前田犬千代・竹千代 | |
1984年1月28日(第1回オープントーナメントサバイバルシリーズ) | |
第1回オープントーナメントサバイバルシリーズ2回戦進出。 | |
漫才。 | |
前田犬千代:本名津崎信吾。1955年11月29生まれ。兵庫県出身。前田五郎(コメディーNo.1)門下。 前田竹千代:本名宮川定徳。1952年12月23日生。大分県出身。 吉本興業所属。1979年10月結成。 | |
竹千代が笹竹をもってきて神と仰ぐコント風漫才。設定がシュールすぎてイマイチ受けず、このネタでテレビ演芸のグランドチャンピオンを取り損なった。スター誕生時代の演目は不明。 | |
1981年 第11回NHK上方漫才コンテスト優秀賞受賞 | |
1985年にコンビ解散。前田犬千代は引退。前田竹千代は1994年にチャンバラトリオ入り。 | |
『ヤングおーおー』若手と一緒に体力コントをしてばてて、若手から「爺さんなんだから、無理せんように」と忠告されていました。 | |
前田竹千代さんは2008年11月9日、胃がんで死去。55歳没。 |
牧田博 | |
1980年10月11日(第1期グランプリシリーズ) | |
7週勝ち抜き、銀賞獲得。 第3回ゴールデンルーキー賞出場。 サバイバルシリーズ1回戦負け。 第1回オープントーナメントサバイバルシリーズ2回戦進出。 第2回オープントーナメントサバイバルシリーズ2回戦進出。 第3回オープントーナメントサバイバルシリーズ出場。 第4回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦負け。 第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦負け。 | |
キーボード漫談。 | |
1951?年6月11日生。東京都出身。 故牧野周一に弟子入りを志願するも断られ、ジャズバンドのピアニストとして活動。芸人になることを諦めきれず、1973年、牧野周一の弟子となる。 黒縁眼鏡に団子鼻、丸い顔に丸い体が特徴。 キャベツ白坂と組んで、「コント五番街」をやっていた(高新太郎の本から)。 | |
最初の挑戦時は、小さなメロディー電卓を使って「エリーゼのために」を演奏していた。 | |
再挑戦後は、キーボードで一曲弾いて、小話を一つする。小話が終わればまたキーボードで一曲。この繰り返しである。4週目、5週目の時はキーボードからピアノに変わっていたが、結局キーボードに戻った。以後はキーボード、ピアノを繰り返し。 | |
〈覚えている小話〉 私、隠し芸で鼻眼鏡を用意したんですが、鼻眼鏡を掛けても全く顔が変わらないんです。 | |
東京にもこんな静かな所があったなんて。ネタが受けなかったときは、必ずこの台詞を発していました。 | |
一曲弾き終わった後、話の合間にメロディを入れようとしたら弾き間違える。客は間違ったなと思い笑うが、冷静に「申し訳ありません。間違えました」と一言だけ言って、また曲を弾き始めたので、大受けした。 あとで京唄子に「普通ああいうものを間違えると口がまわらなくなったりするんだけれど、うまく笑いにごまかしたね。昔に比べて成長したね」と言われた。 | |
(サバイバルシリーズ1回戦 77点× No.188 1983年11月26日放送) 突然ではございますが、私、授業を抜け出した学生です。老けている。つまんない。 それにしても女の人にはモテたいのです。私、以前女の人と話をしていまして、突然彼女が「あなたの好きな果物、なあに」と聞くんです。私、「ザクロ!」(間をおいて)と本当のことを答えまして、馬鹿にされたことがあります。今では「イチゴとレモン」と答えるようにしています。先日も女の人と話をしていますと、突然彼女が「あなたの好きな果物、なあに」と聞くんです。私「イチゴとレモン」と答えました。すると彼女が私の顔をじーっと見つめて、「本当はなあに?」。私思わず「ザクロ!」と本当のことを言いそうになりましたが、言ってはいけないと思い、「イチジク!」 先日、女の人と喫茶店に行ったんです。。ちらっと横を見ると、アベックがいたんです。そのアベックの男が食べ物を頼む時、言葉を縮めて言うんです。「あのね、僕にはレスカ、彼女にはアイミ」。レモンスカッシュをレスカ、アイスミルクをアイミ。ばっちりと決まっていて、格好いいんです。私、負けてはいられません。私の場合はチョコレートパフェとババロアです。ちょっと気取って店員に「あのね、僕にはチョコパ、彼女はババア」。また女の人に振られてしまったんです。 都心の某デパートのトイレに入っていたんです。するとトーン、トーン、というノックの音がするんです。私その時、考え事をしていたものですから思わず、「どなたでしょう」。すると相手が「鈴木です」。一体あの人はどんな人だったんでしょうか。いまだに謎なんです。 私ちょっと気分を変えてみようと、一流ホテルのレストランの、行ったんです(明らかに間違えていて、客席から笑い)。(平然とした顔で)間違えました。 私ちょっと気分を変えてみようと、一流ホテルのレストランに行ったんです。そしてトイレに入ります。ブルーのトータルカラー。広々としたスペース。何よりもトイレが最新型なんです。普通のトイレですと、ボタンを押す、鎖を引く、水がジャーッと流れる。違うんです。用を足していて、ちょっと腰を上げると、水がジャーッと流れるんです。私、こんなトイレは初めてです。用を足しています。ちょっと腰を上げたんです。水がジャーッと流れたんです。私壊れたかと思い、ふっと見ますと水があふれそうなんです。いけないっと思って、手でしゃくってしまったんです。 私こう見えましても、野球が大好きなんです。先日もちょっと女の子にいいところを見せようと、無理をしました。足をねんざしてしまいました。冷蔵庫からよーく冷やした湿布を取り出して足に貼り、がっちりとテーピングをしました。これで大丈夫、と思ったんですが、効いてこなかったんです。それよりもべたべたして、変なにおいがしてくるんです。なんでだろうと調べてみますと、私、湿布薬のつもりで、スライスチーズを貼っていたんです。はっきり言って、なんて私らしいオチなんでしょうか。 今、外国人が一番注目している日本人の文化、それは何か。それは禅、座禅です。私もさっそく座禅を始めました。鎌倉の禅寺にまいります。ピーンと張りつめた空気。煩悩を忘れ、無我の境地に入ります。まるで心が洗われるようです。そして座禅が終わって立ち上がった時、そうです、私、足がしびれてよろよろっと倒れそうになったんです。いけない、と思って思わず、隣に座って座禅を組んでいるお坊さんの頭に掴まってしまったんです。私、謝ろうとちょっと体を動かしたときです。足の裏がくすぐったくって、いっひひひひ、と笑ってしまったんです。 | |
(五周年記念特別企画 傑作・名作特集パート1 No.257 1985年4月13日放送) みなさん、のってますか? (Wピースで暗いまま)イエイ。 突然ではございますが、わたくし先日、都心の某デパートに行ったんです。そしてトイレに入った時、すると私の入っているトイレのドアをトントン、ノックする音がするんです。わたくしちょっと考え事をしていたものですから、思わず私「どなたでしょう?」。すると相手が「鈴木です」。あの人はいったいどんな人だったのでしょうか。いまだに謎です。 先日、友人とちょっとお酒を飲みすぎまして、夜中の十二時をちょっとすぎてしまいました。お腹が空きましたので何かを食べようとしたのですが、飲食店が何もやっていない。すると後ろの方から(チャルメラの音を弾く)、屋台のラーメン屋さんが来るんです。私、ラーメンを頼みます。ラーメンが出てきます。どんぶりを見ると、瀬戸物でできたどんぶりではないんです。発泡スチロールでできた、使い捨てのどんぶりなんです。私、へー、便利なものができたな、と思いながら、親父さんにお金を払います。そして一気にラーメンを食べ始めます。すると親父さんが「どうもありがとうございました」と言って、屋台を曳いてそのままどっかへ行ってしまうんです。私夜中の十二時に、ラーメンを食べながら、道の真ん中に一人ぽつんと取り残されてしまったんです。ふっと後ろを見ると、私と同じように、ラーメンを食べている人が、点々と立っているんです」 どうでもいいことでしょうが、テレビを買ったんです。それも最新型、リモコン付きです。食事をしててもカシャ、寝っ転がっててもカシャ、ポケットから素早く出してカシャ。どんなに離れていても、リモコンでカシャカシャカシャ、自由自在にチャンネルを変えることができるんです。これは最高に便利なことなんです。私のテレビ、室内アンテナなものですから、チャンネルを変えるたびに、テレビのところへ行ってアンテナの向きを変えなければならないんです。笑い事ではありません。 先日、女の人と一緒に喫茶店に行ったんです。横を見ると、アベックがいたんです。その男の子が食べ物を頼む時、言葉を縮めて言うんです。「あのね、僕にはレスカ、彼女にはアイミ」。アイスミルクをアイミ、レモンスカッシュをレスカ。ばっちりと決まっていて、格好いいんです。私、負けてはいられません。私の場合はチョコレートパフェとババロアです。「あのね、僕にはチョコパ、彼女はババア」。 過去に受けたネタから選んで披露。 | |
初挑戦時は2週目で落ちる。 この時はキーボードではなく、当時(1980年前後)あった「メロディ電卓」(電卓のボタンを押すと、そのボタンに対応した音(ドレミファ…のどれか)が出る)を、シンセサイザーと称して演奏するネタをやっていました。 | |
スタ誕では「牧田ヒロシ」の芸名で1週勝ち抜き、→「コント五番街」で「テレビ演芸」2週勝ち抜き。 キャベツ白坂さんのセンス全開のイカレたコント。なんの脈絡も無く花売り娘に扮するキャベツ。「ねえ、お花買って」と連呼した後「私のお鼻買って……」そのセリフを合図にBGMがぞうさんに変わりキャベツはぞうさんを歌いながら象のモノマネをして練り歩く??? こんな八方破れな内容では、2週勝ち抜きも奇跡に近かった。牧田博は、ひたすら黙ってキーボード奏者に徹していた。 →第2期グランプリシリーズ、牧田博で再チャレンジ。 | |
受かっても全く表情を変えず、カプセルの中から出てきた。 | |
相撲合戦で少し小太り気味の牧田博さんが大健闘していました。 確か勝ち抜き表からいって第2回目だったと思う。 解説者の人が「この人は小さい頃から少し相撲をかじってたでしょう。足腰が非常に引き締まっていていい体つきですよ。」と高く評価していました。 一見真面目で運動オンチそうに見えるのですが意外に強かったです。優勝は逃したのですが、結構勝ち進んでいましたよ。 | |
最初の頃は小話が受けなくても平気な顔をしてキーボードを弾き出す姿が受けたが、このスタイルに慣れてしまうと小話で勝負せざるを得なくなった。この小話が、面白いときと面白くないときがあった。 | |
1985年 第24回花形演芸会金銀賞銀賞受賞(キーボード漫談) | |
牧田博のレコード、もしあれば「涙」です(ひじょうに「ローファイ」な音になりそうですが)。 | |
牧田博さんはクリネックスのスーパーティッシュのCMにでていました。新聞紙にやかんの水を吸わせる手品みたいに、ティッシュをラッパにして水を注いだらこぼれない、という吸収力をアピールしてました。最後に牧田さんが「たまげた!」と叫ぶと、ボール(たま)が歯にはさまったげた(たまげた)に顔が変わるというオチつきでした。 | |
かつて、自主制作DVD「くだらないDVD!? 漫一段」「くだらないDVD!? 漫二段」を出していた。 | |
オフィス・イン・ザ・ルーム所属。寄席等に出演していました。 | |
2017年9月に亡くなられたとのことです。 |
マギー司郎 | |
1980年4月19日(第1期グランプリシリーズ) | |
7週勝ち抜き、銀賞獲得。 第1回ゴールデンルーキー賞出場。 第2回ゴールデンルーキー賞敢闘賞。 | |
マジック漫談。 | |
本名野澤司郎。1950年3月17日生。茨城県出身。 17歳で上京し、新橋の「マジックスクール」に通う。デビューは20歳。当時の芸名はジミー司。レオナルド熊、城後光義(ゆーとぴあのピース)など若手芸人が多く住み、自然に『田端グループ』なるものが出来ていて、上野の西郷さんの銅像の前で芸の発表会をするのが常だったらしい。ストリップ劇場とキャバレー回りが中心だった。その後、マギー信沢に師事。テレビ番組出演をすすめたり、かつてカバン持ちをしたことがあるマギー信沢に弟子入りし、新たな名前をもらうことを進言したのは、プロダクション人力舎の創設者、玉川善治さん(2010年6月死去)だった。『お笑いスター誕生!!』に出たのはデビューから14年後。 | |
一世を風靡したのは、「このマジック、三丁目の角のたばこ屋のおばちゃんには受けたんだけどね」と茨城弁で語る姿。これは実話らしい。 | |
ここに縦縞のハンカチがあるのね。それを手の中でごにょごにょとするうちに、あら、横縞のハンカチに変わってしまうのね。不思議ね。 | |
(3週目くらいかな?) 「ここにね。こんな大きいトランプがあるのね。後ろの人もよくわかるでしょ。すみませんけれどね、山田さん。これ一枚だけ引いてもらえますか。お忙しいところ、ごめんなさい」 「いいですよ、暇ですから」 「あの、どれでもいいですよ。一枚だけ引いてください。そして、誰にも見せないでね。山田さんだけ覚えといてね。誰にも見せちゃ駄目よ」 (トランプをのぞき込む山田) 「いいですか。覚えた? そしたらね、このトランプの数字をね、今日はタモリさんにね、何かすごく暇そうだからね。あの、これ当ててもらえますか」 「え?」 「これをね。この数字を当てるの。いい加減な人って、意外と当たるのよね。山田さん、覚えた? そしたら目をつぶって、そう、大体10秒くらい。じゃあ、タモリさんが当てるから、答えを言うまで目を開けちゃ駄目よ」 (ポケットからハートの2が書かれたハンカチを取り出し、客席に見せる) 「タモリさん、このトランプの数字は幾つですか」 (ハンカチを慌ててポケットにしまう) 「ええとね、ハートの2じゃないかな」 「山田さん、ちょっと見てくれますか」 「嘘だ。何で当たるの」 「当たりましたか? 有り難うございました(山田、袖に戻る)。あのこの手品はね、これだけお客さんいるでしょ。一人だけ不思議がってくれれば、それでいいの」 | |
ネェネェ、ちょっとそこのお客さん。……そうそうあなた。今からねえ、あなたねえ、僕がやるマジックのお手伝いをして欲しいのね。あ~ハイハイ。やってくれる。ありがとう。 今ココにねえ「手品用のトランプ」があるのね。そんで~あなたにぃ、この「手品用のトランプ」 の中から一枚ひいてもらいたいのね。いいかなぁ……じゃあ僕がこの「手品用のトランプ」をパラパラっとはじくから、あなたが大きな声で「ストップ!!」っとかけるのよ。・・・いいかな?」 (マギー司郎がトランプをはじく) お客「……ストップ!!」 マギー司郎「ホラ あなた遅いよ~~~。もうはじき終わっちゃったじゃない!! もっと早く言わなきゃ~。じゃあ、もう1回だけチャンスをあたえるから、大声で「ストップ!!」をかけてね。」 (マギー司郎が再びトランプをはじこうとする) お客「……ストップ!!」 マギー司郎「あら~今度は早いよ~~~。まだパラパラはじいてないよ。あなた慌て症だねぇ!!」 | |
お客さんから腕時計をお借りしてその腕時計を消すマジックをやっていた。 とても優しそうなお客さんだったが、マギー司郎さんがその腕時計を手にして、赤いハンカチで覆いかぶせ、手元から無くなったときにはかなりあせっていた模様。 更に腕時計が出てきたかと思ったら、見るも無残にバラバラになった腕時計をお客さんに返そうとするが、可愛そうだからと言ってもう一度赤いハンカチを被せて元通りの腕時計に戻す。 | |
このグラスの中に「コカ・コーラ」が入ってるのね。 コレを右に1回転すると・・・「ぺプシ・コーラ」に変わってるのね。 そんでまた 今度は左に1回転すると・・・「コカ・コーラ」の戻るのね。 そんでコレを ぐるぐる回しているうちに・・・「オレンジジュース」に変わるっていう手品でした。 マギーさんは軽く流したようにこの手品を片付けていた。 最初のうち場内はバカにした目つきで見ていたが 最後にはみんな驚いていた。 | |
茨城県で評判が良かった手品 ココに(ガラス製の)空のコップが2つあるの。これを重ねて、軽く振るとミルクが出来ちゃうっての。いま「研究中」なのね。(笑)ゴメンね研究中でね。 | |
マジック漫談 (カゴの鳥のカード) ココに1枚の手品用のカードがあるのね。 裏には「カゴの絵」 表には「小鳥の絵」 ……が描かれてるのね。これをグルグルグルグルと廻してるうちに「カゴの中に小鳥」が入っちゃったわけね。……えっ裏には何が書いてあるかって? ……じ・つ・は・何も描かれてないのね。で今度またグルグルグルグルと廻してみると、「元に戻る」のね。(裏「カゴ」・表「小鳥」)で今度またグルグルグルグルと廻してみると、「カゴだけ」になって 小鳥がどっかへ飛んでっちゃったって話。 | |
(グランプリシリーズ) 「ミエさん、一枚トランプを引いてください。そしてそれを私に見せないように、客席に見せてください」 「客席に見せました? そうしたら戻してください。そしてこれを後ろ向きに切って、当てるっていうの。後ろ向きってのが難しいんだよね。それで多分これが当たりだと思うのよね。ミエさん、引いたのはなんでした?」 「ダイヤの4」 「あれ、ダイヤが5つあるのよね。一つ多いときはこうやってするの。よく見ててよ。せえの」 真ん中のダイヤだけが左下に動き、ダイヤの4になる。 「これで当たりでしょ」 | |
(6週目合格 No.7 1980年5月24日放送) 青森県に稲賀志村と言うところがあるんですよね。 あそこでこの手品、意外と評判がよかったんですよ。 (赤いハンカチを持ちながら) あの~、ハンカチをこういう風に結ぶでしょ。 そして軽く降るとね、結んだところが動いていっちゃうんですよ。 (結び目が徐々に下に降りて、とうとう落ちてしまう) これね、ぼくね、最後が好きじゃないのね。 最後がとても白々しいわけね。 (ハンカチに二箇所、穴が空いている) 嫌でしょ、こういうのって。 | |
(7週目不合格 No.8 1980年5月31日放送) 紹介ナレーション…。 「さぁ いよいよ第7週に入った ユニークなお喋りと マジックテクニックはますます冴え渡る マギー司郎!」 紹介時は「チキチキチキチキ……」ってシンバル(かハイハット?)のBGMだと今迄思ってたけど、この当時はティンパニのロール(「緊張感を煽るドゥルルルルルルルルル……」って感じ)だったんですね。 山田さんのナレーションにも少しエコーがかっててちょっと大袈裟に聞こえ、不釣合いに見えました。当時はまだ試行錯誤の段階だったんでしょう。 カーテンが開き、青い衣装にハンカチを持ったマギーさんがにこやか挨拶をしてに登場。 「あのぉ1週間位前に僕ね、群馬県に渋川ってとこ知ってます?あそこ行ったんですよ。そしたらね」 と、手持ちの黒と白の横縞が入ったハンカチを見せる。 「向こうの方ではこれを縦縞って言うんですね」 客席、少し受ける。 「で、茨城の方ではこれを横縞って言うんですよ。 であのー、この辺ではこれを何て言うんですか」 とハンカチをちょっと動かすと 「やっぱ縦縞って言うんでしょ、この辺では」 一瞬で縦縞に変わっている。 呆気に取られる観客。 「手品やってシーンとされるのあんまり好きじゃないんですよね」 ハンカチをしまう。 こんな感じでした。 ちゃんとした手品だけど、鮮やかに一瞬で終わったため観客側が呆気に取られてるのが強く、見事だけど受けに繋がってないって雰囲気。 いいネタなのにつかみ損ねてるのがちょっと可哀想でした。 | |
(「悶絶!異色スター大会」 No.52 1981年4月4日放送) スプライトをコップに入れ、「手品用の筒ですっ、すっ、すっと動かすと、三ツ矢サイダーに変わったの、わかりますか?」(一口飲んだ後)「これは飲んでみないと、変わったのってわかんないよね」 バラバラになったルービックキューブが印刷されたフリップを持ち出し、「何回転したら元に戻るかわかりますか」と客席に尋ねる。1回転と声が上がると、「その通り、よくわかったね、1回転すると元に戻るの」と言って裏返すと、色が全部そろってる。「1回転すると元に戻るのよ」と言ってもう一度裏返すと、こちらも色が全部そろっている。笑いが少なかったので、「これ、実はあまり評判良くないのよね」と引っ込める。 続いて、金魚鉢に赤い金魚2匹が入った絵を見せる。背中に絵を回すと、金魚が消えてしまう。(客席の角度の関係で、ひっくり返すところが丸見えだったため、言わないの、と突っ込みを入れる)。もう1回背中に絵を回すと、金魚が元通り。さらにもう1回絵を回すと、金魚が消えてなくなる。そのまま絵をひっくり返しても、金魚鉢に金魚はいない。どこに行ったのかと絵をひっくり返すと「猫が食べちゃったの」と猫の絵が出てくる。今一つうけなかったので、「あまり面白くなかったみたいね、これ」と苦笑い。 マギー司郎はせこい手品しかできないので、ちゃんとした道具を持っていないんじゃないのか、って言われたから、今日は道具を持ってきた、とテーブルの上にあった中華蒸篭を取り出す。外側の蒸篭を取り出し、中に何も入っていないでしょ、と客席に確認させる。同様に内側の蒸篭を取り出し、中に何も入っていないでしょ、と確認させて、外側の蒸篭の中に入れる。さらに両方の蒸篭を持ち上げ、中に何も入っていないでしょと確認させる。そして「僕だってこういう道具を持っているんだぞというところを見せたかったの」と言って、次の手品に移る(ここで爆笑)。 大きなトランプを持ち出し、お客さんに渡す。そしてマギーが、広げたトランプから1枚取り出す。「普通はね、お客さんに引かせたトランプを僕が当てるんだけど、今日はね、僕が引いたトランプをお客さんに当てさせるの。ね、変わってていいでしょ。じゃあね、頭の中で浮かんだ数字を言ってみて」「ハートの3」。ちらっとトランプを見た後、「当たり」といったまま、見せずにトランプをしまってしまう。「あのね、手品っていうのは、相手への思いやりがあると、丸く収まるの」と言って、次のネタに移る。 最後にトランプをよく切り、別のお客さんに1枚引かせる。「僕はね、あそこら辺のお客さんがどのようなカードを引くか、予想してたの」と言って、胸ポケットからトランプを出すと、ハートの3。「どう、違うの」と客に聞くと違っている。「あのね、さっきのお客さんとのやり取り、聞いてた? 手品っていうのはね、相手への思いやりが大切なのよ。で、当たってる? やっぱり違うの。いくつ? ハートの9。当たりでしょ、とトランプを引っ張ると、ハートが9つある、縦に長いトランプが出てくる。 | |
(ゴールデンルーキー賞) 舞台が真っ暗になり、幕が開くとスポットライトを浴びたマギーが登場。いつもと違い、黒のタキシード、黒のシルクハットで決める。ハンカチを取り出し、一降りするとステッキに早変わり。そしてそのステッキから手を離し、自由自在に周囲を動かし操る。 そのマジックが終わった後、舞台が明るくなり、「たまにはこういうまともなのもいいでしょ。こういうこともできるのよ」 | |
(ゴールデンルーキー賞) トランプを山田康雄にひかせ、当てて見せようとすると、「ハートの3」だった。ひいたカードは「ハートの2」だったので、注射器でハートを1つ吸うと「ハートの2」になってしまう。注射器で吸うと、赤い液が注射器の中にはいるのがポイント。 | |
NHKの漫才コンクールオーディションでは、PDから何回も「きみはレベル以下だ」を鼻も引っかけてもらえなかったらしい。お笑いスタ誕でようやくブレイク。赤尾PDに見る目があったということ。 | |
マギー司郎は、最初の挑戦のころ、毎回審査のカプセル内で紙吹雪を用意し、合格の場合はステージ上で、7週目の不合格時はカプセル内で紙吹雪を撒いてました。ただ、銀賞獲得の時は、嬉しさのあまり、山田康雄に抱きついてオイオイ泣いていたのが印象的です。 | |
自ら「しゃべり六分に奇術四分」と言うステージは、デビュー後15年ほどストリップ小屋専門の奇術師として苦労した産物。「1日4回、多い時は6回も公演があった。毎回ネタを仕込むのが大変なの。『しゃべりを入れればネタが少なくて済む』と思って。つまり楽をしたかったからなのね」。
(日刊スポーツ2001.12.19 インタビュー記事より)
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面白かったですが、やはり寄席向きというイメージですね。子供からおじいちゃん、おばあちゃんまで安心して笑うことの出来る人でした。 | |
マギー司郎のマジックは「お客と一体化する(お客を話芸で巻き添わす)マジック」の代表格である。 何をやるにしても必ずお客さんに「こういうことあるよね?」と同意を求める。 あと何でも「手品用の~~」と付ける。「手品用のハンカチ」「手品用のシルクハット」「手品用の牛乳」……って牛乳はただの牛乳だろ!!ってツッコミたくなる。 そして「~~なんだけどねぇ」とさぞつまんなさそうに言い回しておいてスゴい手品を平然とやってのけてしまう。 たまにさぞつまんなさそうな言い回しをしておいて、本当につまんない手品を見せつける時がある。 でもそこはマギー司郎の愛嬌や人柄でカバーしてしまう。 現在の手品界においてマギー司郎という存在はまさに「むかうところ手品師(敵なし)」である。 | |
1981年 第9回日本放送演芸大賞ホープ賞受賞(最優秀ホープ賞は三遊亭円丈) 1982年 第10回日本放送演芸大賞ホープ賞受賞(最優秀ホープ賞は九十九一) 1997年 奇術協会天洋賞受賞 2004年 日本賞「教育ジャーナルの部・東京都知事賞(最優秀番組)」(NHK『課外授業ようこそ先輩』の「おしゃべりマジックで強くなろう」の回 マギー司郎が出演) | |
『手と口で笑わせるタネ本 爆笑ギャグマジック』(KKベストセラーズ,1982) 『マギーの超特撰小ネタ手品32―これでみーんな幸せになれちゃいますからねぇー』(海竜社,2002) 『マギー司郎とマギー審司のおもしろマギー・マジック25』(マギー審司との共著)(海竜社,2005) 『読むだけで誰でもすぐに幸せになっちゃうセラピー』(ロングセラーズ,2007) 『生きてるだけでだいたいOK “落ちこぼれ"マジシャンが見つけた「幸せのヒント」』(講談社,2007) | |
『笑って!!笑って!!コミックマジック大集合!』(コロムビアミュージックエンタテインメント,2006) マギー司郎、ゼンジー北京、ジャック武田の他、ダーク大和、吉慶堂李彩、ザ・ビート、アダチ龍光、ブラック嶋田、東京コミックショー、ドルフィン・マジック・カンパニー等が登場。紹介はナポレオンズ。 | |
現在も寄席、テレビ等で活躍中。日本奇術協会会員。 | |
オフィス樹木は、マギー司郎さんの所属事務所HP。プロフィール、『お笑いスター誕生』出演時などの写真館、マギー一門家系図があります。 | |
2016年で50周年を迎えた『笑点』の演芸コーナーでは、1979年の初出演以来、最多となる49回出演(2016年5月時点)。大喜利メンバー全員の落語会で、ヒザ(トリ前の出番)を務めたこともある。 |
まこと&がっしゃん | |
1981年1月10日(第1期グランプリシリーズ) | |
2週勝ち抜き。 | |
漫才。 | |
まこと:本名北野誠。1959年1月25日生。大阪府出身。 がっしゃん:本名東野博昭。1959年3月7日生。大阪府出身。 当時、北野誠は京都産業大学の学生でした。相方のがっしゃん(当時からの愛称)こと東野博昭は関西学院大学出身。当時、大阪に学生漫才協会なるものがあり、そこに所属していました。 二人は高校の同級生。大学は別だが仲が良かった。漫才ブームを見て、漫才をやりたくなった。挑戦時はともに大学三年生。アマチュア挑戦。プロになるつもりはなく、腕試し感覚で挑戦した。 | |
「ねえ、彼女年いくつ?」「二億」なんてのを覚えています。 | |
しばらく休んでいた大木こだま・ひかりが復帰することになり、そのあおりで誰か1組が落ちることになった。 その日のネタの出来具合から見てどう考えてもベテランコンビ(東京丸・京平)と思われたが、何とその日も絶好調でお笑いグラフを多く記録したまこと&がっしゃんが不合格。 若手を合格させベテランを落とす訳にいかないので、そうしたのかと当時思ったのをおぼえている。 審査員の京唄子も、まこと&がっしゃんの何とかあらを探そうとして「今日は時間が少し短かったね」と言っておられたのをおぼえているが、ベテランコンビの何とかの一つ覚えの「よいしょネタ」を長い時間聞かされるよりはよっぽど、まことさんたちの方がおもしろかったと思います。 当時を記憶されている方がおられれば是非お聞きしたいのですが、あれはどう考えてもまこと&がっしゃんの勝ちですよね!? アマチュア時代はちゃらんぽらんの方が実力は格段上で、3週目はややネタ切れの感はありました。京丸・京平もヨイショねたと「ちゃらんちゃらんちゃんちゃん」でなんとか引っ張ってましたが、漫才ブーム前はセントルイス・ツービートに続くと評されてたくらいなので、5週くらいまではまだネタの蓄えがあったような気がしました。 でもプロである程度テレビに出てた人たちは5週くらいは勝ち抜かせてあげてたような気は確かにしますね。 ウケは2週目までと比べると良くはありませんでしたが、でも終わった瞬間は合格だと思いました。唄子先生が異常に酷評をされてた記憶だけが残ってましたから。 まこと&がっしゃんは、確かに落とすには忍びない内容でした。個人的にはむしろ京丸・京平のほうが落ちるべき、と思ったのに、啓助さんが「真面目に漫才に取り組んでいる」などと講評して合格させてしまい、これも新聞で疑問視されていました。 | |
北野誠『どつかれたんねん/北野誠の存在証明』(小学館)には、『お笑いスター誕生』出演時の秘話が載っています。 | |
1981年に解散。まことはMAKOTOの名前で松竹芸能入り。後に本名の北野誠へ戻す。タレントとして活躍。 がっしゃんは一度就職するが、本名の東野博昭として放送作家で活躍。昔、人気タレントだった斎藤ゆうこと結婚した(後に離婚)。現在は東野ひろあき名義で活動。 | |
北野誠は島田紳介に「おまえおもろいなー、プロになったらどうや」と進められプロを目指したそうです。 | |
北野誠のプロフィールは、所属する松竹芸能のオフィシャルサイト、松竹芸能 オフィシャルサイト内にあります。 |
丸&丸 | |
1981年3月14日(第1期グランプリシリーズ) | |
1週勝ち抜き。 | |
漫才。 | |
関西に学生漫才協会なるものがあり、そこに所属していました。大阪学院大学の落研所属。アマチュア挑戦。 | |
紳助・竜介のネタコピー。 | |
片割れは落語家の6代目立川文都。妻はジャズシンガーの山岡未樹。 卒業後はソウルバンドを結成し、ライブハウスを中心に活動。1984年2月に上京し、7代目立川談志に入門。「立川関西」(前座)→「立川談坊」(二つ目)を経て、1998年に真打ち昇進、6代目立川文都となった。 なお、文都の名前は上方落語の名跡「桂文都」の流れを組むものであるが、上方では4代目までしか存在していない。1928年3月に東京で9代目土橋亭里う馬が桂文都を名乗っていた(上方の文都との関係は不明)ことから、立川文都は6代目と名乗っている。そのため、上方で正式に6代目として認められているかどうかは不明。 江戸落語の立川流真打ちだが、関西弁で落語を話す。枕として、「ポスト志の輔」というギャグがあった。 2009年7月、ホームページ上で胃がんを告白。10月29日午後11時31分、胃がんのため死去、49歳没。 個人HP「立川文都ホームページ」があります。 |
まるむし商店 | |
1985年5月11日(第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ) | |
第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦負け。 第6回オープントーナメントサバイバルシリーズ準決勝進出。 | |
漫才、コント。 | |
磯部公彦:本名同じ。1958年1月14日生。大阪府出身。 東村雅夫:本名同じ。1958年1月30日生。大阪府出身。 大阪桃山学院大学の落研コンビ。東村が1年浪人しているので、先輩後輩だった。『素人名人会』で漫才をする人が少ないということで誘われ、落研の予算が少なかったこともあり、賞金目当てで出演。名人賞に輝き、賞金3万円を獲得した。 大学卒業後は一般企業に就職し、共通の友人の結婚式で再会。共に仕事が面白くなかったこともあって退職し、知人の伝手で芝居やミュージカルも手掛ける事務所に入った。1983年8月1日結成。映画『里見八犬伝』に山賊の役で出演したが、映ったかどうかも定かでなく、クレジットに名前も出なかったほどだった。事務所が倒産したため、1985年に吉本の社員スタッフの前で漫才を見せ「合格」となり、吉本興業に所属。 | |
(第5回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦 78点× No.262 1985年5月18日放送) 漫才の後半で、色々な煙草を服の中から出し、その煙草の銘柄にちなんだ一口話をする。 | |
体育教師と校長のコントが代表作です。 | |
不明。 | |
1986年 第16回NHK上方漫才コンテスト優秀賞受賞 1986年 第15回上方お笑い大賞銀賞受賞 1987年 第22回上方漫才大賞新人奨励賞受賞 1988年 第8回花王名人大賞新人賞受賞(最優秀新人賞は圭・修) | |
一時期、東京に出ていましたが、現在は関西方面で頑張っています。磯部はレポーターが多い。 所属する吉本興業のオフィシャルサイト内のタレントプロフィールに、活動情報などが載っています。 |
まんぼう | |
1985年10月12日(第6回オープントーナメントサバイバルシリーズ) | |
第6回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦負け。 第7回オープントーナメントサバイバルシリーズ1回戦負け。 | |
漫談。 | |
7月23日生。兵庫県出身。 関西出身。若井はやと門下らしい。『テレビ演芸』では「まんぽう」(manpou)として出演したが0週。スタ誕から「まんぼう」(manbou)になりました。当時は松竹芸能所属。 名前は大学時代の落研の名前、「みくりやまんぼう」から取っている。 第6回の登場時、テレビ初出演と喋っていた。 | |
アニメタイガーマスクの思い出しネタ。 タイガー「グレートゼブラさん、もしや、馬場さんでは?」 ゼブラ「違ふ、僕ぱ馬場ばない(違う僕は馬場じゃない)」 まるっきり馬場ですね。というもの。 | |
オーディション時は「MANPOU」という名前でしたが、PDに改名されました。 | |
まんぼう、出る度に点数が下がっていって、しまいには70点という、恐らくサバイバルシリーズ始まって以来の最低点を取った人ですよね。どんなにつまらない人でも、大体皆80点以上はとってたのに…。 | |
まんぼうは、なんか楽屋ではウケてた人みたいですね。そういう人は大概舞台でつまらないって京唄子が言ってましたけども。 | |
お笑いスタ誕が紅白戦になった頃に出ててよく「まんぼうが来たから負ける」って他の芸人さんにいやがられてました(今はメガネかけてないのかぁ……)。 | |
紅白対抗戦の個人ネタみせを稽古場でやったときのこと。 サバイバルシリーズで最低得点を記録したのに、まんぼうはなぜかメンバーに選ばれ、ここでも低得点を記録していました。 それでもはりきってトップバッターとしてネタ見せに挑んだものの、いつものしょうもないネタ。 特に「バロムワンのボップ」とかいうひとりよがりのネタが赤尾PDの気にさわったみたいでした(赤尾さんはこういう自分だけの世界でのネタみたいなものをすごく嫌ってた)。 赤尾PDの顔がみるみる赤くなり、ネタ終了後まんぼうにきつーいダメ出し。 ぐうの音もでないほど絞られて、まんぼうの顔がみるみる青くなり、そして赤くなっていきました。こんなときピン芸人は可哀相です。 そして赤尾PDから「こんなんじゃ番組に出せないんで、お前がネタをやってるときに白組メンバー全員でお前をとりかこみ、全員ハリセンをもたせて突っ込むというのはどうだ」という残酷なアイディアまで持ち出されました。 それ以降赤尾PDの機嫌が悪くなったので、ネタ見せではまんぼうをトップにもってくるなという暗黙のルールがしかれてしまいました。 | |
新人のせいか面白くありませんでした。 | |
彼は一時、天狗になっていたというか、関西夜の街では評判が芳しくない、もっぱらの噂でした。 関西ローカルで『梅まん世間予報』という、関西テレビアナウンサー梅田淳さんと15分間の情報番組を担当していましたが、芸とは裏腹にも関らず、馴れ馴れしい佇まい…醜かったですね。 確か、遅刻常習か何か、態度遡行で松竹をクビになったんだと思います。 その『梅まん~』で、当時「吉本新喜劇やめよッかナキャンペーン」で旧うめだ花月出演中の130R、オールディーズ(のちに放送作家となる木村祐一がいた、相方の覚醒剤で逮捕後解散)へ取材した回がありました。 例によってまんぼうのあまりクダラナイ(しょうもない)質問と、番組とはいえ、敵陣の劇場において、馴れ馴れしく兄さん、兄さんと芸人かぶれした態度…(番組相方の梅田アナが、関西人はお馴染み、輪をかけて業界かぶれしとるんダ、コレが。) …見事に一蹴されていました。 | |
いま結構ラジオのレギュラーもってて活躍してるみたいです。 エス・オー・プロモーション所属。プロフィール等が載っています。 | |
2014年から始まった故若井はやとの弟子が集まる『お笑いHAYATOの会』に出演しているところを見ると、現在も漫談を行っている様子。 | |
元チャチャで現在放送作家の小西マサテルがプロデュースするイベント『落語記念日』では、橘家圓十郎とともにレギュラー出演している。 |