中山千夏『ヒットラーでも死刑にしないの?』(築地書館)


発行:1996.11.27



 私は死刑をなくしたいと思っています。ずいぶん若い頃から、死刑はよくない、という考えを持っていました。でも、もし私が自分の仕事だけしていたら、ただ何となく死刑はよくない、と思っているだけだったでしょう。今のように、ぜひなくしたいと思ったり、そのための運動をしたりすることはなかったでしょう。
(中略)
 一方、仲間を得て、死刑についての知識も増え、死刑はよくない、という確信は強まりました。そこで、八一年春、丸山友岐子さん(死刑廃止を訴える『超闘 死刑囚伝』の著者)と一緒に「死刑をなくす女の会」を発足し、本腰を入れて死刑廃止に取り組み始めたわけです。
 それから十五年、死刑について考え、あちこちで話したり、書いたりしてきました。公に発言すれば、当然、いろいろな批判が返ってきます。思いがけない死刑支持論にもたくさん出会い、そのたびに自分の考えの弱さを知り、こりゃまずい、とまた考えてきました。そして、自分自身の死刑廃止論が確固たるものに思えてきたのは、ほんの数年前くらいからでしょう。
 それを一度、まとめておこう、と思い立ちました。
(中略)
 先に話したとおり、私の考えを鍛えてくれたのは、何よりも、実際に出会う死刑支持論、あるいは死刑廃止論に対する疑問の数々でした。だから本書では、それらの中から、特に印象的で、しかも重要だと思う五つを取り上げ、それに因んで私の意見を述べてゆくことにしました。これら五つは、読者や、読者が説得したい、と思っている人々の中にも、きっとあるものだから、少しはみんなの議論の参考になると思います。そう願っています。
 そして、もちろん、一日も早く死刑がなくなることを願いながら、前書きの筆をおきます。

【目 次】
第1章 死刑は殺人だろうか?
 死刑は殺人ですか?
 オトナが死刑を受け入れるわけ
 死刑とふつうの殺人の違い
 戦争とのつながり
 正義があっても殺さない
 死刑はやめられる

第2章 ヒットラーでも死刑にしないの?
 深遠ではない話
 生命にかかわることだからこそ
 ヒットラーでも?
 英雄の戦死、英雄の刑死
 どこまで殺すか?
 死刑は人々の武器か
 死刑と暗殺・リンチの関係

第3章 殺された人の人権はどうなる?
 死刑になる罪
 あちらの人権、こちらの人権
 人権は正しい
 RIGHTの歴史
 日本の人権感覚
 犯罪と人権
 残虐さと死刑
 治安と死刑

第4章 被害者に悪くて……
 大声ではいえない
 思いやりのかたち---匿名の報道
 思いやりのかたち---補償
「犯人を殺したい」気持ちについて
 気が晴れるのは観客だけ
 死刑廃止を大声で

第5章 あなたの家族が殺されたらどうする?
 たとえば、あなたの家族が……
 被害者はみんな殺意を抱く?
 被害者感情はもっと複雑
 むしろカウンセリングのシステムを
 被害者の真の願いは死刑ではない
 薬害と犯罪被害
 もうひとつの被害---冤罪者
 もうひとつの被害---執行者

第6章 つけたし−死刑をなくすことばと人
 私の論のまとめ
 廃止論者のイメージ
 廃止論者の実像
 死刑肯定の思索
 生への情熱があるから


 この本のまとめは、筆者自身が第6章で書いているので、そちらをそっくり引用したい。★は、筆者による死刑廃止の理由を短く記したものである。

1章<死刑は殺人ですか?>
 死刑はまぎれもない殺人であること。
 ただし、死刑という殺人は国家の合法的な権力行使であり、一方、一般犯罪の殺人は個人の非合法な非論理的行為であること。
 しかし、殺人は殺人なのであって、個人にとっての非論理的行為を国家に許すのは、矛盾でもあり、平和と治安の実現のためにも、下策であること。
★個人の殺人権も国家権力の殺人権も同様に否定しなければ、真の平和も治安も得られない。

2章<ヒットラーでも死刑にしないの?>
 死刑廃止の議論を民衆のものにすべきこと。
 独裁者など悪質な犯罪犯であっても人であるし、死刑はかえって彼を英雄化するおそれがあるから、しないほうがいいこと。
 また政治犯の死刑には、過剰処刑の危険が常にあること。
 死刑と革命時のリンチや暗殺とは別であり、死刑とは常に時の政治権力の武器であって、死刑が民衆の武器になるなどありえないということ。
★死刑は国家権力の武器であり、用意に民衆を抑圧する道具になりうる。

3章<殺された人の人権はどうなるの?>
 法的には、死刑罪の大半はある種の反体制的犯罪に対して定められているが、通常、適用を受けるのは、個人的な殺人事件がほとんどであること。
 権利の言語RIGHTと人権思想の成り立ちを通してみると、人権とは、万人の生来の自由と平等を承認する、民主主義の土台となる概念であること。
 たとえ犯罪者であっても例外であってはならず、人権の根本とも言える生存権を侵してはならないこと。
 その残虐さから見ても、死刑は人権に反する刑罰であること。
★死刑は基本的人権に真っ向から反する残虐な刑罰である。

4章<被害者に悪くて−>
 被害者の救済は、匿名報道や社会保障など実行ある方法でなされるべきこと。
 第三者が死刑を求めるのは、被害者のためではなく、第三者自身の報復感情によるものであること。
 死刑廃止論は決して被害者にて期待するものではなく、むしろ実行ある被害者救済に注目するものなのだから、自信を持って、社会的に死刑廃止論を広めるべきこと。
★死刑は被害者を慰めも救いもしない。

5章<あなたの家族が殺されたらどうする?>
 必ず加害者に殺意を持ち死刑を求めるのが被害者感情だというのは誤解である。
 被害者感情は被害者の立ち直りを妨害する感情であり、第三者が煽ったり加担したりすべきものではないこと。
 むしろカウンセリング制度が必要であること。
 冤罪者の存在、執行官の苦悩という点からも、死刑はなくすべきだということ。
★死刑特有の残虐さは、冤罪者の悲劇を最悪なものにする。
★死刑を保持することは執行官に殺人を強制し続けることである。
★死刑に犯罪抑止力はない。
という確信を加えれば、ほぼここには、私の死刑批判の柱がすべてあると思う。


 読んでまず、この人は幸せな人だな、と思った。人間性善説を心から信じているようだ。
「殺人はいけない。死刑は殺人である。だから死刑は廃止しなければならない」あまりにも単純な論法である。ゆえに正論のように思える。しかし、この論法では、小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(洋泉社 新書y)でも触れられているように、「車は人をはねることがある→だから車をなくさなくてはならない」と同等の論理でしかない。
 また殺人はいけない、とするのであれば、正当防衛、緊急避難、被害者救済のための犯人射殺などもいけない、ということである。自分の生存権が侵されようとしているとき、他人の生存権を奪ってでも自分の生存権を優先するのは当然のことであろう。それでも生存権は侵していけない、とでもいうつもりだろうか。
 人だから殺人を犯すことがあるであろうと認めているのである。なのに殺人はいけないとある。まったく矛盾した発言である。そのことに気がついていないのだから幸せなものである。
 結局性善説に基づいての理論でしかない。だからヒットラーの話などを持ち出しているが、この論理が残念ながら誤りであることは、いまだオウム真理教が存在し、麻原彰晃が崇め奉られている事実からも明らかである。死刑になれば英雄化する、という意見もあるが、例えば刑務所に入れたっていつまでも抵抗すれば一緒のことなのである。むしろ生きていた場合、我々の指導者を取り戻せ、と刑務所を襲うかも知れない。もちろんそのときは多数の死者が出ることだろう。一人の独裁者を生かしておくことで、多数の死者が出るのである。そんなとき、死刑廃止論者は責任をとるのだろうか。
 犯罪者であっても人権の根本である生存権を侵してはならないとあるが、では生存権を侵された被害者はどうすればよいのか。死んでしまったからもう何もしてあげられない、というだけでは被害者は殺され損である。信だから何もしてあげられない、というのは逃げでしかない。
 被害者遺族が必ずしも加害者に死刑を求めるとは限らないが、だからといって全員がそうなるべきだというのは押しつけでしかない。人の感情を一方的に決めつけるのは、それこそ独裁者のやることである。

 以上、様々な反論を書いたのだが、どうだろうか。
 「殺人はいけない」というのであれば、まず殺人の起きない社会づくりを考えるべきではないか。殺人を犯した人間が、刑務所から出てきて再び殺人を犯すケースもある。もし死刑にしていれば、二度目の殺人はなく、生存権が侵されることもなかったのではないだろうか。ありとあらゆるケースと、対応策を考えずに、ただ「殺人はいけない」というのは理想論でしかなく、万人に受け入れられるものではない。

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