山口久代/著、中山淳太朗/編集『愛と死のかたみ 処女妻と死刑囚の純愛記録』(集英社)


発行:1962.2.20



 鹿児島雑貨商殺人事件で死刑が確定した山口清人は、福岡刑務所にいた他の死刑囚に教えられ、キリストへの信仰に目覚める。クリスチャンとなった清人は、「一死刑囚の手記」をキリスト教の伝導誌『百万人の福音』昭和32年5月号に発表した。多くの信者から愛と励ましの手紙が清人のもとに送られるようになり、その中に静岡県三島市で働く渡辺久代もいた。文通の相手は次第に減っていくものの、久代は最後まで続けていた。そしていつしか、二人は愛を育むようになり、結婚する。しかしその結婚は触れ合うことのできないものであり、そして清人が執行されるまでのわずかな時間でしかなかった。

【目次】(括弧の中は文通の日付)
 ■ひめやかに育つ愛(7月14日〜8月22日)
 ■告白(8月25日〜9月14日)
 ■結婚そして面会(9月15日〜11月19日)
 ■ある予感(11月20日〜12月31日)
 ■この命ある限り(1月1日〜2月5日)
 ■生と死の間に(2月9日〜2月20日)
 ■独房の春(2月21日〜5月4日)
 ■死ぬとも生きん(5月8日〜8月31日)

 本作品は、1959年(昭和34年)7月14日から1960年(昭和35年)8月30日まで、清人が書いた365通と久代が書いた382の手紙から中山淳太朗が抜粋し、750枚にまとめたものである。さらに8月31日に執行された際の遺書、久代のあとがきなどが記されている。
 通信費の節約や枚数制限の関係もあるため、一通5〜7枚の中に細かい字でびっしりと書き込み、特に清人の手紙は欄外から裏面にまで書き継がれているものが多かった。清人の提案でお互いに発信した分にナンバーをつけ、受信した分を整理保存していたと言い、原稿用紙に換算すると四百字詰めで約12,000枚分あったという。

 死刑囚との獄中結婚は例がないわけではない。死刑が確定すると通信が制限されるため、支援を続けるために獄中結婚するケースがある。牟礼事件の佐藤誠などがいい例だ。しかしそれとは別に、純粋に結婚するケースがある。本書はその1例である。後に市川悦子『足音が近づく』(インパクト出版会)で出版される小島繁夫こと二宮邦彦もその1人。山口清人との共通点は、同じ福岡刑務所(拘置所ではなくて刑務所だった)、そしてキリスト教に入信しているところである。有名どころでは永山則夫、宅間守、新実智光がいる。
 本書の主人公である山口清人の犯罪については、本書でも触れられており、死刑判決を受けるまでの生い立ちや前科については久代への書簡の中で、死刑判決を受けた事件については初刊後の注意書きで触れられている。まとめると以下となる。なお死刑判決を受けるまでの内容は清人の視点であり、実際とは異なる可能性(たとえば、自分は無罪で巻き込まれただけというのはあくまで清人の主張)があることに留意してほしい。

 海軍から帰ってきた清人はNHK鹿児島放送局でアルバイトとして雇われ、機械修理工として働く。休暇を取って実家に帰った1946年1月16日、実家から友人Hと帰宅している途中、通りがかりの男が空いている宿がないか尋ねてきたため、探し回ったもののどこも満員で見つからなかった。そのことを伝えると男は怒りだし、Hと喧嘩になった。Hは所持していた発火信号用のピストルで男を脅し、男は200円を差し出した。Hと清人は半分ずつ分けた。しかし男は派出所に行き、翌日清人とHは逮捕された。ところが男は清人がピストルを突きつけたと言い、Hも同調。怒った清人はその夜、留置場から逃走し、自宅に帰った。10日後に清人は自首するも、Hはすでに不起訴、釈放。そして清人は懲役5年の判決を受け、当時未成年であったため、少年刑務所に送られた。
 清人は断食をはじめ、3週間後に腸カタルで刑の執行を一時停止するという裁判所の許可をもらい、1947年1月に帰宅。こっそりと進駐軍で働き始めた。妻を病気で亡くした後、清人は仕事の帰りに知り合いの古物商の主人から大量の自転車のチューブをどこかで売って欲しいと頼まれ、承諾。2,3人に売ったものの、そのうちの1人である朝鮮人のブローカーが5万円ほどの代金を支払わず消えてしまった。清人はその旨を伝えるも、古物商は信用せず、警察に訴えた。清人は鹿児島刑務所に収監されて残りの刑期を務めるとともに、詐欺罪で懲役1年6月の実刑判決を受けた。
 1950年夏、刑務所から構外作業に出たとき、友人と脱走。実家で40日ほど過ごしたのち、母に勧められて自首。加重逃走で懲役1年の実刑判決を受ける。しかし1951年、仮釈放となり、出所し、新聞社に勤めるも右腕に入れ墨を入れるなどのやくざな生活を送っていた。
 1953年正月、友人とパチンコ屋に行ったが玉の出が悪かったため、二人で怒鳴りまくり、友人がウィンドウの景品を持ち抱えて帰ってしまった。窃盗罪で懲役2年の判決を受ける。1954年9月、仮釈放。
 清人の知り合いの旅館の女主人が開いた特飲店で文子という女と知り合う。数日後、文子が清人のところに店に売られた身だから助けてほしいと言われ、そのまま同居する。しかし女主人に知られ、清人と文子が前借金を踏み倒したということになり、警察に追われるようになった。さらにその頃、市内の小鳥屋の主人から飼料と米の買い出しを頼まれて5万円を預かるも生活費に消えてしまい、小鳥屋の主人からも詐欺として訴えられた。
 清人は文子を連れて広島に飛び、金を工面してもらうため、1955年6月26日、母のいる鹿児島市に戻った。清人(当時28)は父に世話になっていた雑貨商Tを尋ね借金を申し込むも、清人の行状を知っていたTは頼みを断り、清人を罵った。逆上した清人は土間にあったマキ割りでTとその妻を滅多打ちにして殺害。さらに女中も殴って殺害した。強盗による殺人に見せかけようと、タンスの引き出しを開けるなど現場を荒らしまわった。
 清人は大阪へ逃走し、友人の家に世話になる。時々は母のところに様子を見に行ったりしていた。半年後、母のところへ行った帰り道、バスに乗った女性車掌が清人に気付き、切符の裏に清人のことを書いて停留場に投げ込んだ。それを見た人が交番に通報。清人はバスを下車したところ、警察に逮捕された。
 清人は強盗殺人罪で起訴された。1956年6月7日、鹿児島地裁で求刑通り死刑判決。1956年12月5日、福岡高裁宮崎支部で被告側控訴棄却。1957年9月12日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 その後、1957年末頃、再審請求するも1年後に棄却確定。1959年2月、清人は借金を申し込まれたことによる恨みによる殺人であり、強盗殺人ではないと主張し、鹿児島地裁へ第二次再審請求。12月、再審理由なしと棄却され、福岡高裁宮崎支部へ即時抗告。1960年4月、即時抗告棄却。特別抗告するも棄却。1960年8月31日、執行。32歳没。


 二人の書簡集であり、赤裸々な部分も含め、読んでいて気恥ずかしいものがある。互いの日常と相手への慕情が中心であり、個人的には退屈でしかなかった。これが売れたのは「処女妻」「死刑囚」「純愛記録」といったキーワードだろう。結ばれることは無いので確かに「処女妻」だし、死刑囚との恋愛というのは日常的には有り得ないので、ある意味覗き見趣味があった感も否めない。書簡であるためかもしれないが、殺害した3人にほとんど触れられていないのは残念だ。せめて毎日冥福を祈っていれば、と思わずにはいられない。
 死刑囚と結婚するということは犠牲精神じゃないのかとか、自らをヒロイン化しているのじゃないかなどと勘繰ってしまうのだが、そういうことを考えてはいけないのだろう。周囲の目は冷たくなるんじゃないかとも思ってしまうのだが、少なくともそういう面はここには出てこない。もっとも、死刑囚は先に死しか待ち受けていないため、どうしても我儘な部分が出てしまう。本書の山口清人も、そんなところが所々に出てくる。『足音が近づく』でもそういうところが出ており、結局二人は離婚してしまう。本書の二人は離婚せず、愛し合ったまま清人が執行されるのだが、それは結婚から執行まで1年足らずだったということもあるが、清人は福岡刑務所(拘置所ではない)で久代は静岡県三島市に住んでいるという距離的な問題も大きいだろう。距離が近ければ当然呼び寄せて、わがままを言うようになる。二人は距離が離れていてめったに会うことができなかったから、結婚という形式を続けることができたのではないかと思ってしまうのだ。
 なお、清人と久代がガラス越しに会ったのはたった2回。3回目、そして久代が清人にじかに触れることができたのは、清人が執行されて骨になった状態だった。

 ただ、本書を読むことで、当時の死刑囚の日常がわかるという点については、大いに参考になるだろう。死刑囚と職員が組んだ野球チーム、文鳥を育てる日常、キリスト教教戒師の基による集まり。そして清人が取り組んでいた宗教書の点訳。この頃はまだ、死刑囚同士のつながりがあった。死刑執行の当日、知らせを受け、身辺を整理し、遺書をしたため、同僚(死刑囚)の部屋に回ってあいさつをする。執行後は、死刑囚が集まって追悼する。キリスト教入信しているものは礼拝堂で、仏教入信しているものは……書かれていないのでどこかは分からなかったが、追悼式が開かれ、宗教に関係なく集まったという。
 現在の死刑囚が、他の死刑囚と交流を深めるということは全くない。いったいどちらの処遇がいいのだろうとは思ってしまう。少なくとも山口清人は落ち着いて執行を迎えたという。

 本書に出てくる人物の約半数は仮名とのことだが、死刑囚については名字だけだが実名が記されている。
 1959年12月3日、1人執行。気難しい人と書かれている。12月11日、共犯同士の滝野君、山野君が執行。1960年2月9日、木谷君が執行。これが誰だか、私にはわかりません。一審では強盗強姦殺人で死刑判決を受けるも、二審では強姦はなかったものとして取り消されたそうだ。3月1日、木村君が執行。控訴を取り下げ確定し、わずか3か月後の執行だったという。

 それにしても、ここまでの内容が検閲で通ることはまずありえない。やはり一部は許可を得ていない書信だったという。本書出版後、どのように表に出たのかが判明するまで、死刑囚全員の手紙が止められたという。後に、山口が点訳を梱包する際、立会いの部長が目をそらしたすきに手紙を入れていたことが判明し、現場での梱包は止められた。

 本書はベストセラーとなり、当時のベストセラーランキングにも掲載されている。1964年には集英社文庫化。さらに19890年10月にはコバルト文庫より出版されている。
 1962年3月5日〜26日には日本テレビで毎週月曜日に『夫婦百景 聖女房 愛と死のかたみ』のタイトルでドラマ化された。佐藤慶と市原悦子が主演だった。1962年4月には映画化され、主演を浅丘ルリ子が務めた。1977年5月9日〜7月8日にTBS「花王 愛の劇場」枠でドラマ化されている。

 山口久代は清人の遺志を継ぎ、弱者のために障害を捧げた。知恵遅れの子らのための施設や工場の設立等に携わったという。その経緯については、山口久代『エマオへの旅立ち―『愛と死のかたみ』その後』(いのちのことば社,1989)に書かれている。

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