3/29 火星田マチ蔵様、有り難うございます。 |
(「タイゾー倶楽部」について)
調べて見ました。どうやら87’4月・・・(旗揚げ公演)「爆風幕末ゲーム」だったらしいです。そして現在、タイゾー倶楽部は名前を変え、「遊牧民 NOMADE」と名乗っています。現在はちょっとわからないですが、過去はよくある小劇場(大手ではない)でした。マチ蔵はここの芝居をその後、一回も観ていない・・・ まあ、そういう出来でした(^^;;; 平光さんが観にいっていたのは、「原作:平光琢也」と、その時の「ぴあ」にあった(それを偶然見て、観にいったのがマチ蔵)ので、単に劇団から「原作として使ってもいいか?」というお伺い(ここで著作権使用料を払います。これは原作者と応相談なので、タダの場合もあれば、横溝正史作品のように、1本100万円!って事もあります。)が平光さんに行って,招待券でも送られたのではないでしょうか?単にそういう関係だと思います。 |
3/27 火星田マチ蔵様、有り難うございます。 |
*補足・・・ 第六週のネタだった「新撰組」、これを原作で「タイゾー倶楽部」という劇団が池袋・シアターグリーンで上演したことがあります。マチ蔵が観にいった回、かなり前の席で、「かぶりつき状態」で、平光さんが見ていました。 解散に関しては、当時、平光さんはすでに「演劇集団『円』」のメンバーでしたし、本人たちは「お笑い集団」ではなく、「役者」という意識で「お笑いスタ誕」に出場していたから、もともと「お笑い」は怪物ランドの形態の一つ、という捉え方と、周りの人々との考え方のギャップなんかもあったのではないでしょうかね? |
3/27 三甲みつお様、有り難うございます。 |
てきさすpeartUで、勝ち抜いている時、審査員の糸井重里に「お店の経営も順調なようだし」とコメントされていたのを思い出しました。何の店かは未だ不明です。 情報 テレビ演芸にジョークアベニューが出ていて6週勝ち抜きだったと思います。 放送演芸大賞でのたけし軍団の出し物は、一年目が輪唱コント「おおブレネリ」。二年目が石抱き笑点で、賞が決定した後にそのまんま東がSMのコスプレで出てきました。二年目の石抱き笑点は客も、審査員も引いてしまいました。 その他はちょっと思い出せません。マギー司郎はいつものマジックだったし、キッチュとハイヒール、シティボーイズ、山竹君は全く覚えていません。 |
3/26 火星田マチ蔵様、有り難うございます。 |
怪物ランドがお笑いスタ誕に出ることになったいきさつってまだどなたもUPされてませんよね。では… 劇団魔天楼解散後、現・怪物ランドメンバーで、ショーパブのバイトをしていた所を日テレのスタッフに勧められて…というのがきっかけです。10週勝ち抜き後、一回解散していますが、平光さんの友人の紹介で田辺エージェンシーに行ったところ、行ったその日にうちに入れ、といわれ、社長にすぐに秋から30分の新番組をやるから自分たちでディレクター、番組タイトル、台本、全部半年でやれ、と言われて作ったのが「ウソップランド」だそうです。 (この辺りは過去のStudio Voice「怪物ウソップ物語」に詳しいです) |
3/26 あtろ様、有り難うございます。 |
お笑いスタ誕出演者がやってたお店といえば、カージナルスのスナックが西新宿に、ブラック嶋田のスナックが上福岡にありました。 ブラックさんのお店はマジックショー実演がウリでこんな横断幕がかかってました。 「お笑いスター誕生5週勝ち抜き、ブラック嶋田来たる!」 自分のお店なのに。。。 |
3/26 あtろ様、有り難うございます。 |
銀世会にそんなスナックがあったのは、知りませんでした。 お笑いスタ誕メンバーをライブでみられたのはシャープ市ヶ谷寄席、渋谷円山見番寄席などでしょうか。末期の日劇MHにもシティボーイズや梅介D51らが出てました。 また、あまり知られていませんが初期のシティボーイズショーには梅介、金紋などスタ誕芸人が出てたんですよ。 また、スタ誕メンバーに赤信号などを加えて、喜劇っぽい芝居公演をやったりもしてました。 |
3/24 がんちゃん様、有り難うございます。 |
お店の名前は忘れてしまいましたが川崎駅の近く(銀世会)にあったスナックにお笑いスター誕生の出場者(ぶるうたす、ミスター梅介、小柳トム他)が出演していたお店がありました。 |
3/22 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
今週発売の「ザ・テレビジョン」で、「LOVELOVEあいしてる」のプレーバックコーナーみたいなのがあり、TOMBこと小柳トム氏の前説の内容が少しかかれていました。 「(スタッフとやせられるか賭けをして)16キロ落ちちゃった。 ××(某食品メーカー)にアタっちゃたのよ。本当に。ダイエット初めて体重が落ちはじめたんで少し体を健康に戻そうと思ってね。大阪にいるとき体にいいのは牛乳とヨーグルトと思ったらあたったんだよ。(中略)痩せるつもりだったからいいかって考えてたの。ただね、仕事の後、人が話してるのを聞いちゃったんだよね。『あの人ガンよね』って」 他にもいくつか書かれていました。警察がらみのネタもありました。 |
3/22 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
最近の新聞で、ミヤ蝶美・蝶子の独演会宣伝のニュースがあり、そのなかで、蝶美さんが行方不明の元夫を探していることを発表していました。「漫才でまた有名になれば名乗り出るかも」という希望があるらしく、彼女一人で育てている3人の子供の養育費ぐらいは払って欲しいと言っていました。 平成2年か3年の「ザ・テレビ演芸」のゲストとして、「島田洋七・間寛平」という漫才コンビが登場しました。もちろん名前のとおりの二人で、B&Bの再結成の前にちょっとだけやっていたようです。ただの企画コンビではなかったので、この頃に洋七だけ吉本興業に復帰したのではないのでしょうか? (漂泊追記 この頃の島田洋七は、間寛平、太平サブロー、上方よしおなどとコンビを入れ替え、イベントなどで漫才をやっていたそうです。吉本興業を辞めるときもサブロー・シローと違い、けんか別れではなかったので、とくに寛平の貸し出しに問題はなかったのだと思います。吉本興業の復帰は、B&B再結成時です。) 余談ですが、「ザ・テレビ演芸」の最終回にに勝ち抜いたのは金谷ヒデユキです。後を引き継いだ「笑いの王国」の第1回に勝ち抜き者として登場しました。 |
3/19 あtろ様、有り難うございます。 |
S56.4.4放送分、先日当時の新聞テレビらんを調べましたら「悶絶!異色スター大会」とあります。特バンだったのでしょうか?出演者も気になりますね。ちなみに3.28は「大挑戦グランプリ」となっています。これって10週目のことじゃないですよね。うーむ。。。 |
3/16 あtろ様、有り難うございます。 |
ザ・KAWACHIは「シャープ市ヶ谷寄席」でみたことがあります。日本テレビの近くにあるシャープのショウルームでやってたのでよくスタ誕・テレビ演芸系の人が出てました。竹中直人がレギュラーだったり、シティボーイズやウンナン、中村ゆうじも出てたり、入場無料だったのが不思議なくらい豪華なメンバーでした。それでも平日の昼休みにやってたので毎回客は10−20人くらい。司会の三遊亭歌文さんも客集めに苦労してました。 |
3/14 マルチナ.ヒンギス様、有り難うございます。 |
ザ・KAWACHIの辻弘司さんは今、南河内の或る所でテニススクールの支配人をしてます。(経営)私はそこのスクール生だったことがありま〜す。 |
3/13 あtろ様、有り難うございます。 |
テレビ演芸五代目グラチャンは伊東かおるさんです。 10週勝ち抜きはパワーズ、ダチョウ倶楽部、B21スペシャル、浅草キッド、だるま食堂とそうそうたるメンメン。 そのあと5週勝ち抜きになり、最後のチャンピオンがAKIKOでした。 |
3/8 あtろ様、有り難うございます。 |
再チャレンジ・新チャレンジは単純にネタ見せに来てた芸人のなかから毎回2−3組、優先順位をつけて収録会場によんでいました。よくスタンバイ組を客席でみかけました。 ところが全員合格などになると次回約2週間あとの収録にまわされ、こまってしまうのが関西から挑戦してきてる芸人(とくに定席かかえた人)。ゆえに初期のグランプリシリーズではらん太・みい子などは飛び石勝ち抜きが認められていました。第一回のGルーキー予選でくにおとおるが後半に集中して出場したのもそのへんを考慮に入れてのことでしょう。 |
3/7 三甲みつお様、有り難うございます。 |
タモリは割かしきびしめでしたか。私のタモリのイメージは、米丸や京唄子が気付けない新しめのお笑いにすぐに反応し、オカマネタのお笑いが好きというイメージがあります。九十九一が出てきた時、審査員の受けはどうだったのでしょうか。また、仮にダチョウ倶楽部や竹中直人が出たとしたら、米丸や唄啓はついていけたでしょうか?ここでのタモリの役割は、「テレビ演芸」での糸井重里と同じだと思っていました。 |
3/6 三甲みつお様、有り難うございます。 |
>新・しのざき美知 さん カジノフォーリー情報ありがとうございます。そこの編集長は、旧紙のプロレスで見かけた記憶アリ。 >ノミスさん 「お笑いエース登場」で間違いないと思います。当時の記憶ではなかなか梅介が出ず、大方のメンバーが出尽くした最後の方でやっと出演した記憶があります。 ロボタンの勝ち抜き週ですが、その当時は家族からの情報が頼りでした。だから信憑性にだいぶ難があります。私は1週勝ち抜き後に就職と思っていました。そうなると、テキサスコンビの4週も怪しくなってきます。果たして銀賞のかかった大事な時につなぎみたいなネタ(催眠術でカニになるネタ)をかけるでしょうか。再チャレンジの4週目で落ちていたかもしれません。 他に気になる事は、再チャレンジのスパンの個人差です。らん太みい子が20週(プロ)、テキサスコンビ31週(プロ)、トム15週(アマ)、徳永良治23週(学生)、伊達家酔狂13週(学生)、でんでん12週(アマ)。こうしてみると、プロはわりかし長めです。まあ、とんねるずも長いのですが、彼らはアマチュアで社会人でしたから別として。人気も再チャレンジまでの長さに関係があったのではと思います。 |
3/5 うーやん様、有り難うございます。 |
ロボタンは確かに3週勝ち抜いています。 そして、TIMさんがおっしゃられているように、就職で出場できなくなった、と番組内でも山田さんが言っていました。 |
3/5 あtろ様、有り難うございます。 |
アゴキンの8週目はたしかに自殺ネタでした。キンゾーが高熱があったのにそれをはねのけてチャレンジしたものの、ネタの題材の暗さを京唄子に指摘されていました。 Gルーキー賞前の措置は中尾さんからも説明があり、今後は再チャレンジだけになりますといってたのでアゴキンの場合も特例でしょう。 |
3/4 ノミス様、有り難うございます。 |
「お笑いエース登場」…お笑いスタ誕出身者のみならず、やすきよ以下紳助・竜助、ツービート、春日三球・照代など当時ブームの渦中にいた芸人も出演していました。制作も日テレでなく、大阪よみうりテレビ制作で、読テレの「思い出の漫才コンビ〜」などの企画では当時のVTRが放送されることがあります。 OAは、毎週土曜19:00〜19:30で、この枠は歴代、アニメなどが放送されたよみうりテレビ枠。よってブームの余派で番組が誕生しながら、プロ野球シーズン中の放送だったので、雨傘番組っぽい扱いだったと思います。 |
3/4 新・しのざき美知様、有り難うございます。 |
<カジノ・フォーリーについて> ’83〜’86頃まで出ていたようですので、たぶんお笑いスター誕生放映中の刊行だったのではないでしょうか。5号でて休刊になりましたが、’92に復活しました。が、この年に3号でてまた休刊になりました。その後’92、’93に”キンゴロー”という単行本に姿をかえ、これは2冊でました。さらにその後には、’94、「GAG!GAG!!GAG!!!」となって(これも単行本です。)発売されました。・・・*’92に出た3冊は、「吐夢書房」という所から(’83〜’86の分は不明)キンゴロー以降は”ワニブックス”から出てます。 <内訳> 創刊号(’83・10月)・・内容不明 2 号(’84春号、としか書いてません)・・イッセー尾形、中村ゆうじ、竹中直人など・・表紙〜中村ゆうじ 3 号(’84冬号)・・伊丹十三ロングインタビュー(!!)、竹中直人、*・・南伸坊やなぎら健壱などが執筆しています。・・表紙〜アゴ&キンゾーのキンゾー(たぶん) 4 号(’85春号)・・シティーボーイズ、大竹まことインタビュー、おれたちひょうきん族舞台裏、デタガリ三宅インタビュー(!)、(あの)横沢彪・<表紙>大竹まこと 5 号(’86夏号・7月だったらしい)・・ニッポン喜劇映画特集、お笑い界のニューウェーブ(ウッチャン・ナンチャン、おきゃんぴー、パワーズ)、ラジカルガジベリ、ビンバシステム、ワハハ本舗・・<表紙>〜パワーズ 前での”キンゴロー””GAG!GAG!!GAG!!!”の巻末にこれらの本の通信販売のおしらせ(実は、上記の内容は、そこから引用したものです。)が載っています。でも、7年前の通販ですからね・・在庫あるのかな〜次の所へ問い合わせしてみたらいかがでしょうか? カジノ・フォーリー社(現在も存在しているのでしょうか?もし存在していたらゴメンナサイ)tel:03・3371・9201 または、ワニブックスへ。 「お笑いスター誕生出身芸人が出ていた火曜7:00〜7:30までやっていた番組」ですが、火曜日だったかは私は記憶に無いですけれども、「お笑いエース登場」というタイトルでした。司会はたしか”お笑いまんが道場”の柏村とかいう人だったような・・(だれか詳しい人いませんかね〜)B&Bがレギュラーで出てたような気がしました。アゴキン出演の後BBが客席の女の子に「アゴキンの魅力は?」と聞くと「派手な衣装」と返されていました。 |
3/2 TIM様、有り難うございます。 |
「1981年勝ち抜き表」のデータを拝見して、ふと疑問に思った事があります。 実はこの年の春に、私は後楽園ホールに公開録画を見に行っております。 このころ通常は山野ホールで行っておりましたが、その日は春休みだった為キャパの大きい後楽園ホールを使いました。 ところがその観に行った回を「勝ち抜き表」で確認しようと思ったんですが、私の記憶と大きく違うのです。 私の記憶では、 1.収録は3月末。 2.その時はアゴキンの5・6週目か6・7週目だった。(2本撮りでした。) 3.その一本目で、「4週目」のロボタンが出てくるはずだったが、札幌に就職が決まった為出場辞退した事を収録前中尾さんから聞いた。(アゴキンとともにお目当てだったのでがっかりした。) 4.その収録に九十九一は出てこなかった。 5.2週も番組が休みになった記憶が無い。 6.その収録の日ではないが、アゴキンは8週目で一回落ちた。自殺ネタで、審査員には不評だった為。 まあ僕の記憶違いの可能性もありますが、ロボタンが銅賞取ったのとアゴキンが8週目で落ちたのは多分間違い無いような気がします。 ・・・段々と自信が無くなってきましたが。 いちゃもんというか、悩ませる事だけ書いて、申し訳無いです。 どなたか、覚えてないでしょうか。 |
2/27 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
ロボタンことDONさんですが、また「ドン川上」に戻したようです。 札幌雪祭りにワンギャルと出たとき、この名前で紹介されました。 松竹梅の梅村さんですが、1997年頃に「ディスカス」を解散した後に、TVガイドのスター名鑑に出ていました。 立ち読みだったのでうろ覚えですが、事務所はホリプロではなく移籍したものと思われます(どこかは覚えていない)。そして、経歴の中に何かゴルフのビデオに出ていたことがかかれていました(何のビデオかは覚えていません)。 次のスター名鑑には名前がなくなっていたので1998〜99年頃に引退したと思われます。 そういや、ディスカスがGAHAHAに出たとき、審査員の島田洋七に「あとにいいもの残そうなんて思うなよ!住所も家もしっとるんやで!こんなとこで会うとは思わなかったわ!」とハッパをかけられていました。 でも、ディスカスはうますぎる分、5週がせいっぱいかな。GAHAHAは4週くらいだったらしいし。 |
2/23 あtろ様、有り難うございます。 |
田原しげるを知ってるなんて。。。昔、楽屋で「浜圭介紹介してあげるよ、友達だから」っていわれたことあります。 女芸人はこの番組に出てたら育ったかもしれませんね。 王様とロバの耳、つげシスターズ、エンジェル、くれない組、相馬ひろみ、チャイルズ、だるま食堂、女子高生、桂小文、もっかまかりん、ちゃっかりん、コントOL,みかずき組、コント悪魔さん、ミックマック。。。。。 ちなみにだるま食堂は番組末期にネタ見せにきてました。 |
2/21 ノートリアス様、有り難うございます。 |
爆笑オンエアバトルはピン芸人に厳しすぎる!! ピン芸人で10回以上オンエアされている人は今のところ見当たらない。 今一番近い位置にいる人で「田上よしえ」と「陣内智則」と「ユリオカ超特Q」ぐらいかなあ(3組ともに4,5回程度OA) もしも「お笑いスター誕生!!」出身メンバーがその当時のネタを披露したら・・・ イッセー尾形(×)・・・「気」で笑わすタイプなので 短期決戦で大爆笑を取りにくい。 九十九一(△)・・・・・波が激しすぎだが、一旦OAされると軌道に乗るかも コロッケ(○)・・・・・下手したら民放向き過ぎて×かも・・・ ぶるうたす(△)・・・・ネタは○、格好は×、総合評価で 司浩二(○)・・・・・・このタイプは意外といけるかも・・・ 牧田博(×)・・・・・・オジン話芸は若者に指示されにくい でんでん(△)・・・・・ダンディ坂野っぽいので「評価」も「OA」も同位置だろう ミスター梅介(△)・・・放送コードギリギリ、当たれば爆発性有り マギー司郎(○)・・・・まさにピッタリ「なごみ系」のお笑い NHK大喜び 小柳トム(×)・・・・・警察を小馬鹿にしたコントとみなされ却下、完全に民放向き これは自分の好きな芸人を贔屓しているわけではございません。 あくまでNHKならばこんな感じで評価するだろうという見方をしています。 ご了承ください。 ○・・・10回中 8〜10 △・・・10回中 4〜7 ×・・・10回中 0〜3 皆さん いかがでしょうか? |
2/20 ノミス様、有り難うございます。 |
NSCの第1期ダウンタウンをメインに、以下に続くハイヒール、ピンクダック(ミチ・レイコ→解散)ボブキャッツ(ヒロ・雄大→解散、ヒロは現・新喜劇座長吉田ヒロ)、今田耕司に、花月進行&弟子出身の岡けん太・ゆう太(当時の表記)、オーディション出身の東野幸治、弱小事務所から移籍のまるむし商店を加えて86年4月、伝説の「4時ですよ〜だ」(毎日放送、第一回ゲスト・明石家さんま)がスタートします。これが2丁目第1期と考えてよいでしょう。圭・修も同番組の金曜日レギュラーでした。 圭・修は東野幸治と同じく、NSCではなく、2丁目劇場のオーディション出身なので師匠はいません。そしてダウンタウンよりは後輩です。 結成当時、圭太・修吉という本名のコンビ名だったふたりがラジオ大阪「2丁目ダウンタウン」という番組内で現在のコンビ名に改めました。関西でダウンタウンと人気を二分して、圭修が冠番組を持つようになってからも、浜田さんに「圭太、修吉」と呼ばれていて「あのぉ、圭修になって、もうだいぶ経つんですけど」と控え目に突っ込んでいました。 ダウンタウンを除いた若手のなかで、人気がダントツで「4時です…」金曜日担当だった圭・修はやがて、番組を卒業と同時に、87年11月開場した、現在のNGKに併設されたテレビスタジオの目玉番組として、彼らのメイン番組「素敵!KEI-SHU5」(関西テレビ月〜金夕方5時)がスタートします。彼らを中心にらいむらいと(解散)、どんきほーて(同)、130R、ポテトフライ(片方の青野敏行は現在、新喜劇に)、そして石田靖といった若々しいメンバーを各曜日起用しましたが、視聴率が伸び悩みました。というのも、4時からの「4時です…」、5時からの「KEISHU…」と、吉本としては2本立てで売り出したかったのはやまやま、どちらも生放送、地理的に行っても道頓堀を挟んで、北側の2丁目劇場、南側のNGKと、出演者、スタッフ、構成作家、すべてにおいて、先発の「4時…」に優秀な人材が流れてしまい、不利な条件でスタートした「KEISHU…」の劣勢は目に見えて明らかでした。 また「4時…」のスタッフは、往年の公開バラエティ「ヤングおー!おー!」や、「突然!ガバチョ」、またラジオの「MBSヤングタウン」を支えたスタッフで、局としても吉本とは長らくの蜜月関係にあったことがノウハウを培ったうえでの成功に比べ、関西テレビは「ナイトパンチ」(73年)以来、長らく吉本若手の公開番組を制作していなかったのも痛手でした。 それでも圭修は安定した人気を誇り、当時はレコードを発売するまでになり、なかばイケイケで、ダウンタウンより先行して東京進出を図りました。(87年、オールナイトニッポン)関西以外のかたが「圭・修」をダウンタウンの先輩と勘違いするのはこのためだと思います。 吉本側もダウンタウンに関しては、圭修よりも大事に育てて行こうとしたらしく、結局、圭修のノウハウとして、のちのダウンタウン東京進出に生かされるのでした。 長らく視聴率の伸び悩んだ「素敵!KEISHU5」(関西テレビ)のテコ入れとして、レギュラーメンバーを一部、「4時ですよ〜だ」(毎日放送)のレギュラーと交換を図りました。この交換で、けんたゆうたが「KEISHU…」に出演したり、130Rが「4時…」に出演したりしました。この時期に「KEISHU…」から「4時…」に石田靖が2丁目にやってくるのですが、元来のメンバー、とくにメインのダウンタウン松本からはまるで「転校生」のような扱いをウケ、かなりイジメられていました。89年あたりから東京での仕事が増え始めたダウンタウンに替って、今田・東野にこの石田を加えたユニット「3ばか大将」が「4時…」の末期を支えました。 一方、徐々に「KESHU…」が持ち直した1988年春、森脇健児・山田雅人をメインに「ざまぁKAN!KAN!」(読売テレビ)がスタートします。放送は月〜金夕方5時で「KEISHU…」の裏番組。当初は森脇・山田とも無名の、しかも松竹芸能ユニット番組にあまり期待は寄せられませんでしたが、「送られてきたハガキはすべて読む・ボツなし」を謳い文句となり、日に日に投書や、スタジオ観覧希望のハガキが増え、あっと言う間に「ざまKAN!」は人気番組となりました。 バンドブームだった当時、メインテーマ曲をGO−BANSが歌い、艶やかなセットのなか「ざまKAN」の「ただハガキを読むだけ」という一見、安易だと思われる構成でしたが、この番組を制作したスタッフは「ただ喋るだけ」、そう同局の人気深夜番組だった「鶴瓶・上岡パペポTV」と同じであったことは偶然だったと考えるか、いいえ、柳の下にドジョウは二匹いたのです。 こうして「KEISHU…」が消え、その後も関西テレビはベテラン中心の純粋演芸番組や、情報番組が制作しましたが、ことごとく「ざまKAN」に駆逐されました。70年の大阪万博以降、松竹が吉本に勝ったのは、おそらく史上初の出来事で、「ざまKAN」最終回は、なんと大阪城ホールに1万人を集めた大イベントとなりました。 ダウンタウン、圭・修、森脇・山田…こうして、関西中の中高生を巻き込んだ「放課後公開番組戦争」は幕を閉じました。 ダウンタウンが2丁目を卒業という形で東京進出を果たした89年、時は昭和から平成、残った2丁目メンバーの今田耕司、東野幸治、石田靖のほか130R(板尾創路・蔵野孝洋)らが若返りを図るべく吉本新喜劇の「やめよッかナ?キャンペーン」で新座長として迎え入れられ、2丁目劇場から今度は花月の舞台を支えることになります。そして彼らの敷いた路線が、現在の内場勝則、辻本茂雄、石田靖、吉田ヒロの4座長に受け継がれます。 一方、ダウンタウン一行がそれぞれの道へ歩みだしたあとの2丁目劇場ですが、「2丁目えぶり亭」として、若手中心からトミーズ、どんきほ〜てなど中堅を巻き込んだ編成になります。東京から浅草キッドが登場したのもこのころでした。 一時のブームを比べ客席も閑古鳥が鳴く状態にあって、苦労の末に飛び出した若手がベイブルースであり、トゥナイトでした(NSC9期生あたり)。さらに続くナインティナイン、雨上がり決死隊、へびいちご、バッファロー吾郎、チュパチャプス、FUJIWARAといった6組がのちの「吉本天然素材」です。この天然素材には当初、ぜんじろうや、先のベイブルース、トゥナイトらも漠然と存在し、この世代を一纏めに放った番組が不定期放送されました。「怒涛のくるくるシアター」(読売)という番組です。 ぜん、ベイブ、トゥナを除く6組が、東京進出後、さらに2丁目を支えたのがジャリズム、千原兄弟、メッセンジャーといったメンバーで彼らを中心に「えぶり亭」から「2丁目ワチャチャライブ」へと変貌します。「ワチャチャ〜」メンバーが中心となった番組に「すんげーBEST10」(朝日放送)です。ベストテン形式でネタを披露する番組で、コンビネタ以外にもコンビの合体、解体、再編(ひょうきん族の『うなずきトリオ』みたいなもの)は、のちにユニットコントと呼ばれ、新たな笑いを生み、年に一度、大阪城ホールでイベントが組まれるようになりました。2丁目、第二の黄金期です。 「ワチャチャ」のメンバーは、中心にいた、千原兄弟が先輩に習って東京進出、ジャリズムなどもその後に続きましたが惜しくも解散、またメッセンジャー、中川家のように、王道漫才で地元で独自の道を求めたコンビと様々でした。 東京進出後の「天然素材」はナイナイ、雨上がりの独立、チュパチャプスの解散など、規模縮小後解体されましたが、ナイナイ、雨上がりに続くかと思われたFUJIWARAが地元大阪でパワーが爆発、遅れて東京進出すた千原兄弟に代わって、若手の中心となり、2丁目閉館、今のbeseよしもとに繋がります。 このbeseから生まれたのが「キングコング」「ランディーズ」「ロザン」「ビッキーズ」そして「ルート33」は、漫才で勝負しようとしている今が旬の若手です。 漫才が、萬歳から万歳を経て、さらに「THE−MANZAI」…この若手に先のメッセンジャー、中川家、さらにトミーズ・ハイヒールといった20年選手が一団となって不定期に放送されるのが漫才番組が今、関西で話題を集めています。 漫才をひっくり返して「ZAIMAN」(読売テレビ、3ヶ月に一度放送)。2丁目劇場が開場して15年、THE・MANZAI放送されてから21年が経ったのです。 (手元に何の資料もないまま、思い出し思い出しで書いたので、多少、間違えてる部分もあります。詳しい情報があれば、お教え願いたいものです。) |
2/20 あtろ様、有り難うございます。 |
たしか浮世亭リングサイドの前身がミヤ蝶太・蝶作のはず。山田康男のまねなんてやってましたが0週でした。 ザ・パンツは正しくはパンツ(とんねるずの素人時代の芸名がザ・ツンパ)でした。お昼どきに得意ネタ「中森ヴァギナ」は放送不可でしょう。 ショートコント日本一はSECRETという名前でいまでも「笑ギャラリー」に出ていますよ。 ホラッチョさんは名前だけしか面白くない芸人さんでしたね。 |
2/19 あtろ様、有り難うございます。 |
ちまちまさんがご覧になったのは「やすしの漫才教室」だと思います。 毎月レギュラーでいまはなきコメディシアターでやっていました。 最初の二回はテレビ放映されましたが、やっさんがもっとも荒れてたころで、遅刻したり来なかったりで自然消滅しました。 若手芸人が芸を見せた後、ベテラン中堅芸人が批評。そのあとやっさんも直接批評するというテレビ演芸よりもえげつない方式でした。 一回目の優勝が圭修、二回目がこだまひびき。他にもウンナン、Wコミック、蛍雪次朗一座、ペコちゃん、松竹梅、遊平・かおり、ヤンキーズ、まるむし商店、ルンルン、キューティーズ、キリングセンス、SS軍団、象さんのポット、ブッチャーブラザースなど東西&番組&有名無名を問わず豪華な若手陣。審査員の大平サブローも「すっごいメンバーやなあ、同期もおるし(松みのる)子どもの頃みてた人も折るやんか(Wコミック)」と驚いてました。 もちろん、赤ら顔でいつもやってくるやっさん何も起こらないはずがありません。 象さんのポットがネタをやり終えた後のことです。。。(つづく) |
2/18 ちまちま族様、有り難うございます。 |
はるか昔なんですが、花王名人劇場で”若手芸人発掘…”みたいな番組をやっており(タイトル忘れました)、若手芸人が4、5組くらい出ている中で松竹梅と岡けんたゆうたが出ていました。 その時、松竹梅のやったコントの中で、松みのるが火のついた紙を口の中に入れて消火するというネタがあったんですが、司会の横山やすしに(何て言ったかは忘れましたが)「そこまでして笑いとるな!」みたいな事を言われてお叱りを受けていました。 でも実は以前に「お笑いスタ誕」の「爆笑紅白大合戦」の中でも同じネタをやっており、その時の点数は何と、「第3回サバイバルシリーズ」初出場のコント山竹君が出して以来の100点満点! 同じネタでも見る人によって全然評価が違うって事ですかね。 岡けんたゆうたの方は、審査員としてゲスト出演していた太平サブローが、ゆうたに言った一言「君、衣装オジン臭いなぁー!」(僕は、衣装だけじゃねえだろと思ってましたけどね、苦笑)。 ちなみにその番組では、最終的に一番面白かった芸人を決めるのですが、優勝は圭修でした。当時そんなに面白いって印象なかったんですけど、やっさんも「このなかではお前らがマシ」くらいな評価しかしてませんでした。 |
2/18 あtろ様、有り難うございます。 |
吉祥寺少年団=ジョージボーイズです。リーダーの大久保アキラ氏はその後バンバンGのメンバーとして元笑パーティーのばんきんやさんとコミックバンドをやったり、ドンキーカルテットのフォロワー的な存在です。残りのふたり(蘭丸さんとマ助さん)はニュースペーパーで頑張っています。どちらも笑パーティーにくっついたところが不思議ですね。 ちなみにテレビ演芸では勝ち抜けませんでした。 もともと吉祥寺をベースに活動していた「スタジオライフ」という劇団のメンバーから出てきたお笑いのメンバーでした。「スタジオライフ」も最近東京では注目されてきた劇団のひとつです。 でも吉祥寺をジョージタウンって呼んでた時代。。。一昔前ですね。 |
2/15 あtろ様、有り難うございます。 |
紅白対抗戦の個人ネタみせを稽古場でやったときのこと。 サバイバルシリーズで最低得点を記録したのに、まんぼうはなぜかメンバーに選ばれ、ここでも低得点を記録していました。 それでもはりきってトップバッターとしてネタ見せに挑んだものの、いつものしょうもないネタ。 特に「バロムワンのボップ」とかいうひとりよがりのネタが赤尾PDの気にさわったみたいでした。(赤尾さんはこういう自分だけの世界でのネタみたいなものをすごく嫌ってた) 赤尾PDの顔がみるみる赤くなり、ネタ終了後まんぼうにきつーいダメ出し。 ぐうの音もでないほど絞られて、まんぼうの顔がみるみる青くなり、そして赤くなっていきました。こんなときピン芸人は可哀相です。 そして赤尾PDから「こんなんじゃ番組に出せないんで、お前がネタをやってるときに白組メンバー全員でお前をとりかこみ、全員ハリセンをもたせて突っ込むというのはどうだ」という残酷なアイディアまで持ち出されました。 それ以降赤尾PDの機嫌が悪くなったので、ネタ見せではまんぼうをトップにもってくるなという暗黙のルールがしかれてしまいました。 |
2/15 ノミス様、有り難うございます。 |
まんぼうって、あのまんぼう?…松竹芸能の? 彼は一時、天狗になっていたというか、関西夜の街では評判が芳しくない、もっぱらの噂でした。 関西ローカルで「梅まん世間予報」という、関西テレビアナウンサー梅田淳さんと15分間の情報番組を担当していましたが、芸とは裏腹にも関らず、馴れ馴れしい佇まい…醜かったですね。 確か、遅刻常習か何か、態度遡行で松竹をクビになったんだと思います。 その「梅まん〜」で、当時「吉本新喜劇やめよッかナキャンペーン」で旧うめだ花月出演中の130R、オールディーズ(のちに放送作家となる木村祐一がいた、相方の覚醒剤で逮捕後解散)へ取材した回がありました。 例によってまんぼうのあまりクダラナイ(しょうもない)質問と、番組とはいえ、敵陣の劇場において、馴れ馴れしく兄さん、兄さんと芸人かぶれした態度…(番組相方の梅田アナが、関西人はお馴染み、輪をかけて業界かぶれしとるんダ、コレが。) …見事に一蹴されていました。 嗚呼、「まんぼう」を語り継げ? |
2/13 ちまちま族様、有り難うございます。 |
まんぼうは、なんか楽屋ではウケてた人みたいですね。そういう人は大概舞台でつまらないって京唄子が言ってましたけども。 |
2/13 ボロボロ様、有り難うございます。 |
私は、ウンナンのネタを見たことがありません。いろもんSPでチョコッと見た程度なのでぜひとも見てみたいです。あと貴明&憲武も。 |
2/13 とん様、有り難うございます。 |
とんねるずがまだ、貴明&憲武で出ていたころが面白かった! |
2/11 ちまちま族様、有り難うございます。 |
まんぼう、出る度に点数が下がっていって、しまいには70点という、恐らくサバイバルシリーズ始まって以来の最低点を取った人ですよね。 どんなにつまらない人でも、大体皆80点以上はとってたのに…。 |
2/10 ぼくちん様、有り難うございます。 |
牧田博の「突然ですが」シリーズで洟が出ちゃうやつと、4コマ漫才の人(パート2)、骸骨なめ藏ネタの3人組(怪物ランド)、キッチュ、アゴ&キンゾー、ツーツーレロレロ等が印象に残ってます。 ビデオが無かったので、コレを見たさに高校休んだり、早退したり・・・ |
2/10 三甲みつお様、有り難うございます。 |
古本屋で、快楽亭ブラックの本を見つけました。日本映画の評ですがタイトルが『日本映画に愛の鞭と蝋燭を』なので、レジに持っていくには勇気が要ります。 |
2/10 ちまちま族様、有り難うございます。 |
番組を見に行った時にもらったチラシにて: 公開録画を見に行くと、その日の出演者一覧みたいなチラシをもらうんですが、第6回サバイバルシリーズを見に行った時の事。確かぶるうたすの紹介の欄で、(第5回サバイバルシリーズの後に行われた)水上相撲大会で、ミスター梅介に敗北した事が書かれていました。それだけならまだいいんですが、「あの筋肉は見かけ倒しという事が判明」みたいなオチがついていて、思わず笑ってしまいました。 第6回サバイバルシリーズ決勝戦での一幕: 決勝進出者だけでなく、決勝戦ではトーナメントに落ちた人達も応援(?)に駆けつけるのですが、そこで中尾ミエがポップコーンにコメントを求めた時のやりとり ポップコーン(兄か弟かは全然憶えてない)「今日はもう今までの経験を活かして思いっきり頑張りますよ!」(会場、笑) 中尾ミエ「今日は応援だけ!」 ポップコーン「あぁー、そーですかぁー!!」 この白々しいボケが自分は大好きでした。 ポップコーンのエピソード、もう一つ: 「鶴ちゃんのプッツン5」にゲスト出演した時のこと。 ポップコーンの2人が、ネタも交えてあーでもないこーでもないと、トークを爆発させていて、司会の鶴ちゃんも爆笑に継ぐ爆笑。鶴ちゃんの最後に言った一言、「こんな面白いのに何で売れないのーーー!?」と、本当に不思議がっており、それには僕も全くの同意見で、テレビの前で笑いながらもうなづいてました。 「ブレイク」のネタ: あまり面白かった印象はなかったとの事ですが、同感です(苦笑)。 ネタですが、確か「仮面の忍者・赤影」のカラス天狗の物まねってのがありました。 やせた方(彼らの名前、全然知りません)が「なんかこいつ、「仮面の忍者・赤影」のカラス天狗に似てません?」と客席に振る。すかさず太った方が、「何を言うてんねん、誰がカラス天狗に…」とか何とか言いながら顔を下に向けて、ごそごそと前髪を額の真中に寄せ集めて「…似てんねん!」と言って顔を上げるとあら不思議、カラス天狗に変身しているという(笑)。ま、掴みとしてはまあまあでしたね。 ちなみに、彼らを生で見たのが、たまたま客席の2列目(水野晴男先生と近江俊郎先生のすぐ後ろだったので、まあ事実上最前列って事も言えますけどね、笑)というテレビ丸映りの席だった事もあって、なんかやけに憶えてます。 松竹梅ネタ: 3人でビーチバレーか何かをしている時に、誤って客席の方にボールを飛ばす(もちろんネタ)。 すかさず松がとりに行ってボールを舞台に戻したのはいいが、背が低いせいか自分が舞台に上がれない。 そこで竹が松の頭を片手で掴んで引きずり上げる(持ち上げられる時、松は軽くジャンプしてガニマタ状態で舞台に着地)。 元ネタは関西の「ジュン&ダン」という人達だそうです(僕は見たことありません)。 当時僕は中学生だったのですが、校内の段差のある場所へ行っては、背が低くて体重の軽い友達を選んで、段上に掴み上げるというこのネタをやって遊んでました(なんてマニアックな遊び…)。 |
2/10 ノミス様、有り難うございます。 |
ピンナップ「ぞうとりす」の覧を見ていて思い出したのですが、ある日の新大阪駅の改札で、キップを買おうとしていた笑福亭鶴瓶さんに向かって、とあるご婦人が語りかけたそうです。 「鶴瓶さん、鶴瓶さん、いつも姪がお世話になっています!」 「ああ、どうも、どうも…姪?、あのォ、どちらさんでしょうか?」 「申し遅れました、私、ゾウの叔母です…」 |
2/6 うーやん様、有り難うございます。 |
ミーコの方は全くわかりませんが、ナオコは若井こづえ・みどり門下になったと思います。何年か前のオールザッツ漫才に若井なんとか(名前忘れました)で見たことない人と漫才やってました。 |
2/5 あtろ様、有り難うございます。 |
Wさくはたしかにやすけいのライバルでしたが、差がつくのも早かった。 で、その「脱ぐ脱がない」っていうのはやすけいの件とは関係なく、彼女らがのっていた今はなき「新世界花月」でのこと。 私も行ったことありますが、ここの客のガラの悪さはひどく、ジャンジャン横丁で昼酒のんだ赤ら顔のおっさんばかり。。。 NHKでやっていたのは酔ったおじさんが「オイコラ、そんなしょうもない漫才せんと裸にでもなれや」というヤジに舞台で応戦してたナオコのこと。 Wコミでいう、ねえ脱ぐの脱がないのみんな脱ぐのにねえナニヨ!でした。 |
2/5 あtろ様、有り難うございます。 |
(Wさくらんぼは)松竹です。 実はこのころミーコさんと仲がよくて大阪や東京で何回か飲みに行ったりしていました。 たしか彼女は解散後、演劇女優になったはず。 客席に向かって「うちら漫才で勝負してるから脱がへん」と啖呵切ったのはナオコ。 舞台は大阪・新世界の新花月です。NHKのドキュメントで放送されましたね。 コンビ替えして音曲漫才してましたが。。。 |
2/3 出原正裕様、有り難うございます。 |
Wさくらんぼって松竹芸能の所属ではなかったでしょうか? 客席に向かって「うちら漫才で勝負してるから脱がへん」と啖呵切った舞台は大阪・新世界の新花月だったはずです。 |
1/26 あtろ様、有り難うございます。 |
「紅白歌のベストテン」でMANZAIスペシャルがあり、一回目はネタ&歌形式でBB、ツービート、おぼんこぼん、ぼんち、のりよし、やすけいなどが出演。「太陽は燃えている」を見事なハーモニーで唄ったおぼんこぼんが注目されましたが、「TOKIO」のBBが優勝。 二回目はモノマネねた形式でBB、ツービート、やすけい、おぼんこぼんは単純にモノマネを織り込んだネタをやったもののそんなにうけませんでした。ここぞとばかりでてきたコロッケ(この日が実質、全国デビュー)ゲストの岩崎宏美のマネでバカウケ。優勝をかっさらい大反響のあまり次の週野口五郎がゲストのときもも呼ばれました。 コロッケのバカウケのあと、でてきたのは、くにおとおる。くにおがオカマの格好で淡谷のり子のマネをやったもまるでうけず、司会のマチャアキをおこらせてしまっていました。 |
1/26 三甲みつお様、有り難うございます。 |
(伊東薫は)テレビ演芸で見ました。タモリがまだ名古屋をネタにしていた頃なので、これだけでも受けていました。 前に書いた文春は鳥の表紙のやつでした。南原の話だと、せっかく『夕ニャン』に出ても、商品のラジカセが欲しくてクイズに勝ってしまい、干されたそうです。 「日本の首都は」ナンチャン「東京!」客席「おニャン子に勝たせんだろう」ディレクター「もう、おまえら明日から来なくていい!」 |
1/26 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
怪物ランドの郷田さんが声優として有名になってしまいましたが、おぼん・こぼんの二人はルパン三世以外にも「美味しんぼ」でも声優をしてましたね。「山坂すべっ太・ころん太」という漫才師の役でした。 あと、葉月パル(パルコ)は「ポケットモンスター」で声優に挑戦していました。「マギー」という手品師の役で、見た目はつぶやきシローのような手品師でした。しゃべりはマギー司郎の方でしたが。 |
1/24 うーやん様、有り難うございます。 |
1週遅れは、基本的にはそんなに問題にはならなかったですね。今と違ってネットが発達している訳でもないので、見る前に結果がわかってしまう、ということは、あまりありませんでした。 ただ当時のダントツ笑激隊が土曜夜にやっており、その日の昼の放送で九十九一がグランプリを獲ったことを発表していたことがありました。 1週遅れの調整は、たまに1週飛ばして放送していましたね。 |
1/23 三甲みつお様、有り難うございます。 |
伊東薫の代表的ギャグ 「名古屋から来た伊東薫です」 これだけで(お客は)笑いました。 |
1/23 漂泊です。 |
放映時間の違いは、何とかまとめてみたいところなんですが。 わかっているところでは、岡山・香川では日曜日の昼の12時から、広島・北海道では昼の1時から。北海道はサバイバルシリーズ決勝直前で放映が終わりました。恐ろしい話です。 岡山は第3期あたりから土曜12時に時間帯変更、1985年から土曜夕方に移り、最終回までやっていました。東京と全く同じ放映だったようです。最初の頃は1週間ずれていましたが。これは北海道も同様のようです。 |
1/23 うーやん様、有り難うございます。 |
こきりんさんの読売テレビ情報に補足を。 まずスタートですが、当初は東京から1週遅れの日曜午後12:15から放送していました。その後、東京と同じ土曜12:00に移動しました。そして怪物ランドが5週勝ち抜いたところで1度目の打ち切り。 再開は第4回サバイバルの決勝戦から。東京が土曜夕方17:30に移動してからも読売テレビは1週遅れで、そのまま土曜12:00から放送していました。そして第6回サバイバルの準決勝で2度目の打ち切り。 その後、放送されることはありませんでした。 私は電話で深夜でもいいからネットしてくれ、と訴えましたが、聞き入れてもらえませんでした。 |
1/21 三甲みつお様、有り難うございます。 |
アントニオ=ぶるうたすについては、聞き書きなので実物を見ていません。家族の話では筋肉天気予報をやっていたらしい。また、ザ・ホープはチャンピオンだったと思います。どこのプロダクションからもお声がかからず、寂しい顔をしていました。 伊東薫は、名古屋弁講座というカセットテープを90年に出していたと思います。 また、婆さんの格好で漫談をしてた記憶があります(ただし、テレビ演芸で) |
1/21 こきりん様、有り難うございます。 |
この番組、大阪の、読売テレビがやったりやめたりで、ひどく断続的だったので必ず観ようとした番組ですが、実に資料不足です。 観た記憶にあるのは (1)すでにB&B卒業後、おぼんこぼんが金賞取るか取らないかの辺から怪物ランドが2,3週ぐらいのところまで。(番組途中打ち切り) (2)第4回オープンサバイバルがすでに終わった後からしばらくの間。(途中打ち切り) |
1/20 ノートリアス様、有り難うございます。 |
「まこと&がっしゃん」情報です。そうなんです。 以前ココのBBSで予告した通り 北野誠のBBSの方とオファーが取れたのです!! 管理人さんの名前は「@誠スポット新文射!」さんです。 タイトルは「神出鬼没 乗って・乗られる!!北野誠タノシー」というHPです!! URL載せておきます。 http://homepage1.nifty.com/kitanomakoto/ |
1/18 あtろ様、有り難うございます。 |
よく看板でみかける居酒屋白木屋の社長の似顔絵って小柳トムに似てませんか? そういえばスタ誕にでてたころトムは歌手の宮本典子とうわさになりましたよね。 横山たかしと春やすこは結局相方のようにはいかず破局でしたが。 あとツーレロのふたりはそれぞれ山田邦子とうわさになりました。 |
1/16 あtろ様、有り難うございます。 |
回転カプセルの定員が三人なのでだれかあぶれちゃうんですよね。 ちなみに四人組は新生キモサベ社中、五人組はアキラバンド、旧キモサベ社中(バックバンド含む)がそう。 ちなみにあぶれた人は舞台袖から出てきてましたね。 |
1/11 火星田マチ蔵様、有り難うございます。 |
(赤星昇一郎さんの新年会) まず、最初からご来場の方々には赤星さん手製のきりたんぽ&からしれんこんが配られたらしい(ついでに言うなら奥様とお嬢様もお手伝いでいらっしゃっていたらしいです)。 0時くらいまではゲストの方々のコーナーや、開場巻き込んでのカラオケ大会という感じでかなり雑然としていたのですが、0時過ぎに郷田さんが到着してからは、Shinさんと生「ストリートウルフ」(番組中、「外苑東通りの狼」のテーマとして歌われていた曲です)怪物ランド三人揃ってのトークと盛りだくさんでした。 開場に散らばっていたグループ(になってしまっていた)を三人がそれぞれ訪問(?)して仕事についてなどを丁寧に教えてくれるありがたい場面もありました。 赤星さん談によれば、「いつかはまだわからないけど、必ず又、三人でなにかやるので安心して待ってろ!」との事。本当に楽しみです。 ファンにとってはこんなにおいしい機会は又とないな・・と思いましたが、三人がいい方すぎて申し訳ないな、とも思ったマチ蔵でした。 |
1/11 あtろ様、有り難うございます。 |
稽古場の黒板にネタみせするメンバーが順にADによって書かれるのですが、そのとき勝手に芸名がきまってしまうケースがよくありました。ウッチャンナンチャンがそうでした。 また長い名前やイメージのよくない名前は即座に改名させられました。 オーディション時はチャチャはいそのなかじま、タージンは地獄家タージマハール、ピックルスはインキーズ、まんぼうはMANPOU、怪物ランドはモンスターファミリー、田村真一郎はうろちいんしらむた(笑)でした。 |
1/10 あtろ様、有り難うございます。 |
オーディションは日本テレビ第2別館稽古場でやっていました。 次の撮りのためのネタ見せの日に、スタッフや芸人の見てる前でやらされるのですが、ほとんど素人のひとはこの次点であがって落ちてしまいます。 赤尾PDが○・△を出した人はつぎもまた来てくださいといわれますが、NGの人はそのままサヨウナラ。 関西でもプロ中心にオーディションはやってたみたいです。 番組後半はプロばっかりきてました。 |
1/10 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
そういえば、お笑いスタ誕、画面の下に時々挑戦者募集の告知をしてましたね? 確か参加資格は「小学校4年以上」とあった気がするのですが? (漂泊追記) 私は番組終了後に挑戦者募集の告知案内を見たことが度々ありました。挑戦者募集のCMで、オーディション風景を見たことがあります。ちょうどブラック嶋田がマジックをやっていて、トランプをひく相手がポップコーンの片方(見分けがつかん)でした。ああやって出演者同士でオーディションをやると怖いだろうなと思ったものでした。 |
1/4 ハンバーグ様、有り難うございます。 |
以前、「怪傑えみちゃんねる」でタカがゲストで出たとき、お笑いスタ誕以降の苦労話をしていました。 人気が出ていた頃、あるプロデューサーから大手事務所への移籍話が来たのですが、二人はすでに今の事務所に入っているということで断ったところ、すっかり干されてしまったとのことです。(これが「ライムライト」が左前になった理由では?) また、再結成というかどうかは分かりませんが、「スーパージョッキー」でかつて「前説ショー」というオープニングコーナーがあり(松村邦洋やダチョウ倶楽部、浅草キッドらが週代わりで出ていた)、思い出した頃にタカと枝豆が「カージナルス」の名で出ていました。彼らがやった内容は、タカが白衣、枝豆が農夫(?)の格好で、その日のゲストの歌う曲の歌詞を解説しながらいじるというものでした。 |