めて非情。社会に与えた影響も重大で、悔悛の情も認められず、極刑をもってのぞむしかない」と、求刑通り死刑を言い渡した。

 控訴審でも中元被告は窃盗こそ認めたものの強盗殺人は否認し、「捜査員に暴行を受け、自白を強要された。事件当日はアリバイがある」などと主張。弁護側も「自白内容は著しく変遷しており、客観的証拠と多くの点で矛盾がある」と無実を訴えた。
 判決で池田裁判長は「捜査段階での自白は信用できる。犯行は極悪非道で、被告には改しゅんの情が全くなく、死刑が不当に重いとは考えられない」と述べた。

 最高裁でも中元被告は強盗殺人について無罪を主張。
 可部裁判長は「犯行の動機や結果などに照らし、死刑はやむを得ない」と述べ、一、二審判決を支持した。
その後
 2002年4月30日、第1次再審請求。12月27日、請求棄却(大阪地裁堺支部)。
 2003年5月26日、第1次恩赦申立。2004年?、棄却。
 2004年6月28日、第2次再審請求。2005年1月28日、請求棄却。3月8日、即時抗告棄却。
 2005年6月5日、第3次再審請求。
 2005年7月25日、第4次再審請求。
 2005年8月8日、第2次恩赦申立。
 2007年4月10日、第5次再審請求。11月29日、請求棄却。2008年2月4日、即時抗告棄却。
執 行
 2008年4月10日執行、64歳没。
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氏 名
松原正彦
事件当時年齢
 44歳
犯行日時
 1988年4月18日/6月1日
罪 状
 強盗殺人、住居侵入、強盗強姦、常習累犯窃盗
事件名
 2主婦連続強盗殺人事件
事件概要
 香川県高松市生まれのトラック運転手松原正彦被告は1988年4月18日午後零時20分ごろ、徳島県麻植郡の自営業者方に侵入。室内を荒らしていたところを、買い物から帰宅した主婦(当時61)に見つかったため、電気コードで首を絞めて殺し、28,000円を奪った。
 5月2日に徳島県警は松原被告を全国指名手配。
 松原被告は逃走中の同年6月1日昼ごろ、愛知県刈谷市の会社員方に侵入。帰宅した主婦(当時44)の首をアイロンコードで絞めて殺害、99,000円余りを奪った。
 指紋などから犯人として特定され、2日には愛知県警が全国指名手配した。3日夜、群馬県吾妻郡の旅館で同県警長野原署員が逮捕した。
 松原被告は他に、九州から東海地方までの19県で計23回にわたって空き巣を働き、現金46万余円と、乗用車など時価約223万円相当を盗んだ。
 松原被告は空き巣を主に盗みばかりで前科前歴7回。1984年10月に滋賀県警に逮捕され、2府10県にまたがり60件の盗みを重ねたとして大津地裁から常習窃盗罪で懲役3年6月の実刑判決を受け服役、1988年2月4日に京都刑務所を仮釈放で出所したばかりだった。
一 審
 1990年5月22日 徳島地裁 虎井寧夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1992年1月23日 高松高裁 村田晃裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1997年4月28日 最高裁第二小法廷 根岸重治裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 一審で弁護側は起訴事実を大筋、認めたうえで、死刑制度は残虐刑を禁止した憲法36条に違反する、などとして寛大な判決を求めていた。
 判決で虎井裁判長は「まさに、通り魔的犯行。凶悪で社会に与えた影響は大きい。自己の欲望のための犯行でとうてい許しがたい」と述べた。

 控訴審で松原被告側は、十分反省しているので、死刑は重過ぎると訴えた。
 判決で、村田晃裁判長は「跛行は残忍かつ冷酷で、特に殺害の手段は無残だ。被害者の遺族の感情を考えても死刑はやむをえない」として松原被告の主張を退けた。

 上告審で最高裁の根岸裁判長は、判決理由について「社会に与えた影響や仮出獄中の身であったことに照らすと、罪責は誠に重大で、死刑判決は是認せざるを得ない」とした。
備 考
 事件当時は、常習累犯窃盗による懲役刑の仮釈放中だった。
その後
 2002年7月27日、第1次恩赦申立。2003年8月23日、恩赦不相当。
 2003年12月15日、第2次恩赦申立。2004年4月?、恩赦不相当。
 2004年6月、第1次再審請求申立。棄却。
 2005年8月5日、第3次恩赦申立。棄却?
 2007年6月27日、第2次再審請求。10月2日、徳島地裁は請求棄却。
 本人はこれが最後と手紙で述べ、以後、再審請求、恩赦申立せず。
執 行
 2008年2月1日執行、63歳没。
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氏 名
大城英明
事件当時年齢
 34歳
犯行日時
 1976年6月13日
罪 状
 殺人、住居侵入
事件名
 内妻一家4人殺人事件
事件概要
 福岡県飯塚市の土木作業員秋好英明(旧姓)被告は、1973年夏頃、飯塚市に住む女性と知り合い、内縁関係となった。一時は女性の姉らから内妻との結婚について承諾を得た。だが、経歴を偽ったり、賭け事で借金を重ねていたことなどが発覚。姉らから内妻と別れるように迫られ、「別れる」との誓約書まで書かされて引き離されたことを恨んだ。
 1976年6月13日未明、飯塚に住む内妻の姉(当時44)方に出刃包丁を持って侵入。1階に寝ていた姉、姉の夫(当時46)、2階に寝ていた姉の長女(当時20)と母親(当時73)の首を次々と包丁で刺し、殺害した。姉方に同居していた内妻(当時40)も2階で寝ていたが、近所の派出所に逃げ込んだ。
一 審
 1985年5月31日 福岡地裁飯塚支部 松信尚章裁判長 死刑判決
控訴審
 1991年12月9日 福岡高裁 雑賀飛龍裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1997年9月11日 最高裁第一小法廷 藤井正雄裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 秋好被告は捜査段階から単独犯行を認めていたが、一審公判途中の1978年9月、「姉を除く三人を殺したのは内妻」と内妻共犯説を主張。内妻を福岡地検飯塚支部に告発した。同支部は「身内を殺す動機がない」として内妻を不起訴にした。飯塚検察審査会は「不起訴不当」と議決したが、同地検は1984年12月、改めて不起訴処分にした。
 一審判決は1985年5月、秋好被告の単独犯行と認定した。

 控訴審で被告側は(1)現場で見つかったたばこの吸い殻から内妻の血液型と同型が検出された(2)内妻が犯行前日、被告に渡した「アシタヨルイエニキンサイ」のメモが見つかった-などを証拠に、改めて内妻共犯説を主張。死刑制度についても「世界的に進む廃止の流れに逆行し、憲法三六条(拷問及び残虐刑の禁止)にも違反」と反論していた。
 判決で雑賀裁判長は「吸い殻の存在は単独犯行を否定する証拠にはならない」「メモの文字は内妻の筆跡ではない」と認定。被告の供述についても「不自然で信用できない」として被告の単独犯行と結論付けた。
 死刑制度については死刑は極刑であり、適用に当たっては極めて慎重な姿勢が求められる」と死刑廃止を求める声を意識しながらも、「憲法に違反すると解釈するのは相当ではない」と従来の最高裁判例に沿う判断を示した。そして「逆恨みというべき動機であり、残虐、非道なまれにみる凶悪犯行。死刑の適用は慎重でなければならないとしても一審判決は誠にやむを得ない選択だ」と結論付けた。

 秋好被告側は、「自分が殺したのは一人だけで、三人はこの女性が殺害した」などと主張していた。
 最高裁判決は「単独犯行とした一、二審判決には事実誤認はない」と述べた。
備 考
 控訴審判決後、雑賀裁判長の棄却判決言い渡しが終わった瞬間、福岡市内で死刑制度廃止を訴えるグループ「タンポポの会」の会員や賛同者死刑廃止を求め傍聴席に陣取った市民グループ約20人からは「おかしいぞ、この判決は」などの抗議の怒号がわき起こり、廷内は一時騒然となった。
附 記
 旧姓秋好。
著 書
 島田荘司『死刑囚・秋好英明との書簡集』(南雲堂,1996)
その後
 殺人は一人で、残りは内妻が殺害したと主張。2000年1月、福岡地裁飯塚支部へ再審請求。2001年3月棄却され、弁護側は即時抗告。その後棄却。2011年6月24日、第三次再審請求。
ホームページ
 Office Top Pigeon(秋好英明死刑囚を支援し彼の冤罪をはらすことを目的としたサイト)
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氏 名
神宮雅晴
事件当時年齢
 41歳
犯行日時
 1984年9月4日
罪 状
 強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反
事件名
 警察庁広域重要指定115号事件
事件概要
 元西陣署巡査部長広田雅晴(事件当時の姓)被告は1984年9月4日午後0時50分ごろ、京都市北区の公園で、西陣署十二坊派出所の巡査(当時30、殉職後警部補に昇任)が包丁でめった突きにしたうえ、実弾5発入りの拳銃を奪って、射殺した。同日午後4時ごろ、広田被告は大阪市都島区のサラ金会社を襲い、従業員の男性(当時23)を巡査の拳銃で射殺、現金60万円を奪った。
 5日、犯人とみられる男が、船岡山近くの映画館に姿を見せた際、館内で飲んだ清涼飲料水の瓶に付いていた指紋が、広田被告の指紋と一致。さらに同日、警察庁は広域重要115号事件に指定した。広田被告は実家のある千葉県に逃走。西陣署の交換台に電話し、「署長を出せ、広田や」と名乗り、千葉にいることを告げている。15時45分頃、実家近くに現れた広田被告を、張り込み中の警察官が任意同行。17時30分頃、令状が執行され逮捕された。
 京都地検は犯行を裏付けられず27日、処分保留で釈放、同日、大阪府警が再逮捕。大阪地検は10月19日、京都、大阪の両事件で一括起訴した。
 広田被告は1964年から京都府警に在職中(巡査部長)だったが、1978年に同僚の拳銃を盗んで郵便局強盗をし、懲役7年の刑を受け、事件は仮釈放の5日後だった。
一 審
 1988年10月25日 大阪地裁 青木暢茂裁判長 死刑判決
控訴審
 1993年4月30日 大阪高裁 村上保之助裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1997年12月19日 最高裁第三小法廷 園部逸夫裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 広田被告は捜査段階で犯行を認めたが、公判では全面否認、無罪を主張。拳銃、包丁などの直接証拠は見つかっていない。
 1989年7月12日の論告求刑で、検察側は「広田被告の捜査段階の自供には虚偽の供述も含まれており、その真偽をしゅん別する必要がある」とし、その供述を、多くの目撃証言、血液、指紋などの鑑定結果で一つ一つ吟味していった。
 京都事件について、検察側は、
1)犯行現場近くで、腕に血をつけた広田被告を主婦が目撃するなど、午後0時7、8分ごろから午後1時30分ごろにかけて、断続的に「被告を見た」という多数の証言がある。
2)事件後、犯人らしき男を乗せたタクシーのシートから巡査の血(A型)を検出。
3)犯人がタクシーを降りた場所近くの映画館の自動販売機で、被告が清涼飲料水を買ったのを目撃され、その空瓶から被告の指紋を検出。
4)被告が事件前日に購入した包丁と鹿野巡査の刺し傷が完全に一致。
などとして「広田被告の犯行であることは明日」とした。
 次に、大阪事件について検討。
1)直接、犯人を見た女性従業員が「被告と酷似」と証言している。
2)すぐ近くの飲食店で、かき氷の容器から被告の指紋を検出。
3)サラ金会社と同じビル内にある別のサラ金社長が被告の姿を目撃。
4)サラ金会社から奪われた60万円が10万円ずつの束になっていた事実と、広田被告が立ち寄ったことを認めている大府市北区のピンクサロンで、ホステスが受け取った10万円の束ね方の証言より、強奪した金の一部が使われたのは間違いない。
などを挙げ、「犯人は広田被告」とした。また、
 さらに検察側は動機に言及。「仮出所の3日後に犯行を計画し、翌日、千葉県の実家から京都に出て包丁などを準備しており、強盗でまとまった金を手に入れようとしたもの」と述べた。
 9月8日の最終弁論で、弁護側は「自白は暴行により強要さたもの。立証は尽くされていない」と無罪を主張した。
 自白はたばこ火を手に押しあてる拷問などの暴行によるもので、任意性がないと主張。また、目撃証言はマスコミ報道から思いこんだ可能性が高いと、その信用性を否定。さらに犯行で使われた拳銃が同一であるという鑑定結果は信用できないとした。
 10月25日の判決で青木裁判長は主文言い渡しの後、「たばこ火を手に押しあてる拷問など、暴行による自白で任意性がない」と弁護側が指摘した捜査段階での自白調書に触れ、「やけどなどの傷は、接見した弁護人にも訴えておらず、自分で傷ついたとみるのが自然。被告人の供述の任意性を疑う事情はない」とその証拠能力を認めた。
 また、京都、大阪両事件で使用された拳銃について「銃弾の線条痕が一致し、巡査が奪われたけん銃であることは明白」とした鑑定を採用、同一人物による犯行と認定した。
 続いて京都事件の検討に入り、青木裁判長は、
1)広田被告が事件前日に購入した包丁と巡査の刺し傷の跡が一致。
2)現場近くで腕に血を付けた広田被告を主婦が目撃するなど、逃走経路で連続的に多数に目撃され、中でも6人の目撃証言の信用性は高い。
3)事件直後、広田被告とみられる男が乗ったタクシーのシートから巡査と同型の血液(A型・MN型)を検出。
4)タクシーを下車した近くの映画館で見つかった清涼飲料水の空き瓶からも被告の指紋を採取--などを「広田被告を犯人と強く推認させる事実」と判断。アリバイを主張し、目撃証言を信用できないとする弁護側主張を退けた。
 次に大阪事件に言及。襲われたサラ金会社の女性従業員が広田被告を「犯人に酷似している」と法廷で証言▽現場近くの飲食店で、かき氷の容器から広田被告の指紋を検出--などを挙げ、京都、大阪両事件について「自白以外の間接事実だけでも、犯人が広田被告であるとの心証を得られる」とし、「自白のうち、これら間接事実に裏付けられた部分は信用性があり、広田被告を両事件の犯人と認定するのに合理的疑いを差しはさむ余地はない」と言い切った。
 最後に情状で、同裁判長は遺族の被害感情や社会的影響の大きさにも触れ「被告の刑事責任は極めて重大であり、死刑をもって臨むほかない」と決めつけた。

 1991年1月25日の控訴審初公判で、弁護側は「広田被告と犯行を結びつける物証がなく、唯一の直接証拠といえる自白は警官の暴行で強要されたもの」として一審同様、無罪を主張した。
 これに対し検察側は「自白を強要されたというのは虚偽で、市民約30人による目撃証言の信用性は十分。事件の重大性からみて死刑を適用しなければ、他の事件との間に著しい不均衡が生じる」と反論した。
 1993年2月10日の最終弁論で、弁護側は改めて無罪を主張した。
 被告弁護側は「被告と犯行を結びつける物証はなく、唯一の直接証拠といえる自白は警官の暴行で強要されたもの」と改めて、無罪を主張。
 広田被告と殺害された巡査、男性には何ら関係がなく、殺害の動機がないと訴えた。
 さらに二つの犯行現場周辺で広田被告を目撃したとする証言については「服装や歩き方、返り血のついていた部分など食い違いが多く、信用性に欠ける」と指摘。「短銃を発射したとされる被告の手から硝煙反応が出ておらず、両事件で使われた短銃が同一だとする弾丸の線条痕鑑定も推測にすぎない」としていた。
 また量刑について「仮に有罪としても、動機などが解明されておらず、死刑適用は不当」と訴えていた。
 弁護側は最終弁論要旨を二通、裁判所に出した。ひとつは弁護人が用意したものだが、もう一通は被告自身が拘置所でほぼすべてを書き上げ、弁護人に強く提出を求めたという。「警察は犯人をデッチ上げ、検察は警察の御用機関になり下がった」などと激しい言葉を並べ、全争点について検察側の主張を批判して「冤罪」を訴えている。
 銃弾の鑑定について、広田被告は弁護人から銃弾の拡大写真約45枚を差し入れてもらい、細かく検討。線条痕の特徴が鑑定結果と合わない個所を発見、弁護側の主張に採り入れさせた。
 4月30日の判決で、村上裁判長は「犯行は冷酷、残虐。社会的影響も重大で、罪刑の均衡、一般予防の見地から極刑をもって臨むのはやむをえない」として、一審判決を支持、被告側の控訴を棄却した。
 判決で村上裁判長はまず、自白の任意性について判断。広田被告が取り調べ段階で拷問され自白を強要されたと主張していたのに対し、「被告の両手の傷は自分が警察官のネクタイを引っ張るなど暴れた際にできた」と認定。さらに当時は弁護人にも暴行を訴えていなかったことなどを指摘し、「自白任意性を疑うべき理由はない」と述べた。
 続いて凶器とされた短銃の同一性については「一審、控訴審での弾丸鑑定結果は十分に科学的、合理的」と評価、被告弁護側の主張を退けた。
 目撃証言については、事件発生直後の証言であり、信用性が高いとした。さらに村上裁判長は大阪事件の際、現場近くの飲食店で犯人が食べたかき氷の容器から被告の指紋が検出されたことを指摘。「現場に来たのは事件発生後という被告の公判供述は信用できない」と述べた。
 さらに、京都事件でも、現場近くでタクシーに乗った男が後部座席につけた血は、被害者の警官の血液型と一致していることや、犯行前に包丁を購入した男の年齢や身長が、被告と酷似、警官の遺体の傷跡からこの包丁が凶器とみられることなどをあげ、「両事件とも被告の単独犯行」と断じた。

 1997年11月14日の最高裁口頭弁論で、弁護側は、現場周辺で被告を見たという計11人の目撃証言について「主要な点で食い違いが目立ち、証拠としての価値に乏しい」などと主張した。広田被告は提出した陳述書で、「真犯人は別におり、わなにはめられた」と新たな主張を展開した。
 これに対して検察側は、「自白には虚実が入り交じっているが、自分一人でやったという骨格部分は信用できる。目撃証言にも矛盾はない」としたうえ、「被告は何の反省も示さず、むしろ他人に罪を押しつけようとする。その反社会性は改善しようもない」とする書面を提出した。
 判決で園部裁判長は、被告側の無罪主張、真犯人説などを、「いずれも適法な上告理由に当たらない」と退けた。そして「極めて悪質で動機に酌量の余地はない。社会に与えた影響などに照らすと刑事責任は重く、死刑判決はやむを得ない」と述べた。
附 記
 京都府警西陣署在職中の1978年7月、同僚の短銃を盗んで郵便局を襲った強盗傷害事件で逮捕されて、懲役7年の刑を受けて加古川刑務所に服役。事件の5日前に仮釈放となり出所していた。
 旧姓広田。最高裁弁論後に改姓届を提出し、結婚前の「神宮(しんぐう)」に戻った。
現 在
 無罪を主張して再審請求。2011年1月24日、第九次再審請求。
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氏 名
春田竜也
事件当時年齢
 21歳
犯行日時
 1987年9月14日~25日
罪 状
 殺人、身代金目的誘拐、拐取者身代金要求、監禁、強姦
事件名
 大学生誘拐殺人事件
事件概要
 熊本県玉名市の無職田本竜也被告(旧姓)は、無職S・S被告(当時20)、無職Y被告(当時20)、無職S・M被告(当時35)と共謀。熊本県玉名市に住む、資産家の息子である大学生の男性(当時21)を身代金目的に誘拐することを計画した。
 1987年9月14日夜、太宰府から帰省中だった大学生が、友達の女性(当時21)を同乗させて玉名市内を運転する車を、4被告はレンタカーで尾行。午後9時半頃、市郊外にある小岱山の公園内に止めた車の中の二人を拉致。男性を連れ出し、小岱山のゴミ捨て場でコンクリートブロック片で男性の頭などをめった打ちにし、ぐったりしたところを近くの廃材置き場の斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、死体に被せて逃げた。
 その後4被告は女性に「男性と佐賀で待ち合わせる」と言って、レンタカーと男性の車で17日まで佐賀県内や福岡県久留米市内のモテル等に泊まりながら連れ回した。
 4被告は17日午後3時10分頃、大学生の父親の会社に、身代金5,000万円を要求。福岡県久留米市内の喫茶店を受け渡し場所に指名したが、受け取りには現れなかった。
 熊本県警捜査本部は男性が運転していた車(父親の車を借りていた)を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、4被告の名が浮上。
 4被告は女性を連れ東京まで逃走。25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放した。女性からの電話連絡で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。
 田本被告と男性・女性は小学校時代の同級生だった。S・S被告と男性は高校の同級生だった。田本被告とY被告は少年院時代の知り合い。Y被告は東京を本拠地とする暴力団にいたが、事件当時直前に破門されていた。Y被告とS・M被告は暴力団時代に知り合った。夏頃からS・M被告は田本被告の実家に来ていた。
 捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4被告を指名手配した。
 26日朝、Y被告が東京都新宿区内で逮捕された。同日午後9時、S・M被告が東京都内で逮捕された。S・M被告の供述により、26日夜、八王子市内で男性の車が、27日夕方、大学生の遺体が発見された。
 28日午後3時過ぎ、S・S被告は警視庁に出頭、逮捕された。
 30日午前、田本被告は東京都渋谷区内の立ち回り先で逮捕された。
一 審
 1988年3月30日 熊本地裁 荒木勝己裁判長 死刑判決
控訴審
 1991年3月26日 福岡高裁 前田一昭裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1998年4月23日 最高裁 遠藤三雄裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 公判では、田本被告を除く3被告が、主犯が田本被告であると主張。田本被告は否定した。
 1988年3月30日の判決で、荒木裁判長は田本被告について「自ら計画を立案、終始主導的役割を果たしており責任は重大」として求刑通り死刑、S・M被告に無期懲役、Y被告に懲役20年、S・S被告に懲役18年(求刑いずれも無期懲役)を言い渡した。
 判決理由で荒木裁判長は「犯行は田本被告が地理に詳しい場所、さらに面識のある被害者を選んで行われており、殺害現場においても他の被告が一時犯行を中断しようとしても自らとどめを刺そうとしていることなどを考えれば田本被告が犯行の主導権を握っていたことは疑う余地がない。人を人と思わぬ犯行は、極めて悪質かつ冷酷。21歳の若さで廃材とともに炎天下のもとに死体となってさらされた被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くない」と述べた。
 S・M被告については「年長者でありながら、積極的に犯行に及んだ責任は重い」とし、Y被告とS・S被告については「Y被告は家庭環境に恵まれない点があり、S被告は犯行全体をみると消極的であることを考慮し有期懲役刑が相当」と述べた。

 Y被告とS・S被告は控訴せず確定。田本被告とS・M被告が量刑不当を理由に控訴した。
 Y元被告とS・S元被告は公判で、田本被告に責任を押し付けたと認めている。
 1991年1月22日の被告側最終弁論で、田本被告は(1)犯行は集団心理の中で行われ、田本被告が計画、主導したのではない(2)死刑制度は人権上許されない-などと主張。S・M被告は「他の共犯と比べて量刑が重すぎる」と主張。田本被告が主犯、S・M被告が参謀格とした一審判決は事実誤認であり、犯行に計画性がないとして二被告とも減刑を求めた。
 3月26日の判決で、前田裁判長は「大学生の生存を装って身代金を要求した犯行は悪質。計画を主導した二人の責任は重大」として一審判決を支持、二被告の控訴を棄却した。
 判決は、田本被告の役割について「犯行を計画、立案した首謀者」、S・M被告も「共犯者を犯行に引き入れるなど、田本被告に次ぐ役割」と認定。田本被告の「主犯でない」との主張を「不自然で信用できない」と退けた。量刑についても「私欲のために残虐な殺害方法を用いた。その社会的影響は大きく一審の量刑もやむを得ない」と判断した。
 死刑制度については「殺害方法の残虐性や犯罪予防の見地などから許される」と従来の最高裁判例に沿う判断を示した。

 田本被告は上告後、弁護人を解任した。
 1997年、最高裁に「他に複数の共犯者がおり、立証したい」という脱走未遂事件の動機とも言える書面を提出した。書面には五人前後の実名を挙げていた。
 最高裁は弁論を7月、及び10月9日に指定したが、弁護側は「被告が主張する共犯者への確認作業には時間が必要」と、弁論期日の延期を申し立て認められた。
 さらに田本被告は1998年1月17日、弁護人解任届を提出、二人の弁護人も辞任届を提出したが、最高裁は訴訟遅延が目的として認めなかった。
 最高裁の口頭弁論は1月30日に開かれた。この日の弁論について弁護側は「欠席するよりも弁論をした方が被告人の利益になると考えた。最終的には二日前に被告人に決めてもらった」としている。弁論で弁護側は死刑違憲のほか「田本被告が犯行を主導したとする二審判決は誤りで共犯者3人と均衡がとれない」と主張した。
 判決理由で、遠藤光男裁判長は「死刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に違反しない」との最高裁の判例を踏襲した上で「冷酷、非情な犯行、金欲しさの動機、遺族の被害感情などに照らし、若年で成育環境に同情の余地があること、一応反省していることなどを考慮しても死刑はやむを得ない」との判断を示した。
 弁護側の量刑不当について遠藤裁判長は「発案から実行まで中心的役割を果たしたことは否定できず、責任は無期懲役となった年長の共犯者より重い」として退けた。
備 考
 福岡高裁の判決では、裁判長が控訴を棄却する主文を言い渡したとき、死刑反対を求める市民グループの傍聴人の一部が立ち上がって「裁判長の人殺し」「いったい何を審理してきたんだ」と叫んだ。叫び続けるグループのリーダーを取り囲み、外に出そうとする職員と阻止しようとする支援者がもみ合った。
備 考
 上告中の田本被告は1996年12月21日夜、収容されている独房の鉄格子を金切りのこで切断して脱走を図ろうとしたが、午後10時頃、巡回中の看守が発見して未遂に終わった。鉄格子の1本は既に切断され、別の1本もほとんど切れかかっていた。
 調査中の1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長(当時57)が所長室で左胸をはさみで数ヶ所刺して自殺を図った。職員が発見して、同市内の病院に運ばれた。命に別状はなかったが、入院した午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降り、自殺した。
 3月4日夜、福岡地検は看守による逃走援助未遂の疑いで同拘置所看守S容疑者(当時35)を逮捕。S被告は独房の田本被告に金切りのこ、現金3000円、腕時計を直接渡していた。
 法務省福岡矯正管区は14日、S容疑者を同日付で懲戒免職にした。
 25日、福岡地検は看守逃走援助未遂罪でS容疑者を起訴した。荷重逃走未遂容疑で書類送検された田本被告は起訴猶予処分となった。
 法務省は7月14日付で、監督責任のある同拘置所処遇部長(当時)を訓告、首席矯正処遇官を戒告とした。また事件当時監督当直だった看守長と看守部長を1ヶ月の減給(100分の1~3)、戒告1人(以上、懲戒処分)、訓告3人、厳重注意3人、注意1人と処分した。
 S被告は公判で、起訴事実を認めた。同期として、拘置所組織への不満や、上司への不信感が募ったことを明らかにした。
 7月16日、福岡地裁でS被告は懲役2年6ヶ月(求刑懲役3年)の実刑判決を受けた。控訴せず確定。
特記事項
 2000年6月30日、福岡県弁護士会は、福岡拘置所に在監中の田本竜也死刑囚がわずかな規律違反で過酷な懲戒処分を受けたなどとして、同拘置所の佐々木英俊所長あてに「警告書及び要望書」を出したことを明らかにした。
 同拘置所によると、田本死刑囚が未決勾留中の1994年6月、拘置所内を通る際の廊下での待機位置をめぐって職員と口論になり、「職員に粗暴な言辞をした」として15日間の「軽塀禁」(謹慎)と読書不可などの処分を受けた。同弁護士会は「比較的軽い規律違反に対して過酷な懲罰を科すことは許されない」と主張している。
 同拘置所の広渡学総務部長は事実関係を認めた上で、「警告と要望は真しに受け止めるが、処分は法令に基づいて適正に行われている」と話している。
 旧姓田本。
執 行
 2002年9月18日執行、36歳没。
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氏 名
浜田美輝
事件当時年齢
 43歳
犯行日時
 1994年6月3日
罪 状
 殺人、強姦未遂、住居侵入、逮捕監禁他
事件名
 岐阜一家三人殺人事件
事件概要
 徳島市出身の無職、浜田美輝被告は1993年8月ごろから岐阜県加茂郡の女性と交際していた。女性(当時35)と旅行中の1994年6月2日午後2時半ごろ、甲府市のJR甲府駅で別れ話のもつれからトラブルを起こし、女性は浜田被告の暴力を恐れて逃げ出した。浜田被告は女性に裏切られた、さらに女性の父親がかくまっていると思いこみ、JR塩尻駅まで行き、レンタカーを借りた。6月3日午前2時ごろ、岐阜県加茂郡の女性の実家に侵入。元町議であり農業を営む女性の父親(当時61)と母親(当時59)、妹(当時31)の3人をロープで縛るなどして監禁し、父親、母親の胸や背中を出刃包丁で刺して殺害した。さらに妹に乱暴しようとしたが逃げられたため、追いかけて殺害した。
 浜田被告はその後逃走。現場検証で浜田被告の指紋が検出されたことから、5日、殺人容疑で指名手配。高松市の親せきに捜査協力を依頼していたところ、午後5時35分ごろ、浜田被告が親戚2人に付き添われて高松南署に出頭したため、同45分逮捕した。
一 審
 1998年5月15日 岐阜地裁 沢田経夫裁判長 死刑判決
控訴審
 1998年6月3日 本人取下げ、死刑確定
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 公判の過程では、浜田被告は妹殺害について「助けてやるつもりだったが、騒がれて追いかけるうちに衝突して刺してしまった」と殺意を否認。弁護側も傷害致死を主張し争点となった。
 浜田被告の精神状態については、鑑定で「性格障害は見られるが責任能力は問える」とされ、弁護側は「性格障害の矯正は可能」と無期懲役を主張していた。判決はこの点について、浜田被告が1980年に妻を殺害した前科に触れ「自分の思い通りにならないと自暴自棄になり攻撃行動に出る身勝手な性格傾向は、被告人の年齢などを考えると矯正困難」とした。
 殺意の認定について判決は「傷の部位や状態からは偶発的についたとは考えにくい。大声で助けを求める被害者を前に焦っていた被告人の立場などを考慮すれば、殺意は認められる」と退けた。
 沢田裁判長は判決理由の中で「被害者三人は被告人と初対面であり、交際相手の家族というだけで八つ当たり的な凶行の犠牲となった。犯行動機に酌量すべき点はない」と指摘。「身動きできない被害者に、執ようかつ残虐な攻撃を冷静に加えており、冷酷非道この上ない」と述べた。
 浜田被告は法廷で一貫して「自分の命で三人に償いたい」と陳述していた。
その他
 1980年5月、別居中の妻に復縁を迫って無理心中を図り、妻を殺し、懲役6年の実刑判決を受けて服役していた。
特記事項
 一審判決後は態度を軟化させていた。同被告の弁護士の控訴の説得に対しても、理解は示しながらも態度を最後まで明らかにはしなかった。そのため、控訴期限の5月29日夕方、弁護士の判断で控訴したが、浜田被告も同日深夜に控訴手続きをしていた。ところが命日である3日に岐阜中署記者クラブあてに手紙を出しており、「心よりの供養の後、既に署名、捺印している控訴取下書に日付のみ記入し提出を致します」と書いて、控訴を取下げた。
執 行
 2002年9月18日執行、51歳没。
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氏 名
宮崎知子
事件当時年齢
 34歳
犯行日時
 1980年2月23日~3月6日
罪 状
 殺人、身代金目的誘拐、死体遺棄、拐取者身代金要求
事件名
 富山・長野2女性誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定111号事件)
事件概要
 1980年2月23日午後7時15分頃、富山県八尾町の高校三年の女性(当時18)が帰宅途中に失跡。24日朝と25日昼に「女の人にアルバイトを誘われ、会社の事務所に泊めてもらった」と母親に電話したのを最後に消息を絶った。女性は25日深夜岐阜県数河高原で、乗用車内で睡眠薬を飲んで寝ていたところを絞殺され、近くの戸市川に捨てられた。3月6日に女性は岐阜県の山中で絞殺体で見つかった(富山事件)。
 3月5日午後6時30分頃、長野市の信用金庫職員女性(当時20)が行方不明になり、自宅に女性の声で身代金3000万円を要求する電話が7回あったが、犯人は受け取り場所の群馬県高崎駅前の喫茶店に現れなかった。女性は6日早朝翌六日早朝、長野県小県郡青木村の林道に止めた車内で絞殺され、捨てられた。4月2日、女性は長野県内の山中で絞殺体で発見された。
 長野県警は長野市の女性が行方不明のまま、3月27日に公開捜査。30日、長野、高崎方面に赤いスポーツカー「フェアレディZ」で立ち回っていた富山市内の贈答品販売会社「北陸企画」の共同経営者、宮崎知子被告とK被告を、長野県警が逮捕。その後、富山県警が再逮捕した。
一 審
 1988年2月9日 富山地裁 大山貞雄裁判長 死刑判決
控訴審
 1992年3月31日 名古屋高裁金沢支部 浜田武律裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1998年9月4日 最高裁第二小法廷 河合伸一裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 検察側は、1980年9月11日の初公判での冒頭陳述で、「両事件とも、両被告が身代金目的の誘拐を事前共謀し、誘拐を宮崎被告、殺害はK被告、死体遺棄は両被告が実行した」と述べ、殺害実行犯はK被告とした。
 同日の陳述で、宮崎被告は富山事件の被害者を「Kさんに頼まれて迎えに行っただけ」と、誘拐の事実そのものを否定、K被告単独犯行説を打ち出した。逆にK被告は全面無罪を主張した。
 初公判から4年半後の1985年3月6日の第125回公判で、検察側は冒頭陳述を変更し、「事前共謀は両被告だが、誘拐、殺害、死体遺棄、身代金要求の実行行為はすべて宮崎被告」と犯行の構図を一転させ、冒頭陳述を18か所変更し、実行正犯は宮崎被告、K被告は共謀共同正犯とした。主な変更点は以下。
 <富山事件>
 ◆変更前
 2月25日、二人は車で岐阜県・古川町のドライブインの駐車場へ行き、女性をK被告が腰ひもで殺害、宮崎被告は見張りをしていた。同町の国道41号のわき道まで女性の遺体を運び、二人で道路左側の川のふちに投棄した。
 ◆変更後
 2月25日深夜、宮崎被告が岐阜県・古川町の数河高原スキー場駐車場内で、フェアレディZの助手席で眠っていた女性の首を腰ひもで絞めて殺害。宮崎被告が一人で川のふちに女性の遺体を投棄した。K被告は、自宅にいた。
 <長野事件>
 ◆変更前
 3月4日、二人は、長野県松本市のホテルに宿泊。5日、宮崎被告が長野市内で誘った女性を車で長野県小県郡青木村へ連れて行き、6日未明、合流したK被告が、女性の首を浴衣の腰ひもで絞めて殺害。二人で、がけ下に投棄した。
 ◆変更後
 3月5日夜、宮崎被告は、長野市内で女性を誘拐。6日未明、車で青木村へ連れて行き、睡眠薬で眠らせた女性の首を腰ひもで絞めて殺害。遺体を車内から運び出し、がけ下へ投棄した。K被告は、長野市のホテルで待機していた。
 検察側は、共謀について、両被告は単なる愛人同士ではなく、金銭的利害も一致するとして、「一心同体論」を展開した。共同経営していた贈答品販売会社「北陸企画」の経営が行き詰まり、借金返済など犯行動機の共有は明らかだとし、K被告は、身代金受け渡し場所にも現れている、などと指摘した。
 これに対し、宮崎被告は「富山事件はすべてK被告の単独犯行、長野事件はKと共謀、Kが殺害し、二人で死体を遺棄した」として、長野事件の一部を認めながら両事件とも殺害は否認。K被告は「両事件とも宮崎被告の単独犯行」として、両事件の犯行を全面的に否認、無実を主張してきた。
 1987年4月30日の論告求刑で、検察は「宮崎被告実行」について、<1>両事件とも被害者の死亡推定時刻直前に宮崎被告と被害者がいるところが目撃されている<2>富山事件では被害者の遺留品が宮崎被告の指示で見つかった<3>長野事件の被害者の着衣に宮崎被告の毛髪が付着--などを挙げ「実行は明白」とした。また宮崎被告の「K被告殺害」の主張については「K被告が現場に行くのは不可能で虚偽」と決めつけた。
 最大の争点の「K被告共謀」では、捜査段階で両被告が共謀を認めた自白調書の信用性を強調。<1>両事件で、K被告が被害者と接触したことをうかがわせる目撃証言<2>長野事件で宮崎被告とともに身代金受け渡し現場に現れた--などの事実も挙げて「共謀共同正犯は明白」と主張。「宮崎被告からは"金沢の土地売買や東京の男から政治資金絡みで金が入る"と聞かされており、誘拐殺人などは全く知らない」とするK被告の法廷供述については「荒唐無稽な作りごと」と否定した。
 検察は最後に情状に触れ「金欲しさの利己的動機から行った残忍、冷酷、卑劣そのものの犯行」としたうえで、宮崎被告について「その反社会的性格に改善の余地はない」と断罪。K被告についても「その責任は宮崎被告に迫る極めて重大なもの」とした。
 7月29日の最終弁論で、宮崎被告は法医学書を引用して被害者の死亡推定時刻を独自に示し、「検察側の特定した殺害時間の犯行は不可能」と矛盾を突くなど検察主張に逐一反論、「富山事件はK被告の単独犯行。長野事件は誘拐、死体遺棄、身代金要求は行ったが、殺害はK被告一人でやった」とこれまでの主張を改めて述べた。捜査段階や公判での供述が変転したことについては「当初はK被告を助けたい一心でうそをついていた」とし、K被告の供述を「現実離れした大うそで、繰り返し主張することで真実にしようとしている」と決めつけた。
 これに対し、K被告は約二十分間の陳述の中で、「宮崎被告は七年間、うそをつき通し、私に罪をなすりつけてきた」と述べ、「私が無期懲役を求刑されたのもすべて宮崎被告のうそが原因」と憎しみをぶつけた。警察や検察に対しても、「じん臓病で体が弱っているのに無理な取り調べをしたり、"男の責任をとれ"と強要した」など不当逮捕、起訴と抗議し、裁判長に「私はえん罪」と訴えた。
 判決で大山裁判長は、宮崎被告が身代金目的で両事件の誘拐、殺人など一連の実行行為をすべて単独で行ったとの検察側の主張を認め、同被告に求刑通り死刑を言い渡した。しかし、犯行計画に加わったとして共謀共同正犯とされたK被告に対しては、共犯者だとした宮崎被告の供述を否定、K被告の自白に信用性がないとして無罪を言い渡した。
 判決は、宮崎被告の殺害、死体遺棄について、〈1〉富山事件の死体遺棄現場近くの喫茶店で死亡推定時刻の直前に被害者と一緒にいたとする目撃証拠〈2〉長野事件の被害者の襟元に付着していた毛髪--などの証拠価値を高く評価。
 さらに、K被告には長野事件ではテレビ番組を見たとするアリバイがあるなど、実行関与は認められない、と指摘したうえで、両事件とも宮崎被告が単独実行を認めた捜査段階での自白は信用性があると認定した。
 宮崎被告の情状については「まれに見る凶悪重大な事件。犯行に至る経緯、動機は、累積した借金によるもので、いささかの酌量の余地もない。冷酷、非情な計画性があり、富山事件では、ためらいを見せたものの、結局は計画通り実行した。加えて、長野事件では身代金を用意させ、他人の生命に対する一片の慈しみもない」としたうえ、捜査、公判に対する態度に触れ、「虚言をろうし自己の責任をK被告に転嫁している」と断言。「社会に与えた不安、同種事件の再発防止の観点からも極刑はやむを得ない」とした。
 最大の焦点となっていたK被告の共謀共同正犯について、同被告の捜査段階の自白は〈1〉共謀の際、当然述べられる事実がない〈2〉自白内容を変えた理由が述べられていない〈3〉体験供述性が見られない--とし、全面的に否定した。
 また、K被告側が、自白を認めた理由についても言及。「取調官から、宮崎被告の犯した罪について男として責任を取るよう迫られたと感じて心理的な負担に耐えられなくなった形跡をうかがわせる」と述べた。
 初公判から十か月後に鑑定結果で明らかになった富山事件の被害者への睡眠薬使用が、K被告の自白調書に記載されているのを検察側が「犯人しか知り得ない秘密の暴露」と主張している点についても、判決は宮崎被告が睡眠薬を購入したことは、すでに捜査上明らかになっており、取調官が誘導した疑いが強いとし、「秘密の暴露」には当たらないと述べた。
 K被告が「宮崎被告からウソのもうけ話を聞かされ、事件を全く気づかなかった」とした公判での主張についても、判決は、公判供述と大筋で一致する拘置所内での弁護人との接見録音テープの内容などからも信用できるとして採用、K被告側の主張を全面的に認めた。
 判決は、宮崎供述についても「K被告への責任の転嫁と自己の罪の軽減化がみられ、K被告の不利益事実は、認定できない」とした。
 また、検察側が長野事件で身代金受け渡し現場に両被告が一緒に現れた点や、富山事件で誘拐、殺害の前後に両被告が頻繁に電話連絡した点を共謀を推認できる状況証拠、間接事実だと主張している点についても、宮崎被告から聞かされた架空のもうけ話を信じ、行動的に巻き込まれただけとするK被告の弁解の方が信用できるとし、検察側の主張を退け、共謀共同正犯を認めず、K被告を無罪とした。
 さらに、検察が共謀立証の基礎に据えていた両被告の「一心同体性」についても、〈1〉宮崎被告と他の男性との交際状況〈2〉借金に対する二人の認識の違い--などを理由に、「二人が一心同体であったと解するのは極めて困難」と述べた。
 宮崎被告が実行行為をもK被告に押しつける供述をしている点を踏まえ、「本件においては、共犯者の自白の危険性が、一部現実化している」と述べた。

 検察側、宮崎被告側がともに「事実誤認」を理由に控訴した。
 1989年11月28日の初公判で、検察側は2人の愛情や生活・経済面での「一心同体」、事件当時行動をともにしていたなどの間接事実により、一審で否定された「共謀」を立証したいと述べ、現場検証などを請求した。
 宮崎被告側は「一心同体論」で共謀を主張するとともに、宮崎被告が当時は精神的に正常でなかった点を強調、死刑廃止は世界的な流れとの主張もした。
 K被告側は「宮崎被告のうそに振り回された結果で、公訴権の乱用だ」と冤罪を訴え、控訴棄却を求めた。
 なお審理に先立ち宮崎、K両被告側から分離公判の請求が出されたが、浜田裁判長は「両被告に関する証拠は共通するものが多い」と請求を却下し、併合して審理を進めることを決めた。
 1991年6月25日の第22回公判で、宮崎被告は宮崎側弁護団による本人質問に答えたなかで、初めて殺人行為を認めた。宮崎被告は「(殺害のため、あらかじめ約束していた)落ち合い場所に、K被告が現れないので、睡眠薬を飲ませ、一人でOLの首をひもで絞め、殺した。死体は助手席から降ろし、捨てた」と述べた。しかし、K被告との共謀は従来通り認める主張を繰り返した。また富山事件についても、「K被告の単独犯」との主張を翻し、「女子高生を私が誘い出し、K被告が殺した」と変更した。今になって殺害を認めたことについて宮崎被告は「被害者の家族に本当のことを言えなかったことを申し訳ないと思った。ばかなことをした」と涙声で述べた。
 11月22日の最終弁論で、初めに検察側が弁論に立ち、K被告の共謀存在を否定した一審判決について「控訴審の証拠調べで、事実誤認がより明らかになった」と破棄を求めた。これまで共謀立証の柱としてきた宮崎被告の供述は「控訴審で一部変更があったが、共謀の存在については一貫しており、信用できる」と評価した。さらに「K被告の自白や、被害者たちと会っていたことを示す客観的証拠などから、共謀は優に認められる」と述べ、宮崎被告の控訴を棄却するよう求めた。
 次いで宮崎被告側は「二人の関係が破たんした事実はなく、共謀は明らか。また、富山事件の殺害実行者はK被告である。両事件ともK被告が首謀者で、宮崎被告はK被告を慕う気持ちから犯行に及んだ」として、一審判決の事実誤認を主張した。情状面についても「真実はすべて自供しており、十分に反省している」と、死刑判決の破棄、減軽を求めた。
 K被告側は「K被告は、宮崎被告に日ごろからうその金もうけ話を聞かされて信じており、事情を知らずに連れ回されただけで事件に関与していない。検察側が共謀存在の根拠とする宮崎被告の供述は、責任を転嫁して死刑を免れようとした意図がある。K被告の捜査段階での自白は、捜査官に犯人の愛人としての道義的責任を追及された結果の虚偽の自白だ」と述べ、検察側控訴の棄却・無罪確定を求めた。さらにK被告に対する単独判決を検討するよう要望した。
 判決で浜田裁判長は「両事件は宮崎被告の単独犯行であり、K被告が事件に関与していたことは証拠上認めることができないばかりか、かえって共謀を否定する消極的事情さえも指摘できる」と述べ、宮崎被告を死刑、K被告を無罪とした一審判決を支持。検察側と宮崎被告側の控訴をいずれも棄却した。
 浜田裁判長は宮崎被告が否認を続けている殺害実行者について「一審での証拠から、同被告の単独実行を十分認定できる」と判断。検察側が主張する一心同体論については「相当深い愛人関係で、共通の経済的利害もあったが、これらの事情から共謀が推認できるとみるのは早計」と退けた。また、K被告が長野事件で宮崎被告と終始行動を共にしていたことについては「同被告が密接な愛情関係を逆に利用して、K被告を容疑者として注目させることで捜査陣を混乱させ、自分も罪責を免れようとした"容疑者工作"の可能性が高い」と推定。「女性の宮崎被告が一人で実行したことは特異だが、余程合理的な説明ができなければ共謀は推認できない」として、検察側が常識論に頼っていることを批判した。
 宮崎被告の供述については「変遷が激しく、K被告の共謀を示す部分を含めて信用性がない」と一審を支持。K被告の捜査段階での自白は「自分の行動から、ある程度の刑責を負わされるのもやむを得ないとの覚悟が、道義的責任に加わってうその自白に至った」と認定した。
 最後に宮崎被告の量刑について浜田裁判長は「この事件の悪質さ、重大さは際立っており、近年の量刑動向が死刑の選択に慎重の度合いを深めている現状はあっても、死刑はやむを得ない」と述べた。

 検察側は上告を断念し、K被告の無罪が確定。宮崎被告は上告した。
 1998年6月26日の弁論で、宮崎被告側は富山事件について「元共同経営者の男性が殺人、死体遺棄の実行犯で、自分は被害者の遺品を捨てただけだった」と主張。長野事件については「男性との共謀はなく、宮崎被告の単独犯行とした一、二審の認定は誤り」などと主張した。また、犯行当時の精神状態についても「心神耗弱だった」と主張、無期刑への減刑を求めた。
 これに対し、検察側は「(両事件で)被告の単独犯と認定した一、二審判決に誤りはない」とあらためて反論。そのうえで「犯行は凶悪で、自己の刑事責任の減免を図るため責任を男性に転嫁するなど反省の態度が見られず、極刑をもって臨むしかない」などと主張、上告棄却を求めた。
 最高裁で判決は、一、二審が認定した事実関係をほぼそのまま踏まえた上で「金銭欲から出た誘拐殺人、死体遺棄という極めて重大な犯罪を計画的に、連続して敢行しており、動機に酌量の余地はない。冷酷、非情で、社会に与えた影響は大きい」と指摘。死刑はやむを得ないと結論づけた。K元被告については一切触れなかった。
特記事項
 最高裁の判決確定後、一審を担当した富山地裁は1999年7月、殺害された女性の衣類など、遺品の還付手続きをとった。しかし、返した先は遺族ではなく、名古屋拘置所内の宮崎知子死刑囚だった。「贓物(ぞうぶつ=盗んだもの)」は、被害者に還付することが刑事訴訟法に定められている。しかし、これ以外の押収物は、だれに返すか定めがない。1990年の最高裁判例に基づき、捜査で押収した物は原則として被押収者に還付されている。富山地裁は「本来は遺族のものと思われる。返してはどうか」と問い合わせた。しかし宮崎死刑囚は「現在再審請求を考えている。鑑定に必要だ」などとしてすべて自分に引き渡すよう求めた。
 同年8月、富山事件の被害者の両親の元にセーター、バッグ、手帳など六十五品目の押収物目録と、〈警察の領置調書上所有者が故長岡陽子殿となっているなどの別紙の押収物については、第一次的受還付者である被押収者としての被告人の還付請求権の行使により、同人に還付いたしましたので、お知らせします。なお貴殿らが所有権その他の権利を有するときは、同人に対し引き渡しを求めることができます〉と書かれた「事務連絡」文書が届いた。
 届いた文書を読んだ父親は「変ではないか」と富山地裁に尋ねた。裁判所ではどうにもできないので当事者間で解決するようにと言われ、名古屋拘置所の住所を教えられた。
 長野の遺族にも連絡したが「おかしいと思うがあきらめる」と話したという。
 納得できないまま、両親は9月11日、宮崎死刑囚に返還を求める手紙を出した。10月には弁護士を通じ、回答を求める内容証明郵便を送った。11月、臼井日出男法相にも手紙を書いた。
 宮崎死刑囚からは、刑事裁判の弁護人を通じて「すぐに回答できない」という伝言が11月にあった。12月になって、遺品の現金計165円と手紙が届いた。「荷物はもう処分した」とあった。実際には、9月7日に宮崎死刑囚の申出で名護親拘置所が31点を廃棄していた。さらに拘置所が遺族からの手紙の内容を確認した上で、宮崎死刑囚に手紙を渡していたにもかかわらず、残りの遺品は10月15日と21日に廃棄されていた。
 2000年2月8日、遺族側が臼井日出男法相に同様の事態を再発させないための法整備や運用の改善などを求める意見書を提出。同日面会した臼井法相はミスを認め、謝罪した。
 最高裁の中山隆夫総務局長は同日、今後同じような事態が起こらないよう、全国の地裁にあて、遺品などの返還先を十分考慮するよう注意喚起する書簡を送った。
現 在
 1998年7月、養子縁組(相手は藤波芳夫元死刑囚だったと言われる。『集刑』によれば、それぞれ上告棄却時点で本籍地が同じ)により藤波に改姓していたが、2009年?、宮崎に戻った。
 2003年12月、富山地裁へ再審請求。弁護側は「事件は物証が乏しく、客観的証拠がない」と主張し、富山県の女子高校生が殺害された事件の実行行為者や、共謀の有無について再度審議するよう求めている。また確定判決には、犯行現場までのガソリン消費量や、共犯として逮捕された知人の男性(無罪が確定)と被害者との接触の可能性などから疑問が残るとしたうえ、宮崎死刑囚の犯行を裏付ける客観的証拠がないと主張。弁護側は今後、補充書を提出するという。
 2007年3月23日、富山地裁は請求を棄却した。手崎政人裁判長は「新証拠の提示がなく、再審事由のいずれにも該当しない」と判断した。被告側は即時抗告したが、2008年、名古屋高裁金沢支部は棄却。特別上告も、最高裁は2011年7月に棄却した。
 2011年8月15日、富山地裁へ第二次再審請求を提出した。弁護人はKNBの取材に対し、「死刑執行を遅らせて延命する意図もある」とコメントした。富山地検は「確定判決を覆すだけの証拠の新規性や明白性はなく、再審開始の要件を満たしていない」とする意見書を富山地裁に提出し、2012年3月17日に受理された。
 2013年2月25日付で富山地裁(田中聖浩裁判長)は、「新規性が無く、理由がない」として請求を棄却した。弁護側は3月1日、名古屋高裁金沢支部に即時抗告した。名古屋高裁金沢支部は2014年1月に、宮崎死刑囚側の即時抗告を棄却した。最高裁は3月18日、特別抗告を棄却した。
 2014年3月21日、富山地裁へ第三次再審請求。2015年3月30日、富山地裁は請求を棄却。4月1日、宮崎被告側は即時抗告。11月19日付で名古屋高裁金沢支部は即時抗告を棄却。11月22日、特別上告。2016年2月17日付で最高裁第三小法廷(山崎敏充裁判長)は特別抗告の棄却を決定した。
 2016年2月18日、富山地裁へ第四次再審請求。2017年3月23日、富山地裁は請求を棄却。27日、即時抗告。2018年3月23日、名古屋高裁金沢支部は即時抗告を棄却。26日、特別抗告。最高裁は12月7日付で特別抗告棄却。
 2018年12月10日、富山地裁へ第五次再審請求。2020年12月25日、富山地裁は請求を棄却。2023年9月26日付で、名古屋高裁金沢支部は即時抗告を棄却。29日、特別抗告。
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氏 名
柴嵜正一
事件当時年齢
 20歳
犯行日時
 1989年5月16日
罪 状
 強盗殺人、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持取締法違反
事件名
 中村橋派出所2警官殺人事件
事件概要
 3月に2年間の任期を満了して陸士長で退職した、アルバイト店員の柴嵜正一被告は、銀行強盗で大金を手に入れるため、警官の拳銃を奪おうと計画。
 犯行前日の1989年5月15日午後11時ごろ、柴嵜被告は東京都練馬区にあるアパートの自宅を出て、中村橋派出所裏にひそんだ。翌16日午前2時50分ごろ、勤務中の巡査(当時30 殉職後警部補へ二階級特進)が派出所脇の路上にあった所有者不明のオートバイを移動させていたところを狙い、持っていたサバイバルナイフ(刃渡り30cm)で背後から刺殺。叫び声を聞いて駆けつけた巡査部長(当時35 殉職後警部へ二階級特進)と格闘となり、胸や背中などを刺して殺した。両警官の抵抗により、何もとらずに逃走した。
 柴嵜被告は徒歩で現場から約500m離れたアパートに帰り、18日ごろ、夜間に同区関町北の武蔵関公園の池に汚れた着衣などを捨てた。
 警官殺しを祝す声明文が送られるなど、地域住民の不安を募らせたが、6月8日に自宅アパートにいたところを逮捕された。
一 審
 1991年5月27日 東京地裁 中山善房裁判長 死刑判決
控訴審
 1994年2月24日 東京高裁 小林充裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1998年9月17日 最高裁第一小法廷 井嶋一友裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 柴嵜正一被告は捜査段階で「拳銃を奪い、銀行強盗に入って大金を手に入れたかった」と供述。法廷でも、それを認め「ぜいたくな生活をするためじゃない。大金を持つことが、人生では勝利のシンボルと思ったからだ」と補足した。
 論告で検察側は、「働いても収入はわずかしかないと思い、金銭欲を満足させるためにやったこと」と、死刑を求刑した。弁護側は「犯行以前のまじめな生活態度と落差が大きく、動機には、いまも理解できない部分が残る」と疑問を投げ「人間性を取り戻した被告に再生のチャンスを」と訴えた。
 柴嵜被告は9歳で離婚した母親に引き取られ、一緒に暮らした運転手の男性が母親に暴力を振るうのを見て「感情を押し殺し、平静さを保とうとする」ことを身につけ「自分の不幸な生活は貧困が原因」と考えるようになった。
 判決で中山裁判長は「被告の屈折した考え方は、誠に不幸な境遇に由来し、同情を禁じ得ない。相談相手や友人もいなかったことが自分の殻に閉じこもる傾向を深め、犯行の素地になった」と指摘した。
 しかし「犯行時は経済的、精神的に一応安定し、不遇な環境を強調するのは許されない」と判断。(1)動機は極めて自己中心的(2)自衛隊の教育訓練や被告の生活態度に遺憾な点があった(3)残虐な犯行で社会的影響も大きい--と述べた。
 そして「法治国家における秩序への挑戦というべき残虐極まりない犯行。極刑をもって臨むほかない」と結論づけた。

 控訴審の判決理由で小林裁判長は、警官の動向をうかがうなど周到に準備したり、犯行後も証拠隠滅工作をしたりした点などを挙げ「犯行当時、柴崎被告には善悪を識別する責任能力があった」として「心神耗弱」との弁護側主張を退けた。
 その上で(1)動機が自己中心的で短絡的(2)凶悪で執ような犯行で、遺族らの被害感情は激しい(3)地域住民や社会に深刻な不安を与えた-などと指摘。「不遇な生育歴など柴崎被告に有利な事情を考慮しても、その責任は法の予想する最も重いところにある。死刑制度がある法制下では、死刑とした一審判決はやむを得ない」と結論づけた。

 上告審で柴嵜被告側は「死刑制度は憲法違反。犯行当時、柴嵜被告には精神障害があり心神喪失か心神耗弱の状態にあったと思われる。再鑑定が必要」などと主張。
 井嶋裁判長は「被告が心神喪失または心神耗弱の状態になかったとした原判決の判断は正当と是認できる」との判断を示し、弁護側の主張を全て退けた。
 そして「罪質は極めて悪質であり、動機に酌量の余地はない。計画的な犯行で、その態様も執拗かつ残虐。柴嵜被告のためにくむべき事情を考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。
現 在
 犯行時の責任能力を問題として2003年8月に再審請求。再審請求審において提出された2名の医師の意見書では、「真性の妄想型分裂病ないしパラフレニー(妄想型分裂病の一種で、特に体系化された妄想が前面に出て主症状となり、幻覚その他の通常の分裂病症状が目立たず、とりわけ人格の解体が極めて緩徐であるような病型のこと)に罹患していると思われる」等の所見が示されている。「発病は中学高学年ないし高校在学中であったと推定される」ことが指摘された。
 2014年3月17日に日本弁護士連合会人権擁護委員会事件委員、同年7月11日に同委員及び精神科協力医が本人と面会。協力医意見書では、面接では言語的疎通はまったく不可能である一方、仕草や表情に見られる奇異で唐突な非言語的表出は、依然として精神内界に活発な幻覚妄想体験が生起していることを推測させる。口から奇妙な音を発するものの、“独語”と言えるような言葉の構造すら失っている。一言で言うなら自閉的世界に没入し、外界との交流をほとんど遮断した状態である。これまでの経過と面接所見を統合すると、統合失調症に罹患していることは確実である」との所見が示された。
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氏 名
村松誠一郎
事件当時年齢
 23歳
犯行日時
 1980年3月21日
罪 状
 住居侵入、強盗殺人、現住建造物等放火、強盗致傷、窃盗、建造物等以外放火
事件名
 宮代事件等
事件概要
 1980年3月21日午前0時15分頃、無職村松誠一郎被告(当時23)は、弟の自動車運転手裕次郎被告(当時21)と共謀し、埼玉県南埼玉郡宮代町に住むボイラーマンの男性(当時52)宅に侵入。2階で物色しているうちに、男性の妻(当時51)に気づかれたため、ビニールひもで妻の首を絞めて殺した。さらに1時頃、帰宅した長男(当時22)も絞殺、現金14万円などが入った手提げ金庫を奪い、犯行を隠すため家に放火、台所の一部を焼いた。村松被告と長男は、アルバイト先のキャバレーの同僚だった。
 さらに10日後、両被告は栃木県日光市内の店舗兼住宅に押し入り、夫婦の手足を縛って現金40万円などを奪った強盗事件を起こした。
 強盗致傷1件、窃盗5件でも起訴されている。
一 審
 1985年9月26日 浦和地裁 林修裁判長 死刑判決
控訴審
 1992年6月29日 東京高裁 新谷一信裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1998年10月8日 最高裁第一小法廷 小野幹雄裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 逮捕当初は犯行を否認。その後、自供した。しかし浦和地裁は証拠不十分で一旦起訴を保留。その後、起訴した。
 また村松被告の逮捕3日前には、被害者と当時別居中だった男性が犯行を自白している。
 10月8日の初公判以降、村松兄弟は宮代事件について全面否認を行った。
 判決で林裁判長は「残虐非道な犯行で反省の色もなく同情の余地がない。犯行にあたっては誠一郎が指導的役割を果たした」として、求刑通り兄の誠一郎に死刑、弟の裕次郎に無期懲役を言い渡した。

 無実を主張し、両被告とも控訴。
 1992年7月29日の判決で、新谷裁判長は「捜査段階に犯行を認めた供述調書は、任意性に疑問の余地はなく、秘密の暴露も含まれて十分信用できる」と指摘。両被告の「自白を強要された」とする主張を退けた。
 犯行をいったん自白した別の男性に対し、二審判決は「半ば自暴自棄になり虚偽の自白をした、との本人の供述はうなずける」と判断した。

 兄弟はともに上告したが、村松裕次郎被告は8月に上告取下げ書を提出。弁護人が「被告は訴訟能力を欠き、取下げは無効」と申し立て、9月には同被告が取下げを撤回したため、最高裁が精神鑑定をしていた。1993年9月11日までに最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)は、「村松被告の上告取下げは、その意義を理解してなされたものと認められ有効」として、審理を終了する決定を下し、関係者に通知し、無期懲役が確定した。

 1998年7月13日の最終弁論で、村松被告側は「自白は強要、誘導された」と無罪を主張した。
 10月8日の判決で小野裁判長は、「生活費などに窮した被告による計画的、残忍な犯行で、動機に酌量の余地はない」とした。無罪主張については、「高裁判決の認定に誤りは認められない」と退けた。
現 在
 無罪を主張して再審請求。2011年時点で第八次再審請求中。
 村松死刑囚はが2001年3月、日本弁護士連合会に人権救済申立てを行った。日本弁護士連合会人権擁護委員会事件委員による面会、面談記録や本人の手紙等に基づく日本精神神経学会所属医師による意見書の作成がなされ、重篤な統合失調症及び拘禁反応との所見が示された。併せて、拘置所宛照会に対し、「房室乱打,大声などで保護房に複数回収容されていた、本人が意味不明な返答をしていること等を拘置所の医師が認めており、本人の生活における言動全般を職員が常時巡視して報告を行うとともに,定期的に精神科医師が直接本人の視診、問診等を実施している」等の回答がなされ、当連合会は、統合失調症若しくは拘禁精神病による諸症状が発現し重篤な精神病に罹患していると認定し、2004年2月25日付けで法務大臣宛てに勧告した。
 2014年4月21日に当委員会事件委員、同年7月11日に同委員と精神科協力医が本人と面会。協力医意見書にて、2001年初め頃「公安の声」という幻聴、電磁波あるいは「拷問電子機器」による迫害体験の活性化など病状の極期が推測され、誇大妄想、被害妄想、発明妄想、滅裂思考、幻聴、体感幻覚、物理的被影響体験、高揚気分、興奮の精神症状を示し、拘禁反応と妄想型統合失調症に罹患していると推測される、との所見が示された。
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氏 名
松本美佐雄
事件当時年齢
 25歳
犯行日時
 1990年12月4日/1991年7月6日
罪 状
 殺人、傷害致死、死体遺棄、窃盗
事件名
 妙義山ろく連続殺人事件
事件概要
 群馬県安中市の男性会社員は、同県碓氷郡、自動車販売業手伝いの男性(当時26)からゲームセンターの経営資金160万の借金を再三無心された。すでに100万円以上の金を貸しているにもかかわらず、返してくれないことなどから、「このままでは一生金づるにされる」と思いつめ、友人である同市の建設作業員、松本美佐雄被告に相談。松本被告は殺害を持ちかけ、準備した。
 1990年12月4日深夜、男性の自宅近くで待ち受け、帰宅した男性にシンナーを吸わせた上、松本被告と会社員はロープで首を絞めるなどして男性を殺害。遺体を同県甘楽郡の妙義山中に埋めた。
 松本被告は1991年4月下旬、遊び仲間の工員(当時28)のキャッシュカードを盗み、男性会社員に引き出すよう指示。男性会社員は富岡市に本店のある信用金庫支店の無人CDコーナーで、普通口座から計300万円を引き出した。
 松本被告は7月6日午前0時半頃、工員とその父(当時54)に電話で呼び出され、盗難事件への関与を父親から追求された。そして自宅から約2km離れた駐車場で、父親と喧嘩になった。殴られた父親が倒れて動かなくなったため、死んだと思いこんだ松本被告は埋めようと、父親の両手を用意したビニールテープで縛って自分の車で妙義山中の山林に運び、午前2時頃、穴を掘って仮死状態だった父親を埋めて死亡させた。この間、工員はほぼ傍観、山林では掘った穴の中の父親に土をかぶせるのを手伝わせたあと、殺害の発覚を恐れて自宅から持ち出していたスコップで殴打して殺害した。その後、工員を同じ穴に埋めた。
 松本被告と男性会社員は高校の同級生で、工員の男性は同じ高校の1学年上級生だった。
 県警捜査1課と安中署は8月28日、窃盗の容疑で松本被告と男性会社員を逮捕した。
 9月10日、90年の事件の殺人・死体遺棄容疑で二人を再逮捕した。遺体は白骨化した状態で自供通りに発見された。
 9月22日、松本被告の自供通り、父子の遺体が発見された。9月28日、父子殺人の容疑で松本被告を再逮捕した。
一 審
 1993年9月24日 前橋地裁高崎支部 佐野精孝裁判長 死刑判決
控訴審
 1994年9月29日 東京高裁 小林充裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1998年12月1日 最高裁第三小法廷 元原利文裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1991年11月21日の初公判で、松本被告、男性会社員とも起訴事実を認めた。ただし、男性会社員の弁護側は、正当防衛あるいは過剰防衛を主張するとの、意見陳述が行われた。
 その後、公判は分離された。
 1993年7月9日の論告で検察側は、「犯行の動機、態様、結果などを総合考慮するならば、極刑をもって臨むほかない」と死刑を求刑した。
 8月5日の最終弁論で、弁護側は「被告はシンナー吸引などで精神的持続力がなく、不利な供述もした。被害者にも問題があった」と述べ、「死刑は、世界の世論にそむくことになる」と主張した。
 9月24日の判決で佐野裁判長は1件目の殺害については被害者が金を無心したことが発端となっていること、父親への暴行行為については被告に対する侮蔑的な言動が遠因となっていること、さらに窃盗の被害300万円については全額弁償されていること、前科・前歴がないことなどの諸事情が考慮されたが、「まれにみる凶悪事件。一連の犯行を冷静に行っており、事件への逡巡、おののきの影もなく、人間性の欠如に底知れないものがある。死刑制度を定めた現行法の下においては、極刑はやむを得ないと判断せざるを得ず、死刑を選択した」として、求刑通り死刑判決を言い渡した。
 ただし、父親殺害の件については、公園での暴行で既に死んでいたものと松本被告が認識していたとし、訴因である殺人罪を認定せず、傷害致死罪を認定した。

 被告側は量刑不当などを理由に控訴した。
 判決で小林裁判長は「被告を死刑とした原判決の量刑はやむをえず、重過ぎて不当とはいえない」「犯行は酌量の余地はなく、冷酷、執よう、残忍で社会に与えた影響も重大」「冷酷、残忍な凶悪事件で、被告の罪責は法の予想する最も重いところにある。わが国の法制下では、死刑はやむを得ない」と述べた。

 上告審で弁護側は、父子殺害について共犯者がいるとの新事実を主張し、一・二審では重大な事実誤認があると主張した。
 判決は「半年余りの間に3名の命を奪った結果は極めて重大で、動機に酌量の余地はなく、2件の殺人の態様は冷酷かつ残忍」と極刑の理由を述べ、「被告人に有利な事情を十分に考慮しても、被告人の罪責は誠に重大であり、原判決が維持した第一審判決の死刑の科刑は、やむを得ない」との判断を示した。
 松本被告は判決前に、「私は、自らの犯した罪の大きさに負けてしまい、すべてを放棄することこそが、償いの道だと思ってまいりました。しかし、刑の確定も寸前の時期になって、自らの罪と真に向き合ったとき、せめて、真実だけは明らかにしておかなければならないと自覚してやみません」とコメントした。
備 考
 1件目の殺人の共犯である男性会社員は1992年11月6日、前橋地裁高崎支部で懲役13年(求刑懲役15年)の判決。被告側による、正当・過剰防衛の主張を退けた。控訴せず、そのまま確定。
 父子の遺族は、松本被告に対し総額約7,000万円の損害賠償損害賠償を請求。1994年5月25日、前橋地裁高崎支部は松本被告に慰謝料など約6,269万円の支払いを命じた。
 アムネスティによると、松本被告の一審私選弁護人は、検察官ではないかというぐらい法廷で被告人を責めていたらしい。また二審でも同じ弁護士だったが、一審最終弁論と控訴趣意書が誤字まで全く同じだったという。
現 在
 1件の殺人について無罪を、残りはシンナーの影響によるものと主張して再審請求中。
 2014年10月29日に日本弁護士連合会人権擁護委員会事件委員、2015年12月4日に同委員及び精神科協力医が本人と面会。協力医意見書にて、本人作成書面には刑務官に毒を盛られているなど明らかに現実離れした妄想的な内容や支離滅裂な文章が綴られ、明らかな造語が現われ、妄想に基づいた幻聴も認められるなど、現実との関わりをある程度維持しながらも、被害妄想や幻覚症状が次々と現れ、思考が障害されていることが示されている。拘禁反応症状と診断される、とある。
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氏 名
高田和三郎
事件当時年齢
 39歳
犯行日時
 1972年2月13日~1974年2月22日
罪 状
 殺人、有印私文書偽造・同行使、強盗殺人、死体遺棄、恐喝、恐喝未遂、恐喝幇助
事件名
 友人3人殺人事件
事件概要
 埼玉県熊谷市のとび職高田和三郎被告は以下の3事件を起こした。
  • 競輪のノミ屋仲間だった不動産業者の男性が、埼玉県熊谷市の農業の男性(当時45)から預かった金を使い込み、返済できなくなったことから、不動産業者と共謀。1972年2月13日、不動産業者の男性が農業の男性の頭を金槌で殴って、殺害した。
  • 1973年7月、不動産業者の男性(当時53)が殺害を口外するのを恐れ、高田被告は男性をダルマジャッキで殴り殺した。さらに仕事先の上司と共謀して、預金口座から現金20万円を引き出した。遺体も凶器も見つかっていない。
  • 1974年2月22日、知人の無職男性(当時32)を釣りに誘い出し、石で殴って殺害し、預金口座から320万円を引き出し、遺体を土中に埋めた。
 そのほか、恐喝、恐喝未遂、恐喝幇助各1件、有印私文書偽造・同行使、詐欺事件5件。
 高田被告は1973年1月に別の窃盗罪で有罪判決(確定)を受けているため、1番目の事件と残りの事件でそれぞれ求刑、判決が出ている。
一 審
 1986年3月28日 浦和地裁 杉山忠雄裁判長 死刑及び懲役14年判決(最初の1件で懲役14年、残りの事件で死刑判決)
控訴審
 1994年9月14日 東京高裁 小泉祐康裁判長 控訴棄却 死刑及び懲役14年判決支持
上告審
 1999年2月15日 最高裁第一小法廷 小野幹雄裁判長 上告棄却 死刑及び懲役14年確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 高田被告は当初、いずれの犯行も認めていたが、一審の途中から「上司が主犯で、自分は遺体の運搬などを手伝っただけである。殺害方法なども検察側主張とは異なる」と供述を変更。自白は警察の誘導によるものであり、また上司の関与を供述すると家族に危害が及ぶ可能性があったなどと主張した。そのため、捜査段階の自白の信用性が争点になっていた。

 控訴審では8年にわたり争われた。
 控訴審で弁護団は以下のように主張した。
「1件目の強盗部分は無罪。2件目は遺体も凶器もなく無罪で、3件目も捜査段階の供述に信用性はない」「上司が主犯で、自分は遺体の運搬などを手伝った」などと主張していた。
 判決で小泉裁判長は捜査段階での供述の信用性を認め、「金銭目当ての動機はいずれも同情の余地はなく、刑事責任は重大。死刑の適用には慎重な配慮が必要だが、いずれの犯行も残虐、非道で、一審判決が極刑をもって臨んだのは誠にやむをえない」と述べた。

 1998年12月14日の最高裁口頭弁論でも、弁護側は主犯は別にいると主張した。
 1999年2月25日の判決で小野裁判長は「最初の強盗殺人から2年余りの間に相次いで2人を殺しており、人命軽視も甚だしい」「動機に同情の余地はなく、犯行は残虐、非道」として高田被告の上告を棄却した。
備 考
 高田被告が主犯と主張した仕事先の「上司」は、一審途中の保釈直後に自殺している。
ホームページ
 死刑廃止キリスト者連絡会(高田和三郎死刑囚の再審請求を行っている。資料等有り)
その後
 2004年9月9日、さいたま地裁へ再審請求。主犯は「上司」と主張。2007年7月5日、再審請求が棄却される。2010年3月9日、即時抗告棄却。特別抗告については不明。2010年10月26日、第二次再審請求。2014年4月2日、さいたま地裁は請求を棄却。2014年8月26日、第三次再審請求。以後、不明だが、2019年に最後の再審請求が棄却されている。
 肺炎治療のため2018年6月から拘置所の病棟に収容。2020年10月16日朝に苦しそうな呼吸をしているのを職員が発見。酸素吸入などをしたが、同日午後11時10分ごろに容体が急変し、翌17日午前0時45分に医師が死亡確認した。88歳没。
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氏 名
嶋崎末男
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1988年3月13日/3月25日/5月17日
罪 状
 殺人、死体遺棄、殺人未遂、住居侵入、強盗致傷、恐喝、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、強盗、逮捕監禁、暴力行為等処罰に関する法律違反
事件名
 熊本・菊地町保険金殺人事件他
事件概要
 熊本県菊池市の暴力団組長嶋崎末男被告は、組の運営資金や遊ぶ金に困り、保険金殺人を計画。
 I組員(当時44)への融資の担保として、生命保険金総額1億円の受取人になっていた自動車修理販売業社長T被告らと共謀。嶋田被告は組員T被告らに殺害を指示。T被告は、組員K被告、組員I被告とともに1988年3月13日、I組員を大分県日田郡のがけから転落事故を装って85メートル下に突き落として殺害した。保険金は県警が事故と断定していないため支払われていない。
 さらに、嶋崎被告は犯行を知ったS相談役から殺人がばれるのを恐れ、T被告らに殺害を指示。T被告、K被告、Y被告、I被告は同月25日、S相談役(当時53)を熊本県阿蘇町で絞殺して宮崎県えびの市の山中に埋めた。
 嶋崎被告は口封じのためにT被告らに殺害を指示。T被告、K被告、Y被告は同年5月17日には、熊本県菊鹿町でT組員(当時59)の首を絞めて殺し、菊鹿町の山中に埋めた。
 そのほか、強盗致傷2件、強盗1件、銃砲刀剣類所持等取締法違反(所持)1件、逮捕監禁、暴力行為1件。
一 審
 1992年11月30日 熊本地裁 赤塚健裁判長 無期懲役判決
控訴審
 1995年3月16日 福岡高裁 池田憲義裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 1999年3月9日 最高裁第三小法廷 千種秀夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 一審では、暴力団内部の事件であることを特別に配慮。「被告には更生の可能性があり、極刑は重すぎる」として無期懲役を選択した。

 検察側は量刑不当を理由に控訴。被告側も控訴した。
 判決で池田裁判長は「組内部での事件ではあるが被害者に落ち度はない」として一審の判断を否定。「保険金殺人は二度失敗した後、三度目に殺害。その口封じに、命ごいする二人も殺害した。目の前で、埋めるための穴を掘るなど冷酷非道」などとし、「組長の立場で共犯者(組員)に犯行を命令したもので、犯行は残虐、かつ冷酷非道。死刑が、憲法の禁止する残虐な刑罰に当たらないことは確立した判例。死刑の適用はあくまで慎重に行わなければならないが、被告人には極刑をもって臨むしかない」と述べた。
 死刑制度自体については「憲法が禁止する残虐な刑罰に当たらないことは最高裁判決で確立している」と述べた。

 嶋崎被告は「殺害を指示していない。実行したのは元組員らの判断による」などと上告した。
 最高裁の判決で千種裁判長は、「犯行は残虐。主導的立場から配下の組員らに指示命令し実行させた」と二審の死刑判決を支持した。
備 考
 本事件では嶋崎被告を含む6被告が起訴された。実行犯のリーダー格T被告は求刑死刑に対し、無期懲役が二審で確定。K組員は懲役20年(求刑無期懲役)が二審(検察・被告側控訴棄却)で確定。Y組員は懲役13年(求刑懲役18年)、I組員は懲役10年(求刑懲役15年)が一審で確定した。
 無罪を主張し、分離公判だった元販売業T被告は懲役12年(求刑懲役18年)が一審で確定した。
執 行
 2004年9月14日執行、59歳没。
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氏 名
福岡道雄
事件当時年齢
 36歳
犯行日時
 1978年12月8日/1980年4月19日/1981年1月30日
罪 状
 恐喝、殺人、窃盗、死体遺棄、有印私文書偽造・同行使、詐欺
事件名
 高知・偽装トリプル殺人事件
事件概要
 高知県安芸郡の農業福岡道雄被告は1978年12月8日午前1時頃、高知市内に住む妻(起訴後離婚)の姉でバー経営の女性(当時42)を口論から絞殺、遺体を安芸郡の山中に埋めた。自宅から預金通帳などを盗み、現金57万円を引き出した。
 その後、姉の家出を匂わせる手紙を偽造したが、代筆を頼んだ知人のホステス(当時32)を口封じのため、1980年4月19日午後5時頃、安芸市内の山林で絞殺、遺体を安芸郡の山林に埋めた。
 1981年1月30日午後9時頃、妻の父で、時計商の男性(当時72)宅にて男性から借金返済を求められるなどして激高、包丁で刺殺し、現金約23万円や腕時計などを盗んだ。
 四国電力が自分の所有地に無断で電柱を設置したとして1980年3月、同社高知電力所に「電柱を切るぞ」など数回にわたって電話をかけ、解決金名目で現金30万円を脅し取った。
 1980年7月17日、山中で知人のホステスの遺体が発見された。10月21日、土佐市の市民病院の玄関わきで身元不明の女性の頭蓋骨が見つかった。1981年2月10日、義父の他殺体が自宅で見つかった。3月5日、有印私文書偽造・同行使容疑で福岡被告を逮捕。27日、義父殺人容疑で再逮捕。4月24日、福岡被告の自供に基づき、安芸郡の山中で義姉の遺体を発見。4月25日、病院の玄関わきで見つかった頭蓋骨が義姉のものと判明。5月6日、義姉の殺人、死体遺棄容疑で再逮捕。6月15日、ホステスの殺人容疑で再逮捕。
 動機は、妻の実家の資産目当てとされる。
一 審
 1988年3月09日 高知地裁 田村秀作裁判長 死刑判決
控訴審
 1994年3月08日 高松高裁 米田俊昭裁判長(村田晃裁判長が代読) 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1999年6月25日 最高裁第二小法廷 福田博裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 1981年7月8日に初公判。福岡被告は公判途中から、取り調べ段階で認めた犯行を否認し、弁護側も、自白調書は信用できず、真犯人は別に存在すると主張。
 公判で弁護側は以下を主張。
(1)福岡被告には三件とも家族らと温泉に行っていたなどのアリバイがあり、別の真犯人が存在する。
(2)義姉の死因は自殺で、父親と真犯人が死体を遺棄した。
(3)ホステスは父親が殺し、死体遺棄は父親と真犯人。
(4)父親殺害は真犯人の犯行--と主張。
「自白調書は違法な別件逮捕と拷問に等しい取り調べで作成され、任意性、信用性は認められない」「殺害同期が明らかにされていない」として無罪を求めていた。
 しかし、判決で田村裁判長は「姉と父殺害は金欲しさからの犯行で、ホステス殺害は口封じのための犯行。弁護側が主張するアリバイは信ぴょう性がなく、福岡被告の主張する真犯人の存在も裏付けがない」と全面的に否定。また「福岡被告の自供により遺体や凶器などが発見されるなど、自白調書の信用性は高く、任意性も認められる」などとした。
 なお真犯人を知っているとする男性の証言にもとづき、高知県内で現場検証や捜索がなされたが証言を裏付ける物証は見つかっていない。

 控訴審でも一審同様、福岡被告は無罪を主張。
 控訴審判決では、捜査段階で犯行を認めた自白調書について「片手錠による取り調べの妥当性はともかく、任意性を左右するものではない」と認定。「恐喝容疑での逮捕は違法な別件逮捕に当たらず、取り調べの警察官が暴行、脅迫を加えた事実はない」とした。
 またアリバイについては「供述内容は一貫性がなく、十分な裏付けに欠け信用できない」と判断。「真犯人は服毒自殺した別の人物」という主張は「証言に基づく捜索でも物証は何一つ発見できず、客観的証拠はない。真犯人が犯行を自白したという置き手紙も、再発見までの経過が不自然だ」と退けた。
 そのうえで「凶悪な犯行への悔悟の情をうかがうことはできず、矯正の余地は乏しい。死刑適用は慎重に行わなければならないことを考慮しても、極刑に処した一審判決が不当に重いとは言えない」と一審の死刑判決を支持した。

 上告審で弁護側は義父殺害は認めたが「口論の末義父に殺されそうになった。正当防衛か過剰防衛」と指摘。他の二件の殺人は「妻の姉は自殺、ホステスは義父が殺した。被告は死体遺棄のみ実行した」などと主張した。
 判決では、まず、弁護側が上告審で新たに主張した「義父殺害は口論の末に殺されそうになっての正当防衛か過剰防衛。義姉は自殺、ホステスは義父が殺した」との無罪主張や、捜査段階で犯行を認めた自白の任意性について「自白の任意性に疑うべき証拠はない」などとして、「いずれも適法な上告理由には当たらない」と退けた。
 そして三件の殺害事件の犯行事実を認定した上で、「三人の生命を奪ったという結果が極めて重大というだけでなく、親族や知り合いである被害者の信頼を裏切る冷酷、非道な犯行だ」と指摘。
 さらに「各犯行後にはさまざまな隠ぺい工作をするなど悪質であり、被害者らの遺族の被害感情も非常に厳しい」とし、四人の裁判官が全員一致して「被告を犯人と認めた二審判断を最高裁としても是認せざるを得ない」と一、二審での死刑判決を支持、上告を棄却した。
執 行
 2006年12月25日執行、64歳没。
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氏 名
松井喜代司
事件当時年齢
 46歳
犯行日時
 1994年2月13日
罪 状
 殺人、殺人未遂
事件名
 安中親子3人殺人事件
事件概要
 群馬県高崎市の水道設備業松井喜代司被告は、交際していた同県安中市に住む女性(当時42)が松井被告と結婚するかのようにみせて約350万円の金を出させたことに腹を立て、1994年2月13日午後10時ごろ、女性が住むアパートで待ち伏せ。路上で、帰宅した女性の頭などを持参したハンマーで殴って殺害した。
 さらに、車で約3km離れた女性の実家に押し掛け、結婚に反対していた女性の父親(当時69)、母親(当時65)をハンマーでめった打ちにして殺害。
 その後、隣に住む女性の妹宅に侵入し、妹(当時38)をハンマーで襲い怪我を負わせ、さらに二階で寝ていた長女(当時6)の首を絞めて殺そうとしたが、妹の夫に取り押さえられた。
一 審
 1994年11月9日 前橋地裁高崎支部 佐野精孝裁判長 死刑判決
控訴審
 1995年10月6日 東京高裁 小泉祐康裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 1999年9月13日 最高裁第一小法廷 大出峻郎裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1994年4月15日の初公判で、被告側は起訴事実を認めたが、「(犯行時の)責任能力に疑問がある」として松井被告の精神鑑定を申請した(後に却下されたと思われる)。
 9月2日の論告で検察側は、殺害方法は残忍で、落ち度のない家族まで「皆殺し」にしようとしたとし、「通常人には理解しがたい犯行」と述べた。
 さらに、松井被告が強姦致傷罪などで服役した後、1975年にも、交際を断られた女性を包丁で刺殺した事件を起こしていると指摘し、「(被告は)女性の問題で怒ると見境がなくなり、異常な粗暴性を発揮する」「生来の常習的犯罪者だと断ぜざるを得ない」と厳しく批判した。
 そして「良心のかけらすらないまさに殺人鬼の犯行。被告人の犯罪傾向は絶対に矯正不可能である」として死刑を求刑した。
 同日の最終弁論で、弁護側は死刑制度の廃止を求める世論の高まりなどを指摘し、無期懲役を主張した。
 11月9日の判決で、佐野裁判長はまず生前の面影をとどめないほど顔や頭をハンマーで殴りつけた犯行の残虐さを指摘。また両親や隣家の親類まで殺そうとした動機について、「(女性の)一族を皆殺しにしようと犯行に及んだ」などとし、「酌量の余地は全くない」と厳しく批判した。
 さらに松井被告がかつて、強姦致傷罪や、今回の事件と同様に交際を断られた女子学生を包丁で刺殺した殺人罪で服役した前科に触れ、「女性の人格、生命、身体を軽視する反社会的で特異な犯罪性向があり、被告人の爆発的凶暴性、残虐性に鑑みると、矯正は不可能である」と断じた。
 最後に「死刑が人間の生命を絶ってしまうものであり、適用には慎重を期すべきであることを十分考慮しても、現行法下では極刑に処するほかはない」と結論づけた。

 松井被告は当初控訴しない方針であったが、量刑不当を理由に控訴した。
 1995年10月6日の判決で、小泉裁判長は「この女性が被告と最初から結婚する意思がなかったのか、交際し始めてから意思がなくなったのかは証拠からは判断できないが、被告に対する態度をみると、動機の面で被告に同情すべき点はある」としたが、「女性の一家を皆殺しにしようというもので凶悪極まりない犯行。死刑の適用については特に慎重な配慮を要することに照らしても、一審判決の量刑はやむをえない」「殺人の前科などから被告の反社会的で暴力的な性格は矯正できないほど強固なもの」とした。

 上告審で弁護側は、控訴審の国選弁護人(一人)の活動について「実質的弁護の水準に遠く及ばない」と指摘し、審理が不十分だったとして破棄差戻しを求めた。
 その上で「一審死刑という重大事件であり、オウム事件のように国選弁護人を複数選ぶべきだったのに東京高裁はそれを怠った」と訴えた。
 判決で大出裁判長は「弁護人依頼権が侵害されたとは言えない」と退けた。
備 考
 松井被告は週刊誌「週刊金曜日」に自らの犯罪体験を投書。1999年1月22日号に掲載された。その中で松井被告は、以前掲載された死刑制度賛成の投書に対し「刑が軽いから凶悪犯罪が多発すると言っていますが、刑の軽重は犯罪の発生には全然関係ありません」と反論。自分が死刑を言い渡されていることを明かし、犯行時の心境を「死刑になるとか、善悪や損得は考えていませんでした」と振り返っている。そして死刑制度に犯罪防止効果はない」と指摘した。
その他
 松井被告は1975年にも、高崎市内で交際を断られた専門学校生(当時20)を包丁で刺し殺し、懲役10年の判決を受けて服役していた。それ以前にも、強姦致傷罪などで服役している。
 近所の人の話では、出所してからは愛想が良く、仕事熱心で、粗暴な印象は受けなかったという。
その後
 再審請求。確定後、一時期姓が中村に変わっていたが、元に戻っている。2011年時点で第二次再審請求中。
執 行
 2017年12月19日執行、69歳没。第四次再審請求中の執行。
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