山本洋三 | |
1982年7月31日(第2期グランプリシリーズ) | |
2週勝ち抜き。 | |
本名山本勇三。1952年10月17日生。 東海地区のローカルタレントで、テレビ出演やラジオのDJなどをしていた。『みえみえたいむ7』(三重テレビ、司会、1977-1981)、『JOYJOYワイド ハッピースタジオ』(岐阜放送)、『星空ワイド 今夜もシャララ』(CBCラジオ、木曜担当、1979.10-1980.9)、『ぱろぱろエブリデイ』(CBCテレビ,コーナー担当、1981.10-1983.4)など。 | |
漫談。 | |
たこ焼きのネタ。このたこ焼きにはたこがはいってない、どこがたこ焼きじゃ。とクレームをつける。熱いたこ焼きをハフハフしながら食べる、その顔がたこにそっくりという顔ネタ。3週目、落ちる時カプセルの中で駄々っ子のようにイヤイヤをしてました。 | |
(3週目不合格 No.124 1982年8月28日放送) お寺の鐘が、ゴォ~~ン、ゴォ~~ン。 誰やぁ~ワシの顔をジロジロ見る奴は? (少し間を開けて大声を出し)お前かぁ~~~!! いやぁ~怖いですよねェ~、この時期になると怪談話。 私もチッチャい頃、ようやりましたよ。 この間、私も海に行ってきたんですよ。 でもねえ、最近の若い子なんかクロールですよ。 (といいつつクロールのマネをしてかっこよさをアピール) 私なんか平泳ぎですよ。かっこ悪いでしょ~~う~~。 こんな感じですよ (といいつつ髪の毛を振り乱したまままるで落ち武者のように顔をアップアップさせ平泳ぎのマネをする) 監視員の人が私の泳ぎ見ていたら「溺れてるんじゃないか?」と勘違いしてそのまま救助されそうですよ。 「泳ぎにいったら、猫ちゃんの死体が浮いてて、あわてて逃げたら平泳ぎだったから死体がぴったりくっいてきた」 といった日常観察ネタをやってました。 | |
名古屋出身ということで、九十九一の後輩という紹介のされかたをしていた。 | |
当時、名古屋のCBCラジオの深夜放送のDJとしてそこそこ人気がありましたが、九十九さんと差がありすぎたせいか、放送でスタ誕のことにはあまり触れていませんでした。 | |
レベルは低くはなかったです。 | |
山本洋三「初恋の週番日記」(1979) | |
東海地区のローカルタレントとして出演していた。『週刊ドラドラ生放送』(中京テレビ,1982.4-1984.3)など。 | |
山本洋三さんのことですが、この地方でも(東海地方)若干話題に(つボイノリオさん関連で)なりました。で、現在(2002年頃)は芸名をベイビー山本として岐阜放送で『ベイビー直子のなんでも電リク』と言う番組を土曜日14時からやっています。 岐阜放送のHPには当時ベイビー山本さんの写真が載っていました。 | |
その後、名古屋市でラーメン店を経営していたが、閉店しているとのこと。 |
ゆーとぴあ | |
1980年10月25日(第1期グランプリシリーズ) | |
6週勝ち抜き。銀賞受賞。 | |
男性二人コンビ。漫才もやっていますが、主にコントをやっていました。ピースが顔面でゴムを受けるのが有名ですが、本人たちは社会派コントと言っていました。 | |
ホープ:本名城後光義。1949年10月24日生。福岡県出身。 ピース:本名帆足新一。1955年3月9日生。大分県出身。 ホープは高卒後、吉本新喜劇(白木みのるの付き人)を経て上京。ストリップ劇場の新宿モダンアートにて丸久須男との漫才コンビ『富士ホープ・ピース』で初舞台。大空一門入りし改メ『大空ホープ・ピース』、大阪に渡り松竹芸能所属で新世界新花月等に出演。解散後東京に戻って酒井くにおらと女装コントをしていた時、西賀八の紹介で熊田にげろう(後のレオナルド熊)の弟子になり、福岡ケンジの名で師匠と『コント三冠王』を組み3年間活動。ストリップ劇場のドサまわりでコントを続ける毎日だった。1974年、ビン(水島びん その後コント百連発を結成)、ジミー(現在は不動産屋らしい)とコントスリーピースを組む。 ピースは元々歌手志望。高校を中退して内山田洋とクールファイブのバンドボーイをしていた。コンサートの幕間で前説を担当している内にお笑いの世界に入っていった。 当時は、レオナルド熊、マギー司郎、コント赤信号など若手芸人が多く住み、自然に『田端グループ』なるものが出来ていて、上野の西郷さんの銅像の前で芸の発表会をするのが常だったらしい。『田端グループ』には他にコント百連発、Mr.ポテト、ラッキーパンチなどがいた。新宿「ルイード」「モーッアルト」を根城に活躍。 結成は1978年。名前の由来は煙草の名前ではなく、平和と希望から来ている。 | |
「ゆーとぴあ」ギャグ ピースがホープにお願いする時 「おねげ~しますだぁ~~、おでぇ~かんさまぁ~~!!(お願いしますだ、お代官様)」 と言って、ホープの片足にしがみつく。 またまたピースのギャグ 「鍬持って、鎌持って、一揆じゃ、一揆じゃ~~!!」 またまたまたピースのギャグ 「ふぅ~~、わんわんわん」 と言いながら、森進一のものまねをよくやっていた。 ホープ「なんだ君、風邪気味かね?」 とか言うからみだったはず。 | |
ゴムをはじかれた後、 ピース「おぉう~、血だ!!」というギャグがあった。 | |
漫才の時は、必ず終わりに「よろしくネ!」のポーズをやっていました。 | |
(ネタが受けなかったときのピースのギャグ) 「何だ、この陰険な静けさは」 | |
(多分1週目。一世を風靡したコント No.29 1980年10月25日放送) (爆笑オンステージ No.163 1983年6月4日放送) 卒業証書を持って登場するピース。 ピース「今日で卒業なんだ。これでこの学校ともお別れなんだ」 そこへ登場する先生(ホープ)。 ピース「先生!」 ホープ「なんだ、生徒」(思わずこけるピース) ピース「先生。生徒はないでしょ、生徒は」 ホープ「お前は生徒じゃないのか」 ピース「生徒ですけれど、名前で呼んでくださいよ」 ホープ「しかしお前、老けているなあ。一体幾つだ?」 ピース「じ、十五です」 ホープ「本当にそうか。じゃあ、何年生まれだ?」 ピース「えーと、(指を折って数える)よんじゅう……」 ホープ「もういい。それより、卒業したらお前、どうするんだ」 ピース「先生、進学希望です」 ホープ「そうか。希望する大学はどこだ」 ピース「一に亜細亜大学、二に立教大学、三に法政大学、四に早稲田大学、五に東京大学です」 ホープ「お前、どんどんレベルが高くなっていっているじゃないか。普通はレベルの高い方から下がっていくものだぞ」 ピース「先生、どうでしょうか」 ホープ「はっきり言おう。お前はバカだ」 落ち込み、膝をつくピース。 ホープ「どうした、バカ。落ち込んでいるのか、バカ」 ピース「バカ、バカ、言わないで下さい。僕にだって名前があるんです」 ホープ「そうだったな、木村」 ピース「僕は山本です」 ホープ「いや、お前は木村だ」 ピース「は?」 ホープ「今日からお前は生まれ変わったんだ。お前は木村だ」 ピース「そうか。先生、わかりました。僕は生まれ変わりました。今日から木村なんだ」 ホープ「そうだ。ところで佐藤」 ピース「は?(ちょっと待てよと言う顔)」 ホープ「進学がダメならどうするんだ?」 ピース「はい、就職します」 ホープ「希望はどこだ?」 ピース「一に医者、二に弁護士、三に教授です」 ホープ「佐藤、無理だ」 ピース「ちょっと、僕は山本で、さっきは木村……」 ホープ「吉野屋はどうだ?」 ピース「だって、あそこは潰れたでしょう?」 ホープ「いや、最近はまた牛丼がブームになっている」 ピース「わかりました。頑張ります」 ホープ「ちょっと練習してみよう。大盛りですか、並ですか。卵はどういたしますか。さあ、やってみろ」 ピース「はい。大盛りですか、並ですか。卵はどういたしますか(棒読みで)」 ホープ「お前、そんな堅苦しい言い方では客が逃げるぞ。こうするんだ。大盛りですか、並ですか。卵はどういたしますか(軽やかに)」 ピース「先生、昔バイトでもやっていたんですか。凄く軽やかですね」 ホープ「私のことなんかどうでもいい。そうだ、ほかほか弁当はどうだ?」 ピース「先生、どうしてそう食べ物屋にこだわるんですか?」 ホープ「まあいい、人生を決めるのはお前なんだ。お前が決めればいいことだ」 ピース「はい、先生。わかりました」 おもむろにポケットからゴムを取り出しながら。 ホープ「人生は短いようで長い。長いようで短い。まるで、このゴムのようなものなんだ」 ピース「は?」 ホープ「これをくわえろ」 ピース「なぜですか?」 ホープ「いいから」 無理矢理ピースの口にゴムをくわえさせる。 ホープ「いいか、人生は長い、長い道のりを歩かなければならない」 と言いながらゴムを引っ張っていく。 ホープ「わかったか」 と振り向くと同時に伸びきったゴムを離す。ピース、顔に強烈なショックを受け、倒れる。 ホープ「人生がわかったか」 ピース「先生」 ホープ「なんだ」 ピース「人生って、痛いものなんですね」 ホープ「そうか。わかったか。だったら、もう一回、これをくわえろ」 ピース「いいえ、人生はもうわかりました」 ホープ「いや、まだまだわかっていない。いいからくわえろ」 しょうがなくくわえるピース。 ホープ「いいか、人生というものは」 再び歩き始めるホープ。慌てて後を着いてゆくピース。 ホープ「付いてくるんじゃない」 ピース「だって、先生。痛いんです」 ホープ「人生に痛みは付き物なんだ。ここで立ってろ」 再び歩き始めゴムを伸ばし始めるホープ。 ホープ「人生、何事も痛みがある。わかったか」 と振り向くと同時に、ピース「はい!」。ホープ、伸びきったゴムを顔面に受け、倒れる。 ピース「先生、よくわかりました」 ホープ「(顔をさすりながら)そうか、わかったか。これで俺の苦労も報われた」 二人で「ゆーとぴあ、これからもよろしくネ!」 | |
(たぶん3週目合格 No.31 1980年11月8日放送) ピース「(客席から笑いが起きていないので)どうしたんだ。何があったんだ」 ホープ「もういい、もういい、もういい。これ、飽きてきてるんんだよ」 ピース「違うのやりますよ、違うの」 ホープ「違うのって、大丈夫か。アントニオ、猪木」 ピース「(猪木の顔真似)」 ホープ「ほら見てみろ。笑いがだんだん減ってきたじゃないか」 ピース「大丈夫ですよ、大丈夫。もっと違うのやりますよ」 ホープ「才能の限界だよ」 ピース「違うのやりますよ」 ホープ「お前、ワンパターンすぎるんだよ」 ピース「大丈夫ですよ」 ホープ「森進一の、唇、だけ」 ピース「(森進一の顔真似)」 ホープ「笑いが減ってる!」 ピース「まだあるんですよ、まだ」 ホープ「もう駄目だよ」 ピース「まだあるんですよ」 ホープ「来年、もたないよ」 ピース「まだあるでしょ」 ホープ「何が?」 ピース「もっとすごいのが」 ホープ「あれか」 ピース「あれですよ」 ホープ「あれはまだ実験段階だ」 ピース「やりましょうよ」 ホープ「俺は不安なんだよ」 ピース「大丈夫ですよ」 ホープ「大丈夫かな」 ピース「大丈夫!」 ホープ「(右手を挙げながらポーズを決めて)月夜」 ピース「(犬の真似をしながら)アウ、ウオウ、ウオウ」 会場、失笑。 | |
ピースが女装(歌手かダンサー?)、ホープがマネージャー?のコント。 | |
(5週目合格 No.33 1980年11月22日放送) 医者コント(ホープ:医者 ピース:学生の患者) ゴムを弾かれてから ピース「先生」 ホープ「何だね?」 ピース「僕、お腹の調子が悪くてココの医者に来たんですよねぇ。何だか痛む個所がだんだん増えてるんですけど……」 ホープ「気のせいだろ!!」 ピース「しかも口にゴムをくわえただけで、コレなんの効果があるんですか?」 ホープ「大丈夫だ、私に任せなさい。当医院は見てのとおり、最新のハイテク技術を駆使してるんだよ」 ピース「全部手動じゃないですか!!(怒)」 ホープ「さあ、薬を投与するから、口に(ゴムを)くわえたまえ。(歩きながらピースから離れる)エー、当医院の「ハイテク技術」とはだな……」 ピース「(ゴムを放されないように必死に食らいつく)ウグウグ」 ホープ「付いて来るな!!」 | |
(6週目合格 No.34 1980年11月29日放送) マジック〝人体切断(BOXを使う方)〟のネタが面白かったです。いつもいじめられているピースが逆襲していました。ホープの体がなかなか切れないので、首を無理矢理引っ張って刃を入れるシーンが笑えました。 最後は見事にBOXを使って人体切断に成功。そこで「今日はこれまで」と言って、ピースは下半身が入ったBOXを転がして下手に下がる。舞台に残されたのは、上半身をBOXに入れたままのホープ。身動きできず「おい、戻せ」 司会の二人がやってきて、身動きできないホープにゴムを咥えさせる。中尾ミエが引っ張り、ゴムパッチン。 ピースがホープの胴体を切断するマジックを終えてそのままの状態で審査員の批評を聞いていた。ホープは無理な体勢で箱の中に入っているので早く審査を終えてほしいのだが、ピースは「ほかにご質問は?ほかにご質問は?」とワザと時間をかけて笑いをとっていた。中尾ミエさんか京唄子さんに「あなたいつもイジメられているからねぇ」と言われさらに笑いをとっていた。 | |
(爆笑オンステージ No.183 1983年10月22日放送) ホープ:年上だけど平社員 ピース:会社の課長 ピースが仕事中寝ているものがいると説教をしているところに、ホープが12時過ぎに遅刻して登場。大切な書類をなくすわ、忘年会と新年会の芸だけ頑張る、銀座で自分を接待するなど、やりたい放題。呆れかえったピースがとうとう怒りだして、クビを宣告。するとホープが切れて、相手を叩き出し、罵る。もう定年になったから、青二才のお前なんかこわくない、などといっていたが、時計は遅れていて、まだ5分残っていた。そのことを知らされて、ホープは会社のために一生懸命やっていくと言い出し、ピースが駄目だこりゃ。 珍しく、ゴムネタ無し。途中でセリフを間違えたのかつじつまが合わなかったり、ギャグが受けなかったりと今一つ。 | |
当時スタ誕でやっていたかどうかは定かではありませんが、ゆーとぴあの代表的なコントです。 ホープ:精神科医 ピース:患者 精神科医のホープが根暗で陰険なピースを明るく開放的な性格に直そうとするコント ホープ「じゃあこうしよう。人生には辛い事もあるし悲しい事だってあるだろうが、そればかりではない、楽しい事だってあるだろう」 ピース「は、ハイ、楽しい事ですか?」 ホープ「今から私が楽しい事を思い出させるような言葉を言ってあげるから、その言葉から思いつく言葉を返してくれたまえ」 ピース「は、ハイ」 ホープ「じゃあまずは「山登り」→「自然がいっぱい」→「空気が美味しい」」 ピース「「はぐれて道に迷う」→「夜道で行方不明」→「崖から転落」→「墓~参~り~」(悲しそうに拝む)」 ホープ「あ~駄目だ。じゃあこれならどうだ。「海水浴」→「照りつける太陽」→「泳ぐと気持ちいい」→「水着ギャルがいっぱい」」 ピース「「泳ぎ疲れて足をつる」→「誰も助けず溺れて沈む」→「どざえもん」→「墓~参~り~」(悲しそうに拝む)」 ホープ「野外が駄目ならインドアはどうだ。「ディスコ」→「爽快なダンス」→「ギャルがいっぱい」→「ナンパに成功」」 ピース「「ナンパした女がヤクザの娘」→「襟首つかまれ追い出され」→「路地裏に連れられ袋叩き」→「殴る蹴るの暴行」→「埠頭に死体が浮かぶ」→「墓~参~り~」(悲しそうに拝む)」 ホープ「お前はなんでそんなに陰険なんだ。」 最後に「ゴム芸」によって治療されるという運びに…… | |
顔面ゴム受けがあまりにもインパクトが強く有名なので、他のネタはあまり覚えていません。当時は社会派コントということでしたが。他に芸があっても、結局ゴムネタばかり要求されているうちに、本来の方向性を見失ってしまった気がします。 | |
1982年 第10回日本放送演芸大賞ホープ賞受賞(最優秀ホープ賞は九十九一) | |
「ゆーとぴあのダンス天国」(1981.6) | |
漫才ブームの一員として頑張っていました。ブームが去った後も、テレビや営業を中心に活躍していましたが、漫才をやっている途中、全然受けなかった(『笑点』だったと思います)ことにショックを受け、1989年に解散。解散理由は別に、ピースの副業が忙しくなった(歌舞伎町のクラブ)ため、というのもあります。互いにソロで仕事をしていましたが、1996年に再結成。 | |
こないだ(2006年)テリー伊藤さんのラジオに2人が出てましたが、どうもテリーさんが2人に「何かネタ無い?じゃあ面白そうだから解散しちゃうか」と持ちかけて、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で解散と至ったらしいです。 | |
2007年10月に結成30周年公演を行ったが、その後は自然解散状態に。 | |
ピースは芸名を立花伸と変え、俳優として活動。2008年には劇団ワイルド・ピース・カンパニーを旗揚げ。9月23日、旗揚げ公演で「情けは人の為にあらず?」で座長を務めた。脚本、演出はジョージマン北。劇団ワイルド・ピース・カンパニーはすでに解散しているらしく、ピースの現在の活動状況は不明。 | |
2008年10月20日、ホープの(当時の)所属事務所「アポロ5」が、ホープ主演舞台「老コメディアン物語」(演出ラサール石井)の公演を発表するとともに、ゆーとぴあ解散を配信した。なおピースは、この件について何も知らされていなかった。 23日、ホープは開演前の会見で「2年前に大腸がんになり、体力も落ちて解散を考え始めた」と説明。ピースが「凍結と思っていた」と話していることには「相棒には解散と言ったつもりだった。仲のいいコンビなんていないし、けんかもよくした。彼も自由な道を歩んだ方がいい」と述べた。今後は舞台でも競演したブッチー武者とユニットを結成する予定。 | |
ホープは2009年3月、ブッチー武者、俳優酒井晴人(激弾BKYU座長)と3人で「ホープ軍団」を結成。2009年11月26日、ビートたけし命名「コント八ツ場ダム」と改名。その後の活動はなく、自然消滅と思われる。 2011年ごろ、株式会社春田屋所属。 2014年ごろ、株式会社BBE (Big Booking Entertainment)所属。同年6月27日、「奇跡の生還ライブ」で中村ゆうじと「ホープ&ゆうじ」を結成。 | |
ホープに続いて、ピースも2015年冬、大腸がんの手術を行った。 2017年、ホープとピースでゆーとぴあ再結成。8月17日、9月11日に「四谷Honey Burst」(東京・新宿区)で「ゆ~とぴあライブ」を開催。 しかし、2020年ごろからゆーとぴあとしての活動は見当たらない。 | |
2020年、島田洋八、ゆーとぴあピース、元敏いとうとハッピー&ブルーのボーカルだった古閑正美の三人で「八ピー&ブルー」(はちぴーあんどぶるー)を結成。2020年6月3日、『夢見る街角』でデビュー。その後グループ名を「ドリームライズ」に変え、2023年2月15日、よしかわちなつを加えた「ドリームライズ with ちなつ」で新曲『アイアイアイ』を発売。オフィスコットン所属。 |
横山たかし・ひろし | |
1981年4月18日(第1期グランプリシリーズ) | |
5週勝ち抜き。銀賞受賞。 第2回ゴールデンルーキー賞〈決戦シリーズ〉進出。 | |
漫才。 | |
横山たかし:本名山高孝。1948年10月6日生。愛媛県出身。 横山ひろし:本名小林秀光。1947年1月19日生。愛媛県出身。 横山やすしの弟子。1968年3月コンビ結成。1969年8月デビュー。 | |
横山たかしがハンカチをもって泣きながら、「すまんのぅ~」というのがある。 | |
たかしが金持ちのぼんぼんでという設定から始まる漫才。最後にホラだとばれる。 | |
(2週目ぐらい? 2週目とするとNo.54 1981年4月18日放送) たかし「(都はるみと付き合っていた、という話から)ほんで別れるときになって、手切れ金やろか、といったらいらない言われて」 ひろし「あの人、金持っているもんな」 たかし「それでな、いっぱい持ってるホテルの一つをやった」 ひろし「どんなホテルや」 たかし「みやこホテル」 ひろし「あほか」 たかし「それでな、今の女知っているか」 ひろし「誰や」 たかし「中尾ミエ」 ひろし「どついたろか。怒られるぞ」 たかし「どうや」 ひろし「そうか。四国で親は泣いとるぞ。今の時間にやってみい。お昼頃や。世間は花火、花火で浮かれているのや。(このあたりでたかし、赤いハンカチを噛みしめ泣きだす)お母さん孝行、したっとれや。お父さん、炭俵担いで走っとるのやろ。炭は儲からんいうて、川に入って一生懸命ドジョウ掬っているのや。そうやろ」 たかし「舞台の上で、親の子というて泣かすな」 ひろし「どうにかしたろ、思わないか。金持ちのボンボンやろ」 たかし「金があったら、ホラ吹くか」 ひろし「なに?」 たかし「金があるかないか、顔見たらわかるやろう」 ひろし「何でや。今言っとったろう。八代亜紀ちゃん、知っているって」 たかし「こっちは知っているけど、向こうは知らん」 ひろし「誰でもや。誰でも知っているがな。言っていただろう。松田聖子、どつきまわしたって」 たかし「映画の看板、どついたんや」 ひろし「金はあるやろ、言っていただろう」 たかし「金はあるがな」 ひろし「どこにや」 たかし「銀行に」 ひろし「なら、取ってこいよ」 たかし「人の金じゃろが」 ひろし「自分の金は?」 たかし「私の金が、なんちゅう銀行にあるのや」 ひろし「俺に聞いたって知るか。通帳とハンコ持っていけばいいやないか」 たかし「ハンコはあるが、通帳がおまへん」 | |
(5週目合格 No.57 1981年5月9日放送) 銀賞の時に披露した海の水ネタ。 | |
(6週目不合格 No.58 1981年5月16日放送) 不景気だな、ぶりがスーパーで二切れ800円もするとひろしがぼやくと、漁師がどれだけ苦労しているかとたかしが諭す。新聞が高いとぼやくと、記者がどれだけ苦労して記事を取ってくるか、新聞配達が朝早くから苦労して配っているのかと諭す。するとひろしは、そこまで言うなら新幹線で新聞拾うな、週刊誌拾うな、と突っ込む。 世の中不景気だからたかしが漫才師を辞めて、国会議員になる、という話。国会議員の演説をしてみろというと、たかしはあいさつの後、お集まりいただきましてありがとうございました、と中身もなく終わってしまう。公約ぐらいしゃべれと突っ込むと、「膏薬はピップエレキバンがいい」とたかしはボケる。公約、夢を語れ、とひろしが突っ込むと、「夢は寝てみてください」とたかしはぼける。国会議員になってどんなことをしたいんだ、と聞くと、ノーパン喫茶に行きたいと笑う。 国会議員になって国民のためにどんなことをするんだ、とひろしが聞くと、国民みんなにお金を分け与える、そのために九州を売る。多少の犠牲は仕方がない、と訴える。なら四国を売ればいいじゃないか、というと四国にはうちのおとんとおかんがいる、と却下。国会議員なら人様の幸せを考えろと怒ると、たかしは赤いハンカチをかみながら、人様の幸せより、わしの幸せが先じゃ、と泣き崩れる。挙句の果てに、秘書のお前が代わりにしゃべれと言う。ひろしがいいことを言っても、たかしが混ぜかえす。最後、たかしが皆様一人一人に握手をしに行きます、きつく手を握りますので、手の中に千円札を入れておいてください、とぼけて終わる。 芸としてはうまいが、将来性という点でどうかと言われる。おじんくさいという点が減ったことは褒められたが、笑いも今一つで不合格。 | |
関西漫才でした。ある意味、完成しきっているというか。 | |
1973年 第3回NHK上方漫才コンテスト優秀努力賞受賞 1974年 第3回上方お笑い大賞銀賞受賞 1993年 第28回上方漫才大賞奨励賞受賞 1993年 第22回上方お笑い大賞金賞受賞 1994年 第29回上方漫才大賞受賞 | |
横山ひろし『まいど横山!ひろしです!!』(リトルガリヴァ,1999) | |
横山ひろしは1982年に春けいこと結婚。同時期、横山たかしと春やすこと付き合っていたことから、漫才二コンビが同時期に付き合っているという芸能ネタになっていた。横山たかしと春やすこも結納まで交わすも、やすこが一方的に婚約破棄会見を開きまして別れた。横山ひろしと春けいこは2014年に一度、単発の企画で夫婦漫才を披露している。 | |
関西で頑張っていました。たかしの金持ちのぼんぼんという設定は相変わらずで、笑えます。 所属する松竹芸能のオフィシャルサイト、松竹芸能 オフィシャルサイト内のタレントプロフィールに経歴等が載っています。 松竹芸能師匠たちのオフィシャルブログ「アラ還ブログ」があります。酒井くにお・とおる、横山たかし・ひろし、海原はるか・かなたによる癒し系ブログです。海原はるか師匠の書き込みが圧倒的です。 | |
横山たかしは2019年6月1日午前3時51分、多臓器不全のため、大阪市内の病院で亡くなった。70歳没。4月の検査入院後、体調が悪化していた。最後の舞台は、2018年12月24日、大阪・阿倍野の近鉄百貨店内の「SPACE9」での寄席「松竹名人会」となった。 2014年3月に、たかしはヘルニアをともなう腰部脊柱管狭窄症を発症し、4月と6月に手術を受け、8月に仕事復帰。しかしリハビリを経ても下半身の自由がきかず、後輩芸人からのアドバイスを受け、金ピカ衣装にちなみ、金色で統一した車いすにのり、漫才を再開していた。2016年8月には3度目の手術。2018年1月には腸腰筋膿瘍の手術を受け、5月に車いす姿で舞台復帰した。 相方のひろしは「今まで楽しい人生やったと思う。自分たちにしか出来ない漫才が出来て、本当に幸せだった。いい夢を見させてくれた。55年間、大きなけんかはしたことがなかった。仕事場に2人で一緒に行くことも多く、同郷ということもあり、お互いに思い合えた関係だった。松竹芸能で最長のコンビ歴漫才師として頑張っていこうな、と言ってたところなのに、最後の最後に大ぼらふかれました。日本一の漫才師であり、最高の相方でした」とのコメントを残した。 | |
2019年10月16日、大阪市内で会見し、夫婦漫才コンビ「横山ひろし・春けいこ」結成を発表した。12月1日に大阪・松竹座公演「令和元年 大阪松竹座 お笑い披露公演」で初舞台を踏んだ。 |