死刑確定囚(2006年)



※2006年に確定した、もしくは最高裁判決があった死刑囚を載せている。
※一審、控訴審、上告審の日付は、いずれも判決日である。
※事実誤認等がある場合、ご指摘していただけると幸いである。
※事件概要では、死刑確定囚を「被告」表記、その他の人名は出さないことにした(一部共犯を除く)。
※事件当時年齢は、一部推定である。
※没年齢は、新聞に掲載されたものから引用している。

氏 名
宮崎勤
事件当時年齢
 26歳
犯行日時
 1988年8月22日~1989年7月23日
罪 状
 殺人、誘拐、死体損壊、死体遺棄、わいせつ目的誘拐、強制わいせつ
事件名
 警察庁指定117号事件(埼玉東京連続幼女殺人事件)
事件概要
 無職宮崎勤被告は1988年8月から1989年6月にかけて、当時4歳から7歳の幼女4人を誘拐。全員を殺害して、遺体を山林などに捨てた。また、1989年7月には東京都八王子市で当時6歳の女児を連れ歩き、裸にした。「警察庁指定117号事件」の概要は以下。
  • 1988年8月22日夕方、入間市内を歩いていた幼女(当時4)に声をかけ、八王子市内の山林に連れ出したが泣き出したので絞殺。遺体をビデオに撮った後、衣服を持ち帰る。1989年2月、自宅裏庭で骨などを砕いて焼いた後、2月6日、幼女の骨片や歯などが入ったダンボールを、幼女の家の玄関に置いた。
  • 1988年10月3日、飯能市の小学校付近で遊んでいた幼女(当時7)を誘拐し、車で五日市町の山林に連れ去り殺害。
  • 1988年12月9日、川越市の自宅団地のそばで遊んでいた幼女(当時4)を誘い出し、殺害。近くの山林に遺体を捨てた。
  • 1989年2月10日、朝日新聞社宛に、誘拐、殺害の詳細を綴った「今田勇子」名義の手紙を送った。
  • 1989年6月6日、東京都江東区の公園で遊んでいた幼女(当時5)を誘拐して悪戯、殺害。遺体を自宅に持ち帰り、ビデオ撮影。二日目には遺体を切断し飯能市の霊園などに捨てた。
  • 1989年7月23日午後、八王子市で遊んでいた幼女(当時6)に声をかけて車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしたところ、尾行していた幼女の父親に捕まり、そのまま警察に逮捕された。
一 審
 1997年4月14日 東京地裁 田尾健二郎裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年6月28日 東京高裁 河辺義正裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年1月17日 最高裁第三小法廷 藤田宙靖裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 一審の精神鑑定は〈1〉極端な性格の偏り〈2〉多重人格性障害を主体とした精神病〈3〉潜在的に統合失調症を発病とする三通りの結果が出たが、判決は「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」とする鑑定を採用し、「理非善悪を識別し、それに従って行動する能力を持っていた」と判断し、「心神喪失もしくは心神耗弱」を主張する弁護側の主張を退けた。

 控訴審で弁護側は一審と同様犯行当時の責任能力を争うととともに、「取り調べ中に警察官から暴行を受けた。自白を強要されており、捜査段階の供述は信用できない」「捜査段階の供述に信用性はなく、自白に依拠した一審判決には事実誤認がある」と主張した。
 判決は一審判決を支持し、宮崎被告の責任応力を求めた。また、自白の内容については「内容が具体的で詳細」と述べ、犯人しか知り得ない事実も含まれているとして信用性を認めた。

 最高裁の弁論で弁護側は、宮崎被告に対する幻聴を抑えるための向精神薬の投与量が2002年から増加したことを示し、「幻聴が単語から会話に変わり、投薬を増やしても改善しない。事件当時から慢性的な精神疾患なのは明らか」と主張し、審理を高裁に差し戻し、再度の精神鑑定を行うように求めた。
 これに対し、最高検の井内顕策検事は「直接の証拠を残さずに4回もの犯行を繰り返している。犯行当時、病的な精神状態だった形跡はない」と反論した。
 第三小法廷は「被告に責任能力があるとした一・二審の判決は正当として是認できる。自己の性的欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的で非道。酌量の余地はない」と宮崎被告を断罪した。
著 書
 宮崎勤『夢のなか』(創出版,1998)
 宮崎勤『夢のなか、いまも』(創出版,2006)
執 行
 2008年6月17日執行、45歳没。
 宮崎死刑囚の弁護人は、再度の精神鑑定と刑の執行停止を求める書面を5月末に法務省に提出していたが、鳩山法相は「再審が必要だという具体的な理由が主張されているわけでもなく、裁判でも完全な責任能力が認められている。慎重に調べて執行した」と説明した。
 宮崎死刑囚の弁護人は再審請求について宮崎死刑囚から依頼を受け、2008年2月ごろから準備を進めていた。宮崎死刑囚は東京拘置所で精神科の治療を受けていたといい、専門家に意見書の執筆も依頼していた。
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氏 名
田中毅彦
事件当時年齢
 28歳
犯行日時
 1992年2月9日/1994年4月28日
罪 状
 強盗殺人、殺人、死体遺棄
事件名
 右翼幹部ら2人殺人事件
事件概要
 右翼団体員で大阪府の水産ブローカー久堀毅彦被告(旧姓くぼり 28)は、調理師の男性(30?)、元会社員でトラック運転手の男性(30?)と共謀。1992年2月9日午前零時頃、自動車販売業Iさん(当時29)を飲みに誘った後自宅へ送り、車を降りた直後に用意した紐で首を絞めて殺害した。2月11日、同じ右翼団員で自動車修理業O被告(44?)も加わり、O被告が経営する自動車修理工場敷地に遺体を埋め、上からコンクリートで覆った。
 Iさんは当時、久堀被告と同じ右翼団体に所属し、外車や中古車の販売会社を経営していた。1994年の逮捕後、久堀被告は、「Iさんの会社に客を紹介したのに手数料が未払いだった」と金銭関係のもつれから殺害したと供述した。トラック運転手はかつてIさんの下で働いており、給料を払ってもらえなかったことに腹を立てていた。
 1994年4月、久堀被告(当時30)、O被告(当時46)は右翼団体幹部Y被告(当時32)に誘われ、殺害を計画。4月27日、大阪府の自称建設業、実際は新幹線のチケットなどを取り引きする仕事をしていた右翼団体幹部Fさん(当時54)に架空の収入印紙の取引をY被告が持ちかけ、現金1000万円を用意させた。4月28日午前2時頃、河内長野市の病院駐車場で久堀被告がFさんの首を紐で絞めて殺害。現金1000万円や乗用車などを奪い、O被告が30日に琵琶湖へ遺体を捨てた。
 5月14日夜、毛布にくるまれたFさんの死体が発見された。15日、死体がFさんと判明。滋賀県警、大阪府警は共同捜査本部を設置した。6月22日、死体遺棄容疑でO被告を逮捕。6月28日、同じく死体遺棄容疑で久堀被告、Y被告が逮捕された。7月7日午後、3人は強盗殺人容疑で再逮捕された。
 取調中、O被告、久堀被告はIさん殺害を自供し始めた。8月1日、守口市内の自動車修理工場の敷地を捜査。久堀被告、O被告が立ち会い、埋めた場所を指し示し、Iさんの白骨化した死体が発見された。同日、殺人容疑で久堀被告、O被告、調理師、トラック運転手が逮捕された。
一 審
 2000年3月16日 大阪地裁堺支部 古川博裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2001年12月25日 大阪高裁 池田真一裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2006年2月14日 最高裁第三小法廷 上田豊三裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 1999年9月27日の論告で検察側は、「犯行は冷酷残忍で、被告に矯正の可能性はない」など断じた。
 久堀被告側は「金や恨みが原因でなく、Y被告に『別の殺人事件をばらす』と脅されて犯行に加わった」として、刑の減軽を求めた。Y被告の弁護人は「中心的役割を果たした首謀者ではない」と述べたが、Y被告本人は「死刑をお願いしたい」と、自ら極刑を求めた。
 判決は「生命の尊さを顧みない暴挙で、死刑求刑も十分理解できる」としながらも、「1992年の殺害については主犯的な役割を果たしたが被害者の暴言がきっかけであり、1994年の殺害については積極的では無く犯行を躊躇していることがうかがえ、反省の態度もみられる」などとして無期懲役とした。

 大阪高裁の池田真一裁判長は判決で「事件は綿密に計画されたもので、執ようで残虐だ。被告は中心的な役割を果たしており、冷酷で人間としての尊厳を省みない非情な犯行だ。短期間に重大犯罪を連続して敢行するなど犯情悪質で遺族の被害者感情も厳しい。被害者から侮辱的な差別発言を受けるなど被告側にくむべき事情もあるが、刑を軽くする事情とはいえない。捜査段階から犯行を自白し、深く反省しているが、社会に多大の衝撃を与えており刑事責任は極めて重大で、極刑をもって臨むしかない」として一審を破棄し、求刑通り死刑判決を言い渡した。

 2005年12月20日の最高裁弁論で弁護側は「犯行を主導した共犯者が無期懲役になったのに比べ、刑のバランスを欠いている。被告は首謀者ではなく、量刑が重過ぎる」「事実認定は同じなのに、実質5回の審理で一審判決を覆したのは拙速でずさん」と述べ、二審判決の破棄を求めた。
 第三小法廷は「計画的、組織的かつ残忍な犯行で、被告は1件目の首謀者、2件目の実行犯として、殺害に不可欠な役割を果たした」と認定。「相手の発言に腹を立てたり、金を奪おうと考えたりして仲間と準備を重ねて事前に役割を分担するなど殺害は計画的だ。現在は反省しているが、残忍な犯行を繰り返しており、中心的役割を担っていることから極刑はやむを得ない」と理由を述べた。
備 考
 Y被告は2000年3月16日、大阪地裁堺支部で求刑通り一審無期懲役判決。2001年12月25日、大阪高裁で被告側控訴棄却。5月29日までに最高裁第三小法廷にて被告側上告棄却、確定。Y被告は二審から分離公判となった。
 O被告は2000年3月16日、大阪地裁堺支部で求刑通り一審無期懲役判決。2001年12月25日、大阪高裁で被告側控訴棄却。5月29日までに最高裁第三小法廷にて被告側上告棄却、確定。O被告は二人と分離公判となっている。
 残り二人も有罪判決が確定している。
 旧姓久堀。
現 在
 2013年時点で再審請求中。
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氏 名
山口益生
事件当時年齢
 44歳
犯行日時
 1994年3月29日~1995年3月29日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、強盗、殺人、窃盗
事件名
 古美術商ら2人殺人事件
事件概要
 三重県四日市市の無職山口益生被告と新田貞重被告は、愛知県小牧市の元暴力団員の男性と共謀。1994年1月27日、愛知県東海市にある会社営業所に押し入り、現金約615万円が入った金庫を奪った。
 山口被告、新田被告、元暴力団員の男性は、一宮市の会社役員I被告、名古屋市の自営業U被告と共謀。1994年3月29日午前、岐阜県加茂郡の古物商(当時80)宅に押し入り、在住していた妻(当時74)におもちゃの手錠を掛けるなどして軽傷を負わせ、現金100万円が入った金庫などを奪った。
 しかし元暴力団員の男性(当時43)が威圧的な態度をとっていたことから殺害を計画。山口被告と新田被告はI被告と共謀。架空の窃盗計画を持ち掛けて男性を誘い出し、4月5日、四日市市内の山口被告のマンションで男性に睡眠薬入りの缶コーヒーを飲ませた後、男性の首をアイスピックで刺したうえ、ビニール紐で絞殺した。遺体を翌日、布団袋で包みロープで縛るなどして梱包し、これにコンクリートブロックを取り付け、岐阜県の丸山ダムに棄てた。
 多額の借金があった山口被告と新田被告は、新田被告の知り合いであり、四日市市にある古美術商の男性(当時50)が普段から多額の現金を持ち歩いていることを知り、殺害を計画。1995年3月29日夜、男性に「いい骨とう品がある」と電話で商談を持ち掛け、山口被告の自宅に呼び出した。30日午前1時頃、男性の後頭部をアイスピックで突き刺した後スパナで殴打し、更にビニール紐で首を絞めて殺し、所持金約430万円を奪った。奪った金は山分けした。遺体を金属製衣装ケースに入れレンタルしたトラックで丸山ダムまで運び、紐で巻いてコンクリートブロック3個を付けた上で遺体を投げ捨てた。
 山口被告は1991年に知人が四日市市内で興した人材派遣会社の役員に名を連ね、経営全般を任された。しかし、バブル崩壊の影響を受けて経営が悪化し、300万円ほどの借金が残っていた。新田被告はスナックを経営しており、山口被告が客として訪れ知り合った。二人や小牧市の元暴力団員の男性らは、1994年、愛知県内の運送会社に盗みに入り、岐阜県内の民家に押し入って金を奪うなど事件を重ねていた。
 三重県警捜査一課と四日市北署は、4月16日に死体遺棄容疑で山口被告を逮捕。19日、丸山ダムの捜索で湖底から古美術商の男性の遺体を発見。20日、強盗殺人容疑で山口被告を再逮捕するとともに、新田被告を強盗殺人、死体遺棄容疑で指名手配した。5月14日、立ち回り先の鈴鹿市で新田被告を逮捕した。二人は加茂郡の事件を自供。6月13日、強盗致傷容疑で山口被告と新田被告を再逮捕。さらにI被告とU被告を逮捕した。さらに三人が殺人を自供し、6月22日、ダムの湖底から男性の遺体を発見。7月12日、殺人と死体遺棄容疑で山口被告、新田被告、I被告を再逮捕した。
一 審
 1997年3月28日 津地裁四日市支部 柄多貞介裁判長 死刑判決
控訴審
 1997年9月28日 名古屋高裁 土川孝二裁判長 一審判決破棄、審理差戻
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差戻一審
 1999年6月23日 津地裁 柴田秀樹裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2001年6月14日 名古屋高裁 小島裕史裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2006年2月24日 最高裁第二小法廷 今井功裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 1995年6月30日、古美術商殺害事件の初公判が開かれ、山口被告、新田被告共に起訴事実を全面的に認めた。その後、他の事件も合わせて審理された。
 8月23日の論告求刑で検察側は、「金欲しさや身勝手な思い込みから二人も殺害しており、情状酌量の余地はない」として、二人に死刑を求刑した。
 11月29日の最終弁論で弁護側は、「死刑廃止が世界的傾向の中、適用は慎重に行われるべきだ」と情状酌量を求めた。
 柄多貞介裁判長は判決理由で「犯行は計画的で巧妙かつ残忍。被害金額も大きい。遺体を捨てて犯行の隠ぺいを図った。執ようかつ残虐。被害者の無念の情は筆舌に尽くし難い。犯行が社会一般に与えた影響は甚大。金目当ての物欲以外の何ものでもなく、残虐、冷酷な犯行。被告人両名は反省を示し、死刑の適用には慎重さが求められることを考慮しても両名の刑事責任は重大。死刑は真にやむを得ない時のみ下されるべきで、死刑に慎重な社会情勢は分かるが、一切の事情を考慮しても極刑をもって臨むしかない」と断罪した。

 1997年9月8日の控訴審初公判で、山口被告側は、一審の裁判所が両被告の国選弁護人に同一の弁護人を選任していた点を指摘。二件の殺人事件で、犯行時の主従の差や役割の程度などをめぐり、二被告の利害が互いに反する面があるのに、同じ弁護人を選任したため山口被告の防御権が侵害された、などとして一審判決の破棄、差し戻しを求めた。新田被告側は、事件当時、脳の病気で心神耗弱、または、判断力が制限された状態だったと主張、刑の減軽を求めた。検察側は、「若干の違いがあるとしても、それほど重要とは認められない部分で、利害の相反があるとはいえない」と主張した。続いて、弁護側はこうした主張を裏付けるための被告人質問や、共犯者らの証人調べ、新田被告の病気の鑑定などを求めたが、土川裁判長は全て不必要として却下し、結審した。一審死刑判決の裁判で、控訴審が一回で結審するのは異例。
 判決で土川裁判長は「両被告の利害が反するにもかかわらず、国選弁護人が一人では十分な弁護活動ができない」として、国選弁護人の選任権を持つ裁判所の訴訟手続きの違法性を指摘し、津地裁へ差し戻した。「両被告は公訴事実を認め、国選弁護人の選任にも異議の申し立てはなかった」と認定しながらも、「本件は有罪になれば、死刑を含め極めて重い刑に処せられることが予想される事件。弁護人としては少しでも被告人に有利となる事情を立証する必要があった」と判断。そのうえで、「犯行を持ち出したのが、互いに相手被告と主張するなど、動機や経緯、犯行態様など六点について、両被告の言い分に食い違いがある。これらは一方に有利でも、もう一方には不利な事情となる」などと指摘。同一弁護人を選任した裁判所の措置は「同一の弁護人が数人の弁護をできる「被告の利害が相反しない時」(刑事訴訟規則二九条二項)には該当せず、法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らか」とした。
 裁判所の訴訟手続きに関して法令違反を認め、差し戻したのは異例。

 1998年1月21日の差し戻し審初公判で、柴田秀樹裁判長が冒頭、「訴訟手続きに誤りがあった。大変申し訳なく思っている」と被告人らに謝罪した。罪状認否で両被告は起訴事実を認めた。
 1999年3月16日の論告求刑で検察側は「完全犯罪をもくろんだ極めて計画的な犯行」などとあらためて死刑を求刑した。
 4月14日の最終弁論で、無職男性を殺害したとされる事件に関して、新田被告側は「積極的に発案し行動したのは山口被告だ」と主張。これに対し、山口被告側は「新田被告が主導的な役割を果たした」とした。古美術商を殺害したとされる事件でも、新田被告側が「主従の関係はなく、責任の差異はない」とする一方、山口被告側は「新田被告が指揮した」と主張。両被告とも死刑判決を回避することを求めた。
 判決で柴田裁判長は「犯行道具を準備した計画的で悪質な犯行であり、犯行態様も残虐で冷酷、徹底的な証拠隠滅もしている」と述べた。そして柴田裁判長は各事件での両被告の果たした役割について詳細に検討。強盗の共犯者を殺害した事件について、「山口被告が(殺害の)第一撃を加えたが、年上で暴力団員歴もある新田被告に頼みにくい事情があったためだ。その後も新田被告の指示で首を絞めており、新田被告が積極的に実行行為をした」と認定した。さらに古美術商殺害事件についても、「新田被告が犯行をもちかけ、ためらう山口被告に実行を促した。山口被告は犯行当夜も実行をためらい、古美術商に(誘い出すための架空の)古美術取引を断念させようとしている」として、新田被告が主犯とした。柴田裁判長は「新田被告は山口被告に犯行を持ち掛けるなど主導的役割を果たした。しかし山口被告は積極的ではなく、殺害をためらうなど人間的な心情も残しており、矯正の可能性がある」と両被告の刑事責任に軽重を付けた理由を述べた。

 2000年2月17日の控訴審初公判で新田被告側は、控訴趣意書で「被告には事件当時、脳こうそくの影響で判断能力に問題があった」と主張して精神鑑定を申請した。また、責任の程度も「山口被告と同じかむしろ軽いはずだ」として無期に減軽するよう求めた。一方、山口被告について「量刑不当」と控訴した検察側は「残虐を極めた犯行で極刑の死刑が相当」と述べた。
 精神鑑定は後に却下された。
 判決で小島裁判長は、「両被告のいずれかが主導的立場という状況でなく、刑事責任に差を認めるほどの事情はない」と認定し、「両被告の刑事責任は極めて重く極刑はやむを得ない」と指摘し新田被告の控訴を棄却。無期懲役とされた山口被告には改めて死刑を言い渡した。

 最高裁の弁論で弁護側は「被告は共犯者にひきずられ消極的に事件に加担したことが明らかで、無期懲役が相当」と死刑判決の破棄を要求した。
 最高裁の判決理由で今井功裁判長は「動機に酌量の余地はなく、犯行は計画的で冷酷、非情、残忍。共犯とともに積極的に実行行為に及んだ」と述べた。
その他
 U被告は1996年7月12日、津地裁四日市支部(柄多貞介裁判長)で懲役6年(求刑懲役7年)判決。控訴せず確定。
 I被告は1997年2月14日、津地裁四日市支部(柄多貞介裁判長)で懲役10年(求刑懲役15年)判決。7月3日、名古屋高裁(笹本忠男裁判長)で被告側控訴棄却。上告せず確定。
 新田定重被告は2001年7月2日に病死。
現 在
 最高裁に上告中の2005年に郵送されたパンフレットのうち、死刑執行の状況や自殺方法が具体的に書かれた部分について、名古屋拘置所長は「読むと動揺する恐れがある」として削除するなどしたのは違法であるとして、山口死刑確定囚は国に21万円の支払いを求めた訴訟を起こした。2008年9月12日、名古屋地裁(近藤猛司裁判官)は「閲読を許すことで、逃走や自殺を図り、拘置所の規律の維持に障害が生じるとは言えない。削除は裁量権の逸脱で、違法」として、国に10万円の支払いを命じた。
 山口益生死刑囚が「教誨師の牧師に書籍や手紙を送ることを許可されず精神的苦痛を受けた」として、国に20万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、名古屋地裁は2012年6月14日、3万円の支払いを命じた。
 2011年時点で、3件の国賠訴訟係争中。
 2008?年、再審請求。
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氏 名
豊田義己
事件当時年齢
 52歳
犯行日時
 1996年8月31日/1997年9月4日
罪 状
 窃盗、強盗殺人、死体遺棄、銃砲刀剣類所持等取締法違反、覚せい剤取締法違反、殺人未遂、有印私文書偽造、同行使、詐欺
事件名
 静岡、愛知2女性殺害事件
事件概要
 1996年8月31日、豊田義己被告は静岡県清水町の当時の自宅で、スナックの運営資金ほしさに、同居していた元コンパニオンの女性(当時44)に午後7時頃睡眠導入剤を飲ませ、午後11時頃に大量の覚せい剤を注射して殺害。翌日、知人男性とともに遺体をワゴン車に載せて静岡県韮山町の山林まで運び、土中に遺体を埋めた。遺体の大部分は発見されていない。
 また11月5日午前4時ごろ、死体遺棄を手伝った知人男性の動揺が激しかったため口封じを狙い、静岡県内の公園で「お前死ぬか」などと脅したうえで、けん銃を発射。弾丸は知人男性の頭部をかすめ、けがをした。
 1997年7月、豊田被告は静岡県御殿場市に住む無職男性D被告と共謀。御殿場市内の保養施設から版画と油絵の計2点(時価約230万円相当)を盗んだ。さらに豊田被告はこの版画などを担保に、知人であり愛知県西春町に住むスナック経営者の女性(当時62)から420万を借りた。
 女性が返済を求めてきたことから、豊田被告は借金の返済を免れようと殺人を計画。9月4日未明、愛知県尾張旭市の森林公園で豊田被告はD被告とともに女性の後頭部を鉄パイプで殴った上、頭部を短銃で撃って殺害。現金約6万円を奪った上、遺体を駐車場脇の茂みに遺棄した。
 9月21日、愛知の事件で豊田被告は逮捕された。さらに11月中旬以降、捜査本部は静岡の事件について取り調べを続け、豊田被告は殺害と死体遺棄を供述。
一 審
 2000年7月19日 名古屋地裁 山本哲一裁判長 死刑判決
控訴審
 2002年2月28日 名古屋高裁 堀内信明裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年3月2日 最高裁第一小法廷 横尾和子裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 愛知の事件で起訴された豊田被告は、1997年12月3日の初公判で事実認否を留保。1998年1月14日の公判で殺害は認めたが強盗目的を否認した。
 その後、豊田被告は静岡県での女性殺害を供述。死体の遺棄現場からは、つめや毛髪、歯、足の骨の一部しか発見されなかったが、名古屋地検はDNA鑑定と供述や状況から強盗殺人、死体遺棄の罪で追起訴した。
 しかし豊田被告は10月16日の公判で静岡の事件について「帰宅したら死んでいた」と一転して起訴事実を否認、「警察の取り調べで暴行を受けた」などと主張した。
 これを受け弁護側は静岡の事件について「殺害の自白に信用性はなく立証は不十分」として、殺人罪は無罪で、死体遺棄と窃盗罪のみの成立を主張。愛知の事件でも強盗目的の一部を否認し、無期懲役判決を求めた。
 判決で山本裁判長は、静岡の女性殺害に関し「殺害の動機や機会は被告人にしかない。金銭に困窮しており、事件後の行動や偽装工作などから、殺害実行は法的疑いを超えて明らか」と認定した。豊田被告の主張は「取り調べで暴行があったとは認められない。否認後の供述は不自然で信用できない」と退けた。また愛知の事件でも強盗目的を認定した。
 そのうえで「被告人には虚言を用い他人を利用するだけ利用し、自己の欲望のため生命を奪うことをちゅうちょしない利己的性格、人命軽視の態度が見て取れる」と指摘、「犯罪性向は極めて顕著。2人殺害の結果は極めて重大で、犯行手段は卑劣、冷酷、残虐で刑事責任は誠に重い。反省の言葉など酌むべき事情を最大限考慮しても無期懲役選択の余地はなく、極刑をもって臨むほかない」と述べた。

 控訴審で豊田被告は捜査段階の供述について「警察官に激しい暴行を加えられ、意に反する自白をした」と主張。また、静岡県の事件については無罪を主張した。弁護側も「間接証拠には問題があり、犯人性の証明も不十分。捜査段階の供述に任意性はなく量刑も重すぎる」と主張した。
 判決で堀内裁判長は「は自白に任意性があり、犯罪事実の証明は十分」などとして無罪主張を退けた。そして「殺害の態様は冷酷非情で残虐。刑事責任は極めて重大で、もはや矯正は至難。人を利用できるだけ利用して、ちゅうちょなく生命を奪う凶暴な犯罪性向の持ち主で、極刑をもって臨むほかない」と述べた。

 弁護側は上告審で、「静岡の事件は別の犯人によるものだから無罪」としたうえで、「愛知で1人殺害したことで死刑とするのは重すぎる」と主張した。
 横尾和子裁判長は2件とも豊田被告の犯行と認定した上で、「強固な犯意に基づき、落ち度のない被害者を冷酷、非情な手段で殺害した極めて悪質な犯行」と述べた。
備 考
 静岡の事件で死体遺棄を手伝った男性は死体遺棄容疑で起訴。1998年12月28日、名古屋地裁で懲役2年執行猶予4年(求刑懲役2年)が言い渡され、そのまま確定した。
 愛知の事件における共犯のD被告は強盗殺人他で起訴。2000年2月9日、名古屋地裁で求刑通り無期懲役判決。しかし2001年5月24日、名古屋高裁で小島裕史裁判長は「強盗目的の殺人とは認められない」として、無期懲役の一審判決を破棄、殺人と窃盗などの罪で懲役12年を言い渡した。双方とも上告せず、確定した。
 また愛知の事件で豊田被告に拳銃を渡した三島市の職員も銃刀法違反で逮捕された。
現 在
 向井姓に変わる。養子縁組をして養母となった女性は、向井伸二元死刑囚の養母と同じ方である。
 2009年、再審請求。
 2014年頃、豊田姓に戻る。
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氏 名
松本智津夫
事件当時年齢
 33歳
犯行日時
 1989年2月10日~1995年3月20日
罪 状
 殺人、殺人未遂、死体損壊、逮捕監禁致死、武器等製造法違反、殺人予備
事件名
 男性信者殺害事件、坂本弁護士一家殺人事件、元信者殺人事件、弁護士サリン襲撃事件、松本サリン事件、元信者リンチ殺人事件、VX殺人事件及び同未遂2事件、目黒公証役場事務長拉致監禁事件、地下鉄サリン事件、サリン量産プラント事件、自動小銃密造事件
事件概要
●男性信者殺害事件
 修行中の男性信者が1988年9月、死亡した際、教団が宗教法人の認可を得るうえで障害になると考えた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はひそかに焼却を指示した。1989年2月10日、この信者死亡事件を目撃していたTさん(当時21)の脱会意向を知った麻原は、「事件のことを知っているからこのまま抜けたんじゃ困る。考えが変わらないならポアしかないな。私は血を見るのが嫌だから、ロープで一気に絞めて、その後は護摩壇で燃やせ」と、早川らに殺害を指示。幹部四人が教団施設内でTさんを殺害し、死体を焼却した。

●坂本弁護士一家殺人事件
 横浜市の坂本弁護士(当時33)は、オウム真理教に入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。TBSの取材でも坂本弁護士は教団を徹底追及していくことを発言。オウム真理教の幹部たちはTBSに乗り込み収録テープの内容を見て殺害を決意。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)は早川紀代秀、村井秀夫、新実智光、中川智正、佐伯(現姓岡崎)一明、端本悟に殺害を命じた。実行犯6名は1989年11月4日、横浜市の坂本弁護士宅のアパートに押し入り、坂本弁護士、妻(当時29)、長男(当時1)の首を絞めるなどして殺害。遺体をそれぞれ新潟、富山、長野の山中に埋めた。
 坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が関わっていると主張。坂本弁護士がオウム批判をしていることと、坂本弁護士宅にオウムのバッジが落ちていたことなどが理由である。オウム真理教側は、被害者の会や対立する宗教団体が仕組んだ罠だと反論した。

●元信者殺人事件
 1994年1月30日、元オウム真理教信者だったOさん(当時29)は教団付属病院に入院している女性信徒を救助しようと、女性の親族であり脱会の意志を示しているY被告とともに救い出そうとしたが、警備の信徒に取り押さえられた。教祖麻原彰晃(本名松本智津夫)はY被告に処刑をほのめかしつつ、Oさんと親族のどちらが大切かを迫り、幹部10数名らにOさんを押さえつけさせ、Y被告に絞殺させた。遺体は教団施設内にて焼却した。

●弁護士サリン襲撃事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、中川智正ら4被告、19歳の女性信者と共謀、1994年5月9日、教団相手の民事訴訟に出席するため甲府地裁を訪れた「オウム真理教被害対策弁護団」メンバーの弁護士(39)を殺害しようと、弁護士の乗用車のフロントガラス付近にサリンを垂らし、中毒症を負わせた。

●松本サリン事件
 オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。官舎西側で、第一通報者の会社員Kさん(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。

●元信者リンチ殺人事件
 1994年7月10日 元信者のTさんをリンチの末、首をロープで絞めて殺害。遺体を教団施設内にて焼却した。

●VX殺人事件及び同未遂2事件
 麻原彰晃(本名松本智津夫)被告は、教団信者の知人だった大阪市の会社員(当時28)を「警察のスパイ」と決めつけ、新実、中川らに「ポアしろ。サリンより強力なアレを使え」などと、VXガスによる殺害を指示。新実らは1994年12月12日、出勤途中の会社員にVXガスを吹き掛け、殺害した。他別の会社員2名にも吹きかけ、殺害しようとしたが失敗した。

●目黒公証役場事務長拉致監禁事件
 1995年2月28日、逃亡した女性信者の所在を聞き出すために信者の実兄である目黒公証役場事務長を逮捕監禁、死亡させ、遺体を焼却した。

●地下鉄サリン事件
 目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。1995年3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。

 全13事件に関与。計27人が死亡、約6000人が負傷した。薬物密造他4事件については、裁判迅速化を図るため、検察側が起訴を放棄した。
 1995年3月20日の地下鉄サリン事件発生後、オウム真理教への強制捜査を開始。9月10日までに三人の遺体が発見され、7日に5人が、22日には松本被告と実行犯5名が再逮捕された。村井秀夫容疑者は1995年4月23日、東京・南青山の教団総本部前で殺害されたため不起訴。殺人犯は一審懲役12年が確定している。
一 審
 2004年2月27日 東京地裁 小川正持裁判長 死刑判決
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
控訴審
 2006年3月27日 東京高裁 須田賢(まさる 賢の又を忠)裁判長 控訴棄却
(2006年9月15日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)で控訴棄却が確定)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 弁護側は、まず「被告には教祖としての責任があるが、刑法上の責任とは全く別」と主張。検察側の立証を「被告が宗教家であることを切り捨て、背景・動機の土台もなく、法的価値は認められない」と批判した。
 そのうえで、サリン生成などの教団武装化について「被告は一切考えたことはなく、すべて教義を誤解した村井元幹部の個性と欲求で計画・準備された。被告は荒唐無稽な計画が教義とは遠く離れたものと考えていたが、弟子たちの修行になると考え、容認していた。さらに、被告の体調悪化や組織の拡大、省庁制の採用により、被告は弟子の暴走を押しとどめる力がなくなった」と指摘した。
 「事件は弟子の幹部らが暴走して起こしたもので、大部分は村井秀夫元幹部(故人)によって計画、実現された」などと述べ、改めて審理対象の13事件の無罪を主張した。
 判決で小川裁判長は、一被告の犯罪としては戦後最多の計26人の殺害、1人の逮捕監禁致死を含む13事件すべてが被告の首謀だったと認定し、「勢力拡大を狙った衆院選で惨敗したため、教団の武装化を図り、救済の名の下に日本を支配して王となることを空想した。多数の生命を奪った犯罪は愚かであさましく、極限の非難に値する」と述べた。

 一審判決後、国選11人と私選1人の計12人の弁護人全員は辞任。新たな私撰弁護人がついたが、松本智津夫被告は弁護士の接見の求めに一切応じなかった。
 東京高裁は、大型事件では通常1年はかかる地裁からの記録送付を、2ヶ月で受け付けた。
 2004年6月30日、東京高裁は弁護人による控訴趣意書の提出期限を2005年1月11日にすることを決めた。
 11月29日、弁護団は「『脳疾患』『長期の身柄拘束による精神障害』『詐病』『修行での沈黙』のいずれかの可能性があり、詳しい鑑定をするべきだ」とする精神科医の意見書を提出し、「松本被告には、裁判を継続する能力に問題がある」として、公判停止を申し立てた。
 12月10日、東京高裁の須田賢裁判長は、書記官らを伴って拘置所で松本被告と直接面会し、来年1月11日の期限までに控訴趣意書が提出されない場合に「控訴を棄却する可能性がある」などと説明した。
 12月20日、東京高裁は「刑事訴訟法が規定する『心神喪失状態にある』との疑いはないものと認める」として、弁護団による鑑定実施や公判手続き停止の申し出について、すべて退けた。
 2005年1月6日、東京高裁は1月11日に設定されていた控訴趣意書の提出期限を弁護団の要請に応じる形で、8月31日まで延長することを決めた。高裁は決定理由で「控訴理由が定まっておらず、著しい作業遅延」と指摘したが、「最大限努力する、と弁護人が表明していることなどを勘案した」としている。また、7ヶ月以上も延長したことについては、「事件の重大性にかんがみると、控訴趣意書を提出できないまま死刑判決を確定させることには、やや躊躇を覚えざるを得ない」としている。弁護団は当初2007年2月までの延長を求めていたが高裁が長すぎると認めなかったため、8月末までの延長を求めていた。
 3月17日、精神科医で、元北里大助教授中島節夫氏が時事通信の取材に応じ、松本被告の状態について脳器質性疾患や拘禁反応、詐病などの可能性を指摘し、「精神科医や神経内科医ら専門家チームによる鑑定を実施すべきだ」と語った。中島氏は昨年11月2日、弁護人とともに松本被告に約30分間接見。同被告は車いすに座り、問い掛けに「ん、ん、ん」と繰り返すだけだった。
 6月21日、松本被告の家族が「身体的、精神的な疾患が強く疑われ、医療施設での治療が必要だ」として人身保護を東京地裁に請求した。
 7月29日、弁護団は「長期間の拘禁による意志の障害。治療すれば回復する」とした2人目の精神科医の意見書を提出して、「被告は裁判を続けられる精神状態にはない」として、東京高裁に公判停止を申し立てた。さらに弁護側の控訴趣意書の提出期限についても、弁護団は「被告が何を不服としているのか分からない現在の被告の状態では、趣意書は作成できない」として、期限をさらに延期するよう申し立てた。
 8月5日、弁護団が東京高裁の須田賢裁判長らと面会、今月末に迫った控訴趣意書の提出期限延長と公判停止をあらためて申し入れた。弁護団によると、須田裁判長は「検察庁に意見を聞いた上で、判断する」とした一方で「とにかく提出してほしい。できなければ控訴を棄却する」と強く期限内の提出を迫ったという。
 8月12日、検察側は「詐病の疑いが強く、心神喪失ではない」との意見書を東京高裁に提出した。
 8月19日、東京高裁は松本被告について初の精神鑑定を行う方針を明らかにした。高裁は「被告に訴訟能力があるとの判断は揺るがない」としつつ、7月に弁護団が「被告は拘禁反応による昏迷状態にあり、訴訟能力を欠くが治癒可能」とする精神科医の意見書を提出したことを受けて、「重大案件であり、慎重を期す」として鑑定実施を決めた。一方、弁護団が申し立てていた公判停止と、8月31日に設定されている控訴趣意書の提出期限の延長についてはいずれも行わないことを表明した。
 8月22日、松本被告の弁護団は鑑定時の立ち会いなどを求める申立書を高裁に提出した。
 8月31日、松本被告の弁護団は東京高裁の須田裁判長と面会したが、高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などが拒否されたことを理由に、持参していた無罪を主張する控訴趣意書の「骨子」を提出しなかったことを明らかにした。さらに記者会見で、「東京高裁は鑑定人の意見が出るまで控訴棄却はしないと明言した」と明らかにした。
 9月2日、弁護団が控訴趣意書の提出期限に趣意書を出さなかった問題で、東京高裁は2日、「今回の行動は弁護人の基本的な責務を放棄するもの」と批判し、弁護団に対し、作成済みの趣意書を直ちに提出するよう強く要請した。同高裁は弁護団に示した要請文書の中で、今回の弁護団の行為を「極めて意図的な不提出」と指摘。弁護団がこの日の提出要請に応じず、後になってから趣意書を出してきても、「やむを得ない事情」とは認めない可能性が高いと、警告している。さらに、「法令を無視し、被告が実質審理を受ける機会を失う危険を招く行動は、被告の利益を侵害するものだ」と弁護団を非難した。
 9月12日、東京高裁は既に内諾を得ていた精神科医の鑑定人尋問を先週中に実施したと発表した。
 9月15日、弁護団は記者会見で、「趣意書提出は控訴審手続きを前に進めてしまい、松本被告を『丸裸』で法廷に引きずり出すことになる。被告人に対する弁護人の背信行為」などとした上で「東京高裁の非難は誤りだ」と高裁の非難に反論。「松本被告には意思疎通能力がないと確信している。控訴趣意書の提出は弁護人の基本的責務に反すると判断している」などとする声明を明らかにした。
 10月25日、松本被告の弁護団は「裁判所は松本被告に訴訟能力があることを前提に審理を進めようとしており、極めて不公平」などとして忌避を申し立てた。
 11月2日、東京高裁は弁護側による須田賢裁判長ら3裁判官の忌避申し立てを却下する決定をした。同高裁は「訴訟を遅らせる目的のみで忌避を申し立てたことは明らか」と判断、刑事訴訟法の規定に基づき、申し立てられた須田裁判長らが直接決定を下した。
 11月11日、松本被告の弁護団は日本外国特派員協会で自ら会見を開き、松本被告の状況について他人との意思疎通が困難だと説明したうえで「訴訟能力はない」と強調。公判停止の申し立てを認めない東京高裁を改めて批判した。
 11月22日、松本被告の弁護団は、控訴審を担当する東京高裁の須田賢裁判長ら裁判官3人について、弾劾裁判による罷免を求め、国会の裁判官訴追委員会に訴追請求した。
 11月30日、東京地裁は、松本被告の家族による人身保護請求を棄却した。西岡清一郎裁判長は、拘置所の医療態勢や松本被告への検査、診察状況に関する資料を検討し「被告の行動の一部に、拘禁反応の可能性をうかがわせる異常な行動がある」と初めて認定。その上で「拘置所における担当医師の医療上の判断や処置が著しく不適切、不合理であるとはいえない」と判断した。
 12月28日、弁護団は松本被告の状況について「拘禁反応とみなすことに困難はなく、現在は慢性状態にある」とする精神科医の意見書の要旨を東京高裁に郵送した。精神科医は9月下旬に松本被告に面会し、弁護団から提供された裁判記録などの分析を進めていた。
 2006年2月20日、東京高裁から精神鑑定を依頼された精神科医西山詮医師は、「訴訟を継続する能力を失ってはいない」とする鑑定結果を同高裁に提出した。東京高裁は、3月15日までに意見書を提出するよう弁護団に要請した。
 2月24日、東京高検は松本被告の控訴を棄却して一審の死刑判決を確定させるよう東京高裁に申し立てた。
 3月1日、弁護団は「訴訟能力を失っていない」との鑑定書を提出した西山詮医師に対する公開法廷での反対尋問と、再鑑定の実施を東京高裁に申し立てた。またこれまで独自に依頼して松本被告に接見した計6人の精神科医のうち、2月に接見した秋元波留夫元東大教授がまとめた「西山鑑定に対する意見書」を、この日の申立書に添付して提出した。意見書で秋元氏は「西山鑑定は拘禁精神障害の水準ではないとしているが、水準とは何かが明示されておらず独断に過ぎない」などと指摘。「診断に誤りがあり、鑑定主文を採用すべきではない」と結論付けている。
 3月9日、弁護団は提出期限の1ヶ月延長と松本被告の再鑑定、西山医師に対する公開法廷での尋問を高裁に申し立てていた。
 3月11日、東京高裁は「訴訟能力がある」とした鑑定書に対する意見書提出期限について、4月15日までの延長を認めないことを弁護団に伝えた。
 3月13日、弁護団は筑波大大学院の中谷陽二教授がまとめた「被告の訴訟能力は欠如している」などとする意見書を東京高裁(須田賢裁判長)に提出した。中谷陽二教授は弁護側が独自に依頼して松本被告に接見した計6人の精神科医のうちの1人。
 3月15日、弁護団は西山医師の鑑定書を批判する内容の意見書を提出した。
 3月24日、松本被告の弁護団は28日に控訴趣意書を提出することを明らかにした。
 3月27日、東京高裁は被告の訴訟能力を認めたうえで、控訴を棄却する決定を出した。最高裁の統計がある1978年以降、一審で死刑とされた被告の控訴審が、棄却決定されるのは初めて。刑事訴訟法第386条1項は、裁判所が指定した期限内に控訴趣意書を提出するよう定め、これに違反した場合は決定で棄却するよう規定している。一方、刑事訴訟規則で「遅延がやむを得ない事情に基づくと認めるときは、これを期間内に差し出されたものとして審判をすることができる」との規定も設けられている。
 3月28日、弁護団は午後9時すぎ「控訴趣意書」を高裁に提出した。
 3月30日、弁護団は松本被告の控訴を棄却した東京高裁(須田賢裁判長)の決定を不服として同高裁に異議を申し立てた。
 4月25日、松本被告の二女、三女らは松本被告の控訴棄却を決定した東京高裁(須田賢裁判長)の訴訟指揮と、松本被告の訴訟能力を認めた精神鑑定を不当として、国と鑑定を担当した西山詮医師に計5,000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
 5月29日、東京高裁刑事第11部(白木勇裁判長)は、弁護団からの異議申立を棄却する決定を出した。提出期限日の裁判所と弁護団の打ち合わせ調書などを基に「弁護人は趣意書を持参しながら提出しなかった。裁判所は提出を勧告し続けたが、弁護人は従わなかった」と指摘し、期限を約7ヶ月過ぎていたと認定。「持参したのは骨子にすぎず、被告と意思疎通を図れないため趣意書を作成できなかったのは『やむを得ない事情』」との弁護側主張を「そのような場合でも他の裁判では提出されている。不提出は訴訟進行の妨害にほかならない」と退けた。
 9月15日までに最高裁第三小法廷(堀篭幸男裁判長)は東京高裁の控訴棄却決定を支持し、被告側の特別抗告を棄却する決定を出した。
 特別抗告審では、東京地裁の死刑判決の是非ではなく、(1)訴訟能力の有無(2)弁護側の控訴趣意書の提出遅れに刑事訴訟規則で容認される「やむを得ない事情」があるか(3)提出遅れという弁護活動の不備による不利益を被告に負わせることの可否――が争われた。
 第三小法廷は(1)について、▽高裁の依頼で今年2月に提出された精神鑑定の結果▽一審判決当時の被告の発言内容▽拘置所での日常生活の様子――などから、被告に訴訟能力があるとした高裁決定を「正当として是認できる」と述べた。
 (2)については、弁護団が趣意書を作成しながら、高裁による再三の提出勧告に対し「精神鑑定の方法に問題がある」などとして提出しなかった経緯に言及。「やむを得ない事情があるとは到底認められない」としたうえ「弁護人が被告と意思疎通できないことは、提出遅延を正当化する理由にならない」と判断した。
 (3)については「弁護人の行為による効果が、被告の不利益となる場合でも被告に及ぶことは法規の定めるところ」と指摘。「被告自ら弁護人と意思疎通を図ろうとしなかったことが、裁判を打ち切るような事態に至った大きな原因。責任は弁護人だけでなく被告にもある」と批判し「高裁決定を揺るがすような事情を見いだすことはできない」と結論付けた。
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
備 考
 最高裁に統計が残る1966年以降、被告側が控訴などを取り下げるのではなく、控訴棄却決定で死刑が確定するのは初めて。
その後
 東京高裁(須田賢裁判長)は2006年9月25日、控訴審の主任弁護人を務めた松下明夫弁護士(仙台弁護士会)と、松井武弁護士(第2東京弁護士会)について、「審理の迅速な進行を妨害した」として、日本弁護士連合会(日弁連)に両弁護士の処分を求める「処置請求」を行った。裁判所が弁護士会に弁護士の処分を請求するのは17年ぶり。通知書は、期限日に趣意書を持参しながら、鑑定方法などの要望を受け入れなければ提出しないと迫ったことについて、「法曹に許されない一種の実力行使で、死刑判決を受けた被告の裁判を受ける権利を奪い、極めて重大な職責違反を犯した」と指摘した。
 2007年2月15日、東京高裁が「迅速な訴訟進行を妨げられた」と、日本弁護士連合会(日弁連)に処分を求める「処置請求」をしていた問題で、日弁連は処分しない決定をした。「請求は麻原死刑囚の死刑確定後になされ、遅すぎて不適法」が不処分の理由。問題化した控訴趣意書の未提出の是非をめぐる弁護士会としての判断は示さなかった。
 3月7日、東京高裁は山名学事務局長名で、審理の迅速な進行を妨げたなどとして、弁護士法に基づき、松本智津夫死刑囚の控訴審を担当した仙台弁護士会の松下明夫、第二東京弁護士会の松井武両弁護士について、2人の所属弁護士会に懲戒請求した。
 2007年7月27日、東京地裁は松本智津夫死刑囚の二女と三女らが、東京高裁が誤った精神鑑定に基づき控訴を棄却したのは不当などとして、国と鑑定に当たった西山詮医師を相手取った計500万円の損害賠償請求を退けた。片田信宏裁判長は「東京高裁の裁判官が、違法な裁判を行ったとは認められない」と述べた。二女、三女側は「高裁は訴訟能力を十分調査せずに控訴棄却した」などと主張したが、判決は「高裁が最初から訴訟能力があると決めつけて棄却決定をしたとはいえない」と述べた。
 10月、松下明夫弁護士について仙台弁護士会の綱紀委員会が「懲戒相当」と議決していたことが判明した。同弁護士会の懲戒委員会が処分内容を検討する。
 2008年2月28日、東京高裁は松本智津夫死刑囚の二女と三女らが、東京高裁が誤った精神鑑定に基づき控訴を棄却したのは不当などとして、国と鑑定に当たった西山詮医師を相手取った計500万円の損害賠償請求の一審東京地裁判決を支持し、原告側控訴を棄却した。西田美昭裁判長は「審理を怠ったとは言えない」と述べた。
 9月9日、最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は次女らの上告を棄却する決定をした。次女らの敗訴が確定した。
 仙台弁護士会は9月24日、弁護人の1人で懲戒請求された松下明夫弁護士を戒告の懲戒処分にした。処分理由は「弁護人としての基本的かつ重大な職務に反するもので、弁護士としての品位を欠いた」としている。
 松本死刑囚の次女と三女は、拘禁反応が出ているのに、東京拘置所や裁判を担当した東京高裁が適切な治療機会を奪ったなどとして、国などに計750万円の損害賠償を求めたが、2009年6月26日、東京地裁は請求を棄却した。端二三彦裁判長は松本死刑囚について、拘置所の精神科医が2005年から昨年まで行った診察の際、(1)医師の指示に従って座った(2)血圧測定をすると伝えると自ら右手を差し出した(3)体を揺する理由を尋ねると動きを止めた――などの様子がみられたと指摘。その上で「脳の異常や統合失調症などの症状がなく、精神科などでの強制的治療は必要ないとした拘置所の医師の判断に問題はない」とした。裁判を担当した高裁の裁判官についても「精神状態についての鑑定人を選任するなどしており、違法はない」とした。12月、東京高裁は一審判決を支持した。2010年6月25日付で最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は2人の上告を棄却した。
 2009年7月30日までに、第二東京弁護士会は松井武弁護士を業務停止1カ月の懲戒処分にした。
再審請求他
 2008年11月10日付で、松本死刑囚の家族が東京地裁へ再審請求した。刑事訴訟法では、家族による再審請求は、有罪判決を受けた者が死亡した場合か心神喪失の状態にある場合とされている。元幹部遠藤誠一被告が2006年3月、故村井秀夫元幹部が松本死刑囚の意思に反してサリンをまかせたと思っているなどと語った法廷供述などを新証拠としている。
 2009年3月17日付で、東京地裁(高橋徹裁判長)は再審請求を棄却する決定を出した。決定は「確定判決は他の幹部の証言や、証拠上明らかな状況や事実に基づいて関与を認定している。遠藤被告は松本死刑囚に帰依する姿勢を明確にしている」と新証拠の信用性を否定した。
 次女側は即時抗告した。2009年7月8日付で東京高裁(矢村宏裁判長)は棄却する決定をした。矢村裁判長は決定で、遠藤被告の供述の趣旨は変わっていないとして「松本死刑囚を首謀者とした確定判決の事実認定に影響するとは到底認められない」と指摘した。
 次女側は特別抗告した。2010年9月13日付で最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は松本死刑囚側の特別抗告を棄却する決定をした。
 2010年9月17日、松本智津夫死刑囚の家族が、2回目の再審請求を東京地裁に申し立てた。2011年5月9日、東京地裁(吉村典晃裁判長)は訴えを棄却。5月16日、即時抗告。東京高裁(八木正一裁判長)は2012年3月29日付で、即時抗告を棄却した。4月9日、特別抗告。2013年5月8日付で最高裁第一小法廷(横田尤孝裁判長)は特別抗告に対し、「刑事訴訟法上の抗告理由に当たらない」として棄却する決定をした。裁判官5人全員一致の結論。
 2013年5月9日、松本死刑囚の次女が第三次再審請求。遠藤誠一死刑囚が自らの控訴審で、滝本太郎弁護士をサリンで襲撃した殺人未遂事件について「松本死刑囚はサリンには致死性がないと認識していた」などと供述したことが、「新証拠に当たる」と主張した。2014年6月、東京地裁は「供述に新規性はなく、松本死刑囚の殺意などを認定した確定判決は揺るがない」などとして請求を棄却。2015年3月26日、東京高裁は即時抗告を棄却。2015年5月11日付で最高裁第三小法廷(木内道祥裁判長)は特別抗告を棄却した。
 2015年4月28日、東京地裁へ第四次再審請求。地下鉄サリン事件をめぐるいわゆるリムジン謀議について、当時弁護士だった青山由伸元受刑囚に話を聞いて、そういう謀議はなかったという確たる証言を得て陳述書を提出した。審理途中で新たな請求を出すことは異例だが、違法ではない。同時に弁護人側は人身保護請求を行っている。失効後に請求の手続きが終了したものと思われる。
 松本智津夫元死刑囚が心神喪失状態だったのに、2018年7月に刑の執行を命じたのは違法だとして、遺族は国に100万円の損害賠償を求め、2021年12月28日付で東京地裁に提訴した。
執 行
 2018年7月6日執行、63歳没。
 第四次再審請求中の執行。
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氏 名
高橋和利
事件当時年齢
 54歳
犯行日時
 1988年6月20日
罪 状
 強盗殺人
事件名
 鶴見事件
事件概要
 電気工事業高橋和利被告は、知人の土地や建物を担保に約1,200万円を借りる約束をして、1988年6月20日午前10時40分頃、横浜市鶴見区の不動産業兼金融業の男性(当時65)の事務所を訪れた。高橋被告は男性と奥の和室へ入った後、隠し持っていたバールで男性の顔などを殴り、さらにドライバーで胸や背中などを刺して殺害。男性が用意していた現金1,200万円を奪って逃げようとしたが、外出から帰ってきた男性の内縁の妻(当時60)と鉢合わせをしたため、妻も奥の和室で滅多打ちにして殺害した。高橋被告は、妹の夫が経営する会社の資金難を援助してから約4,910万円の借金があり、奪った金は金融業者への支払いに充てられた。殺害した男性からも借金をしていた。
 夫婦の知人が午後2時30分頃に事務所を訪れ、遺体を発見した。捜査本部は7月1日、高橋被告を強盗殺人容疑で逮捕した。
一 審
 1995年9月7日 横浜地裁 上田誠治裁判長(中西武夫裁判長代読) 死刑判決
控訴審
 2002年10月30日 東京高裁 中西武夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年3月28日 最高裁第三小法廷 堀籠幸男裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 高橋被告は逮捕当時、金を持ち去ったことは認めたが、現場を訪れたとき被害者は既に死んでいたとして殺人を否認した。後に殺人を認めた。
 1988年11月1日の初公判で、高橋被告は現場である事務所から1,200万円を持ち去ったことは認めたものの、強盗殺人の事実を否認した。高橋被告は午前10時55分頃、お金を借りる約束で事務所を訪れたら、夫婦が死んでいたため、座敷の左側隅に置いてあった現金を持っていたと述べた。
 高橋被告側は以下の疑問点を掲げ、被告の犯行ではないと主張した。
  • 凶器とされるバールとドライバーが発見されていない。
  • 高橋被告が供述した凶器では、被害者の傷口や現場に残された痕はできないことは、鑑定書に書かれている。
  • 商店街に面しガラス戸越しに中が見える事務所で高橋被告が単独で2人を殺害するというのは不自然。
  • 仕事の客を今まで一度も座敷に上げなかった被害者が高橋被告を座敷に上げるはずがない。
  • 被害者が持っていた黒い鞄、布袋が消えているのに、被告は一貫して知らないと述べている。
  • 第1発見者の証言が不自然。
  • 現場写真に残っている被害者の履き物の向きが、発見者の証言と逆になっている。
  • バールを使用した際に残るはずである掌の傷が、高橋被告には残っていない。
  • 妻は50ヶ所以上も刺されており、怨恨の可能性が高い。しかし高橋被告にはその動機がない。
  • 自白は暴行と「妻や従業員もしょっ引いてきて調べるぞ。女房と一緒に留置場に入ってよく考えろ」と言われたからであると言われた結果によるものであり、信用性がない。
  • 検察官が主張する犯行時間帯(午前10時40分から11時10分まで)は現場の状況からありえない。
  • 妻が殺害されたのは10時30分より前であり、同時間帯は高橋被告にアリバイがあるので、殺害は不可能。
 1995年6月12日の第57回公判で検察側は死刑を求刑、弁護側は最終弁論で無罪を主張した。
 判決で上田裁判長(中西裁判長代読)は冒頭で主文を宣告した。裁判長は自白の信用性や凶器の特定に大きな疑問符を付けながらも、被害者に嘘の融資話をして金を用意させたことと、犯行時間帯に高橋被告が事務所を訪れたことなどから死刑判決を言い渡した。

 控訴審でも高橋被告側は無罪を訴えた。一審判決で認定した事実について現場の物証を基に悉く反論するとともに、別人が真犯人であると主張した。
 判決で中西裁判長は、「殺害に関する自白は信用できないが、他の証拠から犯人と断定できる。被告には1,200万円を奪う意図があったとみられ、その時間帯にたまたま(別の)殺害事件があったとするのは、あまりに偶然で不自然。被告が殺害した可能性が極めて高い」と述べた。

 上告審弁論で高橋被告は別人が真犯人だと名指ししたうえで「殺していない」と無罪を主張した。弁護側は被害者方から現金を持ち去った事実は認めた上で、殺害を否定。「被告を犯人と仮定すると、客観的な証拠との間に多数の矛盾が生じる」と述べ、死刑判決の破棄を求めた。
 堀籠裁判長は「被告を犯人とした二審の結論は、正当として是認できる」と被告の無罪主張を否定。判決理由で「被告人は多額の負債を抱え、返済資金を入手するため、強固な殺意のもとに計画的に犯行を遂行したものであり、動機に酌量の余地はない」「何ら落ち度のない二人の生命を奪った結果は重大」と指摘した。
その他
 1999年4月に始まった検察庁の被害者通知制度によって、公判の日時や判決結果を通知する義務が定められた。鶴見事件は制度開始前に起訴されたため対象外だったが、最高裁に上告している死刑判決事件の遺族については、最高検が可能な限り日時を伝えていた。鶴見事件で殺害された夫婦の一人娘である女性のところへも、2006年1月に最高裁弁論日時が決まった時点で通知書が郵送されたが、それは埼玉県の旧住所であり、事件後すぐに転居していたため、転居先不明で返送された。一方、神奈川県警は「数か月に一回、最高検に日時を問い合わせた」としているが、2月の弁論、3月の判決とも把握できなかったうえ、女性の通知希望や現住所を検察庁にも伝えていなかった。女性はラジオ放送で判決があったことを初めて知った。2006年5月22日、県警刑事総務課の担当者が女性宅を訪ね、「当時の担当者には依頼を受けた記憶がないが、結果的につらい思いをさせて申し訳ない」と謝罪した。
 女性は「判決を直接聞きたい」との手紙を2006年夏、上告審を担当した最高裁第三小法廷に送った。上告審を担当した堀籠幸男裁判長が、「遺族の気持ちに最大限応えるべきだ」と刑事局に指示し、刑事局幹部が女性宅を訪れて判決文を手渡し、内容を説明するという異例の措置をとった。
著 書
高橋和利『『鶴見事件』抹殺された真実』(インパクト出版会,2011)
その後
 2007年4月、横浜地裁に再審請求。弁護側によると、再審請求に必要な「新規・明白な証拠」は、殺害現場にあった電気ポットに付着した内妻の血痕についての法医学者の鑑定結果。血痕の状況などが、上告棄却で確定した横浜地裁などの判決が認定する殺害状況と矛盾するとしている。ポットについた血の鑑定結果は、「ポットが立っている状態でしか付着しない」としている。これをもとに、弁護側は再審請求で、「内妻も流し台付近で襲われた」と指摘し、判決に重大な事実誤認があると主張している。2012年、横浜地裁は請求を棄却。死刑囚側は即時抗告した。
 2017年8月25日付で日本弁護士連合会は、再審請求支援を決定した。
 2017年12月27日、横浜地裁に第二次再審請求。第一次再審請求の即時抗告を取り下げての請求である。「凶器とされたバールやプラスドライバーでは、被害者にあった傷は生じない」との法医学者による鑑定結果を「新証拠」として提出した。また、夫婦に債務を負っていた人たちの記録を新たに調べた結果、「巨額の債務を負い、殺害の動機を持っていた可能性のある人物がいた」といい、弁護団はこれも「新証拠」にあたるとしている。その他を合わせ、合計19点の新証拠を提出した。
 2021年10月8日、誤嚥性肺炎のため東京拘置所で死亡した。87歳没。高橋死刑囚は、2021年5月ごろ、筋力の低下によって自力での食事などが困難となり、その後「誤嚥性肺炎」と診断され、東京拘置所内の病棟で治療を受けていた。一時期は病状が安定したものの、7日夜、容体が悪化したため、拘置所の医師による救命措置を受けていたが、8日午前0時20分ごろ、死亡が確認された。死亡に伴い、第二次再審請求は11月に終了した。
現 在
 2021年12月24日、弁護団が妻を申立人として横浜地裁に第三次再審請求。弁護人は、遺体の傷痕の鑑定結果や被害者から多額の借金をしていた人物がいたと示す記録など新証拠を提出。確定判決で認定された凶器の形状が被害者の傷と合わず、殺害の動機を持つ別の人物がいたなどと主張した。2023年11月7日付で横浜地裁は請求を棄却した。11月13日付で弁護人は即時抗告した。
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氏 名
山本峰照
事件当時年齢
 64歳
犯行日時
 2005年1月28日
罪 状
 強盗殺人、住居侵入、窃盗
事件名
 神戸市夫婦強殺事件
事件概要
 神戸市の無職山本峰照被告は2004年7月22日午後1時半頃、神戸市に住むいとこの男性(当時68)に借金を頼んだが断られたため、男性と妻(当時75)の首や胸などを用意していた包丁で刺して殺害。現金53,000円や腕時計・ネックレスなどを奪った。
 山本被告は賭け麻雀に没頭し、生活保護費もつぎ込んでおり、従兄弟の男性夫婦から数十万円の他、知人から借金を重ねていた。
 他に山本被告は知人の男性に誘われ2003年11月16日午後5時頃、神戸市の公衆浴場にて用意していた合鍵を用い、貴重品ロッカーの施錠を外して現金1万円が入った財布など計11点(時価41万円)を盗んだ。さらに12月13日午前11時40分頃、洲本市の住宅に侵入し、現金233万1,000円及び定額預金証書6通等が入った耐火金庫1個(物品時価1万円相当)を盗んだ。さらに12月30日午後5時頃、西宮市の住宅に侵入し、婦人用革ジャンパー1着等約10点(物品時価合計18万円相当)を盗んだ。
 山本被告は窃盗などの罪で公判中だった2005年10月12日、強盗殺人容疑で再逮捕された。
一 審
 2006年3月20日 神戸地裁 笹野明義裁判長 死刑判決
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控訴審
 弁護側即日控訴するも、27日に本人控訴取り下げ。検察側控訴せず、確定。
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 「期日間整理手続き」が神戸地裁で初めて適用された。
 2006年1月27日の初公判で、山本峰照被告は「(間違いは)ありません」と起訴事実を認めた。
 冒頭陳述で、検察側は山本被告が賭け麻雀に熱中して借金を重ね、夫妻に借金を断られて殺害を計画したと指摘。弁護側は山本被告が店長だったパチンコ店の経営立て直しに失敗した経験から、長年不眠症にかかっていたとし、「犯行直前にも睡眠薬を服用しており、心神耗弱状態だった」と主張した。
 2月9日の公判で笹野明義裁判長は、弁護側が請求していた山本被告の精神鑑定を却下した。被告人質問で、山本被告は、検察側の「自分ではどのような量刑を受けるべきと思うか」との問いかけに対し「死刑を覚悟しています」と陳述した。
 16日の論告で検察側は「供述の信用性が高く、犯行時も合理的な行動をしていた」と心神耗弱状態だったという弁護側の主張を否定した。そして「賭け麻雀で借金を重ねた末の残虐な犯行で、極刑以外に選択の余地がない」として死刑を求刑した。同日の最終弁論で弁護側は山本被告が事件前に多量の睡眠薬を連日服用していたことを理由に、「山本被告は睡眠薬の慢性中毒になっていて、心神耗弱状態だった」と主張し、無期懲役を求めた。

 笹野裁判長は「周到な準備や証拠隠滅の行為があった」として、刑事責任能力があると判断した。そして「賭け麻雀で借金を重ねた末の犯行で、人間としての共感の片鱗を見いだすことができない。包丁を海に投げ入れるなど犯行後も隠ぺい工作をし、夫婦を殺害したことに対する後悔や反省の念は一切感じられない。欲望を満たすために他人の命を奪うことも顧みない犯行。極刑をもってのぞむしかない」と述べた。
備 考
 山本被告は借金を返済するために1999年9月7日午前9時頃、神戸市の銀行に押し入り店内の女性客(当時25)を人質にとって金を要求したが、隙を見て客は逃亡し、職員が集まってきたため逃走。しかし職員数人に取り押さえられ、強盗未遂及び銃刀法容疑で現行犯逮捕された。1999年12月24日、神戸地裁で懲役3年の刑を受け服役し、2002年6月5日に仮出獄していた。
 改正刑事訴訟法に基づいて2005年11月から導入された、裁判を短期間で集中的に行うために、事前に裁判官、検察官、弁護人が争点などを整理する「期日間整理手続き」が適用され、2006年1月26日の公判から4回目での判決言い渡しとなった。最高裁によると、同手続きが適用された刑事裁判での死刑判決は初めて。
執 行
 2008年9月11日執行、68歳没。
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氏 名
佐藤哲也/川村幸也
事件当時年齢
 野村被告30歳、川村被告36歳
犯行日時
 2000年4月4日
罪 状
 強盗傷害、監禁、強盗殺人、死体損壊・死体遺棄
事件名
 ドラム缶女性焼殺事件
事件概要
 中古車販売業川村幸也被告、同従業員野村哲也(旧姓)被告は、自動車部品販売会社社長M被告、会社員SK被告(ともに最高裁で無期懲役が確定)、同SH被告(懲役12年が確定)、同I被告(懲役12年が確定)と共謀。川村、野村両被告人の指示で4被告人は2000年4月4日午前0時半頃、川村被告の知人に振り出した約束手形金240万円の支払いに応じなかった名古屋市の喫茶店経営の男性(当時56)を駐車場で待ち伏せて角材で襲い、約2週間のケガを負わせた。だが経営者は逃げてしまったため、一緒にいた共同経営者の妻(当時64)と同居する従業員で妻の妹(当時59)を乗用車ごと拉致。現金24,000円などを奪った。さらに川村被告、野村被告、M被告、SM被告はM被告の車に乗り換え、午前2時半ごろ、瀬戸市の山林で二人をドラム缶に押し込み、ガソリンをかけて焼死させた。さらに遺体をチェーンソーなどで切断、山中に放棄した。
 6人は同じ運送会社に勤務して知り合った。それぞれが退社した後、野村、川村両被告が商品の取り込み詐欺をするための会社を設立、他の4被告を取締役に就任させた。詐欺が計画通り行かずに資金難に陥ると、会社を受取人として4被告をそれぞれ5千万円の生命保険に加入させ「逆らえば殺される」という意識を植え付けていた。野村被告は会社の資金稼ぎのため、父親が経営する金融会社から、男性の振り出した手形の取り立てを請け負った。男性は以前金融業を営んでいたが数千万円の借金があった。だが「返済する金がない」とする男性との交渉が難航する一方、父親から「どうなっているんだ」と催促された。父親を恐れていた野村被告は川村被告と相談し「帰宅する夫婦をさらって殺害し、乗用車を奪うしかない」と決意した。
 男性が近所に逃げ込んだ後、千種署が緊急配備し、午前1時20分ごろ、現場から東北へ約6km離れた県道で、信号待ちをしていた男性の車を発見。乗っていたSH被告、I被告男二人を強盗傷害の疑いで逮捕した。4日午後、名古屋市の勤め先にいたSK被告を強盗傷害の容疑で緊急逮捕するとともに、M被告を指名手配した。5日午後、東京都千代田区でM被告を逮捕した。捜査本部は6日、強盗傷害容疑で川村被告と野村被告を指名手配した。10日、川村被告と野村被告が千種署に出頭したため、逮捕した。5月2日、強盗殺人、監禁、死体損壊・遺棄容疑で6被告を再逮捕した。
一 審
 2002年2月21日 名古屋地裁 片山俊雄裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年3月12日 名古屋高裁 川原誠裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
上告審
 2006年6月9日 最高裁第二小法廷 今井功裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 名古屋拘置所
裁判焦点
 2000年7月18日の初公判で、6被告とも起訴事実を認めた。さらにM、SK両被告は「五千万円の保険金を掛けられ、野村被告らの命令に従わなければ殺されると思った」と刑事責任は主犯格に比べて軽いと主張した。また、殺害現場にいなかったSH、I両被告は「殺害の謀議があったことは認めるが、実際にどういうことがあったのか分からない」と述べた。冒頭陳述で検察側は、野村被告らが共犯の四人に対し、自分たちが経営する会社が受取人の生命保険に加入させたうえ、命令に従わない場合は殺害をほのめかし、計画に引き込んでいた事実を明らかにした。
 その後、公判は野村、川村被告と、残り4被告に分離した。
 判決で片山裁判長は、野村被告を犯行集団の主犯と認定。きわめて重大な役割を果たしており、共犯者らに責任を押しつけようと画策するなど、犯行後の情状も悪い。もっとも思い刑責が問われる、と指摘した。
 川村被告についても、犯行前日に共犯者らを強引に犯行に引き込み、強く指示して犯行を推進するなど、集団内で果たした役割は野村被告に準ずるほど重大であって、川村被告の関与なくして各犯行は遂行し得なかった。犯行後の情状が悪いことも野村被告と同様である。川村被告の刑責は野村被告とほとんど軽重がなく、他の共犯者四名とは刑責の重さに格段の違いがある、と指摘した。

 川村被告の弁護人は控訴審で「実行部隊の一人にすぎず、主犯ではない」と主張していたが、川原裁判長は「責任の重大さは野村被告とほとんど同じ」と退けた。野村被告は「死刑を受け入れる」と控訴審では出廷しなかった。

 上告審弁論で両被告側は「殺害は計画的ではない」と主張。川村被告側は「殺害は野村被告の指示」などとして、ともに死刑回避を求めていた。
 最高裁、今井裁判長は「計画的犯行で動機に酌量の余地はない。何の落ち度もない2人を生きたままドラム缶に押し込み、焼き殺したと殺害方法は冷酷非情で残虐。積極的にかかわった責任は際立って重く、遺族らの被害感情などに照らすと、死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。
備 考
 分離公判となった自動車部品販売会社社長M被告、会社員SK被告は2002年2月19日、名古屋地裁で無期懲役判決(求刑死刑)。2003年6月19日、名古屋高裁で検察・被告側控訴棄却。2004年2月3日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 会社員SH被告、同I被告は2002年2月19日、名古屋地裁で懲役12年判決(求刑懲役15年)。控訴せず確定。
 川村被告は名古屋高裁での二審判決閉廷直前、「死刑が相当であることは理解しており、反省もしています」と述べた上で、1999年に岐阜市で債権回収のトラブルから債務者に発砲された事件について「警察は事件をもみ消した。警察がきちんと調べていれば、このような事件は起こさなかった」などと訴え、ぶぜんとした表情で法廷を後にした。
 佐藤死刑囚の旧姓野村。
その後
 佐藤哲也死刑確定囚が上告中の2004年9月28日、郵送で死刑方法などが記されたパンフレットが届いた。この際、名古屋拘置所は「そのまま閲覧させると心情不安定になり、規律維持に支障が出る可能性が高い」として一部を抹消して、佐藤死刑確定囚および森本信之死刑確定囚に渡した。森本死刑確定囚は差し入れ文書の一部を名古屋拘置所長に抹消されたのは違法として、国を相手取り10万円の損害賠償を求めた。2006年12月6日、名古屋地裁(田近年則裁判長)は「抹消処分は合理的とは言えず、所長は裁量権を逸脱した」として、国に1万円の支払いを命じた。田近裁判長は「原告が抹消部分を閲覧しても、拘置所の規律が放置できない程度の障害が生ずるとは認められない」と判断した。
 また佐藤死刑確定囚が名古屋拘置所に在監中の2005年6月24日、死刑執行方法が記された文書が届いた。この際、同拘置所は「そのまま閲覧させると心情的に不安定になり、所内の規律維持に支障が出る可能性がある」とし、一部を抹消して死刑囚に渡した。佐藤死刑確定囚は違法であるとして、国を相手取り10万円の損害賠償を求めた。2007年2月16日、名古屋地裁(末吉幹和裁判官)は「抹消処分の判断は合理的でなく、所長は裁量権を逸脱した」として、国に3万円の支払いを命じた。
 佐藤死刑確定囚は強盗目的を否認して2008年に再審請求するも7月に取り下げ。
 川村死刑確定囚は「事件は指示されてやった」と主犯格であることを認定されたことを否定して2008年7月に名古屋地裁へ再審請求を行った。12月18日、名古屋地裁は「再審開始の理由にあたらない」としては請求を棄却した。
執 行
 2009年1月29日執行、佐藤哲也死刑囚39歳没、川村幸也死刑囚44歳没。
 川村死刑確定囚は第二次再審請求準備中であったらしい。
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氏 名
中山進
事件当時年齢
 50歳
犯行日時
 1998年2月19日
罪 状
 殺人、銃刀法違反
事件名
 豊中2人殺人事件
事件概要
 1998年2月19日午前1時半頃、建設業中山進被告(50)は豊中市内の路上で、建築業K・Tさん(当時37)と、K・Tさんが交際していたスナック店員Oさん(同40)を待ち伏せ、手製のやりや包丁などで刺殺した。中山被告は、阪神大震災の復興工事のため来阪した際、Kさんの妻と交際を始めたが、Kさんが妻との離婚になかなか応じないことなどから、殺害を計画。襲撃時に一緒にいたOさんも、口封じのために殺した。
 銭湯二階で囲碁をしていた非番中の巡査ら3人は、Oさんの悲鳴が聞こえたため外へ飛び出したところ、中山被告が車で逃走した。3人は追い続け、細い路地で立ち往生した車から降りた中山被告を取り押さえた。
一 審
 2001年11月20日 大阪地裁 氷室真裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年10月27日 大阪高裁 浜井一夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年6月13日 最高裁第三小法廷 堀籠幸男裁判長 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 中山被告は公判で「もみ合った際に刃物が刺さった」などと殺意を否認し、弁護人は傷害致死罪と過失致死罪の適用を求めていた。氷室裁判長は「被告はほぼ無傷で逃走しており、もみあった形跡もなく、何度も突き刺して被害者は即死している」と殺意を認定。「反社会性、犯罪性が顕著で、再度、無期懲役刑を選択することはできない」とした。

 控訴審でも中山被告は「偶然出会った夫ともみ合いになり、たまたま持っていた包丁が2人に刺さっただけで、殺意はなかった」と主張していたが、浜井裁判長は判決理由で「2人の傷は深く、確定的な殺意が認められる」と指摘した。そして「度重なる凶行は容認できない。反省の態度も認められず、極刑はやむを得ない」と述べた。

 2006年4月14日の最高裁弁論で、被告側は「確かな殺意や計画性のない犯行だった」として極刑回避を求めた。
 堀籠裁判長は「計画的な犯行で、殺害の態様も執拗かつ残虐。約18年間にわたる服役にもかかわらず、凶暴で反社会的な行動傾向は改善されていない」と述べた。
備 考
 中山被告は1969年3月16日、高知県でライフル銃を用いて銀行警備員を射殺した強盗殺人事件を起こす。1970年3月30日、高知地裁で求刑通り一審死刑判決。1973年3月29日、高松高裁で一審破棄、無期懲役判決。上告せず、そのまま確定して服役。1991年に岡山刑務所を仮出所していた。
その後
 2008?年、再審請求。2011年までに棄却。その後、第二?次再審請求。
 2014年5月15日午後11時10分、食道がんのため死亡。66歳没。2013年6月に食道がんが見つかり、12月に大阪医療刑務所へ移送され、治療を続けていた。
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氏 名
陳徳通
事件当時年齢
 31歳
犯行日時
 1999年5月25日
罪 状
 強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷
事件名
 川崎中国人6人殺傷事件
事件概要
 中国福建省出身の陳徳通(チェン・ダートン)被告は日本で稼ごうと1998年8月、密航斡旋組織・蛇頭に約250万円を払って入国し、東京都中野区内のアパートで生活を始めたが、9月には川崎市川崎区で中国人夫婦ら5人(夫婦2組と男性1名)が住むマンションに移って同居を始めた。陳被告は中国人夫婦と遠い親戚関係にあった。
 陳被告は建設現場で日雇いの仕事をしていたが、仕事が少なく、分担していた家賃を支払うことができず、関係が悪化した。1999年5月20日未明、仕事を探すために朝食を作っていたとき、中国人男性(23)に「うるさい」と叱責され殴り合いになった。そして最後は2組の夫婦にも取り抑えられて殴られた。
 陳被告は暴行を受けたことを恨み復讐を決意し、都内に住む甥の男性に相談した。マンションの部屋を借りていた上海出身の女性(27)と福建出身の夫(30)は中国人密航者に対する無届の人材斡旋業で手数料を稼いでいたことから、室内に大金や貴金属等があるとにらんだ甥は、都内に住む同郷出身の中国人6人を強盗に誘った。
 陳被告と7人は1999年5月25日午後9時20分頃、マンションに押し入り、部屋を借りていた中国人夫婦、同居していた中国人夫婦(33、27)、中国人男性、さらに部屋を訪ねてきた別の中国人男性の計6人を粘着テープや鎖で縛り、現金約53,000円やキャッシュカード、腕時計、貴金属などを奪った。そのとき男性1人に怪我をさせた。
 翌朝、共犯者7人は逃亡。奪ったキャッシュカードで都内の銀行から現金を引き出したが、口座には数千円しかなかった。また高級腕時計など(時価約32万円相当)を現金に換えて山分けした。
 陳被告は午前9時過ぎ、サバイバルナイフで同居していた5人を何ヶ所も刺した後逃亡した。部屋を借りていた中国人夫婦と同居人男性の3人が出血性ショックもしくは失血死で死亡。別の中国人夫婦2人が重傷を負った。部屋を訪ねてきた男性には手を出さなかった。
 この男性が縛られたままマンションのエレベータまで逃げ出したところを、管理人が午前10時頃に発見した。
 被害者の供述などから陳被告らが浮上。6月中旬から7月にかけて、全員が逮捕された。
一 審
 2001年9月17日 横浜地裁川崎支部 羽渕清司裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年2月20日 東京高裁 須田※(※=賢の又を忠・まさる)裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年6月27日 最高裁第三小法廷 藤田宙靖裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1999年10月25日の初公判で、陳徳通被告は殺意こそ認めたが「被害者から受けた暴行への報復が目的だった」などと述べ、強盗行為については否認した。検察側は冒頭陳述で、襲撃グループ8人のうち、5人を刺したのは陳被告だけで、自分と血縁関係にあった被害者の命ごいも無視し、全身を何度も刺したと指摘した。
 2001年5月9日の論告求刑で検察側は「人間の所業とは到底考えられない残忍な犯行。反省の態度が全くなく、更生の可能性を見いだせない」と述べた。さらに「不法滞在の外国人による集団的犯罪が多発しており、日本の社会秩序維持の根幹にかかわる。社会の防衛、予防的見地からも厳重な処罰が必要」と述べた。
 6月27日の最終弁論で弁護側は「殺害時、被告人は酒を飲んでいて確定的な殺意があったとは言えない」などとして、寛大な判決を求めた。また検察側の論告について「死刑の廃止は世界のすう勢であり、死刑による犯罪の予防効果は疑問だ」と反論した。
 判決で羽渕裁判長は「被害者らの言動に報復を決意させる要因があり、蛇頭の協力者だった被害者から仲間に入るように言われて断ったことが、疎まれる一因であったと考えられる。周到な準備の上、一片のためらいもなく6人を殺傷した犯行は残忍。とても人の所業とは思えない。おいなどから殺害を思いとどまるように説得されながら聞き入れず、厳しい非難に値する。刑事責任はあまりに重大で、極刑はやむを得ない」と述べた。

 被告側は量刑不当を理由に控訴。
 二審で弁護側は「強盗は実行犯ではなく教唆しただけで強盗殺人罪は成立しない。殺意もなく、死刑は重すぎる」と主張したが、須田裁判長は「実行犯に情報を教えるなど中心的役割を果たしており共謀は明らか。被害者を刺した状況から殺意も認定できる」と退けた。その上で量刑について「同居人を皆殺しにしようとした犯行は人間の所業とは思えず、犯した罪のあまりの重さを考えると死刑はやむを得ない」と述べた。

 最高裁の口頭弁論で弁護側は、被告は犯行当時心神耗弱状態にあり、刑を軽くすべきだなどと主張した。
 藤田裁判長は「犯行の凶悪性、残虐性などに照らせば、被害者側が被告に暴力を加えた落ち度を考慮しても刑事責任は極めて重大で、死刑との判断を是認せざるを得ない」と判断した。
備 考
 陳被告とともに被害者らを襲った7人は強盗致傷で起訴された。うち2人は福建省マフィアのメンバーであり、別の強盗事件でも起訴された。陳被告らを追っている途中、複数の中国人が入国管理法違反等で逮捕されている。
 事件後、陳被告の故郷の家は仇打ちに遭い廃墟となった上、妻は2人の子供を連れて地元を離れ、身を隠している状態という。
その後
 恩赦出願が棄却されていたらしい。
執 行
 2009年7月28日執行、41歳没。
 衆議院解散の後で死刑執行があったのは、1969年12月以来約40年ぶり。来日外国人の執行は、統計を取り始めた1966年以後初めてと思われる。在日外国人の執行は日光中宮祠事件の朴烈根、崔基業元死刑囚が1974年6月6日に執行されて以来35年ぶりと思われる。
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氏 名
平野勇
事件当時年齢
 47歳
犯行日時
 1994年12月19日
罪 状
 窃盗、道路交通法違反、住居侵入、強盗殺人、非現住建造物等放火
事件名
 牧場夫婦強盗殺人放火事件
事件概要
 1994年12月19日午後10時40分頃、元牧場作業員平野勇被告は生活費や遊興費に窮し、以前住み込みで働いていた栃木県市貝町の牧場経営者夫妻(当時72,68)方に押し入り貴金属を盗もうとしたところ、夫に気付かれたため、二人をナイフや千枚通しで刺殺。現金約56万円と771万円相当の宝石類などを奪い、20日午前4時半頃、犯行を隠すため室内に灯油をまいて火をつけ、木造二階建て住宅一棟約百八十平方メートルを全焼させた。
 平野被告は22日、宇都宮中央署から指名手配されていた道交法違反(無免許、酒気帯び)容疑で逮捕、乗っていた車が盗難車だったため窃盗容疑でも再逮捕された。窃盗は合計8件起訴されている。
 平野被告は1993年夏から1994年7月末まで一年間、牧場に妻といっしょに住み込みで働いていた。
一 審
 2000年2月17日 宇都宮地裁 肥留間健一裁判長 死刑判決
控訴審
 2002年7月4日 東京高裁 安広文夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年9月1日 最高裁第二小法廷 中川了滋裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 平野被告は捜査段階において犯行を自供したものの、公判では殺人と放火を否認し、住居侵入と強盗傷害を主張して争った。
 被告は「盗みに入ったが、殺意はなく、もみ合っているうちに偶然ナイフが刺さった」と主張、自白調書も夜間の取り調べなどで過酷な状況に追い込まれたと任意性を否認した。
 司法解剖鑑定書で被害者一人の死因を不詳とし、凶器とされた花瓶が見つかっていない。
 一審で裁判長は、被告が逮捕後の1995年1月、宇都宮中央署長にあてた直筆の手紙の中で殺害を告白していること、道路交通法違反の取調中に自発的に犯行を自供し始めたことなどを理由に、殺意を抱いていたと認定した。

 控訴審判決理由で安広裁判長は「強盗殺人や放火の事実を認めた捜査段階の供述には任意性も信用性も認められる」と指摘、「就寝中に元従業員に押し入られ、残虐な方法で殺害された二人の恐怖や無念さは想像を絶する。死刑とした一審判決の判断が重過ぎて不当とは言えない」と述べた。

 上告審弁論で弁護側は「取調官の暴行があり、犯行を認めた被告の捜査段階の供述は真実ではなく殺害、放火はしていない。もみ合っているうちにナイフが刺さったのであり、殺意はなかった」と、住居侵入と強盗傷害罪の成立が限度として死刑回避を求めた。
 これに対し、検察側は(1)凶器の遺棄場所など(被告しか知り得ない)秘密の暴露がある(2)自白は客観的事実に基づいており、信用性が高い-などとして、上告棄却を求めた。
 判決で中川裁判長は「夫をナイフ、妻を千枚通しで何回も突き刺して殺害し、隠ぺい目的で家に放火しており、刑事責任は誠に重い」と非難した。「冷酷非情で残忍。動機にも酌量の余地はない」「金銭目的という動機に酌量の余地はなく、二人の殺害方法もナイフなどで何回も突き刺すなど残忍。殺人罪の前科もある。捜査段階で自白し、反省の態度を示していたとしても死刑はやむを得ない」とした。被告側は強引な取り調べによって自白させられたと主張したが、中川裁判長は「自白の任意性を疑うべき証拠は認められない」と退けた。
備 考
 平野被告は殺人、窃盗など前科十数犯。牧場を辞めたあと数回、夫婦方に忍び込み盗みを働いたことを認めている。
 1974年3月3日、福島県郡山市のモーテルで、同宿した女性を金銭トラブルから殺害し、同年6月5日、地裁郡山支部で懲役10年(求刑12年)の判決。控訴せず確定。
執 行
 2008年9月11日執行、61歳没。
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氏 名
江東恒
事件当時年齢
 55歳
犯行日時
 1997年10月30日
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、強盗予備
事件名
 堺夫婦殺人事件
事件概要
 江藤恒被告は金融会社数社から数百万円の借金があったため、知人の会社員ら3人とともに、カラオケで知り合った堺市の石綿製造業夫婦(当時67,65)の資産を奪おうと計画。1997年10月30日午後8時頃、夫婦の家を訪れ、2人に粘着テープなどを顔や首に巻き付け、首を絞めるなどして窒息死させた。現金約15万円と山林の権利証などを奪い、翌日2人の遺体を車で運んで河内長野市内の休耕田に捨てた。江藤被告はパワーショベルで休耕田に遺体を埋めようとしたところ、所有者に見つかり、警察に通報され逮捕された。
 夫婦は阪神大震災で被災したので兵庫県内から転居。カラオケ喫茶でたまたま江藤被告と顔見知りになっただけだった。
一 審
 2001年3月22日 大阪地裁堺支部 湯川哲嗣裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年1月20日 大阪高裁 那須彰裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年9月7日 最高裁第一小法廷 甲斐中辰夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 被告側は強盗の事実を認めたが、殺意は否認していた。弁護側は心神耗弱状態であったことを主張した。
 一審で湯川裁判長は「土地建物を処理するための委任状を犯行現場で書かせており、夫婦が生きていては邪魔になると考え、江東被告一人で殺害を実行した」と認定した。さらに江藤被告が事前に夫婦の経営する工場のシャッターに留守を装う張り紙をするなどした点に触れ、「計画的かつ確定的な殺意を強く推認させる」とした。そして「遊興費などに困っての短絡的な犯行で人間として良心のかけらも見られず、極刑は免れない」とした。

 二審で江東被告は「二人を黙らせるために縛っただけで、殺すつもりはなかった」と主張した。
 判決で那須裁判長は「確定的殺意が認められなくても、被告には殺しても仕方がないという認識があった」として退けた。そして那須裁判長は「金欲しさに、親しく交際していた二人の命を奪った身勝手で冷酷な犯行。死刑以外で償わせる方法は考えられない」と述べた。

 最高裁で弁護側は「殺意はなかった」と死刑回避を求めた。
 甲斐中裁判長は「金銭欲に駆られた利己的な動機に酌量の余地はなく、縛り上げて首を絞めた犯行は冷酷残虐。全く落ち度のない2人の命を奪った結果は極めて重大で死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。
備 考
 犯行グループの残り3名のうち、1名は強盗致死で一審懲役10年が確定。1名は2004年7月14日に自首したものの熱中症で入院。退院後の8月9日に逮捕され、2005年2月22日、懲役8年が言い渡された。残り1名(名前不明)はいまも逃亡中。
現 在
 2008?年、再審請求、その後棄却。2011年時点で第二次再審請求中。
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氏 名
久間三千年
事件当時年齢
 54歳
犯行日時
 1992年2月20日
罪 状
 殺人、略取誘拐、死体遺棄
事件名
 飯塚事件
事件概要
 1992年2月20日朝、久間三千年(くま みちとし)被告は福岡県飯塚市の小学1年女児2人(ともに7)の登校中に自分のワゴン車へ誘い込み、市周辺で首を絞めて殺害、同日11時ごろ、福岡県甘木市野鳥の雑木林に遺体を捨てた。
 福岡県警は1994年9月23日、DNA鑑定の結果、遺体周辺の血痕と久間被告のDNAの型が一致したなどとして、久間被告を死体遺棄容疑で逮捕した。10月14日、殺人容疑で再逮捕した。
一 審
 1999年9月29日 福岡地裁 陶山博生裁判長 死刑判決
控訴審
 2001年10月10日 福岡高裁 小出☆一裁判長(☆は金ヘンに享) 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年9月8日 最高裁第二小法廷 滝井繁男裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 自白、物的証拠一切なし。久間被告側は一貫して無罪を主張。動機は明らかにされていない。
 遺体周辺などから発見された血痕のDNA鑑定が最大の争点となった。警察庁科学警察研究所(科警研)は2種の方法で鑑定し、いずれも「久間被告のDNA型と一致」とした。しかし、帝京大の鑑定では久間被告の型は検出されなかった。日本におけるDNA鑑定の権威と言われる石山昱夫帝京大名誉教授は、1997年3月5日の公判で証人として出廷し、科警研の鑑定を「鑑定方法が杜撰で技術が低く、私の教室ならば『やり直せ』と命じたいほどだ」と激しく非難した。
 検察側は、<1>2種類のDNA鑑定のうち一方について、犯人が1人と仮定すれば、被告と一致<2>被告の車の血痕の血液型が女児の1人の型と一致<3>遺留品発見現場で目撃された車が被告の車と似ている、と主張した。
 陶山裁判長は科警研の2種の鑑定法のうち、1種について、1人の資料での判定が原則なのに、鑑定対象となった血痕などは2人以上の混合血だったことから「鑑定結果は疑問だ」と指摘。全国約200件の刑事訴訟で証拠採用された科警研や科警研方式のDNA鑑定では初めて、証拠としての信用性を否定した。
 しかしもう1種の鑑定は「信用でき、犯人が1人であると仮定すれば被告と一致するといえる」と判断。一方、帝京大鑑定については「試料が少なく被告の型が出なかったとしても科警研鑑定と矛盾しない」とした。
 さらに、遺体の着衣に付着していた繊維は「久間被告の車と同型車のシートの繊維である可能性が高い」▽被告の車から検出された血痕と尿の跡は「女児を運んだ際に付いた物とすれば合理的に説明できる」▽遺留品発見現場近くで目撃された車が被告の車に似ている--などを認定。いずれも単独では断定できないが、総合すると有罪以外の可能性は考えられない、と結論付けた。そして「DNA鑑定や目撃証言、車内の血痕や尿の跡などの状況証拠を総合評価すると被告が犯人と認定できる。極めて冷酷残忍で、再犯の可能性も否定できない。改しゅんの情も全く見られない」とした。

 控訴審でも被告側は無罪を主張した。
 福岡高裁は▽女児の1人の遺体に付着した血痕のDNA型が、警察庁科学警察研究所が実施した2種類のDNA鑑定のうち1種類で被告と符合▽遺留品発見現場付近で目撃された車は被告の車と同じ車種▽女児の1人の着衣に付いていた繊維は、被告の車の車種のシートと細部まで一致▽被告の車から検出された血痕は血液型とDNA型が女児の1人と一致し、車内から検出した尿とともに女児を運んだ際に付いたと説明できる--などと認定。これらの状況証拠から久間被告が犯人であると判断した。
 小出裁判長は「証拠が被害者側から得られるだけでなく、被告の車からも被害者の痕跡が見いだされる。一つ一つが相当大きな確率で結びつき、被告が犯人である確率は幾何級数的に高まっている」「状況証拠はそれぞれ重要かつ特異的で、被告が犯人であることを十分裏付けている」「被告は冷酷卑劣で反省の情もない。死刑もやむを得ない」と述べた。

 最高裁の弁論で弁護側は一、二審が、被害者の遺体に付着した血液と久間被告のDNA型が一致したとの鑑定結果などを有罪の証拠としたことに対し「鑑定の実施方法や結果の精度、技術水準自体にも問題があり、証拠能力はない」などと指摘。「捜査段階を含め一貫して無実を訴えている。犯行との結び付きを証明する直接的な証拠はない」と、あらためて無罪を主張した。
 第二小法廷は、(1)久間被告の車から検出された血痕のDNA型が被害女児のものと同じ特徴を備えている(2)女児の体に付着していた血液から被告のDNA型の一部と一致するとものとみて矛盾しないものが発見された――などと指摘。DNA鑑定について、警察庁の運用指針に反した手法で行われ、証拠能力がないなどとする弁護側の主張を退けた。
 女児の衣服に付着していた繊維が被告の車のシートのものかどうかも争点になっていたが、第二小法廷は、繊維の鑑定や不審車両の目撃供述などから、犯行に使用された車は久間被告のものと同車種で、飯塚市と周辺でこの車種を保有していたのは極めて少数の人間に限られるという事情も指摘。
 そして「独立した証拠によって認められる状況事実から犯人であることに合理的疑いはない。性的欲望を遂げようとした卑劣な動機に酌量の余地はなく、犯行は冷酷非情。極めて非人間的な行為によりまな娘を失った遺族らの被害感情も厳しい。死刑の判断は是認せざるを得ない」と述べて被告の上告を棄却した。
執 行
 2008年10月28日執行、70歳没。
 弁護団は再審準備中だった。
現 在
 2009年10月28日、久間三千年元死刑囚の妻は福岡地裁に再審請求した。再審公判が始まった「足利事件」(1990年)と同時期に同じ方法で捜査段階に実施されたDNA型や血液型の鑑定について、「結果に誤りがある」などとする鑑定書を新証拠として提出した。鑑定書は足利事件のDNA型再鑑定にもかかわった本田克也・筑波大教授(法医学)が作成。飯塚事件では再鑑定できるだけの試料が捜査時に使われて既に無いため、当時の鑑定結果を検証し、再評価した。
 再審請求書では、DNA型鑑定(警察庁科学警察研究所のMCT118型鑑定)を、型判定の精度が悪い▽警察庁指針に反した方法をとった--と批判した上で、「犯人の型と、元死刑囚の型は違う」と主張している。
 また、犯人の血液型は「AB型」で、久間元死刑囚の「B型」ではないとしている。被害女児はそれぞれA型とO型。事件時、O型女児の身体に付着した混合血液からはABOすべての反応が出た。捜査側は反応の強弱から犯人は「B型」と判断したが、弁護団は「O型女児に付着した混合血液から、先に被害にあったA型女児のDNA型が検出されていない」と指摘。その上で、混合血液のうちO型は被害女児の血液で「犯人はAB型」と結論付けている。
 福岡地裁は2012年2月中旬、警察庁科学警察研究所(科警研)からDNA型を撮影した写真のネガを取り寄せた。
 2012年10月25日、久間三千年元死刑囚の再審弁護団が記者会見し、DNA鑑定の結果を撮影したネガフィルムを解析した結果、第三者のDNA型が確認されたと発表した。
 2014年3月31日、福岡地裁は請求を棄却した。平塚浩司裁判長は、弁護側が提出した本田克也・筑波大教授(法医学)のDNA型鑑定書について新規性を認め、警視庁が当時行ったMCT118型検査法については「直ちに有罪認定の根拠とすることはできない」と指摘した。しかし、「弁護側の鑑定書は抽象的な推論に過ぎない」と指摘。また、事件現場での車の目撃証言の鑑定書についても新規性は認めたが、「心理学の知見を踏まえた十分な検討がない」と否定した。そして、「鑑定結果を除いても、久間元死刑囚が犯人であることについて高度の立証がなされている」と結論づけた。
 4月3日、弁護団は福岡高裁へ即時抗告した。弁護団は「地裁は(弁護側の)鑑定の評価を誤っている。有利になる捜査記録などの証拠開示を求めていく」としている。
 2018年2月6日、福岡高裁(岡田信裁判長)は即時抗告を棄却した。福岡高裁の審理には、1999年の福岡地裁判決に関わった柴田寿宏裁判官が担当していたことが後に判明。刑事訴訟法は一審や二審の公判を担当した裁判官が上級審を審理する「前審関与」を禁じているが、最高裁は1959年、再審事件は対象外と判断している。弁護側は特別抗告した。
 2021年4月21日付で最高裁第一小法廷(小池裕裁判長)は、弁護側の特別抗告を棄却する決定を出した。再審が開始されないことが確定した。裁判官5人全員一致の意見。有罪の根拠となったDNA型鑑定の信用性などが争点だったが、小法廷は「DNA型鑑定を証拠から除いても合理的な疑いを超えた高度の立証がされている」とした福岡地裁、福岡高裁の判断を支持した。判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 2021年7月9日、妻が福岡地裁に第二次再審請求。弁護団は、事件当日に通学路付近で、久間元死刑囚と全く特徴が異なる人物が運転する軽自動車の後部座席に、女児2人が乗っているのを見たとする、県内の70代男性の証言を新証拠として提出。男性は申し立て後の記者会見に出席し「平日の日中でおかしいと思い、寂しそうなおかっぱの女児の顔をよく覚えている」と話した。男性によると、当時110番したが警察に一度話を聞かれただけで、95年2月の福岡地裁初公判を傍聴した際に見た元死刑囚は「明らかに自分が見た男と別人だった」という。
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氏 名
石川恵子
事件当時年齢
 39歳
犯行日時
 1996年8月29日/1997年6月13日
罪 状
 窃盗、殺人、死体遺棄、強盗殺人
事件名
 宮崎2女性殺人事件
事件概要
 宮崎市の家事手伝い、石川恵子被告は父親の経営する工務店の資金繰りに困り、金を奪おうと1996年8月29日、石川被告が運転する乗用車内で父親の知人であるホテル従業員の女性(当時55)に睡眠導入剤を混ぜた缶入りコーヒーを飲ませて眠らせ、西都市の畑近くに止めた車内で首をロープで絞めて殺害。現金約9,500円入りのバッグを奪い遺体を畑に埋めた。
 1997年6月13日、宮崎市に住むゴルフ仲間の薬剤師の女性(当時63)に石川被告の自宅で借金を申し込んだが、断られたため両手で首を絞めて殺害。遺体を国富町の杉林に運んで放置。15日と16日、キャッシュカードで現金合計200万円を引き出した。
 1997年6月の事件で二つの銀行の防犯カメラに金を引き出す同一人物の女性の姿が映っていたことから、捜査本部は似顔絵とビデオを公開。寄せられた情報から、11月10日、窃盗容疑で石川被告を逮捕。12月1日、殺人と死体遺棄容疑で再逮捕。さらに石川被告は1996年の事件を供述。12月5日、白骨死体が発見された。1998年1月9日、強盗殺人と死体遺棄容疑で再逮捕した。
一 審
 2001年6月20日 宮崎地裁 小松平内(へいない)裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年3月27日 福岡高裁宮崎支部 岩垂正起裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
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上告審
 2006年9月21日 最高裁第一小法廷 甲斐中辰夫裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 一審では石川被告の精神状態が争点となった。
 公判で弁護側は石川被告の精神鑑定を申請。「殺害時は精神分裂症で心神耗弱状態にあり、責任能力は限定される」とする精神鑑定書が提出され、証拠採用された。これに対し、検察側も再鑑定を申請。「当時の精神状態は精神病的な状態にはなく、物事の善し悪しを判断して行動する能力には問題がなかった」とする精神鑑定書が提出され、同じく証拠採用されている。
 小松裁判長は「殺害に使用する道具を準備し、発覚を防ぐためにアリバイ工作をするなど、目的達成のため狡猾に行動しており、精神分裂病だったとは認められず、責任能力に疑いを挟む事情も認められない」と判断し、検察側の精神鑑定を採用した。

 控訴審で弁護側は控訴理由を、(1)一審で不支持となった「心神耗弱状態で責任能力は限定される」とする精神鑑定の方が捜査記録と矛盾せず、信用性がある(2)従業員殺害事件は金目当てとは考えられず、強盗殺人ではなく殺人と窃盗が適用される(3)死刑が相当かどうかは厳格な判断が必要――と説明した。
 石川被告は控訴審第2回公判にて、薬剤師の殺害について「第三者がしたことで、自分は関与していない」と無罪を初めて主張。最終弁論で弁護側は、ホテル従業員女性についての強盗殺人罪は「現金を奪おうと考えたのは殺害後」として殺人と窃盗罪を主張。さらに犯行当時、心神耗弱状態であったと無期懲役刑への減刑を求めた。
 岩垂裁判長は判決で「(薬剤師殺害を否認する)供述は、信ぴょう性が皆無」として、石川被告の単独犯行と認定。また「責任能力もあった」と判断し、弁護側主張を退けた。

 上告審弁論で弁護側は「事件当時、統合失調症で刑事責任能力に問題があった」として死刑回避を求めた。検察側が「犯行後、被害者が生きているように偽装工作している。責任能力を疑う余地はない」と反論し、結審した。
 最高裁第一小法廷は「周到な準備のもと、うそをついて被害者をおびき出して絞殺し、現金も奪ったほか、借金の申し入れが発覚しないよう安易に殺害しており、結果は重大」と指摘。「落ち度のない2人を短期間に相次いで殺害するなど犯行態様は残忍で冷酷だ」として、被告側の上告を棄却した。
備 考
 当初一審判決は2001年5月11日の予定だったが、担当の弁護士(当時54)が前月に強姦未遂の罪で起訴されたため、新たな弁護士を専任。弁護士は改めて刑事記録などを見直したいと、判決期日の延期を申請し、受け入れられた。
 宮崎地裁小松平内裁判長は判決理由の朗読が終盤に差しかかったころから涙声に変わり、死刑の主文を言い渡し、通常の控訴手続きを説明した後に「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」と異例の意見を付け加えた。
現 在
 確定後、「むずむず脚症候群」らしき病気で闘病中。2010年7月23日、恩赦出願取り下げ。
 2012年10月11日、再審請求。両事件について、心神喪失状態で責任能力はなかったと主張している。2018年10月30日付で宮崎地裁は、請求を棄却する決定を出した。石川死刑囚は11月5日付で即時抗告した。福岡高裁宮崎支部は2019年3月14日付で棄却した。22日付で石川死刑囚は特別抗告した。
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氏 名
小林薫
事件当時年齢
 35歳
犯行日時
 2004年11月17日
罪 状
 わいせつ目的誘拐、殺人、強制わいせつ致死、死体遺棄、死体損壊、脅迫、強制わいせつ、窃盗
事件名
 奈良市女児誘拐殺人事件
事件概要
 奈良市三郷町に住む新聞販売店従業員小林薫被告は、2004年11月17日午後1時50分頃、下校途中の小1女児(当時7)に声をかけて車に乗せ、自宅マンションに連れ込んで暴行した。さらに暴行が発覚することを恐れ、午後3時20分頃、自室の浴槽に女児の顔をつけて殺害した。女児の遺体から歯を抜くなどした後、午後10時頃、平群町の道路脇側溝に死体を遺棄した。遺体は18日午前0時6分、遺体が発見された。
 さらに小林被告は11月17日午後8時4分、女児の携帯から、女児を撮影した写真付きメールと「娘はもらった」の言葉を女児の母親の携帯に送った。さらに12月14日午前0時頃には「今度は妹をもらう」というメールを送った。
 2004年12月30日、逮捕された。
 2004年9月26日、奈良県北西部で別の女児に声を掛け、体に触るなどのわいせつな行為をした。
 2004年6月~11月、奈良県や滋賀県内で女性用下着など31枚を盗んだ。
 小林被告は、かつて勤務していた大阪市東住吉区の販売店から新聞代金20数万円を持ち逃げしたとして、東住吉署は11月17日に業務上横領容疑で逮捕状をとっていた。2005年3月、東住吉署は小林被告を書類送検した。4月1日、半分程度を弁償していることなどを理由に起訴猶予となった。東住吉区の販売店は、小林被告が奈良県の販売店で勤務していることを知りながら、東住吉署に報告しなかったとして、新聞社から取引解除されている。
一 審
 2006年9月26日 奈良地裁 奥田哲也裁判長 死刑判決
控訴審
 弁護側即日控訴するも、10月10日に本人控訴取り下げ。検察側控訴せず、確定。
拘置先
 大阪拘置所
裁判焦点
 小林被告は初公判で起訴事実を全面的に認めている。
 2006年2月14日に提出された情状鑑定署では、被告の性格を「顕著な自己中心性と対人理解の不足、道徳感情の希薄さ、虚言傾向など深刻な偏りがある」と指摘。米精神医学会の診断基準(DSM4)を用いて「反社会性人格障害」と診断した。
 犯行には、さらに生活環境の悪化による焦燥感や児童ポルノの影響があったとしている。
 検察側は論告で、「わいせつ目的で誘拐し、犯行隠ぺいのために窒息死させた」と悪質性を指摘。「(自宅に誘い込んだ後)宿題をしている様子を見て、しっかりしており、帰せば逮捕されると思い殺害した」と殺意を抱いた経過を明らかにし、「無防備の女児をちゅうちょすることなく水中に沈めて溺死させ、残虐極まりない」と述べた。
 事件当日に女児の遺体の写ったメールを母親に送りつけ、約1ヶ月後に「次は妹だ」というメールを再度送信したことにも触れ、「これほど人倫にもとる犯行はかつてなかった」と指摘した。
 被告について「反社会性人格障害」と判断した情状鑑定結果については「意味がない」と考慮しなかった。「両親の苦しみは筆舌に尽くし難い」と被害者の処罰感情にも言及し、「全国の父母や学校関係者、地域住民などに深刻な不安を抱かせた」と指摘。「更生の意欲が欠如しており、矯正は不可能」「幼い女児への欲望と支配欲から事件を起こし、再犯の可能性は極めて高い」と断定した。
 弁護側は最終弁論で、小林被告の計画性を否定。殺意は突発的、衝動的なものであるとした。脅迫メールなどもパニックに陥り、場当たり的な行動となったと主張した。さらに鑑定書が指摘したとおり、被告の人格特性は生まれつきのものではなく、幼少時から差別やいじめを受けたりしたことなど、環境・社会が重大な影響を与えているものであり、被告の責任は一定程度減殺される。よって、被告を死刑にすべきではないと主張した。
 小林被告は「全国から注目されて自分の名を知らしめたことに満足」「早く死刑を言い渡してほしい」などと供述。最終弁論でもあくびをするだけだった。
 奥田裁判長は、小林被告が女児を強姦した後に殺害する意図を持っていたと認めたうえで、殺意の発生時期について検討。女児が小林被告の部屋で宿題の算数問題をすらすら解いたことなどから「このまま帰宅させると犯行が発覚すると思い、強姦した後は殺すしかない」と思うようになったと述べ、女児が風呂場の浴槽から出ようと抵抗したためにとっさに殺意が生じた、とした弁護側の主張を退けた。
 さらに判決は「当初から女児へのわいせつ行為を意図して白昼町中でおこなわれた計画的かつ大胆な犯行」として計画性についても認定。女児の遺体を傷つけた行為に対しては「死者への尊厳が感じられない冷酷、非情な犯行だ」と断じ、遺族の処罰感情も極めて強いとした。事件の背景に小林被告の反社会性人格障害があるとしたものの、「反社会的な生き方を選択したのは被告の意思によるものだ」と述べた。
 そのうえで、小林被告に強制わいせつ致傷罪などの前科があることなどを踏まえ、「根深い犯罪傾向を有し、真剣に反省しておらず、更生の意欲もない」と指摘。小林被告の成育歴にいじめなどの不遇な点があったことを考慮しながらも、「抵抗することもままならない幼少の女児で、性的被害にも遭っていることを考えると、被害者の数だけで死刑を回避すべきとは言えない。被告の生命でその罪を償わせるほかない」と結論づけた。
備 考
 小林被告は1989年、幼い女児8人にいたずらをした強制わいせつ容疑で書類送検。執行猶予付きの有罪判決を受けた。また1991年、5歳女児の首をしめて殺そうとしたため、逮捕。強制わいせつ致傷容疑で1991年10月、大阪地裁で懲役3年の実刑判決を受けている。他に1989年、大阪府内の新聞販売店に勤めていた時、 同僚の財布を盗むなどして窃盗容疑で逮捕されている。
 本事件をきっかけに、「性犯罪者処遇プログラム」が導入された。2006年施行の刑事施設・受刑者処遇法で矯正教育が義務付けられ、各刑務所などは受刑者に性犯罪の原因となる認識や行動のひずみを自覚させる「認知行動療法」を採り入れた。
その後
 2007年6月16日付で、小林薫死刑囚の弁護人が「控訴の取り下げは無効」として、控訴審の期日指定を求める申し立てを大阪高裁に行った。小林死刑囚も控訴審での審理を望む意向を示している。
 今回の申し立ては、小林死刑囚が新たに選任した弁護人が実施。申し立てなどによると、一審の国選弁護人は控訴の時点で選任の効力が消滅し、弁護人不在の状況で提出した控訴取り下げは無効で、一審弁護人の控訴は有効だと主張、初公判の期日を指定するよう求めている。
 判決前、小林死刑囚は一審弁護人に「早く死刑にしてほしい」などと話していた。しかし、関係者によると、今年に入り、接見に訪れた一審弁護人らに対し、「一審では自分の主張をきちんと聞いてもらえなかった。判決にも不満がある」などと話しているという。
 2008年4月21日付で奈良地裁(石川恭司裁判長)は、「取り下げの際に弁護人がいなくても憲法に違反するとはいえない」と判断。さらに、弁護人が取り下げ時の小林死刑囚の精神状態について「追い詰められた状態にあった」と主張したことについても「判断に影響を及ぼすような精神障害があったとはうかがえない」として退けた。
 弁護人は決定を不服とし、大阪高裁に抗告申立書を提出した。5月19日、大阪高裁は抗告を棄却した。大渕敏和裁判長は決定で「それまでの言動から、判断能力があったことは明らか」とした。
 弁護人は決定を不服とし、最高裁へ特別抗告した。7月7日付で、最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は、「判例から違憲主張に理由がないのは明らか」と訴えを退ける決定を出した。控訴の取り下げが有効であることが確定した。
 2008年12月17日、小林死刑囚は奈良地裁へ再審請求を提出。奈良地裁は2009年5月1日付で請求を棄却。大阪高裁への即時抗告も2009年8月6日付で棄却。2009年12月15日、最高裁第二小法廷は特別抗告を棄却した。

 小林薫死刑囚は『週刊新潮』2008年1月3・10日号が「もっと生きたいと言い出した少女誘拐『死刑囚』小林薫」の見出しで記事を掲載したことについて、「記事を読んで不眠症や過食症になった」と、精神的被害を主張して2008年12月に慰謝料計300万円の支払いを求めて大阪地裁に提訴した。
 2010年1月下旬、大阪地裁は拘置所の講堂で小林薫死刑囚を尋問。大阪地裁の揖斐(いび)潔裁判長、原告、被告の弁護士らが立ち会った。小林死刑囚は自ら控訴を取り下げた後で再審請求した理由について、「女児を浴槽につけて殺したとする奈良地裁の判決に納得できない。睡眠導入剤を飲ませたら風呂の中でおぼれた」と訴えた。被告側弁護人が「それでは罪名が『過失致死』なので死刑にはならない。主張が矛盾しているのでは」と問いただすと、小林死刑囚は「判決が誤りと認められることが大事だ」と反論し、改めてまた再審請求する考えも示したという。
 2010年4月30日、大阪地裁(揖斐潔裁判長)は「記事が真実とは認められない」として新潮社に30万円の支払いを命じた。

 2010?年、第二次再審請求。2011年8月時点で大阪高裁へ即時抗告中とある。その後棄却されたと思われる。
 2013年2月7日、恩赦出願が棄却されている。
執 行
 2013年2月21日執行、44歳没。
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氏 名
長勝久
事件当時年齢
 22歳
犯行日時
 1988年11月19日/1989年11月
罪 状
 殺人、傷害
事件名
 栃木・妻と知人殺人事件
事件概要
 栃木市の長勝久被告は栃木県小山市のCさんと1988年5月に知り合い、6月から同棲を始め、8月3日にCさんと結婚した。長被告は8月末に会社を辞め、9月からCさんとともにCさんの実家である土建業で働き始めたが、中旬には行かなくなった。Cさんは長被告の仕事ぶり、生活ぶりが不誠実でしっと深く、自分を束縛する上に暴力的であることから、11月上旬に栃木県小山市の実家へ逃げ帰った。長被告はよりを戻そうと1988年11月19日午後7時ころ、口実を設けてCさん(当時18)を自動車に乗せて連れ出し、復縁を求めたが、これを拒否されたため、他に男ができたと思い込んで逆上。Cさんの首を絞めて殺害した。
 長被告はCさんの遺体を、父を通して栃木市内の祖父(1992年8月に死亡)方の庭に埋めることを思いついた。11月中旬、乗用車で実家へ戻って父と一緒に祖父宅へ行き「ここに埋めさせてほしい」と祖父に頼み、庭の花壇に埋めた。その後、長被告自身が失踪届を提出した。

 長被告は栃木県小山市の工員の男性と1988年9月頃に知り合って友人付き合いを始めたが、Wさんが従順な性格であったため、次第に虐待を加えるようになった。1989年11月ごろ、同居していた小山市のアパートの浴室及び六畳間で、度重なる暴行で衰弱しているWさん(当時26)に対し、死ぬかもしれないと認識しながら、殴る蹴るなどの暴行を加えて殺害した。殺害の翌日、長被告は父と共に祖父方へ行き、遺体をビニールシートで包んで野菜畑に埋めた。
 Wさんは1987年12月に栃木市内に新設された電子部品会社へ東京の本社から配属された。1988年9月、Wさんと長被告は知り合った。Wさんは12月に退職し、栃木市内の自動車部品製造会社に就職。Wさんはその後、1989年10月20日までに会社を転々とした。長被告は毎日のようにWさんを連れ出し、暴力をふるっていた。1989年2月頃、長被告は別の女姓と付き合うようになり、7月頃からは女性と栃木市の自宅で同棲するようになった。7月半ばから小山市のアパートで同棲するようになり、Wさんは頻繁に訪れた。そして9月以降はほぼ同居状態となり、暴力の度は激しさを増していった。
 Wさんの行方がわからなくなり、9月に千葉県館山市の実家から失跡届が出されていた。
 事件後、女性は鹿沼市の実家に逃げ帰ったが長被告に呼び戻され、一緒に住んでいた。
 栃木県警は、失跡直前に2人に接触していた長被告から事情を聴いていた。しかし、長被告は一貫して事件とのかかわりを否認。1990年2月、小山市のアパートを引き払い、二人は栃木市、宇都宮市、小山市、前橋市、札幌市、川崎市と転々とした。
 長被告の父は長被告の指示に従い、1990年7月に2人の遺体を掘り出し、祖父がそれを同敷地内で焼却、燃え残った骨は棒で細かく砕いて同所の草むらに埋めた。なお父は刑法の死体遺棄罪の公訴時効が3年のため刑事訴追を受けない。

 長被告は川崎市内で出張ヘルスマッサージ店の経営を始めた。被告は、1995年から1996年にかけ、従業員の男性(当時25)に対し、腕にたばこのフィルターをほぐしたものを置いて火をつけたり、乳首やわきの下をライターの火で焼くなど常習的な暴行を加え、全治不詳のやけどなどの傷害を負わせた(傷害6件)。また1995年12月ごろ、同じ場所でこの従業員と共謀し、別の従業員の男性(当時29)のつめや背中などにたばこの火を押しつけるなどして指や背中に全治5カ月のやけどなどをさせた(傷害1件)。

 1996年5月21日、神奈川県警は川崎市の傷害事件で長被告を逮捕。5月28日、長被告と同居していた女性が保護され、Wさんの事件を供述した。6月14日からの取り調べで、長被告の実父が2人の遺体を埋めたことを供述。6月22より、遺体を埋めた場所で発掘作業を開始。Cさんのものとみられる人の白骨の一部や「KtoC」と彫られた指輪を発見した。捜査本部は7月4日、Wさんの殺人容疑で長被告を再逮捕した。8月19日、Cさんの殺人容疑で長被告を再逮捕した。Wさんの遺体は、まだ見つかっていない。
一 審
 2001年12月18日 宇都宮地裁 肥留間健一裁判長 死刑判決
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控訴審
 2003年9月10日 東京高裁 白木勇裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年10月12日 最高裁第一小法廷 才口千晴裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1996年10月29日の初公判で、長勝久被告は川崎市内で起こした傷害の事実についてはほぼ認めたが、2人の殺人については殺意、殺害の事実ともに否認して全面的に争う構えをみせた。Wさん殺しについては「私は度重なる暴行をしたり殺意を持って殴打したり死亡させた覚えはない」などと全面的に否認。さらにCさん殺しについても「殺意を持ってけい部を圧迫した事実も、窒息のため死亡させた事実もない」などと否認した。
 11月26日の第3回公判で、弁護側は冒頭陳述で長被告の殺意、殺害の行為を共に否定した。弁護側がWさん殺しに関して「殺意を持ったこともなく、殺意を持って暴行を加えた事実もない」と主張、長被告がけがをしたWさんを気遣って看護する様子を強調した。また、Cさん殺害についても「一切の殺害行為も実行していない」とした。
 同日は、小山市立木のアパートで長被告やWさんと同居、暴行や殺害に至る状況を目撃していた女性の検察側による証人尋問が行われ、この女性は「ふろ場の中からWさんの悲鳴や長(被告)の怒鳴り声、体が壁に当たるようなドンドン、ゴンゴンという音が聞こえ、地獄のようだと思った」と証言した。
 12月24日に第4回公判が開かれる予定だったが、長被告の私選弁護団5人全員が「被告人の信頼を得られなかった」と12月20日に辞任したため、須藤繁裁判長は長被告に私選、国選弁護人いずれを選ぶか来年1月上旬までにはっきりさせるよう求めた上、1月と2月に予定されていた計3回の公判日程を取り消した。
 1997年3月4日国選弁護人3名が選任された。公判中、長被告は国選弁護人全員に対する懲戒を申し立てるとともに解任も求めたため、国選弁護人らは解任を求めたが、地裁は解任しなかった。
 2000年11月2日の第43回公判で被告人質問が行われていたが、長被告は前回の公判閉廷後に法廷の窓ガラスを割ったことに触れ、「どうして警察が来なかったんだ」と検事にいいがかりを付けた。いったんは検事が制して質問が続行されたが、同被告は黙秘した上で、突然、弁護士席側の窓ガラスに体ごとぶつかり、看守に取り押さえられた。裁判長は同被告に退廷を命令し、公判は中止となった。
 2001年6月28日の論告求刑で検察側は、「関係者の証言は信用性が高い」とした上で、「2件の殺人とも確定的殺意に基づくもので非人間的で凶悪。もはや矯正の可能性は全くない」と断罪した。
 9月25日の最終弁論で弁護側は、Cさん殺害について「動機が明らかにされていない」と強調。「よりを戻そうとしたが断られたため殺害に及んだ」との検察側の主張に対しては、「2人は入籍したばかり。長被告が強引に復縁を迫った証拠もなく関係が破たんしていたとは考えられない」と反論した。また、Cさんの遺体を遺棄した点は認めながらも、「遺棄したこと自体が、殺人の直接証拠になるわけではない」と指摘した。Wさん殺害についても殺害の具体的な方法や動機が十分に立証されていないことなどを挙げた上で、Wさんが亡くなった直後、長被告がろうばいしていた点を指摘。「死を予期していなかったことが明らかであり、殺意はなかったことの表われだ」と主張した。さらに「死因も分かっておらず、起訴事実は全く成立しない」と指摘した。そして「殺意の立証が不十分。『疑わしきは罰せず』の原則に従えば、有罪になるだけの証拠が少なすぎる」として無罪を求めた。
 判決で肥留間健一裁判長はCさん殺害について、「父の供述が公判段階で変遷し、捜査段階の供述も信用できない」とする弁護側の指摘を退け、「実の息子が殺人の大罪を犯した衝撃的な事実を知った経過などを具体的に述べ、被告が『首を絞めた』などと言ったことを明確に断言していて、疑いを差し挟む余地はない」などとして「十分信用できる」と判断した。また、Wさん殺害についても、長被告のWさんへの暴行には、Wさんを治療した医師の証言など客観的な裏付けがあり、同居していた女性自身が自分に不利な供述もしていることなどを理由に「信用性がある」とし、長被告に未必の殺意があったと認定した。ただし、検察側の確定的殺意については否定した。そして、「傷害事件の保護観察付き執行猶予期間中の2年間に、2人もの者を殺害し、しかもその数年後、先の2件の事件を反省することなく、2人の若者に対し熱傷などの傷害を負わせた。凶悪重大な犯罪であり、被告の犯罪性行は根深く、殺人事件2件に関して反省の態度を全く示していないこと考慮すると、死刑が人命をはく奪する究極の刑罰であってその適用には慎重であるべきことを十分に踏まえた上でも、被告の罪責はきわめて重大だ。罪刑の均衡及び一般予防の見地からも死刑をもって臨むほかない」と述べた。

 控訴審では、2件の殺害事件についてそれぞれ唯一の証拠となった、長被告の父親と同居人の女性の供述の信用性が争われた。判決では、父親の供述から妻の骨片が見つかるなど、重要部分が客観的に裏付けられたことなどを挙げ、「捜査段階での証言は十分信用できる」とした。知人が殺害された事件も、「一部始終を目撃した女性の、供述の信用性を疑わせる事情は全くない」とした。そして、一審の死刑判決に「事実誤認はなかった」と結論づけた。

 上告審弁論で弁護側は「原判決には重大な事実誤認がある」「殺人罪の成立を認める客観的証拠はない」などと破棄を主張。一方、検察側は「凶悪、重大な犯罪で原判決は正当だ」などと上告の棄却を求めた。
 最高裁で才口千晴裁判長は、関係者の証言を根拠に弁護側の無罪主張を退けた。妻殺害について「確定的な殺意に基づく残忍な犯行で、動機などに酌むべき点はない」と指摘。知人男性に虐待を繰り返して死亡させた点は「なぶり殺しにほかならず、非人間的で冷酷、非情というほかない」と断罪した。そして、「被告と別れたがっていた妻に加え、服従させていた男性も虐待の末になぶり殺した。2人の尊い生命を奪った結果は非人間的で責任は極めて重大。遺族の被害感情も厳しい。その後も同様の傷害事件を重ねており、生命に対する尊重を欠く傾向は根深く、犯行当時若年だったことなどを考慮しても死刑はやむを得ない」と判決理由を述べた。
備 考
 長勝久被告は1983年8月、宇都宮家庭裁判所栃木支部で道路交通法違反の非行により保護観察に付され、1984年1月、同支部でぐ犯、毒物及び劇物取締法違反の非行により再度の保護観察に付された。再度の保護観察期間中である1986年3月4日、100km/hの高速度で追い越しを開始したが対向車に気付きあわて急ハンドルを切り急ブレーキをかけたため自車を逸走させ道路左側にいた者に対し加療約6か月間を要する傷害を負わせた業務上過失傷害事件を起こした。さらに、10月14日、走行中の普通自動車内で18歳の少年に対し、タバコの火を腕部に押しつけるとともにタバコのフィルター素材を手背部にのせ点火して、全治約3週間を要する傷害を負わせた事件及び同日被告人の自宅で別の19歳の少年にタバコのフィルター素材を手背部にのせ、点火して全治約三週間を要する傷害を負わせた事件をそれぞれ起こし、3件の事件を併せて、1987年2月3日宇都宮地方裁判所栃木支部で懲役1年6月、3年間保護観察付き執行猶予判決が言い渡され確定していた。
 実父は死体遺棄の公訴時効が成立し、起訴されなかった。
現 在
 2008年9月25日、第一次再審請求。2009年4月14日、棄却。2か月後に即時抗告棄却。さらに3か月後に特別抗告棄却。
 殺人ではなく無罪もしくは過失致死であるとして2009年、第二次再審請求。
 2011年4月4日、第三次再審請求。
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氏 名
高橋義博
事件当時年齢
 42歳
犯行日時
 1992年7月23日~24日
罪 状
 監禁、強盗殺人、覚せい剤取締法違反、大麻取締法違反、銃砲刀剣類所持等取締法違反
事件名
 医師ら生き埋め殺人事件
事件概要
 目黒区で不動産会社を経営していた高橋義博被告はバブル崩壊により、会社の資金繰りを悪化させて、親しい暴力団組長から無理して貸してもらった約2億円とその利息の返済を迫られたため、知人で東京都立の病院内科医、Oさん(当時36)が不動産売買で得た約12億円の売却益を奪おうと計画。部下で役員のS被告に犯行を持ちかけた。S被告と、同じく部下のK被告、部下のT被告の3人は1992年7月23日夜、Oさんの資産を管理していた美容院経営Fさん(当時32)を拉致して世田谷区内のマンションに監禁し、Oさんを電話で呼び出すよう指示。24日にOさんも監禁して拳銃などで脅し、Oさんの現金約79万円やキャッシュカードを奪った。さらに銀行口座から約200万円を強奪。2人に睡眠薬を飲ませて車で栃木県藤原町の国有林に連れていき、あらかじめ用意していた穴に生き埋めにして殺害した。
 事件後、S、K、T被告の3人は金を分割し、逃亡。高橋被告は借金免除のうえ、東京で新しく貿易会社を経営。S被告は役員に収まった。K被告は東京で不動産業手伝い、T被告は広島県で土木作業員として働いていた。
 神奈川県警は1996年5月29日、法定限度を超える高金利で金を貸し付けていたとして、K被告を出資法違反容疑で逮捕、取り調べていたが、K被告が「Oさんらを栃木県内の山林内に埋めた」と供述したのを受け、捜索の結果、6月13日にOさんらの遺体を発見したため、14日、4人を強盗殺人他容疑で逮捕した。
一 審
 2000年8月29日 横浜地裁 矢村宏裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年4月15日 東京高裁 須田賢裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年10月26日 最高裁第一小法廷 島田仁郎裁判長(甲斐中辰夫裁判官が代読) 上告棄却 死刑確定
 判決文「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
拘置先
 東京拘置所
裁判焦点
 1996年9月30日の初公判で、高橋被告は二人を監禁したことは認めたが「殺人は実行行為の前に中止されたと思っていた」と述べ、強盗殺人へのかかわりを否認した。S被告は強盗殺人の共謀について認否を留保。二人を穴に埋めたことは認めたがOさんの首を絞めていないとした。K被告は監禁と殺人については認めたが金銭を奪うつもりはなかったとし、T被告は監禁と殺人は認めたが、強盗について認否を留保した。
 1999年11月11日の公判でK被告は「死をもって遺族に償いたい」と死刑判決を望み、臓器提供意思表示カード(ドナーカード)のコピーを同地裁に提出。「臓器を提供して罪を償いたい」と述べた。
 2000年3月23日の論告求刑で、検察側は「命ごいをする被害者を生き埋めにするなど残忍かつ冷酷」と述べた。
 判決で矢村裁判長は、高橋被告について「公判で供述が変遷しており信用できない。実行行為に手を貸さず、犯行を主導して不可欠な役割を果たした。借金苦を免れるために、何ものにも代え難い2人の命を奪った結果は重大」と断じた。S被告については公判で反省したことや、「殺害を思いとどまるように進言することもあり、人間性も見られた」と述べ、高橋被告の絶対的な地位とは一線を画すため、死刑を言い渡すには躊躇するとした。K、T被告については死刑選択も考えられるが、関与は従属的であるとした。

 2002年2月19日の控訴審初公判で、高橋被告は「事前に殺害の指示はしなかった」として、死刑は重すぎると主張。S被告とT被告も減刑を求めた。これに対し、検察側は高橋被告と計画を立てたとされるS被告について「無期懲役では軽い」と、求刑通り死刑にするよう求めた。
 判決で須田裁判長は、「口封じのため、あらかじめ殺害を計画していたのは明らかだ」と高橋被告の主張を退けた。「高橋被告は犯行計画を立案し、共犯者を意のままに動かした首謀者。泣きながら命ごいをする被害者を生き埋めにした残虐極まりない犯行で、極刑はやむを得ない」と述べた。S被告とT被告については、関与は従属的とした。

 2006年9月14日の最高裁弁論で弁護側は、「殺害方法も実行犯が決めた。高橋被告は殺害の実行行為に加わっておらず、無期懲役が確定した共犯者に比べると刑が重すぎる」と死刑回避を求めた。検察側は「殺害を持ち掛けたのは高橋被告で事件の首謀者」と被告側の上告棄却を求めた。
 第一小法廷は、殺害後約4年たって犯行が明らかになったことを指摘。「帰りを待ち続けた家族が受けた衝撃を察するに余りある」と述べた。 「金銭的利欲に基づく犯行で、動機に酌量の余地はない。何ら落ち度のない被害者2人を、冷酷非情な手段で殺害した犯行は悪質。実行行為には直接関与していないが共犯者に実行させた首謀者にほかならず、その刑事責任は最も重い」と判決理由を述べた。
付記事項
 S被告は2000年8月29日、横浜地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。2003年4月15日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。上告せず、確定。
 K被告は2000年8月29日、横浜地裁で求刑通り一審無期懲役判決。控訴せず、確定。
 T被告は2000年8月29日、横浜地裁で求刑通り一審無期懲役判決。2003年4月15日、東京高裁で被告側控訴棄却。2005年9月20日、被告側上告棄却、確定。
その後
 2008?年、再審請求、その後棄却。2011年時点で、第二次再審請求中。
 2021年2月1日に胸の痛みを訴え、外部の医療機関で急性冠症候群と診断。本人がカテーテルの挿入を拒んだため、拘置所の病棟に収容し、内服薬で治療していたが、3日午後0時12分に死亡が確認された。71歳没。
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氏 名
朴日光
事件当時年齢
 48歳
犯行日時
 1995年1月12日~28日
罪 状
 強盗殺人、殺人
事件名
 名古屋福岡連続殺人事件
事件概要
 韓国籍の無職朴日光(パク・イルグァン)被告はかつて内縁関係にあった経営者の女性(当時41)が結婚したことを逆恨みし、1995年1月12日夕方、名古屋市で女性が経営する居酒屋にて女性の首を刃物で刺して殺害。以前住んでいた福岡市に逃げ、1月28日未明には、福岡市にて乗車していたタクシー運転手(当時59)の首を包丁で刺して殺害し、現金数千円などを奪った。
 朴被告は、殺された女性と1975年頃から10年ほど交際していたが、定職に就くこともなく窃盗などで服役を繰り返したため別れ話を持ち出され、手切れ金をもらいつつも無理矢理同居し、暴力を繰り返して遊興費を得ていた。窃盗容疑で逮捕され、1994年末まで服役していた。朴日光被告は1995年2月2日、天理市内にて女性殺害容疑で逮捕された。
一 審
 1999年6月14日 福岡地裁 仲家暢彦裁判長 死刑判決
控訴審
 2003年3月28日 福岡高裁 虎井寧夫裁判長 控訴棄却 死刑判決支持
上告審
 2006年11月24日 最高裁第二小法廷 中川了滋裁判長 上告棄却 死刑確定
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拘置先
 福岡拘置所
裁判焦点
 朴被告は(1)名古屋は他人の犯行(2)福岡の事件は覚えておらず、仮に犯人だとしても睡眠薬や鎮痛剤などを多用し、心神喪失状態だった――として無罪を主張した。
 検察側は公判で、名古屋事件については▽(被告が)女性に殺害を予告する手紙を送っていた▽名古屋市内の被告のアパート(当時)にあった服に付着した血痕の血液型、DNA型が女性の型と一致する--などを根拠に、被告の犯行を立証。
 福岡事件についても▽タクシー内に被告の血液型やDNA型と一致する血痕があった▽被告らしい男が別のタクシーから降りた福岡市のJR南福岡駅近くで発見された包丁に二種類の血痕が付着し、男性、被告の血液型、DNA型と一致した--としていた。
 両事件は有力な物証が少なかったが、仲家裁判長は、服などに付着した血痕のDNA鑑定などから被告の犯行と認定し、「計画的で冷酷、残忍。反省の態度はうかがえず、極刑で臨むほかない」と述べた。

 二審で朴被告は(1)名古屋は知人の犯行(2)福岡の事件は覚えておらず、仮に犯人だとしても睡眠薬や鎮痛剤などを多用し、心神喪失状態だった--として無罪を主張した。しかし虎井裁判長は(1)名古屋事件では、被告の衣服に付いた血痕が被害者のDNA型と一致(2)福岡事件でも、被告のDNA型と一致する血液が被害者のタクシーにあり、責任能力も問題はない-睡眠薬服用の事実は認められるが、適正な量で、重い意識障害が生じていたとは考えがたい-として退けた。

 最高裁の弁論でも、朴被告は無罪を主張した。特に「被告を犯人と特定した血液のDNA鑑定には精度に問題があり、信用できない」などと主張していた。
 中川了滋裁判長は、「計画的な犯行、刑事責任は重大」「短期間に相次いで行った犯行で、殺害の態様も冷酷かつ非情、残忍。遺族の処罰感情も厳しい」「被告人は身勝手で無軌道な生活を送り、内縁関係だった女性を殺害した後の逃亡生活で金銭に窮するや、タクシーの運転手を殺害しており、殺害の態様が冷酷、非情、残忍で結果も重大」と述べ、朴被告側の上告を棄却した。
その後
 2008?年、再審請求。
 朴死刑囚は2009年1月3日昼頃に発熱を訴え、医師の指示を受けた看護師が抗生剤を投与。夜は普段通り就寝したが、4日午前8時すぎに起床してこないのに気付いた職員が呼び掛けた際に、反応がなかった。病院に搬送され、午前9時18分に死亡が確認された。死因は肺炎とみられる。福岡拘置所は「対応に問題はなかった」としている。62歳没。
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氏 名
高塩正裕
事件当時年齢
 50歳
犯行日時
 2004年3月18日
罪 状
 強盗殺人、窃盗
事件名
 いわき市母娘強盗殺人事件
事件概要
 福島県いわき市の塗装工、高塩正裕被告は車のローンやパチンコなどの遊興費による借金から強盗を計画。2004年3月18日昼頃、いわき市に住む無職男性(当時87)方にナイフを持って押し入ったが、男性の妻(当時83)に正体を見破られたため、妻と二女(当時55)の胸や首などを刃物で刺し、殺害した。室内を物色し、バッグの中から現金5万円を奪った。高塩被告は5、6年前に、仕事を通じて女性らと知り合い、女性方に出入りしていた。男性は当時入院中だった。
 高塩被告は2005年1月12日に逮捕された。
 高塩被告は2002年8月に、以前務めていた飲食店に侵入し、現金約164万円を盗んでいる。
一 審
 2006年3月22日 福島地裁いわき支部 村山浩昭裁判長 無期懲役判決
控訴審
 2006年12月5日 仙台高裁 田中亮一裁判長 一審破棄 死刑判決
上告審
 2006年12月18日、弁護人が上告するも、本人上告取り下げ、20日付で確定
拘置先
 仙台拘置支所
裁判焦点
 高塩被告は公判で「極刑を望む」と語る一方、殺意については「初めから殺そうと思っていたわけではない」などと主張していた。
 検察側は「犯行は残虐極まりなく、資産家を狙い周到に計画された」として、死刑を求刑した。
 弁護側は「強盗する計画の中に殺人は含まれておらず、抵抗されて無我夢中で殺害した」などと主張、殺人そのものは偶発的な犯行だったとして減軽を求めた。また、高塩被告は「被害者、遺族におわびのしようがなく、毎日手を合わせることしかできません」と述べた。
 村山裁判長は「ナイフは強盗の手段として脅すために用意したにすぎず、殺害は冷静さを失った被告がとっさに決意し実行したもの」と被告の計画性を否定。「無残に殺害された2人の無念さは筆舌に尽くし難いが、犯行は場当たり的で、殺害に計画性は認められない」「反省の態度を示し、更生の可能性がないとはいえない」として死刑を回避した。

 検察側は「殺意を持って2人を殺害したことは明らか」と主張し、控訴した。
 田中亮一裁判長は「変装して強盗に入った際、正体を見破られた場合は殺害もやむなしと考えており、犯罪意思は極めて凶悪」と指摘。「殺害実行に計画性があるとは認めがたい」とした一審判決は事実誤認とした。
 その上で「被害者が資産家であることに目を付け白昼、落ち度のない女性2人をナイフで惨殺した凶悪、悪質な犯行。改善更生の余地がないとはいえないが、極刑はやむを得ない」「被告は殺害後、冷静に室内を物色するなど、事前に殺害を想定していたと認められ、計画的犯行とみなさずに無期懲役にとどめた地裁支部判決は軽すぎる。犯行態様もナイフで何度も突き刺すなど残忍で、極刑を避ける事情はない」と述べた。

 高塩被告は高裁判決後、「殺害の意図や計画性を高裁が認めたのは事実と違うが、自分が2人を殺してしまったことは事実で、死刑が当然だと思う」と弁護人に話していた。
 弁護人は「被告は上告しない意向だったが、(死刑判決だったこともあり)弁護人の義務として上告した。取り下げは被告の判断で行ったが、残念だ」と話している。
執 行
 2008年10月28日執行、55歳没。
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