ノンフィクションで見る戦後犯罪史【1945~1950年】(昭和20~25年)



【1945年】(昭和20年)

日 付事 件
9/13 概 要 〈相生事件〉
 第二次大戦中、日本政府は軍需産業から労働力確保の要請を受け、中国人強制連行の閣議決定に踏み切り、3万人以上の人々が日本に連行されてきた。そのうち、造船業で栄える兵庫県播磨西部の相生にも多くの人々が連行された。
 終戦を迎えた1ヶ月後の1945年9月13日、造船所で勤務する日本人刑余者が、中国人3人を惨殺する事件が起きた。事件の真相は藪の中である。
文 献 こちまさこ『一九四五年夏はりま 相生事件を追う』(北星社,2008)
備 考  
9月以降 概 要 〈米軍による犯罪多発〉
 連合国兵士(米兵)による婦女暴行、現金等強奪、殺人などの犯罪が多数勃発したが、連合国軍(占領軍)の検閲により、そうした犯罪の報道はできなくなった。
文 献 「占領軍の犯罪と報道」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  米兵の犯罪を報じるのに「大男が云々」といった表現を用い、検閲をくぐった。米兵の犯罪は、場合によって軍法会議で死刑判決を受けることもあった。現在でも米軍による事件は問題となっている。



【1946年】(昭和21年)

日 付事 件
1/27 概 要 〈和歌山一家8人殺人事件〉
 Oは敗戦後の1945年10月、歯科医の兄が住む和歌山市の実家に復員した。Oは以前から母が兄嫁に虐待されて殺されたと思い込み、恨んでいた。前日に兄夫婦と大喧嘩した炭鉱夫のO(26)は1946年1月27日未明、手斧とノミを用意すると、寝ていた兄(42)、次男(13)、兄嫁(41)、四男(3)、三男(7)、次女(10)、長男(16)、長女(14)の順に一家全員を殺害。「右は母生存時の仇なり。北海道の愛人宅に向かう。一か月後に自首する」などと書置きを残して逃亡。29日朝、配達に来た魚屋が遺体を発見した。
 捜査本部はOを指名手配するとともに、「北海道の愛人」宅を訪れたが、彼女は単なる知人にすぎなかった。Oは大阪の知人を訪ねた後、九州に高跳び。2年後、長崎の炭鉱から朝日新聞大阪本社へ連絡し、3月19日に新聞社へ出頭。取材後、所轄の天満署に自首した。
 1948年4月27日、和歌山地裁で求刑通り死刑判決。12月6日、大阪高裁で一審破棄の上、ふたたび死刑判決。1949年8月18日、最高裁で被告側上告棄却。死刑が確定した。
 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効記念により政令恩赦が実施され、Oがその1人として選ばれ、無期懲役に減刑された。1968年4月、Oは仮出所した。
文 献 「死刑台から生還した男」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)

斎藤充功『恩赦と死刑囚』(洋泉社 新書y,2018)
備 考  
3/16 概 要 〈片岡仁左衛門一家惨殺事件〉
 江戸歌舞伎の名優、十二代目片岡仁左衛門さん(63)の家に居候していた座付き作家見習のI(22)は、日頃から一日二食しか与えられていなかったこと、配給米をピンハネされていたこと(I自身の供述による)に不服をもっていた。そして、Iが制作を任された顧客に配る挨拶状を仁左衛門さんは気に食わず、「それでも作家か」とののしった。腹を立てたIは、1946年3月16日午前6時頃、就寝中だった片岡仁左衛門さん、妻(26)、三男(2)、住み込みの女中(69)、子守り(12)の5名を薪割り斧で撲殺し、現金約600円を奪って逃走した。子守りはIの実妹であった。Iはすぐに全国指名手配され、数日後に逃亡先の宮城県で逮捕された。
 Iの父親は長年十二代目の座付き作家であった。Iは空襲で妹以外の家族全員と家を失い、1945年9月から妹と一緒に住み込んでいた。
 1947年10月22日、東京地裁で求刑死刑に対し、種々の情状を考慮されて無期懲役判決が言い渡された。被告側は控訴するも取り下げ確定。1960年ごろに恩赦で出所したらしい。
 事件当時は母の祖母の家に泊まっていて難を逃れた片岡仁左衛門さんの娘(80)が2023年3月、取材に応じた。事件から数年後、Iから詫び状が届き、「弁護人から犯行動機を食べ物の恨みと言えば減刑されると聞いて嘘の供述をした、申し訳なかった」と書かれていた。詫び状は新聞記者に事件の資料として貸したが、返却されなかったという。
文 献 「メシ、喰わせろ!」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)

「片岡仁左衛門一家惨殺事件」(山崎哲『〈物語〉日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  Iは「寝ぼけ」の性癖を持っていたらしいが、事件当時の行動で「朦朧状態であった」と断定するのは困難であり、その可能性が示唆されるに留まっている。
4/6 概 要 〈八丈島事件〉
 1946年4月6日、東京から約300km離れた八丈島で、老婆(66)が強姦・絞殺されているのが発見された。八丈島駐屯兵だった一人が最も濃い容疑をおっていたが、勘と聞き込みだけに頼る捜査員は見逃した。7月6日、村の知恵遅れの青年Yを自白させ、さらに共犯者としてKを逮捕。令状もなしに54日間留置場へ拘留し、拷問を加えて自白を迫った。
 1948年1月、東京地裁はKに懲役8年、Yに懲役3年の判決を下した。1951年6月、東京高裁は控訴を棄却。しかし1957年7月19日、最高裁は不法留置や通常以上に強い被暗示性を持ったYの性格などを指摘。二審判決を破棄して、無罪を言い渡した。
文 献 上田誠吉・後藤昌次郎『誤まった裁判 ―八つの刑事事件―』(岩波書店,1960)
備 考  
5/4 概 要 〈日光中宮祠事件〉
 1946年5月4日未明、栃木県日光市中宮祠のH旅館から出火し、七棟が全焼。旅館の焼け跡から主人(46)、妻(42)、三男(11)、次女(8)、三女(5)、妻の実父(72)の死体が見つかる。後頭部に切られた跡があったことから日光警察署が取り調べた結果、主人がヤナギ刃で家族全員を殺害後、自宅に放火し、自らも肉切包丁で喉を突き刺して自殺した一家心中事件として結論付けた。主人が預かっていた小切手が現金化されていた事実も後から見つかるが、警察は主人による横領と断定。捜査を打ち切った。
 9年後の1955年5月、埼玉県久喜署で強盗傷人の容疑で逮捕された男(30)が、強窃盗31件、殺人5件を「自供」。後に取り調べの待遇をよくするための嘘と判明したが、自供時の新聞記事を見た主人の長男(26)が埼玉県警に再捜査を依頼。県警は「自供」の裏付けもあって捜査を続けたが、家の現金が無くなっていたなど、当時の捜査に不審点を見つける。「自供」した男が刑務所仲間から聞いたという供述や小切手の捜査などから、1956年7月30日の暴力団狩りで逮捕されていた川崎市の青果商店員P(30)であることが判明。Pは県警の取り調べで、旅館に泊まって帳簿で盗みを働いている途中で見つかったため、殺害し、現金400円と880円の小切手や背広などを奪い、火をつけたことを認めた。さらに元古物商C(30)が共犯であることを自供。8月21日、北海道の工事現場で働いていたCを逮捕した。
 1957年7月22日、宇都宮地裁で求刑通り一審死刑判決。1959年1月28日、東京高裁で被告側控訴棄却。1960年6月10日に被告側上告が棄却され、死刑が確定した。
 少なくとも、Cが1972年3月23日と1974年5月31日に再審請求の特別抗告が棄却された記録が残されている。
 1974年6月6日(再審請求棄却確定の6日後)、宮城刑務所で死刑執行。ともに48歳没。
文 献 松本清張『日光中宮祠事件』(角川文庫)
備 考  戦後、当時の東京拘置所がGHQの接収により巣鴨プリズンとなったため、新しい東京拘置所は小菅刑務所(東京都葛飾区)の位置に置かれた。この東京拘置所は死刑執行施設がなかったため、収監されていた死刑囚の死刑執行は宮城刑務所に移送した上で行われていた(移送時期は死刑囚によって異なる)。通称「仙台送り」。これは1960年代に東京拘置所に執行施設が設置されるまで続いた。
 PとCは、「仙台送り」されて宮城刑務所で執行された最後の死刑囚と思われる。
5/10 概 要 〈長野一家7人殺人事件〉
 1946年5月10日夕方、長野県下伊那郡で主婦が近所の家を尋ねると返事がないため、のぞいてみたら死体があったので慌てて通報。前年亡くなった主人の未亡人(38)、長男(12)、次男(9)、長女(6)、三男(3)、同居していた未亡人の妹(25)とその長女(3)が薪割り斧で頭を割られて死んでいた。犯行は前日午後7時以降。背負子一つと籾玄米4俵が盗まれ、これは後に300m離れた甘粕貯蔵用の洞穴から発見された。室内も物色した跡があったこと、凶器は犯人が持ち込んだものであったことから、警察は物取りの犯行とみて捜査をしたが、遺体発見から捜査員が現場に到着するまでに6時間が経過し、その間に村人によって現場が荒らされていたこともあって、捜査が難航。1961年5月、公訴時効を迎えた。
文 献 「時効になった終戦直後の7人殺し」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  
7/17 概 要 〈「生き仏」連続殺人事件〉
 元海軍軍人であったI(46)は、生活苦から妻(43)とともに1946年7月17日、大阪市の闇ブローカーWさん(45)を殺害し現金30,000円を奪った後、自宅に埋めた。以後、12月28日に男性二人(30、35)を殺害し、現金20,000円を強奪、1947年4月22日、雑貨商の男性(21)を絞殺した。計4人を自宅に埋めた。しかし最後に殺害された雑貨商の仲間がI宅を訪ねてきた。Iは誤魔化して帰させたが、事件が発覚すると判断して逃亡。警察がI宅を捜査して遺体を発見し、I夫婦を全国指名手配した。
 逃亡後、I夫婦は東京の貧民街で廃品回収業を営んでいた。体にむち打って働き、僅かなお金も貧しい人に施していたことから、周囲から「生き仏」とよばれた。11年後の1959年、警察庁は指名手配犯を重点的に捜査、マスコミに働きかけた。それを見た人物が警察に連絡し、8月25日に逮捕。I夫婦はこのとき、事件以後初めてぐっすり眠れたという。
 1960年11月28日、大阪地裁で夫婦ともに無期懲役判決(求刑死刑)。逃亡後の善行が考慮された。しかし1961年7月19日、大阪高裁はIの一審を破棄し死刑判決を言い渡した(妻は控訴棄却)。1962年7月17日、最高裁で上告が棄却され、二人の刑が確定した。夫は1967年11月16日、死刑執行。68歳没。
文 献 「執行命令」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  
8/17 概 要 〈小平事件〉
 1946年8月17日、東京芝浦の増上寺境内の裏山で、死後10日は経っていた20歳くらいの女性の全裸死体が発見された。しかも10m離れた場所から、もう一体の白骨化した死体が出てきた。その後、全裸死体は立行司Iの三女(17)であることが判明。そして就職斡旋をしていたおじさんこと小平義雄(41)が8月20日に逮捕される。
 小平は1923年、18歳で海軍に入り、中国大陸で現地人を次々強姦、殺害。勲八等旭日賞をもらって除隊後の1932年に、家出した妻の父を殺害して懲役15年の刑に服し、2度の恩赦後、1940年に出所していた。出所後はボイラーマンとして働き、1944年8月に再婚、長男も生まれていた。1945年5月の事件後はボイラーマンを辞め、運送屋の手伝いをしていた。
 その後の調べで小平は以下の事件を起こしていたことが判明。
  • 1945年5月25日、東京品川の第一海軍衣料廠(女子寮)のボイラー室で、女子挺身隊員(21)の首を絞めて、息を吹き返したところを強姦。その後、首を絞めて殺害。防空壕に捨てられた死体は、約1か月後に発見された。
  • 6月23日、栃木駅で人妻の女性(31)に米を売ってくれる農家があると誘いバスで移動後、山まで連れこんで強姦、殺害。現金70円と腕時計を奪った。遺体は9月10日に発見された。
  • 7月12日、渋谷駅で買い出しに来ていた横浜在住の女性(22)に米の闇屋を紹介すると誘い出し電車で栃木まで移動後、人気のないところで強姦、殺害。現金40円と腕時計を奪った。
  • 7月15日、池袋駅で買い出しに来ていた出版社勤務の女性(21)に米の闇屋を紹介すると誘い出し、電車で清瀬村まで移動後、人気のないところで強姦、殺害。現金60円と下駄を奪った。遺体は11月5日に発見された。
  • 9月28日、東京駅で買い出しに来ていた出版社勤務の女性(21)に米の闇屋を紹介すると誘い出し、電車で清瀬村まで移動後、人気のないところで強姦、殺害。現金300円などを奪った。遺体は11月1日に発見された。
  • 12月29日、浅草駅で買い出しに来ていた女性(21)に米の闇屋を紹介すると誘い出し、電車で栃木県西方村まで移動後、人気のないところで強姦、殺害。現金130円などを奪った。
  • 1946年8月6日、就職をあっせんすると声をかけていた立行司Iの三女(17)を公園に連れ出し、強姦、殺害。
 1945年5月から1946年8月まで上記を含む合計10名を殺害したとして起訴された。これ以外にも、小平は約30件の暴行を行った旨を供述している。裁判では10件の殺害のうち、3件については証拠不十分で無罪、7件について有罪として死刑判決を言い渡した。1947年6月18日、東京地裁で死刑判決。1948年2月27日、東京高裁で控訴棄却。1948年11月16日、最高裁で上告棄却。1949年10月5日、宮城刑務所で執行、44歳没。
文 献 「小平義雄連続暴行殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「第一話 淫獣 小平義雄」(佐木隆三『殺人百科(3)』(徳間書店,1982/文春文庫,1987他)所収)

「小平義雄事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「戦争」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「小平事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

「「性獣」小平義雄の正体」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)

「小平義雄事件」(山崎哲『〈物語〉日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

「連続婦女暴行殺人の背景」(近藤昭二『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房 二見WaiWai文庫,1997)所収)

「小平事件 小平義雄」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)
備 考  事件名は「こだいらじけん」だが、これは小平義雄の名字「おだいら」を読み誤ったもの。
 小平は、「強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ」と話している。〈異常性格〉そのものは持っていたかも知れないが、それを浮かび上がらせ、犯行に走らせたのは、実は戦争ではないだろうか。
8/21 概 要 〈榎井村事件〉
 1946年8月21日午前2時頃、香川県仲多度郡榎井村の大蔵省専売局職員の男性Tさん(43)宅を琴平煙草配給所の夜警が訪れ、門が開いていると注意してくれた。Tさんと妻(39)は外に出て門を閉めたところ、妻が母屋と納屋の間で隠れている人影を発見。妻はそのことをTさんに伝え、Tさんは鍬を振り上げ、白いパナマ帽の男と対峙したが、男は拳銃でTさんを射殺。2人の男が逃げ出した。
 8月28日、高松専売局へ盗みに入ったY(18)とA(19)が逮捕された。YとAは1946年5月から、専売局から煙草等を時々盗んでいた。香川県警は、榎井村の事件も二人の犯行であると睨み、厳しく追及。取り調べの警部補がAに対し、「Yが自供した」などとの雨誘導尋問を受けて犯行を「自供」。Yは一貫して無罪を主張した。Yは殺人、窃盗、住居侵入、建造物侵入、銃砲等所持禁止令違反で起訴された。Aも住居侵入、窃盗等で起訴された。
 高松地裁の裁判で、Yは無罪を主張し、Aも途中から無罪主張に転換した。しかし1947年12月24日、高松地裁はYに無期懲役(求刑死刑)、Aに懲役6年(求刑不明)を言い渡した。Aは家庭の事情により、控訴せず確定。Yは控訴し、1948年11月9日、高松高裁は一審判決を破棄し、懲役15年判決を言い渡した。1949年4月28日、最高裁は上告を棄却し、判決が確定した。
 Yはサンフランシスコ講和条約締結に伴う恩赦などにより、1955年5月に仮出所した。その後、仕事の傍ら事件関係者の所在を探し始め、1964年にAの所在を突きとめた。Yは再審について様々な弁護士に当たるも良い返事がもらえず、1976年に香川県弁護士土会人権擁護委員会に、再審のための人権救済申立をした。
 1990年3月19日、高松高裁へ再審請求を起こし、1993年11月1日、高松高裁は再審開始を決定。Aの自白が誘導尋問によるもの、パナマ帽がYのものであるというYの兄の証言は警察の強要によるもの、Yにパナマ帽を売ったという台湾人が否定していることなどに信憑性があると判断した。1994年3月22日、高松高裁は無罪判決を言い渡し、そのまま確定した。
 Yさんは1997年3月、食道ガンで死去、69歳没。
文 献 日本弁護士連合会『やっとらんもんはやっとらん-榎井村事件再審無罪への道』上下(日本弁護士連合会・香川県弁護士会,1994)

榎井村事件総括文書刊行委員会『やっとらんもんはやっとらん 続編』(日本弁護士連合会・香川県弁護士会,1995)
備 考  



【1947年】(昭和22年)

日 付事 件
5/20 概 要 〈福岡事件〉
 1947年5月20日、福岡市で中国人(40)と日本人(41)の闇ブローカー2人が射殺され、現金10万円が盗まれた。警察は軍服闇取引に絡む計画的な強盗事件として、1週間後に芸能会社社長の西武雄(32)、闇ブローカーの石井健治郎(30)を含む復員軍人ら容疑者7名を逮捕。7人はアメリカ側の軍事法廷で尋問を受けた後、日本の裁判に回されたが、このとき「速やかに裁判し、判決を報告すべし」という要望書をつけられた。まだ旧刑事訴訟法の生きていた頃で、証拠が無くても自供だけで被告にすることができた時代である。非道とも言える拷問の結果、いつの間にか西は主犯、石井が実行犯、残り5人が共犯者として強盗殺人事件として起訴。裁判で西、石井に死刑判決が下された。他の5人に対しては懲役15年~3年6月の判決が言い渡された。闇ブローカーの一人は中国人の有力者ということもあり、傍聴席は中国人で埋め尽くされた。地裁判決後「7名全員を死刑にしろ!」と怒号が飛び、裁判長は「2人を死刑にしたから勘弁してください」と謝罪したという。
 石井によると、自分が実行犯であることには間違いないが、強盗事件ではなく喧嘩の出入りと聞いていた。そして相手がピストルを抜こうと誤認して、石井がピストルで射殺した単なる殺人事件ということである。西は全く無関係であり、そのことは石井自身が証言している。1948年2月27日、福岡地裁で死刑判決。1951年4月30日、福岡高裁で自判、死刑判決。1956年4月17日、最高裁で上告棄却、死刑が確定した。
 1968年、野党が再審窓口を広げよと国会に「死刑囚再審法案」を提出した。国会で審議中の1969年8月30日、西と石井は個別恩赦を出願。与党は法案を拒否したが、その見返りとして西郷吉之助法務大臣は「GHQ占領下の死刑確定囚は、積極的に恩謝する」と声明、明治百年記念恩赦を宣言した。1975年6月17日、石井死刑囚が恩赦相当として無期に減刑された。しかし同日、西死刑囚は恩赦不相当して出願が却下されると同時に死刑を執行された。60歳没。石井氏は逮捕から42年7か月ぶりの1989年12月8日、仮釈放で出所した。
 2005年、西元死刑囚の遺族、石井氏、強盗殺人ほう助に問われた共犯の1名(懲役5年 故人)の遺族は、「自白は拷問によるものである」と福岡高裁に再審請求した。西元死刑囚は3度、石井氏は5度、再審請求を起こしているが、「白鳥決定」以後では初めて。しかし西元死刑囚の遺族は亡くなったため、手続きは終了。2009年3月31日、共犯1名遺族の請求が福岡高裁で棄却。2009年11月24日、最高裁で即時抗告が棄却された。
 石井氏は2008年11月7日、急性心筋梗塞のため死亡。91歳没。再審請求手続きは本人死亡により終了した。
文 献 今井幹雄『誤殺』(東方出版,1983)

内田博文『冤罪・福岡事件 届かなかった死刑囚の無実の叫び』(現代人文社 GENJINブックレット59,2012)

古川泰龍『叫びたし寒満月の割れるほど』(法蔵館,1991)

古川泰龍『福岡、中国人闇ブローカー殺し殺人請負強盗殺人事件真相究明書』(コスモス社,1963 非売品)

古川泰龍『白と黒のあいだ』(河出書房新社)

古川泰龍、矢澤昇『真相究明書―九千万人のなかの孤独』(花伝社,2011)

斎藤充功『恩赦と死刑囚』(洋泉社 新書y,2018)

「なぜ私が助かったか―恩赦の明暗―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「福岡事件――忘れられた死刑誤判事件」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  熊本県、生命山シュバイツァー寺住職の古川泰龍氏(故人)は再審運動を続けてきた。その後、長男で現住職の古川龍樹氏が運動を続けている。しかし請求権のある遺族がいないため、古川氏は遺族以外でも再審請求できる制度への改正などを訴えている。
4/23 概 要 〈三人組拳銃強盗殺人事件〉
 無職O(29)は1947年4月23日夜、神戸市須磨区天神町の歯科医宅に三人組で強盗に入り屋内を物色中、家人の急報で駆けつけた警官(31)の拳銃に驚き、とっさに持参の拳銃を発砲。そのまま洋服一着を盗んで逃走したもののまもなく逮捕された。撃たれた警官はその一時間後、病院で死亡した。
 1947年9月5日、神戸地裁で死刑判決。そのころは手に負えぬ暴れ者だった。1948年11月30日、大阪高裁で死刑判決(自判)。1950年9月5日、最高裁で上告棄却、死刑確定。
 父の死亡後、一転して模範囚となった。1955年2月9日、大阪拘置所長から死刑執行の予告を受けた。そのとき、死刑囚や矯正職員にも気付かれないように、密かに録音テープのスイッチが入っていた。2月11日執行、36歳没。執行の状況はテープに録音された。当時の大阪矯正管区長S氏の考えにより、矯正資料に用いるために録音が行われたという。
 1951年3月17日、羽仁五郎氏らによって「死刑廃止法案」が参議院に提出、この録音テープは資料として用いられた。法案自体は審議未了のまま廃案となった。
文 献 「模範囚」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「録音された死刑執行-五十三時間の「声」」(大塚公子『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版,1992)、後に『死刑囚の最後の瞬間』(角川文庫,1996)と改題)

玉井策郎『死と壁 死刑はかくして執行される』(創元社)
備 考  
5/23 概 要 〈矢野村強盗殺人事件〉
 1947年5月23日、兵庫県赤穂郡矢野村の農家Kさん(37)宅に強盗が押し入り、Kさんと妻(35)を斧で撲殺、衣服57点を奪った。兵庫県警は、F兄弟(兄28、弟19)を逮捕。
 1947年11月14日、神戸地裁姫路支部で主犯の弟に死刑判決、従犯兄に無期懲役判決を言い渡す。しかし弟は、主犯が兄であると今までの供述を翻して控訴。弟は、主犯は兄であり、兄に家族がいることから主犯は自分と告白したのであり、実際は主犯ではないと教誨師に訴える。大阪高裁では兄が証人として呼ばれたが、兄は弟が主犯と主張。1948年7月20日、大阪高裁で自判、死刑判決。兄は同日、無期懲役判決。兄はその後上告取り下げ、確定。1949年5月10日、最高裁で破棄、差し戻し。12月26日、大阪高裁の差し戻し審で再び死刑判決。1951年2月2日、最高裁で被告が上告棄却、死刑が確定した。
 その後、兄は自分が主犯だと認める手紙を大阪拘置所教育課長に出したが、再審請求は却下された。1953年2月20日、死刑執行、25歳没。
文 献 「誤殺」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  
6/21 概 要 〈少年愚連隊強盗殺人〉
 1947年6月21日、愛知県愛知郡天白村に住む女性Iさん(50)方に、K(17)をリーダーとする少年愚連隊5人が押し入り、Iさんと友人の女性Tさん(51)を蒲団で簀巻きにし、飯を食い、部屋中に糞尿をまき散らし、家内を荒らし回った。IさんとTさんは、家を荒らし回っている間に窒息死した。
 1947年9月4日、名古屋地裁でKに対し求刑通り死刑判決。1948年3月11日、名古屋高裁で被告側控訴棄却、上告せず確定。
 1948年7月15日、死刑を適用できない年齢を16歳未満とする少年法から、18最未満とする新少年法に改正された。制度変更に伴う不公正の是正のため、1949年3月23日、Kは無期懲役に減刑となった。その後、二度の恩赦を受け、Kは釈放された。
文 献 「少年」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

斎藤充功『恩赦と死刑囚』(洋泉社 新書y,2018)
備 考  
12/18 概 要 〈鹿児島雑貨商一家殺傷事件〉
 1947年12月18日、東京本籍のAT(17)は、鹿児島市に住む雑貨商宅に押し入り、主人(41)と長女(5)を手斧で殺害、妻(31)にも重傷を負わせた。長男と次男は無事だった。ATは現金3,300円と衣服を奪い、ミカン箱に放火。火はすぐに消されたため、無事だった。事件後は屋久島に逃走するも、12月22日、逮捕された。
 ATは横浜市の関東学院中等部を2年で中退し、軍属になるも、1945年7月に強盗、窃盗事件を起こして軍法会議に掛けられ、懲役5年以上7年以下の判決を受け、刑務所に収監。戦後の1948年11月に仮出所後、見習工となるも働くのが嫌いなことから辞め、暖かい地方に行きたいと鹿児島まで来て事件を起こした。
 1948年2月27日、鹿児島地裁で求刑通り一審死刑判決。11月29日、福岡高裁宮崎支部で改めて死刑判決(自判)。上告せず、死刑が確定。しかし1948年7月15日、死刑を適用できない年齢を16歳未満とする少年法から、18最未満とする新少年法に改正された。制度変更に伴う不公正の是正のため、1949年3月23日、無期懲役に減刑された。
 その後熊本刑務所に収監されるも、精神障害のため城野医療刑務所に移監された。2010年には仮釈放審査が却下されている。この時点で、在監年数60年10月。無期懲役刑で最長である。
文 献 斎藤充功『恩赦と死刑囚』(洋泉社 新書y,2018)

中山義秀『少年死刑囚』(角川文庫,1954)
備 考  



【1948年】(昭和23年)

日 付事 件
1/15 概 要 〈寿産院事件〉
 新宿区柳町の寿産院院長のM・I(51)と夫で元巡査のT・I(55)は新聞などに広告を出し、200人を超えるみなし児などの乳幼児を1人につき4~5,000円ほどの養育費とともにもらい受けたまま食事をさせず、103人を死亡させた(103人という数字は、新宿区役所衛生課が死亡診断書を受け付け、埋葬許可書を出した数字である)。さらに配給のミルクや砂糖などを横流しし、100万円以上の金を稼いでいた。1948年1月12日午後7時半ごろ、警視庁早稲田署の署員がパトロール中、自転車に乗った不審な男を見つけた。尋問すると荷台に蜜柑箱を積んでおり、中に嬰児1人の死体が入っていた。自転車に乗っていた葬儀屋(54)は当日、他にも4個の死体を寿産院から運び出していると語り、今まで20数個の死体を運んだと供述した。早稲田署は寿産院の内偵を行い、二人と葬儀屋を15日に逮捕。亡くなった乳幼児の多くは、不義、不正の男女関係の子であった。
 1948年10月11日、東京地裁は殺人罪でM・Iに懲役8年(求刑懲役15年)、殺人及び私文書偽造(医師でもないのに死亡診断書をつくったこと)でT・Iに懲役4年(求刑懲役7年)、助手のKには無罪(求刑懲役3年)を言い渡した。検察側は84名が死亡、うち27名は殺人の証拠が明白であると訴えたが、地裁は22人については証拠不十分として無罪を言い渡し、5人について殺人を認定した。夫妻は控訴、検察側も夫妻に対して控訴した。1951年7月14日、一審判決が破棄され、M・Iに懲役4年、T・Iに懲役2年判決が言い渡された。1953年9月15日、上告棄却、確定。
文 献 「ベビーブームの陰に大量のえい児殺し 寿参院事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)

「寿産院大量もらい子殺し事件」(山崎哲『〈物語〉日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  本事件を受け、医学博士の林髞(推理作家の木々高太郎)は問題解決のために、堕胎容認すべしと主張。他に宮城タマヨ参議院議員など多くの識者が同様の主張を行った。1948年秋に優生保護法が制定され、合法的な人工妊娠中絶が可能となった。ただしこの法律は、母体保護のほかに優生思想・優生政策上の見地から「不良」な子孫の出生を防止することが主目的となっていたため、1996年に母体保護法に改められた。なお堕胎罪は刑法212-216条に規定されたままとなっている。
1/26 概 要 〈帝銀事件〉
 1948年1月26日、東京豊島区の帝国銀行(第一勧業銀行の前身)椎名町支店に、45歳ぐらいの男がやってきた。男は「付近に赤痢菌が発生した」と告げ、行員16名に持参した予防薬を飲ませた。これを飲んだ16名は次々に苦しみはじめ、12名(8歳~49歳)が死亡。犯人は店内にあった現金約16万円と1万数千円の小切手(後に引き換えしている)を奪って逃走した。犯人は予防薬を飲ませるに当たり、実演している。毒薬は遅効性のものと判断されていたが、やがて「青酸カリ」とされた。ちなみに鑑定を行ったのは古畑種基教授を中心とする東大法医学教室である。当初は軍関係者、特に七三一部隊(石井部隊)が関連していたとして捜査が行われていたが、決め手がなく難航した。ところが8月21日、人相書きとは似ても似つかぬ、一般人の日本画家平沢貞道(56)が逮捕された。当初は否認していたものの、9月23日より自供を始めた。10月12日、強盗殺人容疑および他の2銀行への強盗殺人未遂および予備容疑で起訴された。
 12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した。1950年7月24日、東京地裁で一審死刑判決。1951年8月11日、東京高裁で控訴棄却。1955年4月6日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。
 その後、17度の再審請求、3度の恩赦願が出されたが受け入れられず、一方歴代の法務大臣が死刑執行命令を出さなかったため、約32年間、ついに執行されることはなかった。1987年5月10日、平沢は肺炎で獄死した。95歳没。
 1989年、養子の平沢武彦氏が請求人となって、第19次再審請求。2013年10月1日、自宅で死亡していた平沢武彦氏が発見された。病死とみられる。54歳没。東京高裁は12月2日付で再審手続きの終了を決定。最高裁第二小法廷は2014年1月27日付で弁護側の特別抗告を棄却し、終了が確定した。
 2015年11月24日、平沢元死刑囚の親族が東京高裁に第20次再審請求を申し立てた。
文 献 有川正志『阿修羅の慟哭 もうひとつの帝銀事件』(杉並けやき出版,2000)

石井敏夫『悲願の再審』(栃の葉書房,1978)

石井敏夫『帝銀事件平沢貞通と一店主の半生』(柘植書房新社,1997)

ウィリアム・トリプレット『帝銀事件の真実』(講談社,1987)

岩波明『精神鑑定はなぜ間違えるのか? 再考昭和・平成の凶悪犯罪』(光文社新書,2017)

遠藤誠『帝銀事件裁判の謎 GHQ秘密公文書は語る』(青山館,1986/現代書館,1990)

遠藤誠『帝銀事件と平沢貞通氏』(三一書房,1987)

遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館,2000)

河野すみゑ『ああ、平沢貞通』(日本図書刊行会,1997)

佐伯省『疑惑 帝銀事件最高機密の化学兵器』(講談社出版サービスセンター,1996)

佐伯省『疑惑α 帝銀事件不思議な歯医者』(講談社出版サービスセンター,1996)

佐藤正『七三一部隊と帝銀事件』(新生出版,2000)

佐藤正『歴史と時代の産物としての帝銀・下山両事件ほか―真実は隠しとおせない』(新生出版,2005)

竹澤哲夫『検証・帝銀事件裁判』(イクォリティ,1992)

常石敬一『謀略のクロスロード―帝銀事件捜査と731部隊』(日本評論社,2002)

中山雅城『検証冤罪―帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)

中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会,2008)

浜田寿美男『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求「鑑定書」』(講談社選書メチエ,2016)

平沢貞通『帝銀死刑囚』(現代社,1959)

平沢貞通『遺書 帝銀事件』(現代史出版会・徳間書店,1979)

平沢貞通・平沢武彦『われ、死すとも瞑目せず』(毎日新聞社,1988)

平沢武彦『壁に一枚の絵があって』(徳間書店,1985)

平沢武彦『平沢死刑囚の脳は語る - 覆された帝銀事件の精神鑑定』(インパクト出版会,2000)

平沢武彦・片島紀男『国家に殺された画家 帝銀事件・平沢貞通の運命』(新風舎文庫,2007)

法務府検務局編『帝銀事件における検事の論告』(法務府検務局,1950)

松本清張 『小説帝銀事件』(文藝春秋,1959/角川文庫,1961)

森川哲郎『帝銀事件』(三一書房,1964/1980)

森川哲郎 『秘録帝銀事件』(番町書房,1972/宝島社文庫,2009)

森川哲郎 『獄中一万日』(図書出版社,1977)

森川哲郎『獄中三十二年』(現代史出版会,1980)

山田朗『帝銀事件と日本の秘密戦 1948・1・26』(新日本出版社,2020)

吉永春子『謎の毒薬』(講談社,1996)

和多田進『ドキュメント帝銀事件』(ちくま文庫,1988/晩馨社,1994/新風社文庫,2004)(轍寅次郎 『追跡・帝銀事件』(晩聲社,1981)の改題、改訂)

和多田進・竹澤哲夫監修『検事聴取書全62回 帝銀事件の研究1』(晩聲社,1998)

「帝銀事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(社会思想社 現代教養文庫,1975)所収)

「帝銀事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「第四章 帝銀事件 平沢貞道」(片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社,2016)所収)

「帝銀事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

「帝銀事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「帝銀事件の謎」(松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)所収)

「帝銀事件」(無実の「死刑囚」連絡会議編『無実を叫ぶ死刑囚たち』(三一書房,1978)所収)

「時効」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「帝銀事件――別件逮捕と自白による処罰・死刑」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)

「帝銀事件 平沢貞道」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)
備 考  32年間死刑が執行されなかったのは、犯罪事件死刑確定囚としては世界最長である(当時)。20名以上の死刑執行にサインを押した法務大臣が、いざ平沢死刑囚の書類になったとき「こいつは無実じゃないか。はんこは押せん」と言った話は有名。しかし法務省は、最後まで執行にこだわっていたようだ。また、死刑確定から30年が経って、釈放の気運が高まった際も、法務省はガンとして受け付けなかった。
 ただ、検事の取り調べにおいて平沢死刑囚は「自分が犯行を犯した」と自白している。もしこの自白がなかったら、罪に問われることはなかったのかも知れない。
3/31 概 要 〈音江村一家8人殺人事件〉
 1948年3月31日、北海道空知郡音江村で農家を営む男性宅で、男性(34)、妻(33)、長男(13)、長女(10)、次女(8)、二男(6)、三女(4)、三男(2)が寝ているところをめった切りにされて殺害された。遺体は翌日に発見。家の周りから、刃渡り5寸のマサカリが発見された。男性はかなり金を貯めていると、噂されていた。
 同じ村に住み、強盗事件で収監中の友人男性(35)宅から、血痕らしきものが付いた雨合羽、防寒手袋、長靴が発見され、逮捕された。しかし男性は家にいたとアリバイを主張し、犯行を否認。雨合羽等についていた血痕らしきものについて、逮捕時に鑑定した北大法医学教室の沼田教授は人血であり被害者の血液型と一致すると結論したが、東大法医学教室古畑教授は「血痕が認められない」と結論した。
 裁判で弁護側は、男性の作業服などの結婚は人血でないことを立証するとともに、現場に残された足跡が本人の長靴と一致しないことを指摘した。旭川地裁は1949年6月22日、男性に無罪(求刑死刑)を言い渡した。検察側は控訴、さらに上告したがいずれも棄却され、男性の無罪が確定した。
文 献 「“8人殺害”で「無罪」の陰に漂う政治的な匂い」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  
11/29 概 要 〈幸浦事件〉
 1948年11月29日、静岡県下磐田郡幸浦の一家四人が行方不明となった。強盗殺人と判断され、捜査を開始。死体が発見されず、一度は捜査本部が解散するが、2ヶ月後に再び設置される。そして2月12日、Aさん(23)、弟のBさん(19)、Cさん(45)、Yさん(38)が窃盗容疑で別件逮捕された。翌日、Kさんが「自白」。14日、Kさんの自白に基づいて、砂浜から一家四人の遺体が発見された。後に3名が強盗殺人、1名(Yさん)が贓物故買罪で起訴された。
 裁判では4人とも無罪を訴えるが、1950年4月27日、静岡地裁でA、B、Cさんに求刑通り死刑判決。Yさんに懲役1年の判決。1951年5月8日の東京高裁でも被告側の控訴は棄却された。しかし1957年2月14日、最高裁第二小法廷は「自白の任意性に疑いがあり、重大な事実誤認の疑いがある」として、東京高裁に差し戻した。1959年2月28日、東京高裁は3人に無罪判決を言い渡す。そして1963年7月9日、最高裁は検察側の上告を棄却し、全員の無罪が確定した。しかし、主犯とされたAさんは判決確定前の1959年8月8日、持病のテンカンがもとで、34歳の若さで死亡し、公訴棄却となっている。
 静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。また自白によって発見されたという遺体は、逮捕前に警察が発見していたという証言も出ている。
文 献 清瀬一郎『拷問捜査―幸浦・二俣の怪事件』(日本評論新社,1959)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤まった裁判 ―八つの刑事事件―』(岩波書店,1960)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)
備 考  この後、静岡県では1960年前後まで冤罪事件が続出するが、紅林麻雄警部による拷問が原因というものが数件ある。
12/30 概 要 〈免田事件〉
 1948年12月30日午前3時半頃、熊本県人吉市で祈祷師一家が鉈でめった打ちにされ、現金が盗まれているのを、夜警見回りから帰ってきた次男が発見した。祈祷師夫婦(76、52)が死亡、長女(14)、次女(12)が重傷を負った。1949年1月13日午後9時過ぎ、免田栄さん(23)が球磨郡の知人宅から連行され、翌日別件の窃盗事件で緊急逮捕された。不眠不休、拷問といった執拗な取り調べの末、16日に強盗殺人で再逮捕。その翌日から自白調書が作られた。4月14日の第3回公判から全面無罪を訴えるも、1950年3月23日、熊本八代支部で一審死刑判決。1951年3月19日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1952年1月5日、最高裁で上告が棄却、死刑が確定。
 1952年6月10日、福岡高裁へ初めての再審請求。1956年8月10日、第3次再審請求をした熊本地裁八代支部で再審開始決定(西辻決定)。しかし即時抗告により1959年4月15日、福岡高裁は決定を取り消し、再審請求を棄却した。
 1972年4月17日、熊本地裁八代支部に第6次再審請求。1976年4月30日、地裁は請求を棄却するも、1979年9月27日、福岡高裁は再審開始を決定。1980年12月11日、最高裁は検察側の特別抗告を棄却し、再審開始が確定した。
 1981年5月15日、熊本地裁八代支部で再審第1回公判。1983年7月15日、地裁は事件当日のアリバイを認定するとともに自白調書に信用性がないとしたことから、強盗殺人について無罪を言い渡した(別件の窃盗事件については当時の判決通り懲役6ヶ月、執行猶予1年となっているが、この再審では審理されていない)。免田さんは34年ぶりに釈放された。検察側は控訴を断念し、無罪判決は確定した。死刑確定囚の再審無罪は初めて。
 刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7ヶ月の拘禁日数12,559日に対して免田さんに9,071万2,800円の補償金が支払われた。そのうち3,000万円は再審弁護団のある弁護人から「寄付せよ」と言われて渡している。その半額は日弁連に渡ったが、残り半額はある弁護人が個人で使ったらしい。
 2009年6月5日、免田栄氏は拘置中に国民年金に加入する機会を失ったとして、受給資格の回復を総務省年金記録確認第三者委員会に申し立てた。1961年の国民年金制度開始時は確定死刑囚扱いで、国から制度について告知されなかったと訴えている。
 2013年6月7日、再審で無罪が確定した元死刑囚が拘置中に納められなかった国民年金の保険料を納めれば、年金支給を受けられるとする特例を盛り込んだ法案が、衆院本会議で全会一致で可決された。法案は議員立法。19日には参院本会議で全会一致により可決、成立した。死刑判決確定から再審無罪になるまで未納だった保険料を後から支払えば年金が支給される。救済対象は免田栄さんと赤堀政夫さんの2人が想定されている。免田さんには2014年2月より年額74万円余りの年金が支給される。2013年以前に受給していたはずの年金については一時金として受け取ったという。
 2020年12月5日、免田栄さんは老衰のため死亡。95歳没。
文 献 「免田事件」(青地晨『冤罪の恐怖 無実の叫び』(現代教養文庫,1975)所収)

入江良信『死刑囚免田栄の光芒』(福岡免田栄さんを守る会,1981)

栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社,1993)

熊本日日新聞社編『検証 免田事件』(日本評論社,1984/新風舎文庫,2004)

熊本日日新聞社編『新版 検証 免田事件』(現代人文社,2009)

熊本日日新聞社編『検証・免田事件 完全版』(現代人文社,2018)

潮谷総一郎『死刑囚34年』(イーストプレス,1994)

高峰武『生き直す―免田栄という軌跡』(弦書房,2022)

真蔦栄『私はアリバイのある死刑囚』(汐文社,1980)

免田栄『免田栄 獄中記』(社会思想社,1984)

免田栄『死刑囚の手記』(イーストプレス,1994)

免田栄『死刑囚の告白』(イースト・プレス,1996)

免田栄『免田栄獄中ノート』(インパクト出版会,2004)

免田事件資料保存委員会『検証・免田事件[資料集]』(現代人文社,2022)

「第一章 死刑台から生き還った男」(前坂俊之『誤った死刑』(三一書房,1984)所収)

「免田事件――物証が証明した被告人の無罪」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  免田氏はその後、死刑廃止を訴える講演等を行っている。2007年には国際連合のパネルディスカッションで死刑廃止の主張を訴えた。
 日本記者クラブは2023年4月28日、免田事件再審無罪判決を取材した元記者3人による「免田事件資料保存委員会」に日本記者クラブ賞特別賞に選んだ。40年にわたり事件資料の整理保存と報道に当たっている点が、それぞれ評価された。



【1949年】(昭和24年)

日 付事 件
1/25 概 要 〈別子銅山妻子殺人・ダイナマイト殺傷事件〉
 愛媛県新居浜市の住友銅山別子鉱業所で働くNは、愛人ができたことから妻と喧嘩をするようになる。1949年1月25日、腹に据えかねた妻(37)は家を出て行くから金を寄こせと言い、N(40)と喧嘩になり、手斧で妻を叩き、紐で絞殺。寝ていた長女(1)の頭を手斧で殴って殺害した。さらに床下に穴を掘り、二人を埋めた。小学一年生の長男(6)を殺すことはできず、周囲には妻が離婚して娘を連れて出て行ったと言いふらした。愛人と暮らすようになったが、長男は邪魔になる。2月13日、父親の初七日に長男を連れて行き、兄の家に預けるとだまして連れ出し、実家のある高知県馬追村へ行く途中の山の中で、手拭いで首を絞めて殺害。遺体を放置した。
 Nは、同じ社宅に住む人妻H(29)に目を付けて口説き始めるもなかなか落ちず、2年後、Hが妊娠したことに腹を立て、1951年10月13日、逆恨みでHの家にダイナマイトを仕掛け爆破。Hの実妹が死亡、実弟(19)が重傷を負った。Hや実母、実子、連れ子の4人は無事だった。Hの夫はたまたま当日、胃痙攣で入院していた。警察は11月8日、1950年末に行商の女を強姦した容疑でNを連れて行く。9日、隙を見て剃刀をズボンに隠し、自殺を図るも無事だった。そして妻子殺害も警察に突き止められる。
 1952年10月23日、Nは西条刑務支所を脱獄。監房の床板を切り破り、穴を掘って外へ出たものだった。その後はトンネルやダムなどの工事現場、11県を転々とする。警察は全国に手配をし、1960年9月、別名を名乗っていた人物がNにそっくりだという情報を得る。捜査の結果、高知の現場にいることが判明。9月19日、Nは逮捕され、翌日、愛媛まで押送された。
 1961年2月10日、松山地裁西条支部で懲役15年判決。求刑は死刑だったが、ダイナマイト事件が証拠不十分で無罪となった。1962年1月31日、高松高裁でダイナマイト事件も有罪となり、無期懲役判決。減軽理由は逃亡中の約8年間、飯場を転々としながら比較的真面目に働いていたことと、その間は苦労を重ねていたことに免じてである。1962年10月26日、被告側上告棄却、無期懲役確定。
文 献 西村望『薄化粧』(立風書房,1980/文春文庫,1985/徳間文庫他)
備 考  
6/10 概 要 〈兵庫県菅野村老女殺人事件〉
 夫が婿養子をいいことに全然働かないため、兵庫県菅野村のY(34)は自分で色々駆け回りながら4人の子供を育てていた。しかし借金で首が回らなくなり、1949年6月9日、知り合いの老夫婦の家に行き金を借りようとしたが、妻(69)に断られた。10日早朝、鎌を持って夫婦宅に侵入。物色中に妻を殺害。金を奪い、放火して逃亡した。夫は救出されたが、3日後に病死した。盗んだ金で借金を返していたが、5日後に逮捕。
 1949年12月26日、神戸地裁で求刑通り死刑判決。1950年9月4日、大阪高裁で被告側控訴棄却。1951年7月10日、最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。
 模範囚として過ごし、子供を思う気持ちを短歌に託し高い評価を得ていたが、サンフランシスコ平和条約発効記念による政令恩赦の対象にならなかったことが判明したあたりから言動がおかしくなり、徐々に正気を失い、精神に異常をきたした。
 1968年、野党が再審窓口を広げよと国会に「死刑囚再審法案」を提出した。与党はこれを拒否したが、その見返りとして西郷吉之助法務大臣は「GHQ占領下の死刑確定囚は、積極的に恩謝する」と声明、明治百年記念恩赦を宣言した。そして1969年9月2日、第1号としてYが恩赦となり、無期懲役に減刑された。八王子医療刑務所で二年半の治療を得た後、和歌山刑務所へ移転されたが、結核の悪化により刑の執行停止、1977年に奈良の国立療養所に収容され、翌年3月4日に息を引き取った。62歳没。最後まで正気に戻らないままだった。
文 献 「発狂」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)
備 考  戦後初の女性死刑囚。
7/5 概 要 〈下山事件〉
 1949年7月5日、自宅から出勤途中の下山定則国鉄総裁(49)が、三越本店に買い物に入ったまま行方不明になった。翌日午前0時25分、常磐線の綾瀬・北千住間の線路付近で下山総裁の轢殺死体が発見された。轢いたのは0時20分頃に同所を通過した下り貨物列車であると推定された。
 当時、GHQから国鉄職員の大量整理を迫られていたことや目撃証言などから、警視庁捜査一課は自殺説を唱えた。慶応大学法医学教室の中館久平教授も、生体轢断説を支持した。一方、警視庁捜査二課は謀殺説をとり、左翼勢力によって自殺を装われたと推定した。また実際に死体を解剖した東京大学法医学教室の古畑種基教授も、死後轢断説を支持した。自殺か他殺か意見が分かれたままだったが、12月に入り、警視庁は自殺と一方的に断定し、捜査本部を解散した。
文 献 大野達三、岡崎万寿秀『謀略』(三一新書,1960)

金井貴一『謀略の鉄路』(廣済堂,1999)

日下圭介『遠すぎた終着 下山事件四十七年目の夏』(祥伝社,1995)

佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』(三一新書,1981)

佐藤一『下山事件全研究』(時事通信社,1976)

佐藤一『「下山事件」謀略論の歴史』(彩流社,2009)

佐藤正『歴史と時代の産物としての帝銀・下山両事件ほか―真実は隠しとおせない』(新生出版,2005)

柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社,2005/祥伝社文庫,2007)

下山事件研究会編『資料 下山事件』(みすず書房,1969)

関口由三『真実を追う 下山事件捜査官の記録』(サンケイ新聞社出版局,1970)

平正一『生体れき断 下山事件の真相』(毎日学生出版社,1964)

堂場肇『下山事件の謎を解く』(六興出版社,1952)

古畑種基『法医学の話』(岩波新書)

松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)

錫谷徹『死の法医学 下山事件再考』(北海道大学図書刊行会,1983)

宮川弘『下山事件の真相』上(東洋書房,1968)

宮川弘『下山事件の真相』1~2巻(鎌倉芸林,1977)

諸永裕司『葬られた夏―追跡・下山事件』(朝日新聞社,2002)

森達也『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社,2004/新潮文庫,2006)

矢田喜美雄『謀殺 下山事件』(講談社,1973/講談社文庫,1985/新風舎文庫,2004/祥伝社文庫,2009)

「下山国鉄総裁怪死事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「下山事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「下山事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人-東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

「下山事件」(佐々木嘉信『刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫,2004)所収)

「下山国鉄総裁謀殺論」(松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)所収)
備 考  
7/15 概 要 〈三鷹事件〉
 1949年7月15日21時過ぎ、国鉄中央線三鷹駅構内で無人列車が突然動き出して暴走し、民家に突入。死者6名、重傷者20名以上を出した。この日、国鉄職員大量人員整理に対し、組合側が断固闘争を宣言した日でもあった。16日、捜査当局は解雇通告を受けていた2人の共産党員を容疑者と断定、18日に逮捕した。8月1日、竹内景助(28)を含む7人を一斉逮捕。以後、国労三鷹及び中野電車区分会を中心に合計20人近くを逮捕した。最終的に10人を起訴。このうち9人が共産党員、三鷹電車区検査係の竹内景助のみが非共産党員だった。
 竹内の供述は、捜査・公判段階を通じて無罪、単独犯行、共同犯行と、何度も供述を変転させたが、一審最終陳述で単独犯行を主張。1950年8月11日、東京地裁は竹内のみ無期懲役、9人に無罪判決を言い渡した。この供述は、共産党シンパであった竹内が、弁護士に「10年後には、共産革命が起きて人民政府ができる。そうすれば君は英雄として迎えられ、高いポストにつくことができる」といわれたことが大きかった。しかし1951年3月30日、東京高裁は無罪判決を言い渡された9人に対する検察側の控訴を棄却するものの、竹内に対しては一審を破棄して死刑判決を言い渡した。最高裁では、口頭弁論が開かれないまま15名の裁判官による大法廷での審理となり、1955年6月22日、8対7という一票差で「検察、被告各上告を棄却」。こうして竹内は死刑囚となった。電車顛覆致死で死刑が確定した唯一の事件である。
 そんな竹内に共産党からは何の援助もなく、釈放運動すら起きなかった。その後、竹内死刑囚は無実を訴え再審請求を行ったが、1967年1月18日、脳腫瘍により獄死。45歳没。病状が進んでも、当局は一切の治療を行わなかった。
 2011年11月10日、竹内元死刑囚の長男が東京高裁に第二次再審請求を提出した。44年ぶりの再審請求となり、再審弁護団は申立書と約30点の新証拠を同高裁に提出した。申立書は、(1)有罪の証拠は自白しかなく、竹内氏は自白と否認を交互に繰り返した(2)電車の1、2両目のパンタグラフが上がっていたこと、1両目の操作だけでは2両目のパンタグラフを上げられないことがわかり、自白と矛盾する(3)事件当時は月明かりがなかったことがわかり、三鷹電車区正門前で同氏を見たとする証言は信用できない(4)事件当時、同氏が電車区内の風呂に入っていたことが証言で裏付けられている―ことなどを指摘している。2019年7月31日付で東京高裁は、請求を棄却した。2022年3月1日付で東京高裁は、異議申立を棄却した。2024年4月15日付で最高裁は特別抗告を棄却した。
 2024年9月3日、竹内元死刑囚の長男が東京高裁に第三次再審請求を提出した。
文 献 石川逸子『三鷹事件 無実の死刑囚竹内景助の詩と無念』(梨の木舎,2022)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤まった裁判 ―八つの刑事事件―』(岩波書店,1960)

K・O『さらばわが友 正』(現代史出版会・徳間書店,1986)

片島紀男『三鷹事件』(日本放送出版協会,1996/新風舎文庫,2005)

小松良郎『三鷹事件』(三一新書,1967/三一書房,1998)

佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』(三一新書,1981)

清水豊『「三鷹事件」を書き遺す』(西田書店,1998)

高見沢昭治『無実の死刑囚』(日本評論社,2009/改訂版2019)

竹内景助『春を待ついのち』(青春出版社,1956)

法務省刑事局『三鷹事件公判速記録』1~9(法務省刑事局,1950~1951)

梁田政方『三鷹事件の真実にせまる 1949.7.15』(光陽出版社,2012)

「第三章 三鷹事件 竹内景助」(片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』(鹿砦社,2016)所収)

「一票の差」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

「三鷹事件 竹内景助」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社,2007)所収)

「三鷹事件・砂川事件――暗黒裁判を基礎づけた田中耕太郎」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  
8/6 概 要 〈弘前大教授夫人殺害事件〉
 1949年8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。夫が出張中であったため、痴情関係や怨恨関係が疑われ、医大生が逮捕されるも、アリバイが証明されて釈放された。その後、現場にから道路に続いていた血痕より、8月22日、失業中のN氏(25)が逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。
 1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決(求刑死刑)を言い渡す。1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。
 N氏は1963年1月に仮出所。1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。真犯人については、すでに公訴時効が成立しており、起訴されなかった。
 N氏は2008年1月24日に死亡。84歳没。
文 献 「弘前大教授夫人殺し事件」(井上安正『警察記者』(JICC出版局,1993)所収)(改題井上安正『警察記者33年』(徳間文庫,2000)所収)

「弘前大教授夫人殺し事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「弘前事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人-東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

鎌田慧『血痕 冤罪の軌跡』(文藝春秋,1978)(改題『弘前大学教授夫人殺人事件』(講談社文庫,1990/新風舎文庫,2006))

井上安正『真犯人はつくられた』(自由国民社,1977)

井上安正『冤罪の軌跡 弘前大学教授夫人殺害事件』(新潮新書,2011)

佐藤友之『私はこうして犯人にされた―私の冤罪闘争記 弘前大学教授夫人殺し事件と那須隆』(青年書館,1983)
備 考  
8/17 概 要 〈松川事件〉
 1949年8月17日午前2時9分、東北本線の金谷川・松川両駅間で旅客列車の脱線転覆事故が起き、機関士3名が死亡、乗客ら約30名が負傷した。レールに工作の痕があり、列車妨害事件として国鉄労働者10名、東芝松川工場労働者10名が逮捕、起訴される。
 物証はほとんどなく、被告側は無罪を主張。1951年12月6日、福島地裁は5名に死刑判決、5名に無期懲役判決(うち求刑死刑1名)、10名に懲役15年~3年6ヶ月判決(うち求刑死刑1名)の有罪判決を言い渡した。1953年12月22日、仙台高裁は3名を無罪にしたものの、残り17名については4名に死刑判決、2名に無期懲役判決、11名に懲役15年~3年6ヶ月判決を言い渡した。しかし上告審中の1958年、被告の当日のアリバイが書かれたメモを検察側が押収、秘匿していたことが発覚。1959年8月10日、最高裁は原判決を破棄、差し戻した。1961年8月8日、仙台高裁は17人全員に無罪を言い渡した。検察側は上告したが、1963年9月12日、最高裁は上告を棄却し全員の無罪が確定した。
 その後、元被告たちは国家に対し賠償を請求、1970年8月1日、わずか合計7,625万円が支払われた。
 2022年10月10日、20人の元被告の最後の一人であるAさんが老衰で亡くなった。99歳没。
文 献 伊藤昭一『写真松川事件』(東京中日新聞社,1961)

稲沢潤子『東京起点261キロ』(恒和出版,1979)

伊部正之『松川裁判から、いま何を学ぶか』(岩波書店,2009)

今井敬弥『私の松川事件』(日本評論社,1999)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤った裁判』(岩波書店,1960)

宇野浩二『世にも不思議な物語』(大日本雄弁会講談社,1953)

大塚一男編著、本田昇編著『松川事件調査官報告書』(日本評論社,1988)

大野達三『松川事件の犯人を追って』(新日本出版社,1991)

門田実『松川裁判の思い出』(朝日新聞社,1972)

佐藤一『被告』(平凡社,1958)

佐藤一『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』(三一新書,1981)

高田光子『松川事件・真実の証明』(八朔社,1997)

呑川泰司『松川事件と人間』(あゆみ出版,1999)

広津和郎『松川事件のうちそと』(光書房,1959)

広津和郎『松川裁判の問題点』(中央公論社,1959)

広津和郎『松川事件と裁判』(岩波書店,1964)

広津和郎『裁判と国民』上下(広松書店,1981)

日向康『松川事件 謎の累積』(毎日新聞社,1982/現代教養文庫,1992/新風舎文庫,2005)

福島県松川運動記念会編『松川事件五〇年』(あゆみ書房,1999)

福島県松川運動記念会編『福島県松川運動記念会』(八朔社,2019)

松川運動史編纂委員会編『松川運動全史 大衆的裁判闘争の十五年』(労働旬報社,1965)

松川事件資料刊行会編『松川事件資料集』1~6(勁草書房,1954~1955)

松川事件対策委員会編『真実の勝利のために  第1集』(松川事件対策委員会,1954)

松川事件弁護団常任世話人会編『松川事件上告審弁論』(労働法律旬報社,1959)

松川文集編纂委員会編『真実は壁を透して 松川事件文集』(月曜書房,1951/青木文庫,1953)

松川文集編纂委員会編『愛情は壁を透して 松川事件の被告と家族の手紙』(青木書房,1954)

松川事件無罪確定25周年記念出版委員会編『私たちの松川事件 無罪確定から二十五年松川事件が現代に訴えるもの』(昭和出版,1989/現代人文社,1999)

松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)

松本善明『虚構の壁 自由と民主主義のために 松川事件、メーデー事件の弁論と労働争議の弁護の記録』(光風出版社,1990)

松本善明『謀略 再び歴史の舞台に登場する松川事件』(新日本出版社,2012)

山田清三郎『松川事件』(三一書房,1956)

山田清三郎『現場を見た人』(新読書社,1959/春秋社,1962/東方出版社,1974)

山田清三郎『二十人の被告たち 松川事件・真実の証言』(新読書社出版部,1958)

吉原公一郎『追跡列車妨害事件 松川事件から新幹線列車妨害事件を考える』(梁山房,1994)

吉原公一郎『松川事件の真犯人』(三一新書,1962)

「松川事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「推理・松川事件」(松本清張『日本の黒い霧』(文藝春秋,1960/文春文庫,1974)所収)

「松川事件――戦後最大のフレームアップ」「松川事件大法廷判決――暗黒裁判の事実認定論」「松川事件に見る暗黒裁判の核心――真を偽とし、偽を真とする呪術」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」は三大謀略事件と呼ばれている。特にこの「松川事件」は、GHQの関連が強く指摘されている。
 また、国鉄を舞台にしたこの3事件により、吉田茂内閣は数十万におよぶ人員整理を難なく実行し得たといわれている。
9/14 概 要 〈小田原一家5人殺害事件〉
 小田原市の元工員SMは地元企業で旋盤工として働いていたが、1945年2月に解雇されて失業状態だった。SMは叔父の家の2階に弟と住んでいた。6月ごろ、SMが部屋の窓から隣にある銭湯の女湯を覗いているところを、銭湯の主人が発見し、注意。銭湯の主人は女湯を覗かれないようにと、叔父の家との境にある薪置き場の屋根を高くした。SMはそのことを逆恨みした。
 1949年9月14日午前1時40分ごろ、SM(19)は隣家に侵入。銭湯経営の主人(45)、妻(43)、長女(19)、次女(7)、長男(4)、妻の母(81)を薪置き場にあった鉈と持参した肉包丁でめった切りにした。5人が即死、長女のみ重傷を負ったが命を取り留めた。SMは犯行後、同居する叔父に犯行を語り、叔父とともに警察署に自首した。
 SMは殺人罪で起訴され、1950年1月12日、横浜地裁小田原支部で求刑通り死刑判決。SMは控訴したものの取り下げる手続き進めようとしたが、それを聞いた死刑反対派の一審担当判事が2月6日、SMに控訴するよう説得し、SMは取り下げを止めた。1951年3月20日、東京高裁で被告側控訴棄却。1951年9月6日、被告側上告棄却、確定。
 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効記念による政令恩赦により、無期懲役に減刑された。
 1970年3月、仮釈放され、宮城刑務所を出所。刑務所で覚えた技術を生かし、都内の印刷会社に勤めた。
 SMはその後、横浜市のアパートに住み、部屋は家出少女や不良少女のたまり場となった。1982年ごろ、近所に住む父子家庭の小学六年生の女児がSM宅に入り浸るようになり、その後女児は家出して同居を始める。しかし1984年7月8日、中学二年生になっていた女児(13)はSM宅を飛び出し、東京都杉並区にある中学三年生の女児の先輩(14)宅へ逃げ出した。この先輩の少女も、SM宅に入り浸る常連だった。SMは先輩が二人の仲を引き裂こうとしていると思い込み、午前10時ごろ、先輩方を訪れて女児に復縁を迫るも拒まれた。さらに二人の友人の中学生五人から「おじさん帰りなよ」と言われたため、SMは近くの商店で登山ナイフを購入。午後6時ごろ、二人を駅前に呼び出して再度復縁を迫るも断られた。少女二人は帰ろうと歩道橋まで進んだが、後ろを付けていたSMは登山ナイフで二人を刺した。女児は7か所、先輩は3か所刺されたが、家まで逃げ込んだ。しかしSMはさらに追いかけてきたため、二人は逃走。近くの公園で倒れたが、付近の住民が110番通報し、二人は助かった。SMは事件後、逃走。翌日午前2時40分ごろ、自宅に戻ろうとしたところを張り込んでいた警察官に捕まった。SMは仮出所を取り消された。
 殺人未遂他で起訴されたSMは1985年10月、東京地裁で懲役8年(求刑懲役12年)判決を受け、控訴せずそのまま確定した。
 斎藤充功は、宮城刑務所で2009年2月15日に首吊り自殺した70代の男性受刑者がSMではないかと推測している。
文 献 「「小田原銭湯殺人事件」犯人の少年Aは再犯後獄中自殺していた?」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)

斎藤充功『恩赦と死刑囚』(洋泉社 新書y,2018)
備 考  
11/24 概 要 〈光クラブ事件〉
 東大法学部3年生の現役学生Yは1948年秋から学生仲間と貸金業を始め、銀座へ進出、ヤミ金融「光クラブ」の経営を始めた。投資家から多額の金を集め、月2割-3割の前払い高利で貸付を行った。しかし、ヤミ金融の疑いで警察の取り調べを受け、信用を失墜。400人近い債権者から取り立てをうけ、金策に苦しんでいた。1949年11月24日、会社社長室でYは青酸カリを飲み自殺した。
文 献 高木彬光『白昼の死角』(光文社カッパノベルス,1960/角川文庫、光文社文庫他)

保阪正康『真説 光クラブ事件 ―東大生はなぜヤミ金融屋になったのか―』(角川書店,2004/角川文庫,2009)

山崎晃嗣・岡山泰『私は天才であり超人である―光クラブ社長山崎晃嗣の手記』(文化社,1949)
備 考  



【1950年】(昭和25年)

日 付事 件
1/6 概 要 〈二俣事件〉
 1950年1月7日朝、静岡県磐田郡二俣町のOさん宅で、一家4人(父(46)、母(33)、長女(2)、次女(0))が血まみれとなって死んでいるのを長男(10)が発見し二俣署に届けた。同じ部屋にいた長男、次男(8)、三男(5)と、隣の部屋にいた祖母(87)は無事だった。別件でSさん(18)が逮捕され、拷問の結果犯行を自白した。犯行時刻が6日午後11時過ぎであることは明らかで、Sさんにはアリバイがあったのだが、警察は苦し紛れの自白をでっち上げ、犯行時刻が午後8時半から9時であるとした。
 Sさんは強盗殺人他の罪で起訴された。1950年12月27日静岡地裁浜松支部、1951年9月29日、東京高裁でいずれも死刑判決。控訴審後、清瀬一郎が弁護士に就いた。最高裁は自白の真実性に疑問を呈し、物的証拠の矛盾などもあったことから、1953年11月27日に原審破棄、差し戻し。1956年9月20日、静岡地裁浜松支部の差し戻し審で無罪判決。1957年10月26日、東京高裁は検察側の控訴を棄却し、無罪が確定した。
 静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。また拷問を1950年12月25日に法廷で内部告発した刑事は偽証罪で逮捕され、不起訴となったが精神疾患の名目で免職させられている。さらに自宅は不審火で焼失したが、警察は一切の捜査を行わなかった。
文 献 安東能明『蚕の王』(中央公論新社,2021)

上田誠吉・後藤昌次郎『誤った裁判』(岩波書店,1960)

清瀬一郎『拷問捜査―幸浦・二俣の怪事件』(日本評論新社,1959)

佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)

山崎兵八『現場刑事の告発-二俣事件の真相』(ふくろう書房,1997)
備 考  静岡3大無罪事件の1つ。残り二つは小島事件と幸浦事件。
1/8 概 要 〈東大医学部助教授毒殺事件〉
 1950年1月8日、北陸線上り列車の車中で、帰省先から上京途中の東大附属病院小石川分院口腔外科医長のW助教授(39)が、青酸ソーダ中毒により死亡した。前年暮れにお歳暮でもらったウィスキーに毒が入っていた。捜査の結果、小石川分院歯科医院H(25)が15日に犯行を自供。Hは複数の看護婦とトラブルを起こしており、そのことを注意されたのが動機だが、実際はもう少し複雑なものがあったらしい。
 Hは一審無期懲役判決だったが、二審で懲役15年判決に減軽され、そのまま確定。服役後に名前を変え、出所後は開業医になった。
文 献 「東大医学部助教授毒殺事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「東大助教授への野心」(岩川隆『殺人全書』(光文社,1985/光文社文庫,1988)所収)
備 考  
2/28 概 要 〈財田川事件〉
 1950年2月28日、香川県三豊群財田村で闇米ブローカー(61)が刺殺され、現金13,000円が奪われた。4月3日、警察は別の強盗事件で逮捕されていた谷口繁義さん(19)を拘留し、60日以上に渡って尋問。谷口さんは自白させられ、8月1日に逮捕された。
 谷口さんは無罪を訴えるが、古畑種基による血痕鑑定を唯一の物的証拠として1952年1月25日、高松地裁丸亀支部で死刑判決。1956年6月8日、高松高裁で被告側控訴棄却。1957年1月22日、最高裁で上告が棄却され、死刑確定。
 1957年3月26日、第一次再審請求。1958年3月20日、高松地裁丸亀支部は請求を棄却。法務省は死刑執行準備のため、「公判不提出書類」を送るよう高松高検に命じた。高検から地検丸亀支部に提出が要求されたものの、1959年6月2日、丸亀支部より公判不提出記録が紛失した旨が地検に報告された。法務省は死刑執行の起案書を書くことができず、処刑手続きを中断した。
 1969年3月、高松地裁丸亀支部に赴任したばかりの矢野伊吉裁判長が、1964年3月27日付で再審請求を請求する意思の元、再鑑定を訴えた谷口さんからの手紙を発見。谷口さんとのやり取りの結果、4月3日付で第二次再審請求を受け取ることとなった。矢野裁判長は再審開始決定の草案を作成し、決定の後退官することを発表した。しかし二人の陪席裁判官は手記の偽造を確認するため筆席鑑定に回すべきだと訴え、合議は破綻し、「決定」は延期のまま、1970年8月、定年まで5年を残し、矢野裁判長は退官した。
 矢野さんは退官後、谷口さんの弁護人を務める。1972年9月30日、高松高裁丸亀支部は請求を棄却。1976年10月、日弁連は支援を決定。10月12日、最高裁第一小法廷は弁護側の特別抗告を認めて判決を取り消し、高松地裁に差し戻した。1979年6月7日、高松地裁が再審開始を決定。検察側は即時抗告するも、1981年3月14日、高松高裁は即時抗告を棄却。再審開始が決定し、9月8日、谷口さんは大阪拘置所から高松拘置所へ移監された。
 1981年9月30日、高松地裁で再審が開始。1984年3月12日、無罪判決が下され、確定。谷口さんは34年ぶりに解放された。しかし矢野氏は無罪判決を見ることなく、1983年3月18日に亡くなっていた。71歳没。ここでも、古畑鑑定への疑問が投げかけられた。
 谷口繁義さんは2005年7月26日、脳梗塞で亡くなった。74歳没。
文 献 鎌田慧『死刑台からの生還 無実!財田川事件の三十三年』(立風書房,1983/岩波書店,1990)

矢野伊吉『財田川暗黒裁判』(立風書房,1975)

「財田川事件」(佐久間哲夫『恐るべき証人-東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)

「すべて輝いて見える―再審で無罪―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)

「第二章 真犯人は誰か―財田川事件」(前坂俊之『誤った死刑』(三一書房,1984)所収)

「財田川事件――冤罪を作る検察官、それを隠す裁判官」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。
4/13 概 要 〈牟礼事件〉
 1950年4月13日、渋谷に住む女性(21)が失踪。土地家屋・家財道具など全てが売り払われていた。警察は12月20日、土地などの売買に関わった商事会社経営佐藤誠(42)を、家財道具などを窃取した疑いで逮捕。取り調べに対し、佐藤は「商事会社社長高橋と名乗る男と、その秘書の原という男に頼まれた」と供述。佐藤は釈放された。
 1952年9月25日、佐藤宅へ時々出入りし、家具売買でも手伝っていたM(22)を家財道具などを窃取した疑いで逮捕。Mは「佐藤と台湾人(1952年6月に病死)、自分で殺害し、死体を三鷹市牟礼に埋めた、主犯は佐藤」と供述した。10月3日、警察は佐藤を別件の自動車窃盗の罪で逮捕。佐藤は取り調べに対し、別件はもちろん殺人についても無罪を主張した。しかし警察はMの供述に基づき、三鷹市牟礼で被害者らしき白骨遺体を発見した。10月23日、警察は佐藤とMを強盗殺人容疑で再逮捕。
 佐藤は逮捕後、裁判中と一貫して無罪を主張した。物的証拠は一切なく、Mの供述のみが証拠となっている。しかし、Mの供述は何度も変わっている上、他の物的証拠と一致しないところが多い。また発見された白骨死体の頭蓋骨は、鑑定途中で紛失しており、本当に被害者の死体であったかどうか確認されていない。
 1954年10月25日、東京地裁で佐藤に死刑、Mに懲役10年の判決。Mは控訴せず確定。1957年6月20日、東京高裁で被告側控訴棄却。1958年8月5日に最高裁で死刑が確定。
 再審請求8回はすべて却下。自分は無罪であると恩赦願は一度も提出しなかった。1989年10月27日、くも膜下出血で死亡。81歳没。
文 献 「牟礼事件」(無実の「死刑囚」連絡会議編『無実を叫ぶ死刑囚たち』(三一書房,1978)所収)

佐藤誠『幻の死囚』(山光書房,1964)

佐藤誠『神の沈黙』(クリエイトプラン社)

佐藤誠『真昼の悪夢』(同書刊行会,1979)

佐藤誠『処刑地』(東邦出版社,1974)

佐藤誠『白きいのち』(合同出版パピルス双書,1967)

木村修康『慟哭の死刑囚歌人』(暁印書館,1985)
備 考  
5/10 概 要 〈小島事件〉
 1950年5月10日午後11時ごろ、静岡県庵原郡小島(おじま)村にある製茶工場で、二階に住んでいた工場主の弟の妻が薪割り斧で殺害され、現金2,500円が盗まれた。痴情や怨恨の線はなく、捜査は難航。村民の密告により6月19日、被害者宅から200mほど離れたところに住む男性(27)が逮捕された。物証が見あたらず、供述調書が二転三転するという状況下で、古畑種基博士による再鑑定の結果と“自白”の内容が一致したため、男性は起訴された。
 1952年2月18日の静岡地裁、1956年9月13日の東京高裁でともに無期懲役判決(求刑死刑)。しかし1958年6月13日、最高裁は自白の任意性を否定して、高裁へ差し戻した。1959年12月2日、東京高裁で無罪判決が出され、確定した。
 静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補主導による拷問・誘導尋問などが指摘されている。
文 献 佐藤友之・真壁昊『冤罪の戦後史』(図書出版社,1981)
備 考  静岡3大無罪事件の1つ。
7/2 概 要 〈金閣寺放火事件〉
 1950年7月2日午前2時50分ごろ、京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)から出火。消防車10台が出動し消火にあたったが、室町時代初期の代表的建築として知られる三層楼や多くの重要美術品が1時間後に全焼した。火災報知器が備えられていたものの作動しなかった。出火後に行方をくらました同寺徒弟の大学生A(21)は、2日夕方、同寺裏山でカルチモンを服用、苦しんでいるところを逮捕され、放火を自供した。
 Aは精神鑑定を受け、軽度の分裂病質と診断される。この時、師への反感、師の言葉から影響を受けた自殺願望を語るとともに、動機について死に場所として金閣を選び、建物とともにこの世から消えようとした、と語っている。1950年12月28日、京都地裁は心神耗弱と認めず、Aに懲役7年を言い渡した。控訴せず、確定。服役中に結核と統合失調症が進行し、1953年3月12日、加古川刑務所から八王子医療刑務所へ移送された。恩赦減刑となり、1955年10月初め、京都刑務所へ移送される。10月30日に釈放されたが、重態であったため、府立洛南病院に入院した。1956年3月7日に死亡、26歳没。
 金閣寺は国や京都府からの支援、地元経済界等からの浄財によって、1955年に再建された。
文 献 内海健『金閣を焼かなければならぬ』(河出書房新社,2020)

水上勉『金閣炎上』(新潮社,1980)
備 考  三島由紀夫の代表作『金閣寺』のモデル。
9/22 概 要 〈オー・ミステーク事件〉
 1950年9月22日午後2時ごろ、日本大学会計課員の男性(20)と用務員の男性(63)が、職員百余名の給料190万円分の現金を千代田区の銀行から受け取って車で帰る途中、運転手(41)の同僚で、具合が悪いと途中から同乗した同大学運転手男性Y(19)が運転手にジャックナイフを突きつけ、千代田区の労働省前まで運転させて停車を命じた。そして課員の右首筋をナイフで切り付けて軽傷を負わせ、給料入りのバッグを強奪。三名を社外に突き出して、車で逃走した。
 Yは大手町の銀行に車を乗り捨て、愛人で日大文学部教授の娘である化粧店マネキンガールの女性F(18)と逃走。丸の内署は高飛びするものとみて全国に指名手配をしたが、24日午後4時、品川区の夫婦宅にいるところを逮捕した。二人は7月ごろから交際していた。夫婦宅はFが23日に偽名で間借りしたもので、YとFの金遣いが荒くて24日は朝からビールなどを飲んでいたことから態度がおかしいと思った妻は、新聞を見たら手配写真とそっくりだったので通報したものだった。YとFは捕まるまでに衣類など約13万円を使っていた。
 Yは間借り先の男性に二世と偽り、逮捕された時にはFに向かって「オー・ミステーク、ミステーク」と叫ぶなど、あくまで二世を装っていた(なお、この発言は連行時の自動車の中で会話したという報道もあり、取り調べ中の発言という資料もあって詳しい点ははっきりしない)。この時発した「オー・ミステイク」は流行語となった。事件後、Fの父は大学を辞職した。
 1986年2月23日、東京地裁は少年法を適用し、強盗傷害罪でYに懲役4~7年の不定期刑、同ほう助罪でFに懲役2年執行猶予3年の判決を言い渡した。判決はそのまま確定した。Yはサンフランシスコ講和条約による恩赦で減刑され、水戸少年刑務所で模範囚として通したことから、3年3か月の服役で1954年6月7日に仮出所した。YとFの関係は自然消滅していた。
 Yは後の週刊誌のインタビューで、「オー・ミステーク」はマスコミのでっち上げと反論している。
文 献 「「困窮型犯罪」から「遊び型犯罪」へ オー・ミステイク事件」(玉川しんめい『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版,1985)所収)
備 考  
10/10 概 要 〈梅田事件〉
 1950年10月10日、北海道北見市の営林局会計課員Oさん(20)が、公金19万円を持ったまま行方不明になった。警察は公金拐帯事件として捜査を始める。
 1951年6月11日、公金472万円を持った留辺蘂営林局会計係員(28)が失踪、1952年9月に遺体が発見され、9月3日にS(53)が逮捕された。Sの自供から、主犯であるH(28)が17日に逮捕された。
 Hは取調中、Oさん殺害も自供。10月1日、Oさんの遺体が発見された。Hはさらに、Oさん殺しの実行犯として、軍隊時代の顔見知りだった梅田義光さん(28)の名を口にした為、10月2日、北見市警は逮捕令状も用意せずに梅田さんを逮捕した。ほとんど拷問に等しい取り調べにより、梅田さんは犯行を自白した。  Hは1954年7月7日、釧路地裁網走支部で求刑通り死刑判決。1956年12月15日、札幌高裁で被告側控訴棄却。1957年11月14日、被告側上告棄却で死刑が確定。1960年6月20日に執行、35歳没。Sは無期懲役が確定している。
 梅田さんは1954年7月7日、釧路地裁で無期懲役判決(求刑死刑)。1956年12月15日、札幌高裁で控訴棄却。1958年11月14日、最高裁で被告側上告が棄却され、刑が確定した。
 1962年10月31日、獄中から釧路地裁へ第一次再審請求を出したが棄却。1971年5月1日、仮出所。1979年12月17日、第二次再審請求。1982年12月10日、釧路地裁で再審開始決定。1985年2月4日、札幌高裁が即時抗告を棄却し、再審開始が確定。そして1986年8月27日、釧路地裁で無罪判決が言い渡され、そのまま確定。ようやく冤罪をはらすことが出来た。
 梅田義光さんは2007年6月20日、前立腺がんのため北見市内の病院で死去した。82歳没。
文 献 「梅田事件」(青地晨『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)

「自白」(村野薫『戦後死刑囚列伝』(洋泉社,1995)所収)

梅田義光『真犯人よ聞いてくれ』(朝日新聞社,1981)

林晴生『いけにえ』(ペップ出版,1983)(後に『梅田事件』(旺文社,1987)と改題)
備 考  Hは留辺蘂営林局会計係員殺害事件でも、Hの元上司が「主犯」と供述。元上司は逮捕されて北見市警による拷問で「自白」したものの、検事取り調べで自白を撤回し、検事が無実の訴えを認めたため、起訴されなかった。
 いさぎよく犯人が「自白」したため、“共犯者”が逮捕されるというケースは結構多い。牟礼事件、八海事件がそうである。警察の見込み捜査が原因の一つであるが、もう一つは「どうせ罪に問われるのなら道連れを作ってやれ」という心理だろう。「自白」したからと言って必ずしも「真実」ではない。
 なお、検察庁による無罪の証拠隠しが後に指摘されている。
 Hは再審請求を検討していた梅田さんの弁護士に対し、「50万円支払えば、「真実」を述べる」と要求する手紙を出していた。弁護士は最高検察庁に打診したものの、当然拒否された。Hの執行はその直後だった。


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