ノンフィクションで見る戦後犯罪史
【1976~1980年】(昭和51~55年)



【1976年】(昭和51年)

日 付事 件
3/1 概 要 <夫の不倫相手バラバラ殺人事件>
 1975年9月下旬、岡山市で美容院を経営するT子(42)は夫であるタクシー会社事務員K(43)が出勤支度中、見慣れぬネクタイをするのを見て胸騒ぎを覚えた。夫はごまかしたが、浮気相手からもらったものではないか。その夜、T子から問いつめられたKは、同僚のS子(35)からもらったことを告白。S子も家庭があるし、浮気はしていないと言ったが、T子は信じようとしなかった。実際、KとS子は不倫関係にあったのである。証拠こそ見つけられなかったが、疑心暗鬼で嫉妬心は膨れあがるばかり。
 1976年3月1日、T子は出勤途中のS子をつかまえて自宅に連れて行き、別れてほしいと直談判したがS子はそれを拒否。カッとなったT子はS子を押し倒し、そばにあったガーゼのハンカチで首を絞めて殺してしまった。茶箱に死体を隠すと、夕方S子の夫に電話を入れてS子を預かると騙した。さらに兄に頼み、死体であることを隠したまま茶箱を実家近くの山林まで運んでもらい、ガソリンで燃やそうとしたがうまくいかず、実家から鋸を持ち出して七つに分断。袋に詰め込んで池に捨てた。夜中に帰ってきたT子を待っていたのは、S子の捜査願いが出されたことを知っていたKであった。T子はKの顔を見て、S子を殺したことを告白。一家心中をしようというKを説得し、翌日自首した。
文 献 「哀れ! 疑心暗鬼の女心」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
3/2 概 要 <北海道庁爆破事件>
 1976年3月2日午前9時頃、北海道札幌市にある北海道庁のロビーで強力な消火器時限爆弾が爆発。道庁職員の男女2名が死亡、95人が負傷。同日に地下鉄のコインロッカーから「犯行声明」が発見されたことから、「反日闘争」関連のグループ、もしくは個人と警察は推測。当時活動家であった大森勝久(26)が8月10日に逮捕された。大森は一貫して犯行を否認し続けた。物的証拠もほとんどなく、部品や除草剤を所持していたという鑑定結果と、唯一、事件前に現場近くの路上で2人連れの男を見たという「目撃証言」から犯行を認定。
 1983年3月29日、札幌地裁で死刑判決。1988年1月21日、札幌高裁で被告側控訴棄却。1994年7月15日、最高裁で死刑が確定した。
 大森死刑囚は現在も犯行を否認。数少ない証拠物件も警察による捏造であると訴え、2002年7月30日、札幌地裁へ再審請求。再審請求書では、爆発物製造に不可欠とされる塩素酸塩系除草剤を大森死刑囚が所持していたとされる証拠の鑑定について、「虚偽」と批判。弁護団は鑑定作業を再現したうえで、「道警側の鑑定は約6時間で終わるなど、時間的に不可能な作業だった」と指摘した。地裁、地検、弁護団との三者協議で、弁護側が鑑定を行った当時の道警科捜研職員ら十二人の証人尋問を請求したうちの職員一人(退職)について証人尋問が、2004年9月29日に実施された。元職員は一、二審で自ら語った証言内容を次々に否定した。元職員はこの日の尋問で「今言ったことが真実だ。それでも鑑定は可能」と主張したが、その根拠は示さなかった。2007年3月19日、札幌地裁は請求を棄却。2008年5月28日、札幌高裁は即時抗告を棄却。2011年12月19日付で最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は、大森死刑囚側の特別抗告を棄却する決定を出した。再審開始を認めない判断が確定した。
 大森死刑囚は2013年1月23日、第二次再審請求を札幌地裁に提出した。2016年3月28日、札幌地裁は請求を棄却。2017年1月11日、即時抗告棄却。7月18日、特別抗告棄却。
 2019年2月8日、札幌地裁へ第三次再審請求。2021年12月17日、札幌地裁は請求を棄却。2023年3月30日、札幌高裁は即時抗告を棄却。特別抗告中。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「北海道庁爆破事件 大森勝久」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社)所収)

やっていない俺を目撃できるか!編集委員会編『やっていない俺を目撃できるか!』(三一書房,1981)
備 考  本来なら、冤罪の可能性がある事件としてもっと騒がれるべきかと思うが、事件の性格上、そういう声がほとんどあがらないのが、不思議と言えば不思議だし、当然といえば当然なのかも知れない。
3/12 概 要 <徳島上那賀母子強盗殺人事件>
 1975年末に姫路少年刑務所を出たM(23)は徳島県上那賀町の実家に帰って道路工事人夫となったが、仕事のきつさと比較して給料の安さに辟易していた。1976年3月9日、給料をもらって徳島に行って女に使い、仕事をさぼって2日で給料が無くなった。11日、家に帰ってくると誰も居らず、食事も何も残っていなかったことに腹を立て、タンスから妹の就職支度金を含む7万2千円を奪って再び徳島に戻り東京へ行くつもりだったが、すぐ女に使って金が無くなった。そこでMは人を殺してでも金を奪おうと決意。夫が亡くなって簡易保険が下りた女性の事を思い出し、町に戻った。雑貨店で出刃包丁を購入後、金のありそうな三軒に忍び込もうとしたが、一軒目は客が来ていて断念し、もう一軒は犬が鳴き出したので逃げた。結局当初目的の家に行き、農業の女性(当時46)宅に侵入。女性と、女性の夫の法事後体調がすぐれずに家に残っていた次女(当時19)を包丁で続けて殺害。二人を屍姦後、保険金30万円を含む32万7千円を盗んで逃走した。別室にいた80歳過ぎの女性の夫の父は寝ていたため、手をかけなかった。翌日起きた父が二人の遺体を見つけ、隣家に駆け込んだ。
 Mは徳島に行き、友人を誘って酒と女に散財し、金が無くなった。15日深夜、盗み損ねた家から今度こそ金を奪おうとタクシーで町に戻ってきたが、山の中でMは金を払わず正体を現したため、タクシー運転手(当時44)は車を電柱にぶつけ、その隙に逃げ出して1時間後に駐在所へ駈け込んだ。16日午前2時半ごろ、Mは郵便局に押し入って制服を盗んだ。そして隣家に住む女性に近くにあった車の持ち主を尋ね、その家に行き、主人を脅して奪った。主人は隙を見て逃げ出したが、Mは主人の家にいた男の子(当時6)を人質に奪って逃走したが通報で駆け付けた警察に囲まれ、車の中に立てこもった。午前9時、交渉中の所轄署長が隙を見てMに飛びかかり、さらに別の刑事たちもMを押さえて逮捕、男の子を救い出した。
 1978年6月29日、徳島地裁で求刑死刑に対し無期懲役判決。事件当時若かったことを理由に罪一等減じられた。しかし1980年7月22日、高松高裁で一審破棄、死刑判決。8月11日、Mは上告を取り下げ、死刑が確定した。1988年6月16日、執行。35歳没。
文 献 西村望『水の縄』(立風書房,1978/徳間文庫,1982)
備 考  
3/23 概 要 <児玉宅「特攻機」突入事件>
 1976年3月23日、政界の黒幕と呼ばれ、ロッキード事件疑惑の中心人物でもあった児玉誉士夫氏(65)宅に小型飛行機が突入。操縦していた映画俳優M(29)が死亡、児玉氏宅のお手伝いが一人けがをした。児玉氏は別棟にいて無事だった。Mは日の丸のはちまきを締め、左腕に日の丸のマークをつけた特攻隊スタイルだった。しかも突入前、「天皇陛下万歳」と叫んでいた。背後関係も注目されたが、単独犯行と警視庁は断定。三島由紀夫に心酔していたMが、ロッキード事件に刺激され自殺したものと思われている。
文 献 「児玉誉士夫宅「特攻機」突入事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  
5/8 概 要 <歌手K愛人殺害事件>
 1976年5月8日、羽田空港駐車場の係員が、車のトランクから血のようなものが滴り落ちているのを発見した。駆けつけた空港警察署の署員がトランクを開けると、30歳前後になる下着姿の女性の死体が出てきた。車の所有者に確認すると、その車は歌手K(38)に貸しているとのことだった。Kは新曲『思いやり』のキャンペーンのため、北海道に出かけていた。そこで到着予定の旭川駅で任意同行を求めたところ、犯行を自供、緊急逮捕された。女性は、元ソープランド嬢で、Kの愛人だったO(35)であった。
 Kはロカビリー歌手としてデビュー、スターダムにのし上がり、紅白歌合戦にも連続して出場した。ところがロカビリーブームが去るとともに仕事が激減。交通事故の治療費などによる借金も重なった。そんなときにクラブで出会ったのがOであった。以後、二人は急接近。KはOのマンションに入り浸るようになった。Oは、指名客のツケやKの借金を支払うためにソープランドで働くようになった。Oは店でナンバーワンになったが、稼いだ金はKのギャンブルで消えていった。とうとうOはしびれを切らし、結婚を迫る。Kと既に同棲状態に入っていたOはソープランドを辞め、家事に専念。KはOに嘘を付いて借金を重ねながら、Oに生活費を渡していた。この頃、Oの親にも会って、「妻と離婚する」と嘘を付いていた。
 1976年に入り、離婚するという嘘はばれた。KはOの両親に会い、「もうちょっと待って下さい」と嘘を重ねた。Kは73年から改名し、演歌歌手に転向。再デビュー曲、二枚目は小ヒットとなり、復活のチャンスだった。Kと事務所は、新曲『思いやり』に力を入れていた。OはKの北海道キャンペーンに“妻”として着いていこうとした。最初は連れて行こうとしたが、結局断ったため喧嘩となり、とうとうKはOを絞め殺してしまったのである。
 1976年8月23日、東京地裁は求刑懲役15年に対し、懲役10年の判決を下した。Kは控訴せず、刑は確定した。
 Oの両親は、Kに3,500万円を搾り取られたと、民事で告訴した。法廷は、500万円の支払いをKに命じた。
 Kは2013年2月27日、脳出血のため死亡。75歳没。
文 献 「堕ちた星-愛人殺人事件」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ4 情痴殺人事件』(同朋社出版,1996)所収)

「K愛人殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  Kは出所後も覚せい剤使用などで二度逮捕されている。
6/14 概 要 <秋好事件>
 1976年6月14日、秋好英明は(34)当時内妻だった女性の姉(44)方に侵入。1階に寝ていた姉と夫(46)、2階に寝ていた長女(20)と母親(73)の4人の首を次々と包丁で刺し、殺した。姉の家に同居していた内妻も2階で寝ていたが、近所の派出所に逃げ込んだ。秋好は1973年夏ごろ、内妻と知り合い、一時は姉たちから内妻との結婚について承諾を得た。だが経歴を偽ったり、賭事で借金を重ねていたことなどが発覚。内妻と別れるよう迫られ、引き離されたことを恨んでいた。
 秋好は当初、単独犯行を認めたが、一審の途中から「自分が殺したのは母親だけで、他の3人は内妻の犯行」と主張。1985年5月31日、福岡地裁飯塚支部で求刑通り一審死刑判決。控訴審では、犯行直前に内妻がを姉の家に呼び寄せる目的で書いたとする「アシタヨルイエニキンサイ」とのメモを、共謀を裏付ける新たな証拠として提出した。1991年12月9日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1997年9月11日、被告側上告棄却、確定。2016年現在、再審請求中。
文 献 島田荘司『秋好事件』(講談社,1994/徳間文庫,1999)

島田荘司『死刑囚・秋好英明との書簡集』(南雲堂,1996)
備 考  
8/2 概 要 <元首相付運転手自殺事件>
 1976年8月2日、田中角栄元首相の運転手県施設秘書だった笠原運転手(42)が、埼玉県比企郡内の林道で、車内に排気ガスを引き込み死んでいるのが発見された。田中元首相がロッキード事件で逮捕された6日後だった。
 笠原運転手は、7月31日、8月1日と東京地検においてロッキード事件で現金の一部を運んだ疑いで事情を聴取されていた。
 検察側は解剖を望んだが、笠原運転手の妻の反対などもあって断念。埼玉県警は、ロッキード事件を苦にしての自殺だと発表した。
文 献 吉原公一郎『抹殺 笠原運転手怪死事件』(現代書林,1983)
備 考  

【1977年】(昭和52年)

日 付事 件
1/4 概 要 <青酸コーラ無差別殺人事件>
 1977年1月4日、東京・品川区で、電話ボックスの中に置いてあったコーラを拾い、持ち帰って飲んだアルバイト帰りの高校1年生(16)が死亡。同じく4日、電話ボックスから600m離れた地点で、無職男性(47)が死亡。そばにはコーラ瓶があった。コーラには青酸ナトリウムが混入されていた。捜査の結果、北品川の赤電話の前にもコーラ瓶が置かれており、拾った中学生は警察の知らせで命拾いをした。物的証拠に乏しく、1992年に時効成立。
文 献 「青酸コーラ無差別殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「殺人実験を試みた"愉快犯"『青酸コーラ殺人事件』」(斎藤充功、土井洗介『TRUE CRIME JAPANシリーズ5 迷宮入り事件』(同朋社出版,1996)所収)

「逃げ去った毒入り事件犯」(鎌田忠良『迷宮入り事件と戦後犯罪』(王国社,1989)収録)
備 考  この後、類似犯罪が続出した。
1/6 概 要 <水本事件>
 1977年1月6日午後一時過ぎ、千葉県市川市の江戸川で変死体が発見された。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と市川署は判断した。1月17日、市川署は水死体が水本潔さん(26)であると、両親に連絡。しかし遺留品こそ潔さんのものであったが、死体写真は潔さんではないと母親は叫んだ。水本潔さんは日大生で、革マル派系全学連の活動家であった。当時、革マル派と中核派の内ゲバ事件が起きた「上智大事件」の被告人であり、東京地裁で公判中であったが、昨年11月27日から行方不明になっていた。検察側は被告人死亡として「上智大事件」の控訴を棄却しようとしたが、弁護団側は「水死体は水本潔さんではなく、すり替えられたもので、警察側による謀略である」と訴え、裁判は非公開で続行された。1978年3月28日、東京地裁は検察側の主張を認め、被告死亡による控訴棄却の決定を出した。
文 献 青木英五郎、渡辺千古『死体すりかえ=水本事件の真相』(現代思想社,1978)

宇治芳雄『水本事件 現代の謀略を追う』(龍溪書店,1978)
備 考  司法解剖、行政解剖、血液型検査すら行わず、指紋の採取もシリコンラバーという特殊な方法によるもの。しかも指紋を採取した時点で死体を火葬。違法行為の連続である。さらに両親への連絡が死体発見から10日後。写真から歯形が異なることが分かっているのに、警察は逆に歯科医にカルテを焼却するよう圧力をかけ、戸籍も勝手に抹消。「上智大事件」そのものが大学側による謀略の可能性もあった。まさに“現代の謀略”といえるであろう。
1/7 概 要 <日建土木事件>
 名古屋市内にある日建土木株式会社の実質上の経営者であったYは、同社の営業資金等に窮していたため、暴力団幹部であるN(40)と共謀。同社の役員等を被保険者とする経営者大型総合保障を締結した上、これを殺害して多額の保険金を騙取しようと企て、Nの紹介で同社の名目上の代表取締役に就任させていたKさん、同社の従業員であったIさん、Nの紹介で同社の名目上の取締役に就任させたOさん(48)に保険を掛けた。その後、Nは配下の者とも順次共謀して、Kさんを溺死させようと長良川に誘い出し、あるいは恵那峡ダムへの一泊旅行に誘うなどしたが、不審を抱かれるなどして殺人予備の段階にとどまった。その後、暴力団会長やその配下の者ら3名とも順次共謀して、Iさんを交通事故を装って殺害しようと全治約2ヶ月の傷害を追わせたが、死亡までは至らなかった。このときYは単独で、保険会社から傷害保険合計630万円相当を騙し取っている。更に1977年1月7日、N及びその配下の者ら4名と順次共謀して、Oさんを車で浜松市内まで誘い出してロープで絞殺した。しかし保険金の騙取は、保険会社に不審を抱かれて未遂に終わった。
 Nは1980年7月8日、名古屋地裁で求刑通り一審死刑判決。1981年9月10日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。1989年3月28日、被告側上告棄却、死刑確定。「主犯」Yは無実を訴えたものの、一、二審死刑判決。しかし1996年9月20日、最高裁で一・二審判決破棄、無期懲役判決。最高裁で死刑判決が減刑されたのは、戦後2件目。他に7人が起訴され、無期懲役~懲役4年までの判決が確定した。
 Nは1998年11月19日死刑執行、61歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
5/18 概 要 <高輪グリーン・マンション殺人事件>
 1977年5月18日午前3時ごろ、東京都港区にある高輪グリーン・マンションに住む、銀座のクラブ勤めの女性(当時28)が自室で首を手で絞められて殺害された。同日午後9時40分ごろ、クラブに来ないことを不審に思った総支配人の男性(当時49)が訪ね、死体を発見、警察に届けた。
 1975年12月から1976年9月まで女性と同棲していた、大田区内の飲食店員H(当時33)は5月20日、自ら出頭した。Hは女性と別れた後、11月から再び付き合っていたが、女性に別の愛人がいたことを知り、12月31日には別れていた。Hは事件当日のアリバイを主張したが虚偽であったため、捜査本部はHを有力容疑者として挙げ、6月7日早朝、会社寮からHを任意同行。午後10時にHは殺害を自白。この日、Hは寮に帰りたくないので旅館に泊めてもらいたいという答申書を受け、高輪署近くのホテルに捜査官4、5名とともに宿泊させ、隣室には捜査官一人が付いた。翌日以降も取り調べが続き、10日までに自白調書が作られたが、11日には否認。その間、夜は同様にホテルへ宿泊させ、4日目を除いて警察が宿泊代金を支払った。証拠不十分でHは11日に釈放され、高輪署まで来た母と兄に引き渡された。その後、Hをマンションまで連れて行ったタクシーが見つかったことなどから8月23日、捜査本部はHを逮捕した。
 物的証拠はなく、裁判でHは婚約者がおり女性とは別れていたこと、自白調書は取り調べ中に暴行を受けたため無効であることなどと無罪を主張。また、連続5日間の取り調べが任意ではなく、違法であると訴えた。1979年1月31日、東京地裁は「多少行き過ぎはあったが、違法とは言えない」と自白調書の有効性を認め、懲役12年(求刑懲役13年)を言い渡した。
 被告側は控訴するも、東京高裁は棄却。1984年2月29日、最高裁第二小法廷は、捜査方法について妥当とは言い難いと苦言を呈しながらも、任意捜査の限界を超えた違法なものとまでいうことはできないと結論付け、被告側の上告を棄却した。ただし裁判官2名は、有罪を支持するものも、任意捜査としてその手段・方法が著しく不当で、許容範囲を越える違法なものであると意見した。
文 献 伊佐千尋『司法の犯罪』(文藝春秋,1983/文春文庫,1991/新風舎文庫,2006)
備 考  
7/3 概 要 <松川ダムバラバラ殺人事件>
 1977年7月3日午前、長野県飯田市の松川ダムで、ビニール袋に包まれた男性の遺体が水に浮いているのを、地元の釣り人が発見。中にあったのは男性の胴体と、白骨化した頭部であった。その後、木曽郡南木曽町の畑でも手足が発見される。センセーショナルな報道が続いたが、日をおかずに東京・銀座のビル管理人男性が容疑者として浮上し、続いて遺体の身元が東京都の切手商(26)であることも判明。指名手配された容疑者は3か月後、北海道の湖で妻と一緒に入水心中した。金銭トラブルが事件の引鉄と推測されていたが、動機は謎のままで終わった。
文 献 内田康夫『死者の木霊』(栄光出版社,1980/講談社文庫,1983他)
備 考  
7/25 概 要 <群馬銀行行員重油タンク殺人事件>
 1982年12月18日、日本生命前橋支社ビルで1967年に設置した重油タンクの清掃中(通常は5年ごとだが、ここでは今回初めてだったという)、絞殺死体が発見される。1977年7月25日、群馬銀行本店渉外係の男性(45)が集金に出たまま帰ってこなかった。乗っていた車は足取りが掴めた日本生命前橋支社ビルの駐車場にあったが、集めたはずの現金780万8,721円と小切手44通(額面合計1,033万6,735円)が無くなっていた。群馬銀行は会議で持ち逃げの可能性があるとして、届出をしなかった。翌日、男性の妻が前橋署に捜査願を提出。前橋署は持ち逃げによる失踪と判断。新聞もそう報道した。妻は夫が持ち逃げするはずがないと警察に訴えるも聞き入れなかった。妻は1981年8月27日、自宅の寝室で自殺。その1年4か月後の死体発見だった。
 1982年12月22日、群馬県警は滔々と練馬区のパチンコ店に住み込んでいたFを逮捕。F(事件当時43)は当時日本生命前橋支社の社屋ビル管理人として妻子とともに管理人室に住み込み、小使いも兼任していた。Fはすんなりと犯行を自供。Fはギャンブルでサラ金などから500万円ほどの借金があり、返済に追われていた。奪った金は返済に充て、残った150万円はギャンブルで使い果たした。事件から1年7か月後の1979年2月26日、Fは総務課から100万円を使いを請け負ったとき、払戻請求書に700万円と変造してお金をおろし、会社には100万円だけを届けて残りをサラ金事務所に返済していた。その後ボイラー室で自分の体に導線をまきつけて自殺しようとしたが家族に発見され、2か月の怪我で終わった。このとき詐欺事件も発覚。実兄や妻からのとりなしで毎月返済するという約束で示談となり、F本人は解雇されていた。Fは家族と高崎市に移ったが、ギャンブル癖は治らず、妻とは離婚し子供は妻が引き取った。兄姉からも見放され、東京で職を転々としていた。
 Fは1983年9月26日、前橋地裁で無期懲役判決(求刑死刑)。1984年12月19日、東京高裁で検察側控訴棄却。控訴審で裁判長は、「もう少し警察の念の入った捜査が行われれば、事件は早期に解決され、家族の悲劇は避けられたかもしれない」と指摘した。上告せず確定。
文 献 「第一話 サラリーマン金融殺人事件」(佐木隆三『殺人百科(4)』(徳間書店,1986/徳間文庫,1993)所収)
備 考  
9/24 概 要 <長崎雨宿り殺人事件>
 1977年9月24日、長崎県の「海の家」で一人暮らしの女性(68)の家に、O(40)「雨宿りさせてくれ」といって上がり込み、角材で殴り殺して現金二万円を奪った。Oは1965年の殺人罪により懲役13年を服役、刑期を2年残しての仮出所僅か10ヶ月後の犯罪であった。1978年9月18日、長崎地裁で求刑通り一審死刑判決。1979年9月25日、福岡高裁で被告側控訴棄却。一審、二審では殺人を認めていたが、上告審途中から雨宿り中に別の男が殺害した、と無実を訴える。しかし、1981年6月16日、被告側上告棄却、死刑が確定した。
 その後自力で六度再審請求を起こし全て棄却。いずれも「やっていない」と訴えた抽象的なものであったという。1998年9月、七回目の再審請求。審理中、四国在住のベテラン弁護士が代理人となり、1999年12月に八回目の再審請求を申し立てる。ところが、1999年12月17日に死刑執行。62歳没。再審申請中の執行は、当時としては極めて異例であった。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

「再審請求で勇気百倍―衝撃の暗転―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
9/28 概 要 <日本赤軍日航機ハイジャック>
 1977年9月28日、パリ発羽田行きの日航機がボンベイ空港を離陸後、日本赤軍の5人のメンバーによってハイジャックされ、獄中同志の解放と600万ドル(約16億円)を日本政府に要求した。日本政府は超法規的措置として日本赤軍の要求をのみ、バングラディッシュのダッカ空港で16億円を支払うとともに、日本赤軍、東アジア反日武装戦線、赤軍派、一般刑事犯合計6人を釈放した。日航機はこの後、クゥエート、ダマスカスを経由してアルジェリアに到着。ダニエル・ベイダ空港で乗客は全員解放された。
文 献 石井一『ダッカハイジャック事件』(講談社,1978)

佐々淳行『ザ・ハイジャック―日本赤軍とのわが「七年戦争」』(文藝春秋,2010)

松下竜一『怒りていう、逃亡には非ず―日本赤軍コマンド泉水博の流転』(河出書房新社,1993)
備 考  
10/15 概 要 <長崎市特急ワンマンバスジャック>
 1977年10月15日午前、長崎県平戸口発長崎行きのバスが、国道206号の大村市付近で「アソレンゴウセキグン」と名乗る2人組に乗っ取られた。バスは給油のため、昼過ぎ同国道沿いのガソリンスタンドに乗り付けられたが、スタンド従業員から急報を受けた長崎県警は、午後1時半には後部エンジンのコードを切断して完全包囲。犯人も途中、水や食糧と引き替えに5人の乗客を解放したが、あとは銃・爆弾状のものを示し、10数人の人質を確保したままブラインドをおろしての長期戦となった。犯人は「瀬戸山法相、新自由クラブ代表、細川隆元を連れてこなければ交渉には応じない」と要求。警察は同型バスを用意して何度も突入訓練を実施。事件発生から18時間後の16日午前4時25分、一斉射撃とともに突入して主犯の男性(31)を射殺、共犯の男性(39)を血塗れの状態で逮捕した。男性は懲役6年が確定。
文 献 事件・犯罪研究会『明治・大正・昭和 事件・犯罪大辞典』(東京法経学院出版,1986)
備 考  犯人射殺という形で事件が終結したのは戦後2件目。
10/30 概 要 <開成高校生殺人事件>
 1977年10月30日、東京都北区の飲食店主(46)が、開成高校二年生のひとり息子(16)を自宅で絞殺。妻(44)とともに自殺を決意したが果たせず、31日、赤羽署に自首した。息子の凄惨な家庭内暴力に疲労困憊し、将来に絶望しての犯行だった。
 1978年2月16日、東京地裁は懲役3年、執行猶予4年の温情判決を下した。一審判決が出た後、母親は息子の部屋で首吊り自殺した。父親は四国巡礼の旅に出た。翌年、東京高裁は検察側の控訴を棄却、刑が確定した。
文 献 「開成高校生殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)
備 考  

【1978年】(昭和53年)

日 付事 件
1/10 概 要 <経堂警官女子大生殺人事件>
 北沢署経堂駅前派出所に勤務するM巡査(20)は、1977年夏のパトロール中に清泉女子大学4年生の女子大生(22)を見かけ、一方的に好意を寄せ、時には部屋を覗くこともあった。1978年1月10日午後、Mは制服を着たまま東京都世田谷区経堂2丁目のアパートに住む女子大生の部屋を訪れ、巡回連絡と偽ってドアを開けさせた。そして女性を部屋に押し込み、鍵を閉めた後、女性を強姦しようとした。女性は必死に抵抗し、手が窓ガラスに当たって割れたため、住人に気付かれたと思ったMは女性の首をストッキングで絞めて殺害。勤務に戻ろうとした時、ガラスの割れ目から家主が覗いていたため、第1発見者を装って通報を依頼。ただちに特別捜査本部が設置されたが、第1発見者が捜査に加わっているMであることが判明。供述があやふやであり、顔にひっかき傷もあったことから刑事たちはMを追求し、犯行が発覚した。
 1月19日、国家公安委員会は、土田国保警視総監に減給処分、他警視庁幹部3名も処分した。警視総監の処分は戦後初めてであり、土田は2月に辞任している。北沢署の署長も引責辞任している。東京都は国家賠償法に基づき、女子大生の遺族に4,360万円余りの損害賠償金を支払った。
 1979年3月20日、東京地裁で無期懲役判決(求刑死刑)。1982年9月30日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。Mは上告するも後に取り下げ、確定した。
文 献 「第三話 制服の殺人者――花は真冬に摘む」(佐木隆三『殺人百科(4)』(徳間書店,1986/徳間文庫,1993)所収)
備 考  
3/22 概 要 <長崎連続保険金殺人事件>
 M(31)は1978年3月21日、事業立て直しのための融資を友人(36)に断られ、長崎県川棚町の農道に誘い出した友人と同行してきた女性(25)の二人をバットで殴り、首を絞めて殺害、現金を奪う。さらに翌日、約9,000万円の保険金をだまし取ろうと妻(34)を絞殺した。
 1983年3月30日、長崎地裁佐世保支部で求刑死刑に対し、情状酌量が認められ一審無期懲役判決。1985年10月18日、福岡高裁で一審破棄、死刑判決。1990年4月27日、被告側上告棄却、確定。1998年6月25日執行、54歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
3/24 概 要 <3連続保険金殺人事件>
 タクシー運転手H(51)は生活費や遊興費に困ったため、保険金殺人事件を内妻と共謀。
 1978年3月24日~25日にかけて、福岡県の自宅で内妻の親戚の女性(当時28)に睡眠薬を飲ませて熟睡させて浴槽の湯に顔をつけて窒息死させた。さらに委任状を偽造して生命保険金148万円あまりを騙し取った。さらに1978年7月1日、福岡県でシンナーを吸って寝ていた内妻の養子である高校男児(当時16)を用水路に顔をつけて窒息死させて殺害、生命保険金1017万円を騙し取った。その後負債の支払いに窮したため、内妻、共犯者2名と共謀。共犯者方土木請負業の従業員(当時37)に生命保険金6000万円をかけた上、1979年5月9日、福岡県内の路上で、ダンプカーで轢き殺した。
 共犯のうち妻は一審公判中の1980年3月に死亡した。1982年3月29日、福岡地裁で求刑通り死刑判決。1984年6月19日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1988年3月8日、最高裁で死刑が確定した。1979年の事件における共犯2名は二審で懲役15年、13年が確定している。
 Hは最初の2件について事故死を、最後の1件については主犯格ではないと主張。2011年ごろ、第五次再審請求棄却。以後、再審請求は行わないと明言している。2017年6月26日午前2時2分、自分の吐いたものを喉に詰まらせ、窒息により死亡。90歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
5/21 概 要 <銀座ママ殺人事件他>
 経営資金に困った高知市の化粧品販売会社研究所長H(42)は社員のN(33)と共謀。1978年5月21日夜、顔見知りのクラブママの女性(54)を、東京都港区にある女性の自宅で首を絞めるなどして殺害、現金219万円や郵便貯金証書などを奪い、その後貯金を引き出した。2人はさらに6月10日夜、港区に住む知り合いのソープランド従業員(当時41)を四国に呼び出し、松山市内で殺害。現金38,000円を奪った後、全裸にして山中に遺棄した。
 1980年1月18日、東京地裁で求刑通り一審死刑判決。1982年1月21日、東京高裁で被告側控訴棄却。1988年10月17日、Hは天皇陛下ご崩御に伴う恩赦を期待して、上告取り下げ、死刑確定。Nは1990年2月1日、被告側上告棄却、死刑確定。1996年12月20日、死刑執行。H60歳没、N51歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  
7/11 概 要 <山口組田岡組長狙撃事件>
 1975年7月26日、大阪府豊中市で山口組系佐々木組内徳元組組員が松田組系溝口組の賭場で嫌がらせを続けたため、溝口組組員は徳元組に攻撃を仕掛け組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた(豊中事件)。佐々木組は報復のため、浪速区の路上で反山口組連合の背後にいた大日本正義団初代会長を射殺した(日本橋事件)。1978年6月23日、山口組組員による松田組組長への発砲事件があり、山口組と反山口組連合中核団体である松田組との「大阪戦争」が幕開けした。
 1978年7月11日夜、山口組田岡組長(65)が京都市内のナイトクラブで、大日本正義団員鳴海清(26)に狙撃された。銃弾は田岡組長の顎部を貫通。第二弾は外れ、無関係の客が傷を負った。鳴海は逃亡。松田組系の忠誠会にかくまってもらった。周囲の英雄視に気をよくした鳴海は田岡組長宛に挑戦状を書き、それが大阪の夕刊紙に掲載された。山口組は激怒、松田組への報復殺戮戦を開始した。その結果、松田組系組員7名が殺された。
 9月7日、鳴海の死体が六甲山中で発見された。白骨化した死体にはガムテープが巻き付けられていた。脇腹に数ヶ所の刺し傷、前歯は欠け、男根や爪がなく、リンチの痕跡は明らかであった。10月8日、忠誠会の3人が犯人隠匿の容疑で逮捕、殺害を自供した。しかし、三人の供述は食い違いが目立ち、1990年2月の裁判で全員が殺人事件について無罪となった。
 大阪戦争は仲介の動きがありながらも成功せず、1978年11月、山口組、松田組の双方が一方的に抗争終結宣言を行った。しかし松田組は大阪戦争のダメージから、5年後に解散した。
文 献 「第六話 鉄砲玉 鳴海清」(佐木隆三『殺人百科(3)』(徳間書店,1982/文春文庫,1987他)所収)

「山口組田岡組長狙撃事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
10/16 概 要 <日立女子中学生誘拐殺人事件>
 茨城県日立市の鉄工業を経営していたW(39)は、石油ショックで鉄工業の経営が苦しくなったうえ、韓国でのキーセン遊びにこり、約1400万円の借金を抱えたため、身代金目的誘拐を計画。1978年10月16日、妻の妖婦で市内有数の資産家の娘である中学3年生の娘(当時14)を自動車に乗せて人通りの少ない路上でドライブに誘い、クロロホルムを吸引させて気を失わせて誘拐。父親に身代金3,000万円を要求。さらに気を失っている娘を見て姦淫しようと考え、陰部を弄ぶなどをした。さらに顎と鼻、口を押さえて窒息死させ、死体を付近の草むらに放置した。韓国へ逃走しようとしたが、3日後に逮捕された。
 Wは一審で誘拐といたずらの事実を否認したが、1980年2月8日、水戸地裁で求刑通り死刑判決。1983年3月15日、東京高裁で被告側控訴棄却。上告審弁論で初めていたずらの事実を認めたが、1988年4月28日、最高裁第一小法廷で被告側上告棄却、確定。
 いたずら目的であり、誘拐・身代金請求はカムフラージュであったとして三度の再審請求。三度目の再審請求中だった2013年6月5日午後7時頃、収容先である東京拘置所の独居房のトイレ付近でWがうずくまっているのが見つかった。外部の病院に運ばれ、くも膜下出血と診断された。既に意識の無い状態で、その後は拘置所内の集中治療室に収容されていたが、23日午後8時前、死亡。74歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  犯人逮捕時、かなりセンセーショナルに記事にされたらしく、それがWの印象を悪化させたと弁護側は主張した。

【1979年】(昭和54年)

日 付事 件
1/14 概 要 <少年祖母殺し>
 1979年1月14日、東京世田谷で、中央大学教授Aさんの妻(67)がナイフで刺され死亡。犯人の高校1年の孫(16)は犯行後、自宅から三キロほど離れたアパートの14階から飛び降り自殺。二冊の大学ノートに書かれた遺書は6章に分かれ、四百字原稿用紙で九十枚ほどになる。
文 献 朝倉和泉『還らぬ息子 泉へ』(中央公論社,1980/中公文庫,1983)

朝倉和泉『死にたいあなたへ』(中央公論社,1981)

「地獄に堕ちろ、愚民ども!」(蜂巣敦『日本の殺人者』(青林工藝舎,1998)所収)
備 考  朝倉和泉は、犯人の実母(ペンネーム)。
1/21 概 要 <貝塚事件>
 1979年1月21日深夜12時頃、大阪府貝塚市で二色浜駅から帰宅途中の女性(当時27)が畑のビニールハウス内にて強姦され、絞殺された。女性は妊娠三~四ヶ月だった。
 警察の捜査とは別に、女性の内縁の夫(当時31)は自ら捜査。23日昼、顔見知りの少年(当時18)と出会ったとき、いつもと違い目を合わせようとしなかったので、何かあると思い、2日後、少年を近くの海岸まで連れ込み、殴りながら尋問。怯えた少年は「仲間4人とビニールハウスへ行き、殺害した」と“自供”。夫は告白メモに血判させ、捜査本部に提出した。27日、捜査本部は5人を逮捕した。21歳の男性を除き、残り4人はいずれも18歳で、地元では素行不良グループと見られていた。5人はアリバイを訴えたが受け入れられず、拷問に近い尋問で犯行を自供。物的証拠は存在せず、逆に女性に残された精液から割り出された血液型は5人とも一致しないなどといった無罪となるべき証拠は一切無視された。
 1982年12月24日、大阪地裁堺支部で当時21歳の男性に懲役18年(求刑懲役20年)、残り4人に懲役10年(求刑懲役12年)の判決が言い渡された。4人は控訴したが、最初に“自供”した少年は刑を認め早く仮出所した方がいいと説得され、控訴せず確定した。
 1986年1月30日、大阪高裁は一審判決を破棄し、無罪判決を言い渡した。逮捕から7年、4人はようやく自由の身になった。1988年7月19日、有罪判決を受け入れた元少年の再審開始が決定。1989年3月2日、大阪地裁堺支部は無罪を言い渡した。
文 献 読売新聞大阪社会部『逆転無罪―少年はなぜ罪に陥れられたか』(講談社文庫)

「貝塚事件――「判検一体」となった犯罪的第1審公判」(吉弘光男『犯罪の証明なき有罪判決 23件の暗黒裁判』(九州大学出版会,2022)所収)
備 考  
1/26 概 要 <三菱銀行猟銃強盗殺人事件>
 1979年1月26日午後2時30分頃、大阪市住吉区の三菱銀行北畠支店に一人の男が入ってきた。ゴルフバックから猟銃を取り出して構え、5,000万円を要求。梅川昭美(30)は、カウンター内で警察に電話通報しようとした行員男性(20)を射殺。さらにカウンター内でしゃがみ込んでいた行員男性(26)にも散弾を発砲。約8ヶ月の重傷を負わせた。同時に散弾の一部が女性行員の腕に当たり、20日間の軽傷を負わせている。梅川は支店課長代理から現金283万3,000円をリュック作に詰め込めさせ、さらにカウンター上の現金12万円を強奪。さらに現金を要求中、銀行から逃げ出した客から銀行強盗のことを聞いた警邏中の警官が銀行に駆けつけてきた。警官は威嚇射撃をすると、梅川は容赦なく猟銃で警部補(52)を射殺。さらにパトカーで駆けつけてきた二人の警官にも発砲。巡査(29)は死亡、警部補(37)は防弾チョッキで命拾いをし、逃げ出した。
 その後も続々とパトカーが到着。梅川は支店長ら行員31人と客9人を人質として立て籠もった。立て籠もり中、すぐに金を払わなかったと支店長(47)を射殺している。支店の建物は武装警官隊や報道陣によって包囲され、推移はテレビで現場中継された。大金庫の前に陣取った梅川は、行員たちを出入口などに並ばせ、人間バリケードを築いて狙撃を警戒。さらに「ソドムの市を味あわせてやる」と女子行員20名中19名を全裸にして扇形に並べ、警察側の動きがある度に自分は要の位置に移動し、楯代わりに使った。途中、態度が悪いと難癖を付けて男性行員(47)に発砲し、全治6ヶ月の重傷を追わせている。また威嚇射撃中、散弾の一部が男性行員(54)及び男性客(57)に軽傷を負わせた。さらに重傷で呻いている男性行員がうるさいと、そばに立っていた行員にナイフを渡し、耳を切り取れと命令。さらに別の行員には501万円を用意させ、自分の借金を払いに行かせた。
 27日、食事などの差し入れと交換に、4名の死者、重傷者、客を次々と解放。警察は徹夜で電話交渉を続けた。
 28日午前8時。説得は不可能、人質の体力が限界に来ていると判断した大阪府警は、7名の狙撃班に突入命令を出した。7名は死角の位置から拳銃を発射、3発が梅川に命中した。人質は無事に解放されたが、梅川は運ばれた病院で死亡した。
 梅川は強盗殺人、強盗殺人未遂、強盗致傷、建造物侵入、公務執行妨害、傷害、逮捕監禁、威力業務妨害、窃盗、銃刀法違反、火薬取締法違反の容疑で大阪地方検察庁に送られた。大阪地検は窃盗と傷害を除く9つの罪を認定。1979年5月4日、犯人の梅川昭美に対して大阪地検は被疑者死亡による不起訴処分を決定。同時に梅川を射殺した大阪府警機動隊員7人を職務上の正当行為を理由に不起訴処分とした。
文 献 「三菱銀行猟銃強盗殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「第七話 ソドムの市の演出者」(佐木隆三『殺人百科(2)』(徳間書店,1980/文春文庫,1987他)所収)

「梅川昭美銀行襲撃事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

麻生幾『戦慄 昭和・平成裏面史の光芒』(新潮社,1999)

大歳成行『危機管理 三菱銀行と猟銃人質事件の真実』(グリーンアロー出版社,1979)

毎日新聞社会部編『破滅 梅川昭美の三十年』(晩声社,1979/幻冬舎アウトロー文庫,1997)

福田洋『野獣の刺青(タットゥー)』(光文社カッパノベルス,1982)

読売新聞大阪社会部 『三菱銀行事件の42時間』(新風舎文庫,2004)
備 考  広島県大竹市出身の梅川昭美は1963年12月16日、結婚したばかりの人妻女性(23)を殺害。現金19,604円や株券、通帳などが入った金庫を奪った。当時15歳だった梅川は、中等少年院に送致された。
2/1 概 要 <日商岩井常務投身自殺事件>
 1979年1月9日、東京地検は、ダグラス・グラマン両社の航空機売り込みに際して不正資金が政府高官に流れたとの疑惑から、捜査開始を宣言。疑惑の目は日商岩井の副社長、常務(56)の二人に向けられた。東京地検は1月30日から事情聴取を行い、2月1日も事情聴取の予定だった。しかし常務は、同日午前7時40分、東京赤坂にあり、自らが社長を務める日商岩井の子会社の社長室から飛び降りて死亡。遺書10通やメモ、ナイフや血痕などが残されていた。司法解剖も行われたが、自殺と断定された。
文 献 吉原公一郎『謀殺 島田常務怪死事件』(現代書林,1983)
備 考  
3/28 概 要 <女子中学生誘拐殺人事件>
 H(46)は1979年3月16日、佐賀県で少女を連れだし殺害した。5月15日には熊本県で老女を殺して現金を奪った。1980年10月2日、熊本地裁で求刑通り一審死刑判決。1982年4月27日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1987年12月18日、被告側上告棄却、確定。ともに覚醒剤使用中の事件であり、事実誤認があるとして2度再審請求するも棄却。1995年12月21日死刑執行。63歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

平田直人『賽の河原に積む石いくつ-罪詠む日々』(私家版,1987)
備 考  
4/9 概 要 <愛知連続保険金殺人事件>
 Nは愛知県豊川市で運送業を始め、順調に業績を伸ばしていたが、オイルショックによる銀行の貸し渋りにより打撃を受け、経営危機に追い込まれた。そのためNは専務である実兄、腹心の乗務Oと共謀、暴力団組長と結託し、保険金搾取を実行することにした。暴力団組長はNをスポンサーに金融業を1976年11月に始めたが、1977年2月に知り合った商事会社社長に不渡り手形を掴まされ、5月には計4,000万円の赤字となり、Nに叱責されていた。
 Nは組長と共謀し、1977年8月、組長から紹介された老バッタ屋Aさんを2社合計1億2千万円の養老保険に加入させ、暴力団組長が囲っていた豊橋市のバーのマダムを受取人にした。8月26日、組長に誘われたAさんは酔って車で送ってもらっているところ、暴力団組長に命じられた組員1に車ごと浜名湖へ沈めさせられたが、這い出して助かった。9月9日、Aさんは土地を買いに行こうと誘われ、組長の弟が運転する車で長野県へ行く途中、崖に追突し、外へ出たところを後部座席にいた組員2に鉄パイプで殴られたが、別の車が通りかかって助かった。飯田市の病院へ運ばれたがAさんは逃亡し、磐田市の病院で治療を受けた。Aさんは磐田署に訴えたが、取り合ってもらえなかったため、そのまま東京へ逃げた。
 Nは実兄、組長、組長弟、組員1,2,3、浜松市の元トラック運転手1と共謀。1977年10月3日午後11時30分頃、融資先である西尾市の食品製造会社社長(43)を泥酔させ、額田郡の小川へ転落させ、酔っ払い運転による墜落・溺死に見せかけて殺害した。警察は事故死として処理したが、保険金が支払われなかったことから、Nは生命保険会社2社を相手取って大阪地裁に民事訴訟を起こした。1978年6月17日、Nは3種類の保険金合計1億3,000万円を受け取った。
 続いて実兄、O、会社のトラック運転手2と共謀。1978年7月31日朝、Nが経営する運送業の従業員(18)を新江比間海岸で溺死させ、3社4種類の保険金1億円を受け取った。
 1978年12月26日午前3時過ぎ、豊橋市のバーのマダム(55)が焼死。共同経営者であるNの妹(37)が1社4種類の保険金1億8千万の受取人だったが、警察の捜査中ということで支払われていない。
 1978年8月26日に株券偽造で逮捕されたAさん(66)が、過去に殺されかけたことを告白。愛知県警と警視庁は合同捜査態勢を取った。
 1979年3月17日、新聞で保険金殺人疑惑が大々的に報道される。19日、NとOは現金を掻き集め、大阪空港から台湾へ逃亡した。20日、Aさんの事件で組長弟と組員2が殺人未遂で逮捕され、犯行を自供した。
 4月1日、NとOは台湾人の知人Bとともにパラグアイへ逃亡した。5日、Aさんの事件で組長と組員1が殺人未遂で逮捕された。同時にNの自宅と会社の捜索が行われた。6日、Aさんへの殺人未遂でNが全国指名手配された。9日、西尾市の会社社長殺人容疑で組長、組長弟、組員1,2を再逮捕。同日、NとOはブラジル・サンパウロへ逃亡した。10日、社長殺人容疑でNの実兄と運転手1を逮捕。11日、溺死事件の殺人容疑で常務Oが指名手配された。同時にICPOを通じて、NとOは国際指名手配された。12日、会社社長殺害に参加した組員3を逮捕。15日、溺死事件に参加した運転手2を逮捕。
 2件の保険金殺人、1件の殺人未遂で計8人が逮捕されている。焼死事件では逮捕者は出ていない模様。
 サンパウロからパラ州コンセイソン・ド・アラグアイア市に逃亡したNとOだったが、5月2日、隠れ家をサンパウロ警察庁政治犯罪局(DOPS)が急襲。銃撃戦となり、二人は射殺された。当初自殺説もあったが、後に鑑識書によって訂正されている。日本とブラジルには犯罪人引き渡し条約が結ばれていなかったことから、後の手続の面倒さを避けるため、逮捕ではなくあえて射殺したという見方もある。
 日本から逃亡する時、Nは2億3千万円を掻き集めたとされるが、台湾では既に2,200万円程度しかなく、さらに死亡時にはわずかしかなかったとされる。
 8月3日、Bが逮捕されたが、二人の所持金の行方は不明である。
文 献 「愛知連続保険金殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

佐木隆三『旅人たちの南十字星』(文藝春秋,1980/文春文庫,1986)(改題『逃亡射殺』(小学館文庫,2000))

「広域連続保険金殺人企業事件」(室伏哲郎『保険金殺人-心の商品化』(世界書院,2000)所収)
備 考  
5/6 概 要 <タヌキ憑き殺人事件>
 熊本県芦北郡で、3月中旬から精神状態がおかしくなった長男(26)を母親が祈祷師に見せたところ、「タヌキが憑いている」と言われた。母は体調を崩し、姉二人が看病に来るようになった。1979年5月6日、長男が家を飛び出そうとしたため、父、姉二人、弟が話し合い、タヌキを追い払うために叩き出そうした。弟が長男の体を押さえ、父、姉二人が手や薪、パイプなどで約三時間、長男の首の後や肩を殴りつけ、長男は死亡した。同町ではタヌキや狐などが人に乗り移る“つきもの”の俗信が一部に残っていた。
文 献 「タヌキ憑き殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)
備 考  
7/18 概 要 <平取猟銃一家殺人事件>
 1979年7月18日、O(35)はキツネの皮代の支払いが遅れていることをなじられ、平取町内のはく製業者(51)とその妻(37)、長女(22)、次男(2)の一家4人を、貸すために持参していたライフル銃で射殺した。
 物的証拠がほとんどないことから、一審では32人の大弁護団が結成され、無罪を訴えた。しかしOは初公判で起訴事実を認めた。1984年3月23日、札幌地裁で求刑通り死刑判決。1987年5月19日、札幌高裁で被告側控訴棄却。1993年12月10日、最高裁で死刑が確定した。1999年11月18日、Oは札幌拘置所内で入浴中、かみそりで右の首を切り自殺した。55歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)
備 考  死刑確定囚の自殺は、1961年以降4人目。
8/ 概 要 <羽田女高生殺人事件>
 1979年8月、羽田で女子高生が白昼殺される。4ヵ月後に別件逮捕のO青年が犯人として再逮捕される。
文 献 後藤護『冤罪追跡日記 羽田女高生殺人事件』(現代書館,1983)
備 考  
7/18 概 要 <野田事件>
 1979年9月11日、千葉県野田市で小学1年生の女の子が殺害された。遺体の発見状況から、警察は「変質者」による犯行と断定。9月29日、現場近くに住む知的障害の男性を逮捕。男性は当初無罪を主張した後に犯行を「自供」。裁判では無罪を訴えるも、1987年1月26日、千葉地裁で一審懲役12年判決。1989年、東京高裁で被告側控訴棄却。最高裁にて弁護側は、最大の物証が警察にねつ造されたという上告趣意補充書を提出したが、1993年12月、上告棄却。
 2014年、男性は千葉地裁松戸支部に再審請求。2018年9月19日、男性は入院先の大阪府茨木市内の病院で死亡した。70歳没。
文 献 浜田寿美男『ほんとうは僕殺したんじゃねえもの―野田事件・青山正の真実』(筑摩書房,1991)
備 考  救援活動を行っている市民団体は、障害者に対する偏見から生まれた捏造事件であると訴えている。
9/26 概 要 <ロボトミー殺人事件>
 人気スポーツライターだったSは、睡眠薬の乱用や暴力事件を繰り返したことから都内の病院で精神病質と診断され、1964年に東京都小平市の精神科医の執刀で、本人の承諾なしに脳の前頭部を薄くはぎ取る脳外科手術(ロボトミー)を受けた。しかし想像力、直感力が失われ、仕事もうまくいかなくなって絶望。医師を恨んで自殺の道連れにしようと、1979年9月26日、S(50)は医師(53)宅に押し入った。しかし、医師が不在だったため、医師の妻(44)と義母(70)を切り出しナイフで刺して殺害。現金約45万円と預金通帳を奪った。
 Sは強盗殺人他の罪で起訴された。責任能力を巡り二度の精神鑑定が行われたこともあり、起訴から一審判決まで13年8ヶ月を要した。Sは無罪か死刑のどちらかを求めたが、1993年7月7日、東京地裁八王子支部で無期懲役(求刑死刑)判決。1995年9月11日、東京高裁で検察・被告側控訴棄却。1996年11月16日、最高裁第一小法廷で被告側上告が棄却され、刑が確定した。
 宮城刑務所に服役したSは、自殺を妨げられない「自死権」の確認と、刑務所が自殺を認めないことに対して160万円の損害賠償を国に求めた。2008年2月15日、仙台地裁はS(79)の請求を棄却した。裁判官は「自死権が認められる憲法・法律上の根拠はない。身体状態や刑務所の処遇状況にかかわらず自死権の根拠はなく、請求は前提を欠く」と指摘した。
文 献 佐藤友之『ロボトミー殺人事件―いま明かされる精神病院の恐怖』(ローレル書房,1984)
備 考  現在、ロボトミー手術は危険度が高く、後遺症が大きいことから禁止されている。
10/12 概 要 <大崎事件>
 1979年10月12日、鹿児島県曽於郡大崎町で、農業の男性(42)が酒に酔い自転車ごと側溝に転落。路上に倒れている姿で発見された。被害者宅の近くに住む男性2人が迎えに行き、1.1km離れた自宅へ軽トラックで連れ帰った。15日、男性の死体が、自宅牛小屋の堆肥の中から発見された。事故死の可能性もあったが、警察は殺人事件として捜査を開始。警察は次兄の妻の証言をもとに18日~30日、男性の長兄(52)、兄嫁(42)、次兄(50)の3人が自宅土間に放置された男性をタオルで絞殺し、次兄の息子(25)も含めた計4人でたい肥に埋めたとして逮捕した。兄嫁以外の3人は犯行を「自供」。公判でも罪を認めたが、兄嫁のみ一貫して無罪を主張。1980年3月31日、鹿児島地裁は3人の自白を根拠に、兄嫁に懲役10年、長兄に懲役8年、次兄に懲役7年、その息子に懲役1年の判決を言い渡した。3人は控訴せず確定したが、主犯格とされた兄嫁のみ控訴するも棄却。1981年1月30日、最高裁は兄嫁の上告を棄却し、懲役10年が確定。
 兄嫁は1990年7月17日、満期出所後。1995年4月19日、兄嫁は「絞殺の跡はなく、側溝に落ちた事故死の可能性がある」と鹿児島地裁に再審請求。死体遺棄で有罪が確定した次兄の息子も1997年に再審請求した。他の2人はすでに死亡。兄の息子も2001年に死亡している。2002年3月26日、鹿児島地裁は二人の再審請求を認めたが、検察は即時抗告。2004年12月9日、福岡高裁宮崎支部は地裁決定を破棄し、再審請求を棄却。2006年1月30日、最高裁で確定した。
 2010年8月30日、兄嫁は鹿児島地裁に第二次再審請求を提出。弁護団は、共犯者が供述した殺害方法と遺体の状況が矛盾するとした鑑定などを「新証拠」として提出した。2011年5月11日、兄嫁は鹿児島地裁で意見陳述をしている(非公開)。さらに懲役8年が言い渡された長兄の遺族も2011年8月30日、鹿児島地裁へ再審を請求した。2013年3月6日、鹿児島地裁は兄嫁の第2次再審請求を棄却する決定をした。長兄の再審請求も棄却。2014年7月15日、福岡高裁宮崎支部は双方の即時抗告を棄却した。最高裁は2015年2月2日付で双方の特別上告を棄却し、再審請求棄却が確定した。
 2015年7月8日、鹿児島地裁へ第三次再審請求を申し立てた。2017年6月28日、鹿児島地裁は兄嫁並びに長兄の再審請求を認める決定を出した。再審開始決定取り消し後、再び認められたのは、免田事件以来。2018年3月12日、福岡高裁宮崎支部は検察側の即時抗告を棄却。2019年6月25日付で最高裁第一小法廷は、再審開始を認めた鹿児島地裁と福岡高裁宮崎支部の決定を取り消し、再審開始を認めない決定をした。5裁判官全員一致の結論。地裁、高裁が認めた再審開始決定を最高裁が取り消すのは初とみられる。第二次請求の最高裁決定に関わっていた裁判官が第三次の決定でも名前を連ねており、一部で問題視されている。
 2020年3月、第四次再審請求。2022年6月22日、鹿児島地裁は請求を棄却した。弁護側は、男性は殺されたのではなく、事故死だったとして、救命救急医の鑑定などを新証拠として提出したが、裁判所は無罪を言い渡すべき明らかな証拠には当たらないとした。2023年6月5日、福岡高裁宮崎支部で即時抗告棄却。特別抗告中。
文 献 入江秀子『叫び―冤罪・大崎事件の真実』(かもがわ出版,2004)

鴨志田祐美『大崎事件と私』(LABO,2021)
備 考  
11/ 概 要 <名古屋保険金殺人事件>
 竹内敏彦(29)、I(37)は、1979年11月、知人のEさん(20)を愛知県武豊町の海に突き落として殺害。警察では自殺とされ、保険金受け取りに失敗した。さらに83年1月、スナック経営者(48 懲役13年が確定)と共謀、雇っていた運転手Hさん(30)を京都府相楽郡加茂町で殺害、山城町のがけに遺体を載せたトラックを転落させ、事故を装い保険金2,000万円を受け取った。同年12月、竹内らは借金をしていた金融業者(39)を愛知県半田市で殺害、遺体を海に捨てた。
 1985年12月2日、名古屋地裁で竹内とIに求刑通り一審死刑判決。1987年3月31日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。Iは上告をせず死刑確定。竹内は長谷川と改姓。長谷川は1993年9月21日、被告側上告棄却、確定。Iは1998年11月19日、死刑執行。56歳没。同じ事件の「共犯」が別々に執行されるのは極めて異例。長谷川の元部下であるHさんの母親(73)と兄(53)らは、「長谷川死刑囚の死刑執行を望まない」とする嘆願書を1993年、2000年に名古屋拘置所に提出している。長谷川は2001年12月27日、死刑執行。51歳没。
文 献 青木理『絞首刑』(講談社,2009/講談社文庫,2012)

大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

大塚公子『死刑』(角川書店,1988)→後に『「その日」はいつなのか--。 死刑囚長谷川敏彦の叫び』(角川文庫,2001)と改題。

原美由紀『さよなら-死刑で被害者は救われるのか―名古屋保険金殺人事件』(新風舎文庫,2005)

福田ますみ『されど我、処刑を望まず』(現代書館,1998)

原田正治『弟を殺した彼と、僕。』(ポプラ社,2004)

「保険金殺人犯と被害者遺族の交流 殺人者と被害者の遺族は和解できるか」(『別冊宝島333 隣りの殺人者たち』(宝島社,1997)所収)

「もう喜んで死ねます―生きて償え―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
11/4 概 要 <北九州病院長バラバラ殺人事件>
 釣具店店主のS(33)とスナック経営者のY(27)が遊興費欲しさから共謀。1979年11月4日、Sの知り合いである北九州市小倉北区のT病院長(当時61)を、女性歌手とのデートをエサに誘い出し、Yの経営するスナックで監禁、匕首で胸を切り付け、現金約95万円を奪った。さらに家族に身代金2,000万円を要求したが受け取りに失敗したため、翌日病院長の首を絞めた上、失血死させた。モーテルでなたを用いて死体をバラバラにして、フェリーから大分県の海中に棄てた。15日、首と足のない遺体が出漁中の漁師によって発見された。翌年4月に2人は逮捕された。
 1982年3月16日、福岡地裁小倉支部で求刑通り死刑判決。1984年3月14日、福岡高裁で被告側控訴棄却。1988年4月15日、最高裁で被告側上告棄却、確定。1996年7月11日執行、S49歳没、43歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

中村光至『捜査―北九州病院長バラバラ殺人事件』(トクマノベルス,1983)
備 考  1人殺害で2人に死刑判決は1964年12月以来で、戦後11件目。

【1980年】(昭和55年)

日 付事 件
1/15 概 要 <代議士元秘書愛人殺害バラバラ事件>
 1980年1月15日、代議士元秘書Y(32)の部屋に泊まりに来ていた婚約者が異臭に気づき、隣の部屋の会社員と二人で通報。調査の結果、押入れの天袋からビニール3個に包まれた、白骨化した首と両足の入った衣装箱が発見された。帰宅したYを問い詰めたところ、死体はYの愛人だった元ホステスのKで、Yは二年前Kのアパートで殺害したことを自供した。
 Yは在学中の1970年から新潟一区選出T代議士の私設秘書となり、T代議士の死後、身代わり当選を果たした夫人の秘書になっていたが、職務怠慢と夫人の落選を理由に1972年解雇された。不動産会社に就職後、Kと知り合い、愛人関係になった。1975年ちょっとしたきっかけから、代議士秘書Wと知り合う。Wが新潟三区から立候補したとき、ほとんど秘書とし手伝うことになった。Wが当選後、1977年正式に私設秘書となる。その間の生活費や遊び大はすべてKが出していた。借金は600万円以上に上った。1974年に購入し、Kが頭金を支払った千葉の家もいつの間にか売り払われていた。1978年、Yは実家で借りた金を返すと言い、KはYの実家に一緒に行ったが、結局金は返されなかった。1月6日夜、ののしったKをYは殺害した。約1ヵ月後、胴体だけを千葉市郊外の雑木林に埋め、残りは戸棚に隠した。1978年末、金銭面のルーズさにあきれた事務所は彼を解雇していた。
文 献 「死体の一部と二年間も同居」(龍田恵子『バラバラ殺人の系譜』(青弓社,1995)(後に『日本のバラバラ殺人』(新潮OH!文庫,2000)と改題)所収)
備 考  
1/23 概 要 <茂樹ちゃん誘拐事件>
 1980年1月23日午後、宝塚市に住む歯科医の男性(38)の長男で、学校帰りの小学1年生の男児(7)が誘拐され、身代金3,000万円を要求する脅迫電話があった。翌日、犯人からの電話によって、両親は数度、指定された場所に出かけたが、警察がいるからという理由で犯人は現れなかった。26日午後2時50分頃、西宮市をパトカーで警邏中の警官が、駐車中の不振な車両を発見し、中で寝ていた男を職務質問。トランクを開けさせたら、シートカバーに包まれた男児が発見され、保護。男は逃げようとしたが、二人の警官に取り押さえられ、逮捕された。男は元喫茶店経営の男性(33)だった。男性の子供は、男児と同級生だった。
文 献 読売新聞大阪社会部『誘拐報道』(新潮社,1981/新潮文庫,1984)
備 考  
1/31 概 要 <熊野一族7人射殺事件>
 1980年1月31日午後6時ごろ、三重県熊野市の外れの集落に住むI(44)の妻(38)より、Iの様子がおかしいから着てほしいと連絡を受けた親族たちがI宅に集まり、テレビを見ていると、Iが突然部屋に入ってきて、手斧を振り回して暴れ出し、逃げ回るものに至近距離から猟銃を撃ちまくった。Iの母(80)、姉(55)、姉の夫(58)、妹(41)、弟(36)、Iの次男(5)、三男(4)が死亡。Iの妻、姉夫婦の息子(29)が重傷を負った。
 姉夫婦の息子は逃げ出して隣家に駆け込んだ。隣家の主人と息子がI宅へ行ってみると、Iがいきなり猟銃を撃って息子の足に当たった。主人は慌てて警察に通報。午後6時36分、パトカーが現場に到着し説得するも、Iは警官隊に向けて発砲し家に立てこもった。午後7時13分、家の中から猟銃2初の発射音が聞こえたため、警官隊が突入すると、Iが頭と腹部を撃ちぬいて自殺していたのを発見した。
 Iは長男として農家のかたわら、近くの採石場や工事現場で働いていたが、2年ほど前から白蝋病にかかっていた。長男(13)が腎臓病で長期入院、母親が寝付くようになり、次男が肺炎を患うなど気苦労が絶えなかった。Iは普段は子煩悩だったが、気が小さかった。Iは白蝋病の労災認定で毎月20万円の休業特別支給金を受け取っていたが、月20日は採石場で働いていたが、1か月前に労働基準局の調査が入り、不正受給がばれたのではないかとノイローゼ状態になっていた。
文 献 「まるで「八つ墓村」……特異性と謎に満ちた“一族殺害”の全貌」(斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』(ミリオン出版,2014)所収)
備 考  
2/8 概 要 <シンナー男連続通り魔殺傷事件>
 1980年2月8日、北九州市の路上でシンナー乱用者の工員I(21)が、シンナーを吸いながら歩き、「鬱積した気持ちが晴れるのではないか」と考え、帰宅中の主婦(45)をノミで刺して殺害。逃走金欲しさから別の主婦(53)を突き刺して、全治2年の大怪我を負わせた上ショルダーバックを強奪するも金が入っていなかった。さらにその20分後、民家に押し入り、住人の主婦(46)を20回も突き刺して殺害後、現金約65,000円を盗んだ。Iは翌日にホテルでぼや騒ぎを起こし、自殺を図るが未遂。犯行を自供して逮捕された。
 1983年2月9日、福岡地裁小倉支部で求刑通り一審死刑判決。1986年4月15日、福岡高裁はシンナー酩酊による心神耗弱を認め、一審破棄。無期懲役判決を言い渡し、そのまま確定した。
文 献 読売新聞西部本社社会部編『シンナーの恐怖 ドキュメント・通り魔殺人事件』(条例出版,1981)
備 考  遺族の一人が刑務所内のIと文通をしているという。
3/30 概 要 <富山長野連続女性誘拐殺人事件>
 1980年2月23日、富山県八尾町の高校三年生Nさん(18)が帰宅途中に失跡、3月6日に岐阜県の山中で絞殺体で見つかった。3月5日には長野市のOLTさん(20)が行方不明になり、自宅に女性の声で身代金3000万円を要求する電話があった。Tさんは4月2日、長野県内の山中で絞殺体で発見された。警察庁は、広域重要指定第111号事件に指定。数日後、富山市の贈答品販売会社を共同経営しており、愛人関係にあった宮崎知子(34)と男性(28)が逮捕、起訴された。
 検察側は愛人の男性が殺害実行及び主犯、宮崎が従犯として起訴した。ところが85年3月、「殺害は宮崎が単独で実行。男性は共謀共同正犯」と冒頭陳述を変更。求刑は宮崎が死刑、愛人男性が無期懲役。しかし1988年2月9日、富山地裁は宮崎の単独犯行と認定、愛人男性は無罪判決。1992年3月31日、名古屋高裁でも同様に認定され、愛人男性は無罪確定。宮崎は1998年9月4日、最高裁で死刑確定。
 現在でも愛人男性が主犯であると主張しており、2003年12月、富山地裁へ再審請求。2011年7月、最高裁で棄却が確定した。2011年8月15日、宮崎は富山地裁へ第二次再審請求を提出した。弁護人はKNBの取材に対し、「死刑執行を遅らせて延命する意図もある」とコメントした。2018年12月10日、第五次再審請求。
文 献 「富山長野連続誘拐殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「長野・富山・岐阜にまたがる広域誘拐殺人事件―『赤いフェアレディ280Zの疾走の果ては』」(斎藤充功『TRUE CRIME JAPANシリーズ1 誘拐殺人事件』(同朋社出版,1995)所収)

「富山・長野誘拐殺人事件 宮崎知子」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社)所収)

井口泰子『フェアレディZの軌跡』(栄光出版社,1983)(後に『連続誘拐殺人事件』(ケイブンシャ文庫,1985)と改題)

井口泰子『脅迫する女』(ケイブンシャノベルス,1987)

佐木隆三『男の責任』(徳間書店、198)(後に『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間文庫,1991)と加筆改題)

清水一行『迷路』(徳間文庫)

福田洋『紅の火車』(双葉ノベルス,1988)

「全部やったとは酷い―七人目の女―」(佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』(自由国民社,2005)所収)
備 考  
8/19 概 要 <新宿駅西口バス放火事件>
 1980年8月19日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナルで停車中の京王バスに、建設作業員M(38)が後部乗降口から火のついた新聞紙と、ガソリンが入ったバケツを放り込んだ。炎の回りは早く、乗客6人が焼死、22人重軽傷。Mは現行犯で逮捕された。Mは1973年に精神分裂病の疑いで4か月間の入院歴があった。
 Mは建造物以外放火と殺人他の罪で起訴。1984年4月24日、東京地裁はMが事件当時心神耗弱であったとして罪一等を減じ無期懲役判決(求刑死刑)。1986年8月26日、東京高裁で検察側控訴棄却。上告せず確定。
 Mは服役中の1997年10月、千葉刑務所作業場の配管にビニール紐をかけ、首吊り自殺。55歳没。
文 献 杉原美津子『生きてみたい、もう一度』(文藝春秋,1983/文春文庫,1987/新風舎文庫,2004)

杉原美津子『炎を越えて 新宿西口バス放火事件後三十四年の軌跡』(文藝春秋,2014)

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社,2004/新潮文庫,2006)

「新宿バス放火事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)
備 考  
9/11 概 要 <富士見産婦人科事件>
 埼玉県所沢市にあった医療法人芙蓉会富士見産婦人科病院の北野早苗理事長は、1974~1980年、医師資格がないにも関わらず患者に超音波検査を実施し、健康にも関わらず「子宮筋腫、卵巣のう腫だ」「早く手術しないと命が危ない」などと、でたらめな診断をし、妻の千賀子院長ら同病院の医師5人が子宮や卵巣の全摘出など不必要な手術をし、1人あたり140万円を取るなどの行為を続けた。
 1980年9月11日、北野早苗は医師法違反容疑(無資格診療)で逮捕され、その後千賀子も同容疑で逮捕された。同病院は閉院した。
 患者らは北野早苗元理事長らを傷害容疑で告訴。埼玉県警は医師二人を同容疑で書類送検したが、浦和地検は証拠不十分として不起訴処分にした。北野早苗元理事長、千賀子元院長の二人は医師法違反などの罪で起訴され、1988年、執行猶予付の有罪判決が確定した。
 患者らは1981年、病院や国、県を相手取り第一次民事訴訟を起こした。その後、1987年まで三次にわたって提訴され、賠償請求額は総額14億4,000万円にのぼった。原告の元患者は、当時23~49歳。慰謝料請求額は一人に付き100~4,000万円。手術を受け子供ができなくなったり、頭痛やめまいなどの後遺症に悩んでいる。東京地裁は18年の審理の末に1999年6月30日、「デタラメな診断に基づく必要のない手術で、かけがえのない臓器の摘出を日常的に行った集団的、犯罪的な乱診乱療」と認め、北野早苗元理事長ら計7人に総額5億1400万円の賠償を命じた。国と県への請求は、「乱診乱療は予見できなかった」として棄却された。北野元理事長と千賀子元院長は控訴せず敗訴が確定、もう1人の医師は1億5,000万円の支払いで和解が成立した。残る4人の医師が控訴、上告したが、2004年7月、最高裁は上告を棄却し、北野元理事長らと合わせて5億1,400万円の支払いを命じる判決が確定した。
 厚生労働省は2005年3月、北野千賀子医師の医師免許を取り消し、元勤務医ら3人を6ヶ月~2年の医業停止にする行政処分を行った。民事訴訟判決が確定したことによる、初めての行政処分である。北野元院長は後に「当時の医学水準からすればいずれも手術は必要だった」と主張して医師免許の取消処分の取り消しを求めて訴えたが、2009年5月28日、最高裁で北野元院長の上告を退け、「過去に類をみない悪質な行為」などとして請求を棄却した一・二審判決が確定した。
 なお北野夫妻は富士見産婦人科病院閉鎖後も、別の病院を2つ新たに経営していた(現在もあるかどうかは不明)。
文 献 北野早苗『捏造「富士見産婦人科事件」』(東京経済,2001)
備 考  北野元理事長は、当時の厚相ら大物代議士に5,000万円近くの政治献金を送っていたことが発覚。1,000万円の献金をもらっていた厚相は引責辞任した。また、当時の所沢市長や社会・公明・共産党の議員まで政治献金をもらっていたことが判明した。
11/29 概 要 <予備校生金属バット殺人事件>
 1980年11月29日未明、神奈川県川崎市の会社員宅で、浪人中の二男(20)が、睡眠中の両親(ともに46)の頭を金属バットで殴って殺害した。父は東大出の一流企業支店長、兄も早大理工卒業後一流企業に就職したエリート家族で、二男だけは二浪中だった。しかも受験勉強は全然せず、劣等感はたまる一方。そんなとき、父親の財布からキャッシュカードと金が紛失。28日深夜、父は二男が犯人と決めつけた。確かにカードは二男が盗んだものであったが、金については覚えがなかった。しかし反抗すると父は激怒。母も同調した。二男は両親に怒りと反発を感じる。さらに二男が二階の自室で酒を飲んでいたとき、父親が入ってきて説教。そして「明日出て行け」と言われる。二男は不安と怒りに駆られ、バットを手に取った。1984年4月25日、横浜地裁で一審で懲役13年の判決。控訴せず、そのまま確定。
文 献 「金属バット殺人事件」(礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』(批評社,1995)所収)

「予備校生金属バット殺人事件」(福田洋『現代殺人事件史』(河出書房新社,1999)所収)

「金属バット殺人事件」(山崎哲『<物語>日本近代殺人史』(春秋社,2000)所収)

佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社,1984/双葉文庫他)
備 考  
12/3 概 要 <名古屋女子大生誘拐殺人事件>
 名古屋市で寿司店を経営していた木村修治(30)は、愛人への仕送り等で多額の借金を抱え、その返済のために競輪と競馬に手を出してさらに借金が増えてしまったため、誘拐を計画。1980年12月2日、「英語の家庭教師をお願いしたい」と新聞の告知板に掲載してあった名古屋市に住む女子大生(当時22)を誘い出し、自宅近くにて車で誘拐して直後に殺害。遺体はレジャーシートでくるみ、木曽川へ捨てた。2日~6日、3,000万円の身代金を要求したが、受け取りに失敗。12月26日、公開捜査が始まり、身代金要求の声が公開された。翌年1月20日、木村は逮捕された。遺体は初公判直前の1981年5月5日、遺棄したと供述していた木曽川橋から700m上流の地点で発見された。
 木村は起訴事実を全面的に認め、1982年3月23日に名古屋地裁で求刑通り死刑判決。1983年1月26日、名古屋高裁で被告側控訴棄却。被告・弁護側は起訴事実に矛盾があることと、死刑違憲論を訴えたが、1987年7月9日に最高裁は被告側の上告を棄却。判決訂正申立も却下され、8月5日に死刑が確定した。
 木村は当初、事件を悔い死刑執行を望んでいた。上告後に死刑廃止運動に出会い、「生きることで償いをしたい」と自らを有実の死刑囚と呼び、獄中からの死刑反対運動に参加。1986年2月に死刑廃止運動を行う死刑囚の集まりである「日本死刑囚会議=麦の会」に入会し、その後運営委員になっている。
 1993年9月に恩赦出願書を提出して恩赦請求。結果は通知されないまま1995年12月21日、死刑が執行された。45歳没。
文 献 大塚公子『57人の死刑囚』(角川書店,1995)

木村修治『本当の自分を生きたい』(インパクト出版会,1995)

「名古屋・女子大生誘拐殺人事件―『恩赦請求―決定はどう出るか』」(斎藤充功『TRUE CRIME JAPANシリーズ1 誘拐殺人事件』(同朋社出版,1995)所収)

「女子大生誘拐殺人事件 木村修司」(『別冊宝島#1419 死刑囚最後の1時間』(宝島社)所収)
備 考  


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