K・O『真相死刑囚舎房 下』(現代史出版会/徳間書店)

発行:1982.5.31



 私が二十五カ年間の刑務所生活を終え、鉄格子の門を出たとき、一番ビックリしたことは、女性が綺麗なことでした。その美しさに、私は、歩道に立ったまま、半開きの口で、道行く女性たちを呆然と眺め入ったものでした。
 さてバスに乗った私、昔の通りに女の車掌がいるものと思い、ノコノコと車の奥に入ってゆき、運転手に叱られたが、さて、何処で、どうして、切符を買っていいものやら、ウロウロ。
 えきで下車して、教えられた切符の自動販売機の前に立ったが、買い方が分らず、人々の買うのを、横で長い間、真剣に見つめたあと、恐るおそる百円玉を入れたら、切符が出てきて、トビあがりたいほどに嬉しかったことは、つい、昨日のことでした。
 娑婆にも慣れ、人々の話から死刑囚に関するいろいろの本を読んでみて、またまた、私は、ビックリ仰天したのでした。
「何とまあー、ウソ八百なことを臆面もなく、真実らしくつくりたて、仰々しく書きつらねていることか……」と。
 そして、さらに、私を驚かしたことは、そんな本が売れているということです。
 わずかな期間、受刑者用語では、ションベンしながらキョロキョロしている間ほどの短い期間、拘置所に勤務しただけで以て、私に言わせれば「死刑囚のことなど、全く知らない」クセに、死刑囚の誰はこうだった、誰々はこんなであったと、もっともらしく刑務官の作った真実とはほど遠い公式書類(建前だけの作文)を引用し、学者面し、作家面して書いている者。
 死刑囚との手紙のやりとりや、わずかな面会時間だけの間柄で以て、死刑囚のことは知り尽くしたように親友面、恩人面をして得々と書いている者。
 あるいは、事件を否認している死刑囚の都合の良い材料ばかりを並列して、「無罪だ、冤罪だ」と、大袈裟な文字を羅列し、世の善男善女をタブらかしている者。
 裁判所・警察というものは、権力の権化で悪の象徴だという、基本的偏見で攻撃するために書いているもの等々、人により種々雑多だが、どれもこれも、「真実」とはほど遠いものばかりでした。
 私は、「これではいけない。死刑囚の本当の姿を知ってもらうために、私だけが持っている貴重な体験を書こう」と思いついたのが、出所して、一年後のことでした。
 初めて、『週刊文春』に連載した「戦後犯罪史の大物たち」は大変な反響を呼び、東映で映画化され、『さらばわが友』として徳間書店で刊行されました。
 つづいて『続・さらばわが友』を出し、昨年から、『週刊大衆』で連載を始めた「死刑囚舎房」を今年の暮まで続けるつもりです。これは、今年一杯、連載しても、到底終わりませんので、本書を含め単行本、『真相・死刑囚シリーズ』(全八冊)として書き続ける予定でいます。
 このように私が書き続ける目的は、ただ一つ「真実の死刑囚の姿」「死刑囚が思っている本当のこと」をありのまま、知って頂くためだけです。
 それ以上のことを、私は、何も望んではいません。今の世の中で、最も、不足していることは「真実」です。人の心の内の「真実」もまたそうです。
 「真実」を希求している私、どうか死刑囚の率直な声を聞いてやって下さい。
 尚、この本の中に死刑囚たちの罪のへの悔悟・反省の言動が、あまり描かれていないこと不思議に思われると推測します。
 事実、「表面的には」あまり、それはないのです。しかし、ないのではありません。全員があるのです。ところが、死と向き合い、独房内で、それらの思いに駆られていると、必ず精神錯乱に陥ることを、死刑囚たちは動物的本能と実例で知っているので、「考えないこと」「なんとか忘れること」に努力して、やっと、自らの精神の琴線が切れないようにしているだけです。この人間の心の弱さを、どうか、誤解のないようにお願いします。

(「まえがき」より引用)


【目次】
一 密告(チンコロ)
二 監視者の意識
三 寝技と陶酔
四 自殺志願者
五 シキテン窓


 カービン銃ギャング事件の主犯で、無期懲役が確定後仮釈放したK・Oが、葛飾区小菅にある東京拘置所の北舎、一舎三階の死刑囚だけが住んでいる死刑囚舎房階で見聞きした内容を書いたもの。『真相死刑囚舎房 上』に続くものである。

 これはすべて本当のことなのか、それとも脚色されたものなのか。まあ、嘘をつく理由はないだろうが、本人の思い違いはあるようだ。エピソード内に描かれている死刑囚の内の数人は、まだ事件すら起こしていない者もいるからだ。
 生々しすぎる声は貴重かもしれないが、ある程度は疑ってかかったほうがよいだろう。
 この後も出版する意向が作者にはあったようで、本書も特に締めの言葉があるわけではない。しかし連載を打ち切られたのか、本人の都合が悪くなったのかは不明だが、以後の出版はない。

 登場する死刑囚は以下。

一 密告(チンコロ)
 昭和31年1月2日。気分の良い大井晋平が、坂巻に絡む。4日、今年になって初めての運動時間が終わり、看守の臨時担当が大井を房に入れようと鉄扉をいっぱいに引き開けると、赤インクが塗られた文鳥が逃げ出し、大井は騒ぎだす。他の死刑囚は看守が文鳥を追いかけるのを笑ってみていたが、今度は青インクが塗られた大野一朗の文鳥も逃げ出した。看守部長がやってきて、大井に房へ入れと命令するも、大井は文鳥を捕まえるのが先だと言い張る。怒った部長は、大井を懲罰房に送る。
 翌日、大野は区長に呼び出しを食らい、大井と共謀して文鳥を逃がしただろうと詰め寄られる。誰が密告したのか。大野は否認するも、二舎一階に転房となった。
 その日の午後、運動場でK・Oと福田忠雄は、誰が密告したのかと話をする。 二 視者の意識
 上申書を書いているK・Oの房の鉄扉を開き、北舎担当責任者の川本区長が訪れた。水裕洋子という女を知っているかと尋ねられるが、思い当たりがない。知らない者から来た手紙については、みんな「従兄弟」だとごまかせば手元に来ることから、とりあえず従姉妹だと答えるも、相手は信用しない。いくつかのやり取りの末、ようやく手紙を受け取ることができたが、洋子の住所は東京拘置所の所番地。先日の裁判出廷の日、仮監房で話をした相手だった。
 数日後、文鳥を返すことが決定する。 三 寝技と陶酔
 昭和31年の桜の開花は遅かった。別府佽男が新しく入ってきた。坂巻に紹介されたK・Oは別府と話す。別府は反省した振りをしており、お風呂の中でお経を読んでいた。竹内はそんな別府のことを、自己陶酔に浸っていると話す。
 別府は送られた記事の中に、妻・娘を殺害された磯部常治弁護士が「罪と人とは別です。罪は憎んで人は憎みません。今は怨んではいない。別府を生かせるなら生かしてやりたい。しかし、社会的影響もあることだし、裁判所として法的に公正な判決をお願いしたい」と答えていたとK・Oと竹内に喜んで話す。しかしK・Oと竹内は、二人を殺害した強盗殺人事件の「法的に公正な判決」は死刑しかないはずであり、死刑廃止論者として有名な磯部弁護士がそんなことを言うのかと密かに反発した。
 竹内は5月22日の別府の求刑公判で、別府が半紙に書いてあった原稿を懐から取り出し、心からお詫びしたい、死刑にしてほしいなどと涙を流して訴えたとK・Oに告げ、それをマスコミが「真人間に立ち返った殺人犯」などと書いているのを阿保だと怒った。そして“善男善女”が別府に慰めの手紙や差し入れをしているとも怒った。
 25年後、娑婆に出たK・Oが『トゥナイト』を見ていたら、和多田進が平沢貞道が犯人ではないと話しており、さらに昭和40年ごろ、指紋を持っていた磯部弁護士の家に何者かが忍び込んで探し回り、さらに見つかった妻と娘を殺害した、などと事実と全く異なる見当違いのことを話していたので笑い転げる。 四 自殺志願者
 地方で一審死刑判決を受けて控訴した25歳の男(名前は秘されている)がやってきた。一審の弁護士が控訴審でも弁護を引き受けていた。弁護士は男に、絶対に無期懲役にすると言い、莫大な弁護量をせしめていた。純情だった男は無期になったら何年で仮出所して、処女の女と結婚したいなどと夢を語っていたが、高裁でも控訴棄却。男は高裁判決から三日間、うなだれたまま房の外に出なかった。看守たちは「自殺要注意」とのべつまくなしにシキテン窓から覗くようになった。男は朝食配当の隙を見て、ワイシャツを切り裂いて作った紐で首吊り自殺を図るも、ちょうど副看守長が勾留更新状を持って入ってきたので、未遂に終わった。男は懲罰房に入れられた。
 男は二度と自殺を試みなかったが、絞首刑を怖がり、仙台で処刑を告げられると腰を抜かし、掃除用のバケツに手をかけひっくり返り、床が水浸しになった。それでも座り込んだまま立てなかったので、二名の看守が両脇から引き揚げて引きずってゆき、廊下にはバケツの水が点々と残された。
 昭和31年の夏、死刑判決が確実な若い未決囚(名前は秘されている)のところに父親が面会に来て、家族や親戚が肩身の狭い思いをしているとなじられ、逆に反発して死んでやると心に決めた。面会係看守が死刑囚舎房三階で舎房担当看守に引継ぎをしている時、男は隙を見て看守から離れ、廊下中央の吹き抜けの鉄柵に手足をかけ、立ち上がった。看守たちは男を捕まえようとしたが間に合わず、男は一階に飛び降りた。K・Oと正田昭は医務室の審査を終え、戻ってきたところにこの事件に遭遇した。男は即死せず、苦しみに悶絶して暴れまわった。なんとか担架に載せて運ばれるも、男は死亡した。この自殺以降、二階と三階の廊下の吹き抜けには金網が貼られ、飛び降り自殺は不可能になった。
※自殺した人物の名前は不明。 五 シキテン窓
 シキテンとは見張る、覗き見する、監視するなどの意味がある。シキテン窓とは、看守が房内を監視するために、鉄扉に開けられた「視察用の小窓」である。横14センチ、縦4センチくらいの穴で、看守の首のあたりの位置に細長く開けられている。シキテン窓は旧式の刑務所にだけあるもので、新しい刑務所では鉄扉のすぐ横に1メートル四方の大きな鉄格子付きのガラス窓になっている。
 静岡県で強盗殺人罪を犯し、一審で死刑判決を受けた中年の男は控訴したので、昭和29年、東京拘置所に移ってきた。男は親兄弟に見放され、そのうちに拘禁ノイローゼとなった。ある日、男は報知機で看守を呼んだ。看守がシキテン窓からのぞいた時、男は看守の目に箸を突き立てた。
 この事件以降、シキテン窓に無数の小さな穴が開いている薄い鉄板が、シキテン窓に取り付けられた。看守は房内が見づらくなったが、それ以上に中にいる死刑囚は、シキテン窓の外側に垂れ下がっている真鍮蓋を押し上げ、外部を見ることができなくなった。死刑囚は楊枝を細く削って穴に挿し、真鍮蓋を上げる方法を編み出したが、看守はそれを禁止する。死刑囚と看守の攻防が始まった。



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