中村光至『広域指定105号事件』




 「シリアル・キラー」−日本語で訳すと「連続殺人者」。米国では4人以上殺した連続殺人者のことをこう呼んでいる。米国では、こうした恐るべき「シリアル・キラー」が今でも約100人以上暗躍しており、被害者は年間1000人以上出ているとも言われる。タイプ的に分けると「性犯罪型」「快楽型」「妄想型」「反復型」など色々あるそうだ。しかし、日本では稀にしか存在しないない。ではこの男の場合はどうだったのであろう。あえていえば「殺人病」にかかっていたのかも知れない。確定しているだけでも10名、実際にはもっと多くの殺人を犯しているだろうと思われるこの男、新谷升吉(仮名)である。

 広域指定、正確には1964年4月に制定された「広域重要事件特別捜査要項」に基づくものであり、犯人がいくつもの都道府県にまたがって犯行を続けた場合、各警察本部の間で捜査の重複や無駄が生じるのを避け、警察庁が情報センターになり、国費でもって捜査網を張るものである。“105号事件”は、広域重要の制度ができて、5つ目の指定であった。過去の4件はいずれも連続多額窃盗事件であったため、殺人事件としては、これが初めてであった。

 1965年11月22日、福岡県で英語塾の教師をしているKさん(54)が、松林の中の一軒家で殺された。現金、腕時計、ラジオ等が奪われていることが分かり、東福岡署と福岡県警捜査一課では強盗殺人事件として捜査を始める。鑑識課員はO(実際は名字)と記入されているズボンを発見した。Oは強盗と窃盗で前科二犯で、現在は神戸市で廃品回収業を営んでいることがほどなく判明した。福岡から5人の刑事が神戸市垂水区にとんだ。Oは人目を避けるように橋の麓の小屋に住んでいたことが、兵庫県警の応援でわかった。小屋の中に確かにOさん(58)はいた。ただし、絞殺され、ミイラ化した死体であった。Oさんの財布は見あたらなかった。せいぜい所持金は2000円程度と思われた。Kさんより前に殺されたことは明らかで、鑑識の結果、死後1ヶ月たっていることが分かった。
 垂水警察署に合同捜査本部が置かれたが、そこには福岡県警の刑事だけでなく、滋賀県警の刑事も加わった。類似の事件が11月上旬、大津市で起きていたのだ。水泳場の売店の留守番、Oさん(59)である。

 3つの事件には共通点があった。まず、留守番の老人を狙っていること、犯行現場が海岸寄りで人気のない一軒家であること、死体を蒲団でかぶせて発見を遅らせていること、などである。さらに、神戸市の現場にあった銀行預金通帳を入れるビニール袋が、滋賀銀行の袋であることが判明した。12月9日、警視庁はこの連続殺人事権を広域重要事件105号事件に指定した。
 広域事件に指定される前の12月2日、東福岡署の刑事は重要な証言を得ていた。11月の半ば、作業員Mさん(37)が50歳くらいの男に同様の手口で殺されかかったのだ。ネクタイで縛られ、家内を物色中にたまたま友人が訪れたため、未遂で終わったのだ。Mさんは犯人の顔を覚えていた。早速モンタージュ写真が作られ、マスコミに公開された。12月8日のことだった。ところが、福岡署捜査二課の刑事があっさりと犯人の名前を口にした。12年前に調べた殺人犯にそっくりだというのだ。それが新谷升吉(仮名 50)だった。大津市に残っていた残留指紋と新谷の指紋が一致した。12月12日、新谷は強盗殺人で全国指名手配された。しかしその前日、同様の手口で殺された死体が二箇所で発見された。京都府だった。府警では広域事件のために、一斉に一人暮らしの老人の家をパトロールしていたのだ。伏見区で廃品回収業のTさん(60)が、そしてTさんの家から800m下ったバラックで、廃品回収業のHさん(66)が同様の手口で殺されているのを発見した。死後1週間経っていた。

 12日午前5時40分に全国指名手配されてからわずか18時間後、新谷は捕まった。兵庫県西宮市で新谷は、掘っ建て小屋に住む廃品回収業の老人Oさん(69)とYさん(51)を殺害した。ちょうどその頃、兵庫県警は廃品回収業者を重点的にパトロールしていた。バラック小屋を見つけた三人の芦屋署派出所巡査がのぞき込むと、OさんとYさんが頭を割られて虫の息であった。犯人はまだ近くにいる。巡査は外を見ると、堤防に寄りかかっている男を発見した。声を掛けると巡査の方に飛びかかってきた。しかし、もう一人の巡査が出てきた。二人で新谷を捕まえた。これだけの凶悪犯にしては、あまりにもあっけない逮捕劇であった。

 逮捕後、新谷は芦屋署に連行された。ところがマスコミは、犯人との共同記者会見をやらせろと勝手なことを言いだした。結局短時間であったが、新谷への記者会見は実現した。しかし、彼がなぜこれだけの殺人を起こしたのかは、結局分からずじまいであった。そこへ新谷を捕まえた三人の巡査が帰ってきた。新谷と入れ替わりに、三人の巡査が記者会見に臨んだ。彼は英雄だった。たくさんのフラッシュが光った。
 残務整理が続く中、新谷はさらにもう一つの犯行を自供していた。12月5日、大阪府高槻市で建設作業員Yさん(53)を殺害していた。兵庫県警で一括して取り調べが続き、神戸地検が起訴することになった。そして1966年3月2日、広域指定105号事件は解除された。


 新谷の事件を延々と追っていったが、中村光至『広域指定105号事件』は、事件の始まりから終わりまでを、警察側から延々と追っていった警察小説である。つまり、警察の動きだけを書いた小説であり、犯人の心理を追ったものではない。105号事件に関わった刑事たちの動き、会話をそのまま小説にしただけであり、そこに作者の意志は一切存在しない。これでは、新聞記事をつなぎ合わせて作り上げただけの小説でしかない。一体作者は何を書きたかったのであろうか。新谷という犯罪者がいたことであろうか。それにしては新谷の書き方は大人しすぎるし、記述も短い。後述するが、新谷の犯行はこれだけではない。では、新谷の生き方を書きたかったのであろうか。それも違う。新谷の生い立ちなどについてはごくわずかしか触れられていない。では広域指定事件における警察の動きを紹介したかったのだろうか。それだったら架空の事件を書いた方が、もっと面白い小説が書けるはずだ。手元にあるのはケイブンシャ文庫版1990年発行の本であるが、実際に書かれたのは多分1980年代後半だろう。それ以前にこの事件について書かれた本は、福田洋を始めとして、何冊かある。考えられるのは、新谷が1985年に死刑を執行された(新聞ではずいぶん小さな扱いだったが)ことに合わせたのではないかということだけである。
 当時の新聞、週刊誌などの記事をつなぎ合わせ、一つの小説を作り上げた。残念ながら、そういう印象しか持つことができなかった作品である。警察小説としても、ノンフィクション・ノベルとしても、失敗作といってよい。もし新谷の事件を知りたいのなら、参考文献に載せた本を読んだ方がずっとましである。


 なお、新谷の生い立ち、犯罪についてもう少し書いておく。
 新谷は1914年対馬生で農業兼旅館業の5人兄弟の4番目として生まれているが、3歳の時に母親が死亡し、彼はおじの家に預けられる。その間、父親は材木商になるために朝鮮に渡った。残された兄弟は親類縁者の家をたらい回しにされていた。このときの悲惨な経験が、彼の人格形成に影響されたという意見もある。
 新谷が10歳の時、父が朝鮮から帰国して再婚し、子供達は引き取られる。しかし継母とはうまくいかず、家に寄りつかないで神社で寝泊まりする放浪生活だった。学校にはあまり行かなかったが、暴れ者のうえ友達のものを平気で盗んだりするので、嫌われ者だったらしい。地元の尋常小学校を卒業すると広島の叔母の家に引き取られるが、その頃から盗みで警察のやっかいになっている。1930年、中学2年の時、窃盗で逮捕され、岩国少年刑務所に3年間服役する。その後、50歳で捕まるまでの人生の3分の2は刑務所暮らしであった。33年4月に窃盗で懲役8ヶ月。35年5月に窃盗で懲役2年、37年9月に窃盗と詐欺で懲役3年。41年4月に窃盗で懲役6年。しばらく間をおいた51年12月、脅迫で懲役3年の刑を言い渡されるが、このときは清水政雄という偽名を用い、初犯として欺き通した。それにはある理由があった。

 新谷は、1951年5月、福岡市で浮浪者を絞殺し現金を強奪、同年6月20日、八幡市で一人暮らしの老人を絞殺し、現金を強奪していた。この二つの強盗殺人事件には共犯者がいた。福岡市に住むS(20)である。Sは「アラさん」(仮名)なる共犯者がいることを主張していた。しかもSは、「アラさんがいい仕事があるからというので、いわれるままにある家の外で待っていたら、いつの間にか強盗殺人犯にされていた」と主張していた。事実、裁判でも共犯者の存在があることを検察側も裁判所も認めていた。しかし警察は「アラさん」を熱心に追求しなかった。結局共犯不明のまま福岡地裁で死刑判決、控訴審でも棄却された。その後、1952年の「サンフランシスコ平和条約発効記念恩赦」を期待してか上告を取り下げたが、結局彼は恩謝の対象にはならなかった。Sは再審を検討したが、金や支援者がないことに悩み、結局あきらめた。そして1953年9月、福岡刑務所で処刑された。
 仮釈放されてすぐの1953年9月、新谷は窃盗事件で逮捕される。このときも清水の偽名を使ったが通用せず、新谷であることがばれた。ちょうどその頃、「アラさん」が新谷であることが福岡で判明しており、所在を探しているところであった。新谷は福岡県警によって逮捕され、二つの強盗事件について追及されたが、共犯のSは既に処刑されていた。新谷は従犯であることを主張し、1955年6月、懲役10年の判決を受けた。
 本来、共犯者の存在を確認しておきながら、主犯を処刑することは有り得ない。それなのにこの事件では共犯者未逮捕のままSを処刑している。明らかに司法当局のミスである。しかも前科6犯の新谷と、初犯で若造と言っていいSの二人を比較したら、どちらが主犯であるかは自ずから明らかであろう。まさしくSは誤って処刑されたといってよい。Sは新谷と、そして司法当局によって殺されたといえる。

 新谷は1964年11月の仮釈放後、熊本市の更生保護会に入った。しかし1965年の5月、主管や同僚から借金をした後、ふっと姿を消した。その後、8月に廃品回収業Iさん(69)を襲い、定期預金と利付け興業債券保護預り帳を奪い、48万円という大金を獲得し、豪遊していた。お金がなくなり、そして殺人行脚が始まるのである。
 1966年6月から始まった裁判で、彼は「殺意」を否認し、「殺害」の事実だけを認めていた。しかし、途中から、「岡」なる人物が真犯人であると訴えだした。もちろん、訴えは却下された。その後も様々な裁判闘争を行うが、1971年、神戸地裁で死刑判決を受ける。裁判長は「極悪非道、天人ともに許されない犯罪」と断罪した。1975年、控訴棄却。そして1978年に上告が棄却され、彼の死刑は確定した。既に64歳になっていた。

 新谷が殺害した人数は、起訴されただけでも10名である。処刑されたSも間接的にではあるが、Sの手によって殺害されたと考えてよい。さらに、64年11月から65年5月にかけて、米子市と松山市でも老人と老婆を殺害した嫌疑を掛けられていたが、これは本人の否定と証拠固めが弱かったため、起訴までには至らなかった。しかし、彼の犯行であった可能性は高い。
 彼は大阪拘置所で、「ワシはもっと大勢殺しとるんや。警察の捜査技術が発達しとらんかったから、死因がわからんかったんや」と自慢していたという。いったい新谷は何人殺していたのだろうか。新谷自身も分かっていないのではないだろうか。
 更に彼は、大阪拘置所内で刺傷事件も引き起こしている。日頃可愛がっていた若い死刑囚が他の死刑囚に接近したことに嫉妬し、隠し持った凶器で二人を殺そうとしたのである。二人は重傷であったが、立証を頑強に拒んだ。もし新谷が起訴されると、裁判を受けることになり、刑が確定するまで処刑されることがなくなる。そうすると現在処刑順位第1位、すなわち原則的に確定順に処刑される死刑囚の中で一番古い死刑囚であった新谷は、たちまち順位が最下位に逆転してしまうのである。それを恐れた被害者の死刑囚は事件を起訴しないように検事に頼み込み、同様に拘置所も検察庁に具申した。結局事件は起訴されず、とうとう新谷は処刑された。1985年5月31日。新谷は71歳になっていた。処刑された年齢では、過去最高齢であった。
 新谷は、弱肉強食の生き方しか知らなかった。社会底辺の弱者を襲い、わずかな現金と古着などを奪って生きることしか知らなかった。


【参考資料】
 中村光至『広域指定105号事件』(ケイブンシャ文庫)
 前坂俊之「死体を愛した男たち」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社)所収)
 福島章編『犯罪ハンドブック』(新書館)
 佐木隆三「巡礼いそぎ旅」(『殺人百科』(文春文庫)所収)
 斎藤充功「戦後最大、日本のシリアルキラーの犯罪」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版)所収)
 福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社)
 村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社)
 藤村昌之「奴らを高く吊るせ!」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社)所収)
 死刑囚列伝(第五話)主犯と従犯笑月さんのホームページ「刑部」内)


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