ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1971~1975年】(昭和46~50年)



【1971年】(昭和46年)

日 付事 件
1/12 概 要 <保険金目当実母殺人事件>
 愛媛県伊予郡に住む金融業のT(40)は保険金騙取の目的で姉(41)と共謀し、1971年1月12日、交通事故を装って実母を殺害し、保険金(Tに約4,000万円、姉に約350万円、兄60万円)を騙取した。
 Tは金融業のかたわら1969年初めごろから無免許で不動産仲介業を営んでいたが、11月に客から土地購入代金として預かった1,600万円のうち1,200万円を使い込んでいた。客が警察へ訴え、横領罪で1970年4月30日に逮捕された。この前月、実母への大量の保険契約が掛けられている。Tは第3回公判で、自分名義の土地と建物を処分するまで待ってほしいと次の公判を伸ばしてもらうように訴え、検察官や裁判所も了承。事故後の1971年1月21日の公判で返済の意向を示し、2月24日に弁護人が保険金請求を代行。1971年4月25日に松山地裁で懲役1年6月執行猶予5年の有罪判決を受けた。
 Tは1971年11月から松山市でクラブを始めるも経営は思わしくなかった。Tは一度妻と結婚したが離婚し、別の女と結婚するも詐欺事件の間に離婚し、最初の妻と再々婚していた。激しやすい性格のTは妻とよく喧嘩し、1972年5月21日に妻は松山東署へ駈け込んで傷害容疑で訴え、松山東署は告訴を受理するも、後に妻は告訴を取り下げた。その後、Tは事件の発覚を恐れて口封じのために鍛冶屋の兄と共謀して6月30日夜に妻(34)を殺害し、7月2日にその死体を実兄の鍛冶場に埋めた。
 妻の実家から捜索願が出され、同時に保険金殺害を疑っていた愛媛県警捜査一課と松山東署は慎重な捜査を続けた。
 1974年11月25日、愛媛県警捜査一課と松山東署は、母親の頭を殴った傷害致死容疑でTと姉を逮捕。27日、鍛冶場から白骨死体を発見し、兄が自供。兄は緊急逮捕された。12月21日、姉が全面自供した。Tは妻殺害は認めたものの、母殺害については否認した。
 1976年2月18日、松山地裁はTに求刑通り死刑判決+死刑判決(間に詐欺事件で有罪判決を受けているため、実母殺害と妻殺害で別々の判決を受けた)、姉に求刑通り懲役15年、兄に求刑通り懲役15年判決を言い渡した。兄は控訴せず確定。姉は控訴するも取り下げて確定。1979年12月18日、高松高裁で一審破棄、死刑+無期懲役判決。1981年6月26日、最高裁で被告側上告棄却、確定。1993年3月26日、執行。62歳没。
文 献 「第六話 冷血姉弟の燃えた朝」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)

「交通事故偽装実母殺害事件」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
5/13 概 要 <大久保清連続殺人事件>
 大久保清(36)は小学生の頃から早熟で、強姦他で前科4犯だった。1971年3月に出所後、親に最新型のスポーツカーを買ってもらい、コスチュームはベレー棒とルパシカ。画家や詩人、教師になりすまし、女性を誘い続けた。逮捕されるまでの73日間に127人の女性に声を掛け、35人を車に連れ込んでいた。騒がれた相手には強姦、そして殺害して死体を山中に埋めていた。合計で8人を殺害。1971年5月13日、群馬県藤岡市の会社員(21)を誘拐した容疑で群馬県警藤岡署に逮捕された。色々と抵抗したものの、7月までに全てを自供。死体は掘り出された。
 1973年2月22日の前橋地裁における一審死刑判決に控訴せず、そのまま死刑が確定。1976年1月22日、死刑執行。41歳没。腰を抜かし、刑務官に支えられたまま死刑台に連れていかれたといわれるが、取り乱さず執行されたとの教誨師の言葉もある。
文 献 「大久保清事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「おれは血も涙もない冷血動動だ―『大久保清・八女性誘拐殺人事件』」(池上正樹『TRUE CRIME JAPANシリーズ2 連続殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「死へのおびえに腰を抜かす」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

「第六話 饒舌なる詩人」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)

「強姦魔・大久保清」(下川耿史『殺人評論』(青弓社,1991)所収)

「大久保清事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「大久保清事件 大久保清」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

飯塚訓『完全自供 殺人魔大久保清VS.捜査官』(講談社,2003)

大久保清著 大島英三郎編『訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記』(ロングセラーズ ムックの本,1973)

さとうまさあき『大久保清事件 実録昭和猟奇事件1』(アスペクト,1997)

筑波昭『昭和四十六年、群馬の春 大久保清の犯罪』(草思社,1982)→『連続殺人鬼大久保清の犯罪』(新潮OH文庫,2002)
備 考  
8/21 概 要 <赤衛軍事件>
 1971年8月21日、埼玉県朝霞市の自衛隊朝霞駐屯地で、パトロール中の自衛官(21)が殺害された。現場付近に「赤衛軍」と書かれた赤色ヘルメットやアジビラが遺留品として残されていたため、過激派の武器奪取を目的とした犯行と断定。11月16日に、日大生菊井良治(22)と少年(19)が逮捕。のちにさらに7名が逮捕された。菊井の供述から、京都大学経済学部助手T(ペンネーム滝田修)の名が出された。
 埼玉県警はTを1972年1月に指名手配したが、Tは手配と同時に地下に潜行。1982年8月8日、川崎市でTは逮捕された。途中、Tは『只今潜行中 中間報告』と題する手記を出版、雑誌にも手記を発表。埼玉県警はT捜索の名目で全国に家宅捜査の手を伸ばし、犯人隠匿の容疑で活動家を逮捕するなど、弾圧の口実とした。Tの潜行中に捜索の名目で繰り返された弾圧事件を「滝田事件」と呼んでいる。
文 献 滝田修『わが潜行四〇〇〇日』(三一書房,1983)

福井惇『1970年の狂気―滝田修と菊井良治』(文藝春秋,1987)
備 考  
9/16 概 要 <成田空港東峰十字路事件>
 成田空港建設地の第二次行政執行が執行された初日の1971年9月16日、建設予定地に近い東峰十字路で機動隊と空港反対派、過激派学生が衝突。神奈川県警F警部補(47)、K巡査部長(55)、M巡査(24)が火炎瓶や鉄パイプでめった打ちにされて死亡した。
 神奈川県警本部は事件当日、3人の二階級特進を決定。17日、警察庁は3人に対し、警察勲功章の授与を決定した。
 捜査当局は、空港反対運動での逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に、12月8日以降、地元住民や常駐学生ら延べ153人を逮捕し、55人を起訴した。うち、傷害致死で起訴したのは32人である。1986年10月4日、千葉地裁で証拠がないことから傷害致死を適用せず、公務執行妨害と凶器準備集合などを有罪としたうえで、アリバイを主張した3人に無罪、残りの52人にも執行猶予付きの判決を言い渡した。「熱田派」の52人は控訴せず確定。「北原は」の3人は無罪を求めて控訴するも、東京高裁で控訴棄却。さらに1人が上告するも、1995年2月28日、上告棄却、確定。
文 献 伊佐千尋『衝突』(文藝春秋,1988)
備 考  
10/3 概 要 <中学生応援演説忌避殺人事件>
 1971年10月3日、神奈川県足柄下郡で、中学三年生の男子F(15)は、後輩の一年生女子(12)を近くの山へ誘い出し、人目につかない場所で遊びと偽って女子を後ろ手に紐で縛り目隠しをしたが、そのまま棍棒で頭を殴り、紐で絞殺した。Fは卓球部の部長を務めていたが、同じ部の後輩である女子が生徒会役員の立候補にするので応援演説を頼まれていたが、演説をしたくなかったため、演説日の前日に殺害したものだった。
 女子の両親が当日に捜索願を出し、Fも捜索活動に加わっていた。3日の真夜中に遺体が発見。二人が一緒にいた目撃証言や、遺体の周辺に残された靴跡からFが容疑者として浮かび上がり、逮捕された。
 Fは中学一年生の時、近所の四歳下の女の子が呼び捨てにしたという理由で自宅に呼び出し、首を絞めていたところを母親に見つかり、庭の池に女児を投げ入れて逃げだした。それぞれの学校の担任が間に入り、事件は表に出なかった。
 Fは医療少年院に送られた。入所中の医療検査により、Y染色体を二個持つ性染色体以上が確認されているが、F本人には伝えられなかった。Fは1年11か月で出院し、その後米国で修業。帰国後、調理師として働いた。
文 献 日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社,2004/新潮文庫,2006)
備 考  Fは15年後の1987年3月1日、「新宿・通信教育学生傷害致死事件」(当該項目参照)を起こし、懲役7年の実刑判決が確定している。
11/3 概 要 <埼玉タクシー運転手殺害事件>
 埼玉県の元タクシー運転手Sは1971年11月3日、婚約者を追って新潟まで行ったものの、相手の女性に逃げられたため、タクシーで埼玉へ帰郷。しかし料金が払えなかったので、運転手を殺害した。
 1972年5月12日、浦和地裁で求刑通り一審無期懲役判決。おそらく控訴せず確定。
 1985年に出所。その後再収監され、1995年6月に2度目の仮出所。以後、無期保護観察中だった。
 Sは千葉市に住んでいたが、2010年9月22日午後4時半ごろ、近所のアパートに住む一人暮らしの女性(当時63)の首を手やアンテナコードで絞めて窒息死させた。遺体発見を遅らせるため、浴槽に遺体を沈めたり、物取りの犯行を装うため、室内を物色した上、現金12,000円やキャッシュカードなどが入った財布を奪った。瀬山被告と女性は、以前から近所付き合いがあった。すぐに捜査線上に浮上し、事件当日に逮捕。別れた女性のことを被害者に揶揄されたため、包丁を持ち出して脅して謝らせようとしたが、通報されれば仮釈放を取り消されると思って殺害したのが動機とされたため、殺人と窃盗などで起訴された。仮釈放は取り消された。
 裁判では1971年の事件の被害者遺族も参加。検察側は、「用意周到とは言えず、事実を認めている点からも死刑は躊躇せざるを得ない」と極刑を回避。2011年8月3日、千葉地裁で求刑通り一審無期懲役判決。控訴せず確定。
文 献 酒井幸子『血で染められたコスモス ある強盗殺人事件被害者遺族の四十年にわたるPTSDの記録』(パレード,2013)
備 考  
11/10 概 要 <沖縄ゼネスト警官殺害事件>
 1971年11月10日、沖縄で返還協定批准阻止の24時間ゼネストが全軍労・官公労・教組など14万6,500人の労働者が参加して行われ、沖縄全島は麻痺状態になった。沖縄県祖国復帰協議会は那覇市内で県民大会を開催。7万人近いデモ行進の渦中、午後5時50分頃、琉球警察の機動隊員1名が路上で殺害された。直後、警察は無差別な報復攻撃をし600余名の重軽傷者が出た。
 11月16日、沖縄の伝統工芸・紅型の研究に来ていた染色家の男性(24)が逮捕され、マスコミは「本土から派遣された過激派リーダー」と大々的に報道した。他に58名が逮捕され、23名が起訴された。
 男性は否認したまま起訴された。弁護側は裁判で提出した映像には、炎の中で倒れている警察官を救出する男性の姿を明確に映しだしていた。1974年10月7日、那覇地裁は傷害致死で男性に懲役1年、執行猶予2年の判決を言い渡す。しかし1976年4月5日、那覇高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。
文 献 松永闘争を支援する市民会議・松永優を守る会編『冬の砦』(たいまつ社,1977)

松永国賠を闘う会編『冤罪と国家賠償』(緑風出版,1994)
備 考  
11/14 概 要 <渋谷暴動事件>
 1971年11月14日午後、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)が米軍駐留を認めた沖縄返還協定の批准阻止を掲げて「11・14 全国総結集・東京大暴動闘争」を企て、「渋谷に大暴動を」などと呼びかけたことから、同派系全学連の学生ら約5,000人が渋谷駅周辺に集結。高崎経済大生の星野文昭(当時25)らは約700メートル先にある東京都渋谷区の渋谷署神山派出所近くで、新潟県警から派遣されていたN巡査(当時21)ら27人の機動隊部隊と遭遇。星野の指揮下、千葉工業大学生の大坂正明(当時22)の「殺せ、殺せ」との怒号に呼応した一部が、火炎瓶を投げて攻撃した。そしてN巡査の頭などを鉄パイプで殴り、火炎瓶で火をつけるなどして、殺害した。N巡査は死後、警部補に2階級特進した。新潟県警の別の警察官3人も重傷を負った。
 この「渋谷暴動」で警察官ら数十人が負傷。渋谷駅のハチ公前広場や、道玄坂など一帯の路上が火炎瓶によって炎上し、約300人が逮捕された。N巡査殺害で星野ら6人が1972~1975年までに殺人容疑で逮捕された。大坂は逃亡、指名手配された。
 1人は東京地裁で懲役4年以上6年以下の不定期刑、東京高裁で一審破棄、懲役7年の判決が確定。
 1人は東京地裁で懲役3年以上5年以下の不定期刑、東京高裁で控訴棄却、確定。
 1人は東京地裁で懲役4年以上6年以下の不定期刑、東京高裁で一審破棄、懲役5年以上7年以下の判決が確定。
 総指揮者とされた星野文昭元受刑者は殺人、現住建造物等放火、公務執行妨害、傷害、兇器準備集合、同結集の罪で起訴。1979年8月21日、東京地裁で懲役20年判決(求刑死刑)。1983年7月13日、東京高裁で一審破棄、無期懲役判決。1987年7月18日、被告側上告棄却、確定。
 A元受刑者は殺人、現住建造物等放火、公務執行妨害、傷害、兇器準備集合、同結集の罪で起訴。1979年8月21日、東京地裁で懲役13年判決(求刑懲役20年)。殺人の代わりに傷害致死を適用。1983年7月13日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。1987年7月18日、被告側上告棄却、確定。
 O元被告は殺人、現住建造物等放火、公務執行妨害、傷害、兇器準備集合の罪で起訴。1979年10月23日、東京地裁で懲役15年判決(求刑不明)。控訴中の1981年、精神疾患を理由に控訴審が停止。2017年2月7日、入院先の群馬県内の病院で死亡した。68歳没。
 星野文昭元受刑者は無罪を主張し、1996年4月17日、東京高裁に第一次再審請求。2000年、東京高裁は請求棄却。2004年、東京高裁は異議申立棄却。2008年7月16日付で最高裁第三小法廷は特別抗告棄却。2009年11月27日、東京高裁に第二次再審請求。2012年3月30日付で請求棄却。異議申立中の2019年5月30日、収容先の東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で肝臓がんで死亡。73歳没。再審請求は終了した。
 大坂正明はOの公判が停止していたことから時効が停止。2017年5月18日、広島市安佐南区のマンションで逮捕された。
文 献 星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議『無実で39年 獄壁をこえた愛と革命―星野文昭・暁子の闘い』(星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議,2013)

星野文昭・暁子『あの坂をのぼって――星野文昭・暁子 獄中往復書簡』(アーツアンドクラフツ,2023)
備 考  
12/18 概 要 <土田警視庁警務部長宅小包爆弾事件>
 1971年12月18日、土田国保警視庁警務部長(後に警視総監)の自宅に送られたお歳暮の中に爆弾が爆発、T夫人(47)が死亡、四男(13)が重傷を負った。事件後の記者会見で部長は「犯人に向かって叫びたい。君はひきょうだ」と訴えた。
 一年前の12月18日、京浜安保共闘(後に赤軍派と連合赤軍を結成)のメンバー3名が、拳銃強奪を目的に上赤塚交番で立番中の巡査を襲撃した。巡査に重傷を負わせた彼らは、休懇室で仮眠をとっていた巡査長と格闘になる。その際、巡査長が拳銃を発砲し、横浜国立大学四年生のS(24)が死亡。他の2名も負傷して逮捕された。普通に考えると正当防衛だが、過激派グループから見たら“弾圧”であった。小包爆弾事件は、土田警務部長が「拳銃使用は正当」と発言したことによる報復と見られた。
 他にも次の事件がある。
  • 1969年10月24日、東京都新宿区の警視庁第8機動隊庁舎に、50本入りピース缶に偽装した爆弾が投げ込まれたが、不発だった。
  • 1969年11月1日、東京都港区のアメリカ人文化センターに、ピース缶を使用した時限装置付爆弾が入ったダンボール箱が配達されて爆発。職員1人が負傷した。
  • 1971年10月18日、東京都港区の日本石油本社ビル地階にある郵便局に運ばれた郵便小包の中に入っていた爆弾が爆発。郵便局員1人が重傷を負った。宛先は後藤田正春警察庁長官と、新東京国際空港公団総裁だった。
 新左翼活動家の犯行と警察は断定し捜査。1972~1973年の間に警察は、当時赤軍派に属していたMTを全事件の主犯と断定。他17名も逮捕した。しかしMTを含む18名は、裁判で無罪を主張した。
 公判中の1979年、赤軍派のYが1969年10月の事件の実行犯であると証言。ただしこの証言は、大雑把であると判決で否定されている。さらに1982年5月、新左翼活動家であるMYは1969年10月の事件で自らが爆弾を製造したと暴露。「秘密の暴露」があったため、その証言は真実であるとされた。
 検察側はMTに死刑を求刑、他にも有期~無期懲役を求刑した。しかし1983年5月19日、東京地裁はMTを含む統一公判組被告人9名全員に無罪判決(MTは別件で懲役1年執行猶予2年の有罪判決)を言い渡した。検察側は控訴するも1985年12月13日、東京高裁は検察側の控訴を棄却、無罪が確定した。他に逮捕された人たちも全員、無罪判決を受けている。MYはすでに時効であったため、逮捕されなかった。
 逮捕された18人のうち、ピース缶爆弾事件で有罪判決が出た2名を除く16名が一審で無罪判決が出された。5名は一審で無罪が確定、6名は控訴棄却され確定、5名は控訴取り下げにより、1985年12月28日までに無罪が確定している。また有罪が確定したうちの1名については再審で無罪が確定している。
 MTらは国と東京都に対して損害賠償請求の民事訴訟を起こしたが、1名のみ100万円が支払われた他はいずれも棄却されている。
文 献 荒井まり子『子ねこチビンケと地しばりの花 未決囚十一年の青春』(径書房,1986/風塵社,2010)

榎下一雄『僕は犯人じゃない 土田・日石事件一被告の叫び』(筑摩書房,1983)

高沢皓司『フレームアップ―土田・日石・ピース缶事件の真相』(新泉社,1983)

中島修『40年目の真実―日石・土田爆弾事件』(創出版,2011)

爆弾フレームアップ事件資料編集委員会編『爆弾とデッチあげ』(たいまつ社,1978)
備 考  
12/21 概 要 <三崎事件>
 1971年12月21日、鮮魚小売業兼すし店経営A(44)は不良の仲間へ引きずり込まれた娘を捜していて経営が不振となり、1971年12月21日午後11時頃、神奈川県三浦市の船舶食糧販売業の男性(当時53)方を訪れ、借金100万円を申し入れたが断られた。さらに侮辱され頬を平手で殴られたため激怒。持っていた刃物で男性を刺し殺した。さらに犯行の発覚を防ぐため、入浴中の男性の妻(当時49)と2階にいた長女(当時17)も同様の方法で殺した。捜査段階では「自白」したものの、裁判でAは第一発見者でしかないと、無実を主張。物的証拠もほとんどなく、目撃証言も、足を怪我しているAの特徴と一致しないなどの疑問点が残る。
 1976年9月25日、横浜地裁横須賀支部で求刑通り死刑判決。1984年12月18日、東京高裁で被告側控訴棄却。1990年10月16日、最高裁で被告側上告棄却、確定。
 1991年1月、再審請求。しかし地裁での審理が続いたまま、2009年9月3日午前7時55分、敗血症のため死亡。82歳没。再審は遺族が引き継いだ(第二次再審請求へ移行)。
 2010年3月16日付で横浜地裁横須賀支部は、判決の根拠となった物証の一つで被害者の返り血とされた血痕のDNA型鑑定を決めた。弁護側はA自身の血痕であると主張したが、7月2日、道具袋に付着していた血痕からはAのDNA型は検出されなかったことを弁護団が明らかにした。2011年8月23日付で横浜地裁横須賀支部は、再審請求を棄却する決定を出した。8月29日、弁護団は東京高裁に即時抗告した。2020年10月、東京高裁は請求を棄却。2022年4月、最高裁は弁護側の特別抗告を棄却した。
 2023年1月17日、遺族が横浜地裁横須賀支部に第三次再審請求。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「第六章 三崎事件 荒井政男」(片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社,2016)所収)
備 考  

【1972年】(昭和47年)

日 付事 件
2/17 概 要 <連合赤軍リンチ事件>
 赤軍派9名と京浜安保共闘20名が連合して1971年12月下旬に連合赤軍が結成された。当時、アパート・ローラー作戦により都市部での活動拠点は押さえられており、軍事訓練と称して丹沢、榛名、妙義山中の山岳アジトを点々。リーダーである森恒夫(27)、永田洋子(26)は自分の気にくわないもの、反抗的な者へ対し、次々に“総括”と称したリンチを敢行。12月31日から2月10日までに12名が死亡した。京浜安保共闘は、連合前に同志2名を殺害している。途中、“総括”に怯え4名が脱走。捜査の手は山岳地帯にまで及び、2月16日に2名、17日に森、永田が逮捕。19日、植垣他4名が逮捕。残った5名は「あさま山荘」の銃撃戦へ突入する。
文 献 <連合赤軍あさま山荘事件>参照
備 考  
2/19 概 要 <連合赤軍あさま山荘事件>
 1972年2月19日、連合赤軍のメンバー坂口弘(25)、坂東国男(25)、吉野雅邦(23)、N・K(19)、弟のM・K(16)が逃走中に警官隊と銃撃戦を交えた後、「あさま山荘」に逃げ込み、管理人の妻を人質に取り籠城した。以後、激しい銃撃戦を展開。22日、民間人Tさん(30)が説得を試みようと単身山荘に近づくも犯人に頭を撃たれ3月1日に死亡。2月28日、警察はクレーン車から吊した大鉄球で三階部分を破戒、突入。銃撃戦の末に5人を逮捕。人質は無事だった。銃撃戦の途中で警官2名が死亡。
 森は1973年1月1日、初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺。永田、坂口は1993年に死刑確定。吉野は求刑死刑に対し無期懲役判決が確定。坂東は1975年8月4日、日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ逃亡し、日本赤軍と合流した。他のメンバーも懲役3年~20年が確定した。
 永田洋子は2011年2月6日病死、65歳没。
文 献 荒岱介編『ブントの連赤問題総括 真理を求めるものは正しい省察を求む』(実践社,1995)

植垣康博『兵士たちの連合赤軍』(彩流社,1984)

植垣康博『連合赤軍27年目の証言』(彩流社,2001)

大泉康雄『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社,1998)→『「あさま山荘」籠城 無期懲役囚・吉野雅邦ノート』(祥伝社文庫,2001)

大泉康雄『あさま山荘銃撃戦の深層』(小学館,2003)

大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』(文藝春秋,1996/角川文庫,2001)

大槻節子『優しさをください』(彩流社,1986)

加藤倫教『連合赤軍少年A』(新潮社,2003)

角間隆『赤い雪 総括・連合赤軍事件』(読売新聞社,1980/新風舎文庫,2004)

久能靖『浅間山荘事件の真実』(河出書房新社,2000/河出文庫,2002/河出文庫(増補版),2021)

佐賀旭『虚ろな革命家たちー連合赤軍 森恒夫の足跡をたどって』(集英社,2022)

坂口弘『あさま山荘1972』上下(彩流社,1993)

坂口弘『続あさま山荘1972』(彩流社,1995)

査証編集委員会編『新編「赤軍」ドキュメント』(新泉社,1983)

佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋,1996/文春文庫,1999)

椎野礼仁編『連合赤軍事件を読む年表 事件の全貌をこの1冊に凝縮!』(彩流社 オフサイド・ブックス22,2002)

情況編集委員会編『連合赤軍の軌跡 獄中書簡集』(情況出版,1974)

白鳥忠義『「あさま山荘事件」審判担当書記官の回想』(国書刊行会,1988)

鈴木創士『連合赤軍 革命のおわり革命のはじまり』(月曜社,2022)

高沢皓司『兵士たちの闇』(マルジュ社,1982)

高沢皓司編『資料連合赤軍問題1』(「銃撃戦と粛清」「森恒夫自己批判書全文」森恒夫著)(新泉社,1984)

高橋檀『語られざる連合赤軍―浅間山荘から30年』(彩流社,2002)

永田洋子『十六の墓標』上下(彩流社,1982~1983)

永田洋子『続十六の墓標』(彩流社,1990)

永田洋子『氷解 女の自立を求めて』(講談社,1983)

永田洋子『私生きてます』(彩流社,1986)

パトリシア・スタインホフ(木村由美子訳)『日本赤軍派 その社会学的物語』(河出書房新社,1991)

パトリシア・スタインホフ,伊東良徳『連合赤軍とオウム真理教 日本社会を語る』(彩流社,1996)

坂東国男『永田洋子さんへの手紙』(彩流社,1984)

深笛義也『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(清談社Publico,2022)

松田久『銃よ、おまえは誰のために 連合赤軍総括への試論』(査証編集委員会『査証』臨時増刊 ,1973)

「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(朝日新聞社,2008)

連合赤軍事件の全体像を残す会『証言連合赤軍1~12』(皓星社,2004~2018)

「連合赤軍浅間山荘事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「社会主義犯罪がある 連合赤軍事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)

「連合赤軍あさま山荘事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「連合赤軍事件 坂口洋、永田洋子」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
5/6 概 要 <晴山事件>
 1972年5月6日、北海道空知郡のTさん(19)が帰宅途中に行方不明となり、翌日に自宅付近で全裸死体で発見。同年8月19日、砂川市在住のKさん(19)も帰宅途中に行方不明となり、同月26日に樺戸郡の山林内において全裸死体で発見された。警察は連続婦女暴行殺人事件とみて捜査、2年後の1974年5月11日に空知郡奈井江町で発生した強姦致傷事件の容疑で同月26日に逮捕されたH(40)が上記2件の犯行を「自白」。一審途中から自白を否認、無実を訴える。一審判決は無期懲役であったが、二審で死刑判決。1990年9月13日に最高裁で死刑が確定した。
 1992年、札幌高裁に再審請求。証拠物件らしい証拠物件がないこと、犯行に使われたはずの車が警察に押収されたまま行方不明になっていること、現場に残された血液型が複数あることなどから冤罪の可能性が高いとされていた。1997年、裁判所権限によって証拠物件のハンカチについていた体液(犯人のものである可能性が高かった)をDNA鑑定した結果、H死刑囚と一致した。
 2001年2月、札幌高裁は再審請求を棄却。異議を申し立て、審理中の2004年6月4日午前7時40分すぎ、収容されていた札幌刑務所(拘置支所)で、がんによる全身衰弱のため死亡した。70歳没。2003年12月に八王子医療刑務所(東京)で進行性胃がんの手術を受け、4月に札幌刑務所に戻ってきていた。遺族は異議申立を取り下げた。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
5/11 概 要 <山中事件>
 1972年5月11日、石川県加賀市在住のタクシー運転手Dさん(24)が行方不明となり、7月26日に同県江沼郡山中町(山中温泉)の林道において白骨死体で発見された。2日後、Dさんを保証人にして金融業者から30万円を借りていた山中町の木地業手伝いA(24)が逮捕された。Aは、蒔絵師の霜上則男さん(26)の指示で金を借りたうえ、午後9時ごろに二人で殺害したと自白。石川県警は、5月14日に加賀市の林道で霜上さんがAを小刀で刺して金を奪おうとして失敗したとして強盗致死未遂容疑で既に逮捕されて公判中だった霜上さんを、殺人と死体遺棄容疑で逮捕した。
 霜上さんは殺人事件について、一貫して無罪を主張。Aを刺した事件は喧嘩による傷害事件だと争った。Aは霜上さんが主犯と主張した。
 1975年10月27日、金沢地裁はAの供述を決め手とし、霜上被告に求刑通り死刑、Aに懲役8年が言い渡した。Aは控訴せず確定。1982年1月19日、名古屋高裁金沢支部は霜上被告の控訴を棄却した。しかし1989年6月22日、最高裁は供述内容と遺体の状況などとの矛盾を指摘し、「共犯者の証言に疑問有り」として審理を差し戻した。名古屋高裁の差し戻し審では、山本卓裁判長らが夜間検証を行い、犯行現場が暗くてAの目撃証言が不可能であったことを確認。1990年7月27日、名古屋高裁はAの供述が矛盾や不合理な点が多くて信用できないと指摘し、一審判決を破棄し、無罪を言い渡した。別件の強盗致死未遂事件については懲役8年を言い渡した。しかし18年間の未決拘置期間が刑期に算入され、事実上服役が済んだものとして山本裁判長は閉廷後、職権で拘置を取り消し、霜上被告は同日、18年ぶりに釈放された。検察側は上告を断念し、無罪判決が確定した。
 1991年1月31日、名古屋高裁は別件で確定した懲役8年を差し引いた拘束日数3,625日分から、強盗致死未遂事件の審理に要した期間400日を差し引いた3,225日分について、1日あたり最高の補償額9,400円を認め、3,031万5,000円を支払うことを決定した。名古屋高裁は7月29日、延べ13人分の弁護人費用として483万円余を支払うことを決定した。
文 献 正延哲士『蒔絵職人・霜上則男の冤罪 山中温泉殺人事件』(東京法経学院出版,1985)

武山哲夫『自由と無罪への道のり』(同時代社,1996)
備 考  名古屋高裁の差し戻し審で無罪判決を言い渡した山本卓(たかし)裁判長は退官後、1990年8月17日付の中日新聞と21日付の高知新聞に掲載されたインタビューで、「容疑は黒いが、疑わしきは罰せず」「被害者の墓にもうで、ご遺族に頭を下げてもらいたかった」などと発言。自由法曹団は11月5日、「人権侵害である」と抗議声明を出した。大出良知・静岡大学教授と、川崎英明・島根大学助教授は連名で、「法学セミナー12月号」(日本評論社)に「無罪という結論だけでいいのか?」という論文を発表した。
5/30 概 要 <日本赤軍テルアビブ空港事件>
 1972年5月8日、アラブゲリラはサベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブ(現ロッド)空港に着陸、逮捕されている多数の同志の釈放をイスラエル政府に要求するも、全員が射殺された。この事件の報復のため、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)はテルアビブ空港奇襲作戦を計画。1971年に重信房子とともにベイルートで海外赤軍派(1974年、日本赤軍と名称変更)を結成した奥平剛士にPFLPは協力を依頼。日本人なので、空港のチェックが厳しくないとの判断からだった。奥平はベイルート入りしていた安田安之、岡本公三と相談、要請に応じた。
 1972年5月30日、パリ発ローマ経由のフランス航空機でテルアビブ空港に到着、税関で受け取ったスーツケースから自動小銃と手榴弾を取り出し、イスラエル警備隊に向け銃を乱射、空港内の飛行機に向かって手榴弾を投げた。26人が死亡、73人が重軽傷を負う。奥平(27)、安田(25)は自爆死。岡本(25)は逮捕された。
 岡本はイスラエルの軍事法廷で「我々三人は、潔く死んで、オリオンの三つ星になりたいと思った」と語った。1972年8月、岡本は終身刑が確定。1985年5月、イスラエルとPFLP-GCとの捕虜交換で岡本は日本赤軍に戻った。
 1997年、岡本はレバノンで日本赤軍の他のメンバー4人とともに、偽造旅券、不法入国の罪で逮捕。禁固三年の刑を受けた。岡本以外の4人は禁固刑の執行後、日本に送還された。2000年、レバノンは岡本の政治亡命を認めた。
文 献 「日本赤軍テルアビブ空港事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
6/23 概 要 <亭主バラバラ殺人事件>
 1964年1月、洋裁店員Y代(27)はとび職人K男(23)と恋愛結婚をした。ところがK男は酒癖が悪く、すぐに暴力を振るう。怠け癖があり、しかも前科9犯だった。結局Y代はバーのホステスとして働くようになるが、K男の暴力に耐えきれず、1968年、留守中に逃げ出した。1970年、名古屋のクラブで8歳下のホステスMと仲良くなり、翌年同居するようになる。1972年3月、K男が二人の住むマンションを探し出し、居座るようになった。6月23日、徹夜麻雀で負けたK男はY代に「食事を作れ」と命令したがY代に拒否され逆上、刺身包丁を持ち出して襲いかかろうとしたため、Y代はそばにあった金属製の置物でK男の頭を殴りつけた。倒れたK男にMが刺身包丁を拾い、背中を突き刺して殺害した。死体を運ぼうとしたが重くて運べなかったため、バラバラにすることを決意。翌日、鋸でバラバラにし、包装して死体を何日かに分けて処分した。1ヶ月後、腐乱した死体が発見。指紋からK男であることが判明。すぐに容疑は妻であるY代に向けられた。7月30日、帰宅したY代に捜査員が声をかけたとたんY代は自白。Mもすぐに自白した。
文 献 「横暴な夫の生首は新幹線に乗せて」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
6/26 概 要 <女性歯科医ホテル内殺人事件>
 1972年6月26日、東京新橋のホテル内で、熊本県八代市の女性歯科医(37)が全裸で死んでいるのを、一緒に上京した男性歯科医の2人(ともに37)が発見した。3人は25日、毎月1回東京で開かれる講習会に出席後、3人で近くの店で飲んでいたが、女性のみが先に帰っていた。死体には洋服や下着が掛けられてあったが、全身に皮下出血、暴行のあとがあった。女性が内側からドアを開けた様子が見られたが、医療器材会社に支払う予定の160万円が見当たらない(のちに自宅から発見された)ため、警察は顔見知り、行きずりの両面から捜査を開始した。25日午後8時30分頃、「助けて」という女性の叫び声を聞いたという証言が複数あったが、他の証言や目撃証言はなかったため捜査は難航。事件は迷宮入りした。
文 献 朝倉喬司『誰が私を殺したの 三大未解決殺人事件の迷宮』(恒文社,2001/新風舎文庫,2007)
備 考  
11/6 概 要 <日本航空三五一便ハイジャック事件>
 1972年11月6日、東京発午前7時20分、福岡行きの日本航空三五一便が、アメリカの永住許可権を得ている47歳の日本人にハイジャックされた。1970年のよど号事件、同年8月の全日空機ハイジャック事件(犯人は心神耗弱と判断された)に続く3回目のハイジャック事件だった。要求はキューバへの政治亡命と200万ドルの身代金。当初は流ちょうな英語での要求だったので、乗客である唯一の外国人である日本在住のドイツ人社長が疑われた。ただし犯人は、先月まで運行されていたダグラス社のDC8-62号機と勘違いしており、ハイジャックしたボーイング727-19では飛行距離が短いため、羽田空港で飛行機の交換も追加要求した。10時46分、飛行機が羽田空港に戻った。午後2時37分、人質のうち乗客が飛行機を降り始める。3時4分、警察側は空港リムジンバス3台をDC8の死角に付け、乗客を救い出して逃げ出した。4時4分、犯人と乗員3人がDC8に乗り移ったが、中に潜んでいた刑事7人が犯人を捕まえた。
 なお同日は国鉄の北陸トンネル内での火災事故による死亡事故があり、政府は二つの対策本部を指示することとなった。また、乗客の中には久留米市において化粧品メーカーの慰安会に出演する予定だった江利チエミ、三田明、バンド関係者がいた。日本航空は200万ドル、約6億円強を東京銀行から借りており、7時間の借入金に対する利息は11万6,000円だった。
 1974年3月13日、東京地裁は男に懲役20年の判決を言い渡した。動機は一攫千金を狙ったものであり、米国内で逃走に使う予定のパラシュートを持っていた。控訴、上告も棄却され、確定している。
文 献 「特攻隊員・ポール」(佐木隆三『事件百景』(徳間書店,1979/文春文庫,1985)収録)
備 考  

【1973年】(昭和48年)

日 付事 件
2/4 概 要 <尾西市アベック殺人事件>
 建設作業員で、殺人未遂など前科八犯のOY(34)、TJ(23)、TY(31)は愛知県尾西市の建設現場で働いていた。1973年2月4日の日曜日夜、現場近くの飯場に帰ってきた3人は、近くの河原公園に来ていたアベック(ともに19)を襲った。抵抗する男をOYとTJが襲い、OYが登山ナイフで刺して死亡させ、川の中に沈めた。TYが女を飯場まで引きずり、3人で夜通し強姦。翌朝、通報を恐れて殺害した。その後、飯場に車で迎えに来た現場監督(32)を脅し、女の遺体を車に乗せ、岐阜県各務原市の山中にある雑木林に遺体を埋めた。TJとTYはその後、兵庫県に逃亡。OYは飯場に居座った。OYの妹と結婚していた現場監督は苦慮し、5日夜、愛知県中村署に匿名で遺体を埋めるところを見たと、車のナンバーも含めて通報。車のナンバーから割り出された現場監督は、同日夜、中村署の事情聴取にすぐ死体遺棄を自供し逮捕された。6日未明、OYも逮捕され犯行を自供。同日午後1時過ぎ、女性の死体が、1時30分ごろ、男性の死体が発見された。現場監督の供述から午後2時過ぎ、西宮市内でTJ、TYが逮捕された。現場監督は後に起訴猶予となっている。
 アベックはともに尾西市の織物工場の従業員で、男性は定時制の利用学校に通い、ともに将来を誓い合っていた。そして清らかな交際を続けていた。
 1973年10月24日、名古屋地裁一宮支部はOYに求刑通り死刑、TJに無期懲役(求刑死刑)、TYに懲役12年(求刑懲役15年)を言い渡した。TJは従属的立場と認められた。TYは1件目の殺人に直接関与していないことが考慮された。TYは控訴せず確定。1974年7月4日、名古屋高裁はOYの被告側控訴、ならびにTJの検察・被告側控訴を棄却した。TJは上告せず確定。1975年10月3日、最高裁はOYの上告を棄却し、死刑が確定した。
 OYは1977年に死刑が執行されている。
文 献 「第二話 日曜日の残酷」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
2/21 概 要 <滋賀銀行9億円横領事件>
 Oは1948年12月、滋賀銀行京都市店に入行。縁談の話もあったが、夫が愛人を作って別れたことから男嫌いになった母親がいたためか、まとまらなかった。1965年5月、北野支店に勤務していたOは、職場の懇談会後に乗ったタクシーで10歳年下のYと知り合う。そのときはそれで別れたが、Oが山科支店へ転勤となった1966年春、帰宅途中のバスで偶然会ったYに声を掛けられた。当初は大きな商売をしているという親族に大口預金をお願いするために電話を掛けていたが、その後付き合うようになった。Yはギャンブル好きで売上金を誤魔化すことからタクシー会社を転々としており、当時は無職だった。
 Oと付き合うようになったYは金を無心するようになり、捨てられたくなかったYは貯金を切り崩すようになった。秋にOは普通預金係から定期・通知預金係に異動。Oが知り合った老人が銀行に預けた金をYに渡すようになり、合計約1,200万円が渡された。Yはさらに無心するようになり、Oは定期の中途解約を偽造するようになる。それでも間に合わなくなり、架空名義を作ることで100万単位の金を引き出し、Yに貢ぎ続けた。1972年10月、Oは定期・通知預金事務決済者となっている。Yはその金で外車、モーターボートを複数購入し、豪邸を建て、1,000万円単位でギャンブルをするようになった。Yの兄や母親にも金を融通していた。さらにYは1970年に結婚し、別に愛人が2人もいたが、Oはそのことを知らなかった。
 1973年2月1日、O(42)は山科支店から東山支店へ異動する。8日頃より山科支店から帳簿が合わないと呼び出しを受けるようになり、13日夜にOは姿を消した。山科支店でOの横領が発覚し、2月18日付で銀行から滋賀県警へ捜査の依頼があり、21日、告訴とOへの逮捕状が請求され、全国指名手配された。10月15日、Yが贓物罪(収受)容疑で逮捕される。YがOの居所を供述したため、10月21日、Oが潜伏先の大阪で逮捕された。
 裁判で認定されたのは、過去6年で約1,300回、合計8億9,400万円が横領されたと判明した。この金額は一行員による犯行としては当時の最高額であった。
 Yは競艇に3億円、遊興費に7,000万円、実兄の金融会社に5,000万円、自宅の購入費と改造に6,500万円、電気器具などに1,000万円、モーターボート5隻に1,000万円、実家の庭園改造に1,000万円などを使ったと自供した。Oが自ら使ったのは、宝石を買った2,000万円だけだった。
 裁判でOはYに騙されたと主張。YはOからもらっただけと共謀関係を否認した。また裁判でOの弁護側は、銀行の管理体制の甘さにメスを入れた。1976年6月29日、大津地裁は詐欺、横領でOに懲役8年+賠償1,000万円、Yに懲役10年+賠償3,000万円の判決を言い渡した。共に控訴せず、判決は確定した。
文 献 和久峻三『裁かれた銀行-滋賀銀行九億円横領事件』(角川書店,1978/角川文庫,1981)

「公金横領事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)
備 考  
2/25 概 要 <大阪ニセ夜間金庫事件>
 1973年2月25日午後8時40分頃、大阪市の三和銀行梅田北支店通用口前に、何者かがニセ夜間金庫を設置した。これにだまされた預金者が次々と投入し、現金2,576万円までになった。しかし午後9時20分頃、投げ込まれた現金袋の重みでニセ金庫の前面のベニヤ板がわん曲し、偽物であることが発覚して未遂に終わった。迷宮入り。
文 献 「わたしとあなたの偽金庫」(佐木隆三『事件百景』(徳間書店,1979/文春文庫,1985)収録)

「ニセ夜間金庫のトリック」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  
3/20 概 要 <手製毒ガス保険金殺人事件>
 山形市釈迦堂に住む近郊きっての素封家、Y(45)は1973年3月20日午前2時半ごろ、3日前からシイタケ栽培を始めたビニールハウス内に妻(43)とともに行き、保温用に練炭火鉢2個を使っていたことから安全のために防毒マスクを付けたが、妻のほうには無臭の一酸化炭素を詰め込んだ袋がつながっていた毒マスクを着けさせた。一酸化炭素を吸い込み、妻は死亡。Yはマスクを取り外し、警察へ通報。一酸化炭素中毒による事故死として処理された。
 Yは妻の死亡によって8,000万円の保険金を得ていた。東北郵政監査局は8月ごろ、東北ブロック以外の地域から保険金が振り込まれていたことに不信を抱き、警察と連携を取って捜査に乗り出す。簡易保険は厳密な審査はないが、同一ブロック内での加入契約の制限があった。捜査の結果、Yは山形を含む7県で契約をしていたが、契約時に妻本人ではなく替え玉を使ったことが判明した。なお、長女にも替え玉を使って1972年10月から12月にかけて大量の保険金をかけていたが、妻の死後に解約している。奪った金は、商品相場につぎ込んで浪費した。1974年3月29日、Yは妻死亡時の保険金詐欺で逮捕される。Yは罪を認め、詐欺の対象となった6,000万円分について山林を処分するなどして弁償した。ところがこれは別件逮捕であり、4月7日、殺人罪でYは再逮捕された。
 1975年1月29日、山形地裁で求刑通り無期懲役判決が言い渡されている。
文 献 「第九話 真夜中の実験室」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  事件に使った毒マスクや、一酸化炭素ガスを抽出して無臭化した技術については、模倣の恐れがあるとされ、裁判記録を見ることはできない。
7/20 概 要 <立教大助教授教え子殺人事件>
 1973年9月6日、立教大助教授O(38)の一家四人が静岡で入水自殺し、遺体が見つかった。警察の調べの結果、Oの女性問題で夫婦がノイローゼ状態にあることがわかった。Oは教え子である大学院生S(24)と結婚すると約束して深い関係にあったが、Sが妻の座をしつこく要求したことから憎しみを覚え、7月20日、八王子にある恩師の別荘で殺害し、死体を埋めた。死体が発見されたのは、事件から7ヶ月後の1974年2月28日だった。
文 献 「大学助教授教え子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

松田美智子『大学助教授の不完全犯罪』(恒友出版,1994)
備 考  
8/8 概 要 <金大中氏拉致事件>
 韓国の有力政治家で大統領候補でもあった金大中氏は、1973年8月8日、東京飯田橋のホテルで会談後、廊下を出たところで屈強な男たちに拉致され、近くの部屋に連れ込まれた。そこで睡眠薬をかがせられ、地下駐車場に乗せられた。車は大津インター近くのアジトに入り、その後車で海岸に連れられ、モーターボートで1時間後、大きな船(後に韓国船と判明)に移される。9日の午前、船室で寝入っていた金氏は体をロープ、包帯等でグルグル巻きにされ、右腕、左手首に40kgぐらいのおもりをつけられる。このとき、飛行機が飛んできて照明弾を落とした。船は約30分間全速で航行するが、その後巡航速度に戻る。しばらくして金氏の元に一人の男がやってきて「助かりましたよ」と囁いた。
 後に事件は、韓国中央情報部により実行されたことが判明。飛行機は、アメリカの要請により日本国が飛ばしたものであった。
文 献 「金大中氏拉致事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「金大中事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「金大中拉致事件 もうひとつの日米「密約」」(週刊朝日ムック『未解決事件ファイル 真犯人に告ぐ』(朝日新聞出版,2010)所収)

『金大中事件全貌』(毎日新聞社,1978)

金大中『わたしの自叙伝』(NHK出版,1995)

中園英輔『拉致』(光文社カッパノベルス,1983)
備 考  
9/4 概 要 <京都内縁妻屍蝋事件>
 大阪市のYは記念贈答品販売業を営むもうまくいかず、親類や友人から金を無心する一方だった。しかし女性には不思議とモテ、離婚後も二人の水商売の女と同棲していた。1969年5月ごろ、京都のクラブのホステスの女性と知り合い、同棲を始めた。女性から借金して家電販売店を開業するも放漫経営で営業不振となり、女性や親族から金を借りるだけでなく、女性が買った自宅や店まで抵当に入れるも、1971年2月末ごろには取引停止となる。3月24日午前2時ごろ、酒を飲んで寝ていたYは、ホステスの仕事から帰ってきた女性(35)と口論になり、詰られたため激怒。台所から出刃包丁を持ち出し、女性を刺して殺害した。Yはその後、ブリキ製の衣装箱に防腐剤と数珠を入れ、荷物と一緒に大阪へ移り住んだ。その後、二人の女性と同棲したが、衣装箱は「神聖なもの」として一切手を触れさせなかった。
 1973年6月中旬、Y(40)は知り合いと一緒に豊中市のアパートを借りると言って布団袋4個とダンボール5箱を運び込んだが、手付金5,000円を払っただけで姿を見せなかった。9月4日、業を煮やした管理人が巡査立会いの下荷物を確認し、屍蝋化した女性の死体が発見された。部屋に残っていたダンボールなどから写真など身許を示すものがいくつも見つかり、捜査本部が内縁の夫だったY(40)に任意同行を求めたところ、あっさりと犯行を自供したため、25日午前2時に逮捕した。一緒に荷物を運んだ男性はただ手伝っただけであり、死体が入っているとは知らなかった。
 殺人容疑で起訴されたが、逮捕時の死体遺棄容疑については遺体を「神聖なるもの」として持ち歩いていたためか、免除されている。大阪地裁は求刑通り懲役15年を言い渡し、控訴せず確定している。
文 献 「第八話 神聖なる屍蝋」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
11/6 概 要 <杉並区元婚約者殺人事件>
 東京都杉並区に住む会社運転手の男性は、1973年4月、初めて行った新宿歌舞伎町のアルサロでホステスの女性と知り合い、その後付き合うようになる。女性は短大卒業後東京医大附属病院の衛生検査技師として働くかたわら、1973年2月からホステスとしてアルバイトをしていた。二人は結婚の約束をして同棲し、互いの両親に紹介したが、女性の両親が反対。更新所で調べ、早稲田大学卒の会社セールスマンと話していた男性が中卒の運転手であることが判明。不仲となり、11月3日夜には別れ話を持ちかけた女性の首を男性が強く絞めてしまい、女性は逃げ出した。その後は仲直りしたが、5日夜、男性(24)の下宿先に女性(24)は帰ってこなかった。6日夜、女性の下宿先へ行き仲直りをしようとしたが、「中卒の百姓あがりとは結婚できない」と言われたことに腹を立て首を絞めて殺害。レンタカーを借り、遺体を布団袋に詰めてコンクリートの塊と一緒に葛飾区の川へ沈めた。
 男性はその後2回自殺を図り、3回目のガス自殺も9日朝、管理人に発見されて助かった。しかし退院後は痴呆状態が続き、広島市へ連れ帰られ、精神病院に収容された。退院後、兄のところで左官見習いを始めたが、女性の失踪を捜査していた警察は3月22日、先の事件の殺人未遂容疑で逮捕した。3月25日、川から死体が浮かび、その後男性は殺人容疑で再逮捕された。
 東京地裁は男性に懲役10年(求刑懲役13年)を言い渡し、後に確定した。
文 献 「第四話 天使の当惑」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  

【1974年】(昭和49年)

日 付事 件
2/7 概 要 <上野消火器販売会社一家殺人事件>
 東京都荒川区に住む徳永励一(36)と大田区に住む木村繁治(39)は1974年2月6日午後3時10分ごろ、台東区上野にある消火器販売製作所を訪問。社長の妻(69)と社長(71)を徳永がハンマーで殴り、木村が首を絞めて殺害した。午後6時ごろ、三男の妻が帰宅。金のありかを聞いたが分からなかったので、縛って転がした。6時45分ごろ、帰ってきた三男を木村がハンマーで殴り、徳永がハンマーで滅多打ちにした。そこへアルバイトで消火器のセールスマンをしていた国鉄職員の男性(26)が入ってきたので徳永がハンマーで殴り倒し、職員と三男を風呂場に連れて行き水に浸して窒息死させた。さらに洗面器に水をくみ、三男の妻の顔を見ずに押し当て、窒息死させた。その後、徳永と木村は近くにある消火器販売店に行くも、シャッターが閉まっていたため断念。死体を集めて灯油をばらまき、ガス栓を開いて放火しようとしたが、未遂に終わった。現金78,000円を奪い、山分けして逃亡した。
 徳永の継父はかつて製作所のセールスマンであった。徳永も見習いとして働いたが、製作所が販売店を開いて直接消火器を販売するようになり、得意先は減る一方。継父の死後は、セールスマンを辞め、メッキ工場など職を転々とし、事件当時、徳永と木村は同じとび職の親方の下で働いていた。製作所に恨みのある徳永が木村を誘い、犯行に及んだものだった。ただし、強盗については木村が積極的に動いている。
 7日正午過ぎ、電話の繋がらないことに不信を抱いた三男の妻の父親が製作所を訪れ、死体を発見。遺留品の中に、血だらけでネーム入りのズボンがあったことや指紋から前科のある徳永が浮上し、8日に指名手配した。徳永は自宅に戻り、母親に友だちとやったと告げた後行方をくらました。母親が警察に供述し、唯一の友人であった木村が浮上し、2月11日に逮捕状が出た。同日、浅草で仕事の未払い金をもらいに行き、あっさりと木村は逮捕された。3月8日、足立区のメッキ工場に職探しに現れた徳永が逮捕された。
 二人は逮捕後すぐに犯行を自供。木村は事前の共同謀議を否定したものの、1975年12月22日、東京地裁は二人に求刑通り死刑判決。1977年3月17日、東京高裁は被告側控訴棄却。1979年12月25日、最高裁は上告を棄却し、死刑が確定した。
 1986年5月20日、二人への死刑が執行された。徳永、49歳没。木村、52歳没。
文 献 「第一話 醒めた友情」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)

「上野消火器商一家殺害事件 徳永励一、木村繁治」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
3/12 概 要 <妻の不倫相手殺人事件>
 東京都江東区に住む韓国籍で鉄工所経営のS(48)は、同じく韓国籍で深川で役肉屋を経営している妻(43)が不倫をしていることに気付き、その相手がかつて妻が借金をしたガソリンスタンド経営者の韓国籍の男性(53)であると判明。数か月後の1974年3月12日、Sは妻を家の横に置いた廃車の冷凍車に監禁し、縛り付けて施錠。翌日午後2時過ぎ、男性が家に現れたところを詰問し、改造した鋲打ち銃で殺害。現金30万円や小切手(額面50万円)を奪い、毛布で遺体を包み、新夢の島に男性の車で運んで遺棄した。そして車をガスで切断してスクラップにし、業者に引き取らせた。14日午前4時、妻を解放。午後8時、銭湯に行くと言って家を出、そのまま行方不明となった。16日、男性の長男とSの妻が深川署に捜索願を提出。妻を監禁した容疑で3月19日、Sは全国指名手配になった。Sの車が見つかり、改造銃が中にあったことから4月4日に殺人容疑に切り替えられた。Sは沖縄県那覇市に潜伏していたが、小切手を使ったことがばれて4月6日に逮捕された。
 Sは犯行を自供し、死体の埋めた場所も詳細に供述。しかし新夢の島には毎日ゴミが運び込まれるため、死体の捜査には難航。Sは殺人で起訴されたが、死体のないまま起訴されたのは東京地検では初めてのことだったらしい。バックホウで掘り起こしても死体は出てこず、最後は検土杖によって死体の位置が判明し、掘り起こされた。
文 献 「第十話 夢の島情話」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
3/17 概 要 <甲山事件>
 1974年3月17日、兵庫県西宮市の知的障害幼児施設「甲山学園」でMちゃん(12)が行方不明になる。19日、S君(12)も行方不明となった。捜査によって同日深夜、S君とMちゃんの遺体が園内の浄化槽で見つかった。浄化槽付近は子どもたちの遊び場であったことから事故と思われたが、遺体発見時に浄化槽の蓋(17kg)が閉まっていたことから、兵庫県警は殺人事件として捜査を始める。
 4月7日、S君殺害容疑で学園保母だったYさん(23)が逮捕される。17日にYさんは自供するも、後に否認。証拠が無かったためYさんは嫌疑不十分で釈放された。Yさんは人権侵害であるとして7月30日、国と県を相手に国家賠償請求を起こす。1975年9月23日、神戸地検尼崎支部は証拠不充分として不起訴とした。S君の遺族は不服申立を行い、1976年10月28日、神戸検察審査会が不起訴不当を議決。事件の3年後に園児の目撃証言が得られたとして、神戸地検は1978年2月27日にYさんをS君への殺人罪で再逮捕するとともに、国賠訴訟でYさんのアリバイを証言した元園長と同僚女性を偽証罪で逮捕した。3月17日にMちゃんの両親は、Yさんを殺人容疑で告訴した(1985年、不起訴となる)。国賠訴訟は逮捕時点で中断した。
 6月5日の初公判で検察側は、夕食時にMちゃんを探しに行ったYさんが、見掛けたMちゃんに声を掛けたら誤って浄化槽に落ちたため、狼狽して蓋を閉めて立ち去った。自分に疑いがかかるのを恐れ、他の職員の当直日に園児がいなくなれば疑いが逸れると考え、S君を殺害した、と主張した。1980年5月20日の公判において女子園児が、がマンホールの蓋を開け、Mちゃんの手を引っ張ったら落ちた、その後蓋を閉めた、そのときYさんはいなかった、と証言した。1985年4月18日、検察側は懲役13年を求刑したが、10月17日、YさんがS君を連れて行ったという園児の証言は事実に反する疑いが強いとして、神戸地裁は無罪を言い渡した。検察側は控訴し、1990年3月23日、大阪高裁は「園児の証言やYさんの自白は信用できる」と地裁へ差し戻した。Yさん側は上告するも、最高裁は1992年4月7日付で差し戻しを支持し、二審判決が確定。1998年3月24日、神戸地裁の差し戻し審で再び無罪判決。検察側は控訴するも、大阪高裁は1999年9月29日、検察側の控訴を棄却した。検察が上告せず、無罪が確定した。
 偽証罪で起訴された元園長と同僚女性については、1984年12月26日をもって裁判が分離され、1986年2月12日に審理再開。1987年11月17日、神戸地裁は二人に無罪判決を言い渡した。検察側が控訴し、1993年1月22日、大阪高裁は神戸地裁へ差し戻した。12月3日、神戸地裁で差し戻し審が始まり、12月14日にYさんの裁判と併合された。1997年4月から同僚女性の希望により、裁判が分離された。1998年3月24日、神戸地裁の差し戻し審で元園長に再び無罪判決。3月30日、同僚女性に無罪判決。検察側はいずれも控訴するも、1999年10月22日、大阪高裁で元園長に対する検察側控訴棄却。1999年10月29日、大阪高裁で同僚女性に対する検察側控訴棄却。どちらも検察側は上告せず、無罪が確定した。
 中断していた国賠訴訟につき、Yさんと元園長は再開を検討していたが、2000年3月3日に取り下げている。
 2001年2月27日、神戸地裁は刑事訴訟法と刑事補償法に基づき、Yさんへの補償を約2,090万円(費用補償2,030万円、刑事補償60万円)、元園長に対する補償を約610万円(費用補償580万円、刑事補償30万円)と決定した。刑事補償については、勾留された期間のみが対象である。
文 献 上野勝・山田悦子『甲山事件 えん罪のつくられ方』(現代人文社,2008)

木部克己『犯人視という凶器』(あさを社,1993)

清水一行『捜査一課長』(集英社,1972/集英社文庫,1978)

浜田寿美男『証言台の子どもたち』(日本評論社,1986)

松下竜一『記憶の闇』(河出書房新社,1985)
備 考  殺人事件、もしくはそれに類似したケースにおいて、裁判期間21年は史上最長。その前の記録は、永山元死刑囚の20年。なぜこれだけ裁判が長くかかったか、裁判所、検察側が反省すべき事件である。
4/28 概 要 <虚構の花嫁事件>
 1974年4月28日夜、茨城県中郡の路上で製材工の男性(40)が自宅近くで死亡していた。交通事故に偽装されていたが稚拙であったことから、大宮署は殺人事件として捜査。翌日が男性の初めての結婚式であったことから、隣村に住むという結婚相手の身辺を洗おうとしたが、肝心の結婚相手がどこにも存在しない。この地方では、顔を見たことがないという花嫁が挙式当日訪れるというのはさほど珍しいことではなかった。当然結婚相手を紹介した仲人の男性(41)が疑われ、29日夜に任意同行。翌日、全面自供し逮捕された。
 仲人の男性は、殺害された男性の妹も結婚させたことがあったため、男性の家から嫁探しを依頼されていた。当てはあったが断られたのを言いそびれ、1973年12月23日に結納金20万円を受け取って8万円と領収を返すことで12万円を騙し取った。年が明けてからもたびたびお金を借り、パチンコなどに浪費していた。
 殺人と詐欺で起訴された男性は無期懲役判決(求刑同)が言い渡され、控訴が棄却されて確定している。
文 献 「第三話 虚構の花嫁」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
7/3 概 要 <松戸OL殺人事件>
 1974年7月3日午後10時頃、犯人は国鉄馬橋駅西口前の路上を歩いていた千葉県松戸市の信用組合事務員の女性(19)に刃物を突きつけ、近くの建築中のマンションに連れて行き暴行。送っていこうとしたところ、女性が逃げ出したため、女性の着ていたスカートの吊り紐で首を絞めて殺し、午後11時過ぎ、遺体を近くの宅地造成地に埋めた。遺体は8月8日に発見された。
 犯人の血液型がO型であったこと、目撃証言などから、足立区に住む建設作業員、小野悦男(38)が捜査線上に上がる。小野は窃盗・詐欺・住居侵入・傷害・常習累犯窃盗などで前科8犯、服役13年。松戸署捜査本部は9月12日、別件の窃盗容疑(6月に馬橋のマンションからカラーテレビなど50余万円相当を盗む)で小野を逮捕。この時点で、各マスコミは小野を連続殺人事件の犯人として報道した。30日、馬橋のアパートで6月に起きた強姦事件(2階の女性の部屋に忍び込み、刃物で脅して強姦)で小野を再逮捕。当初は過去に放火で逮捕されていることから、当初捜査本部は小学校教師の事件を重点に取り調べていたが、11月に信用組合事務員の女性殺人事件を取り調べるようになる。11月22日、小野は女性殺害について自白。12月1日、小野が捨てたとされる雨傘が造成地のドブから、4日に川の土手から定期入れなどが発見された。12月5日、千葉地裁松戸支部で別件の初公判が開かれ、小野は窃盗と強姦を大筋で認めた。12月9日、女性殺人容疑で小野を再逮捕した。しかし12月31日、千葉地検松戸支部は起訴を見送って処分保留とした。翌年1月21日、下水溝から女性のものと思われるスカートのつりひもが、2月10日に同じ下水溝から女性のものと思われる衣類や靴が詰め込まれた雨用ズボンが発見される。このズボンが、小野が現場近くの工事中のマンションから盗み出した物と判断。3月12日、小野を殺人、死体遺棄容疑で起訴した。窃盗・強姦事件と併合された。
 起訴直前から「小野悦男さん救援会」が結成され、小野被告への差し入れや面会、弁護団への調査協力などを重ねる一方、事件をめぐる報道のあり方についても批判活動を行った。
 1975年6月6日から始まった裁判で小野は無実を主張。弁護側は、「雨傘等は死体発見場所から200mしか離れてない場所にあったのに、事件直後の捜索では見つからず、100日あまりも後になって自白で見つかったとするのは不自然」「定期入れ等についても、当初から徹底的な操作が行われているのに、半年後に始めて発見されるのは不自然」「衣類投棄の自白は方法や場所が著しく変換している」などから、捜査官があらかじめ発見していたか、ねつ造した物証を被告の自白に無理やり押し付けた」と主張。弁護側は自白の信用性ばかりでなく、その任意性も「違法な別件逮捕による長期拘置のもと、捜査官が強制、誘導した」と全面的に否定した。また、事件当日のアリバイも主張した。
 裁判は長期化。代用監獄など拘置が182日間に及んだことから、終盤の71日間の自白調書は、千葉地裁松戸支部が「違法な取り調べで得られた」として証拠から排除した。1986年9月4日、「自白は信用できる」として、求刑通り無期懲役判決を言い渡した。
 1991年4月23日、東京高裁は一審判決を破棄し、殺人事件について無罪判決を言い渡した。裁判長は、「捜査当局は被告を代用監獄である警察留置場に拘置し、自白を強要しており、任意性は認められない」として自白調書の証拠能力を否定。信用性についても「供述は不自然、不合理で、物証の発見も真犯人のみが知りうる『秘密の暴露』とは評価できない」と述べた。証拠の発見経緯についても、捨て場所を指示したことを裏付ける供述調書がないうえ、発見時に被告が現場に立ち会っていない点などをあげ、「捜査官の偽装とまでは断定できないが、理解しがたい不明朗な事実が多すぎる」とし、捜査のあり方に疑問を投げかけた。別件の窃盗、強姦事件は有罪と認定し、懲役6年が小野に言い渡されたが、拘置日数のうち量刑相当分を刑期に算入したため、小野は閉廷後、約16年半ぶりに釈放された。検察側は上告を断念し、無罪が確定した。小野には、未決拘置期間6,068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3,871日を対象として総額約3,650万円(一日当たり9,400円)が刑事補償で支給された。
 小野は「冤罪のヒーロー」として騒がれ、代用監獄制度廃止を求めた集会などで経験談を語った。しかし小野は1992年に窃盗事件を起こし、懲役2年の実刑判決を受けた。
 小野はその後、1996年1月5日に「足立区首なし殺人事件」をひき起こす(当該項目参照)。
文 献 小野悦男『でっちあげ―首都圏連続女性殺人事件』(社会評論社,1979)

折原一『冤罪者』(文藝春秋,1997)

「第一章 小野悦男を解き放った無罪病裁判長の責任」(門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社,2003/新潮文庫,2005)所収)

森炎『司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決』(講談社,2012)
備 考  1968年から1974年にかけて千葉県、埼玉県、東京都で女性が殺害された首都圏女性連続殺人事件が計10件発生している。連続殺人とあるが、1件については別の犯人が逮捕されて解決しているし、1件については犯人の血液型が異なることから、残りについても同一犯による物かどうかについては疑問も残っている。このうち本件についてのみ小野悦夫が逮捕されたが、逮捕当時は他の事件についても小野が犯人視された。
8/8 概 要 <夫殺人事件>
 バー経営者M(42)は、夫(47)に愛人ができ、家庭をかえりみなくなったことから、愛人のバーテンと共謀して殺害を計画。1974年8月8日夜、夫が東京都江東区の自宅で熟睡中、都市ガスを放出して一酸化炭素中毒死させたうえ、愛人と2人で死体をふろ場に運び、入浴中に誤って中毒死したように偽装した。
 1978年、Mは自らが経営するバーのホステスが内縁の夫(36)と別れたがっていたことから、夫を殺し、夫が入っていた死亡時1200万円の保険金を分配することをホステスと共謀。愛人と店のバーテンを仲間に引き込んだうえ、1978年4月24日深夜、内縁の夫を江東区内のカーフェリー埠頭に誘い出し、睡眠薬の入ったドリンク剤を飲ませて首を絞めて殺害。死体は草むらに捨てた。
 内縁の夫殺人事件の取調中に夫殺しを自供。
 しかし裁判でMは「夫は自殺。義父との不倫関係を書いた夫の遺書が明るみに出るのを恐れて事故死を装った」と夫殺しに関しては無実を主張した。1980年5月6日、東京地裁で求刑通り死刑判決。1986年6月5日、東京高裁で被告側控訴棄却。1991年1月31日、被告側上告棄却、死刑確定。
 愛人のバーテンは懲役9年が確定。バーテンは懲役10年が確定。バーホステスは懲役18年が確定。
 第三次再審請求中だったMは2007年5月14日、急性心筋こうそくと診断され、都内の病院で治療を受けていたが、7月17日に間質性肺炎で死亡。75歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

早瀬圭一『失われしもの』(毎日新聞社,1985/新潮文庫,1988)
備 考  戦後5人目の女性死刑囚である。
8/28 概 要 <ピアノ騒音殺人事件>
 神奈川県平塚市の団地に住む無職O(46)は、5年前に引っ越してきた階下に住む会社員の家族がピアノを弾いたり、大工仕事で出したりする音に悩まされていた。特にピアノの音については再三注意をするものの、辞める気配をまったく見せなかった。仕事の方も退職させられて自棄になっていたところに、騒音でノイローゼ状態になっていたOは殺人を決意。1974年8月28日午前9時10分頃、会社員方で妻(33)、長女(8)、次女(4)の3人を、刺身包丁で複数回突き刺して殺害。このとき「迷惑かけるんだからスミマセンの一言位言え、気分の問題だ、来た時アイサツにもこないし、馬鹿づらしてガンとばすとは何事だ、人間殺人鬼にはなれないものだ」と襖に書き付けている。その後、Oは海で死にたいと思いさまよったが死にきれず、三日後に自首した。
 ピアノ騒音に悩む人たちから同情の声もあがったが、1975年10月20日、横浜地裁小田原支部で死刑判決。弁護人が控訴。控訴審の精神鑑定で、Oはパラノイアで事件当時の責任能力はないという鑑定がなされたが、拘置所内の騒音に悩まされたOは鑑定書が提出される前に控訴取下書を提出。弁護人によって異議申立も提出されたが、1977年4月16日、取り下げが認められ、死刑判決は確定した。
 2022年現在、死刑は執行されていない。
文 献 「自殺志願」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1993)所収)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「ピアノ騒音殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「ピアノ騒音殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「ピアノ騒音殺人事件 大浜松三」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

上前淳一郎『狂気 ピアノ殺人事件』(文藝春秋,1978/文春文庫,1982)
備 考  自殺したいができないので、国の手で殺して欲しいと自殺志願ともいえる側面を持つ事件である。拘禁症か精神病のため、皮肉なことに、未だ刑は執行されていない。
8/30 概 要 <連続企業爆破事件>
 1972年末に結成された東アジア反日武装戦線は反帝国主義や反植民地主義、アイヌ革命などを掲げ、以前から破壊活動などを行ってきた大道寺将司らが結成。彼らは「狼」グループを名乗った。将司の妻である大道寺あや子、片岡利明、佐々木規夫、F(1973年夏に離脱))がメンバーである。1974年には「大地の牙」「さそり」グループが新たに合流した。「大地の牙」はS、E(Sの内縁の妻)がメンバー、「さそり」はK、U、桐島聡がメンバーである。
 彼らが起こした主な事件は以下である。
  1. 1971年12月12日午後5時半頃、大道寺将司、片岡、Fは、静岡県熱海市の興亜観音の境内にある「殉国七士之碑」に消火器爆弾と鉄パイプ爆弾を、「興亜観音像」と「大東亜戦殉国刑死一〇八八霊位供養碑」にそれぞれ鉄パイプ爆弾を設置し、起爆装置で午後10時に爆発するようにセット。午後9時58分頃、「殉国七士之碑」の消火器爆弾と「大東亜戦殉国刑死一〇八八霊位供養碑」の鉄パイプ爆弾が爆発し、「殉国七士之碑」が爆破した(後に復旧)。
  2. 1972年4月5日午後10時頃、大道寺将司、片岡、Fは神奈川県横浜市の総持寺にある常照殿に消火器爆弾と時限装置を設置し、6日午前0時頃、爆発させた。常照殿には日本統治時代の朝鮮で亡くなった日本人約5,000人の遺骨が納められていた。
  3. 大道寺将司、片岡は1972年10月23日午後5時近く頃、北海道大学文学部付属北方文化研究施設のアイヌアツシ織陳列ケース下の床上に空き缶爆弾と時限装置を設置し、午後11時30分頃、爆発させた。施設は軽微な被害で済んだ。大道寺あや子とFは10月23日午後4時半頃、旭川市常盤公園内の北海道開拓記念碑風雪の群像の一つに空き缶爆弾と時限装置を設置し、午後11時33分頃、爆発させた。風雪の群像は大破(後に復旧)した。
  4. K、U、桐島は1974年4月23日、東京都江東区の鹿島建設株式会社KPH工場に空き缶爆弾と時限装置を仕掛け、爆発させた。
  5. 大道寺将司、片岡、佐々木規夫は天皇搭乗の特別列車を爆破しようと、1974年8月12日から13日にかけ、東京都北区の荒川鉄橋にペール缶爆弾2個を装着しようとしたが、人影があったため断念した。
  6. 大道寺将司、片岡、大道寺あや子、佐々木は8月30日午後0時25分頃、東京都千代田区の三菱重工ビル正面玄関前にペール缶爆弾2個と時限装置を設置。午後0時45分ごろ、爆発させ、男女8人を殺害、男女165人を殺害しようとして負傷させた。(三菱重工爆破事件)
  7. 大道寺将司、片岡、大道寺あや子、佐々木は11月24日午後7時25分頃、東京都日野市にある帝人株式会社中央研究所の中和槽操作盤室内に消火器爆弾と時限装置を設置。25日午前3時10分頃、爆発させた。
  8. 大道寺将司、片岡、大道寺あや子、佐々木は、SとEの計画に協力。片岡らが作った雷管を大道寺将司がEに手渡した。EとSは1974年12月10日午前6時30分頃、東京都中央区にある大成建設株式会社本社ビルの一階駐車場にカートリッジタンク爆弾と時限装置を設置。同日午前11時25分頃、爆発させた。
  9. 大道寺将司、K、Sは三者会談を開き、株式会社間組を攻撃目標に決定。1975年2月28日午後6時前頃、東京都港区の間組本社ビル9階に片岡主導で作った空き缶爆弾と時限装置を大道寺将司、大道寺あや子、佐々木が設置。同日午後8時頃、爆発させ、残業中の男性社員(当時27)に重傷を負わせた。同日午後8時頃、K、U、桐島聡は同日午後6時前頃、間組本社ビル6階に空き缶爆弾と時限装置を設置し、同日午後8時頃、爆発させた。EとSは同日午後7時頃、埼玉県与野市の間組大宮工場にブリキ缶爆弾と時限装置を設置し、午後8時4分頃、爆発させた。
  10. 大道寺将司、K、Sの三者会談でSはオリエンタルメタル株式会社、韓国産業経済研究所を目標にすることを表明し、大道寺将司とKは賛同。大道寺将司は「狼」内で片岡、大道寺あや子、佐々木で説明し、同様に賛同を得た。大道寺将司はSに雷管2個を手渡した。Eは1975年4月18日午後8時頃、東京都中央区の韓国産業経済研究所入口ドアに空き缶爆弾と時限装置を設置。19日午前1時頃、爆発させた。Sは4月18日夜、兵庫県尼崎市のオリエンタルメタル株式会社に空き缶爆弾と時限装置を設置。19日午前1時ごろ、爆発させた。
  11. 大道寺将司、K、Sの三者会談でKは間組攻撃を続行することを表明し、大道寺将司とSは賛同。大道寺将司は「狼」内で片岡、大道寺あや子、佐々木で説明し、同様に賛同を得た。大道寺将司はKに雷管を手渡した。K、U、桐島が爆弾を準備し、桐島は1975年4月27日午後8時頃、千葉県市川市の間組作業所に空き缶爆弾と時限装置を設置。午後11時58分頃、爆発させ、作業所宿直室で寝ていた男性(当時25)に重傷を負わせた。
  12. K、U、桐島は1975年5月4日、千葉県市川市の間組作業所の機械に空き缶爆弾と時限装置を仕掛け、爆発させた。
 1975年5月19日、警視庁は大道寺将司(当時26)、片岡利明(当時26)、大道寺あや子(当時26)、佐々木規夫(当時26)、S(当時27)、E(当時24)、K(当時27)、協力者の女性A(当時24)(大道寺らに資金や爆弾の材料を手渡した)を一斉逮捕した。Sは逮捕後の連行中に隠し持っていた青酸カリ入りカプセルを飲み、自殺。大道寺あや子も同様に自殺しようとしたが、捜査員に阻止された。
 Kが所持していた二人の家の鍵からU(当時22)と桐島聡(当時22)の存在が浮かび上がり、5月23日、二人は指名手配された。
 5月28日、大道寺に協力していたAの姉(1973年初めに「狼」メンバーに加わるも1974年3月ごろ離脱)がAへ差し入れ後実家へ帰る途中、列車から飛び降り自殺した。
 6月13日、F(1973年夏に離脱)が自殺した。その事実を知らない警視庁は6月15日に指名手配している。
 1982年7月12日、Uが板橋区の路上で逮捕された。

 1975年8月4日、日本赤軍はクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、赤軍派、日本赤軍、東アジア反日武装戦線のメンバー7人の釈放を要求。超法規的措置により、起訴前の佐々木規夫ら5人が釈放され、出国した。佐々木規夫は日本赤軍に合流し現在も逃亡中で、国際指名手配中。1977年9月のダッカ日航機ハイジャック事件に参加したとされる。
 1977年9月28日、日本赤軍のメンバー5人が日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させた。乗員・乗客151人の人質と引き換えに、日本赤軍メンバーを含む9人の釈放と現金600万ドル(当時約16億円)を要求。超法規的措置により、統一公判中の大道寺あや子、Eを含む6人が釈放され、出国し、ともに日本赤軍に合流した。大道寺あや子は現在も逃亡中で、国際指名手配中。
 大道寺将司、片岡利明(後に改姓益永)、K、Aは統一公判。1979年11月12日、東京地裁は爆発物取締罰則違反と殺人他で起訴された大道寺と片岡に求刑通り一審死刑判決。爆発物取締罰則違反と殺人未遂で起訴されたKに求刑通り一審無期懲役、爆発物取締罰則違反幇助で起訴されたAに懲役8年(求刑懲役10年)判決を言い渡した。1982年10月29日、東京高裁で被告側控訴棄却。1987年3月24日、被告側上告棄却、確定。Aは1987年11月27日、刑期満了で釈放された。大道寺将司は2017年5月24日、病死。68歳没。
 爆発物取締罰則違反と殺人未遂で起訴されたUは1985年3月13日、東京地裁で懲役18年判決(求刑無期懲役)。1988年8月25日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。1999年2月27日、被告側上告棄却、確定。
 Eは1995年3月20日、日系ペルー人を装ってルーマニアに潜伏していたところを発見され国外退去、同月24日に逮捕された。2002年7月4日、東京地裁で懲役20年判決(求刑無期懲役)。2004年5月11日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。最高裁に上告するも2004年8月5日、取下げ確定。2017年3月23日、刑期満了で釈放。
 桐島聡は一度も捕まることなく、指名手配されていた。間組爆破事件などで共犯の大道寺あや子が公判中に国外逃亡していることから、刑事訴訟法254条2項により共犯者の公判中のため公訴時効が停止している。大道寺あや子が関与していない鹿島建設爆破事件などではすでに時効が成立している。2024年1月14日、神奈川県鎌倉市の病院に搬送されて入院し、保険証を使わず自費で治療を受けていた別の名前の人物が25日、「最期は本名で迎えたい」と自身が「桐島聡」だと話したため、神奈川県警からの連絡を受け公安部の捜査員が身柄を確保した。末期の胃がんで重篤状態であり、29日に死亡。指紋等の記録がなかったため、DNA型鑑定結果や自室の押収品の分析、生前の任意聴取の内容などから警視庁公安部は2月27日、桐島本人と断定し、殺人未遂と爆発物取締罰則違反の疑いで、容疑者死亡のまま書類送検した。70歳没。東京地検は3月21日、容疑者死亡で不起訴処分とした。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

片岡利明『爆弾世代の証言-東京拘置所・死刑囚監房から』(三一書房,1985)

門田隆将『狼の牙を折れ: 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(小学館,2013)

鈴木邦男『テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊』(彩流社,1988)

大道寺将司『明けの星を見上げて 大道寺将司獄中書簡集』(河出書房新社,2018)

大道寺将司『死刑確定中』(太田出版,1997)

大道寺将司『大道寺将司 最終獄中通信』(れんが書房新社,1984)

東アジア反日武装戦線KF部隊(準)著『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』(鹿砦社発売,1979)

東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議・編『あの狼煙はいま』(インパクト出版会,1996)

福井惇『狼・さそり・大地の牙』(文藝春秋,2009)

松下竜一『狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊』(現代教養文庫,1993/読売新聞社,1997他)

「獄中者の人権確立を―活路の訴訟―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「三菱重工ビル爆破事件 大道寺将司、片岡利明」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  
9/28 概 要 <和泉女子工員2人殺人事件>
 大阪府和泉市にある繊維会社の三代目社長となることが決まっていたTは大学時代からプレイボーイで、大学一年になった1966年、宮崎県から中卒で繊維会社に就職したA女と付き合うようになった。2年後、同じ町から就職していた1年後輩のB女にTを紹介したところ、TはB女に手を出して三角関係となった。妊娠していたA女は1969年6月、勤めを辞めて帰郷。TはA女の家に行き、両親に結婚したいと告白。A女を大阪に連れ帰った。10月5日、A女はTの紹介で堺市の食品会社に就職するも、10日後に姿を消した。その後、TはA女の預金通帳から17万円を引き出した。Tは郷里にA女の手紙を出すなどの偽装工作を行っていたため、警察への届け出などもしなかった。
 TはB女との交際を続けたが、1974年にT(26)が見合いをして別の女性と結婚することが決まったことを知り、5回目の妊娠中だったB女(23)はTをなじった。TはB女に結婚の約束をし、駆け落ちの費用として50万円の都合を付けさせたが、5月4日にB女とドライブしてミカン畑に誘い、殴った後に絞殺。杉林にスコップで穴を掘って埋めた。
 新婚旅行から帰ったTをB女の家族が問い合わせる。さらに家族や媒酌人である勤務先の社長も詰問。4月以降は会っていないと言い張るTは、8月に退職する。マスコミもTのことを追いまわした。9月10日には「小川宏ショー」にA女とB女の両親が出演して公開捜索。Tも出演し、交際の事実を認めたが、その後は知らないと言い張った。
 9月25日、Tは重要参考人として任意出頭。翌日に一度は自供するも、その後撤回。しかし9月28日に全面的に自供。同日夜、B女が掘り出された。翌日、近くに埋めたA女の遺体を警察犬が発見した。
 1977年1月17日、大阪地裁で求刑死刑に対し一審無期懲役判決。被告が遺族にそれぞれ300万円を払ったこと、遺族が寛大なる処分を訴えたことが理由と思われる。1978年3月8日、大阪高裁で控訴が棄却され、確定している。
文 献 「第十四話 何処へ行ったの?」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
10/17 概 要 <愛人の子誘拐殺人事件>
 1974年10月17日、東京都葛飾区で鋼材販売業を経営するI(37)の娘Mちゃん(8)が、学校から帰った後行方不明になり、Iは捜索願を出した。1週間後の24日、Iの家に一通の脅迫状が届いた。そこには一千万円を要求する内容が書かれており、翌日指示された場所へ行ったが、犯人は姿を現さなかった。捜査本部はIの周囲を洗ううちに、女性従業員H(25)が浮かび上がった。Hは、Mちゃんが行方不明になった時間帯のアリバイ工作を行っていた。29日、捜査本部はHを任意で取り調べはじめた。Hは犯行を否定、深夜に縊死を図ったが果たせず、翌日、Mちゃんを殺害したことを自供した。さらに11月2日、捜査本部はIを死体遺棄容疑で逮捕した。
 IとHは、4年前からの愛人関係であった。Hも当初は、恋愛感情よりも性に対する興味から付き合っていた。二人の浮気が妻にばれ別れることになったが、そのときからHはIに対し恋愛感情を持つようになった。結局二人は寄りを戻し、アパートを借りるようになった。しかし、二人の関係はまたも妻に発覚。妻はアパートに怒鳴り込んだため、Hは別のアパートに引っ越すことになった。この頃から、Iの心はHから離れていった。
 10月17日、I夫婦は従業員の仲人を務めるため、礼服を着ていた。下にいたHに向かい、Iは「君もいい人がいたら結婚した方がいいよ」と言った。言い知れない怒りを、Hはたまたま帰ってきたMちゃんに向けたのであった。
 Iは捜索願を出した後、まさかと思ってHのアパートを訪れた。そこにはMちゃんの死体があった。IはHに、「死体を冷蔵庫に隠せ」「土曜日に埋めろ」と指示を出した。19日、HはIの指示通り、ひとりでMちゃんの死体を埋めた。そのことを21日に報告すると、「もっと深く埋めろ」と言われ、22日穴を掘って埋めた。しかしIは「もっと埋めろ」と言ったため、27日さらに深く埋めようとしたが、結局止めた。そして29日、取り調べを受けることになった。
 Hは1975年6月5日、東京地裁で懲役13年の判決を受け、そのまま確定した。Iは6月10日、懲役1年8ヶ月、執行猶予3年の刑を受けた。
文 献 「愛人の子殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

松田美智子『やがて哀しき「ラブ・ノート」―幼女殺害・死体遺棄事件』(恒友出版,1995)(後に『情事の果て』(幻冬舎アウトロー文庫,1998)と改題)

「第十一話 下町恋情怨舞」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)

「H少女殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  
10/24 概 要 <沖縄暴力団抗争相手殺人事件>
 沖縄県の暴力団の理事であるU一家の幹部であったH(25)は、かねてから理事長であるSの一派からのU一家に対する態度に恨みを持っていたことから1974年10月24日午後9時頃、仲間のUSと共謀して宜野湾市のキャバレーに入り、中にいたS(45)を射殺。さらに捕まえようとした配下の部下(30)にも拳銃を撃ち、2か月の重傷を負わせた。2人はそのまま車で逃走し、警察に駆け込んで逮捕された。
 U一家は武闘派として抗争に加わっていたが、服役中にSが家族や出所後の面倒を見てくれなかったことからやくざ社会に嫌気がさし、理事会等にも欠席を続けた。SはUらを破門し、それを契機にU一家は1974年10月5日に解散を宣言し、警察本部指導の下で公表した。それを快く思わなかったSはUの懸賞金まで出して行方を追い、配下の者を次々とリンチに掛けていた。
 那覇地裁はHに懲役13年(求刑懲役15年)、USに懲役5年(求刑懲役7年)を言い渡した。USは控訴せず確定。Hは1976年1月14日、那覇高裁で控訴が棄却され、そのまま確定した。
文 献 「第十三話 褐色の銃弾」(佐木隆三『殺人百科』(徳間書店,1977/文春文庫,1981他)所収)
備 考  
10/30 概 要 <市原両親殺害事件>
 ドライブイン従業員S(22)は1974年10月30日午後5時20分頃、千葉県市原市の両親宅で、交際していた女性のことをめぐって父親(59)と口論になり、テーブルにあった登山ナイフで刺し殺したうえ、その直後に2階から下りてきた母親(48)もナイフで刺して殺害。11月1日早朝、2人の死体を車で同市五井海岸に運び、海に捨てた。
 Sは逮捕当初こそ否認したが、後に捜査段階で犯行を認め、その後再び否認した。一審の初公判でも全面否認し、「父親を殺したのは母親で、母親は自分の知っている第三者に殺された」と主張した。1984年3月15日、千葉地裁は検察側の主張を全面的に認め、Sに求刑通り死刑判決を言い渡した。1986年8月29日、東京高裁は被告側の控訴を棄却。1992年1月30日、最高裁で被告側上告が棄却され、死刑判決が確定した。
 Sは無罪であると主張し、1998年11月12日に千葉地裁へ再審請求するも棄却され、2006年5月に最高裁で確定。2006年6月8日、第二次再審請求を提出した。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「千葉・市原市奇々怪々の殺人事件」(伊佐千尋『法廷 弁護士たちの孤独な闘い』(文藝春秋,1986/文春文庫,1993)所収)

中上健次『蛇淫』(河出書房新社,1976/角川文庫他)

森炎『司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決』(講談社,2012)
備 考  
11/17 概 要 <荒木虎美3億円保険金殺人事件>
 1974年11月17日、大分県別府市の国際観光港岸壁から乗用車が海中に転落した。脱出した荒木虎美(47)は釣り人に救助されたが、車の中に残された妻(40)と妻の連れ子である長女(12)、次女(10)は溺死した。最初は事故と見られていたが、荒木が三人に、6つの生命保険会社との間に3億1千万円の保険金をかけていることが判明。他にも長男(15)にも保険金を掛けていたが、自分には一切掛けていなかった。荒木を嫌っていた長男は受験勉強を理由にドライブを断り、難を逃れている。マスコミは保険金目当ての殺人ではないかと騒ぎ立てた。荒木は報道陣の取材に素直に応じ、綿々とした口調で無実を訴えた。12月11日、荒木はワイドショー『3時のあなた』に生出演。喋りまくった後、矛盾点をアナウンサーに突かれると激怒、席を立ってテレビ局を出たところ、殺人の疑いで逮捕された。
 荒木は旧姓山口。保険金目当ての放火事件、傷害罪などの前科があった。結婚相談所、福祉事務所、町内の民生委員などで母子家庭の母親と結婚したいと相談し、荒木さんと知り合い、1974年に結婚していた。
 状況はほとんどクロであったが、決定的物証はなかった。荒木は一貫して無実を訴えた。検察側も目撃証言にこだわり、作為的な検証を行うなどの不手際が多かった。公判は波乱続きだったが、1980年3月28日、大分地裁で求刑通り死刑判決。1984年9月4日、福岡高裁で被告側控訴棄却。上告中の1989年1月13日、荒木は癌にかかって八王子医療刑務所で死亡。61歳没。公訴棄却となった。
文 献 「荒木虎美三億円保険金殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「母子偽装殺人事件―『荒木虎美・保険金目当ての決死のダイビング』」(岡田晃房『TRUE CRIME JAPANシリーズ3 営利殺人事件』(同朋社出版,1996)所収) 

「別府三億円保険金殺人事件」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)

「別府三億円保険金殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

佐木隆三『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店,1985)(後に『別府三億円保険金殺人事件』(徳間文庫,1990)のタイトルで文庫化)
備 考  

【1975年】(昭和50年)

日 付事 件
4/3 概 要 <広域連続殺人事件>
 1975年4月3日午前0時頃、K(30)は兵庫県内の事務所兼居宅に侵入し、就寝中の夫婦(38、36)の頭部をハンマーで殴り重傷を負わせた。さらに三女(4)の頭をハンマーで殴り、頸部を両手で絞め、ナイフで刺すなどして殺害。さらに長女(10)の頭部をハンマーで殴り殺害し、現金8,000円を奪った。
 1977年8月15日午前3時15分頃、Kは兵庫県内の事務所に押し入り、宿直の事務員2名(49、48)を脅して計約30,000円が入った二人の財布を奪い、さらに殺害しようとナイフで二人を数回刺し、重傷を負わせた。
 1977年8月18日午後1時頃、Kは三重県内の民家に侵入し、留守番をしていた女性(70)に切出ナイフを突きつけて脅迫し、同女が声をあげたりしたためその頸部を切出ナイフで突き刺して殺害したうえ、同女所有の現金28,000円等を奪った。
 他に強盗3件、強盗致傷3件、強盗殺人未遂1件などがある。7都道府県で犯行を行った。
 強盗事件と、1975年の事件の間に確定判決があり、1975年と77年の事件の間に確定判決がある。Kは14歳頃から窃盗事件を犯し、少年院に計5回入院している。成人後も強盗致傷、窃盗等で服役を繰り返した。Kは貧しい家庭に生まれ、幼少の頃父を失い、母と生別して小学校にも満足に通えなかったことが、被告の人格形成に大きな影響を与えている。被告の知能が精神薄弱者の域に達している。
 1980年9月13日、神戸地裁は1975年以前の強盗事件で懲役10年、1975年の事件で死刑、1977年以降の事件で無期懲役判決を下した。1984年9月13日、最高裁で刑が確定。
 確定後、一部は冤罪であると主張して再審を準備していたものの、精神分裂症の症状が重くなり、事情聴取が不能のために、再審請求の準備は中断した。精神病の疑いがあるにもかかわらず、1993年3月26日に死刑執行。48歳没。
文 献 「ブッシュに釈放頼む―法相の拒否―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
6/4 概 要 <北九州4人連続殺人事件>
 川辺敏幸は1975年4月24日、6年の刑を務めた福岡刑務所を刑期3か月残して仮出獄。出迎えてくれた母親が住む大分市に帰るも翌日には出て、27日には北九州市へ行って暴力団に入った。覚せい剤の売買を行っていたが、後に自らも打つようになる。6月4日朝、兄貴分である宝石商(46)の情婦(36)との関係がばれ、小倉南区の宝石商の自宅で問い詰められ、一度は家を出るも車の中にあった脇差を持って戻る。宝石商と情婦に猿轡を噛ませ、パジャマ、バスタオル等で厳重に縛った。そのまま情婦の首をバスタオルで絞め続け、続いて宝石商を脇差で何度も刺して殺害。さらに情婦も脇差で殺害した。さらにケースに入った宝石(時価約113万円相当)や200万円額面の手形3枚などが入ったアタッシュケースを奪った。
 11日、宇部市で暴力団の抗争事件が起き、川辺は特攻隊の一人に選ばれ、拳銃を渡される。17日午後3時過ぎ、川辺や組の若頭といざこざのあった若頭補佐の男(30)を射殺し、車で逃走。車を捨てて逃げ回っていたところ、巡査に見つかって追われて玄関が開いていた家に飛び込んだが、住人の主婦(26)に匿うことを断られたため射殺。補佐の妻からの通報で、警察は緊急配備。川辺は補佐を可愛がっていた組長の弟が居るホテルに押し入って部屋から追い出し、弟が連れ込んでいた二人の女のうちの一人で、下関の風俗店で働く女性(26)と一緒に別のホテルに移った。女はシャブの客であり、川辺と肉体関係があった。二人はホテルでシャブを打って関係していた。18日午前0時半過ぎ、川辺がホテルにいることとを警察は発見したが、川辺は発砲。午前2時半過ぎ、北九州市警のおよそ三百人の警官がホテルを包囲し、籠城した川辺は何度も発砲。刑事官の説得に応じ午前7時すぎ、まずは拳銃を持った女性が部屋を出た。それから刑事官が部屋へ迎えに行き、川辺を逮捕した。
 川辺は強盗殺人、殺人、同未遂、覚せい剤取締法違反、公務執行妨害、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反で1976年3月18日に起訴。公判で川辺は事実関係を争わず、また弁護人による精神鑑定の要求も拒否した。さっぱりしたような顔つきの川辺を新聞は「ふてぶてしい態度」「不敵な笑い」と書いた。殺害された一般人の主婦との関係については、通りすがりとしか答えなかった。川辺はピストルの入手方法について供述を変えたことから、公判回数は14回を数えた。
 1977年3月30日、福岡地裁小倉支部で求刑通り死刑判決。弁護人は閉廷後、すぐに控訴した。しかし川辺は6月7日に控訴申立取下書を提出。8日に受理されたため、死刑が確定した。川辺は一審判決後、生い立ちから事件までの手記を書き続け、四百字詰め原稿紙約150枚分ほどとなった。それをすべて書き終えたため、控訴を取り下げたという。1978年11月16日、執行。33歳没。
文 献 「狙撃手は何を見たか」(佐木隆三『閃光に向って走れ』(文藝春秋,1978/文春文庫,1982)所収)

佐木隆三『曠野へ―死刑囚の手記から』(講談社,1979/講談社文庫,1983)(改題『死刑執行』(小学館文庫,2000))
備 考  
7/20 概 要 <足利銀行2億円横領事件>
 足利銀行栃木支店の貸付係Oは1973年8月、友人との東北旅行(失恋旅行だった)でAと出会う。AはOに言い寄り、10数日後には肉体関係となった。AはOに結婚するために、自分が所属する国際秘密警察を抜ける必要があると、まず100万円を要求。Oは当初自分の預金や父親の定期預金等で金を渡していたが、Aは要求をエスカレートしていった。金が無くなったOは9月以降、架空の定期預金証書を担保に貸し出す手口で不正に金を引き出し、合計69回、2億1,190万円を横領した。Aはその金で競馬の予想情報を売る「国際ユニオン」という会社を設立し、入社した女性社員に手を付けて結婚すると同時に、複数の愛人との生活を続けていた。
 1975年7月、大蔵省による拘束性預金(債務者から受け入れた預金のうち、自由に払い出せないように銀行が拘束している預金)の調査をしていた支店主査の調査により、不正貸し付けを発見。担当者であるOに確認したところ、あっさりと自白。7月20日、栃木署は詐欺、横領容疑でO(23)を逮捕した。22日、A(26)を全国指名手配した。Aは愛人と逃亡するも、9月17日、金沢で愛人が、18日、東京でAが逮捕された。Oは逮捕されるまでAのことを国際秘密警察員のIと信じ切っており、本名や住所を全く知らなかった。
 支店の役員は事件発覚の数日後、身元保証人だったOの叔父に債務履行の念を書入れさせ、土地田畑、山林の権利書まですべて取り上げていた。またOの父親には8,000万円を請求したが、新聞に「回収」の事実を大きく報道されたため、300万円に減額した。取締役支店長は本店調査部に更迭され、9月に依願退職。支店の役席者は全員降格。さらに会長以下のほとんどが減俸処分を受けた。
 Aは利益が全く上がらない会社の投資に1億2,000万円、競馬などのギャンブルに6,000万円、愛人との生活に3,000万円を使っていた。
 宇都宮地裁栃木支部は、Aに懲役8年(求刑同)、Oに懲役3年6ヶ月(求刑懲役5年)を言い渡した。Aと一緒に逃亡した愛人は犯人隠匿で起訴され、懲役8月執行猶予3年(求刑懲役8月)が一審で確定した。Aの会社の専務は懲役8か月、常務は懲役6か月執行猶予2年が言い渡された。
文 献 佐木隆三『詐欺師』(潮出版社,1978/文春文庫,1982)

「公金横領事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)
備 考  足利銀行は2003年9月末に債務超過で破綻申請。政府は11月29日、預金保険法102条に基づいて一時国有化した。地銀の一時国有化は戦後初めて。
8/23 概 要 <寝屋川若夫婦強殺事件>
 台風6号が接近した1975年8月23日午前3時頃、タクシー運転手W(38)は、以前に客の男性が忘れていった合鍵を持ち、大阪府寝屋川市にある鉄筋4階建てアパートに酒の勢いで忍び込んだが、男性は転勤しており、2年間の約束で新婚夫婦が男性からその部屋を借りていた。Wは起きてきた夫(23)ともみ合い、ナイフで刺した。さらに起きてきた妻(22)も刺した。その後、部屋で休憩を取り、3時間後に退散。妻が110番通報したものの、途中で事切れた。駆けつけた警察は、玄関に鍵がかかっていたため、隣の部屋のベランダを通って窓から入り、二人を見つけた。妻は死亡、夫は重体で病院に運ばれたが、翌日に死亡した。
 部屋の鍵は全て見つかっていたことや、滅多刺しによる残虐な犯行、事件後3時間も部屋に居座っていたことから、当初は妻の知り合いによる恨みではないかと捜査陣は睨んだが、該当者はなく捜査は難航。その後、警察が部屋の持ち主の男性に確認したところ、タクシーで財布等を落とした時、一緒に鍵を落としたことを思い出した。調べた結果、Wが捜査線上に浮上。12月7日、クレジットカードの不正利用による遺失物横領、詐欺容疑で逮捕し、取り調べの結果、1976年1月17日に犯行を自供した。詐欺、住居侵入、強盗殺人、遺失物横領、窃盗容疑で起訴。
 Wは1977年9月6日、大阪地裁で求刑通り死刑判決。1978年3月31日、大阪高裁で被告側控訴棄却。1980年11月6日、最高裁で被告側上告棄却、死刑確定。1988年6月16日、死刑執行。当日は先に徳島母子殺害事件の死刑囚が執行されたことからもう執行がないと踏んでいたが、自分も呼ばれたため、「ウソやろ! ……かなわんなあ……」とぼやきながら執行に向かったと言われている。51歳没。
文 献 佐木隆三『閃光に向って走れ』(文藝春秋,1978/文春文庫,1982))
備 考  
8/25 概 要 <秋山兄弟事件>
 Aは実兄が経営する紙工場に勤めるも、工場は倒産。その後Aは定職に就かず借金を増やし、兄ともども多額の負債で困窮していた。1975年3月24日、兄と共謀して妻(当時37)の保険金殺人を目論み、交通事故を装って殺害しようとしたが未遂。さらに自分に保険をかけて兄に殺害を依頼したが失敗。しかし傷害を追ったため、保険会社から60万円を搾取した。
 あ(46)は兄(52)と自分の知人であるプラスチック加工会社経営の男性(47)に近付き、架空の貴金属払下げの情報を流した。1975年3月24日、男性は千葉県内にある兄宅に現金1,000万円を持参。隙を見てAが背後からバットで頭部を数回強打して殺害。さらにビニールロープを巻きつけてとどめをさそうとした。持参した1,000万円と財布の中から20万円を奪い、翌日、遺体を千葉県の宅地造成地に埋めた。強奪した金のうち、Aが720万円を受け取り、残りを兄が受け取っている。
 裁判でAは、妻の保険金殺人を否認。兄弟は互いに相手は主犯であると主張した。1976年12月16日、東京地裁で弟のAに求刑通り死刑判決、兄に無期懲役判決(求刑死刑)を言い渡した。1980年3月27日、東京高裁は控訴を棄却。兄は上告せず確定。1987年7月17日、最高裁はAの上告を棄却し、死刑判決が確定した。
 Aは再審請求するが棄却。2006年12月25日、執行。77歳没。戦後史上最高齢の執行である。また確定から19年5ヶ月後の執行も史上最長である。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

秋山芳光『苦い罠』(私家版,1982)
備 考  


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