ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1951~1955年】(昭和26~30年)



【1951年】(昭和26年)

日 付事 件
1/17 概 要 <洋服商夫婦強殺事件>
 1951年1月17日、詐欺容疑で指名手配中の孫斗八(25)は、以前にオーバーを買ったことがある神戸市の呉服商を訪れ、酒をふるまってもらって別れた。その後、再び呉服商を訪れて酒を飲もうとしたが断られたため、家に上がり込み、目に付いた金槌で夫婦(49、40)を殺害し、現金・服などを奪って逃走した。10日後に逮捕された。
 1951年12月19日、神戸地裁で求刑通り死刑判決。1955年2月19日、大阪高裁で被告側控訴棄却、1955年12月16日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。
 1954年に、「新聞社への投稿を禁じられた」と拘置所長を職権乱用罪で告訴した後、ありとあらゆる罪名で拘置職員を告訴。「基本的人権」に反すると、監獄規則をことごとく訴えた。さらに死刑訴訟に関することで10数件の裁判を起こし、「獄中訴訟魔」「日本のチェスマン」と呼ばれた。1963年7月17日、裁判のほとんどは審理中のまま死刑執行、37歳没。執行の際には相当暴れたらしく、口の中や腕は傷だらけ。両腕には看守の指の跡が痣となって残っていた。「だまし討ちにするのか!」が最後の言葉だったと言われている。
文 献 「獄中訴訟」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「獄中闘争の斗「日本のチェスマン」」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

丸山友岐子『さかうらみの人生』(社会公論社,1968/三一書房,1970/社会評論社,1981)(丸山友岐子『超闘死刑囚伝―孫斗八の生涯』(現代教養文庫,1993)と改題)
備 考  キャロル・チェスマンは、死刑判決後10年以上も獄中闘争を続け、数回、死刑執行命令を撤回させた人物。後に執行されている。
1/24 概 要 <八海事件>
 1951年1月25日早朝、山口県熊毛郡麻郷村八海(やかい)で老夫婦の惨殺死体を発見された。指紋からY(22)が指名手配され、翌々日逮捕。24日夜に忍び込み、盗みを働こうとしたところで夫(64)が目を覚まし、とっさに台所にあった斧を素早く取ってきて一撃。夢中で斧をふるいめった斬りにした。そして恐怖で腰が抜けていた細君(64)の口を押さえて窒息死させた。室内を物色して現金一万数千円を盗んだ後、鴨居から首を吊ったように見せかける偽装工作を行っていた。
 証拠もそろい、一件落着するはずだったが、警察は現場の状況から複数犯だと先入観を持ち、さらにYを追求。最初は驚いたが、別に首謀者がいれば罪は軽くなると判断したYは、遊び仲間の阿藤周平さんほか3人の名前を「自供」。4人は逮捕され、拷問を受けて無理矢理「自供」させられた。証拠は何もなかった。阿藤さんが主犯、Yを含む4人が共犯と警察は発表した。
 1952年6月2日、一審山口地裁は阿藤さんに死刑、Yを含む4人に無期懲役(求刑死刑)の判決を言い渡した。全員が控訴するも、1953年9月18日の広島高裁で阿藤さんとYの控訴を棄却、他3人に有期懲役を言い渡した。Yは二審の無期懲役判決に従った。阿藤さんは冤罪事件で有名な弁護士、正木ひろしに手紙を書き救いを求める。正木は綿密な調査により無罪を確信、『裁判官』を出版してベストセラーになり、この事件は全国に知られるようになった。
 その後、1957年10月15日、最高裁で差し戻し判決。1959年9月23日、広島高裁で無罪判決。1962年5月19日、最高裁で差し戻し判決。1965年8月30日、広島高裁で有罪判決。1968年10月25日、最高裁で無罪判決が言い渡され、確定した。すでにYは出所していた。映画『真昼の暗黒』はこの事件をモデルにしたものであり、一、二審で死刑判決を受けた阿藤さんが「まだ最高裁がある」と絶叫する姿が観客を感動させた。
 阿藤さんは2011年4月28日、肝臓がんで死亡。84歳没。本事件の冤罪被害者は全て亡くなった。
文 献 阿藤周平『八海事件獄中日記』(朝日新聞社,1968)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤った裁判』(岩波書店,1960)

五島義重『真相八海事件』(五島書房,1963)

中山雅城『検証冤罪―帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)

難波英夫『死をみつめて』(理論社,1968)

原田香留夫『真実』(大同書院,1956)

原田香留夫・佐々木静子『真昼の暗黒 八海事件15年と今後』(大同書院,1967)

藤崎晙『八海事件 裁判官の弁明』(一粒社,1956)

藤崎晙『証拠 続・八海事件』(一粒社,1957)

正木ひろし『裁判官』(光文社カッパブックス,1955)

正木ひろし『検察官』(光文社カッパブックス,1956)

正木ひろし『裁判官・検察官』(上2冊の合本)(現代史出版会,1977)

正木ひろし『八海裁判』(中公新書,1969)

正木ひろし『正木ひろし著作集2 八海裁判』(『裁判官』『検察官』『八海裁判』収録)(三省堂,1983)

「八海事件十八年」刊行会『八海事件十八年』(労働旬報社,1969)

「八海事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「八海事件――映画「真昼の暗黒」のモデル」「差戻し後の八海事件――調書裁判の「暗闇」の中で」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  先入観捜査による警察の捏造という、典型的な冤罪事件。
2/22 概 要 <築地八宝亭一家惨殺事件>
 1951年2月22日、東京築地の中華料理店「八宝亭」で主人(48)、妻(43)、長男(11)、長女(10)の家族4人が長柄の薪割りで滅多打ちにされて殺された。同日朝、住み込みのコック見習いY(25)が築地署に飛び込んで通報。Yの証言により、前日より店に住み込みで働くことになった「O」なる女性が重要容疑者として浮かび上がる。しかもOが銀行からお金を引き出そうとして失敗していたことも判明。Yの協力によるモンタージュ写真から「O」はNさん(23)であることが判明、3月10日に捕まる。ところがNさんはYに頼まれてお金を下ろしに行っただけだった。そして犯人はYであることが判明。同日に逮捕。ところが、Yは留置所で隠し持っていた青酸カリを飲んで自殺。動機は謎のままである。Nさんは懲役1年、執行猶予3年の判決となった。
文 献 「なぜ、お前は生き残ったのか?」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

「不可思議な生き証人」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)


「築地八宝亭一家惨殺事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
7/6 概 要 <アナタハン島の女王>
 1944年、31名の日本軍人を載せたカツオ漁船がトラック諸島へ向け、南洋を航海していた。この漁船は米軍の空襲を受け、彼らは辛うじてマリアナ諸島の小島「アナタハン島」に辿り着く。そこでは日本企業がヤシ林を経営しており、3人の日本人が暮らしていた。責任者の仲里(仮名)と、農園技師・HS(29)・K(28)夫妻。ただしKは仲里とも夫婦同然の生活を送っており、正一は後日サリガン島に出かけたまま帰ってこなかった。
 翌年、敗戦を迎えた。日本の領土でなくなった島からは原住民が逃げ出し、32名の男とKだけが取り残された。終戦を知らせる米軍の呼びかけにも誰も信じず、そのうち、米軍も来なくなった。島にはパパイヤなどの果物が自生していたため、20代を中心とした男たちは生活を始めることとなった。仲里とKは最年長の田中に、夫婦を装ってくれと頼まれ、離れたところに住んでいた。
 1946年、島に落ちていた壊れた拳銃を組み立て直し、使えるようにした2人の男が最初の殺人事件を起こした。Kは自動的にこの2人の妻となった。だが翌年までに、この2人は夜、海に転落するなどして死んだ。次に仲里も『食中毒』で死に、食事を作った男が拳銃を持っていた。以後も「行方不明」になる男たちが後を絶たなかった。最初の殺人から5年、どうすれば殺し合いを留められるか考えた19人の男たちが出した結論は、Kを処刑することで意見が一致した。しかしその夜、Kの小屋に「逃げろ、殺される」と書かれた木の葉が投げ込まれた。和子はジャングルに身を隠し、息をひそめて助けを待った。
 33日後、小笠原の漁船が近づいた。男たちは隠れたが、和子はジャングルから飛び出し、大声で助けを求めた。1951年7月6日、南洋の孤島「アナタハン島」から、20名の日本人が帰国した。
 帰国後、リーダーだった田中とKが中心となり、島での生活を語った。7年間の間に13人の男が死んでいた。
 生き残った男たちの中には、Kが一部の殺人を唆し、あるいはほう助したと告発するものもいたが、極限状態で生き延びるために必要な防衛だったとかえって同情された。
 Kは上京し、ストリップ劇場の踊り子や料亭の仲居になった。その後、故郷の沖縄で結婚し、1972年に52歳で死亡した。夫であったSは終戦の混乱の中、Kより先に帰国し、別の女性と再婚していた。
文 献 桐野夏生『東京島』(新潮文庫)

別冊宝島編集部編『戦後未解決事件史』(宝島社文庫)
備 考  
10/10 概 要 <おせんころがし事件>
 闇米のブローカーだった静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の栗田源蔵(21)は地元のH子(20)と夫婦になる約束をしていたが、H子の友人であるY子(17)とも付き合っていた。1948年2月8日、H子に結婚を迫られた栗田は海岸に誘い出して松林の中で性行後、首を両手で絞めて絞殺(ただし、この件では起訴されていない)。数日後、Y子を同じ海岸に誘い出して性行したが、H子との関係を執拗に問いただされたため殺害したことを思わず告白してしまう。警察に行くというY子を栗田は絞殺した。
 栗田は原町を離れ、関東各地の飯場で土工の仕事をしていたが、傷害事件と窃盗事件で二度刑務所に入れられた。
 出所後の1951年8月8日、栃木県下都賀郡小山町で天理教布教師宅に押し入り、妻のH子さん(当時24)を強姦のうえ殺害、自転車、衣類などを強奪した。
 栗田は1951年10月10日午後11時ごろ、千葉県小湊町で、3人の幼児と共に駅前のベンチでいた休んでいた女性(29)に強姦目的で近づいた。おせんころがしと呼ばれる断崖に差し掛かると、まず5歳の男児と7歳の女児を崖下に投げ捨て、女性を強姦。その後2歳の幼女とともに首を絞めながら投げ落とした。崖の中腹に引っかかっていたことに気付いた栗田はさらに崖から降りて、女性、男児、女児を石で殴って殺害した。このとき、7歳の女児は崖の途中に引っかかって茂みに隠れたため、奇跡的に命を取り留めた。
 1952年1月13日、栗田は千葉県で泥棒に入った家の主婦(24)を絞殺、死姦。いっしょにいた叔母(63)も出刃包丁で刺し殺し、死姦した。このとき指紋を残したため、1月17日に栗田は逮捕された。
 1952年8月13日、栗田は千葉地裁で求刑通り死刑判決。栗田は控訴した。
 千葉市警は栗田の起訴後も余罪を追及していた(おせんころがし事件についても追及されたが、栗田は当初否認した)。栃木県警と合同で取り調べた結果、栗田は残り3件について自供した。なお、1951年10月24日、青森県南津軽郡内の山林で女性(24)を強姦して殺害した事件も自供したが、物証が得られなかったため起訴は見送られている。
 静岡の事件以外の残り3件で1953年12月21日、宇都宮地裁で求刑通り死刑判決。栗田は控訴した。
 東京拘置所に移された栗田であったが、拘禁ノイローゼにかかる。1954年10月21日、両件の控訴を自ら取り下げ、死刑が確定した。
 殺害した人数は計8人。他にも殺人未遂、窃盗事件などがあり、戦後もっとも凶悪な男と呼ばれた。1956年に死刑反対運動が盛んになった頃、矯正不可能な人種がいるということで栗田の名前が挙げられた。1958年からの死刑反対運動のさなか、だれが死刑を執行しても問題がないという観点から栗田が選ばれ、1959年10月14日執行。33歳没。この頃は、死の恐怖からか、ところ構わず無罪を訴えていたという。
文 献 「生贄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「おせんころがし――2度の死刑判決が下された“ハヤブサの源”」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  一人が二度の死刑判決を受けて確定したのは初めて。
 おせんころがしの由来。昔土地の豪族古仙家におせんという一人の娘がいた。おせんは村人たちを人とも思わぬ強欲非道な父親を改心させようと説得した。しかし、父親の心を改心させることは無理なことを悟り、この断崖から身を投げて、死をもって諫めた。
12/27 概 要 <印藤巡査殺害事件(練馬事件)>
 1951年12月26日22時過ぎ、警視庁練馬署旭町駐在所に「行き倒れがあるから来てもらいたい」と一人の男が飛び込んできた。印藤巡査(32)は届出人とともに現場に向かったが、三時間が経っても連絡がないため、隣接の田柄駐在所に電話連絡をした。その後、27日7時頃、後頭部を殴られ死体となった印藤巡査が発見された。所持していた拳銃が奪われていた。犯行現場近くではO株式会社東京工場があり、共産党系の第一組合と穏健派第二組合の抗争が起きていた。2月13日、別件で東京工場の5名が逮捕。それから芋蔓式に、6月までに9名が逮捕された。一労組を越える組織の指揮計画のもとに行われたものだった。
 被告側は無罪を主張したが、1953年4月14日、東京地裁は傷害致死の罪で主犯に懲役5年、他の9被告にも1名を除いて有罪を言い渡した。1953年12月26日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。1958年5月28日、被告側上告棄却、確定。
文 献 「印藤巡査殺害事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「練馬事件――裁判を受ける権利の否定」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  推測だが、印藤巡査は駐在所巡査の任務を越えた公安的な任務を担当していたと思われる(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)より)。
 共謀共同正犯の代表的判例として位置づけられている。

【1952年】(昭和27年)

日 付事 件
1/21 概 要 <白鳥警部射殺事件>
 1952年1月21日夜、札幌市内路上で、札幌市警察本部警備課長の白鳥一雄警部(36)が何者かによって射殺された。23日、同市内で日本共産党員札幌委員会名による天誅ビラが撒かれた。白鳥は市警警備課課長として日本共産党対策を担当していたこともあり、警察は日本共産党を集中的に捜査、20名近くの党員が芋蔓式に別件で検挙された。共産党は「51年綱領」と呼ばれる農村部でのゲリラ戦を規定した中国革命方式の軍事方針を採択し、武装闘争路線を繰り広げていた。1951年12月26日発生した共産党員による印藤巡査殺害事件など、交番や裁判所の襲撃や火炎瓶投下などが相次いだ。
 事件発生5ヶ月後、札幌信用金庫元従業員Hが、首謀者は同信用金庫理事長S、実行者は拳銃殺人前科があるTと公表。しかしSは、別件逮捕後保釈中の1952年12月23日に自殺した。
 1952年10月1日、警察は日共札幌委員会委員長M(29)を別件で逮捕。1953年6月9日、共産党札幌地区委員会の地下組織「中核自衛隊」隊員の北海道大生Tを逮捕。Tは幌見峠で他のメンバーらとともに試射を行ったことを供述。1953年8月19日及び1954年4月30日、幌見峠で弾丸が発見された。
 1954年3月28日、「中核自衛隊」隊員でポンプ工のSが殺害実行犯として、同隊副隊長で元北大生のTが白鳥警部行動調査担当として、同隊長のSが短銃を渡して犯行を指示したとして、いずれも殺人容疑で指名手配された。1955-56年頃、3人を含む計10人が漁船で密出国し、中国へ亡命した。
 1954年9月20日、「中核自衛隊」隊員の北海道大生Mを逮捕。1955年8月16日、元委員長Mを殺人罪で、元隊員Tと元隊員Mを殺人ほう助で起訴した。
 法廷では謀議の不存在、伝聞証拠の違法性などが争われた。また唯一の物的証拠である遺体から摘出された弾丸と、幌美峠の土中から発見された2個の弾丸が同一の拳銃から発射されたかどうかが争われた。
 一審では、3個の弾丸の線条痕が一致したという鑑定が採用されて、有罪の判決が出された。ところが一審では、当時東北大助教授で金属学が専門である長崎誠三が、長期間土中にあったにしては弾丸の腐食具合は進行していない、という鑑定を出していた。結局二審以降も鑑定結果は採用されているが、上告棄却後、一審の鑑定を行った教授は米軍が鑑定を行ったことを告白している。
 札幌地裁は1957年5月7日、元委員長Mに無期懲役判決(求刑死刑)を、元隊員Mに懲役3年執行猶予5年を言い渡した。5月8日、共謀を自供した元隊員Tに懲役3年執行猶予3年を言い渡した(一審で確定)。1960年5月31日、札幌高裁でMは懲役20年に減軽された(共犯Mは控訴棄却)、1963年10月17日に最高裁で上告が棄却され確定した。
 Mは無実を訴え、1965年10月21日に札幌高裁へ再審請求。1969年6月18日、札幌高裁は請求を棄却。1971年7月17日、札幌高裁は異議申立を棄却。1975年5月21日、最高裁で特別抗告を棄却した。しかしこのとき、最高裁が示した、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審制度にも適用されるべきであり、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるとした「白鳥決定」により、免田事件等の再審につながっていった。
 Mは1969年11月14日に仮出所。1977年6月に刑期満了となった。1994年11月3日、埼玉県大宮市内の自宅火災により死亡した。71歳没。
 1973年12月23日、中国に亡命した10人のうちの3人が帰国した。いずれも起訴猶予となる。その後、1978年までに指名手配された3人を除く4人が相次いで帰国した。
 1988年1月14日、殺害実行犯Sが肺ガンで死亡、64歳没。同年2月27日、実行指示者Sが肝臓ガンで死亡、59歳没。いずれも北京西郊外の八宝山革命公墓で「革命烈士」として手厚く執り行われたとされる。
 1997年6月3日、時事通信社北京支局は元北大生Tが北京市内で生活していることを確認し、インタビューをした。Tは事件の関与の有無について明らかにすることを拒んだ。警察庁は中国の警察当局に対して国際刑事警察機構(ICPO)ルートで事実確認を国際手配した。しかし中国公安当局は明確な回答をしなかった。
 1998年10月29日、事件当時、共産党道地方委員会で軍事部門を担当するとともに事件後に中国へ渡った男性Kが北海道新聞のインタビューに応じ、共謀を自供したTの証言はほぼ正しいと話した。また回顧録『流されて蜀の国へ』を自費出版した。
 2002年3月、警察庁は中国へ亡命したT、S、Sの3人について国際刑事警察機構(ICPO)を通じて中国公安当局に生存確認を要請した。
 2012年3月14日、元北大生Tが北京市内で病死した。82歳没。
 実行指示者Sは中国への逃亡が確認できなかったことから、1975年4月に殺人容疑の時効が成立している。しかし元北大生Tと実行犯Sについては中国への逃亡が確認されたことから公訴時効は停止している。死亡したことが中国公安当局から確認が取れないため、2012年現在も逮捕状の更新手続が続いており、有効なもので日本最古の逮捕状とされている。
文 献 大石進『私記白鳥事件』(日本評論社,2014)

後藤篤志『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』(筑摩書房,2013)

高木彬光『追跡』(光文社カッパノベルス,1962/角川文庫他)

谷村正太郎『再審と鑑定』(日本評論社,2005)

長岡千代『国治よ母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて』(光陽出版社,1997)

長崎誠三『作られた証拠―白鳥事件と弾丸鑑定』(アグネ技術センター,2003)

松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)

宮川弘『スパイSM37指令 白鳥事件の謎』(東洋書房,1967)

宮川弘『白鳥事件の謎』(上と同じ内容か?)(東洋書房,1968)

村上国治『怒りの十年 村上国治獄中文集』(新日本出版社,1962)

村上国治『壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡書』(日本青年出版社,1969)

村上国治『網走獄中記 上・下』(日本青年出版社,1970)

山田清三郎『怒りの十年』(新日本出版社,1962)

山田清三郎『ばあちゃん』(新日本出版社,1963)

山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店,1977)

山田清三郎『小説 白鳥事件』第一部~第四部(東邦出版社,1969~1970)

山田清三郎『白鳥事件』(新風舎文庫,2005)

渡部富哉『白鳥事件 偽りの冤罪』(同時代社,2012)

「白鳥警部射殺事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「白鳥事件」(松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)所収)
備 考  1975年5月21日、最高裁はMの再審請求棄却に対する特別抗告を棄却した。しかしこのとき、最高裁が示した、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審制度にも適用されるべきであり、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるとした「白鳥決定」により、免田事件等の再審につながっていった。
2/19 概 要 <青梅事件>
 1952年2月19日早朝、国鉄青梅線小作駅から貨車4両が暴走した。それ以前の1951年9月から他に4つの列車妨害事件が起きていた。警察は白鳥事件、三鷹事件、松川事件と同様に日本共産党の計画的犯行と断定。約1年後に労組関係者など10名を起訴した。
 1958年11月の一審、1961年5月の二審とも有罪判決。しかし上告中の1964年11月、自然流出事故であったことを明記した国鉄の『責任運転事故原簿』が東京鉄道管理局に秘蔵してあるのが発見された。1966年3月、最高裁は原判決を破棄し、東京高裁へ差し戻した。1968年3月30日、無罪判決が言い渡され、確定した。被告のうち2名は拷問と脅迫がもとで、再起不能の病身を床に伏していた。
文 献 青木英五郎『裁判を見る眼』(一粒社,1971)
備 考  
2/25 概 要 <米谷事件>
 1952年2月25日、青森県高田村で女性(57)が強姦、殺害された。当時同居していた被害者の甥(16)が、現場に残された手拭いを見て、友人である米谷氏のものと証言(後日、この手拭いは被害者が内職していたものと判明)。3月2日、隣に住む米谷四郎氏(30)が逮捕される。起訴直前で自白を翻し、無実を訴えたが、12月25日、青森地裁は殺意を否認し、強姦致死罪を適用して懲役10年の判決。翌年の8月22日、仙台高裁で控訴棄却。米谷氏は「金のない者は無実でも泣き寝入りして服役せざるを得ない」と上告を断念して刑が確定。1958年4月に仮出所した。
 1966年4月、東京で窃盗などで裁判中の被害者の甥(33 事件当時18)が女性殺害を告白。自白と現場の状況は一致していたため、東京地検は1967年2月に起訴。1968年7月2日、東京地裁(戸田弘裁判長)は自供が虚偽であるとして無罪判決を言い渡す。検察側控訴中の1970年5月5日、甥は自殺した。
 米谷氏は1967年、日弁連へ救済を訴え、同年8月25日、青森地裁へ再審請求した。1973年3月、地裁は棄却したが、即時抗告した後の1976年10月31日、仙台高裁は再審開始を決定。1978年7月31日、青森地裁は無罪の判決を下し、そのまま確定した。遺留精液から判明した血液型が米谷氏の血液型と異なる事実、目撃証言は事実上不可能、自白内容に矛盾点が多すぎるなど、粗雑な捜査と強引な確定判決であった。米谷氏は刑事補償として893万円をもらったが、謝罪の言葉は一切なかった。
 米谷氏は国家賠償請求を起こしたが、一・二審で棄却され、上告を断念している。
 米谷氏は2006年6月29日に死亡。84歳没。
文 献 渡部保夫『無罪の発見』(勁草書房,1992)
備 考  
5/10 概 要 <荒川放水路バラバラ殺人事件>
 1952年5月10日、東京・荒川放水路の岸辺に何かが浮かんでいるのを通行人が発見。中を開けてみると胴体だけの男性の死体だった。15日、頭部が発見。被害者が板橋区の外勤係巡査(27)であることが判明。ただちに調査した結果、巡査は酒癖、女癖が悪く、小学校教師である内縁の妻(26)と借金問題などでトラブルが生じていたことがわかる。二人は1951年4月に「結婚」したものの、未入籍だった。16日、逮捕状がないまま妻を緊急逮捕、翌日犯行を自供。「殺すのは惜しい。売れば金になる」という寝言に戦慄した妻が8日午前1時ごろ、仕事を休んで寝ていた巡査を殺害、そして母(52)に犯行を打ち明け、二人でバラバラにして、9日夜から10日朝にかけて捨てたのであった。母は実家で豚や鶏の解体を手伝わされたことがあった。
 1952年10月28日、東京地裁は妻に懲役12年(求刑無期懲役)、妻の母に懲役1年6月(求刑懲役3年)を言い渡した。二人とも控訴せず確定。母は翌年、拘置所内で病死。妻は1959年の「皇太子ご成婚」特赦で減刑され、7年の服役で出所した。
文 献 「夫を解体した妻の猟奇」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「警官の夫を殺した小学校教師」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)

「女教師が夫の警察官を殺害 荒川バラバラ死体事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)

「荒川バラバラ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  「もし夫が巡査でなく、私が教師でなかったらこのような事件は引き起こさず、あっさりと別れていたかも知れない」と語っている。世間体を恥じ、体面を保つことに囚われなければ、このような事件は引き起こさなかったであろう。ある意味、この妻も被害者であったのかも知れない。
6/2 概 要 <菅生村派出所爆破事件>
 1952年6月2日午前0時過ぎ、大分県直入郡菅生村で、派出所が爆破された。爆破直後、付近を歩いていた日本共産党員G氏(24)、S氏(23)が現行犯として逮捕された。ところがこの夜、派出所で就寝しているはずの巡査夫妻は事件発生を知っており、いつでも犯人を捕まえることが出来るように準備していた。また、まわりには百名近い警官が張り込み、カメラマンを含む新聞記者が現場に待機していた。
 「現行犯」の二人は、市来春秋と名乗る「知り合い」に呼び出されていただけと主張し、犯行を否認した。また共同謀議者として逮捕された3名も無罪を主張。1955年7月2日、大分地裁はG氏に懲役10年、S氏に懲役8年の判決、他3名に懲役3年、3年、1年+執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。ところが事件当初から弁護活動をしていた清源敏孝弁護士の尽力により次第にこの事件は人々の注目を集め、しかも二審の途中で市来春秋が現職の巡査部長Tであると判明。共同通信社の記者たちは、逃亡していたTを探し出し、法廷に突き出した。Tは大分県警の警備部長Kの指示により、おとり捜査官として働いていた。この事件は警察の自作自演による謀略であった。1958年6月、福岡高裁で全員に無罪判決が言い渡された。1960年12月、最高裁で上告が棄却され、確定した。
 Tはダイナマイト運搬に関する爆発物取締罰則違反で起訴されたが、一審は無罪、1959年9月の二審では有罪判決が言い渡されたが、刑は免除された。Tは3ヶ月後に警察庁へ復帰。1983年には、警察大学技術課教養部長兼教授に上り詰めている。
文 献 上田誠吉、後藤昌次郎『誤まった裁判』(岩波新書,1960)

清源敏孝『消えた警察官』(現代社,1957)

坂上遼『消えた警官 ドキュメント菅生事件』(講談社,2009)

清水一行『風の骨』(双葉社,1977/集英社文庫他)

諌山博『駐在所爆破犯人は現職警官だった』(新日本出版社,1978)

正木ひろし『エン罪の内幕』(三省堂新書,1970)

宮川弘『スパイFS6工作―菅生スパイ事件の真相』(東洋書房,1966)

宮川弘『菅生スパイ事件』(東洋書房,1968)

「菅生村派出所爆破事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「菅生事件――警察権力とは何か」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  警察とは、あくまで体制を維持するための機関であることがはっきりする事件である。
7/7 概 要 <菊地事件(藤本事件)>
 1951年8月1日午前2時ごろ、熊本県菊池郡の村役場衛生係員・Aの自宅にダイナマイトが投げ込まれ、Aと次男(4)が軽傷を負った。Aは県当局にらい病(現在のハンセン病)患者であると通報し、認定されて国立療養所「菊池恵楓園」へ収容するとの通知を受けたFの犯行であると警察に訴え、Fは逮捕された。Fは菊池恵楓園内の特別拘置所に勾留され、裁判は熊本地裁の菊池恵楓園内の出張法廷で行われた。ダイナマイトの入手経路が不明なこと、Fがダイナマイトの取扱を知らないなどの矛盾があるにも関わらず、1952年6月9日、熊本地裁で懲役10年の判決が出された。Fは控訴するも、その一週間後、拘置所から脱走した。
 1952年7月7日朝、熊本県菊池郡の路上で、A(50)の刺殺死体が発見された。
 警察はF(29)の犯行であると即断、7月13日に発見し、逃げようとしたところをピストルで射撃し、逮捕した。Fはピストルによる怪我の治療をまともに受けられず、「自白」させられた。そして1953年8月29日、熊本地裁で死刑判決。1954年12月13日、被告側控訴棄却。1957年8月23日、最高裁で死刑が確定した。もっとも裁判は「国立療養所」の中の特別法廷で開かれ、証拠物件の取扱に裁判官はゴム手袋をした上、1m以上の菜箸で扱われた。特別法廷のため、当然傍聴人もいない。不十分な審理の中での死刑確定であった。しかも凶器は自白調書の中でころころ変わるし、凶器や衣服からも血液が検出されていない。
 Fは裁判で一貫として無罪を主張。十分な証拠もなく、冤罪の可能性は高かった。当時はハンセン病患者に対する差別が激しかった。この事件を知った数多くの人たちが再審を求めて活動を行った。法務省はこの頃、特に再審活動の激しかった帝銀事件の平沢貞道死刑囚とF死刑囚のどちらを執行するか協議していたという。1962年9月14日、留置されていた熊本から福岡拘置所に移動したF死刑囚は当日、突然の死刑執行。第三次再審請求は9月13日に棄却されていた。まさにだまし討ちともいえる執行であった。40歳没。
 2011年11月13日、「菊池事件」の再審請求を目指す実行委員会が発足。2012年11月7日、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会、恵楓園入所者自治会の3団体は、検察官が再審請求するよう検事総長に求める要請書を熊本地検に提出した(男性の遺族が再審請求に慎重な姿勢を示しているため)。2016年4月、ハンセン病患者の特別法廷について最高裁は、「差別的な取り扱いが強く疑われ、違法だった」とする調査報告書を公表し、謝罪した。全療協などは6月16日、最高検に対し、検察官が再審請求するよう要請した。2017年3月31日、最高検検事が、特別法廷で裁かれた患者の死刑が執行された「菊池事件」の弁護団と熊本市内で面会し、差別的に運用された法廷に関わった責任を認め、謝罪した。しかし、菊池事件の再審請求はしないことを伝えた。
 2017年8月29日、男性の再審を求める国立ハンセン病療養所菊池恵楓園(同県合志市)の入所者ら元患者6人が、検察が再審請求をしないのは不当として、1人10万円の慰謝料を求める国家賠償請求訴訟を熊本地裁に起こした。2020年2月26日、熊本地裁はハンセン病を理由に開いた特別法廷を「公開原則に反しており憲法違反の疑いがある」として違憲と判断したが、賠償請求は棄却した。原告側は控訴を見送り、国側は控訴できないため、判断は確定した。
 2021年4月22日、男性の遺族が熊本地裁に再審請求した。
文 献 『全患連運動史―ハンセン氏病患者のたたかい』(一光社,1977)

井上光春『幻影なき虚構』(勁草書房,1966)

木々高太郎『熊笹にかくれて』(桃源社,1960)

森田竹次『偏見への挑戦』(長島評論部会,1972)

「ハンセン病を恐れて―不公正裁判―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「第八章 もう一つの免田事件―藤本事件」(前坂俊之『誤った死刑』(三一書房,1984)所収)

「差別」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「菊池事件――差別と誤判そして死刑執行」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  当時、九州にらい病療養施設「菊池恵楓園」で一千床増床されたがなかなかベッドが埋まらないことから、関係当局は躍起になって患者の掘り起こしを行っていた。県ごとに収容計画が立てられ、他にも重症患者がいるにもかかわらず有力者であったことから、Aは自覚症状のないFを選んでいたとされる。
 日本版「サッコ・バンゼッティー事件」と言われている。ただし、アメリカでの「サッコ・バンゼッティー事件」と異なり、冤罪は晴らされていない。2007年、中山節夫監督により「新・あつい壁」として映画化された。
7/29 概 要 <芦別事件>
 1952年7月29日夜、北海道の国鉄根室本線芦別平岸間における芦別駅付近で線路がダイナマイトで爆破された。近所の少年が異常な音と煙に気づき通報したため、列車事故は回避された。発見された遺留品の発破器やダイナマイトから芦別市内の炭坑関係者が調べられ、翌年3月、坑内炭坑夫だった2人の共産党員IとJが逮捕された。Iはレッドパージで1951年6月に炭鉱を追い出され、別の炭坑に入ったが、賃金不払いのために団体交渉をしていた。
 2人は裁判で無罪を主張。証拠として提出された雷管が腐食せずに新品だったことや、使用したとされる発破器はIによって盗まれたものではないことを知っていながら検察側は隠していたことなどが明らかにされたが、一審札幌地裁岩見沢支部は懲役5年の判決。2人は控訴したが、Iは1960年に交通事故で死亡し公訴棄却。1963年、札幌高裁はJに無罪を言い渡し、判決は確定した。事件の真相は不明のままである。
 Iの遺族らは国会賠償請求を提出。1971年、札幌地裁は捜査と起訴に違法があったとして国と捜査官に893万円の支払いを命じた。しかし検察側が控訴し、1973年、札幌高裁は捜査の合法性を認め、一審判決を取り消し、原告側の請求を棄却した。1978年、最高裁は無実の人物を誤認逮捕、起訴した場合にも原則として国家賠償法上の違法性を有しないとの判断を示して二審判決を支持し、原告側の敗訴が確定した。
文 献 井尻光子『飯場女のうた 芦別事件・怒りの26年』(学習の友社,1984)

谷村正太郎『再審と鑑定』(日本評論社,2005)
備 考  
12/6 概 要 <花巻事件>
 1952年12月6日、岩手県花巻駅近くの飲食店で火災発生。店にいた男性が、翌朝放火未遂の容疑で逮捕された。実況見分も現場保存もせずに店主の申告を鵜呑みにした逮捕だった。男性は否認していたが、拷問により自白。一審で懲役3年執行猶予5年、二審では懲役2年6ヶ月執行猶予4年が言い渡された。
文 献 上田誠吉・後藤昌次郎『誤まった裁判 ―八つの刑事事件―』(岩波書店,1960)
備 考  

【1953年】(昭和28年)

日 付事 件
1/12 概 要 <竜門事件>
 1953年1月12日、和歌山県竜門村にある神社のそばの谷川で、銀行員の女性(19)の暴行死体(ただし、凌辱の実態はない)が発見された。凶行に使われた棍棒の切れ端が発見されたことから1月21日、同じ村の農業F(61)とFが雇っていた作男K(18)が逮捕。Kは当初単独犯を自供したが、後にFとの共謀を自供。Fは犯行を否認。Fが女性にふられたことが動機とされているが証拠はない。
 1953年11月13日、和歌山地裁はKの単独犯行であるとし、Kに懲役5~10年の不定期刑、Fに無罪を言い渡した。1954年2月8日、大坂高裁は一審を破棄し、Fに懲役8年の実刑判決、Kに懲役6年を言い渡した。Fのみが上告したが、1959年6月9日、最高裁は上告を棄却し、刑が確定。
 1961年3月29日、FはKの単独犯行であると主張し、大阪高裁に再審請求。1970年4月28日、大阪高裁は請求を棄却。異議申し立てを行うも、胃潰瘍のためにFは刑の執行停止。8月3日に亡くなった。
文 献 「竜門事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

備 考  
3/17 概 要 <雑貨商一家殺人事件>
 栃木県芳賀郡の菊地正(26)は母親思いの働き者の青年だった。村の青年団長を務め、真面目で礼儀正しかった。ところが、菊池の義理の父は、母を下女扱いし、さらに母はソコヒ(白内障)を煩って失明した。手術をすれば治るが、そんな大金は家にはなかった。そこで菊池は強盗殺人を計画。1953年3月17日、小金を貯めていると噂のある村の雑貨屋に押し入り、女主人(47)、その母(69)、長男(20)、女中(16)の4人を絞殺。家中を探し回ったが、現金2,000円しか見つからず、腹いせに女主人とお手伝いを死姦。さらに女物の腕時計を一個盗んだ。
 1ヶ月ほどたっても犯人は見つからず、迷宮入りの雰囲気が高かったが、菊地が東京に暮らしている妹に腕時計をあげたことをつきとめた警察が二ヶ月後に逮捕。1953年11月25日、宇都宮地裁で死刑判決。1954年9月29日、東京高裁で控訴棄却。
 上告中の1955年5月11日夜、母親に会うために東京拘置所を脱走、11日目に逮捕。逮捕時、警察の情けで母親と最後の対面を果たすことができた。
 1955年6月28日、最高裁で被告側上告棄却。11月21日に宮城刑務所へ押送され、翌朝に死刑執行。29歳没。
文 献 「脱獄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「死の獄舎を脱獄、仙台送りの翌朝処刑」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「栃木雑貨商一家殺害事件 菊地正」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  暴行を受けた女性の死体から二種類の体液が検出されたらしいが、菊地は単独犯を主張した。
 死刑囚もしくは死刑判決上訴中の脱獄犯では最長日数である。脱走の責任を取り、東京拘置所長が解任されたのを始め、多くの刑務官が処分を受けた。そのため、東京拘置所に連れ戻された後は、懲罰房に2ヶ月、その後独居房と厳重に監視されていた。仙台送りの翌朝に執行されたのも異例である。
7/9 概 要 <第二の阿部定事件>
 1953年7月9日午前0時半、東京都文京区の女性M(39)が、階下の同居人の女性I(48)の四畳半から呻き声が聞こえたので覗いてみると、Iの内縁の夫であるS(30)が血まみれになっているのを見つけた。IがSの男性自身を切断したと答えた。Mはタクシーを呼んで近くの病院に運んだ。Sは全治一か月の重傷。IはSの傍らで泣きながら付き添っているところを逮捕された。
 1948年ごろ、Iは俳優の夫が浮気をしたので離婚後、釜石で左官職の手伝いをしていた時に、当時配管工のSと知り合い、深い仲になった。両親が結婚を許さなかったので、釜石で同棲後、1950年6月に上京。しかし1953年、正月休みで帰省時にSの両親が結婚話を持ち出し、Sも乗り気になった。結局二人は4月に入って別居。事件当日は、IがSを呼び出し、別れることで終わるかと思ったが、Sが「結婚後お前さえよかったら、付き合ってもいいんだよ」という言葉に逆上。しかしIは黙ってSに抱かれ、Sがぐったりしたところ、凶行に及んだものだった。
 女性が男性自身を切断するという事件は、阿部定事件以降も多く発生しているが、本事件はIが元日活女優だったということでマスコミが騒いだ。
 Sの男性自身は事件後復元され、3年後に結婚し、子供も生まれている。
文 献 「もうひとりの“阿部定”たち 男性自身セツ断事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)
備 考  
7/27 概 要 <バー・メッカ殺人事件>
 1953年7月27日、東京新橋のバー「メッカ」の天井から血の滴が落ちてきたことから調べたところ、両脚を電気コードで縛られ、鈍器で全身30ヶ所を滅多打ちにされており、首にも電気コードで絞められた痕があった死体が発見された。死体は証券ブローカー(39)で、殺された当日、証券を担保に銀行から四十万円を引き出していた。共犯2人はすぐに逮捕、元証券会社社員で無職の主犯正田昭(24)も78日後の10月12日に京都で逮捕。金ほしさの犯行であったが、正田が慶応大出身のインテリ美少年であったことから、マスコミはアプレゲール犯罪の典型として大きく取り上げた。
 正田は1956年12月15日、東京地裁で求刑通り死刑判決。殺人演習に参加したが実行には不参加だったI(22)は懲役5年、共犯のボーイ(19)は懲役10年判決。Iとボーイは控訴せず確定。1960年12月21日、東京高裁で被告側控訴棄却。1963年1月25日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。
 1963年、獄中から投稿した「サハラの水」が第六回群像新人文学賞最終候補となり、雑誌『群像』に掲載された。1969年12月9日、死刑執行、40歳没。
文 献 「第二話 冷血 正田昭」(佐木隆三『殺人百科(3)』(徳間書店,1982/文春文庫,1987他)所収)

「絵と文学とお金」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

「バー・メッカ事件 正田昭」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

加賀乙彦『ある死刑囚との対話』(弘文堂,1990)

加賀乙彦『宣告』(新潮文庫,1979)

「バー・メッカ殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

正田昭『黙想ノート』(みすず書房,1967)

正田昭『獄中日記 母への最後の手紙』(女子パウロ会,1971)

正田昭『夜の記録』(女子パウロ会,1999)

「メッカ殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  日本におけるモンタージュ写真手配の第1号でもある。
11/5 概 要 <徳島ラジオ商殺害事件>
 1953年11月5日、徳島県の「M営業所」を不審な人物が訪れ、応対している内妻富士茂子さん(43)の声にも返事がないことに不審を持った主人のSさん(53)が裏口の障子を開けたところ、人影が侵入。Sさんを刺殺し、そのまま逃走した。翌年5月、暴力団員Kが逮捕され、犯行を自白するものの証拠不十分にて釈放。8月13日、富士さんが逮捕された。逮捕された証拠は、裏の小屋に住んでいた少年店員二人の証言のみであった。しかも警察は、少年(17、16)を微罪で別々に捕まえ、45日間、26日間にわたって取り調べ、証言を引き出したのだった。
 富士さんは逮捕段階でこそ「自白」したものの、裁判では無罪を主張。しかし、1956年4月18日、徳島地裁は富士さんに懲役13年(求刑無期懲役)の有罪判決を言い渡した。1957年12月21日、高松高裁は富士さんの控訴を棄却。富士さんは上告するも、1958年5月10日、裁判費用が続かないため上告を取り下げ、確定した。なお同日、真犯人と称する人物が沼津警察署に自首しているが、後に不起訴となっている。
 判決確定後、重責に堪えきれず店員の一人が地元新聞に偽証であったことを発表。もう一人も偽証を証言。この証言を頼りに第1次~第3次再審請求を提出するも、いずれも棄却された。富士さんは1966年11月30日に仮出所。以後も再審請求を提出するも、第5次再審請求中の1979年11月15日、富士さんは肝臓がんで死亡した。4人の姉妹弟が再審請求を引き継ぎ(第6次再審請求へ移行)、1980年12月13日、徳島地裁は再審を決定。1983年3月12日、高松高裁が検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1985年7月9日、徳島地裁は富士さんへ無罪を言い渡し、そのまま確定した。日本で初めて、死後再審による無罪判決が言い渡された事例である。
 1985年12月12日、徳島地裁は富士さんの娘に対し、逮捕から仮出所までの4,493日間の刑事補償として3,235万円を支払う決定を出した。
文 献 「世にも恐るべき冤罪事件」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「徳島事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

稲木哲郎『裁判官の犯罪』(晩聲社,1983)→『裁判官の論理を問う』(朝日文庫,1992)と改訂

開高健『片隅の迷路』(毎日新聞社,1962,1968/角川書店,1963/東方社,1968/角川文庫,1972/創元推理文庫,2009)

小林久三・近藤昭二『月蝕の迷路』(文藝春秋,1979)

斎藤茂男『われの言葉は火と狂い』(築地書館,1990)

瀬戸内晴美・富士茂子『恐怖の裁判』(読売新聞社,1971)

「ニュースと写真で綴る徳島ラジオ商事件闘いの記録」編集委員会/編 『無実』(第一出版,1986)

堀田宗路『主なき再審』(風雅書房,1995)

和島岩吉・原田香留夫『富士茂子事件・再審入門 “徳島ラジオ商殺し”冤罪 第五次再審請求資料』(大同書院,1978)

渡辺倍夫『徳島ラジオ商殺し』(木馬書館,1983/新風舎文庫,2004)
備 考  
9/5 概 要 <青森リンゴ農家8人殺人事件>
 青森県中津軽郡新和村でリンゴ園を営む男性の三男で桶職人のMTは、父親と折り合いが悪く、実家から150m離れた小屋へ別居していた。父親は頑固でケチなことから、妻と離婚し、次男も家を飛び出していた。1953年12月12日午前1時ごろ、酒を飲んで酔っ払ったMT(24)は実家の味噌小屋へ味噌を盗みに行ったが、そこで偶然猟銃を発見。MTは味噌を盗んだことがばれたらこの猟銃で殺されるのではないかと怯え、逆に撃ち殺そうと決意。猟銃で父(56)、祖母(82)、長男(35)、長男の妻(30)、長男の長男(6)、長男の長女(4)、伯母(61)を猟銃で撃ち殺した。猟銃を放り投げ、その後MTは親戚に付き添われて駐在所へ自首した。駐在所から父親の家に駆け付けたところ、父親宅は出火し、住宅一棟が全焼した。この火事で、長男の次女(3)が焼死した。
 MTは殺人について供述を二転三転させ、放火は否認。火事については猟銃の火花によるものと決着がついた。MTは7人に対する尊属殺人、殺人、住居侵入で起訴された。
 裁判ではMTの精神状態に焦点が絞られ、合計4回の精神鑑定が行われ、強度の心神耗弱または心神喪失状態であるという結果になった。検察側は無期懲役を求刑したが、1956年4月5日、青森地裁弘前支部は殺人、尊属殺人については心神喪失状態であったと無罪を言い渡し、味噌を盗みに入った住居侵入については心神喪失状態以前の犯行として懲役6月執行猶予2年を言い渡した。MTは釈放された。検察側は控訴したが、仙台高裁秋田支部は1958年3月26日、控訴を棄却した。上告せず、刑は確定した。
文 献 「「リンゴ園8人殺し」の犯人が無罪放免の不思議」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  

【1954年】(昭和29年)

日 付事 件
2/17 概 要 <三里塚事件>
 1954年2月17日夜、千葉県成田市三里塚で駄菓子屋の女性(58)が自宅で殺害された。4月17日、駄菓子屋によく遊びに来ていた近所の高校生(18)が逮捕され犯行を自白した。凶器は自宅にあった竹割りとされたが、血痕は付着していなかった。
 1955年7月6日、千葉地裁は求刑通り一審無期懲役判決を言い渡した。ただ、どのように打ったかについては、鑑定人である千葉大学の宮内義之介、東京大学の古畑種基らの発言が何度も変換している。二審から正木ひろしが弁護人となり、凶器は和裁用のコテ様のものと主張したが、1958年12月27日、東京高裁は被告側控訴を棄却。1963年2月21日、上告が棄却され、確定した。
 その後、再審請求が提出されたが棄却されている。犯人とされた男性は1977年3月に千葉刑務所を仮出所したが、翌年8月に死亡した。42歳没。
文 献 正木ひろし『ある殺人事件』(光文社,1960)

正木ひろし『冤罪の証明』(旺文社,1981)
備 考  
3/10 概 要 <島田事件>
 1954年3月10日、静岡県島田市で幼稚園中のお遊戯会中に幼女(6)が行方不明となり、3日後に暴行、絞殺された死体となって発見された。5月24日、赤堀政夫さん(25)が別件で逮捕された。一旦釈放されたが、28日に別件の窃盗容疑で逮捕。激しい拷問により、30日に自白した。公判では無実だと主張したが、1958年5月23日、静岡地裁で死刑判決。1960年2月17日、東京高裁で控訴棄却。1960年12月5日、最高裁で被告側上告棄却。
 1961年8月17日、静岡地裁へ第一次再審請求。1964年4月21日、第二次再審請求。1966年4月15日、第三次再審請求。1969年5月9日、第四次再審請求。1977年3月11日、静岡地裁は再審請求を棄却するも、1983年5月23日、東京高裁は差戻し。1986年5月30日、差戻し審で静岡地裁は再審開始の決定を言い渡す。1987年3月25日、東京高裁は検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1989年1月31日、静岡地裁で無罪判決が下され、確定、35年ぶりに解放された。
 赤堀さんは2024年2月22日、名古屋市内の施設で死去。94歳没。
文 献 赤堀闘争全国活動者会議編『島田事件と赤堀政夫』(たいまつ社,1977)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)

佐藤一『不在証明』(時事通信社,1979)

伊佐千尋『島田事件』(潮出版社,1989)

森源『島田事件レポート』(森源,1989)

白砂巌『雪冤島田事件』(社会評論社,1987)

「島田事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

「島田事件」(無実の「死刑囚」連絡会議編『無実を叫ぶ死刑囚たち』(三一書房,1978)所収)

「島田事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「島田事件と松山事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人-東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

「島田事件――「自由心証」の絶対視が誤判を生み出す」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  
4/19 概 要 <鏡子ちゃん殺人事件>
 1954年4月19日、S(20)は友人に金の無心に行ったが不在だった。自宅に戻る途中に尿意を催し、近くにある東京都文京区の小学校のトイレを使っていたとき、少し開いた女子トイレのドアから鏡子ちゃん(7)のお尻が見えた。急に情欲を催してトイレに押し入り、強姦のうえ絞殺、逃亡。しかしイニシャル入りのハンカチを落としていたため10日後に逮捕、その1週間後、Sは自供した。Sは静岡県の国立療養所で結核療養中だった。しかし、入院費は滞納、無断外泊は当たり前、借りた金は返さない、ヒロポン中毒というので評判は悪かった。本人も、刹那的に生きようとしていたらしい。
 1955年4月15日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1956年3月24日、東京高裁で被告側控訴棄却。10月25日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。1957年6月22日、宮城刑務所にて死刑執行。24歳没。刑務所の中でも楽天的に過ごしていたらしい。
文 献 「一年半で結審、二十二歳で死に赴く」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1980)
備 考  この事件を機に、覚醒剤取締法が厳罰化された。また、当時は誰でも入れる状態であった学校の安全対策が見直されるようになった。
6/13 概 要 <カービン銃ギャング事件>
 1954年6月13日、保安庁元隊員のO(28)は仲間三人と共謀し、保安庁技術研究所会計係長夫妻をカービン銃で脅し、Oの兄宅に軟禁。翌日、小切手七枚(額面1,750万円)を作らせ、そのうちの一部、95万円を現金化。16日、妻を別宅に軟禁し、夫を現金化のために連れ出したが、夫が逃げ出して交番に駆け込んで事件が発覚。Oたちは逃走。
 警視庁は、強盗の前科で仮釈放中のOと手口が似ていることから、Oを主犯として指名手配。Oは元女優の愛人(当時27)と逮捕されるまでの一か月間、各地の温泉を転々として贅沢な逃走旅行を続けていた。仲間三人は6~7月に逮捕。そしてOも7月21日、潜伏先の大分県湯平温泉で逮捕された。
 逮捕後、Oは1952年に熱海の会社社長を呼び出して殺害し、小切手を奪ったうえ、遺体を裸にしてマンホールに捨てていたことを自供。遺体は1952年12月に発見されるも、捜査は難航していた。
 1958年6月7日、東京地裁はOに求刑通り死刑判決を言い渡した。Oは弁護士を付けず、自ら弁護を行った。1962年12月26日、東京高裁は一審を破棄し、無期懲役判決を言い渡した。逮捕後反省し、自白していることが理由である。上告するも取り下げて、確定。1978年、仮釈放された。
文 献 K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会/徳間書店,1980)

K・O『さらばわが友 続』(現代史出版会/徳間書店,1981)

K・O『真相死刑囚舎房』正・続(トクマノベルス,1982)
備 考  
8/13 概 要 <松尾事件>
 1954年8月13日、熊本県南村で映画館帰りの女性(21)が男に襲われ、暴行された。松尾政夫氏が容疑者として任意同行され、取り調べにより犯行を自白。その後は、捜査・公判を通じて否認を続けた。しかし1955年12月23日、熊本地裁で一審懲役3年の判決。1956年4月13日、福岡高裁で控訴が棄却され、上告せずに確定した。
 1958年に満期出所後、松尾氏は再審請求を提出し続けた。1988年3月28日、熊本地裁は第13次再審請求を認め、検察側が抗告しなかったため確定した。しかし松尾氏は5月5日に食道静脈瘤破裂により死亡、71歳没。公判で検察側は全く争おうともせず、求刑も行われずに2回で結審。1989年1月31日、熊本地裁は松尾氏に無罪判決。そのまま確定した。
文 献 堀田宗路『主なき再審』(風雅書房,1995)
備 考  被告人の死後に再審の判決が行われたのは、「徳島ラジオ商殺人事件」に続き二件目。
9/5 概 要 <埼玉入間バラバラ殺人事件>
 F(29)は、4年前に知り合った女性O(22)に結婚を申し込むもふられたが、その後も追いかけ回していた。Fは定職についておらずブラブラしており、女性にとっては迷惑この上なかった。女性は親戚の家に隠れたが、結婚する運命にあると信じていたFはしつこく探し回った。1954年9月5日午後9時半ごろ、埼玉県入間郡でたまたま通りかかった地元の女性(19)をOと間違えて持っていた手拭いで首を絞めて殺害、遺体をバラバラにした。翌日、Fは新聞記事で人間違えをしたことに気づく。Oに会うこともなく、74日後にFは逮捕された。
 一審公判でOが証人として出廷し、Fとは何の関係もないと全面否定。1956年2月21日、浦和地裁で求刑死刑に対し、一審無期懲役判決。ところが8月20日、東京高裁でOが証言台に立って再度「Fとは何の関係もありません」と証言したことにFは逆上。隠し持っていた竹べらで女性の腕を刺し、全治2週間の怪我を負わせた(不起訴)。そのことが裁判官の逆鱗に触れたか、8月30日、東京高裁で逆転死刑判決。1957年7月19日、最高裁で被告側上告棄却、確定。1959年5月27日、執行。33歳没。
文 献 「逆転死刑」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「恋の一念が生んだ悲喜劇」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
9/7 概 要 <福岡一家11人殺傷事件>
 理髪師のNは過去に何人もの女性と同棲し、最初仲が良いもののすぐに威張りだしてトラブルを起こしていた。1944年に窃盗他で懲役10か月、1945年に窃盗で懲役1年6月、1946年に窃盗で懲役2年、1950年には女性との別れ話のトラブルによる殺人未遂で懲役4年の判決を受けている。
 N(36)は佐世保刑務所を出所後の1954年、戦争未亡人で佐世保市内の雑貨店に勤める女性(34)と知り合い同居。最初は仲が良かったが、Nは全く働かず、暴力をふるうため、女性は9月5日、福岡県京都郡に住む亡き夫の姉宅へ泊りこみ、別れ話を相談。翌日、京都郡に住む亡き夫の兄宅へ行こうとしたら、女性を探しに来たNと遭遇。結局二人で農家の義兄(47)宅へ行ったものの、義兄は酒を飲んでいたこともあり、2人を罵倒。Nは帰ろうとしたが、女性はそのまま義兄宅に残ることとした。Nはいったん帰り、午後7時半ごろ、女性の長男(14)を連れ、妹が心配しているから帰ろうと言わせたが、女性は拒否。さらに義兄はNの女癖を非難し、「人でなし、別れちまえ」と罵倒。その夜は女性や長男、Nも泊まることとなったが、罵倒されたNは収まらず、9月7日未明、土間にあった三叉鍬を持ち、一家9人達を襲った。義兄、義兄の妻(44)、次男(12)が即死。三男(10)、四男(3)、四女(8)は運ばれた病院で死亡。女性と長男も死亡した。義兄の三女(14)、五女(5)、六女(1)は命を取り留めた。Nは殺害後自宅に戻り、着替えて逃走。午前8時ごろ、隣家の女性が発見し通報。すぐに犯人がNとわかり、行橋署は8日、Nを指名手配した。同日夕方、京都行の電車に乗っていたところをNは逮捕された。
 1955年2月25日、福岡地裁小倉支部で求刑通り死刑判決。7月、福岡高裁で被告側控訴棄却。12月26日、最高裁で被告側上告が棄却され、死刑が確定した。1957年4月10日、死刑執行。39歳没。
文 献 「悪は善に帰らず――恨み骨髄の凶行に及んだ男の最期」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  
10/11 概 要 <茨城一家九人毒殺事件>
 1954年10月11日午前5時頃、茨城県鹿島郡の農家が全焼し、焼け跡から、主人、妻、長男など一家8人と女中の計9人が死体として発見された。司法解剖の結果、全員が青酸カリで毒殺されていたことが判明。無理心中説もあったが、聞き込みで、前日に保健所の者と名乗る白衣の男が、一家の聞き回っていたことがわかり、毒殺放火事件の判断に絞られた。事件の手口から、帝銀事件との関連も噂された。その後、家の自転車が乗り捨てられていた場所から、名前入りのワイシャツが発見。11月6日、捜査本部は、神奈川県横須賀市出身のM(42)を指名手配。Mは窃盗や詐欺などで前科8犯、計24年を刑務所で過ごしてきた。7日、Mは塩原温泉の旅館から逃亡したが、山狩りで発見され、逮捕される。しかし身柄の移送中、持っていた仁丹ケースの二重底に隠していた青酸カリを飲んで自殺した。殺人の手口や動機は不明のままとなった。
文 献 黒木曜之助『実録・県警最大事件』(弘済出版社こだまブック,1973)

「第二の帝銀事件」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  
10/26 概 要 <仁保事件>
 1954年10月26日朝、山口県吉城郡大内村仁保で、農業Yさん一家(夫婦、母、子供3人)が惨殺死体で発見され、7700円が奪われていた。怨恨に基づく複数犯という見解のもとで捜査されたが、誤認逮捕のあげく、1年後に大阪にいた仁保出身のOさん(38)を別件逮捕。160日以上もの拘留、取り調べの末、ついにOさんは「自白」した。
 1962年6月15日、山口地裁で死刑判決。1968年2月14日、広島高裁で控訴棄却。1970年7月31日、「自白の信憑性に乏しい」事から最高裁で差戻し判決。1972年12月14日、広島高裁で無罪判決が出て、そのまま確定した。
文 献 青木英五郎『自白過程の研究』(一粒社,1969)

「仁保事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

上野裕久『仁保事件』(敬文堂出版部,1970)

金重剛二『タスケテクダサイ』(理論社,1970)

故小沢千鶴子さん追悼文集刊行委員会編『微笑の勝利 仁保無罪を導いた一主婦の歩み』(故小沢千鶴子さん追悼文集刊行委員会,1981)

徳永辰雄『天国と地獄』(自費出版,1997)

播磨信義『仁保事件救援運動史―命と人権はいかにして守られたか 』(日本評論社,1992)

播磨信義『人権を守った人々―仁保冤罪事件、支援者の群像』(法律文化社,1993)

山口大学教育学部社会科学研究室法律学分室編『仁保事件・その風化を許すまじ』(四季出版,1988)
備 考  
11/4 概 要 <オランダ兵タクシー強盗事件>
 1954年11月4日午前0時過ぎ、埼玉県内で乗り込んだ二人の制服外人兵が、東京板橋区内で運転手Oさん(43)の後頭部を薪で強打、自動車を奪って逃走した。逃走途中、犯人はタクシーを乱暴に運転し、通りかかった板橋署の警察官をはね、しかも池袋で別のタクシーに追突。外人兵は大破したタクシーを残して逃走。現金6,000円が奪われていた。運転手の証言から朝霞キャンプ内にいたオランダ兵と推測、さらにタクシー内から指紋が検出された。捜査本部はオランダ駐屯軍司令部に指紋採取を要請。最初は難色を示したものの最終的に承諾を得、犯人二人は逮捕された。
文 献 「オランダ兵タクシー強盗事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  

【1955年】(昭和30年)

日 付事 件
2/7 概 要 <八王子屍老化死体事件>
 1955年2月7日3時頃、農業Aさんが農作業中に肥溜めから屎尿をくみ出していると、屍老化した女性の死体が発見された。首にはネクタイが巻かれており、殺人事件として捜査が開始された。着衣から名前が判明、さらに一緒にあったタオルに別の名前の墨書きがあった。地取り捜査で近くから泥土にまみれた木箱が発見された。捜査の結果、被害者(30)が判明し、さらに愛人U(23)が逮捕された。
文 献 「八王子屍老化死体事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  この事件の有力な手掛かりは「土」であった。FBIから導入された「微量土壌の比重検定法」により、死体遺棄を手伝ったUのいとこの旧宅から採取されたものと、木箱についていた土が一致した。「土の捜査の始まりともいえる殺人事件」といえる。
5/12 概 要 <丸正事件>
 1955年5月12日午前一時頃、静岡県三島市で営業していた『丸正運送店』の女性店主Kさん(33)が絞殺され、現金6千円が盗まれた。午前二時十五分ごろ、トラック運転手と助手が発見。当初は面識のあるものと犯行と思われたが、30日、警察は事件当夜に沼津から東京へ向かっていたトラック運転手K、韓国籍のトラック運転手R(42)、助手S(34)を別件で逮捕した。しかし6月1日、Kは釈放された。取り調べでRは終始犯行を否認し、Sは自白したものの、公判では全面的に否認した。1957年10月31日、一審静岡地裁沼津支部でRに無期懲役(求刑死刑)、Sに懲役15年の判決。1960年7月19日、最高裁で刑が確定した。
 控訴審から弁護人となった鈴木忠五、上告審から弁護人となった正木ひろしは、1960年3月28日、上告趣意書で被害者の兄夫婦と弟が“真犯人”であると記し、4月1日には記者会見を行った。RとSの上告棄却後の10月10日、正木と鈴木は単行本『告発―犯人は別にいる』を出版した。さらに10月27日、三人を強盗殺人罪、鑑定医二人を偽証罪で東京地検に告発した。一方、鑑定医の一人は11月9日、両弁護人を誣告罪で告発。11月15日、真犯人と告発された三人が逆に両弁護人を名誉棄損と誣告罪で告訴した。両弁護人の告発について東京地検は不起訴の結論を出し、検察審査会が不起訴不当とするも結論を変えなかった。一方、1965年5月22日、東京地裁は正木、鈴木に禁固6か月執行猶予1年を言い渡した。このときの特別弁護人は、作家の高木彬光だった。1971年2月20日、東京高裁は控訴棄却。正木は1975年12月6日に亡くなり、公訴棄却。1976年3月23日、最高裁が上告棄却し、確定。鈴木は弁護士資格を6か月はく奪された。
 新鑑定で殺害時刻は11日深夜とする証拠が出たことから(この時間には二人ともアリバイがある)、RとSは1963年12月26日に再審請求したが、1982年1月28日に静岡地裁沼津支部で、1986年10月13日に東京高裁で即時抗告棄却。その間にSは1974年4月25日に刑期満了で出所、Rも1977年6月17日に仮釈放で出所した。最高裁に特別抗告するも、1989年1月2日にRが、1992年12月27日にSが死去。1993年3月5日、最高裁は再審請求の手続きが終了したことを通知した。
文 献 「丸正事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

佐木隆三『誓いて我に告げよ』(角川書店,1978/角川文庫,1984)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)

鈴木忠五『世にも不思議な丸正事件』(谷沢書房,1985)

正木ひろし『エン罪の内幕』(三省堂,1970)

正木ひろし・鈴木忠五『告発―犯人は別にいる』(実業之日本社,1960)

丸正事件再審をかちとる東京・神奈川の会『開かずの門へ 丸正事件は終っていない』(丸正事件再審をかちとる東京・神奈川の会,1978)
備 考  
6/1 概 要 <凶悪犯全国公開捜査第一号事件(連続身代わり殺人事件)>
 山口県下関市でO(27)が1955年6月1日、家庭の不和などを原因に養父母夫婦(60、56)を青酸入りジュースで毒殺。会社の金130万円を持って、妻子を残したまま逃走した。別府で偽名を使い生活していたが、喧嘩で別府区検に送検されることとなった。Oは養父母殺害の発覚を恐れ、1956年2月7日、逃走中に知り合ったMさん(23)の戸籍抄本、転出証明書を入手したうえで、Mさんを岡山県倉敷市で毒殺。死体をガソリンで焼き、Mさんの戸籍を奪い成り代わった。東京で結婚し、建設会社の運転手として就職したが、1957年12月28日、窃盗容疑で警察に指紋を採られた。そのことで過去の事件が発覚するのではと恐れを抱き、1958年1月11日、浅草で知り合ったSさん(29)を水戸市の湖に連れ出して殺害。死体を切断した上、頭部を硫酸で焼き、身元をわからなくした。Sさんに成り代わろうとしたものの、硫酸で顔を焼くという手口に警察が不審を抱いたこと、さらに警察に採られた指紋がOのものと一致したため、警察はOを指名手配。Oは7月16日に逮捕された。
 1959年12月23日、水戸地裁で死刑判決。二審では、国選弁護人が弁護を拒否、裁判で「被告は死刑に処するべき」という趣意書を裁判所に提出し、問題になった。1960年6月13日、東京高裁で控訴棄却。1961年3月30日、最高裁で被告側上告棄却、確定。Oは半年後、二審担当の国選弁護人を弁護放棄で告訴。1963年11月28日、東京地裁は被告弁護士に3万円の賠償を命じる判決を下した。1965年3月22日、死刑執行。37歳没。
文 献 「弁護放棄」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  警察庁は1958年7月9日に、殺人・強盗事件21件、計26人を総合特別手配した。その中で最初に捕まったのがOである。
 国選弁護人の弁護放棄とも取れる行動・発言が他にも相次いだため、日本弁護士連合会は1960年10月4日、「弁護人はあくまでも弁護の立場を離れてはいけない」とする見解を発表した。
6/26 概 要 <鹿児島雑貨商夫婦他殺人事件>
 鹿児島市のYは、知り合いの旅館の女主人が開いた特飲店でF子という女と知り合う。数日後、F子がYのところに店に売られた身だから助けてほしいと言われ、そのまま同居する。しかし女主人に知られ、清人と文子が前借金を踏み倒したということになり、警察に追われるようになった。さらにその頃、市内の小鳥屋の主人から飼料と米の買い出しを頼まれて5万円を預かるも生活費に消えてしまい、小鳥屋の主人からも詐欺として訴えられた。
 清人はF子を連れて広島に飛び、金を工面してもらうため、1955年6月26日、母のいる鹿児島市に戻った。Y(27)は父に世話になっていた雑貨商T(58)を尋ね借金を申し込むも、Yの行状を知っていたTは頼みを断り、Yを罵った。逆上したYは土間にあったマキ割りでTとその妻(52)を滅多打ちにして殺害。さらに女中(16)も殴ってけがを負わせた。強盗による殺人に見せかけようと、タンスの引き出しを開けるなど現場を荒らしまわり、現金12万円等を奪った。
 Yは大阪へ逃走し、友人の家に世話になる。時々は母のところに様子を見に行ったりしていた。半年後、母のところへ行った帰り道、バスに乗った女性車掌がYに気付き、切符の裏にYのことを書いて停留場に投げ込んだ。それを見た人が交番に通報。Yはバスを下車したところ、警察に逮捕された。
 Yは強盗殺人罪で起訴された。1956年6月7日、鹿児島地裁で求刑通り死刑判決。1956年12月5日、福岡高裁宮崎支部で被告側控訴棄却。1957年9月12日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 1957年末頃、再審請求するも1年後に棄却確定。1959年2月、Yは借金を申し込まれたことによる恨みによる殺人であり、強盗殺人ではないと主張し、鹿児島地裁へ第二次再審請求。12月、再審理由なしと棄却され、福岡高裁宮崎支部へ即時抗告。1960年4月、即時抗告棄却。特別抗告するも棄却。1960年8月31日、執行。32歳没。
 1959年9月に静岡県三島市の文通相手の女性(30)と獄中結婚。執行後、書簡集が出版されてベストセラーとなり、映画化、テレビドラマ化された。
文 献 山口久代/著、中山淳太朗/編集『愛と死のかたみ 処女妻と死刑囚の純愛記録』(集英社,1962)

山口久代『エマオへの旅立ち―『愛と死のかたみ』その後』(いのちのことば社,1989)
備 考  
7/15 概 要 <トニー谷長男誘拐事件>
 1955年7月15日正午ごろ、人気ボードビリアン、トニー谷(37)の長男(6)が学校帰りに誘拐され、同日午後、身代金200万円を要求する速達が届いた。当時はまだ報道協定はなく、新聞等で報道され、谷の自宅には激励以外にいたずら電話が相次いだ。谷はラジオやテレビで救出を訴えた。鳩山一郎首相も行方を心配するコメントを残している。
 21日午後9時ごろ、谷宅に「10時ごろ、例のやつを持ってこい」と電話があり、現金を持った刑事が使いの者として待ち合わせ場所である渋谷駅前のハチ公付近へ行き、身代金を受け取りに現れた無職男性M(38)を逮捕。長男は長野県更級郡にあるMの自宅に連れており、妻には知り合いの子と偽っていた。動機は、計画していた雑誌「信州業界」発行の資金を得るためだった。翌22日、長男は無事に両親の元に返された。
 Mは営利誘拐と恐喝未遂の罪に問われ、1955年12月27日、東京地裁で懲役4年(求刑同8年)が言い渡された。世間の親たちに与えた不安が大きく反社会性が強いが、川遊びや温泉に連れて行くなど、長男を虐待した形跡がないことが認められた。 9月27日、東京高裁で一審破棄、懲役3年判決。Mは上告したが、1957年5月、口頭弁論に出廷した帰りに新宿駅構内の喫茶店で睡眠薬自殺を図った。命は取り留めたが、保釈を取り消され、6月4日に上告を取り下げて服役した。
文 献
備 考  営利誘拐は当時最高懲役10年だったが、本事件をきっかけに見直しの議論が高まった。1960年代、「吉展ちゃん事件」などの誘拐事件が多発したこともあり、1964年7月、身代金目的誘拐罪を新設して最高刑を無期懲役とする刑法改正が施行された。
8/29 概 要 <東海銀行大阪支店強盗殺人事件>
 在日韓国人であるAは株に失敗して資金の底が付いたことから、東海銀行大阪支店に狙いを定めた。1955年3月28日、強盗に使うタクシーを奪おうとしたが、運転手(44)が逃げ出したため拳銃で殺害。Aは銀行に向かったが、近くの派出所に警官が2人いたため断念した。
 8月29日昼、Aは銀行近くの派出所に落とし物を拾ったと偽って届け出て、隙を見せたときに拳銃を突きつけた。しかし警官に抵抗されたため、射殺した。そして東海銀行大阪支店を襲い、現金500万円を強奪。拳銃を持ったまま、取り巻く群衆の中を悠々と歩いて逃げ出した。通りに出て強引に車を止め、乗り込んで逃走。しかしノロノロと運転する運転手に激昂し、脅そうと床に銃口を向けて引鉄をひいたが、誤って自分の足首をかすめてしまった。後から襲われた銀行の店員と犯人を追いかけた別の男性がタクシーで追いかけてきた。大淀区でAの乗っている車はエンストを起こしたが、それは運転手がエンジンキーをオフにしたからだった。Aがオンにしようとしたとき、運転手が抵抗してきたため射殺し、金を持って逃走した。その後、スクーター、小型四輪と止めさせて逃走。小型四輪の荷台から曾根崎書院の巡査(27)に向かって引鉄を引き、重傷を負わせた。そして東淀川区にある工場の物置に隠れた。午後5時30分頃、物置に来た工場主がAを見つけ、拳銃を向けられたが、隙を見て襲いかかり掴まえ、大声で警官を呼んだ。
 Aが使った拳銃は、1951年2月28日、神奈川警察署青木通り巡査派出所で監察官と偽って盗んだものだった。1952年1月26日には、三宮駅前の劇場チェーンの事務所を襲い、現金26,000円を奪っている。また2月16日には、京都市にある大和銀行祇園支店を襲い、現金約100万円を強奪していた。1953年5月28日には、不動産売買に絡んだ傷害事件を起こし、神戸灘簡易地裁で罰金3,000円の刑を言い渡されている。
 Aは強盗殺人3件、同未遂2件、強盗1件、窃盗2件で起訴された。1956年10月22日、大阪地裁は、1951年1月から翌年2月に至る強盗殺人未遂、窃盗等5件について懲役15年を、1955年3月から8月に至る強盗殺人3件および同未遂1件について死刑判決を言い渡した。Aは控訴したが、控訴審判決の9日前である1957年9月15日、持病の肺結核が基で、心臓内膜炎、全身リュウマチなどを併発して、大阪拘置所内病院の一室で死亡した。29歳6ヶ月だった。
文 献 福田洋『汝、恨みの引鉄を弾け』(ベップ出版,1983)
備 考  
10/18 概 要 <松山事件>
 1955年10月18日、午前3時半頃、宮城県志田郡松山町で農家を営む一家の家が全焼。焼け跡から夫(53)、妻(42)、娘(9)、息子(6)がマキワリで斬りつけられ死亡した遺体が発見された。最初は痴情による怨恨説が中心であったが、斎藤幸夫さん(24)が12月に別件で逮捕、4日後に一度自白したが、その後は否認。しかし強盗殺人・放火で起訴された。1957年10月29日、仙台地裁古川支部で死刑判決。1959年5月26日、仙台高裁で控訴棄却。1960年11月1日、最高裁で死刑が確定した。
 1979年12月6日、第2次再審請求の差し戻し審で仙台地裁は再審開始の決定。1983年1月31日、仙台高裁が検察側の即時抗告を棄却し、再審が開始された。そして1984年7月11日、仙台地裁で無罪判決が下され、確定。斎藤さんは29年ぶりに解放された。捜査当局による証拠捏造が発覚している。
 斎藤さんと母は1985年に国家賠償請求訴訟を起こしたが、2001年に最高裁で敗訴が確定した。
 2006年7月4日、斎藤さんは多臓器不全のため死去した。75歳没。斉藤さんの再審を支え続けた母も2008年12月24日、入所先の施設で亡くなった。101歳没。
文 献 小田中聰樹『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書,1993)

木下厚『つくられた死刑囚~再審・松山事件の全貌~』(評伝社,1984)

佐藤秀郎『最後の大冤罪「松山事件」 ~船越坂は何を見たか』(現代史出版会/徳間書店,1984)

佐藤一『松山事件―血痕は証明する』(大和書房,1978)

菅原利雄『現場鑑識と布団襟当の血痕 松山事件再審無罪事件を顧りみて』(非売品,1988)

中山雅城『検証冤罪―帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)

藤原聡、宮野健男(共同通信社)『死刑捏造: 松山事件・尊厳かけた戦いの末に』(筑摩書房,2017)

吉田タキノ『炎と血の証言』(理論社,1966)

吉田タキノ『裁かれるのはだれか』(けやき書房,1985)

「松山事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「島田事件と松山事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人-東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

「第三章 偽造された血痕―松山事件」(前坂俊之『誤った死刑』(三一書房,1984)所収)

「松山事件――警察は襟当に大量の血痕を付着させた」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  


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