終わりなき贖罪の日々
密行主義といわれながらも、毎年確実に行われている死刑執行。自殺房と呼ばれる舎房で償いの日々を送る一人の確定囚を通して、知られざる死刑の実態に迫る、衝撃のドキュメント!!
大塚公子はノンフィクション作家。『57人の死刑囚』(角川書店/角川文庫)、『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫)、『死刑執行人の苦悩』(角川文庫)を出版、死刑囚関連を取り扱ったノンフィクション作家の第一人者である。
本書は、1979年11月、1983年1月に続けて起きた「半田保険金殺人事件」の主犯として逮捕された長谷川(旧姓竹内)俊彦死刑確定囚の姿を通して、死刑の実態に迫ったものである。
竹内俊彦は1950年11月、愛知県に生まれた。中学卒業後、自動車・オートバイの修理業やガソリンスタンド、運転手など職を変えながら、仕事を覚えていった。1975年頃から自宅で鈑金をするようになり、やがて「竹内自動車鈑金」の名称で鈑金と修理業を始める。仕事は軌道に乗り、1978年には「キングボディ」と改め、工場を建築するようになった。この頃から、若い従業員と一緒に車輌事故を偽装しての保険金騙取を始めている。
遊び好きの竹内は外で飲み歩くことが増え、支出も増えていった。さらに自分でスナックを経営するようになった。ところがそのスナックに暴力団A会が出入りし始め、客に嫌がらせをするようになり客足は遠のいた。さらに「キングボディ」の取引先の信用まで落ちてきたので、四ヶ月後に店を処分。ところが売った先はB会という暴力団員だったため、不渡り手形を掴まされて騙し取られてしまう。
A会は、店の売却を依頼しておきながら勝手に売却したと恐喝を始める。竹内は250万円を支払うが、さらに恐喝は続く。借金は増え続け、「キングボディ」の仕事も減ってきた。警察には一度相談に行ったが、民事不介入という原則を建前に全く応じてくれなかった。
竹内は「キングボディ」の社員だった井田正道(43)を誘い、同じく社員のYに保険金をかけ殺害する。しかし警察は自殺と処理したので、保険金は下りなかった。
結局竹内はA会の木下から借金を重ねるようになる。利子は「といち」だったので、借金はふくれるばかり。とうとう行き詰まり、竹内は自宅、工場を売却。借金を全て返済し、木下との関係は切れた。
その後、竹内は運転手として働くことになった。この頃の借金は、親族から借りたものを除けば友人からの100万円程度。暴力団やサラ金から借りた分はケリが付いていた。
1982年6月、竹内は10tトラックを購入し、傭車で仕事をするようになる。このとき雇ったのが小口二郎だった。ところがトラックを購入した金はまたも暴力団A会木下からだった。当然利子がかさみ、借金を返すためのサラ金地獄が始まる。11月、Nが「運転手として使ってほしい」と来たため、偽装故障で騙し取った金で8tトラックを購入。しかしNと小口はいがみ合いを続けるばかり。竹内と小口は毎日酒を飲むようになり、小口が「殺して金にしよう」と持ちかける。1982年暮れ、別会社に就職していた井田に計画を打ち明け、仲間に引き入れた。翌年1月、Nと小口は保険に加入。1月24日、井田がNを殺害、小口が崖から遺体を載せたトラックを転落させ事故を装い、保険金2000万円を受け取った。
木下からの借金はまだ残ったため、Nの兄から不渡り確実の手形を担保にして180万円を搾取。トラックの月賦大と借金返済に充てた。しかし木下は70万円を無理矢理竹内に貸し、しゃぶりつくそうとした。首が回らなくなった竹内は再び井田を誘い、12月に木下を殺害し、遺体を海に捨てた。
警察の取り調べで、小口はさっさと自供。Nを殺害した「半田保険金殺人事件」はいつの間にか竹内が主犯と言うことになっていた。
1985年、裁判で小口は懲役13年、井田と竹内は死刑の判決を受けた。小口は控訴しなかった。1987年の控訴審でも死刑判決。井田は上告せず確定。そして1993年、最高裁でも判決は死刑。ただしこの時、大野正男裁判官は補足意見を展開した。そのなかで「死刑制度は違憲とはいえないが残虐な刑罰にあたると評価される余地は著しく増大している」と語った。死刑制度のあり方そのものに触れる詳細な違憲は、最高裁としては1948年の大法廷における「合憲」判決以来45年ぶりのものであった。
竹内は逮捕後、キリスト教に入信した。イエスに罪を告白し、祈ってからは、満たされた気持で日々を贖罪のための絵描き作業に没頭した。友人と弁護士が走りまわり、1000人近くの署名が集まった減刑嘆願書が提出された。様々な人が証人台に立ってくれた。しかし、一審判決は死刑だった。
1987年、母代わりの姉が自殺した。動機はやはり竹内が犯した事件にあった。
竹内は親交を深め、様々な人と文通をするようになる。また、被害者遺族へ謝罪の手紙を出し続けた。そして1991年、被害者であるNの兄が面会に来てくれた。兄は竹内を許したわけではないが、文通を始めるようになった。最高裁の判決が出る直前、宣教師の一人と養子縁組をすることになった。竹内は長谷川俊彦になった。
1994年、長男(21)がガス自殺した。やはり事件のことが動機と思われる。
長谷川は交流誌を通じてたくさんの人と交流を深めながら、贖罪の日々を送っている。
かなり長い粗筋になった。その後を書くと、井田は1998年11月19日、執行された。享年55。共犯同士が別の日に執行されるのは異例のことである。Nの母親と兄は「長谷川死刑囚の死刑執行を望まない」とする嘆願書を1993年、2000年に名古屋拘置所に提出している。長谷川も恩赦願いを出していたが却下。そして2001年12月27日、長谷川は執行された。享年51。
長谷川死刑囚を通して、日本における死刑、死刑囚の実態が書かれた作品である。死刑囚の贖罪の日々とはいかなるものか。そういうことを考える上では貴重な本かも知れない。もちろん、死刑囚の全てが被害者の冥福を祈っているかどうかはわからない。
むしろ長谷川死刑囚の例は稀な方かも知れない。冤罪を叫ぶわけではない死刑囚が多くの人と交流を深めるケースは珍しいのではないか。ましてや被害者の遺族と交流を深めるケースは異例といってもよいだろう。死刑囚は親族にも縁を切られ、一人寂しく刑務所の中でただただその時を待っている、というイメージの方が強い。多分、1993年以降死刑を執行された人たちのほとんどがそのケースにあたるものと思われる。
しかし、私には“贖罪”とはどういうことをするものなのかがどうしてもわからなかった。ただ祈り続ければよいのか。私はそう思わない。死刑反対を訴える人たちは、「生きて罪を贖わせるべきだ」とよく言うが、その先の言葉がない。どうやって罪を贖うのか、誰も答えてくれない。本書が答の一つなのかも知れないが、私は素直に頷くことができない。
本書は長谷川死刑囚の側に立って書かれたものである。どうしても長谷川死刑囚にひいき目に書いてしまっているという感がある。被害者遺族から見た長谷川死刑囚が、『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社)の「殺人者と被害者の遺族は和解できるか」に書かれている。また、福田ますみ『されど我、処刑を望まず』(現代書館)もNさんの被害者遺族からの意見をルポライターが纏めたものである。
本書は2001年、『「その日」はいつなのか--。 死刑囚長谷川敏彦の叫び』と改題され、角川書店から文庫化された。執行の直前のことである。
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